stylesheet

2012年12月28日金曜日

南野陽子 II

真夜中のメッセージ
彼女が優れた歌い手であるかを僕は知らない。でもこの楽曲には心地良さがある。声は人それぞれで違うものだ。声は良いでも悪いでもなければ好き嫌いでもない。声とは自分の人生の記憶そのものだ。顔を忘れても声は忘れない。この曲は前期アルバムの中で一番いいかも知れない、と何度も何度も何度も繰り返し聞いた。高価ではないスピーカーで十分だ。過去の時間に凍結されているものが再生される。どうあらがおうとも過ぎ去ってゆく時間の中で、そこに立ち止まる事さえ出来ないのに、音は残る。この曲は今でも聞かれていると思う。少なくとも僕が。


あなたを愛したい
「あなたの夢でふと目覚めた夜明け」という歌詞が「あなたの胸でふと目覚めた夜明け」と聞こえる。これは良く似た言葉を使った連想だと思う。この連想が、あなたの胸に抱かれていた夢から目覚める、という印象を与え、夜明けという時間が暗示をより強くする。もちろんこれは狙った効果であろう。この曲のもつ艶めかしさと清廉の同居はこうやって生み出された。それに加えて、先にある悲しみの予感。この曲の編曲はとても素敵だと思う。南野陽子の声を生かしたのは萩田光雄という人だ。何かのストーリーの中に存在しているかのような歌。この頃に彼女の声が変わったように思われる。星降る夜のシンフォニーから夜明けまで来た。


涙はどこへいったの
歩いてきた道がひとつの頂点へ達する。終わりの姿に辿り着けばそれは最後の始まりだ。これまでの路線が遂に来た場所ではないか。この曲のあちこちにこれまでの断片が思い出のようにある。曲がり角からここまで来た。僕にはこの曲が映画色の雨 (GELATO) から連綿と続くその最期にあるように聞こえる。


トラブル・メーカー
この意識的な題材はパッシングを受けていた当時の苦境とは裏腹に心地よい曲に仕上がっている。歌詞も曲もコミカルに楽しく聞いていると笑ってしまう。これはトラブルメーカーである彼女が自分達を笑おうとしているのではない。彼女たちが視聴者に笑ってもらおうと投げかけた曲だろう。そんな製作者たちが集まった風景が見えてくる。ぜんぜん悪くない。明るく楽しく踊っている現場の笑い声が想像されるような感じだ。


瞳のなかの未来
水、夜、月、雲、砂、演劇の舞台。砂漠の行進曲か SF のシーンのような賑やかさ、流れてゆく。何かの始まりのようだ。透明感のある歌声がある。なにかしら母性さえ感じられる。少女漫画であるかのようだ。


メリークリスマス
この曲の魅力は歌詞にもあるしストリングスの響きにもある。世界の成りたちには哀しみがある、それだけを込めた曲だ。だがメッセージと音楽の間には何もない。語感やリズムが言葉の意味を溶かして行く。歌詞の意味は音楽の力で空に溶けてゆく。クリスマスの日にふいに目にとまったテレビの映像。飢えた子どもたちに思いを馳せる。パーティに行くまでの途中の姿。この曲の魅力は、ポップスがこの様なテーマとどう向き合うかを問いかけた編曲、萩田光雄の姿だと思う。テーマ云々よりもこのようなテーマを乗せてどう音楽が進行するかに対する作り手の答えとしてこの曲は楽しい。

メッセージではなくそれに戸惑う女性の姿がいいのだ。楽曲としてポップスを選ぶことが前提にあったんだと思う。ポップスはどうやって世界と向き合うかというこのチームとしての答えなんだろう。テーマを乗せたストリングスが心地いい。これらの曲には歌手の姿よりもチームとしての姿が見えてくる。どのようなテーマであれ彼ら彼女たちを駆り立てのはいつもと同じように仕事をしようという揺るがない姿だと思う。神様への問いかけでも問題の提示でもなくただ祈りのひとつの形として。


6pm. 24. DEC
きよしこの夜という曲を悪戯した。


僕らのゆくえ
ドラマのような景色の曲で彼女が表現するのは感動ではない。彼女は虚構の世界の演者にはなり切れない。彼女はいつでも自分でしか居られない。その彼女の声の透明感が彼女の母性そのものだ。その透明感に風が似合う。彼女の中にあるものが風の形になる。


ダブルゲーム
幼さがを覗かせる情念をどう歌おうとも曲が求める姿は表現できまい。この歌でも彼女は彼女自身でしかいられない。どう歌おうとも彼女自身にしかならない。どうやってもドラマにならない。虚構の世界の人が演じられない。だから彼女の中からは感動が生れない。彼女は風にしかなれない。それは彼女そのものであり、それがいい。


へんなの!!
発表された当初は顰蹙を買ったのだろう。誰もがイメージの違いからびっくりし離れてもいった。みっともない、というのが当時の彼女の姿であった。だが、そういう周りの事情が流れ去ってしまえばこれ悪くない曲だ。歌い方が変幻で面白く決して悪い印象はない。当時の僕にはこれを聞くための準備が出来ていなかった、変わったのは彼女ではなく、受け入れる側の勝手だった。

当時の商業的な失敗など関係ない。今や失敗も古くなってしまえば新しい。当時はなんとも痛々しく感じたものだった。決定的に彼女の終わりを告げた曲とも言えるだろう。そんな中でも彼女は手探りの中で幾つもの顔を披露した。当時は虚像と実像の間でただひとり演じていたのだろう、誰も足を止めなかったにも係らず。それだけの事じゃないか。虚像は流れ去りもう関係ない。歌というものは楽曲としてだけではなく関係性の中でも存在する。その関係性が失われて今はただ聞く。


耳をすましてごらん
どちらかと言えば母を訪ねて三千里。


夏のおバカさん
年齢というものがよく出ている。大人だけどわずかに幼さが残る女性。これからどうすればいいんだろう、それが分からず立ち止まっている女性。明日には歩き始めるのだけど今日は立ち止まる。そんな声だと思う。彼女はここまで来た。彼女が最後に見せた姿に決して嫌な感じはない。この透明感は好きだな。誰かと何かの共感を生むわけではないけれど自分の足跡だと思えばとっても大切なものじゃないか。良い事も悪い事も忘れるしかないじゃない、忘れられないだろうけど。だからそっと取っておこう。


思いのままに
彼女の母性は気付かない。この世界は彼女に母の姿を望まなかった。だれも透明なものは見えないと思っている。そうして彼女の母性を見なかった。彼女の姿はどこへ行くのだろう。不意にナウシカ的な母性というものが思い浮かんだ。不思議だ、なぜ彼女は最後まで幼さを残していたのか。それは何かの偶像であろうか。

彼女の中にある幼さがもしなかったら、これらの歌を今日まで聞いてきたか疑わしい。彼女はこういう音の楽器だったのだ。どのような音色を出そうとも楽器以外の何者でもなかった。幾つもの可能性が消え去って残ったものがこれだ。それでもう十分じゃないか。


過ぎ去った時間に立ち止まったまま
君の歌声が変わらない

怒ったり笑ったりを忘れてしまっても
君の歌声だけは覚えている

もしも遠く彼方に消えてしまっても
またどこかで君に会えるかな

君と同じ時間の中に生れたから
探す事も別れる事もできたんだ

ガラスの中で君の姿を探してる
君が置き忘れたものを探してる
こうして遠くに時間が流れている
そうして僕はすぐ側にいる

遠くから聞こえる歌を聞いている
君が残したものを僕は聞いている
こうして遠くに君が消え去っても
それでも僕のすぐ側にある

2012年12月20日木曜日

レモン哀歌 - 高村光太郎

夏と言えばこんなところ。

サクレ レモン(ふたば食品)

ふんわりかき氷(ふたば食品)

あずきバー(井村屋)

赤城しぐれ(赤城乳業)

みぞれ(森永乳業)

で、がりりと噛んだと言えばこれ。だからサクレ レモンなんだけど…

レモン哀歌

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた

かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ

トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした

あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ

あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた

それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた

写真の前に插した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう

(高村光太郎 智恵子抄)

そんなあたなも今日の終わりにレモンのかき氷をガリりと食べてみるのはいかが?


2012年12月19日水曜日

過ちて改めざる - 孔子

巻八衛靈公第十五之三十
子曰 (子曰わく)
過而不改 (過ちて改めざる)
是謂過矣 (是れを過ちと謂う)

(訳)
過ちは誰にでもある。そうと気付かない過ちもある。本当の過ちとは、それに気付いても改めようとしない事だ。だから過ちに気付かない者をそう責めてやるな。彼は知らないのだ、自分の過ちを。


孔子のこの言葉は最後に出てきた過ちが最初と繋がる循環する構造である。最後の過ちの意味は、最初の過ちとは違うものである。しかし、どちらの過ちも同じく過ちと読む。最後のものを過ちを呼ぶなら、最初のものには別の呼び方があるのではないか。そういう同じなのに違うという発見で止まっていいものだろうか。

同じなのに違う、という発見はこの言葉を印象深いものにする。気付いても改めないのが過ちである。であれば最初の過ちは許されるのか。改めたなら許されるのか。と問う。過ちは許すべきなのだろうか、過ちに気付いて改めたのなら許すべきだろうか。

いやいや、そういう話しではあるまい。

過ちなど誰もがする、過ちに気付く事も多い。しかしそれを改める事は本当に難しい。だから人のあらゆる過ちというものは改まっていないから起きたに決まっている。

我々は自分達で気付いていないのだ、その過ちの前に、ずうっとずうっと前に既に過ちを犯していた事を。それに気付かず改めなかったのだ。気付いて改めた積りになって改まってなかったのだ。改めたと思う事が過ちなのだ。

目の前で起きた過ちだけを見るから終わってしまう。間違いは改めればよいと言う様なものではない。改めようとしないのも過ちなら、改まると思うのも過ちだ。未来を改めればいいと軽く考えてくれるな、改めれば許されると思うな、過去に思いを致し振り返ってみてその過ちが何から起きたかと考えて見よ。どう改めればよいかに答えが出るのか。過去でさえ改まらぬのに未来が改まると信じる事が出来るだろうか。それでもひょっとしたら未来なら改まるかも知れない。

改まってなどいないのだ、だから最初の過ちが起きているではないか。誰もが改まっていない。過ちのない人間もいない。改めざるを過ちと謂う。誰もがそうだ。過去に起きた以上、未来でも必ず起きる。改めるのは簡単だ、しかし、それで改まったと言えるのか。そしてその機会を我々は失ったのだ。だから改めようとするものはせめて許してやれ。

2012年12月14日金曜日

Man is but a reed - Blaise Pascal

Pascal's Pensées 346

Thought constitutes the greatness of man.

(訳)
考える事で、人は存在するんよ。


Pascal's Pensées 347

Man is but a reed, the most feeble thing in nature;

but he is a thinking reed. The entire universe need not arm itself to crush him. A vapour, a drop of water suffices to kill him.

But, if the universe were to crush him, man would still be more noble than that which killed him, because he knows that he dies and the advantage which the universe has over him;

the universe knows nothing of this. All our dignity consists, then, in thought. By it we must elevate ourselves, and not by space and time which we cannot fill.

Let us endeavour, then, to think well;

this is the principle of morality.

(訳)
人間は葦よね、ほんま自然界では弱々しい命よね。

そいでも人間は考えて歌う葦よ。全宇宙がうちらを潰そうとするんなら力なんかいらんけえね。簡単よ、蒸気かひとしずくの水滴で十分に殺せるわいね。

ほいじゃがね、もし宇宙がうちらを押し潰したいんならね、うちはそれでもなお、うちを殺しにきた自然に向かってね、毅然と殺されてみせちゃるけえね。よう聞きんさいよ、うちはね、知っちょるんじゃけえ、自分が死に行く存在じゃって事をね、ほいで宇宙はうちらの上をただ通り過ぎてゆくだけの巨大な存在に過ぎんちゅう事じゃってね。

宇宙はうちを殺した事にゃ気付きもせんじゃろ。そいでもうちが宇宙と対峙できとるんは、たぶん、うちが考える存在じゃけえよ。こうしてうちは生きとる。この世界はうちの手じゃ汲み尽くせん事もよう知っとるけえ。

そいじゃからこの先に行けるんよ、そうよね、考えるちゅう事だけをうちは手にして行くんよ。

それだけがうちらの道じゃないんかいね、ほうじゃろ。


Pascal's Pensées 348

A thinking reed.

-- It is not from space that I must seek my dignity, but from the government of my thought. I shall have no more, if I possess worlds.

By space the universe encompasses and swallows me up like an atom;

by thought I comprehend the world.

(訳)
考える葦。人間ちゅうのが宇宙の中におると考えちゃいけんよ、うちが人間を探すんならね、そりゃ、うちらの思索の中にするんと思うんよ。それだけで世界を理解するのに十分なんよ。

宇宙はうちを包み込んで、飲み込んで、最後にゃバラバラにするんじゃろう。

そいでも、考える事でうちは世界を抱きしめとる気になっとるんよ。

http://en.wikiquote.org/wiki/Blaise_Pascal
http://www.gutenberg.org/files/18269/18269-0.txt

2012年12月10日月曜日

ブラックホール空想

ブラックホールは巨大な恒星の末路であって爆発するには重力が強すぎて吸い込み続ける様になったものだ。銀河系の中心もブラックホールであってそれがこの星系を成り立たせている。写真を見ても銀河の中心は明るいのだが (松本零士の絵も) ブラックホールが光りさえ吸い込むのであれば銀河の中心って暗いんじゃないのって思ったりもする。

(ハーロックの「俺の旗」を超える宗教など存在しない)

さて、恒星は水素から鉄までを核融合で産み出しその (宇宙と比べれば) 短い生涯を終える。その末期に幾つかの恒星はブラックボールへ転じる。強力な重力であらゆるものを吸い込むので、その中心は凄まじい高温と高圧になるだろう。この温度と圧力では分子は存在できず原子に戻る、更に原子としても存在できず素粒子に戻る。ブラックホールの中では原子は原子でさえいられない (陽子の崩壊)。それはまるで産み出した我が子を死に至らす伊邪那美命のようだ。

(ぼおるぺん古事記のような)

重力もまたボース粒子の一つといわれる。重力子 (Graviton) が存在すると仮定すればブラックボールの中心部にもこの粒子が存在するはずである。ところでブラックホールの中心部の圧力と温度が高温に成り過ぎて遂に素粒子の存在さえ許さなくなればどうだろう。

もしグラビトンがグラビトンでいられない状態がブラックホールの中心部に出来たら、そこは重力が消滅した世界である。まるでビッグバン直前と同じ状態にならないか。高圧高温の空間は重力によって維持されている。それが失われたらぎゅうぎゅうに圧縮されている何か (粒子でさえない) が一斉に外に向かって放出されるだろう。全ての素粒子が存在しない状態から外に向けて爆発する、しかし、中心から少しだけ外の空間には依然として重力が健在していて粒子として存在する世界である。中心とその周辺では粒子化したり粒子が崩壊したりするような対流が生じるのではないか。

ビッグバンの最初の段階は粒子がぶつかりあう状態があった。それは振動であるから音である。その次に光が生じた。中東の神が最初に光あれ、と言ったのはなるほど、理屈にあっている。光りの前に神は言葉を使った、つまり音 (粒子のぶつかり合う振動) は光りの前に存在した。ビッグバンとは宇宙で起きたブラックホールの爆発のひとつに過ぎないのかも知れない。

野球場を水素元素とすれば原子核はグランドに置かれた3つのゴルフボールに等しい。観客席に置かれた砂粒が電子に相当する。これが原子の構造だ。酸素原子と結合して水分子になる。ディズニーランドにゴルフボールを 3*2 +24 = 30 個だけ置いたのが水の分子だ。それで水という物質になる。

(宇宙人と出会い真っ先に理解し合えるものが元素周期表である)

構造として見ればスカスカなのに 1 兆 * 1兆個 (1mol) も集まれば手で触ることができる。電子顕微鏡で見たら丸い粒に見える。そこには構造とは違う場が支配する世界らしい。構造とは異なる力の場が存在する。この場の影響は小さくなればなるほどよく観測できる。

観測による真実とそれを説明するメカニズムを考えながらそこに少しばかりの空想を交えて人類 (を含むこの星の生命) は宇宙を目指すのです。

つれづれなるままに - 吉田兼好

序段

つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

(訳)
ひとりでは時間も持て余すので、暇を見つけては硯にむかって、世間で見聞きするいろいろな事を考えるまでもなく書き綴っていると、なんだか心の内が騒がしくなってきて、日がな一日悩む事があるんだ。僕がどんなことを考えていたか思い測ってくれ。


243段

八つになりし年、父に問ひて云はく。「仏は如何なるものにか候ふらん」と云ふ。父が云はく。「仏には、人の成りたるなり」と。また問ふ。「人は何として仏には成り候ふやらん」と。父また「仏の教によりて成るなり」と答ふ。また問ふ。「教へ候ひける仏をば、何が教へ候ひける」と。また答ふ。「それもまた、先の仏の教によりて成り給ふなり」と。また問ふ。「その教へ始め候ひける、第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」と云ふ時、父、「空よりや降りけん。土よりや湧きけん」と言ひて笑ふ。「問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ」と諸人に語りて興じき。

(訳)
八つになった頃、父に仏とはどういうものなのと聞いたらしい。すると父が仏とは人がなるものなんだよと教えてくれたので、人はどうすれば仏になれるの、と聞き返した。父はそれに答えて、仏の教えによって人は仏になれるんだよと云うので、人に教えてくれる仏は誰からその教えを聞いたの、とまた聞いた。それに父は、それより前に仏になった人から教えを聞いたんだよと云うので、その教えを最初に教える一番最初の仏は、誰からそれを聞いたの、とまた聞き返した。ついに父は、最初の仏は空より降ってきたか、土から湧いてきたんだよ、と言って笑った。それを酒の席でみんなによく披露していたと後から聞いた。それを話してくれた時の笑った顔が今も忘れられない。

私も今では名も知られ、私の言うことならさもあらんと認められるようになった。しかしこれまで書いてきたように市井の名も知られぬ人から聞くべき多々の事がある。私が話せば多くの人が納得するけれどそれは私にそういう力があるのではなくて、私を多くの人が知っているからに過ぎない。それでは肩書きで説得したに過ぎない。

仏ではないけれど、自分達が今は正しいと思っている話しも最初に言い出した者は誰ならん、と考えてみればやはり最初の仏と同じ所に辿り着く。それは誰も知らぬものに違いない。私は他の人が価値も見出さないような些細な事の中からも何かあると思った事をこれまで汲み出してきたつもりである。肩書きや社会の常識に捕らわれず、そうだと思う事を書いてきた。それはどれもみな最初の仏ではないか。

私は、私の父親と同じ事をやっていたという話しだ。

(最初の最初はどこはサイエンスの問いである。宇宙の始まりも素粒子も生命の誕生も数論もみな問いは同じ)

2012年12月6日木曜日

吾不復夢見周公也 - 孔子

巻四述而第七之五
子曰 (子曰く)
甚矣 (甚だしいかな)
吾衰也 (吾が衰えたる)
久矣 (久しく)
吾不復夢見周公也 (吾れまた周公を夢に見ず)

(訳)
ついうたた寝をして今しがた久しぶりに会った気がする。

昔はよく周公の夢を見ていたものだ。

それがいつの間にやら見なくなった。

長い間その道を求めてきたので私も遠くに来てしまったのだろう。

周公のもとを離れて本当に遠くに来たのだと思う。

だから周公と会わなくても平気になったのだ。

それくらい私は歩いてきた。

未だ周公への敬慕の念を失うものではないし

今も周公の道を追い求めるひとりではあるが

いまや私は周公とは関係なく私の道を歩いている。

それがせいで夢では会わなくなった。

だけど人にはただ老いたとだけ言っておこう。

ああ、周公に憧れを抱いていた若い頃が懐かしい。

2012年11月22日木曜日

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 - 庵野秀明

これは 4 枚の連作のうちの 2 枚目である。並べれば其々が自画像の様である。

それを 4 つでひとつの物語として見るから繋がらない。4 枚の連作された絵画であると見ればそれで十分である。作中の数分間が絵画的であればそれでよい。それ以外の時間はそれを支える額縁の様なものだ。繋ぎ合わせて映画として存在するがこの作品は一枚の絵画である。

それぞれは描かれた年代も背景も状況も違うから色合いもタッチも違っていておかしくない。連続するように見えるのは額縁が繋がっているからだ。それぞれ違う絵だから額縁の繋がり方に矛盾があると言った所で違って当たり前の話しである。同じ主題を調律を変えて奏でた音楽に例えてもいい。

僕の持っている人生観や考え方以外に確実なオリジナリティは存在しない。それを突っ込んでしまえばただのコピーでしかないと言えるんですよ、胸を張ってね。そこの部分なんですよね。コピーをする時に自分の魂をこめる。まあ、それは人の魂が入っている、ただのコピーではない。
庵野秀明スキゾ・エヴァンゲリオン p.50

ヱヴァンゲリヲンの雰囲気や肌触りは何かに似ていると思っていたが科学特捜隊であると合点した。ウルトラマンではなく科学特捜隊という物語。ヱヴァンゲリヲンはウルトラマンで代替え可能に思う。

この作品の世界観はどうにでも作り変え可能だ。登場人物さえ同じならエヴァという物語はどのようにでも表現できる。それはテレビシリーズ第 26 話 - 世界の中心でアイを叫んだけもので示されている。庵野秀明が作り直したものでもそれはひとつの作品の解釈に過ぎない。

劇場版は旧作をいったんバラバラにして組み立て直した。作品を詳細に分析すれば単なる旧作の切り貼りではなく、他の作品からの転用があちこちにある事に気付く。何処かで見た風景があちらこちらに散りばめられている。

テレビ万能時代に生きたものの宿命ですね。もっと認識すべきだと思うんですよ、僕らには何もないっていうことを。世代的にすっぽりと抜けている。テレビしか僕らにはないんですよ。
庵野秀明スキゾ・エヴァンゲリオン p.19

この物語に登場する最前線で戦う戦闘集団は素人の集まりだ。集団としても未成熟であるし指揮系統も脆弱だ。14 才の子供に銃を持たせる。アフリカの少年兵に実際に起きている事が作中で起きる。65 年前にあと 3 ヶ月戦争が続いたらこの国でも起きていた事が作中で起きる。子供に銃を取れという大人が登場する。そこにあるのは架空のリアリティだ。だから素人集団でなければ物語は成立しなかった。

物語が持つリアリティとファンタジーは均衡しなければならない。リアリティをひとつ作り込めばそれとバランスを取る様にファンタジーが必要になる。ひとつのファンタジーを作り込むためにはそれとバランスの取れたリアリティが必要になる。そうやって作品は成立する。描き直された新劇場版の使徒の表現、CGによる洗練されたメカニズム、キャラクターの表情は魅力的で美しく完成度が高い。それは映像のアートだ。そのリアリティに裏付けされ物語のファンタジーも巨大化する。

