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2015年2月28日土曜日

草木塔 II - 種田山頭火

山頭火はふたつの邂逅が主題だと思う。そこに自分の感情を込める。自然が擬人化される。その感情をトレースすれば山頭火が見えてきそうである。

歌は時間的に凝縮する。流れる時間と停止した時間が交差する。時間が停止するのは、山頭火が周りから取り残されているからだ。それは写真というより動画が一時停止したかのようだ。駅に停車した蒸気機関車の感じもする。

表現は子供のよう。児戯のようであり、無垢なのか、朴訥か。それは着想が子供らしいからなのか、それとも表現から余計なものを取り除いて残ったものがこうなったのか。

草木塔(青空文庫No.749)


山行水行

糸瓜ぶらりと地べたへとどいた

届いたとは出会いの事だ。へちまは地べたに「ぶらり」とぶっきらぼうで剽軽な感じに擬人化されている。その出会いを見ている山頭火にはそれが喜ばしい事のように思われる。

朝顔伸びて地べたにこしかけ

夕立が洗つていつた茄子をもぐ

夕立と茄子の出会い、そして私と出会う。夏のみずみずしさがある。擬人化された夕立が去り、もいだ茄子が籠にたくさん積まれた風景がある。収穫に生きる事の肯定が感じられる。

ざるいっぱいの茄子から牛あるきだす

お月さまが地蔵さまにお寒くなりました

月の出ている夜、月明かりが地蔵さまを照らす。その光景を見ている自分をお地蔵さまは見守ってくれるだろう。お寒くなりましたとお地蔵様に挨拶しているのは月であろうか。月明かりを見てお地蔵様に挨拶をした自分だろうか。

薄野がゆれてお互いよい月ですね

誰か来さうな雪がちらほら

誰かが来るかもしれない。そんな期待。雪がちらほらとする。ちらほらふる雪が擬人化されている。ほら雪が訪れたというのは寂しいだろうか。雪が降り始めたのなら恐らく誰も来ない。だのにまだ期待が続くような感じがする。

こんなひとりの冬は星がしっぽり

ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない

ふくろうは起きている。わたしは眠れない。なぜ眠れないのか。そんな事はどうでもいい。寝ていないものどうしが同じ夜を過ごす。それが孤独感を際立たせる。例え誰かが隣で寝ていたとしても孤独である。ふくろうが居るからいっそう孤独である。

夜行列車の音がするわたしも今夜はねむれない

ひよいと穴からとかげかよ

ひよいと誰かのような気がした。その気配はとかげであった。静かな場所に暑い日であろうか。とかげのひやりとした感じがする。夏の涼しさのようでもある。とかげの気配を人と思ったのではないか。と言うくらいにはひとりだった。「とかげかよ」はひとり言ではなく思わず口から出た誰かに向かっての言葉だろう。だから隣に誰かが居ても居なくてもよいのだ。

石垣のヘビがじいっと見つめてる

蜘蛛は網張る私は私を肯定する

蜘蛛が巣を張っている。網を張るはまるで漁師のようだ。そうやって生きている。私は何をして生きているのか。蜘蛛も働いているのに私はどうだ。だが蜘蛛も誰かに褒めてもらいたくて網を張っているのではないだろう。誰から認められなくても自分は肯定する。そういま決めた。

カマキリが寒さに耐える私は布団に潜り込む


旅から旅へ

よい道がよい建物へ、焼場です

歩いている。視点が変わってゆく。それが情景になる。何の情感もいらない。何か明るい。これは葬式の歌であろうか。道を歩いていた。向こうによい建物があった、もう少し歩くとそこが焼き場であった。どの季節だろうか、人によっても違うだろう。春の桜が散る道でもよい、夏の木々が茂る道でもよい。秋の紅葉に染まる高い空の道でもよい。冬の枯葉に覆われた道でもいい。焼き場を人生の終点と見るならそのままこれは人生そのものである。しかしそれでは詰まらない。これは風景であって人生ではない。人生はそんな単純ではない。

道を歩きビルの間に、白い月

春が来た水音の行けるところまで

水音の行ける所まで、とはどういう場所だろうか。誰もが意図する所は分かっている。水音がする所に行く。水音とは雪が融けたの意味である。雪が溶けて道が歩けるようになった所にどこまでも行く。

春が来た(雪が解けて)水音の(聞こえる道が歩けるようになって)行けるところまで(旅に出よう)。

煙吐き駅へと向かう人の声

さて、どちらへ行かう風がふく

この感じに意味はない。さて、どちらへ行こう。これは言葉である。風がふく。これも言葉である。このふたつを結びつけるものは何もない。意味的には。だがふたつを並べると迷いがなくなる。どちらへ行こうと迷っていなくなる。風が吹いても何も変わらないのに。風に追われて向かうもよし、風に向かって行くもよし。何も決めていないのだから迷いもない。

さあ行こう、雨が降るこの春も

この道しかない春の雪ふる

目の前に道がひとつしかなければ、この道を行くしかない。しかしそれを受け入れる事は決意だろう。その決意を祝福するのが春の雪か。

この道をゆく雨雲のある方へ


雑草風景

残された二つ三つが熟柿となる雲のゆきき

寂しさ(残された)、時間の経過(熟柿となる)、並列(雲)。4つの文。1.残された、2.二つ三つが、3.熟柿となる、4.雲のゆきき。5,6,6,6の俳句。俳句のリズム。「残された二つ三つが雲のゆきき」が主節だと思う。そこに副次的に(熟柿となる)を入れる。これで意味が通る。(二つ三つが熟柿となる)で一節になる。

残された三つ四つが腐りかけの蜜柑かな

ぶらりとさがつて雪ふる蓑虫

夏はへちま。冬は蓑虫。ぶらりという表現が面白く心を捕えているよう。

ずぶ濡れの警備員が冬を追う

ひつそり咲いて散ります

散ります、という言葉が、これは花のことなのか、自分のことなのかを分からなくする。そこに擬人化がある。花に重ねて自分を歌っているのではないかと感じさせる。

五月晴れ寝てる間に帰ります

あんたが来てくれさうなころの風鈴

あんたが来てくれさうな風鈴、ではない。「ころの」を入れると抑揚が変わり意味が変わる。ただの瞬間ではなく時間の流れの中での瞬間。長い間待っているか。ずっと待っているのか。それとも来てくれたのはもう昔の話なのか。

人が来て風が通れば風鈴

2015年2月20日金曜日

大砲とスタンプ- 速水 螺旋人

ペンは剣よりも強し。枢機卿リシュリューの言葉であるらしい。どれほど軍備を備えようが書類にサインがなければ兵は一兵たりとも動かせられない。別に命令がないからではない。計画が立案されていないからである。

兵を動かしたら補給はいつどこへどれくらい届けるのか。宿舎、トイレはどうするのか。帰りはいつどうするのか。その間の給金はどれくらいになるか。それらが全て計画されていなければ兵など動かせるものではない。それを書くものがペンなのである。

官僚が命令を具体な計画に落とし込む。計画から命令書という書類を作成する。その書類に署名する。そして実行部隊に渡される。書類が計画を実行する。兵隊ではない。

新幹線は優れた車両ではなくシステムの名前だろう。新幹線というシステムが運用されている。車両はその一部である。設備も駅舎もその一部である。運行システムもその一部である。安全は車両や時刻表だけで実現するものではない。

事前に事故を起こさぬように計画を練り、設計し開発をし、製造に勤しみ、きちんと運用された結果である。同じ車両、同じシステムを使っても運用を取り換えればあっという間に事故は起きる。我々は運が良かった。これほど自信に満ちた自負はないのである。人間に出来ることはすべてやり切った、と言っているのだから。

戦争も、兵装や作戦が勝敗を決めるのではない。そんなものは机上の絵空事である。机上に置かれるべきは書類であって空想ではない。計画は練りに練り叩きに叩き準備されていなければ困る。それが軍隊の日常である。