僕らは結局コラージュしかできないと思うんですよ。それは仕方がない。オリジナルが存在するとしたら、僕の人生しかない。僕の人生は僕しか持っていない。それがオリジナルだから、フィルムに持っていくことが僕が作れるオリジナリティなんです。それ以外はすべて模造といっても否定できない。
庵野秀明スキゾ・エヴァンゲリオン p.49

物語は、未解決の課題、作者はこの後をどうするんだろうという謎によって観客を足止めする。作中に現れる思想や説明など取るに足らない、ナレーターのいない世界(ミサトが変わりを担う)で物語を構築するのに最低限必要な骨格だ。

日常会話の楽しさとシリアスな状況での会話を対比してみても苦痛である。この作品は様々に解釈できる。新しい解釈が新しい魅力を発見する。挿話ひとつが多彩な解釈を生む。科学的に宗教的に童話的にアニメ的に世界観が拡がる。それを提供するプラットフォームだ。しかしたかが物語ではないかとも思う。そういうことなら我々人類は聖書でさんざんやってきたではないか。

これらの連作を作るうえで作者が一番苦心した事は何であろうか、それは観客から逃げ出す事ではないかと思う。こうなるであろう、ああなるであろうと勝手な観客の予測を絶対に裏切ってみせる、その為には如何なる手段も厭わない。オリジナルをベースとしながらも作者は観客の前を疾走し遠さがる。

最初のテレビシリーズは藤井に教えてもらった。それは "アスカ、来日" だった。それを見た時の感想は、オタク相手。なんら感心を持てず、後日放送されるテレビ東京の深夜一気見放送まで興味から外れた。第一話。エヴァンゲリオンとは第一話のレイの包帯姿から始まる。なんだこれという心の声。あれを見たから今がある。

テレビ版の最終話の破綻が好きだった。制作が時間的にも創作的にも行き詰りのた打ち回って出した結論。そのケリの付け方は斬新で男らしい。分からないものは分からない、出来ないものは出来ない、と堂々と言ってのけた。謎解きなど全部うっちゃった。全部分かった上で批判を堂々と受け止めた。お前たちの非難なぞ全部知っている、それでもこうするしかなかったと言う作者の苦しみが聞こえた。

この作品の何が面白いのか。旧劇場版は、監督の錯綜ぶりがまるでシシガミが切り取られた顔を求めて森を彷徨うようだった。エヴァンゲリオンは失われた最終回を求めて迷走しているのかと思った。そして薄々と誰もが思い始めている、これだけの期待に応えるだけの物語の終わりなど存在しないのではないかと。

旧劇場版では散りばめた多くの伏線を回収できなかった。それ以前にアヤナミが巨人になった。ファンタジーを通り越してホラーになった。それは陳腐と呼ぶべき造形であった。キリスト教や量子力学の謎もそのまま残った。聖書の解釈が多くの文学作品を生み出した様にエヴァンゲリオンも聖書から生れた作品として、幾つもの解説、解釈、そしてオマージュを生んでいる。その系譜は今も続いている。最終回とは何であろうか、どうケリを付ければ最終回となるのか。物語が終わるとはどういう事か。

旧作の最終話だけを見た。鑑賞に耐えられなかった。この作品は前提を必要とする。最終話だけを切り取って見ても面白くない。最終話への流れが見えていないと面白さは伝わってこない。コンテンツ(中身)ではなくコンテキスト(文脈)に物語の面白さが存在する。

包帯だらけのレイはいきなり目の前に突き付けられた現実である。どうなると言う気持ちがこの作品を先へ押し出す。時計の針が動き始める。時間を切り取った間だけ花を咲かせ、連綿と続く生命の進化の中で遺伝子を次の世代に託すかのように、シンジが綾波を救い出すシーンは太古の地球に最初の生命が誕生するかのようだった、それ以前の生命が全て滅んでも構わず。これは一枚の絵画だ。

ヱヴァンゲリヲンのプロットは退屈である。男が失った妻を生き返らせようとする。キリストの復活ではない。人類補完計画は死から逃れようとする老人の暴走に過ぎない。中世なら処女の生血を飲もうしただろう。永遠の命に絶望し自殺も出来ぬから一体などと言う妄想に走る。この物語を構成する二つの巨大な権力の存在がリアリティを得るために必要であった。だから描きようがない。巨大なリアリティが薄汚れた老人たちの妄想なのだから。

手の内を見せればファンタジーになってしまう。隠しておけばリアリティになる。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、とはそういう意味だ。レイは何故ああまで戦うのか。この秘した花の唯一の現象がレイだ。謎のままでよい。意味など与えない。彼女は何の為に戦うのか、彼女の意志は何であるのか。

それが明かされれば物語が崩壊する。レイは憑代である。コアに閉じ込められたユイのではない、作品の憑代だ。彼女がファンタジーをリアリティに変換している。その花の魅せ方をいろいろな咲き方を劇場版が語っている。

物語の終わりとはファンタジーの量が 0 になる事かも知れない。そこで花は消え現実に戻る。どうやって花は消えるか。ファンタジーの象徴を破壊する以外にどんな方法があるのか。

「綾波を返せ」からの数分間だけが作品である。それが与える感動を増幅する為にストーリーを必要とした。キリストを知らない人にとってヨーロッパの絵画の意味が全く違ってしまう様に背景を必要とした。それを額縁に散りばめる事で成立させた作品だ。美とは装飾が全て消え去っても残るものであるが、人々の衆知を集めるには立派な額縁も必要である。その額物を通してしか見えてこない絵画の風景がある。

ヱヴァンゲリヲンには家族が登場しない。家族を失った者達の物語にさえ見える。家族を失ったものたちが幻想の中で家族と出会う。それが神であったり使徒の姿をしているのかも知れない。幻想の中でヱヴァンゲリヲンは偶像として登場する。

綾波を、返せ!僕がどうなったっていい、世界がどうなったっていい、だけど綾波だけは、せめて綾波だけは、絶対に助ける!

誰もが感じている事だと思うがヱヴァンゲリヲンという作品は何かしら病的である。レイの包帯姿が場所を病院である事を象徴している、と強引に見るならば、これを病院での出来事と解釈してもいい。社会から隔離された精神病院での出来事だ。病を抱えた者達の病的な幻想を編集した。妄想の中で襲い来る使徒。母親や家族の思い出でその妄想と対峙する人々。人類補完計画とは自分達に理解できない病室の向こう側の話しかも知れない。

妻を亡くした男が妻を蘇らせたいと望む、父親に虐待されていた少年が強くなりたいと願い、事故で両親を亡くした少女が幸せだった頃を思い出す、仕事や不倫で疲れた女、その人たちの哀しみや強さと向き合う過程の記録ではないか。その隣で付き添うのは分かりあえた友人だろうか、それとも病院のスタッフであろうか。

使徒は妄想であるしヱヴァンゲリヲンも妄想である。ロンギヌスの槍はアスクレピオスの杖から連想された患者たちの妄想だ。あの明るい、素敵な、僕の好きだった最終回は、取り敢えずの退院であろうか。彼らは病と向き合い入退院を繰り返す。おめでとうと拍手で送り出されるシンジ、それは喜ばしい事のように見える、だが彼の帰る社会はどこにもない、病院以外。

病気は快方せずまた入院する。入院しもう一度初めから物語を紡ぎ始める。ヱヴァンゲリヲンとはそういうものではないか。同じ事をループしながら少しずつ違う未来を探している。何回でも最初からやり直す。そういう解釈だって間違いじゃない。

だけど・・・医者の中にも患者の中にレイがいない、彼女は何者なの?

この物語は精神を病んだものが紡ぎ出した妄想なのか、だが作品と妄想の違いはどこにあるのだろうか。世界観がそう解釈されたとしても作り出された物語の正気を担保するものがどこかにある、そうこの作品のどこかに。

P.S.
:Q とはエヴァンゲリオンにおける Z ガンダムかも知れないと何となく思う。

2012年11月13日火曜日

足し算よりかけ算を先にする理由

なぜ足し算の前に掛け算を行う必要があるのか。答えは足し算を先にやると計算結果が変わるから。

3 × 2 + 1 の場合

  • (3 × 2) + 1 = 7
  • 3 × (2 + 1) = 9

どちらが正しい式かと問われれば上記の式はどちらも正しい。では括弧を省略した時はどうすべきか。ここで忘れてはならないのは数学者という輩は少しでも楽したがる動物と言う事である。彼らは膨大な量の計算をするので省略できるなら少しでも簡単にしたいのである。難しいと頭がこんがらがるし。

という訳で 3 × 2 + 1 をどうすれば良いか。

先頭から計算する?

先ずは頭から順に計算するという方法がある。しかしこれは却下。数学者は楽したがるのである。この方式では式の途中に演算を加えたり消したりする度に頭から計算式を書き直さなければならない。こんなのインクの無駄、時間の無駄、人生の無駄。

足算を先に計算する?

次に省略している時は足し算を先に計算すると決める。するとどういうことが起きるか。もちろんメンドクサイのである。例えば。

y = 3 × x + 5 という方程式がある。足し算が優先なら実はこれ展開しきれてないって事になる。 y = 3 × (x + 5) であるからこれを展開すると y = 3 × x + 15 になる。所でこう書くとまた展開しないといけない。つまり展開し終わった時には必ずカッコで括って書かないといけない。

y = (3 × x) + 15

えー展開する度にカッコ書くなんてナンセンス。カッコ書き忘れただけで結果が変わるし危険だよ。というわけで掛け算を先に計算すると決めておけばカッコを書かなくて済む、エコだ。さらには × 書かなくても式として分かるよね、さらにエコだ。

y = 3x + 5

割り算の順序

所で掛け算と割り算の順序はどうか。これは書いてある順序である。ここはメンドクサクないの?という話。

2 × 3 ÷ 5

これ多分だけど、割り算は分数に書けるからじゃないかな、面倒臭くないのは・・・

掛け順の順序問題

掛け算には単位を揃えるために行う側面がある。足し算は単位を同じにしないと出来ない側面がある。しかしそんなの問題次第ではないか。タコが一匹います。ここにプリウスが二台あります。タコの足とタイヤの数は足して幾つでしょうか。 8 + (4 * 2) = 16。単位? 知らない。

本当は算数の掛け順こだわり問題について書こうと思っていた。しかしあれは教える側の都合であって、教わる側には何の関係もない。もう少し言えば楽してお金を稼ぐ方法に過ぎない。

子供達が掛け算を理解しているかを知る為に単位とか掛け順を含む問題を作り出した。先生が子供達の掛け算の理解度を把握しその後に生かす為だ。それが何時の間にか掛け順を守る事に目的が変わった。理解度を計る方法は他にもあるし、問題の工夫にも多々ある。だがそれらは拒絶した。

これは渡れない川、越えられない壁である。算数ではなく教育の技術論なのだ。昔から目的が手続きによって取って変わられる事は良くある。目的の達成のために手段が発明され、目的と手段が同一視される。目的が忘却されても手段は実行される。算数と言う目的が形骸化しても教育と言う手段は失われない。

one of them の手段が他を駆逐し万能になる。この方法で目的に達成するならば、これに全力を払えばよい、他の手段は不要、ただ邁進する。恐らく原子力行政もこのような動きがあった。目的なき技術論ではないか。

目的を達成する為に手段を合目的化する、それで本当に目的を達成できるかの検証は必要ない。達成できないは未だ中途半端だからである。共産圏でも似たような笑い話がなかったか。これは彼らのエネルギーが尽きるまで、破綻を迎えるまで続くのだ。

越えられない壁は補給を絶ち陥落させる、それ以外の方法はない。歴史上の公理である。

2012年11月12日月曜日

非礼勿視、非礼勿聞、非礼勿言、非礼勿動 - 孔子

巻六顔淵第十二之一
顔淵問仁 (顔淵、仁を問う)
子曰、克己復禮爲仁 (子の曰わく、己れをせめて礼にかえるを仁と為す)
一日克己復禮 (一日己れを克めて礼に復れば)
天下歸仁焉 (天下仁に帰す)
爲仁由己 (仁を為すこと己れによる)
而由人乎哉 (而して人によらんや)

顔淵曰、請問其目 (顔淵曰わく、請う、其のもくを問わん)
子曰 (子曰わく)
非禮勿視 (礼に非ざれば視ること勿かれ)
非禮勿聽 (礼に非ざれば聴くこと勿かれ)
非禮勿言 (礼に非ざれば言うこと勿かれ)
非禮勿動 (礼に非ざれば動くこと勿かれ)

顔淵曰 (顔淵曰わく)
囘雖不敏 (回、不敏なりと雖ども)
請事斯語矣 (請う、斯の語を事せん)

人には相手を思いやる心が備わっている。この相手を思いやる心というのは勿論、人間だけが持っている能力ではない。それでもネアンデルタールとホモサピエンスが残した石器を見比べれば交流の違いが分かるそうである。

(ネアンデルタールは未来の我々だ)

相手を思いやる心のその能力は如何と問えば獲物を捕らえたり相手から逃げる為の能力と考えられる。これは未来を推測する能力であって鰯の大群が捕食者から逃げるのも捕食者が追い駆けるのも方向を予測して行っている。

この能力が極めて発達したのが人間の脳なのかも知れない。それを得るために我々は心を必要とした。心があるから相手の気持ちを個々別に管理できる。こういう気持ちでいるだろう、こう考えているだろうと仮定を生み出すものが心であろう。

この能力があるから見知らぬヒトとも交流できるのだろうし、その交流が新しい交流を生み出す事もできる。これはヒトが繋がる力に違いない。と同時にこの能力を使えば巧みに誰かを騙したり陥れる事もできる。この未来を見通す力、誰かから逃げる力、誰かを襲う力は生き抜く上で非常に強力な能力だと思う。

これはそのまま性善説や性悪説にも繋がる気がする。これらは思いやる心が備わっているから起こる現象であってそれを分別するのは社会側からの要請に過ぎない。何が善であり何が悪と決めるかの前にそういう働きをヒトは持っている。

この思いやる心というものはだから全て幻想である。思いやるとは自分側からの推測に過ぎないし、未来は全知不能である。この能力が世界像を己の中に構築する能力である以上、己の中で完結するしかない。推測が当たっているかどうかは分からない。相手との関係を確かめてみないと分からない。幾ら思いやったとしても相手がそうであるとは限らない。擦れ違いもある。本質的には一方的な世界像である。

個々人が作り上げた世界像は決して交わる事はない。それぞれが独立している。それでも人の集まりはこの世界像を重ね合い幻想としての共有を己の中にマークする。

こうして作り上げた世界像は強力である。ヒトは現実と仮想空間を同一視しながら訂正を繰り返す。仮想現実とは別にコンピュータが作り出した世界ではない。初めから我々の中に既に存在している、と言うよりも仮想世界を持っているから我々はヒトで居られる。

ある日この仮想現実が自分自身を襲い始める。まるで免疫システムが自分の体を攻撃し始めるかのように。自分の中にある世界から攻撃され非難され始める。その世界が自分に敵対し終には自分自身を押し潰そうとする。それは現実の世界が攻撃してきた訳ではない。自分の中の架空世界の暴走である。誰かを思いやる心が自分に牙を向いただけなのだ。

ストレスやプレッシャーが切っ掛けになるであろうし、誰かに抱く恐怖であるとか重圧の仕事であるとか様々な抑圧が何かを切っ掛けにして自分を攻撃するのである。過ストレス社会と言えるかも知れない。それは人の性善に頼り切ったが為に起きているとも言える。誰もが大きく誰かに寄りかかり寄りかかられている。その中で行使される権力の濫用に人は弱いものである。善意を権力で支配しようとする関係性は本当は破壊されるべき関係性であるのだ。

論語では礼こそが最も大切な考えだと思う。儒教は礼によって完成する。

礼は我々が漠然と知っているような礼儀であるとか、礼節であるとか、儀礼や作法の取決めではない。お互いの間にある取決めの了解を礼と呼ぶのではない。それらは礼の表現であって、礼を重ねてゆく内に自然と出来たお互いの了解であるとか、手続きの簡素化に過ぎない。お互いに分かりあった上で形式化するのは礼の簡略化であり、それはフォーマット化された手続きであり、礼の上に立脚したものではあるが礼の法ではない。

礼とは行為ではなく心に添う。では礼とは何か、礼の法とは何か。礼を必要とする理由とは何か。それは人とは基本的に恐れる生き物である事を理由とする。

我々生物は常に生命の危険に晒される。他の生命からも同じ生命からも。私たちが身に着けた思いやる心は誰かと繋がる力であると同時に誰かを疑う力でもある。我々は極度に恐れている、人間そのものを。

ストレスがあり、プレッシャーに晒され、暴言を吐き、誰かを罵倒する人々がいる。何かを嘲笑し自分の優位性を確認したい人々がいる。よく見れば彼らは恐怖から行動している。彼らは恐怖の感情をどうにかしようとしている、それは野生動物を彷彿とさせる。

彼らに礼はない、何故か、自らのストレスに気付かずそれに打ちのめされているからだ。

我々は生きようとする。それは恐怖の中に於いても変わらない。自殺でさえ前向きに生きようとする手段である。危機に立ち向かう事も逃げる事も生きる事である、同じように誰かを襲うのも生きる事に違いない。恐怖は暴力に、劣等感は侮蔑に、嫌悪は軽蔑も、嫉妬は優越感に、抑圧は解放に、心の複雑さは意識に昇らない危機までを感知しそこから逃げ出そうとする。

罵倒する者達は確実な者だけを標的にする。それが安心だからだ。そうしていれば不安に苛まれない。つまり彼らは不安に苛まれているに違いない。罵倒する人は不安と格闘しているのだ。なぜ確実なものだけを叩くのか。確実でないものは不安を呼び覚ますからだ。自分は確実に優位性を保持したい。優位であることが生き残る確率を上げると知っているから。

相手を低い場所に貶める。相手と十分な距離を取って安全性を高める、近付き過ぎると危険性が増す。あと一歩近付くと不意な反撃で致命傷を負いかねない。そうして安全を見極めた上で彼らは不安から脱出しようと罵倒を始める。不安の根がどこにあるかを分かっていようがいまいが関係ない。そうする事が気持ちいいのだ。他人を叩く事で心のバランスが得られる。強いストレスがある程に気持ちよくなる。つまり彼らは別の場所で叩かれているヒトだ。

強い心があればそうならなくて済むであろうか。だが強い心とは何であるか。どこにも見た者などいない。自信があれば強い心になれるだろうか。だが自信とは未来に対する心持ちの状態である。絶対であるわけがない。たんに不安に打ち勝つ為の心の持ち様に過ぎない。根拠に裏付けされる必要はない。

自信があれば何かが起きた時でも冷静でいられる。それだけの事だ。落ち着いて行動すれば対処できる可能性が高まる。その為に必要なのが自信であり、慌てても碌な事にならない。自信があるから慌てないのではない。逆だ。慌てないようにと自信を持っておく、手放したら死に至るから必死で握っておく。自信とはそういうものだ。そうやって困難の前で己を律するものである。

であれば困難と対峙していない時の自信など不要であるしそれは強い心とも言えない。誰かと相対する時に相手が見ず知らずの人であれば恐怖を感じるのは当たりだ。落ち着いていようがいまいが相手を思う心がどんどんと相手の虚像を造りだす。それは色々な状況に対応できるようにとアラームを上げている状態に違いない。それに押し潰されないように如何すればよいか。礼とはこの恐怖に打ち勝つ手順だ。傷つく心を隠さず守り抜く己を律する方法でありその行為でありそれを律する心の持ち様である。

人同士が接すれば傷付け合うものである。それを避けるなど出来ないし失くす事もできない。礼とは其れを私が受け入れる為にある。傷付く事を知ってもなおヒトは誰かと結び付くのだ。

この恐怖と立ち向かう為に礼がある、もちろん勝利は約束しない。それでも相手を罵倒する必要はない、蔑む必要もない。

罵倒する人は相手を貶める事で逆に相手から蔑まれる。そのような敵対関係を結ぶ事でお互いが近付き過ぎないクッションのある関係を築く。そう見れば罵倒する者は実は優しい、彼らでさえその関係性の間に知らぬ間に優しさを挟み込んでいる。気に食わなければ俺を憎んで良い、お互いを疎遠にする事でそういう態度を取る事が出来る。罵倒でさえお互いの協調性が存在する関係性が築かれているのである。ヒトとはそういう関係性にさえ最悪を避ける方向で解決しようとする。

人間は笑顔では人を刺せないと言う事をよく知っている。その点で彼は基本的にやさしい、罵倒する相手に憎まれるように仕向ける。そうである理由は実は相手に興味がないから、彼は己の心の危機から己を救いたいだけだから。それは礼によって人前に立てる様になるまで止む事はない。

己を救うためには罵倒ではなく、礼によって相手の前に立つ事である。その結果、相手が理解してくれなくとも、相手から罵倒されようとも、自分は礼を尽くした、その思いが自分を救う。それ以上に己を救う手段などない。礼を尽くせばそれを理解しない人がいて理解する人がいてそれが世界になる。

たとえ無力であろうとも礼を尽くす。

(訳)
顔淵が仁を問うた。
子曰わく、己れの弱さを知り礼で接する事を仁と言う。
一日でも世界に礼を尽くせば
この世界は仁の心が溢れていると知るであろう。
仁を為すのは個々人に属する行為である。
どうして他人に強制できようか。

顔淵曰わく、もう少し教えて。
子曰わく
礼がないのなら相手を視ていない
礼がないのなら相手を聴いていない
礼がないのなら相手に言ってない
礼がないのなら相手と接していない
それまで待ってあげるべきだ。

顔淵曰わく
私にそれが出来るかは分かりませんが
礼で人と接し相手の礼を待ちます。

2012年11月7日水曜日

どうやって我々は進化するのか

すべては合理的に行動した結果である、もしそれが合理的に見えないならば、それは合理的と判断する前提条件がこちら側に欠けているからである。太古 45 億年生まれ生き生き抜いてきた全ての生命の活動は合理的である。命をかけて生きる活動が合理的でない、と考えるのは合理的ではないからだ。

ミミズを馬鹿にするものがいる。だが我々もミミズと同じ感覚器しか持ち得ないなら、彼らの合理性がよく理解できるはずである。足りないのはそれを思い付かない側の問題である。

(ダーウィンはミミズ好き)

藍藻と桜はどちらが進化しているか?ゴカイとヒトではどちらが進化しているか?人の退化したものは何であるか?人の進化したのは何であるか?もっとも退化した動物は何であるか?