戦争は運用が決める。それも日常の延長だ。戦争は補給をより長く続けた側が勝利する。これが戦争の大前提である。

この作品は悲惨なシーンも多いけれど絵柄のほんわかさでかなり軽減される。マルチナ・M・マヤコフスカヤは奔放ないい女だ。老獪で有能で純粋で、50 才になった彼女の物語だって読みたいに決まってる。

2015年2月15日日曜日

民まぬがれて恥ずることなし - 孔子

巻一爲政第二之三
子曰 (子曰く)
道之以政 (これを道びくに政を以てし)
齊之以刑 (これをととのうるに刑を以てすれば)
民免而無恥 (民まぬがれて恥ずることなし)
道之以徳 (これを道びくに徳を以てし)
齊之以禮 (これをととのうるに礼を以てすれば)
有恥且格 (恥ありてかつただし)

己の良心は抜道のない蜘蛛の巣のようなものであって、誰もこれを騙し通す事は出来ない。防衛機制がどのように自分の心を満足させるかはこれが故である。忘れたようで忘れ切れるものではない。だから封印する。

心は人を覆い尽くす。だが法はそうではない。法においては誰もが心の中でどう思おうと許される自由がある。故に法では駄目なのだと言う。徳を以って行えば誰も逃れることはできない。どこにも抜け道がないではないかと孔子は言う。

『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。

人は自分の意識とは関係なく情欲する。そしてそれを知るのは自分のみである。だから生きて行けるのであって、もしそれが許されないのならば、誰が逃れられよう。だから恐ろしい。自分が許せなくなる事に耐えられる人間などいない。誰もが自分は許すのである。

それをあえて説くのは何故か。無理であるなら敵も無理なのである。ならば許せと言う。自分が恥ずかしいなら相手も恥ずかしいのだ。

法の下でなら罪を犯しても自分以外の誰かが自分を罰するだろう。誰かに罰せられるまで待っていればいい。もし他の誰かにではなく自分で自分を律することになれば何処にも逃げ場はない。待っている時間もない。今すぐにこの場で自分を罰しなければならない。それが人に可能なのか。

そういう自分を律する厳しさを孔子は要求しているのだろうか。

もし合法を正義とすれば人はそれに従う。合法ならば恥じなくてよい。正義を恥じる者はいない。法が人に正義を与えるのなら人は良心を鑑みるのに合法であるかどうかだけを基準にするだろう。それは良心を放棄したのではないか。法が全てを網羅できるはずがない。何かぽっかりと見落としているものがある。そこに孔子は着目したのか。

人間にとって正義は恐ろしい。人は正義には従う。だから正義であれば人は悪魔にもなる。正義を手にしてしまえば人間を制止できるものなど何もない。法が人にそういう正義を与えてしまう。孔子は問うのである。正義に対抗できるのは心しかない。もし心が考えることを止めてしまえば、その正義を正義とするものは何であるのか。法にそれを与えてしまうのか。

これが神の教えである、これが神の意思である。この言葉も正義となる。予言者は神なのか、それとも神ではないのか。神は預言者から自由に預言を取り上げる事ができよう、しかし預言者は神から何も取り上げることは出来ない。預言者の言葉は必ずしも正義ではないかも知れない。

人は理由を必要とする。理由があれば人は何でもする。法はこの理由を与えうる。しかし徳も礼も理由を与えない。この違いは何であろうか。

韓非子(法家)が主張したように国家を収めるのに法は必要である。犯罪に対しては厳しい罰則も必要だ。そのことを孔子が知らなかったはずはない。

法には法の必要性がある。犯した罪には予め罰則を決めておく。4000年前のメソポタミアで生まれた時からその必要性は変わらない。
196、もし人が人の息の眼を潰した時は彼の眼を潰す。
197、もし人の息の骨を折った時は彼の骨を折る。
198、もし賎民の眼を潰し、または賎民の骨を折った時は、銀1マヌーを支払う。
199、もし奴隷の眼を潰し、あるいは人の奴隷の骨を折った時は、その価格の半額を支払う。
200、もし人が彼と同格の人の歯を落とした時は彼の歯を落とす。
201、もし賎民の歯を落とした時は、銀1/3マヌーを支払う。
ハンムラビ法典