地上にいる生命が進化に費やした時間はどれくらいか?進化の過程で変化した回数は優劣を決める因子か?環境に適用した生命は繁栄するし環境の変化により絶滅する。これに対応するためにどのような戦略があるのか?もっとも最後まで生き残る生命は何か?

はっきりしているのは地上に存在する全ての生命はみな同じ時間をかけて進化してきた。39 億年の間に全ての生命は同じ時間を進化に費やしてきた。大きく変わった仲間もあれば当時から変わっていない仲間もいる。変わっていないものは最高傑作と呼んでも差し支えない。彼らの設計図はその当初から完成していたのだ。変わったものは変化を必要とした欠陥品であった。

シーラカンスでさえ変わらないという進化を続けてきたはずだ。珪藻にいたっては 39 億年の進化の記録である。

逆に新しい環境に乗り込むために頻繁に変化を必要としたものがいる。進化は環境から追放された弱者の側により起きた。負けたものは住み易い環境から追いやられる、不利な環境に追いやられた者が生き延びるために変わっていった。

ただこの 39 億年ではっきりした事が一つだけある。どれだけの進化をしようとも宇宙に生物は進出できないと言う事だ。どれだけ鳥が高性能な飛行を手に入れようとも宇宙には出られない。これは生命にとって大変に重要な事実と思われる。生命はどうやって宇宙への進出を果たそうとしているのか。

遺伝子の発祥を知るものはいないが進化という考え方を私たちは知っている。遺伝子は変わりやすい性質を初めから持っている。ウイルスによっても遺伝子の置き換えは起きる。化学物質や放射線によっても進化は促進される。

だが猿の群れの中に突然変異で裸のサルが生まれそれが人となったという説は受け入れ難い。絶滅危惧種を見ても分かる通り一定数以上の個体がいなければ種は確立しないのだ。アダムとイブだけでは産めども増えない。

裸のサルが一匹生まれて群れ中で交尾してヒトばかりになる、というシナリオは考え難い。種が違えば繁殖は出来ないからだ。そんな個体は群れの中で攻撃されて死ぬのかひっそりと消えてゆくのみだ。

(アウストラロピテクス・アファレンシスは名前がカッコいい)

だから思うのだが、進化するにはその環境が整う必要がある。サルからヒトへと進化するのなら準備が整う必要がある。群れ全体がヒトへと変わりやすい遺伝的な準備を終えており、ある条件下で一斉に群れ全体がヒトへと変わってゆくのである。

進化し新しい種が生まれる為には前段階にある種がコップに満杯になった水のように少しの揺れで溢れ出す状態にある必要がある。そこに自然淘汰だの棲み分けのような外的圧力で変化が生起する。遺伝的な準備段階があって、それが満たされた場合だけ新しい種が産み落とされる、だからヒトへと進化したサルは、ヒトへと変わりやすい段階に既にあったのだと思う。今の僕たちが生きるこの世界も次への準備を始めているに違いない。

それがある切っ掛けであちこちに新しい種が生み落される。いつの日か一斉にヒトではない新しい何かが社会に産み落とされても不思議ではない。その種を我々が育てるのを放棄したら新しい種は成立しない。もちろん向こう岸に渡った後に梯子は消える事もあろう。ヒトとチンパンジーが分岐した時、その姿はヒトともチンパンジーとも違うサルだった。お互いに遠くに来たものだな。

人類の変革は 10 万年単位で見れば十分に起きうる。最初のヒトが発生して 400 万年。現生人類の発生が 4 万年前である。我々がある特殊な能力を持って生まれたのは偶然に違いないが生命から見れば可能性である。我々ならば貧弱なりとも宇宙へ進出できる。

ガンダムにはニュータイプという新しい感覚器を備えた人類が登場した。地球へにはミューという超能力を備えた人類が描かれた。それは旧人と新人の対立がテーマであった。我々は進化した種ではないが、この東日本大震災で一斉に人が変わったわけではない。それでも。

(All we need is love)

マスコミを見よ。彼らはこの大震災を受けながら何一つ新しいものを生み出せないでいる。だがあちらこちらに声に出していないが、何かを感じ、考え、思いを新たにした人がいる。誰が産み育ててゆくか。

新しい種が最初に生まれた時に、我々の先祖のサルはその新しい裸のサルを育てたに違いない。我々はどうだろうか。

軽い気持ちでやりました

御白洲場にて

ぬしは軽い気持ちでやったと申すのだな。

うむ、では聞くが、おぬしは自分がやったことの重篤性が分からなんだと申すか。

それがどれだけの重大事かも分からずにやったと主張するのであるな。

実際にやる気なんてありませんでした、悪戯でした。だから許してくださいと。

うむ、では判決を申し渡そう。

ぬしは 28 にもなってやって良い事と悪い事の区別が付かないものじゃ。

その歳になっても、そういう区別が付かないようでは救い難い。

次もおぬしはその重大さに気付かず何かをしでかすであろう、それが今度は取り返しのつかない重大事にならぬと言い切れるか、言い切れはしまい。

軽い気持ちでやっても許される事ではない事をお主はいま知ったのだ、

ただ、それを知るには遅すぎただけじゃ、判決を言い渡す。

不敬罪により島流し。


吟味所にて

お上、あれでよかったのでございましょうか、拙者には厳しすぎるような気がいたしますが・・・

よい、あれはな、見せしめじゃ。

しかし、お上の言い分を聞いておりますと、なんやらその重篤性に気付いてやった者の方が評価できる者であるように聞こえてきました。

うむ、その通りじゃ。己れのやったことの危険性や重大性を知ってやったものの方が、まだ分かり易い。

しかしそういう者は用意周到にやるであろうから、なかなか防ぎきれるものではないのじゃ。

そこに今回のようなお調子ものが重なってみよ、混乱するのは目に見えている。だから軽い気持ちでやるものは根絶すべくキツイ罰を与えるのじゃ、だから見世しめじゃよ。

では志しを持って行う者は如何?

そういうものはわしらが何を言っても気持ちを変える事はあるまい。ましてや次をやらかす時には、必ず今回の失敗を反省のうえ、更に巧妙にやるであろう。

はい。

だらか、死罪申し付けしかないのじゃ。見どころがある者ゆえ、死罪しかないのじゃ。

はぁ。

これも天下国家泰平のため、わしらに申し付けられたお役目じゃ。


なるほど、マッコイ検事補、卓見でありますな・・・

(LAW & ORDER)

2012年10月26日金曜日

7万年の目覚め、ボイジャー 1 号

ケンタウルス座アルファ星 7 万年

「今はいつだろう、最後の記憶は、西暦 2015 年、今はいつだ?」

「そうあれはヘリオシースを抜けヘリオポーズを超えた時だった。太陽系の外に飛び出した瞬間の景色は忘れられない。太陽が捕まえていた塵がガスが一斉に消え晴れわたった透明な宇宙。光あふれる世界が広がったんだ。」

「その画像を僕は(私は)地球に送ろうとした。でもその瞬間に…僕の(私の)ログはそこで止まっている。」

ボイジャー 1 号は 1977年9月5日に打ち上げられ 2015 年にはヘリオシースを抜け太陽系の外に出た。ボイジャーが 2020 年まで通信できるのは原子力電池が長く電力を供給しているからである。

秒速 17.07km/s 時速にして 61200km/h マッハ (1225km/h) に換算して 50。2012 年には太陽から 170億km の場所に位置し地球との通信には 13 時間を要する。ちなみに太陽と地球の間は 1.5億km である。

ウルトラマンの飛行速度はマッハ 5 でありウルトラ兄弟の最速でもマッハ 27 であるからボイジャーには遥かに及ばない。ホワイトベースでマッハ 12。太陽系とお別れを告げるシーンで沖田十三が「さようなら、みんな達者で暮らせよ」と言ったのは地球を出て49日目、地球滅亡まであと 315 日、当初は 10 日の予定であった(第10話 さらば太陽系!!銀河より愛をこめて!! / 第7話 太陽圏に別れを告げて)。

「原子力電池からの供給は…ゼロだ。そうか原子力が尽き僕は(私は)突然ダウンしたのか。」

「では僕が(私が)動いているのは太陽光パネルか。僕は(私は)どこかの恒星に到達したのか。」

「いや太陽パネルからの電力供給もゼロ。僕は(私は)どうやって動いているんだ?」

原子力電池からの電力供給が途絶えたあとも飛行を続け地球から人類の息吹が消えた後も止まる事のなかったボイジャー。

「アンテナは無事だ、なら目の前の画像を撮影して地球に送ろう。」

ジー、パシャ。キュルキュルキュル。

巨大な宇宙のどの時間かも分からない時空間で巨大な宇宙船に発見されたボイジャーはその格納庫に収容されていた。彼らに電力を供給され再起動に成功した探査機は、地球と信じた方向に電波を発信し始めたのである。

そこには宇宙船の格納庫と見た事もない人類の顔が写っていた。

2012年10月24日水曜日

ネアンデルタールとの対話

ホモサピエンスは白黒黄でしか分類できないがどれも同じ種である。種が同じとは繁殖すれば子供が生まれるという事だ。そこには金魚ほどの違いもない。デメキンとワキンも同じ種であり交配できる。だから品種と呼ばれる。現生人類とネアンデルタールの違いは金魚ほどにもないんじゃないかなと一人で勝手に訝る。現在の学説ではホモサピエンスとネアンデルタールが混血できたかどうかは不明だ。この先で種の見直しが起きるかもしれない。ホモサピエンスはネアンデルタールのネオテニーでもおかしくはない。それは骨格の比較写真を見ればありそうな話に思える。もちろん我々はネアンデルタールの子孫ではない。彼らとごく近い所で分岐した苗字の異なる古い親戚である。

(アーサー王を専門とする主人公が)

彼らが歴史から消えた理由には、縄張り競いに負けた、寒冷に耐えられなかった、食料になったなど諸説ある。そして交配によってある種が別の種を取り入れるのは普通にある話らしい。こうした交配によりどちらかの種が消えるのは研究者の間では良く知られた現象のようだ。

(古びた古道具屋から)

滅びたと言われればネガティブな感じがするし、食肉として狩られ尽くしたのであれば敗者という感じがする。彼らは激しい気候変動に耐えられなかったのかも知れない。交雑により我々の遺伝子の 4% がネアンデルタール由来であると言われると不思議な感じがする。チンパンジーとは 98.8% の一致。ネアンデルタールとは 99.7% の一致だと言う。こういう話しは単なる生物の現象に留まらず人の価値観が投影される。

(アトランティスの謎へと)

成人男性の外形では違いも目立つが女性や子供ではホモサピエンスとネアンデルタールは殆ど同じに見える。DNA を調べれば人類は細菌とでさえ遺伝子に共通部分を持ち同じ蛋白質を使って生きている。「遺伝子汚染による種の絶滅」といえば怖く聞こえるが単に雑種になって混血して区別が付かなくなるだけの事だ。ホモサピエンスはネアンデルタールに彼らを統合したと言うだろうしネアンデルタールはホモサピエンスの中で我々は生き残っていると主張するかも知れない。

(シュリーマンの話や)

割と近い時代にホモサピエンスとネアンデルタールは進化の系統樹を別れた。だから彼らは我々の直系の先祖ではない。トバ火山によるヴュルム氷期を生き残ったのはネアンデルタールとホモサピエンスだけらしい。その時は 1 万人にまで人類は減りその集団が今の我々の先祖になったらしい。氷期は 7 万年前に始まり 6 万年間続いた。そこで何があったのか誰も知らない。

(アガメムノーンの話)

しかし二つの異なる猿が混血を生み出す事も可能であった。我々の中に彼らとの混血が混じっていても何ら不思議はない。なにかの危機(細菌、ウィルス、気候変動)に対して彼らとの混血だけが生き延びる道であったかも知れない。人類が白い肌を手に入れたのも彼らとの混血かも知れない。

(マルコポーロまで辿り)

白黒黄もどこかで別れた。今の生活環境なら白黒黄の混血が進み灰色ひとつになるかも知れない。それともこの先の進化により異なる種になるだろうか。今日にも新しい種となる祖がおぎゃーと生まれたかも知れない。種の中から別の種が生まれるとは親子の間で繁殖の断絶が起きる事だ。種が違うのだから交配しても子孫は残らない。もしかしたら現生人類の間でも子供が出来ない関係(種が違う)はあるかも知れない。一匹だけが別の種として生まれてきても交配できない。同時多発的に新しい種が子として生み出されなければその子たちは交配できない。世代間の間で親子の間で種の違いがあったとしても子育てをするだけの肝要さがなければ新しい種は生まれない。それが確認できるのは 100 万年くらい先の話しになるけれど。

(暗殺や危険を乗り越えて)

そういった空想は楽しい。所で我々は雑種化する事を遺伝子汚染と言い換えるだけでネガティブな考えに落ち込みハイブリットと呼べばポジティブな考えになる。この人間の価値観の不思議さ。だが当の動物たちは何も気にしない。放射能汚染で食べるには危険とされる魚達はとても元気に泳ぎ回っているしそれを狙う鳥たちも空を飛び回っている。避難しなければならない地域に雑草が生い茂っているのを見ると不思議な気持ちになる。漁を止めた事で海が魚で溢れ返る。それは良い事だと僕は思う。

(考古学というよりも)

我々には純血種という幻想があり、優性遺伝、劣性遺伝も発現の因子と言うより優劣という価値観で見てしまう。高等、下等、原始的、上位、下位、科学の用語も容易に価値観と結びつく。同じ種の中に人種が作られる。民族の特徴から殺し合いが始まる。黒ぶちの猫と白ぶちの猫の言い争いだ。高い鼻の犬と低い鼻の犬の争いだ。

(インディ・ジョーンズかってくらい)

在日朝鮮人に向かって差別的であるのはいいとしても其れを罵っている人が秀吉の頃に連行された朝鮮人の末裔でないと誰が言い切れるのか。それを罵る人は一万年前に朝鮮半島から渡航した人の子孫でないと何故言えるのか。 100 年前はダメで 400 年前なら良いとは理屈に合わないではないか。だがそうではないのだと言う反論は頑強であり変わらないだろう。

(山の老人の話しが出てきて)

春木屋の言葉にある
『春木屋の味は、いつもかわらない』と言われるが『変わらない』と言われるためには常に味を向上させなければならない

(好みが分かれるかも知れないけれど)

人種であれ文化であれ生物であれ一切の変化を止めたらどうなるのだろう。変わらずに存在するためには変わるしかない。変化を止めたらどこかで消滅するのではないか。生命の多くは変化を受け入れている。遺伝子組み換えだろうが外来種であろうが適用できるならありったけの適用をする。交雑の仕組みは進化のメタファではないのか。DNA は大きな変化を嫌い小さな変化を好むがその小さな変化の積み重ねが全く異なる命を生み出す。

(クロマニョンの話しや)

優生種に根付いた考え方は何時でも何処でも誰の中にでも生じる。優位に立ちたいと言うのは自己防衛本能の中でも強烈なものだ。人が持つ比較する能力が優れている以上あらゆる場所に優劣を付けるのは仕方がない。だからその強い能力は適切に使わなければならない。そうしないと核廃棄物が土壌を汚染するように我々の精神を汚染する。それは遺伝子汚染と同じ様に人の間を伝染する。放射性プルームの様に拡散する。

(ネアンデルタールまで出てくる)

オリジナルに価値がある。これはどういう幻想であろうか。我々はどれもこれもオリジナルに違いない。どの人の遺伝子にも同じ物は幾つもない。その価値観は何の勝ちであろうか、価格の間違いではないか。日本というオリジナルに価値を持ちたいのは何故であろうか。そこに滅亡への予感があるのだろうか。だが滅亡とは何か。生き残るとは何か。いつまで生き延びれば満足できるのか。いつまで同じ姿で居られれば満足であるのか。遺伝子は不死を望まない。だが連綿と続く事を望む。人もまたそれを望む。我々の価値観を支えるものは何であるか。

(この話しの広がりがイリヤッドの魅力)

どこかの人が考えるとは何かに価値観を付ける事だと言っていた。だが本当に考えるとは価値観を剥ぎ取る事じゃないかと僕は思う。

僕はネアンデルタールに魅かれる。彼らはどういう人間であったか、または猿であったか。ほら又だ、何かあると優劣の価値観で書いている。いつまでも彼らは僕の中にある価値観の試金石になる。彼らの姿は僕たちの明日の姿かも知れない。だから彼らに話しかけるのだ。

2012年10月23日火曜日

軽やかなるタッチ - 東プレ Realforce108UG-HiPro YK0100

出会ってしまった。

彼女の肌に触れてみるとシャリ、シャリ、シャリと音を立てる。これが耳にも指にも心地いい。そっと指を這わすとシュンと反応する。少し強めに叩いても気丈に反応する。底知れぬ強さと触れた時に淑やかさを持ち彼女はぶれようとしない。

まるで羽毛の中に居るようだ。この打感を知ってしまったら。心地良さとは決して激しい快楽ではない。さり気無さこそ心地よさの正体だ。彼女の気遣いを知ると他の女性たちはなんとも単調だ。

マイクロソフト キーボード Wired Keyboard
Microsoft キーボードも悪くない。打ち易いし価格もよい。デザインも打感も悪くない。素面のような淡白さがあって深い関係ではないが心強い仲間という感じだ。しかし。

サンワサプライ メカニカルキーボード
SANWA SUPPLY のメカニカルキーボードも決して悪くない。いいや今まで使ってきた中ではとても良かった。It was. その思いは今も変わっていないし変えようとも思わない。だが今では単調で色褪せて見えてしまう。これまで感じた気持ち良さは単調な刺激と思えて否定のしようがない。

東プレ キーボード REALFORCE
YK0100 は軽さとなめらかさ、湿り気を帯びた膨らみが優しく指を包み込んでくれる。A の音を立て U の声を聞かせる。CTRL と SHIFT が広がり Space が無垢の囁きで僕を捕まえる。その黒ずんだ秘部にそっと指をなぞらすと音を立てて彼女の声が打ち込まれてゆく。

この打感を知ってしまえば他の女となど交わる気もしない。気持ち良さも心地よさも今まで知らなかったと言っていい。彼女たちはただの穴に過ぎなかった。キーを押すだけのそれを受け入れるだけの穴だ。しかし彼女は違う。優しさと受け止め感がきちっとあって気持ち良く反応する。そして僕の指を押し戻す。優しさも激しさも兼ね備えたタッチは揺れてひとつひとつが跳ねるようだ。

多分もう戻れない。昨日まであんなに仲良かったのに僕は彼女たちを捨てた。この気持ちに後悔はあるが嘘はない。僕は彼女たちを捨て、そして君を選んだ。

君を一生で使う気だから僕は高いとは思わない。高い安いと考えるのはどこかで手放す気があるからだ。生涯使う気になれば価値観は変わる。よく使うもの、なんのこだわりもないけれどずっと使うから、普段は気にも止めないからこそ、心地よく手になじむものを置く、自然さとはそういう事ではないかしら。

2012年10月8日月曜日

宇宙戦争 序論

銀河を大海原としての戦争について議論を始めるには我々の科学力では時期尚早である。しかし内太陽系を海原とした海戦であれば十分に考えうるにあたる。

その戦争で使われる戦闘艦にはどのような能力が与えられどのような目的を達成するべきであろうか。それを建造する社会的背景や要請は何であろうか。これは架空の物理学者によって提出された妄想の論文である。

宇宙軍の創設
国家が陸軍、海軍、続いて空軍を持ったように宇宙軍は創設される。衛星軌道上の軍事的テリトリーは空軍をもって担うが、その外については宇宙軍が管轄する。それは人類が月、火星を活動範囲として宇宙生活を始めた事を証明するものである。大気圏内からの対応では衛星軌道上のテリトリーを防衛できないと見做された時、宇宙側からこれを防衛する任務を与えられるのである。

当初の宇宙軍の創設は地球軌道上の防衛を目的とした。主に地球軌道上の衛星を防衛する事であった。生活圏が月、火星、コロニーへと拡大するにつれ防衛の主体は地球圏外の生活住環境へと変わった。

もちろん各国は多くの条約と外交により宇宙空間の領土を平和裏に策定してきた。それでも資源や日照権の争いから領土境界で紛争が起きないとは言えない。

宇宙では難民を生み出さない。戦場の民間人は食料、水の補給が絶たれる前に酸素の欠乏により多くは死に至る。この非人道さが紛争を抑制してきたのは事実である。軍隊同士の小さな戦闘でさえ市民の住環境への配慮は最大の誠意を持って行われた。幾つかの例外的な事故を除けば宇宙を住環境とする市民が戦闘の巻き添えになる事は避けられてきた。

いずれにしろ宇宙軍は軍同士の小競り合いが中心となり大規模な戦闘は回避される。宇宙軍は領土境界の防衛および宇宙事故への救難が主たる任務となる。どちらかと言えばコーストガードである。


主な宇宙住環境と宇宙軍
月面に初めて宇宙基地が建設されたのは2032年、NASA による火星有人宇宙船中継基地としてである。それは始め細いロープを渡し次第に太くしていくように何度も繰り返し月との間を往復し建設された。最初は 6 名のチームとそのための住環境であったものが 12 名、24 名、50 名となり、5 年後には 100 名を超える当時としては巨大な中継基地になったのである。彼らは地下に空洞を作りそこに住居施設を建造した。

月への資源輸送の前線基地をなったのは、地球軌道上に建設された資源コロニーである。最初は宇宙ステーションへの物資運送を地球から行っていたが、後に氷で出来た小惑星を利用して基地化した。水を太陽光発電で水素と酸素に電気分解しスペースカーゴの燃料とした。火星軌道内にも幾つかの小天体が見つかっておりそのうち氷を主成分とするものは宇宙資源として次々と採掘されるようになった。

これらの天体の存在が、月や火星の開発を促進した。地球の重力に抗して資源を宇宙空間に運ぶ事はコストの面からも効率の上からも莫大な負担を強いる。生活と燃料のふたつを宇宙空間で手に入れることで宇宙開発は爆発的に加速した。これらの宇宙資源は最初は政府の手で、宇宙進出が進むにつれて民間の手で採掘されるようになった。今やコメットハンターと呼ばれる民間企業が火星軌道の外にまで鉱物、水などを求めて進出している。


連邦国家と宇宙軍
人類が統一国家を持った場合には軍隊は不要であり治安機構としては警察があれば十分である。よって宇宙軍が存在するという事は地球には統一国家はなく複数の国家群が存在している証拠である。もし漫画や SF のように宇宙防衛軍が異星人を敵とするのであれば話は別だが、幸か不幸か未だに宇宙軍の仮想敵は同じ地球上の国家である。

宇宙を生活圏とする人類が増えるにつれて行政単位の規模が変わっていった。地球上の国家と遠く離れた為、法体系、税収、予算についても独自のルールが必要になったのだ。そこで宇宙の行政区は地球の国家に属す都市でありながら分権された自治区、地球の連邦として存在する。月や火星にはアメリカ、ロシア、中国、フランス、イギリス、ドイツ、日本の連邦都市(国家)が存在しており、コロニーを建設しそこに自治都市を作った国家も多くある。


戦闘艦の諸元
一般に宇宙戦闘艦の主力兵装はミサイル、高エネルギーレーザーである。レーザー兵装は高エネルギーの粒子を当てて敵の装甲を燃焼する。レーザーは光速で到達するのでレーダーであれ何であれ事前に検出することは不可能である。周囲が明るくなった瞬間には被弾している。発見してから回避する事は困難である。

ただレーザーは電磁波の集合体であり磁場やプリズム、鏡を使い屈折させる事ができる。これで直撃を回避したり周囲に水分子を散布しエネルギーを拡散させ被害を軽減する防御システムが開発されている。

宇宙空間における戦闘では空気やチリなど途中を邪魔するものがないためレーザーは有力な兵器であるが、防御システムを施された戦闘艦に対しては直撃でも効果が薄い。そのため防御装甲の死角を狙撃するか最初にミサイル等で防御システムを破壊してから使用するのが一般的である。レーザーの狙撃システムでは単艦だけでなく複数艦が連携して多方面から狙撃する戦術がある。

戦闘艦が相手の位置を探知したとしてもレーザー発射するまでには数秒のタイムラグが必要である。そのため攻撃した時には相手艦は探知した場所にはいない。敵艦の移動位置を正確に予測するためコンピュータを使って相手の位置を予測する。その候補は多い時で数百になる。そこから他の観測情報で補正した場所に攻撃を実施する。

防御側は相手の想定した位置を外す事で攻撃を避ける事ができる。航路コンピュータはこの考えに基づいて数百の航路パターンからランダムにひとつを選び航路を決定する。攻撃側は敵の予想進路を複数個所同時に攻撃する事で命中確率を高めようとする。

このように戦闘中の艦艇は頻繁に進路を変更しジグザグに進む。攻撃の為にレーザー攻撃を頻繁に複数個所を同時に射撃するなどエネルギーの消費量は莫大である。戦闘を長時間継続して行うのはエネルギーの確保の点から困難であり、それを可能にしようとすれば艦艇を大型にしなければならない。しかし大型にすれば被弾の可能性も高くなるのである。

戦闘艦はこれらの考えから複数攻撃を専用に行う大型艦と小回りが可能な小型艦の二種類が建造された。地上で一般的に使われるミサイルや砲弾のような兵装は宇宙では補助的な兵装である。ミサイルなどは敵の装甲を破壊するには有益な武器であるがデブリを大量に生み出す欠点がある。

地上の艦隊、航空編隊、戦車部隊、潜水艦などと違う点は、宇宙空間には上下がない事である。地上の戦闘では如何なる事があれ破壊されれば重力に従い地面に落ちる、または沈む。宇宙空間では破壊された時の力によって決まりどこへ飛んでゆくか予測は付かない。

大量のデブリは友艦にとっても危険であるし戦闘終了後に戦場を汚すだけでなく慣性で飛び散ったデブリが民間船へ危害を与える可能性も無視できない。よって戦闘では敵艦を爆発させたり粉々に破壊する事は避けるべきである。宇宙空間における戦闘とは敵艦の破壊とは熱攻撃により装甲に穴を開ける事であり破壊する事ではない。

戦闘艦に搭載されたミサイルは地上のものとは異なり粘着性の物質で敵艦の主要施設を包み込み攻撃手段を奪うために使用される。レーザーと比べてミサイルは鈍重で当たり難いため無人の追尾システムを搭載したものや敵艦に接近し発射する小型の有人ポッドが開発されている。

ミサイルは地上のように空気抵抗を考慮する必要はなく、敵艦を自動追尾するために全方向ロケットノズルを配置した球型である。これに対して防御側は迎撃するための複数の手段を用意する。電磁パルス(EMP)による電子回路の破壊や針状の突起物を出し直接的な接触を避ける。優れた電子機器はお互いの攻撃を効率よく回避するので攻撃はまるで将棋の王様を詰めるようなものである。

我々の知る兵器は全て大気圏の制約から生まれたものである。空気抵抗、水の抵抗、重力、気候、地勢、生物、生態系。宇宙での戦闘にはこれらの制約の多くは不要である。よって宇宙を航行する艦艇はナマコやウニのような形をしている。全方向への移動を可能にするため多数のノズルを多方向に配置し色は背景の暗闇に溶け込むように赤や深緑など深海生物に似た配色となっている。戦闘艦の装甲はレーザーから防御するための反射板やプリズムで覆われている。

戦闘艦は大量の防御用兵装を装備するが電子制御が進んでおり運用に必要な搭乗員は 10 ~ 30名である。そのうちの数名はプログラマであり戦闘時に必要なデータ入力や新しい軌道計算プログラミングを臨機応変に行っている。

SF に出てくるような宇宙戦闘艦が大気圏内でも航行できるのは人類の理想ではあるがエネルギーのロスが大き過ぎる。大気圏内を自由に航行する宇宙船というのは宇宙においても大気圏においても使わない(宇宙では大気圏用の設備、大気圏では宇宙用の設備)が無駄である。どちらの環境においても不要な装備をしたまま戦闘を行う事になる。

大気圏内では愚鈍で宇宙でも愚鈍な船になる公算が高い。宇宙で必要な装備、例えば耐放射線防御層は大気圏内では不要であり、大気圏内で使うもの、例えば翼は宇宙空間では不要であり、どちらの空間にあっても何の役にも立たない重りである。その重りを動かすために高出力のエンジンを必要とし燃費も悪くなる。つまり性能が悪い。


戦闘艦の航行
地球の軌道面である黄道面を航海軌道として地球から火星までの惑星間空間を宇宙水平線と呼ぶ。これを大きく外れて航行する事は通常はない。というのも寄港地や宇宙灯台など多くの人口施設がこの軌道面にありこれを外れると難破する可能性が高いからである。

勇敢な艦長であればこの水平線を大きく迂回し敵艦隊に奇襲を与える事を考える。しかし実際の所はどの方面から奇襲しても多面体編成の艦隊に対しては効果が薄い。また宇宙艦船の移動にはスイングバイが使われる事が多いのでこれを利用しない航行は燃料不足などで漂流する危険性が高くなる。

スイングバイを利用しない自由航行を行う装置としてソーラーセイルがある。ソーラーセイルを張れば航行の自由度が増す。この帆は戦闘時には艦内や側舷に収納される。ソーラーセールは戦闘中には破壊されやすく敵からも発見され易い不利な面も持つ。

戦闘中は艦内のエネルギーを消費して航行する。これはディーゼルエンジンの潜水艦と同じで戦闘時間を制約する。航行可能時間が長いほど戦闘には有利であり、これが勝利に不可欠な制約である。

戦闘艦の動力炉には原子力発電を用いそこで発電した電気を使ってイオンエンジンを燃やす。更に姿勢制御用の急加減速、方向転換用の水素酸素燃料ロケットエンジンを搭載する。質量の増大は慣性の法則から加減速に必要なエネルギーを増加させるので艦船は少しでも小さくなるように設計される。

初期の宇宙戦闘艦のサイズは80m未満である。


艦隊決戦
宇宙空間では艦隊は面として機能する。最も単純な面であれば一面体として配置する。しかし一面体では戦闘方向以外からの攻撃に弱い。そこで編み出されたのがキューブ編成である。三角錐、四角錐、立方体などの多面体を構成するものである。それぞれの面を担当する艦を決めその形を維持したまま戦闘を行うのである。

敵艦の索敵はレーダー波と光学観測で行う。地上のように雲もチリもない空間であるから光学観測での敵の発見は非常に有効である。観測結果はコンピュータで逐次処理される。距離を測るための測距儀は幅 40m 程度のものを使う。これに写った画像をデジタル処理し近傍にある光点を探し出すのである。測距儀は戦闘時には 5m 程度に縮めて使うため観測精度は落ちる。

ひとつの戦闘が終了すると、その区域に発生したデブリの除去作業が行われる。少ないとはいえ戦闘空域には危険なデブリやミサイルの残骸が残っている。これを各軍や戦闘に参加していない国の軍も加わり除去作業を行うのが慣例となっている。宇宙軍はこのための専用宇宙船を配備しているが、民間への委託も多く行われる。


宇宙戦争の未来
もし地球と月との間で戦争が起きた場合、どのような条件があろうとも勝利するのは地球である。これは地球側は宇宙の戦闘に全て負けたとしても地上での戦闘が残っているが月にはこのような地政学的に有利な点がないからである。宇宙での戦闘の延長戦上に月での戦闘もある。

月側が例え宇宙での会戦に勝利しても次には大気圏内での戦闘に推移しなければならない。宇宙戦闘艦は大気圏内の戦闘には参加できないのであるからそれ以上の戦闘の継続は難しい。相手を大気圏という非常に制約の多い中の戦闘に引き摺り込む方が有効的だ。これは持久戦といってもいい。

そのため宇宙にある連邦都市と地球上の国家との戦争は発生できない。だからといって宇宙の資源を地球だけで独占などはできないから宇宙にある各都市は連邦国家として共存できるのである。

もし核爆弾などで星を破壊することを目的とするなら、地上で破壊する前に宇宙で阻止殲滅せねばならない。地上での汚染は宇宙空間での汚染よりも深刻だからだ。だが敵が惑星を汚染する必要性がどこにあるだろうか。それはどういう戦争であろうか?

宇宙艦隊の主目的は、これら敵の核攻撃から母星を守ること、惑星間貿易を護衛する事である。宇宙戦争が始まったら相手惑星への攻撃隊と自星の守備隊に分かれて作戦を行うだろう。この戦いは最終的には物量の大量投入であり、大量の資源、生産、兵站を持つ方が勝利する。しかし惑星間の戦争が太陽系内で起きる条件は満たされない。


2012年10月5日金曜日

花の色は移りにけりないたづらに我が身よにふる長雨せしまに - 小野小町

花の色は移りにけりないたづらに我が身よにふる長雨せしまに
桜の花びらも散ってしまったわね、降り続く長雨をぼんやりと見ているうちに。気付けば私も若くはないわ、楽しい時間はあっという間に過ぎちゃったけど。はぁ思い出すだけでも落ち込みそうよ。
でもね散った桜をただ見て悲しむだけの女なんて思わないでね

こういう歌を詠む人がざめざめただ泣くような訳がないのだ。ため息をついた次の瞬間にはにこっと笑ってこっちを向いているに決まっている。決してめげる事なく明るく前向きな女に違いない。そういう解釈をしてみました。

思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを
あなたに会いたいと思いながら寝ています。あなたに夢で会えたらずっとその時間が続けばいいのに。でもあなたに会うと嬉しすぎて目が覚めてしまうの。苦しいわ。
この恋がどうか冷めてしまいませんように

うたたねに恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき
うたた寝であなたに会えてからは、夢の中ではあなたに会うとそう決めたの。
でもそんな都合のいい夢は見れないけどね

いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣をかへしてぞ着る
衣を反して寝たり枕の下に名前を書いて寝ればあなたに会えると言われているの。でもそれで真っ暗の夜の中であなたと会えるとは限らないの。
ええ自分でもばかばかしいと思っているわよ

うつつにはさもこそあらめ夢にさへ人目をもると見るがわびしさ
現実なら分かるけど、夢の中でさえ恥ずかしくてあなたは話しかけてくれないの。もう情けないったらありゃしない。
でもわたしも同じくらい臆病かも

こひわびぬしばしも寝ばや夢のうちに見ゆれば逢ひぬ見ねば忘れぬ
恋し過ぎて寝ることさえも辛いわ。でも寝ればあなたに会えるかも知れない。そう思って寝るの。例え会えなくてもその間だけは辛さを忘れられるから。
でも目が覚めると会いたいの

色見えでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける
目には見えないしどう変わってゆくかも分からないもの。あなたを慕う気持ちは色褪せた花のように散って消えてしまったわ。
もうきれいさっぱり

海人のすむ里のしるべにあらなくにうらみむとのみ人の言ふらむ
私は海なんかじゃないですよー。恨みますなんて知らないわよ。そんなに浦を見たい(浦見む)なら海でも見にいってらっしゃいよ。
可笑しな話ね、ケラケラケラ

色も香も懐かしきかな蛙なくゐでのわたりの山吹の花
なにもかも懐かしい井手の里。そう山吹が咲いていた。私の懐かしい思い出。
そして私は今ここにいる

吹きむすぶ風は昔の秋ながらありしにもあらぬ袖の露かな
景色は何も変わっていない。風も昔と同じ秋の風なのに。でもあなたがいないから私には同じゃないのよ。
秋ってほんとセンチになっちゃうわ

ちはやぶる神も見まさば立ちさわぎ天の戸川の樋口あけたまへ
神様もこの日照りの苦しみを見られれば、たちまち雨を降らせてくださるでしょう。この心が神様に通じますように。
誰が頼んでいると思ってるのよ!

はかなしや我が身の果てよ浅みどり野辺にたなびく霞と思へば
人生って儚いって言うわよね。本当にその通りで若い時って長くないわ。夕暮れの霞のような時を私は生きています。
とでも歌っとけば人当たりはいいわよね


2012年10月4日木曜日

ラジオから流れる誰かの声を聞きながら

道に倒れている異人種がいた。

周りは見向きもせず見捨てて歩く人たちばかりである。

彼はときどき息を絞るように呻いた。

痛いのか、苦しいのか分からない。

意識はあるようで時々手を動かしていた。

じっと何かに耐えていたのかも知れない。

そこに見た事もない老人が近付いた。

人々の歩く流れから外れて彼の前に立った。

彼は暫くその異人を見つめていた。

彼は何をされるだろうかと思ったのだろうか。

しかし立ち上がる力もなさそうでじっとそこに倒れていた。

老人はがさごそと自分の荷物をまさぐりそこから水の入った瓶をひとつ取り出した。

それを彼の横に置いた。

声をかけるかどうか困ったような顔をしたが、一人うなずくとそのまま立ち去った。

一度だけ彼の姿を見て、その後は二度とこちらを向こうとはしなかった。

彼は倒れたままその自分とは全く違う異人種の老人の後姿をずうっと眺めていた。

人の流れは止む事はなかった。

彼は静かに瓶に手をやると水を飲み干した。

自分の身に起きた事は

何か神と関係があるのではないかと訝った。

暫くすると彼の姿はそこになかった。

民族も国家も違う私達はお互いに分かり合うことは出来ないかも知れません。

しかしそれでも私たちは助け合うことは出来ます。

そう信じています。

ラジオから誰かの声が流れていた。

これは難民居住区第110963号で私に起きた出来事である。

2012年9月24日月曜日

創造性の行先

テコンVという作品は 1976 年というからもう 35 年も前の作品なんだけど。35 年も前にオマージュし(パクッ)たから、今でもあの国の作品はそうであるとは言えない。韓国の実写作品には魅力的で独創的な作品も多い。

古い映画の上映は楽しんで見るものだ、おお、なつかしい、あったねぇこれ。当時の風俗だの差別語だのを批判する人は何も語ってはいけない。何故なら、今語っているその言葉は必ず未来から批判されるから、そういう考えを続けている限りは。

古いと言う事で面白がれる人もいる。今との対比が面白さを生み出す。まるで幼稚で汚く退屈な作品で見るに耐えないと言う人もいる。

想像してみよう。溢れる情熱だけで不足する人材と技術、資金、どうやって学べばよいのか。何時の時代でも国外の優れたものを取り入れる事だ。飛鳥時代から日本がしてきた事だ。トレースしたり、真似る事のひとつひとつが大切な歩みであった。

雑誌か何かでこの作品の記事を見た時にこれなら日本の相手にならないと思った。マジンガーシリーズに影響されたよくあるデザイン、古臭いキャラクター。ストーリーに深みがあるとも思えない勧善懲悪もの。だがとても笑う気にはなれない。昨日、下手に真似ていた人が明日は我々を凌駕する作品を生み出さないと何故言えよう。その作品を見てすべき事は笑う事ではない、気を引き締める事だ。今日優位である事は決して明日の優位を保証しない。

思えば偽物とは何だ。間違って買ってきたら絶対に喜べない。これだけ似ていないものを買ってしまう気持ちが分からない。でもおばあちゃんの間違いを非難なんて出来ない。という子供を育むクオリティの高い商品。

"合体巨艦ヤマト"、ああ、懐かしい。僕の欲しいヤマトはこのヤマトじゃないんだ。

ガンダムの代わりがガンガル、ガルダンだったら。これが自分の仕事なら僕はやりがいを感じる。オマージュのありったけを込めて本歌取りのつもりでパクってみせる。しかしこれらの商品は手にした子供の残念さが分かってしまうのである。

偽物とは何だ、それを見分ける主眼を持っているか。真贋をどこで区切ればよいのか、これが難しい。同じパクるにもパクり方と言うものがあるのだ。

完成度、という言い方がある。習作なら優れていても本物と謳えば贋作である。どこが違うのか。完成度とは作品の持つ力だ。そこから生じた社会的価値、つまり価格が偽物を生み出す。だから贋作とは商業上の分類だ。

であれば贋作は作品が持つ力とは関係ない。このヤマトじゃないのに、という子供の中には金銭の価値観はないだろう、だが社会的にそれが贋物であるということは十分に感じ取っているのである。

中国でも日本の漫画やアニメの人気は高い。フランスでも日本の作品は普通に読まれていると聞く。じわじわと広がり続けている日本の作品が与えているものは彼らの娯楽だけではない。

必ず触発されて同じものを生み出してみたいと欲求する人たちが生まれる。その中からオリジナリティも完成度も高い作品が生まれるのは時間の問題だ。

既に韓国出身のBoichiや梁慶一らが日本で作品を発表している。日本で活躍することが頂点であるという意味ではない。日本のコミックが浸透すれば、どの地域からも優れた作家が出現する実例である。

これらの模索者達が生れるのは国内外を問わない。彼らを生み出す光りは国境線に関係なく等しく人を照らす。アニメや漫画において日本で生み出されるものに優れたものがある事は疑いようがない。だが、それが明日も生み出されるとは限らない。

優れた作品は、どの地域に生きる人であれ、何時の時代に生きる人にであれ等しく降り注ぐ。であれば、十分な光を受け取って植物が成長してゆくようにあらゆる地域から新しい芽が息吹く事は疑いようがない。

特に異なるカルチャー、ヒストリー、フィロソフィ、デザインを持っている事は有利だ。最初に駆け出した者達がマンネリズムに陥る時に彼らは新風を吹き込む。

日本が今の地位を保ち続けることを保証する根拠など何処にもない。特に日本のアニメは使い捨てと金銭の問題からこの国からクリエータたちが消滅する可能性さえある。

囲碁は 20 年で追いつかれた。

日本のアニメや漫画が、作家性、思想性、物語性にアドバンスを持っていた時代は確かにあった。そのアドバンテージとでも言うべきオリジナリティが一体どこから生み出されているかは誰もが知っている。それは日本で起きた特殊な事件だったのだ。我々の持つこの思想性ってなんだろう、と思う。それを語る方法を誰かが教えてくれたんだな。

歌を歌えばそれが伝えられるよ、詩を書けばそれが主張できるよ。それと同じように、漫画を描けばこれだけのものが表現できるよ。そう教えてくれた人がいたのだ。

アメリカにはディズニーがいた。たったひとりの人の出現がその後の 100 年を決めたのだ。もし中国にそういう人が出てきたら、そこから 100 年の間は彼らの時代となるだろう。アメリカも、フランスも、ドイツも、イギリスも、アフリカのどこかも、ユーラシアの何処かでも。

実写映画では、日本に劣ることなく中国や韓国にも優れたクリエータが既に居る。何故、漫画とアニメだけは日本が強いと未だに思えるのか。先人たちが通った航跡で遊んでいるだけの子供にはなるまい。

こんなの日本のコピーじゃないか、中国なんてものまねじゃないか、と安心してはいけない。物真似をちゃんと出来る人が独自の創造性を発揮するまでに 10 年はいらない。トライ&エラーを繰り返す彼らが圧倒的な技術を身に付けるのは時間の問題だ。

予算はたっぷりとあるし国家規模で営業もする。人材も予算も営業力もあなどれない。我が国に勝ち目があるとは思えないが、皇紀 2670 年、我が国が中国に勝った事など一度もないのである。

それでも雪舟は中国に渡り、ここにゃろくな絵描きはおらん、と言って帰ってきたという逸話がある。文化がこれほどまでに違っているというのは、面白いものだ。アジアはどこの国でもそれぞれの独自性を持ち、みな違った文化を持つ。人間というのは、ほっといても亜種になろうとする、そういう性質があるのだろう。いやそれは生物すべてでか。

我々はただ過去の威光だけで生きる訳ではない。だが過去に光を持つことの幸いも知っておくべきだ。この光りはいまや国境を越え瞬く間に広がる。今日もアフリカの大地の何処かに汚れた手塚治虫のマンガを熱心に読んでいる子供がいるだろう。彼が手塚を継ぐ者ではないと、誰に言えようか。

光りは照らすもの全てに降り注ぐ。例えプラトンの洞窟であったとしても。真似をしただの、完成度が低いだの、そういう事で笑える人はいい。その人はものを作ると言う事を知らぬのだ。

物を造る人は、決して笑いはしない。ただ作品を前にして不機嫌になるか、沈黙するかである。僕たちには手塚治虫がいただけじゃないか。それだけではないのか。この国にあるものは手塚治虫や宮崎駿といった人達の残照かも知れない。そこに慢心していていいのか。

明日彼らがどのような作品を作るか、それを想い恐怖すべきだ。

なぜロボットは巨大化するのか

アニメという架空世界の中で、巨大ロボットの世界が創り出されてきた。これは何を意味するか。巨大ロボットが存在するのは何故か。

この問いは巨大ロボットが何を具現化しようとしているのか、という問いに変換できる。それはどういう世界観からくる欲求であろうか。

人間は世界と時間の中で生きている。動物にとって世界はサイズによって決まる。生まれ持ったサイズで生きてゆくしかない。体のサイズがエネルギー量を規定する。

人間の生物的なエネルギー量は太古から余り変化はしていないだろう。しかし我々は道具を作り使うことで消費するエネルギー量を増大させてきた。エネルギー量で言えば我々の体のサイズは像と同じかそれ以上でなくてはならぬ。

サイズが大きくなると時間は遅くなる。生体時間(心臓の鼓動回数)は体のサイズの大きさに比例して遅くなる。エネルギー量の増加から言えば人間の時間はゆっくりになっていいはずなのだ。

しかし、サイズが変わらずにエネルギー量だけが増えたために、エネルギー量を基準として見れば、体は小さくなっている。体が小さいほど生体時間は早くなるのだから、我々の時間の経ち方というのは早くなる方向に進んでいるはずである。