法があるから犯罪をしないのか。人々が犯罪に手を出さないのは罰を恐れてのことなのか。そうではないだろう。多くの人々は法によってではなく、自らの心によって犯罪を犯さない。法よりも社会からの隔離や追放を恐れる気持ちが強い。コミュテニィに属していたいからこそ治まる。自分が所属するコミュニティが許容するものが人々を律する。

徳も礼も社会的なものだ。社会との関係性の中で存在する。政治も法も同様である。徳も礼も人を信じている。政も刑も人を信じていない。人が恥るのは信じられているからだろう。孔子は自ら律するのには何が必要かを考えていたのではないだろうか。恥じるという人間の心の働きに気が付いたのではないだろうか。



法を制定した所で刑罰で人が律するだろうか。
それならば人は刑罰から逃れたらそれで良いと考えるだろう。
徳を求めて礼を尽くせば人は自らを律するだろう。
そういう人を動かすものは恥という心の働きではないだろうか。

2015年2月8日日曜日

草木塔 I - 種田山頭火

山頭火の句はふたつに分解できるかと思う。そこには描写とそうではない何かがあり、そこにこの人の俳句の作法があると思うのである。その作法は一体どういう所から生れ出たものであろうか、それを探求してみたい。そう思ったのはこの人の句に触れて暫くしてからであった。

草木塔(青空文庫No.749)


鉢の子

分け入つても分け入つても青い山

分け入るを連続させて時間経過を表現する。分け入る時に連想する山はきっと夏で緑の山であろう。山道は木々に覆われ細い道だろう。そして現れる山と巨大だろう。空間に突如として出現したかのような山の大きさが感動だったろうと思う。

青い山は瞬間である。この瞬間によって分け入っていた所作が過去になる。山を見ている私は立ち止まる。時間の流れの中で今が凝縮し瞬間が切り取られ凝固する。

  • 細い道 - 連続する長い時間
  • 大きな山 - 凝縮された瞬間の時間

海まで来てみれば遠い空

他に、どこまで行っても抜けられぬ不気味さがある。この山を山頭火は抜け出せたのだろうか、それとも抜け出せなかったのだろうか。

まつすぐな道でさみしい

全く異なる関連性のない言葉を結びつける。そこには何かの発見があったに違いない。

まっすぐだから寂しいなどあり得ない。さみしいから、まっすぐな道を寂しく感じたのだろう。何故なら、まっすぐである道は遠くまで見通せる。もしその遠くまで人が居ないことが見えたなら、きっと寂しい感じが強まるだろう。だとすれば曲がり角のある所では、その向こう側には人が居るんじゃないかと思っている自分が居ることになる。

つまり元からそう思っている程には寂しいのである。それに真っ直ぐな道が気付かせた。それに気付いた時に生まれたのだろう。

  • 遠くまで見通せる道 - 寂しい
  • 曲がり角の向こう側 - 誰かが居るかも知れない - 寂しさ

まがり角を曲がればひとり寂しさ

雪がふるふる雪見てをれば

雪の動作の繰り返しの中に、雪の情景とそれを見ている自分の所作を並列化する。

雪の降り続く時間の連続さとそれを見ている自分の時間の連続さの間にある非同期性。両者の時間の流れる速度が同じでない感覚。雪はゆっくりと降る。突然、激しくなる、そしてまたゆっくりと降る。雪を見る前からそこから立ち去った後も雪は降るだろう。永続性のある雪と比べれば自分の時間はずっと短い。