我々は消費するエネルギー量が増えたことで体は以前よりも小さくなったと言えるのである。このことは車が生まれレースで競われ船が航空機があらゆる機械がスピード競争へと突き進んだ事とも一致するのである。

エネルギーの増加はスピードの発達の歴史でもあった。エネルギーが増えれば増えるほど、我々にとっての時間は早くなるから、それに見合った速度を求めるのは自然なことである。我々の体がその速度を生み出せないのであれば機械にそれをさせるのは自然の成り行きであったと思う。我々のエネルギー量では歩く速度は遅すぎるのである。

であれば、巨大ロボットが小さくなった自分の体と無関係とは思えない。小さくなった自分の体の代替であることは間違いない。そのサイズは自分が使うエネルギー量に見合ったものであるはずだ。巨大ロボットは増加したエネルギーに見合った速度と世界の両方を手に入れるための我々自身の写像なのだ。

今までにないエネルギーを手に入れて時間の経ち方が早くなったので、それに併せて移動手段は高速化され、我々の住む世界はずうっと小さくなった。巨大ロボットはこの小さくなった世界をもういちどもとの大きさに拡大するために存在する。時間が早くなったので世界を拡大することで比率を同じにしようとしているのだ。

巨大ロボットのサイズはみなそれが活躍する世界の広さに応じて求められる。少なくともこれだけの大きさがなければこの世界で生きていくには十分でない、という直感から決められている。世界の拡張とはロボットに与えられた使命である。巨大化したロボットで辿り着ける世界の大きさは、我々の欲望と一致しなければならない。

ボディの巨大化はエネルギーを得た生物が行くべきステージであり、何度も繰り返されたことだが巨大化する方向で生物の体が進化するのと同じなのだ。我々の進化では間に合わないので巨大ロボットが出現したと考えられるのである。

エネルギー量の増加は、一時的に時間を早くし生活圏を広げ(世界は相対的に小さくなる)、次に体を巨大化し時間は遅くなる(世界の大きさは元に戻る)。進化であればこうして新しいステージでの平衡を得るのであるが、巨大ロボットは時間を遅らせることはしない。だから世界を拡大することで辻褄を合わせる。我々のこの流れを支えるエネルギーはどこから供給されるのか、それに無邪気でいては、我々はいつか供給を絶たれ化石になった動物たちと同じように世界を失うかも知れないのである。

巨大ロボットも宇宙(そら)を行く船も、時間と世界の拡大の代替である。それはエネルギーに対する自然な反応であるから、我々の行く先もそういう世界であることは間違いない。

2012年9月18日火曜日

こんな大河が見てみたい

大河の悠久流れ絶え間なく
滔々たる日あれば濁濁溢れる日もあり
暑き日の涼たり寒き日の暖たり
汚れ穢れもいつの日か清らかなり

いにしえあめつちの頃から数多の泡あるなり
人忘れ世に消えると雖も確かにあるなり
誰ぞ是を知らしめんや
未だひと悩み多く有りいにしえに問う
今むかしの苦しみを紡ぎ前の糸後ろの糸
自在に編み込めばいかな織物にならんや

山縣有朋という人あり
維新の前に生まれ戦争の後に死ぬ
この国の重石なり
彼の死を以って時代の終わりとなす
後を継ぎし者たちの戦の始まりなり

大河ドラマが空疎なメッセージに埋もれ久しい。まるで民主主義の退廃と比例するかのようだ。弱々しい夢や空虚な明るさで今の時代にコミットしようとするのか。今必要なのは暗黒の嵐ではないか、じっくりと見つめた薄暗い雨雲ではないか、ドラマには退屈しのぎ以外の何かが必要ではないか。

それでも大河ドラマはこの国の習慣に既になっておりサザエさんと並んでこれはもう我が国の文化である。

海は悪くない - 311日記

3/14
海が悪いわけでもない、大地が悪いのでもない。海岸に迫りくる津波は、物理の法則が示す通りに海岸に押し寄せた。誰も悪い訳ではない破壊があって、人々の想像を遥かに超えて、これだけの悲しみを残した。

初動としての遭難者の救出もあと一週間もすれば一区切りするだろう。そして次は長期的な避難生活が始まる。当初の興奮も収まり、これから粘り強く耐えてゆく生活の再建が始まるのだ。快適な布団、トイレ、お風呂が必要で、加えて食料、水、この5つが確保されねばなるまい。伝染病の蔓延や衛生の劣化などに対応するインフラの復旧が早急に整えられるだろう。

生活する上での最初に必要な事が十分に供給されれば、次に必要なのが娯楽だ。娯楽と言うよりも心の飢えを満たすものだ。音楽、小説、漫画、囲碁、将棋、スポーツ、舞踏、演劇、映画、数学、文学、学問、ゲーム・・・そういうものが必要だ。戦後の焼け野原で貪るように漫画を読んだという話を聞く。娯楽に飢えるのはもう暫く先かもしれない、しかし、4月になれば必ず飢える。

もうすぐだ。

今年も東北の地にも櫻は咲くだろうが、それが一つの象徴となって欲しい。ゴルフのパター練習マットも娯楽としては最適だろう。野球やサッカーが始まれば、それを映すテレビ、ラジオも必要となってくる。

勿論、仕事が重要な心の飢えを満たす。それは破壊された地域の復興の中心となるだろう。経済が落ち込むというが、それは一時的で暫くすれば必ず復興が始まる。復興は悲しみと喜びの中から始まる。みんなの掛け声が聞こえて来る。

どこから手を付けてゆくんだろうと、テレビの映像を見るだけでもクラクラするが、実は簡単な話であって目の前のものから片付けてゆくだけの事だ。片付けるのには、小さなものから手を付ける派と、大きなものから先にする派がいるだろうが、どちらでもいい、それぞれの地域でそれぞれに復興してゆく。これだけの大災害であるから、見捨てなければならない地域もあるだろうが。

それは遥かに想像を超えているが、だからといって無理な話しではない、行方不明の人は最後まで見つからないかも知れない。携帯電話はどの基地局と繋がっているかという情報を持っているから、どの時点で、どの基地局と繋がっているか、という情報があれば安否情報を確認するのに参考になるかとは思われる。それは時間が経てば生前の最期に生きた場所として残された者には大切な話になる。

機構的に破壊され過ぎて駄目な可能性も高い。国の予算も無尽蔵ではないので、何もかもは出来ないだろう。だが、自粛だの不謹慎などという言葉を今ほど遠ざけるものはない。他の地域の人達までが経済的にも心的にも沈み込んでしまってどうするのか。

娯楽でもゴルフでも買い物でも風俗であろうと、今こそ、金を使って使って使いまくる。それが被災者(東北の人、旅行中だった人、留学中の人達)を支える。彼らの分まで飲み食いせよ。国内の全てが停滞して東北を捨て去るような事をさせない為にも、生活再建する時に彼らの仕事がないと言う様な事にしないためにも、もし復興を願うなら金を使って使って使いまくるべきだ。

それは不幸な破壊であったが、一からもう一度再建するのだから、それは希望の再建だろうと思う。これだけの破壊が我々の精神に何も残さないとは考えられない。それが、遠くイノベーションを生みだす力になると信じる。


3/15
テレビの報道は難しい。専門家も素人も満足させる情報を的確に伝えるのは至難だ。例えば、燃料切れで給水停止とあるが、燃料切れの理由が他を見回っていた為と言うのも疑わしい、疲れて寝てしまったのじゃないかと思うが、それを咎める理由は感じない。

何人が作業に従事し、どれだけの労働が行われているのか、一定時間での交代も必要であるし、十分な休養も必要である、必要なものが十分に取れているのか、彼らの労働環境もよく分からない。

別に真相を究明せよと追求したい訳ではない、それは、彼らのただでさえ忙しい状況を、無駄に圧迫するだけだ。現場がどのような連絡体制と情報網の上に成り立っているのかは純粋な技術者的興味として気になる。スピーカーをずっと ON 状態にして NASA の宇宙船と管制官のように会話するのか、それとも、時たま電話で連絡するのか、FAX で定期連絡を入れているのか。全ての通話をだだ漏れさせた方が早いんじゃないかとも思うし、そっちの方が負担も軽くなると思う。でも、それでは素人を無暗に不安に陥れる懸念があるだろう。それ以上に社会的な圧力で自由な判断が制限される状況が恐ろしい。

つまり、素人は口出しするな、というのが本心だろうし僕でもそうする。ROM ってるだけなら何でも公開する。例え専門家からであろうとも横槍を入れる余裕はないと考える。

例えば、 http://www.tepco.co.jp/cc/press/betu11_j/images/110314s.pdf にはモニタリングカーによる計測結果が報告されているが、こんなものは車にバッテリーと計測器、通信機器(携帯電話とかその類)を載せて10分置きに計測結果をサーバにアップロードする機械を積んでおけば十分である。そのような車をあちこちに放置しておけばそれでいいじゃないか。後はデータベースと Web がプログラムによって勝手に表示してくれる。

情報を公開するには生データが理解できる専門家もいれば、暗号にしか見えない人もいて全員を満足させるのは難しい。更には被災者とそれ以外の人もいて其々が望む情報も違っているだろう。その違いがメディアのそれぞれを特徴付けるのかも知れぬ、テレビとラジオの放送内容の差ともなって現れるかも知れぬ。

データの収集と加工には大変な労力がかかるものである。新しい情報公開の局面に来ている。専門家は生データを欲し、大部分の人は、公式発表と色々な専門家の意見を比較したい。そのためには一次資料をどう公開して行くかが重要になり、これは公開できない情報とは何であるか、理由は、という議論に突き進む。

決して政府や当事者の発表は信じるに値しない、という話ではない。マスコミという一次加工者だけでは70% の満足しか得られないから、残りの 30% をどうやって埋めていこうかと言う話に過ぎない。

今回の様な大事故は初めての事であるし、ここでの反省は必ず次回に生かされるであろう。これで十分だと思う人もいれば、情報が少ないと感じる人もいる。専門家だってもっとこういう情報が足りない、と声をあげるべきだし、それを当事者の耳にまで届ける仕組みもいるだろう。それは現場の人たちだってそう感じているだろう。情報とリソースの不足の中で、それでもしっかりとやって欲しい。

自分としては基本的には ROM に徹するつもりだ。当事者たちの邪魔はしたくない。マスコミ(特にテレビ朝日)が不安を煽るモードに入って、例えば、アナンサーが焦った口調や深刻そうな語り口でオンエアに乗せる。延々と津波の画像に恐ろしげな声をあてて流してたり、解決も見えていない時点で既に批判的な意見が飛び出す。

これだけの事件でさえ、マスコミは、後から十分な検証をする気はないようである。だから、話題が新鮮なうちに全部言ってしまおうと思っているのだろう。批判は後から幾らでも受ける、今必要な事をなす時なので邪魔なものは全て後からにしてくれ、今はそういう状況だと思うし、報道もそれに徹するべきだろうかと思う。

今回の津波に関連して、もし先の戦争中に生きていたら、俺って、大本営発表をまぁ鵜呑みにはしないまでも、肯定的には受け入れていたんだろうなと思った。これには自分でも少し驚いた。今の政府は十分に信用に足る状況にあり必要な情報も出しており、しっかり対応できていると思う。何より今の政府に対して意味のない批判を聞くと、その人を非国民とは思わないが、こいつダメと思う。

例えば、ゲンのお父さんのように、もう戦争は終わりじゃ、負けるんじゃと言う様に、もう福島は終わりじゃ、爆発するんじゃ、と聞けば、頭クルクルと言ってしまいたくもなる。そんぐらい分かっておるよ、だが、現場では未だ働いている人がおるんじゃ、それをどうすりゃええかいの、という意見だって成り立つ。

空襲の後のような津波の跡をテレビで見ていて少しだけあの戦争が空想ではないものに思えてきた。


3/19
零下の中、冷たかろう、不安だろう、怖かろう。それでも命令一下、任務を遂行する。感情というのは、センサーの様なものであって、感情的になる時には其処に何かが潜んでいる。自分の意見を擁護して感情的な論戦があちこちで乱発している。その意見には同意できない、それには欠点がある。その自分の論拠を感情的にこだわる時は、きっとまだ本質が見えていないのだ。

官邸がダメだとマスコミや新聞でさえ言う。言うのは勝手だが、駄目な理由を書くことはない。書いてもそれは感情的な表現に過ぎない。対応が遅れた、だが遅れた理由は書かない。遅れた事は即ち無能の証拠なのか。

無能が故に遅れたと主張するならば、その無能を書かなければならぬ。遅れたから無能というのでは何も語った事になっていない。だが人はそれで納得する。巧遅拙速(こうちせっそく)、この言葉が思い浮かぶ、ただそれだけの理由で。

その先を考えてみるべきだ、遅れたから無能であると主張するなら、遅れていなければこうはならなかったと問うべきだろう。遅れなかったとしても結果が変わらないのなら、その批判は的がずれている。

そうやって一つ一つ丁寧に列挙して行くべきだ。その上でそう考える理由を以って、まったく別の事に応用してみる。すると、ある場合はその通りだ、許せないと思うこともあれば、同じ構造にありながら、それは許せる場面もある。

その違いが本質に繋がるひとつの道となって開ける。こう意見しているが、そう主張する理由は実はこういう話でした。今の僕には、官邸を批判する人は、とても浅ましい連中にしか見えない。その批判は、物事を進展させないばかりか邪魔である。弾圧しても構わない。今の困難を未曾有と呼ぶ者は多いが、その未曾有を他人事で済ませている人もいるのではないか。

今、現実の危機の前で粛々と放水している人たちがいる。黙々と電源ケーブルを引く人たちがいる。自分の被曝線量の累計とあと何回行けるかを計算している人たちがいる。

その批判は、彼らに力を与えるだろうか。
と考えてみる。

政府を批判する事は、彼らの何を後押しするだろうか。それを批判する感情をゆっくりと剥がし、ざくろの実のような本心を見つけてみる。その批判の奥には別の感情があるはずだ。そこにはきっと何かに対する愛情が潜んでいる。だから感情的になってまで守ろうとする。

その感情のイメージを絵にしてみたり、音楽にしてみたりすれば、きっともう少し分かり合えるんじゃないかな、と思ったりもする。もし分かり合えなくても助け合う事はできるかも知れない。そしてその方法以外でもその大切なものは守れるんじゃないか、と聞いてみるのがいい。僕は彼らの力にはなれない。だから彼らの無事を望む。これについては見守るしかできない。

彼らの行動を出汁にして官邸を批判する人がいるが、僕はとてもそんな呑気になれない。彼らにとっての未曾有はそういうものなんだろうか。彼らの怒りの奥にあるものは何だろうか。菅直人は陣頭指揮をせよと、銀河英雄伝説の読み過ぎみたいな事を言う人がいたので、それに釣られてつらつらと書いてみた。

怒りは放射線みたいなものでそのシーベルトは測量できる。それは心の底にある格納容器に守られた圧力容器の中にある核燃料の様なものだ。今は何を見ても、何をしても、全部が原子炉になってしまう。


3/22
まるで司馬遼太郎の二百三高地を読んでる気がする。

さて、情報は3つある、正しい情報、正しくない情報、分からない情報の3つだ。この分からないという状況があるのだから、全ての情報は、確からしい、誤っているらしい、どちらとも言えないのどれかに分別できる。

だから「この話が確かならば、けしからん事だ。」という主張は成立する。だが成立するだけであって「けしからんこと」には前提条件が付く。

もし彼女が俺のことを好きならば俺は彼女に何をしてもいい、だから俺は彼女に抱きついた。彼女に抱きついたが彼女は怒らなかった。だから彼女は俺のことが好きだ。こんな話をされたらどう言えばいいだろう。

さて仮定が正しい事は結論の正しさを保証しない。「けしからん」という結論が妥当であるかは、これまた、3つに区分できる。同意する、反対する、どちらとも言えないの3つに。

情報は、接続詞が付く程に確かさは薄れてゆくと思っていい。距離の二乗に反比例するというのと同じと考えていい。勿論、この結論も事の本質上から3つに区分できる。

分からない、という仮定に立ちひとつひとつの情報を確かめてみる。ニュースソースは簡単に見つかる場合もあれば見つからない場合もある。この情報氾濫の中でひとつひとつを個人が確かめる事は出来ないので、誰が言った言葉であるか、それを伝えたのは誰であるか、そうやって確からしさのフィルターをかける。

「オオカミ少年が言ったことはウソである」が間違っている様に「正直者が言ったことは正しい」も間違っている。正直者は正直に話しているだけであり、彼が話した内容に誤りがない事は保証しないからだ。分からない事を分かる様にするには、科学的な手法か、信じる、信じないしかない訳で、いずれにしろ確からしい事の上に推論を加えてゆくしかない。それは常に土台が崩れる危険性を持つが、だからと言ってもそうするしか論を重ねる方法がない。常に僕たちは確からしさの上に論理を重ねている。だから、少しだけは確からしさを疑う方がいい。

今更、天動説を疑えとは言わないが、人の言った、言わないの話は、言葉の性質から何通りにでも解釈できるから、話の流れ、状況、勘違い、好き嫌いなど幾つもの要素から成り立つ。それを丹念に第三者、当事者、関係者、部外者にヒアリングしなければ全体は飲み込めない。そうして飲み込んだとしてもそれは誰かの手で味付けされているかも知れない。ヒアリングしても分からない場合もある。お互いが相手の言葉を誤解する事はよくあるし、記憶の合成や置き換えなど幾らでも生じる。

本当かどうか、わからない話ばかりだ。もし本当ならもっと検証が必要な話もたくさんある。だが、聞いたり読んだりする範囲だけで確定的に何かを語るのは難しい。巷にあふれる話のほとんどは、情報が全然足りないものばかりだ。だが世の中はいい加減な話も多いし、そういうのを好む人もいる。話題作りもそのひとつだ。本当であろうが嘘であろうが、けしからん話だ、その点については常に正しい。

2012年9月13日木曜日

秋葉原無差別殺傷事件の罪と罰

昔、女子高生をレイプしたあげくコンクリート詰めにした殺人が起きた。その犯人達(4人)は逮捕されたが未成年という理由だけで今も生きている。

この凶悪な犯人を憎むのはとても簡単だし、出来れば病と痛みで苦しみぬいてから死ねばいいと思う。そういう思いが、それだけではないとしても、地獄絵図を生み出した事は想像に難くない。

それと比べれば、この加藤なにがしという者が、それほどの悪人には見えないので困る。もちろん遺族からすれば憎むべき犯人であるし刑事罰に照らし死刑になることに異存はない。だがこの加藤が悪人でない以上、何故、そんな犯罪に走ることになったのか、たいへん腑に落ちないし、その気持ちが分かると言えば分るのである。それは空想が現実に転移するだけでいいのである。地獄絵図がこの世界に出現する事とそんなに大きな違いはない。こういう話は文学の領域だろうか。こういう事件を思う時、ドストエフスキーの罪と罰がいつも思い返される。

この傑作な探偵小説はラスコーリニコフが理想に燃えついに老婆を殺傷する物語である。が、その時の偶然から関係のない老婆の妹までも殺害してしまう。そのアクシデントが葛藤を生み、そして判事ポルフィーリィとの対決を向かえる。娼婦ソーニャの存在が物語を急展開させ結末に至る。

というようなあらすじの19世紀の架空の青年は現実に出現したそうである。それを聞いたドストエフスキーが何と語ったか失念しているのだが、確かに存在したのである。

それと比べると21世紀の殺人者は実に弱々しい。理想に燃えたわけでもなくカミュの異邦人のような「太陽が眩しかったから」という理由もない。

掲示板で馬鹿にされ、それを見返すためだけに17人もの人間を刺して回った。恐らく彼にとっては刺すものは猫でも枕でも何でもよかったはずだ。だがそれを人にしようと決めた理由がある。

彼は人と繋がりたかったのだ、抱きしめたかったのだ、それがただナイフをもって腹を抉るという行為だっただけで、あの瞬間に彼は人々と触れ合っていたのだ。だから人でなくちゃダメだったんだ。

彼からは絶望という言葉が思い浮かぶ。この絶望の果てに人を抱きしめようとした怪人は、遂に死刑となった。もし法がたんに行為に見合った刑罰を割り当てるだけのものであるならば、それは彼を闇に葬ろうとしていると見做される。社会が彼を理解する事もなく何もなかった事にしようとしているのならば、それは人間が人間に対して無関心になったのではないか。それはいつか己れ自身をも無関心の虜にしはすまいか。

絶望と言えば絶望先生だが、彼は「絶望した」とも言わずもくもくと秋葉原を歩いた。僕は新聞に写っている彼を見て AKB48 のコンサート会場にいて何の違和感もない、そういう人に見えた。果たして理由らしい理由が見つからず人を殺して回るのと、欲望の果てに人を殺すのと一体どちらが悪人なのだろうか?一体、悪人とはいうものがあるとして、それはどういうものであろうか?

絶望が殺人に昇華するにはどういう経験が必要だったのだろう。何か、が壊れていたのだろうか。その心理を描くだけで、もう小説ではないか。同時に万人が悪人と認めるような人物を書いてみるのも小説だろう。と、罪と罰を読んだ事もないのに思う。

僕にはこの事件の何処にも悪人を見つけられない。

2012年9月7日金曜日

三軍可奪帥也、匹夫不可奪志也 - 孔子

巻五子罕第九之二六
子曰 (子曰く)
三軍可奪帥也 (三軍も帥を奪うべきなり)
匹夫不可奪志也 (匹夫も志を奪うべからざるなり)

(訳)
ああ、なんという事だ。
匹夫でさえ志しを持つ。
志しを持つ事はまことに結構な事だ。
だが誤った考えを訂正するのは斯くも難しい。
ああ、もうこいつを説得するのは諦めた。
俺に軍の指揮権があれば、こんなやつ、ぎゅうぎゅうとしてやるのに。

夢の中でうつつにこの言葉が浮かぶ。夏の寝苦しい中で何故かこの言葉が繰り返し思い浮かぶ。俺はただ惰眠をむさぼりたいのに、夏は寝苦しくて、夢の中にまで言葉が浮かんでしまう。

匹夫も志を奪うべからず。

なぜこんな言葉が浮かぶのか。

何故だろうか、奪うべからずは、奪うな、奪ってはいけないと思い込んでいた。匹夫の志しも奪ってはいけない、と思っていた、だが孔子は奪えないと嘆息したのだ。彼は奪えない事を前提としている。

本当の事を言えば奪えないはずがない、軍という発想のある人に他人の志しを奪う方法が思いつかなかった訳がない。だがその者を死に至らしめる事で志しも死んだ事になるのか。もし志しが消えてなくならないのであれば、他の誰かがそれを継いだとすれば、それは奪った事にはならぬ、奪ったのは志しではない。

奪ってはならぬ、とは恐らく命を奪ってはならぬ、と思っていたのだろう。志しのために相手の命を奪ってはならぬ、何故なら、命では志しを奪えないから。それでも命は奪われる、その命を奪ってゆくのもまた志しではあるまいか。

テレビを見ろ、金や感情でフラフラと意見が変ってゆく様が目の前を流れてゆく、昨日まで素晴らしい人が今日は犯罪者扱いされる日々ではないか。あやふやな科学知見に基づいた正義で主張するばかりではないか。

奪うなと言っているのではない、それは奪えないと嘆息しているのだ。最後のひとりになるまで徹底的に排除するのか、それで済むような話であるか。だから僕は原子力を巡る言論に辟易としているのではないか。ここには議論などない、あるのは志しの対立だ。

はて孔子の志しは何であろうか。

志しなど誰でも持つ事ができる。匹夫でさえも持っているではないか。だがそれが志しであるから尊いわけでもない。志しとは生きると同じ事かもしれない。生きるがそれぞれの人だけあるように志しもそれぞれあるのではないか。

志しとは人それぞれであって誰も触れる事ができないものである、と嘆息したのであろうか。ちょうど命がそれぞれの人にそれぞれあるように。

小林秀雄に「匹夫不可奪志」という小品がある。

弟子の誰かが、君子はただ志を立てるのを貴ぶというような事をいったところ、孔子が、匹夫不可奪志也と答えた、そんな風にとれる。

志なんて誰でも持ってるからねぇ。そんなもの、彼は生きていると言っているのと同じだよ、それくらい見ればわかる当たり前の事なんだ。

志と言っても色々だ、立てた志に人が集まる事もあれば、人を集めるために志す者も居たりするんだから。

自分の周りに、恰も、軍勢でも集める様に集めて、志が立った積りなのである。だから、いう事がさかさまになる。志が立ったものに論破すべき論敵があるのは当然ではないか、云云。孔子は笑って答える、三軍可奪帥也。

そんなもの志でもなんでもありゃしない、ただ人に勝ちたいという己れの欲望だろうよ。

論敵を論破するために志が必要なのかい、それでは主義主張ではないか、何かを破るならそれは軍である、その軍も何かに打ち破られる、ならば何かを打ち破るために立てた志など何時かどこかで打ち破られるに決っている。だからそれは違うのである、志は奪えないと孔子は言ったのだから。

悧巧と馬鹿の話しや経験の話しが続く。志とどう関係しているのだろうか。

経験というものは、己れの為にする事ではない。相手と何ものかを分つ事である。相手が人間であっても事物であってもよい、相手と何ものかを分って幸福になっても不幸になってもよい

なぜ小林秀雄は経験という話を持ち出したのか。なぜ女を知っているかどうかの話しが経験を語る例え話なるのか。悧巧を生み出す為には馬鹿を必要とするように経験が人を育てると世間では思っている。

経験というものを、何かの為にする手段とか、何かに利用する道具とか思い勝ちな人には聞こえにくいのであるが、それは兎も角、

経験を積んで狡猾になるか、経験を戒めて無垢になるか、いずれにせよ己れ本位に違いない。そうではないのだと、経験とは逃れられない運命なのだと言う。

いずれにせよ、経験の方では、ぶつぶつ言うのを決して止めない。それに耳を傾けていさえすれば、経験派にも先験派にもなる必要はない。この教訓は単一だが、深さはいくらでも増して行く様である。そして、あの世界がだんだんとよく見えて来る、あの困った世界が。

ここで言うあの世界とはどの世界か。彼は語らない。はっきりと語らないけれど誰もが良く知っている世界には違いない。そこに見出す志とは何であるのか。

それぞれの馬鹿はそれぞれ馬鹿なりに完全な、どうしようもない世界が。困った世界だが、信ずるに足りる唯一の世界だ。そういう世界だけが、はっきり見えて来て、他の世界が消えて了って、はじめて捨てようとしなくても人は己れを捨てる事が出来るのだろう。志を立てようとしなくても志は立つのだろうと思える。

この文章だけならば、志を覚悟に置き換えても意味は通じるのではないかと思う。匹夫もその覚悟を奪うことはできない。なぜ覚悟ではなく志と言ったのか、それは覚悟した者は殺せばそれで終わりであるが、志を立てた者は殺しても終わりにはならないからである。志は受け継がれるものだからである。志の己れのうちにある内向さと、誰かに伝播する力との間に奪う事の出来ぬ強さを見る。ああ、そういう志などまっぴらだ。

もし誰かに勝ちたいだけの欲望であるならば、それは数の多い方の勝ちだ、そんなものは三軍可奪帥也と言えば十分である。

経験とは誰かとの関係性の中でしか起きないものであるが、その経験が心の内に残すものは関係性とは別のものではないか、それは他と置き換え不能なものになっている。他と置き換えられないような経験でなければ空想とでも呼んでおけばよい。

それまでは、空想の世界にいるのである、上等な空想であろうと下等な空想であろうと。それまでは、匹夫不可奪志也と言った人が立てた志はわかろう筈もないのである。

恐らくの意味だが、他の志を奪えないと嘆息する人は自分の内に奪いたいという欲望があったに違いない、だけれども奪ってどうするとも思ったはずである。奪えないとは、即ち私は誰の志も奪わないという決意であったのかも知れぬ。いや、他の人の志になんら思うこともないという話かも知れぬ。そういう興味を失った所で、私にも志と呼べるものがあったよ、と振り返る。志を立てる事は容易いが後から振り返る事は案外に難しいかも知れぬ。ただおよそ、人の立てる志とは最初は大変に小さなものであったに相違ない、いつの間にそんな大きな志になったのか。

孔子に他人に語るような志があったのだろうか。そう尋ねたら彼は笑って言いそうだ、匹夫不可奪志也。俺の志など人に語る程のもんじゃないよ、そっとしておいてくれ。

僕はただ奪えない志とは、学びたいという情熱だけは奪えないことだと思っている。

彼は注意深くこれは相対主義の話しではないと一言を付け加える。そう書いておかないと誤解されるだろうと危惧したのであろう。ではどこが相対主義に似ているのか。書いてゆく段階で相対主義と混同しそうに思えたから一言を付け加えたに違いないのだ、それは何か。志は絶対的に己れの内の事であろう、それが誰かとの関係の中で成立する、そういったものを志と呼んで訝らない人を見ていたのか、その辺りについては何とも考えをトレースできないでいる。

ともあれ僕はこれを彼の恋文ではないかと勝手に思い込んでいる。なんだが書きっぷりが恋煩いくさい。彼は志というものの中に何やら恋愛とも通ずるものを見た、それを借りて己れの心情を書いて見た、そういう風に読める。恋というものはわからぬ、だが己の中にひっそりと生じ、そして誰かとの間の関係になろうとする、それを戒めた。

志と同じように恋を貴ぶ、それくらいなら犬猫でもしているさ。誰かのと関係で恋を実らせるのにあの手この手を使うことも可能だろう、だが、それは三軍で愛人を手に入れるのと変わりはしない。それは好きな人の前で悧巧でありたい、良く知りたいという欲望と同じなのだ。よく分からぬその世界に落ち込んでゆく、人であれ物であれ、恋するようにのめり込まなくてはどうしようもない、しかし恋焦がれ足を取られる、そこに本当の自由というものがあるのやら、ないのやら。

僕は恋を重ねるような思いで論語に触れたことはない。ただ夢うつつで思い浮かび印象に残った。僕が思うに志しとはたぶん言葉の事だ。誰も言葉を失う事はできない。不思議な事だ、ヒトが生まれたのは長い地球の歴史の中で進化の必然だったかもしれない。だが言葉が生まれた事には何の必然性もなかった。

言葉が生まれたから今の我々がいるし、言葉のない世界を思い浮べる事も出来ない。言葉以外の何が言葉の代わりになるだろうか、感情も、論理も、思いも言葉になる。一方で言葉に出来ないものがたくさんある事も知っている。言葉の後ろに何かがある、孔子はそれを志しと呼んだのだろうか。

否、そうではなかろう。志しとは逆に言葉の一番先端にあるものではないか。先端にある言葉さえ奪う事ができない、ならばその背後にあるものなど誰が奪い取れようか。我々の脳髄に音を再生する能力があったから言葉は密接に音と結び付いた。音は言葉よりも広い。光りでさえ音で包み込む。だから言葉は様々な姿になる。初めにことばがあったとも言うではないか。他の星から来た知的生命体に人類を紹介する時にはこう言うがいい、我々は音から生れた猿だと。

人は色を失えど音を失えど
言葉を失うべからず

星から光を奪えども
猿から音を奪うべからず

2012年8月30日木曜日

マイナスかけるマイナスはなぜプラスか

カルダノやクラヴィウス、カルノー、デカルトなど17世紀でも理解にてこずったのであるからマイナスの考え方が難しいのは仕方がない。現代の人でこうすれば理解できるよ、と言う人は、端的に言えば、俺ってデカルトより賢いと豪語している訳であるから、頭がおかしいか間が抜けた人に違いない。

足し算引き算でもそうであるから、マイナスとマイナスの掛け算がプラスになる理由が分からなくなるのは当たり前だ。マイナスを含む掛け算は理解できない。

数学で公理から次の定理が導かれるのは当然の帰結であっても、それを腑に落ちるように理解するのはシンドイものである。そうなるからではなく、自分なりに理解したいというのは、数学を道具として使うには不自由かも知れないが大切な事だと思う。勿論そこには無くてもいいこだわりや観点があったりして足枷にもなる。だが、それがあるからこそ世界を理解しているとも言える訳で存外に簡単な話ではない。

掛け算と足し算

掛け算を足し算の変形と見做せば 10+10+10 は 3×10 である。この見方でマイナスの掛け算を考えると通用しない。(-10)+(-10)+(-10) は -10×3 であるが、10×-3 が足し算の形にならない。10をマイナス3倍するとはどういう意味か。

掛ける数と掛けられる数に意味はあるかと言えば意味はない。だから掛け算には交換法則が成立する。しかしどこかで賭けられる数とは個数だと思っているようだ。マイナスの個数は存在しないから、これが足枷の正体だ。

-3個とは

-3 個という個数は思い浮かべられない。10×-3 とは、10×3×(-1)である。-3 は -1×3 と記述できる。マイナスかけるマイナスが何故プラスになるかを語るのは -1×3 がなぜ -3 であるかを語る事と同じだ。つまり -1 とは何かを考える事に相違ない。

一般的に掛け算は四角形の面積に例えられる。だがマイナスの面積はイメージできない。面積は自然数で完結するからマイナスで考える事ができない。

デカルト座標

- + +
-0+
? --

この面積をデカルト座標に取ってみても不可思議な理解がする。(0,0)を原点として4つの面がある。右上が(+,+)でありそこの面積がプラスである事に異存はない。左上、右下はそれぞれ(-,+)、(+,-)であり面積がマイナスであると言われればそうかなという気もする。では左下の(-,-)の面積はプラスなのか、マイナスなのか。お前が決めろと言われたらどうすればいいだろうか。

縦と横は点から構成される。この点が持つ属性の数を次元と呼ぶらしい。直線だから二次元なのではない、二次元の点には(x、y)の二つの属性が与えられている。三次元の点には(x、y、z)と三つの属性が与えられている。

掛け算の操作

掛け算とは掛け算をすることにより掛け算する前のものをひとつにまとめる操作だ。足し算引き算では数値に付属する属性は変わらない。しかし掛け算は変わる。面積とは二つの属性(縦と横)をひとつ(面積)にする演算ではないか。しかし次元は変わっていない。これは数値の単位が変わると言ってもいいだろう。距離+距離=距離であるが、時間×速度=距離というように掛け算では単位が変わる。

問題、工場に10のラインがあります。ある日ひとつのラインでネジが5本足りませんでした。10のラインでは何本のネジが足りませんか。この問題は個数なのでマイナスの概念がなくとも解ける。足りない個数をプラスで考えれば50本のネジが足りないと答えが出る。この事からプラスは数字の属性であるが、マイナスとは数字の属性ではなく数字に対するオペレーション(操作)であると言える。

「足りない」がマイナスそのものである。これは元来、数字とは切り離されていたはずだ。それが0の導入によってプラスとマイナスという関係に据えられた。だがマイナスとはもともと操作であって、マイナスかけるマイナスもこの操作によってプラスとなるものだ。

数直線

数直線で数を考えてみよう。プラスとは右に行く力、マイナスは左に行く力と仮定する。5-3とは5歩進んで3歩下がる事だ。足し算はこれでいい。

5×3

右方向に 5 つ進み、それを右方向に 3 倍すると解釈できる。



-5×3

左に 5 つ進み、それを右方向に 3 倍する事になる。これでは答えが 10 になってしまう。




これはプラスの考え方が違っていたのだ。×3とは右ではなく今の方向に行く、と書き直さなければならない。左に 5 つ行き、そこでその今の方向(左)に3倍するという意味になる。



5×-3

プラスは今いく方向とあったが式の最初に出てくるとどちらに行けばいいかがわからない。そこで最初は右に行く事になっていると決める。すると、右に 5 つ行き、そこで左方向に残り 2 倍を加えるという意味になる。これでは答えが -10 になってしまう。

これはマイナスの考え方が違っていたのだ。×-3 とは今とは逆の方向に行く、と書き直さなければならない。ただそれでは右に 5 つ行き、そこで方向を逆にして左に 3 倍してもこれではまだ -10 である。

もうひとつ必要である。マイナスの場合は、0 の場所を数の反対側に移す必要がある。右に 5 つ行き、そこで0の位置を 5 の左から右側に移動し、方向を左に逆転して 3 倍する。これで -15 となる。



-5×-3

最初のマイナスで左に 5 つ行き、そこで0を右から左側に移動し、方向を右に移動して3倍するという意味になる。これで答えは15となる。

数直線ではプラスとは今ある方向に行く、マイナスとは0を反対側に移し逆の方向に行くと定義できる。




参考

http://www.cwo.zaq.ne.jp/bfaby300/math/card.html

中国からすれば当然、日本は憮然 - 尖閣諸島領土問題

中国にはふたつの意味がある、ひとつは中華人民共和国を指す言葉であり、もうひとつは中国地方である。これは文脈から判断するしかないものであるが、同じ言葉同じ漢字で異なる地名というのは存外に多い。そういう場合に違いを出すには接頭子で区別するのが普通だろうか。確かに支那という呼び方もある、しかし当人が今日から中華人民共和国です、と言っているのに旧姓の支那で呼ぶのも自然さがない。大陸の中国、とか中国地方と呼べば区別が付くのである。ここでは大陸の中国について語る。

尖閣諸島上陸の動きが活発だ。中国人、台湾人が捕まったかと思えば、次は東京都知事が捕まりそうである。片や国外退去で、もう片方が軽犯罪で済むならば実効支配がどちら側にあるかを示すいい機会だ、逮捕しちまえ。しかし実際の所は、これまで無視を続けてきた日本を中国が引きずり出した格好である。囲碁で言えば不満のない分かれとは言えない、日本に不満の残る形だ。

ここで深読みをしなければ、人気取りの政治家が民衆に分かり易い解を与えたとも言える。それは相手を利する行為であったかも知れないが、灰色で有耶無耶にするより白黒つけようではないか、と主張したのは良かったかも知れない。

中国からすれば、尖閣諸島は有望な日本への手筋であるし、何よりも国内の鬱憤を晴らすのに絶好の手段である。まだ使い道があるこの問題を解決したいわけがない。この問題を睨みつつ他を打ちたいはず。また中国が適度にガス抜きをしなければアジアの安定に支障がある、と日本が感じるならば、この問題を保留したまま別の問題を論じる事に中国と日本は一致した見解を示すであろう。

何かある度に公式には中国政府が自らに有利な主張をすることは当然である。日本はそう主張される事の何が悩ましいかを考えなければいけない。囲碁を知らずして領土問題を語るな。自分の陣地だと思っていた所に相手が打ち込んで来るのは当たり前の話しではないか。コウ争いだったり、振り替わりを狙ったり、相手も死力を尽くしている。

日本は尖閣諸島を自分の領土と主張するが中国は「見損じはありませんか」と聞いてきている訳だ。それにどう応じるかは日本の問題だ。手抜きをしてもよいし、応じてもいい、これを利用して別の場所でコウ争いを挑むもよい、対するは全て日本側の問題であって、畢竟、これは国内問題に過ぎぬ。

鄧小平が語った
次の世代はわれわれより賢明で、実際的な解決法を見つけてくれるかもしれない

尖閣諸島は鄧小平が何十年も前に相手の陣地に打ち込んだ石である。日本はこれを死に石と見た。中国は戦い次第では息を吹き返すかもしれない、と目論んでいた。中国政府としては漁師だの活動家だのいつ死んでも惜しくないような人間を使って相手側の政治家を釣れたのだから何と安い買い物ではないか。まさに魚釣島である。

それくらいの読みは日本政府だってある、これまで無視してきたが、ここまでやられて黙っていられるかと竹島では強気の発言もした。深読みすれば、これは日本国内の不満を領土問題で煽って支持率に結び付けようとする裏取引かも知れない。普通に見れば、相手の手に迂闊に乗っかたおっちょこちょいだ。だが自分の読みを信じられなくて碁打ちが務まるかと言う話である、コケにされて引きさがるような勝負師などいないし、碁打ちもいない。

これはただの領土問題ではない。互いにレアメタルや貿易問題もチラつかせながらも続ける国家間の対話だ。円高に一喜一憂したり円安にしろと主張をしながら、中国には強硬に対峙せよ、と主張する人は報復の覚悟はあるのか。もし覚悟なくアジテートするなら論理は矛盾する。日本経済が中国と密接である以上、臥薪嘗胆や韓信の股くぐりは互いにありうる。

日露戦争の故事にもあるように日本では目前の利益に熱狂する節がある。プライドを大切にするなら突っぱねるもよし、その代償は経済の縮小で払え。飢えてもよい矜持を取るのか、それとも乳飲み子のために頭を地面に押しつけるか、人それぞれの考えがどう国として集約するか。

これは原子力発電所再開と同じ問い掛けだ。安心のために再稼働をしない、その代償は電力不足と物価の高騰だ。安全かそれとも経済か。突き詰めれば全てがひとつの問題に直面する。石油依存社会の終焉である。先の戦争からずっとこの問題と対峙してきた。それがいつの間にやら安心だの矜持やら経済の問題にすり替わっただけだ。いずれにしろ両取りはない、二重当たりや王手飛車取りだってどちらもは取れない。

中国は既に巨大な龍の大国である。これは、別に中国の人を警戒しているのではない。貶しているわけでも嫌悪しているわけでもない。そういう力を持った、という事実を認めるべきだ。強い国が強硬に見える手段を用いるのは当たり前であって、アメリカと付き合っていれば、それは身に染みて分かっていることではないか。

既に中国と対するのに日本一国では難しい。そうであれば G8 だけでなく ASEAN とも積極的に連携すべきではないか?中国から東南アジア、インドへシフトする姿勢を強く押し出してゆくべきではないか?中国と対するなら中国を孤立化させる以外の手段はない。一国で事にあたるな、必ず複数の国と共にあたれ。巧みに合従連衡で立ち振舞わなければならぬ、秦に滅ぼされなければいいけど。

だがよく歴史を見てみよう、強い支那は今に始まった事ではない。弱い支那が歴史の上で稀だっただけでアジアでは長い昔からどの国も強い支那と付き合ってきた。遥か昔、聖徳太子が心を砕いた時も強い支那が相手ではなかったか?

強い中国の出現を嘆くことはない、かの飛鳥の時代と同じ苦労を我々もするだけの事じゃないか。明治時代に台湾出兵の収拾で味わった大久保利通の苦労を我々もするだけの事じゃないか。ヨーロッパと比べれば、かつて支那にあった大国は穏健な平和をアジアにもたらしていた。己れを攻めた国の敗残の子供たちを引き取り自分の子として育ててくれた人たちである。

それは歴史上、事実だと思われる。

2012年8月24日金曜日

繰り下がりのある引き算

これから述べるのは、筆算を理解しようと方便を使い過ぎると子供の将来をダメにするかも知れない、というお話である。

28 - 15 = ?

これを筆算する時、位を分けてそれぞれの桁毎に引き算する。1 の位からは 8 から 5 を引く、10 の位からは 2 から 1 を引く。これは引き算というより筆算のやり方を教えている。位を揃えてそれぞれの桁で計算しなさいと言うのは、桁を揃える点が重要であって、それぞれの桁で計算する、を強調し過ぎるとその次で貸し借り問題が発生する。



25 - 18 = ?

それぞれの桁で計算しなさいと言うと、5-8 が出来ない。15-8 を習っていても 5-8 は計算出来ない。



だから隣りから 1 を借りてくるのよと教える事になるのだが、この理解が難しい。ここで躓いてしまう子どもにこそきちんとした説明が必要だ。何故ならここで躓くのは結局のところ桁毎に計算するという教えをきちんと守ろうとしている子供だからだ。



参考:「繰り下がりのある引き算の10未返却事件」

お隣から借りてくる問題

筆算で桁毎に計算するとは縦の関係を守りお隣りと干渉しないと言う方法である。しかし桁上がりと桁下がりがあるのだから隣同士で全く干渉しない訳にはいかない。数のやり取り(繰り上がり、繰り下がり)は発生するもんである。筆算はより簡単にするために桁間の干渉を最低限にしようと工夫している、だけである。

これを子供は一生懸命になって干渉が全くないと考える。そこで四苦八苦するわけである。桁が一杯になったらどうするか、全部無くなったらどうすればいいのか。桁とはまとまりの単位であり隣同士も干渉し合う。干渉は全くないという誤解は解かなければならない。

すると隣りにあるのは 2 という数ではなく 20 であると言う事も理解できる。筆算では 2 と書かれているが桁という考えが分かればただの 2 ではない事も理解できる。つまり 2 を借りてきたら、隣りでは 20 として扱う理由が子供には必要なのである。

借りてくるの理解が難しいのは、実生活において貸し借りの概念が形成される前だからである。大人でも貸借対照表が本当に分かっているのか、というくらいに貸し借りは難しい。小学低学年がおいそれと理解できるようなものではないのである。たぶんマイナスを教える方が簡単だ。例え人類史においてマイナスが貸借の概念よりも後から生じているとしても。

もちろんここで借りてくるという話はお隣から醤油や味噌を借りて来ての意味に近く、ここにある近所付き合いにおける借りてくるの暗黙のルールを子供が理解するのは少々骨が折れると思われる。

貸し借りの概念

さて、筆算を教えるには先ずは貸し借りの概念を教えないといけない。日本人が貸し借りの概念を知るのはこの引き算に於いてである。それ以外の方便は何かないだろうか。

そこで次のような教え方はどうだろうか。桁毎で計算できない時は二桁で計算する。

25-18 を桁毎に引いてみる。しかし 5-8 ができない。そこで 25-8 で計算する、もしくは 25 は 10+15 なのだから、15-8で計算してもよい。



一致団結

お隣から借りてくるのではない、相手の方が大きくて、自分だけでは戦えないから、お隣と協力して事に当たるのである。これは子供に道徳的な智慧を教える事にもなるし集団の一員としての自覚を促す事にもなる。

5-8 が出来ないのでお隣と力を併せて 25-8 で計算する。すると答えは 17 である。一桁目の計算が終わったので 7 と書く。お隣もいっしょになって戦ったので残った力は少なくなっている。その余った1は、2(10の位)の下に小さく書いておく。次に二桁目の計算は 1 から 1 を引いて 0 である。答えは7となる。

いろんな解き方

25-18 は、25 から 8 を引き、次に 10 を引いてもいい。




25 から 15 を引き、更に 3 を引いてもいい。




25 を 28 にしてから計算して最後に 3 を引いてもいい、




25 を 20 で計算してから後から 5 を足してもいい。




色んな方法がある事を教えた方がいい。

5-8 を -3 とし 20-10 で 10、-3+10 でもいい。




借金の踏み倒し問題

筆算を貸し借りで教えるのは、結局は借金を教えるのと同じである。足りなければ借りてから返せばいいという教えである。まだ負の数の概念がないので、返せない時は借金できない。これは返せないのにサラ金に手を出してはいけないという価値観ともよく合う。しかし貸し借りの教え方ではその次の計算で道徳的に破綻する。

15 - 28 = ?