急いでいる時間の中でふと雪を見た。その時に時間が同期した。雪を見続けている。「雪見てをれば雪がふるふる」なら、自分の時間の流れだけが主題となる。自分の見る時間の中に景色が入り込んで来た。順序を倒置する事が、雪がより古く、長く、ゆっくりに感じる。そこに雪を見る自分が加わる。そして雪が降り終わるよりも早く、自分の早く流れる時間へと戻って行く。

  • 降る雪 - 永続的なもの
  • 見る自分 - 刹那的なもの

星がまたたく眺めているわたし

どうしようもないわたしが歩いてゐる

どうしようもない、という社会的評価。歩いているのは私の命。そのふたつの間に関係はない。

社会的にはどうしようもないという評価とは関係もなく、私の足は私を歩かせてくれる事を止めない。足という肉も歩くという行為も、社会的な評価といっさい関係なく私を生かそうとしている。どちらもわたしの話であるのに、とっても遠い所にあるふたつ。その二つの間にはわたしというもの以外、何の接点もない。だからどうしようもない私を歩いている私の足は、そんなの気にするな、なにも生きるのに関係ないだろう、と言っている気がする。

歩け歩けすべてを否定された日も

分け入れば水音

山道をゆく、水音がする。小さな短い時間と、小さな風景。

あせ拭けば秋風

すべつてころんで山がひつそり

動の所作に静を配置する。

すべって転ぶ人間の小ささ。山の大きさとの比較、動と静の対比。すべつてころんで森がひつそり、では生き物と生き物の対比になってしまう。それでは動と動の感じがする。この山には不気味さがある。動がふたつ(すべって、ころんで)なのに、静はひとつ(ひっそり)しかない。それでも人間の動を山の静が圧倒している。

稲を刈り稲架にかけても夕焼け

つかれた脚へとんぼとまつた

静の所作に静を配置。

疲れた脚は止まっていたのだろう。休んで座り込んでいたのかも知れない。そこにトンボがとまった。それまで動いていた脚が止まった時に、飛んでいたとんぼが止まる。動いていた脚が止まり、そこに飛んでいたトンボがとまる。それぞれのリズムで動いていた時間が、同じ場所で停止する。

信号待ちに青くひかる

あの雲がおとした雨にぬれてゐる

あの雲はもう通り過ぎている。濡れているのは今だが、雨が降ったのは過去だ。濡れた過去と濡れている今。

あの雲は、遠くにあり過ぎ去った雲。だから通り過ぎた過去である。濡れている自分は今である。雨に降られて濡れてしまった自分が過去にある。雲は通り過ぎたが濡れた自分はまだここにいる。雲は過去を気にしていないようだ。だが自分は過去を引きずっている。それでもこの歌には何か、仕方ないなぁと笑っているような雰囲気がある。それは雨がいつかは乾くからだろうか。

東北を覆った海がいまは小波

安か安か寒か寒か雪雪

繰り返しながら流れる3つの単語の組み合わせ。

寒いときは言葉が短くなるという。その言葉の羅列が寒さの描写になる。安か安かは物売りの掛け声だそうである。寒か寒かは路地の呟きが聞こえたらしい。音が風景である。最後に雪という言葉でイメージを固定する。この歌のもつ寂しさは、雪雪で表現されている。通りの人の声と自分の接点がどこにもない。「安か安か寒か寒か酒酒」ならば温かみはどうだろうか。

こちかかちかあおいあおい山山

うしろすがたのしぐれてゆくか

しぐれるのは自分の姿、ならば自分の後姿を見るのは誰か。それも自分。

「うしろすがた」が視点を規定する。続いて「しぐれてゆく」のだから、何かうしろすがたが次第に煙れて見えなくなってゆく感じを受ける。それを「か」と問う。これでこの視点が幻想であることが鮮明になる。だからこの後姿は山頭火に違いない。読者はここで山頭火が己れを見ている視点のもうひとつの上の視点に立つ。そこから自嘲し消えそうな山頭火にぐっと近づくのである。