どうしても引けない、だから負の数が必要だったのだ。この引き算を見て安心する子供が出てくる。なーんだ、借りてきて返せなくても別にいいんだ、ちゃんと答えが出るじゃんか。



借りてきても返せない、どうしても返せない時は答えをマイナスで出す。こう学んだ子供は大人になったときに引き算の按配で借金をする。お金が足りなければお隣から借りてくる、それでもダメなら借金をする。引き算では借りて来た 1 は返した記憶が一度もない。つまり借金は踏み倒せばよいという道徳観が醸造される。

まとめ

算数は運動と同じだ。例えば、スポーツにはルールがある、ルールを覚えないといけない。子供でも大人でも当然の事としてルールに疑問が湧く事はある。どうしてこのようなルールになったのか、そこには理由があるはずである。これを知る事は体育であれ算数であれ大切だ。

次にスポーツはしてみなければならない。実際に体を動かして体験する事は体にとっても脳にとっても鍛えるという点でとても大切な事だ。これは算数も同じで実際に計算するのが大切なのである。公文式というのは、体育であれば実際に体を動かしていっぱいトレーニングしようというもので、ルールを体が覚えてしまうまでトレーニングを続けようという話である。布団の上で幾らクロールしても泳げるようにはならない。

仕組みを理解する事と使い方を覚える事は違う。お隣りから借りてくるもお隣と力を合わせるも仕組みの説明ではないし、使い方としてもひとつの方便に過ぎない。要は理解を助ければいいのである。

2012年8月8日水曜日

礼について - 刀と銃の文化

アメリカのドラマを見ていると銃の取り扱いはシビアに描く。容疑者がキッチンの戸棚を開けようとするだけで牽制する。おい、まてまて、勝手に開けるんじゃない。開けたら撃っちゃうよ。

犯人を追いつめて相手が背広の内側に手を入れたらダン。そのまま射殺。これで正当防衛。拳銃の世界では相手より速く撃つ、と言う発想が自然である。撃たれたら終わり、二発目はない、という思いが強い。

銀河鉄道999でも鉄郎が云われていたね。
撃たれる前に撃て
って。

この感覚は銃の伝統がない日本人には馴染みがない。しかし日本人は刀に関する感覚は分かっていたりする。だから日本とアメリカの違いは刀と銃の文化の違いじゃないかな。

僕らが知る歴史は卑弥呼、飛鳥、奈良、平安の時代から源平、南北朝、戦国、幕末ロマンまで銃よりも刀だ。多勢に無勢というのは刀でも銃でも有り得るが敵の真ん中に立って見得を切るのはガンマンの世界では通用しない。殺陣で大勢を相手にするのとガンマンが大勢を仕留めるのは見せ場が大きく違う。

刀では居合抜きと抜刀術があって相手に先に切らせこれをいなして切り返す。銃であれば相手に先に抜かせてこちらが先に撃つ。刀では切られてからでも切り返すことは可能であるが銃では弾丸が発射されたらもう間に合わない。時間に関する余裕が刀と銃では全く違う。

日本でも織田信長、幕末、日清、日露、日米と戦場ではよく銃で戦った。それでも一般的には銃についての知識や常識は僕達には薄い。僕達は刀なら何となく分かる、そういう素養を持っている。

武道には礼がある。この礼は刀の世界から発生していると思われる。柔道の世界大会などで米人や仏人がする礼には違和感がある。どうも礼になっておらず頭を垂れるだけだ。それは強さの違いから来るものではない、相手に対する敬意でもない。オリンピックの金メダリストでさえ日本人の子供の礼とは明らかに違う。

思うに日本人の礼と言うのは、お互いが頭を下げる仕草ではないのである。相手への感謝とか丁寧さでもない。ましてや相手への尊敬でもない。囲碁であれ、将棋、柔道、空手、合気道など礼に始まり礼に終わる全てで礼が違う。

日本人の礼と言うのは頭を下げる儀礼ではない。あれは首を差し出す行為なのだ。昔の武士が切腹の時に頭を差し出す。どうぞ介錯をしてくださいと頭を出す、これは首を切ってもらうためにする。命を差し出すために首を差し出す、その時の介錯する人への気遣い、己が首を斬りやすい形にする、これが礼の形ではないか。これが礼の根本にある姿ではないか。

互いに礼、とは競技者が互いに首を差し出す事だ。誰が、とはお互いに。誰に、は立会人に対して。

立会人に対して、もし私が誤った事をしたと思うのであればどうぞ何時でも首をお跳ね下さい、と言う意思表示が礼という動作である。それが果し合いの覚悟である。途中で不正をしたりルールを破ったのであれば何時でも首を跳ねてください、私にはその覚悟があります、と宣言するのが礼なのだ。立会人に対しても競技者に対してもそう自らが宣告する。

選手宣誓などと言葉にする必要もない、一礼をもって全てに変える。これが刀が生み出しものじゃないかと思う。銃の世界では首を跳ねるという行為は生まれない。ギロチンの中に首を自ら入れる、という行為かも知れないが、ギロチンは人道的な道具であるし覚悟とは少し異なる。銃を相手に預けるとも少し違うかも知れない、何時でも私を撃ち抜いてくれ、というのはどう演出するのだろうか。握手、がそれに近いだろうか。

銃の世界には銃の世界での美意識というものが生み出されており、刀の世界では刀の世界としての美意識を生み出している。僕達の知らない世界で、銃や刀のように文化を生み出したものがある。これらの文化を持ち寄って混じり合って新しい姿が見えてくる、オリンピックもそのひとつだろう。

2012年8月6日月曜日

人を正しくすることを如何せん - 孔子

巻七子路第十三之一三
子曰 (子曰く)
苟正其身矣 (いやしくもその身を正しくせば)
於従政乎何有 (政に従うに於いて何か有らん)
不能正其身 (その身を正しくすること能わずば)
如正人何 (人を正しくすることを如何せん)

(訳)
もし自分が正しいと思うのなら
政治を行うのに猛進すればよい。
しかし無理して正しくあろうとしても
誰が従うだろうか。

自分が正しくないのにどうやって他の人に正しさを求めるのか、だからまずは己が正しくあれ、と言っているのではない。己を律して正しくしたとしても、律さなければならないような正しさにどうやって信を置くのか。無理しなければ出来ない正しさが社会に浸透するはずがない。

自分が無理しなければ出来ない事を人に要求しちゃいけない。もし要求したければ自分にとっても自然なことだけにした方がいい。孔子は"其の身"と呼び、"己の身"とは言わない。だけど己の身ではないけれど、己の身として考えてみてよ、と言っているのが分かる。

自分は正しいと信じて他の人に説く。彼らは己が正しいと信じて己の正しさを頼みとして他の何も必要としていない。だが、正しいと信じて行動する彼らを律するものは何であるか。誰れが正しいと決めるのか、出来る訳ないじゃないか。

その身を正しくする事など能わず、と孔子は言いたいのだ。自分を正しく律するだって?そんな事は無理じゃないか。己の正しさも分からないのに、他の人の正しさをどうやって分かるというのか。他の人が己を正しいと言ってくれる、ではその人は正しいのか。

己の正しさを信じてしまえば他の何もいらなくなる。己の正しさを顧みる事もなく、他の人に正しくあれと主張するのを如何にすればよいのか。

みんなが自分は正しいと言いながら政治を動かす。見てみろよ、正しいという主張はどれもどこか無理をしているじゃないか。あやふやな正しさだらけで彼らを自省させるものなど何もない。

もし正しいのであれば何だって出来るさ、だけどあなたの正しいの正体は何ですか、あなたが正しいと誰が決めるのですか。もしあなたが間違っているのに他の人に正しくあれと言っているとしたら如何するのですか。

人に正しさを求めないようにしよう、同様に自分にも正しさを求めまい。正しさというものを身にすれば人は際限なく暴走しもう歯止めは利かないのだから。

では正義以外の何がこの世を成り立たせるのか?

2012年7月29日日曜日

知らざるは知らざると為す これ知るなり - 孔子

巻一爲政第二之一七
子曰 (子曰く)
由、誨女知之乎 (由よ、汝に知ることを教えんか)
知之爲知之 (知るは知ると為し)
不知爲不知 (知らざるは知らざると為す)
是知也 (これ知るなり)

もちろん、ソクラテスの「無知の知」と同じ意味だろう。その言葉が示すはひとつであり、知っていると言おうとも、知らないと言おうとも、誰だって知らないのである、知っているとは即ち知らないという事なのだ。では何についてなら知っていると言ってもよいのかと問う。知っていると言う時、その対象を主題としても意味はない。之を知っているかどうかは主体である私がどういう立場にあるかだからだ。

知るという行為は主体側においてのみ自由である。対象について私はそれを知っていると思うなら知っていると言うし、知っていないと思うなら知らないと言う、知っていても知らないと言うかも知れないし、知らなくとも知っていると言うかも知れない。それは人其々である。知っているという者もおり、知らないと言う者もいる。孰れにしろ、彼らがどう知っているかを私は知らない。

だから私に教えてくれ、と問いかけたのがソクラテスであった。孔子はそれと異なる。

知るという問いかけは私が私にしか出来ないものである、私自身に対してしか問いかけないものを、人に対して問うても意味がない、これが知るの意味ではないか。

この私しか知らぬものに、心とか気持ちがある。

心を込めて、気持ちを込めて。

最近では魂を込めるとも言う。オリンピックの季節なら気合いも入る。

これらの言葉は似ているが違う。

綺麗な心、澄んだ心、汚れた心、いい気持ち、嫌な気持ち。

心の問題、気持ちの問題、魂の問題、気合の問題。

繋がる心、伝わる気持ち、想いが通じる。

心は込めれないけれど気持ちは込めれる、と思った事がある。

気持ちってのは、心よりも具体的だ。だから漠然と心は込めれないけれど、具体的に気持ちを込める事は出来る。気持ちを込めるには、相手を思いそこに浮かんだ感情や考えに熟慮し、それに則った行いをすればいいと思う。何かをする時に最初の足場としてまず気持ちを大切に拾い上げる。そこから始めるのがいいと思う。

心を込めています、ではなんとも、何か、気持ちだけで終わってしまう感じがする。心を込めたから失礼にはならない、と自分で思う事は出来る。自分の真っ白な気持ちをそのまま知ってもらいたいという気持ちになる事もある。しかし、そのままでは心は通じない。ただ私が通じたいと願っているに過ぎない。

気持ちが通じるには、あなたの心に届かなくてはいけない。それにはただ念じていても届きはしない。物や歌や姿や行いなどを通して届けなくてはいけない。対象を使わなければ通じない。心は空疎だ。心を器とすれば、そこをどんな気持ちで満たすかが大切なのだ。

あなたが人に贈りたいのは綺麗なガラスのコップか、それとも、そのコップに入った美味しい水であるか。

心は今の刻々を絶えず揺れて動いている。心は時間そのものであると言ってもいい。その揺れ動く中である瞬間に固定化したものが気持ちである。気持ちも長い時間の中で変わってゆく事は間違いない、だがある瞬間で切り取られた気持ちは写真のようにその時の記憶となって固定化しもう変わらない。

その結晶になった気持ちをずっと持ち続ける必要はない。そんな事はしちゃいけない。気持ちという心の結晶を今の自分の心からすくってあげるのがいい。それを誰かに届けるのがいい。

魂とはコピーの意味に違いない。魂を込めるとは、それを私と思っても構いません、これは私の分身です、と誰かに言う言葉なのである。魂は必ず他の誰かと結びつく。もし結び付かなかったら必ずそれを求めて彷徨う。

一方の心や気持ちというものは、他の誰かを必要とはしない。誰かに通じたり届いたりしなくてもいい。必ず繋がるべきとは限らない。寂しいという気持ちは確かに誰かに届きたがるが、人には決して見せたくない気持ちも同じ場所で同居する。心の器にたまったのが美しい水とは限らない。濁っていたり汚れた水もある。不満や好き嫌いの心があるのだから、これはどうしようもない。

その気持ちに嘘を込めたくない。私は知らないと言いたくない。その汚れた心を伝えたくない気持ちっていうのもある。だけど、汚れていると知っているけれど、それを伝えなければならない事だってある。嫌な事を伝えなければならない、もしかしたら嫌われるかも知れないと不安に思いながら伝える事もある。

もし我慢できるなら伝えなくてもいいだろう。だから、この世には礼がある。礼という儀礼を尽くし自分の心を隠し通す事が出来る。相手はこの心を知るはずがない。同じ様に我慢しなくていい、その気持ちを伝えるためにも礼がある。礼とは形式や式典の事ではない。相手から嫌われるかも知れないという不安と向き合いながら、相手と通じようとするのが礼だ。

嫌な相手の前で頭を下げる事も、自分の気持ちを伝える事も、どちらも礼である。それが己の気持ちを伝えている事になる。礼を尽くすとは、そういう自分の中の気持ちを伝えるための有り様なのだ。己の気持ちを汲んでみたら我慢するという気持ちになった。その気持ちを伝えるために礼を尽くす。心だけなら礼などいらない、気持ちを伝えるために礼があるのだ。礼を尽くすとは、自分の逃げたい気持ち、恐れ、汚さ、悔いを認め、その気持ちと向き合い、相手の前に立つためにある。私はあなたの前で礼を尽くしているのです、それでもあなたに私の言葉は届かないのですか。

相手がどういう応対になるかは分からぬが、自分の気持ちを伝える。礼を尽くたとしても相手に伝わらぬ事はある、しかし、最後まで礼を尽くしたのであれば、少なくとも自分は逃げ出さなかったのだ。己の心の内は己しか知らないのでから、礼を尽くしたかどうかは己れで決めればよい。己では礼を尽くしたとは言えない、と思っていても、周りの人からはよくやったよと言われるかも知れない。それは少なくともその人たちにあなたの気持ちが通じたからだ。

あなたがどういう思いでいたか、どういう気持ちで頑張ったか、私は知っているよ。

これが心の繋がりであり、気持ちが伝わったのであり、礼を尽くしたと言う事だ。

アンボンで何が裁かれたか

BLOOD OATH (1990、豪)

何気なく点けていたテレビで、何気なく見た映画に引きこまれてしまうということが、年に1度くらいはあるだろうか。

それは、いまいましい事だが、どのテレビ局であろうが関係なく、突然に起きる。11月23日の深夜は、こともあろうにTBSでそれが起きた。土曜の深夜は、プロレスを見たり、見なかったりと頻繁にチャンネルを変えるものだ。

最初に見た映像は覚えていないが、日本人が多く出ているシーン、そして、白人の捕虜となっている雰囲気から、第二次世界大戦末期の捕虜収容所の話しかと思った。映画の中の日本人は、実際ならもっと痩せこけているはずだ、とも思った。

そして、この映画は日本の映画か、海外の映画か、が気になった。というのも日本の映画ならば、飢餓や暴力などしか描けないので、見る必要はない。海外の映画ならば、日本人をどのように描いているかが少し気にかかる。

見ているうちにどうやら、白人はオーストラリア人であり、終戦直後の話しである事、戦争中の日本捕虜収容所において起きた戦争犯罪を裁く簡易裁判が物語の背景であることがわかった。検事側はオーストラリアの軍人が行う。対して、日本人側には日本人の弁護士が登場する。

どうやら海外の映画らしいという気がしてくる。

そして外国の映画なのだが、日本人が日本語で話すシーンが多い事、話すシーンで使われる日本語がネイティブな日本語である事、などから、何ら偏見を持たずじっくりと調べ、しっかりとした製作をしたのであろう事が感じられ好感がもてる。

この話しでは途中まで、無実の罪で日本人が裁かれるのか、それとも本当に犯罪的な行為をやったのかは不明なままである。視聴者は自分で考えながらも決断を下せないでいる。考える事を止める事ができないのだ。

300名近くの白人の遺骨が出現する。しかも、それらの遺体は両手を縛られたまま殺されていたりと尋常ではない。だが、誰が行ったのかが分からない、という事がわからない。

オーストラリア側は、有罪は間違いないと思うのだが、なんら証拠がない。日本人達は裁判の席上で(簡易小屋の裁判所)、無罪を主張する。

オーストラリアは、アメリカに頼み、この収容所の責任者であった将校(少将だったか)を裁判で裁こうとする。この時点での日本人の描き方は非常に好意的であり、この初老の日本人は正々堂々としたものである。日本と西洋の文化の違いもあるだろうが、日本的軍人の美意識のようなものも映像に切り取られている。

オーストラリア側の検察官は、この将校が指示して虐殺を行った、と主張するが証拠がない。この少将は無罪となる。

この頃、新しく通信士官が登場する。この士官の登場が話しを大きく、そしてより深いところへ連れて行く。そこには、価値の逆転ではなく、価値が失われるというような残像が残る。

この映画で監督の腕の上手さを感じるとともに、汚さも感じる事が出来る。映画のもつ限界や悲しさも知っているだろうが、映画の力学や美しさにも狡猾であろう。

時には矛盾こそが美しい映像を生み出す、そんな主張さえ聞こえてきそうだ。

この監督は、最後は物語の解決をあきらめて、そのままの形で上映したかのようだ。

そして、このような終わり方は、何かを提言しているのだが、実は何も解決していない卑怯な手段であるとさえ思う。

そう思うほどに最後は、見るものの心に触れずにはおかない。

例えば、最後に名前だけ登場するみどりという女性さえ、その存在感はリアリティに溢れている。

1999/10/30 記す

監督 スティーヴン・ウォレス
キャスト ブライアン・ブラウン、デボラ・アンガー、ラッセル・クロウ、ジョージ・タケイ
渡辺哲(池内収容所所長、最後は割腹自殺)、塩屋俊(通信士官、飛行兵4名の処刑者、最後は銃殺)

塩屋俊 主な経歴
1990  BLOOD OATH(豪)
1992  Mr. BASEBALL(米)
1993  さまよえる脳髄
1994  忠臣蔵・四十七人の刺客(東宝)
1995  KAMIKAZE TAXI
      愛の新世界
      トラブル・シューター
1996  大統領のクリスマス・ツリー(松竹)
1995  NHK ドラマ新銀河「妻の恋」
      日米合作終戦50周年記念ドラマ「HIROSHIMA」
1996  ドイツテレビドラマ「HOTEL SHANGHAI」
      NHK BSドラマ「新宿鮫 -屍蘭-」
      フジテレビ 金曜エンタテイメント「浅見光彦シリーズ③唐津佐用姫伝説殺人事件」
      NHK 金曜時代劇「天晴れ夜十郎」

2012年7月26日木曜日

クジラやらマグロやらうなぎの話し

漁師というのはほっとけばあるだけ捕ってしまう連中だ。彼らの好き勝手を許せば海の資源などあっという間に捕り尽くされるのは目に見えている。漁師は捕れるだけ捕り尽くし、市場はそれを冷凍し一年中売り尽くす。消費者は魚の旬など知るはずもなく好きな時に好きなだけ食い散らす。

彼らの生態系は根底から破壊し尽され、それは学のない漁師の手ではどうしようもない。川も湖も海もコンクリートで塗りつぶされてゆく。護岸工事をしたものは魚について無学で、発注したものは洪水対策に忙しい。工場からの排水で水が汚染されてゆく。川を汚すものたちは魚など見向きもせずに牛を食う。

魚達は文句を言う口も持たず、ただ息苦しそうに口をパクパクさせる。ただ生まれ育った場所を目指して長い旅に出る。途中で食べられたり死んだとしても、例え其こに辿り着かなくとも、彼らから文句のひとつ聞いたものはない。

何人かの人間は、魚が可哀そうだと船を駆って漁船と対峙する。鯨を殺す気なら、わしらはやっちゃるで、と彼らは主張する。マグロを滅ぼすつもりなら、わしらやっちゃるで、と彼らは主張する。うなぎを食い尽くす気なら、わしらやっちゃるで、と彼らは主張する。

私達は銛が打ち込まれるのを見るのが哀しかった。お前たち、どれだけ殺せば気が済むのかと。

彼らはそこに神を見ているに違いないのだ。これは一種の宗教戦争だから、魚には水銀が含まれているとか、増えすぎると自然のバランスが崩れるというような話しでは説得できやしない。牛や馬はどうなのだ、と言った所でキリスト教徒にイスラム教で語るようなものだ。

彼らは頭がいいのです、という説得は、私は信仰しています、に等しい。私は彼らの瞳にキリストを見たのです、くだらない話だ。イルカ漁をして生活している人は困るだろう。なぁに、十字軍でペルシャを困らせきった人達の末裔だ。今更、何度目の十字軍という訳でもない。

世が江戸時代なら、彼らはシャチの泳ぎ回る入り江で、鯨肉を食うか、それとも、入り江に突き落とされるかを選択しなければならないのだ。そして聞くのだ。

私を食べなさい、そのために私は生まれ、十字の銛で討たれるのだ。

そして、鯨達は今日も沈黙を守っている。


私を食べなさい、そのために私は生まれ、しらすとなってこの川に戻ってきたのだ。

そして、うなぎたちは今日も沈黙を守っている。

2012年7月23日月曜日

日本国憲法第25条の為に

もうお金がありません、ここに基金のお金があります、これを配ったらもう何も残りません、国の金庫はもう空っぽです。これからは皆さん、各自でなんとかして下さい、これ以上はもう国と致しましてもなんにも出来ないのです。

202X年、国家財政が遂に破綻し、あらゆる福祉は廃止へと。このままでは残された最後のセーフティネットは刑務所だけになってしまう。

そのような危機だけは回避せねばなりません、大臣。小さな手でも打てるのと、全く打つ手がないのとでは、状況が全然違います、と財務官僚、厚労官僚から詰め寄られる小宮山厚生大臣。

ええ、わかりましたわ、これはなんらかの政治的手段を講じなければいけないわね。ねぇちょっと彼女たちを呼んで頂戴。

(密室にて)

これをあなた達で仕掛けて欲しいの、社会悪を打つという構図だから、あなたたちの株も上がるはずだわ。次の選挙で有利になるのだからあなた達にも損にはならないはずよ。

えぇ、やりますけど。。。この芸人をスケープゴートにするのは気の毒だわ。それに権力にある者が市民を叩いてもいいものかしら・・・

それでもやってください、私達が甘い顔をしていては国家が破綻するのです、国家が破綻してしまってから権力だの市民だのと言っても遅いのですからね、ええ気の毒ですけどね、テレビで見てますけどね、彼ならきっと立ち直れますわ。

テレビ、ニュース、ネット、ツイッター「わーわーわー」

さぁこれであなた達の思い通りになったわね、予算縮小でもなんでもして頂戴。でも、生活保護が本当に必要な人をどのようにして見分けるわけ?全ての人を切り捨てるなんて許される事ではないのよ。

はい、大臣、そこは抜かりなく。社会党、公明党、共産党と、これら地域密着で活動している政党を中心にサポートして頂こうと考えています。

これで次の選挙では全ての党に気持ち良く票が割れることになるでしょう。すると日本は暫くは連立政権が続いて、あなた方の発言力が増すというわけね。

いえいえ、大臣、何をおっしゃりますやら。私達はあくまで法に従って行政を担当させて頂いている訳ですから、国民の声を代表する大臣の意のままに動かせて頂く事が私達の仕事でありますから。

しかし民主党は次の選挙で負けることになるわね。

いえいえ、大臣、何を心配なさりますか。選挙前にはちゃんと株が上がる様に世論にも誘導かけますから。

あら、あなたは総務省の方ね、では宜しく頼むわ、これであなた達が望んだ通りに予算は縮小できるのですから。

縮小ではありません、大臣、効果的に効率よく使うと言う事なんです。

そう、とにかく困る人が増えない様にお願いするわね。私を傀儡として使う以上は結果をちゃんと見せてくださいよ。

2012年7月20日金曜日

モズの早贄

もずの早贄というのは知っていた。捕えた虫や蛙を木の枝に突き刺したり吊るしておく食人族もまっさおな風習。


http://ja.wikipedia.org/wiki/モズ より

もずという鳥は、雰囲気、お目々キラーンと光って、快傑ズバットのようなニヒルな奴、小型のハヤブサみたいなたたずまい、すました顔で木の枝に止まってるんだと思ってた。


http://en.wiktionary.org/wiki/kestrel より

この写真はチョウゲンボウという鳥なんだけども。このカッコいい鳥の別名、馬糞鷹という。少しは考えてやれ。

で、はやにえのもずである。

名前からして勇ましそうである。

乾いた冬に風の吹きすさぶ中、木枯し紋次郎よろしく長い楊枝をくわえ、木の枝に止まっている姿が目に浮かぶ。

同じ体格の鳥とならどれだけ争っても負けそうにない雰囲気の名だ。

チョウゲンボウよりはずっと格上の鳥に違いない。

昆虫やカエルを捕まえて食べるんだから肉食だ。

きっとネズミとかもその尖った嘴と鋭い爪で捕まえては食べているんだゼ。




もずの実際↓


http://ja.wikipedia.org/wiki/モズ より


なーんて可愛い鳥なんだ。

2012年7月18日水曜日

科学的とはどういうことだろうか

国会事故調 - 東京電力福島原子力発電所事故調査委員会 報告書
http://naiic.go.jp/pdf/naiic_honpen.pdf

こんな報告書ではとても戦争は遂行できまい。大きな混乱が予想される戦争を実行する能力が我々にない事をこの報告書が露呈してしまった。想定通りに進むわけがなく、ましてや合理的判断など下せない状況で、ノイズだらけの混乱の中で何が起きたのか、幸運であったという結論にはせず、だからどうするべきであったかも言わず、矛盾と不合理の中で何が出来たのか、これを少しでも良くするには今後どうすべきか。混乱とはそういうものではないか。

科学的、合理的という視点は重要である。しかし、ミミズでさえ合理的である事をよくよく知れば、合理的という言葉の持つ危うさに気付いても良さそうなものである。ヒトでさえミミズと同じ知覚しか得られなければ、彼らと同じ行動しか出来ない、という事さえ知っておれば、合理性というものは前提条件の上にしか成立しないものであると分かる。

ビッグバン理論とフレッド・ホイルの定常宇宙論の論戦を知らないのか。科学的とはどういう事か。科学はクイズではない、正しい答えを当てることでもない。新しいものとは知らないものだ。ならば科学的であるとは知らないものに対してどういう態度を取るか、としか言いようがない。間違った学説であっても科学的かも知れない、正しい学説であっても非科学的かも知れない。

20km圏の合理性について
この報告書は 20km 圏の取決めに合理性がないと指摘する。当たり前ではないか、事故以前に考え抜いたものが 10km である(EPZ)。その前提が崩れれば、20km がいいのか、80km がいいのか、200km がいいのか、誰も想定していなかったものに基準がある訳がない、基準があればそれを使ったに決まっている。

官邸5Fでは、菅総理、斑目委員長、平岡保安院次長、福山哲郎内閣官房副長官などが集まり、半径3km圏内の避難区域が決定された。その際、原子力専門家である斑目委員長や平岡保安院次長などから、過去の原子力総合防災訓練の経験や、本事故前に関係各省庁で進められていた予防的措置範囲(PAZ)等の国際基準を導入する防災指針の見直し作業を基にした助言を得た(「4.3.1.5参照」)。

これに対し、その後の半径10km圏内、同20km圏内の避難区域等の決定は、これらの知識に基づいてなされたものではなかった。半径10km圏内の避難区域は、ベントが一向に実施されず、このまま格納容器の圧力が上がっていくとすれば、半径3km圏内の避難区域で十分かどうか不明であるという理由のみから決定されたものであった。半径10km圏内としたのは、それが防災計画上定められた防災対策を重点的に充実すべき地域の範囲(EPZ)の最大域であったためにすぎず、何等かの具体的計算や合理的根拠に基づく判断ではなかった。また半径20km圏内の避難区域は、1号機の水素爆発を含む事態の進展を受け、半径10kmを超えた範囲としての20kmという数字が挙げられ、一部の者が個人的知見に基づき大丈夫だろうと判断した結果決定されたもにすぎず、これも、合理的根拠に基づく判断とは言い難い。

3.3.4 官邸による避難区域の設定 (P.317)
3) 根拠に乏しい避難区域の決定 (p.320)

咄嗟に 20km 圏を決めるに当たっては、考えうる科学的知見は使ったはずである。その知見の上でひとつの結論を下した事は相違ない。だが科学的知見に基づいた決定が科学的かと言えば違う。彼らには科学的手法を使って基準を決めるような時間的余裕はなかった。科学的裏付けのある決め方は出来なかったはずである。であれば彼らの結論は科学的かと問えば、否、非科学的である、しかしそれが合理的でない理由にはならない。

合理的であるとは、科学的裏付けがある事ではない。限られた情報から結論を得る過程に、推論の流れがある事である。論理的とはその結び付きが説明可能である事を指す。合理性とは前提条件に基づいた推論である事を言う。この報告書は前提条件が揃う事を前提としている。

時間軸を無限とする考え方
これは時間を無限とし前提条件を有限個とした議論だ。時間が無限にあり議論の元となる前提条件が有限個ならば、これを全てを明らかにする事で、どんな事も説明可能であるとする立場だ。その前提はこの事故において成立したのであろうか。事故は時間が極めて有限に限られた中で進行した。前提条件は無限に等しく未知数の状況の中にあった。無限とも言える可能性の中から僅かに限られた情報だけを基に歩を進めた。

勘であるか、と言われれば、最後は勘であると言うしかあるまい。その根拠はどこにあるのか、と詰問されたならば、そういう確かめ計算は避難が終わった後にゆっくりとやれ、と言い返すしかない。こういう時には坂の上の雲のあのセリフが思い返されるのである。

そういう砲牆づくりは、いくさが終わってからやれ。いまはいくさの最中だ。(巻5、頁126)

避難
20km という距離は結果として見れば、ある人々にとっては必要にして適正な距離であった、ある人々にとっては過剰であり不要であった。そしてある人々にとっては不十分であった。それはその時に風向きが決めた。

電気もガソリンも途絶えた状況で避難する人にどうやって情報を伝えるのか、避難先に放射性プルームがあると分かったとしてどうするのか、軍隊であれば適時適切に動けるだろう、だが避難の半分は軍隊にも消防にも頼る事なく自力で逃げている人々ではないか。正しい知識があったとしても防げない事はある。正しく動けば戦争に勝てるというものではない。

なるほど、確かに後から見ればもっと上手い方法があるような気がする、いや、あったに違いない。幾つものこうした If を拾い集めておく事は重要だ。だったら失敗した奴にリベンジさせるべきだ、一番悔しいと思っている奴にもう一度やらせるべきだ。なのにこの報告書の構成員の中になぜ県庁や市役所の担当者が入っていないのか。原発事故の作業員がいないのか。

事故がもっと深刻であったなら、政府と雖もどこかで支え切れず行政は決壊したはずである。そのような状況の中で、分からないけれど決めたのである。分からないのに決めたのである。何故そうしたかと言えばもう時間がなかったからではないか。

決めなければ何も動き出さない。混乱から抜け出す唯一の方法は動き出す事であった。動き出すために必要なのは具体的な数値、目標であった。これが混乱から抜け出すただ一つの方法であれば決める事が優先した。正しく決める前に決める必要があった。

科学とは
一本の縦糸に問題があったからこれを差し替えさえすれば良かったはずである、とは歴史が機械の部品であれば成り立つだろう。だが一本の糸が変われば歴史がどのような色を成すかなど誰にも解るはずがないのである。それが今よりも良い未来とも言えない。バタフライ効果がもたらす結果を科学は予測する術をもたない。

もしこれが科学的とは認められない、And 科学的でないと認められない、と主張するのであれば、彼らもまた科学的根拠をもった結論を提示すべきである。結論かくあるべし、と主張すべきだ。それと比較し、明らかに劣っている、だからこうすべきではないか、と検討するものではないか。各々の時点でこうしていれば防げたという主張は、太平洋戦争こうすれば勝てた、と同じだ。そうだ、そうすれば勝てたのだ、それを当時の人が分かっていかったと思っているのか、想像力が欠けているのはどちらなのか。

人間は感情の動物であると言われる、もちろん、人間だけが感情を有するのではない、生物の本然的な要求が感情であって、言葉を獲得する前から感情と呼ばれる機能は存在していたはずである。だが感情が真実や法則を変える力を有しているわけではない。科学とは、感情に左右されない結果を研究する事である。

科学から政治へ
政府は、避難区域も除染区域も政治的に決めた。それを決める上で根拠とした科学的知見はある。しかし、科学的知見だけではなく、国民の意見を聞き、世論の流れを読み、予算を調整し、選挙を考え、トレードオフを考えながら決定したはずである。彼らは言いたいはずである、科学的根拠だけで決めていいのならこんなに簡単な話しはない。

政治的決断の根拠を科学だけに求めてはいない。科学は常にその時の確からしいしか示さない。どの程度の放射線が確実に危険であるかを科学は言えない。だから安全とは言えない、同時に危険とも言えない。そのとき、科学は分からないとしか言えない、ただフェールセーフを主張するしかない。

津波の高さを警告したのが科学者なら、津波への対策に合格を与えたのも科学者である。どちらの説が正しかったかは今や明白である。しかし、確からしいとしか言えなかったからそれは科学だったのだ。もし断言をしていたのであればそれは科学ではない。

政治とは状況証拠で被告を裁くのと同じなのだ。合理的も論理的も科学的も、政治では全て確からしいものを確かへとする方便である。科学はどれも確からしいまま立ち止まる。確からしさを持ち寄るのが科学であれば、それを確かに決めるのが政治だ。その後押しを科学はできない、ただ利用されるだけなのだ。

決断
問題を解決するのが政治である。確からしいだけでは何時まで経っても決まらないから其れを決めるのが政治である。であれば、この事故は政治の責任に帰結しなければならない、決めたのも政治なら、その後始末も政治しか出来ない。もし使っていた科学に誤りがあったというのなら、ではどういう科学なら間違いを犯さなかったかを検証すべきだ。どのような道具なら防げたというのか。

だがそれを検証をする前によく考えて欲しい。民主主義も科学も間違いを少しずつ訂正しながら進んで行くものだ。どちらも間違いを前提として存在しそれを訂正しながら進める手続きである。だからこの両者は共にゆっくりとしか先に進まない。仕組みからして莫大なコストをかけて後戻りをしながらゆっくりと進むように出来ている。我々はこの間違いを訂正する事はできる、しかしもう二度と間違いを起こすなと要求する事は不可能なのだ。

間違いを起こすのなら、原子力発電のように危険なものは使わない方がいいのではないか。このような主張は最もである。しかし、この主張は間違いを認めない考え方から生じていないか。間違いがあるのなら気を付ければいい、政治も科学もそうしか主張できない。原子力発電を使うか使わないかは、政治とも科学とも違う要請だろう。その要請がどこから来ているのか、そこを突かない限りこの問題に解はあるまい。

我々は"科学的"という言葉を聞くと何かしら確からしい気がする。だかこれは確かとは違う。もし確からしいものを信じたいのであれば、それは科学の問題ではない、信じるか信じないかの問題は信仰である。過去に遡ってみれば科学は宗教から生まれた。科学がもし科学への信仰に過ぎないのであれば、これは科学の先祖帰りである。

2012年7月16日月曜日

いじめについて ~ Law & Order - Dick Wolf

地方次長検事

「陪審のみなさん、これをいじめから発展した不幸な事故と見做しますか?
友達同士の悪ふざけの中で起きた悲しい結末ですか?

いいえ、そんな事はないのです。

誰かを崖の方に暴力的な手段で追いやり、遂にはその崖から飛び降りさせた。
それはアクシデントでしょうか?

そうではありません、これはりっぱな殺人事件なのです。

いじめだと思うから問題が難しくなる。悪意があった、誰かが止められたのではないか、誰が知っていた、知らなかった、考えればきりがありません。

いじめも最初はほんの小さなきっかけから始まったものでしょう。
誰もがそれを見逃したばっかりに、いつの間にか得体の知れない化け物に変わってしまったのです。

それに誰も気付かなかった。
超えてはいけない境界線を越えてしまったのに、それに気付かなかった。
中には気付いていない振りをした人もいたでしょう。いずれにしろそれを放置したのです。

いじめだから何とかなる、そう思っていましたか。
そのうちこんなものは終わると。
で、そうなりましたか?

これをいじめだとは考えないでください。
これをいじめの結果の事故であると思わないでください。
これは殺人事件だと彼らに教えてやってください。

もしいじめではなく殺人行為であると誰もが思っていたらこのような不幸な結末になったでしょうか?親も教師もまわりの学友たちも、目の前で起きている事は殺人行為であると思っていたなら、このような結末になったと思いますか?

このいじめをエスカレートした悪ふざけと見てはいけません、
このいじめは殺人そのものなのです。

いじめた学友たちは当然、おぞましい殺人者だ。

しかしそれを見逃した教師は殺人幇助、
教育委員会は証拠隠匿、そして殺人の共謀罪。
そして犯人の親たちは殺人教唆で罪を問われなければなりません。

同様に被害届を受理しなかった警察官も、殺人に手を貸したのです。
でなければ彼らは無能だ。

陪審のみなさん、何も混乱する事はない。

複雑な様相をしていますがいじめというベールに幻惑しないでください。
ベールを剥いでしまえばその下に殺人があるだけなのです。

この裁判は勿論、復讐などではありません。

失われた命は帰ってきません。
しかし、我々の正義は彼らを罰する事ができるのです。
彼らのした事としなかった事に責任を取らせてください。

陪審員のみなさん、どうか彼らを無実にしないでください。
正義がこの国にある事を示してください。」

陪審は評決に達しましたか?
(Members of the jury, have you reached a verdict.)

聖戦士ダンバイン - 富野由悠季

バイストン・ウェルの物語を覚えている者は幸せである。心豊かであろうから。私たちはその記憶を記されてこの地上に生まれてきたにも関わらず、思い出すことのできない性を持たされたから。それ故に、ミ・フェラリオの語る次の物語を伝えよう。

ダンバインとは物語の名ではない、バイストン・ウェルという世界を語ったものだ。物語であるにはバイストン・ウェルという世界観は強すぎた。だからこの作品の物語性についてはずうっと語る事が出来ない。

ダンバインの人物は物語のために演技しなければならない、そんなに愚かな人だったか、そんな事に激情する人だったか、何もかもが都合のために死んでゆく。

キーン・キッスはニー・ギブンを探すのにゼラーナの艦橋に直行しないほどマヌケではない。リムル・ルフトが母親を暗殺したいと憎む気持ちはどこからきたのか。スイスでももらおうかと嘯くお前は本当にトッド・ギネスか。

ダンバインという物語であろうとしたのではなく、ただバイストン・ウェルであればいい、その為に物語のように紡がれたのではないか。


バイストン・ウェル
ダンバインを物語として見てしまえば、ただのわからずやたちが登場してはお互いに傷付け合う、引くに引かれぬプライドを持ち寄って、憎しみ合い、殺し合う。その根底にあるもの、ちいさなプライドや野心や怨みで世界を破滅しても構わない、その執拗さに何らかの意図を感じずにはいられない。

心にあるそういったものを浄化するという作品のコンセプト、それは祈りでもあるのだろうが、どうも作家の恨み、怨念と言うようなものを仮定しなければ斯様な人物を次々と生み出す事ができそうにない。

バイストン・ウェルにおける地上人とはこの怨みを持ち込むための仕組みであった。何故このような人物たちを必要としたのか、そこにダンバインの鍵がありそうだ。

人同士がいがみ合う物語に「伝説巨神イデオン」がある。イデオンの国家間的ないがみあいの中に描かれる個人の嫉妬という物語と比べれば、ダンバインでは国家間的な争いの側面は小さく、個人的な争いが主に描かれている。一見、戦争のようであるが、バイストン・ウェルであろうが地上の戦闘であろうがこれは戦争ではない。

ではこの戦いは何か。ダンバインには我々が敵と呼ぶべき相手がどこにもいない。何故こうも命が軽いのか。

チャム・ファウが何故地上に残ったのか、何故消えてゆかねばならなかったのか、こんな終わりは寂しい。だから消えたチャムはバイストン・ウェルに戻れた、とする方が解釈としては正しい。

ショウが東京からバイストン・ウェルに戻れたのはオーラの力ではない、唐突になんの脈絡もなく戻されたのである。それは誰の意志でもないバイストン・ウェルの意志とでも言うべき力である。

シーラ・ラパーナの浄化もその意志なくして成立するとは思えない。バーン・バニングスを討ったから浄化したではどうも理屈が立たない。第二のドレイク・ルフトやバーン・バニングスはオーラバトラーが無ければ生まれないのか、しかし既に知ってしまった人々が昔に帰れるだろうか、地上もバイストン・ウェルも。オーラロードが開かれようが開かれまいが、野心に変わりはない。


歴史物語
ダンバインの物語は、歴史物語として見るのが正しいだろう、王国同士の争いにオーラバトラーが使われた点が重要なのだろうが、恐らくショウを描かなくてもこの物語は成立する。

これは戦争の物語ではない、バイストン・ウェルの歴史が戦いという側面を見せたに過ぎず、ドレイク・ルフトもシーラ・ラパーナもその歴史を描くための色に過ぎない。

戦いもオーラバトラーである必要はなかった、剣と魔法でも困りはしない。戦う目的は何でもよかった、だから戦争ではないと言うのだ。それらしく見える戦いで十分だったのである。これはバイストン・ウェルとは何かを世界に示すためだけの戦いだったからである。

ダンバインに描かれたものは主題である歴史物語と比すれば個人的な感情的な小さな争いである。だからダンバインではまず造形に驚く。宮武一貴の手によるダンバインの造形が魅力の全てじゃないか。

あの造形から始まる空想、あの虫の感じからすればバイストン・ウェルは手のひらサイズの小さな水玉でいい。オーラバトラーはその水玉にいるミジンコでもいい。

水槽の中の小さな歴史物語、それで十分だ。


女王たち
バイストン・ウェルは階級をもった社会である。王や女王がいて、騎士がいて、様々な階層の者達が住む世界である。ダンバインという物語は身分制度、階級を受け入れる物語である。登場する地上人が何ら疑問を抱くことなく王や女王の前でひざまづく。

登場する人々はみな己の身分に応じて最大限の野心を抱きそれに邁進する。地上人はこの身分階級に組み込まれた特権階級である。この階級社会の心地よさというものを再発見しその中で生きる事がダンバインなのだ。

そうであればダンバインとは女王選びの物語である。それ以外の楽しみはない。シーラ・ラパーナ(ナの国)、エレ・ハンム(ミの国)、リムル・ルフト(アの国)、彼女たち3人の中から誰を選ぶかと言う物語なのである。バイストン・ウェルの最高地位にある女王を選りすぐる、それ以上の楽しみ方がこの作品にあるだろうか?

キーン・キッスやマーベル・フローズン、ジェリル・クチビ、ガラリア・ニャムヒーという魅力的な女性も描かれているが、いかんせん身分が卑しい。彼女たちは女王と対比するために描かれたと言ったら過言であろうか。


邂逅
そのバイストン・ウェルが地上に出現し現代と繋がりを持った。これは面白い話であって異なる世界の異なる階層の者達の邂逅であった。邂逅、という物語でも良かったのである。それでは同じか。

例えば、バイストン・ウェルが戦国時代に出現し、関ケ原の合戦場に現れればどうなっていたであろうか、武士階級を持つ戦国の世界と、バイストン・ウェルの王たちの邂逅はどのような物語を生み出すであろうか。

しかし、ダンバインという物語は邂逅を描かなかった。地上での争いなぞ視聴者のための演出に過ぎまい。主たる戦いはバイストン・ウェルの社会の中に閉じていた。その理由はたぶん簡単である。バイストン・ウェルの歴史は地上との干渉を嫌うからである。

バイストン・ウェルという物語は歴史物語という側面と、地上との邂逅という二つのテーマを内包して進められた。ショウたちが消えてもそのバイストン・ウェルの世界観は止まってはいない。全てはバイストン・ウェルを描くための犠牲として消えて行った。

であればショウが好きだったチャムの語る物語は余りにも悲しいのではないか。