歩くせなかのホームへおりるか

よい湯からよい月へ出た

地上から天空への視線の跳躍。

「よい湯」と「よい月」の連なり。それを「から」「へ出た」に続ける。するとどういう反応が起きるか。湯につかってゆらゆら揺れる湯を見ていた。湯に映った月を見る。それだけならば「よい湯からよい月が出た」となる。よい月へ出るのであるから、月に向かって何かが飛び出たのであろう。

熱い湯から雪の原へ出た

今日の道のたんぽぽ咲いた

たんぽぽが咲いたのは紛れもない事実。

今日の道。今日のたんぽぽ。道を歩く自分は一時の存在。タンポポも消えてゆく存在。そのたんぽぽが咲いた。咲いたという事実だけは疑いようがない。たんぽぽは咲く、しかし自分は咲いていない、その対比に寂しさがある。

今日の道(自分):(何もない) = 今日のたんぽぽ:咲いた

わたしひとりにたんぽぽ咲いた


其中一人

雪へ雪ふるしづけさにをる

雪が降った上へ雪が落ちてくるのを見ている。

雪が降るのを眺めているうちに、雪が落ちてゆく先を目で追いかけ始めたかのような動作を感じる。雪へ雪ふるという表現は山頭火が自分の所作を歌ったように思われる。単に雪が積もっている風景ではない。雪が降るのを見ている自分がいる、そこはしづかなのだ。なぜなら彼はただひとりでそこに居たから。

雪に雪かさなり夜は雪のおと

けふもいちにち誰も来なかつたほうたる

ほうたると声に出したのだろう。なぜほうたると呼びかけたのか。そこに誰も居なかったから。

蛍が飛んでいる。自然と蛍と呼ぶ自分がいた。きっと蛍を追いかけていた賑やかな子供の頃を思い返しただろう。誰も来なかったのは今日だけではない、昨日も居なかった。だけれども遡ってゆけば子供の頃から誰も居なかった訳ではない。誰かと会ったのは何時が最後だっけ。誰も居ないから寂しいのではない。賑やかな日を思い返したから寂しいのだ。

ほうたる追いかけほうたる振り向く

かさりこそり音させて鳴かぬ虫が来た

鳴かぬ虫が音をさせている。山頭火は対比の面白さが歌である。だけれども対比だけではない。対比の中にある主題が宿っているように見える。そのほとんどは孤独だと思われる。この孤独と登場する生き物は何も関係がない。その風景は賑やかなのだ。だから孤独は山頭火だけが孤独なのであって、周りはとても賑やかと思えてくる。

なぜ歌は静かなのか。いやこれはこっそりと呼ぶべきかも知れない。山頭火の歌はこっそりとしているのかも知れない。

ひっそりこっそり虫が見ている


行乞途上

お寺の竹の子竹になつた

竹の子だと思っていたら、竹に変わっている。その変わった瞬間は見ていない、そういう時間の欠落が、静寂にあるお寺で起きた。昔から変わらぬようにあるお寺で竹が変わってゆく。時間が経過してゆく。その時間の流れから置いてけぼりを食ったかのような寂しさ。

みかんむかれてみかんがない

雲がいそいでよい月にする

雲が急いだからと言って月が良くなる訳がない。雲も月もべつべつのものだ。遠く離れているふたつが重なって見えているだけだ。雲が早く空を流れていたのだろう。その動く速さが少しでも早く月を見せようとしていたのか。

雲が消えたから月の光がくっきりしたのか。それとも雲に隠れた月が雲をより照らしているのか。雲と月の間にさえ関係性がある。だのに自分とは何の関係性もない(傍観者のような関係性はあるけれど)、雲は月を良くするが、自分には何もしようとしない、という感じがある。山頭火と対象の関係性は一方通行なのかも知れない。

空が晴れ渡って月ばかりだよ

うごいてみのむしだつたよ

うごくのを見た。なんだろうと見た。みのむしだった。

「だつたよ」というから、誰かに伝えているのだろう。という事は動いたのを見た時はひとりきりだったのだ。その時の孤独が誰かと話すことで癒されている感じがするかも知れない。

波がここから遠くへいったよ