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2010年7月31日土曜日

秋 - 小林秀雄

よく晴れた秋の日の午後、
から始まる、奈良の二月堂あたりをぶらぶらしていた時の随筆だろう。

若き日の思い出を語り、プルウストについて語る、プルウストについての連想は、ただ圧巻だと思う。プルウストについて書かれたかのように見えるが、このエッセイはそんな所にない。

君ならよく知っているよ。

そう牛に向かって言う時、プルウストの時間は失われて、はっきりとした情景が浮かぶ。

道ばたの石燈籠にに牛がつながれていた。いい黒い色をして、いい格好をしている。コーンビーフになる牛は知らないが、君ならよく知っているよ。日本人は千年も前から君を描いてきた。

2010年7月30日金曜日

読書について - 小林秀雄

僕は、高等学校時代、妙な読書法を実行していた

から始まる小林秀雄の「読書について」。本は、新書、単行本、電子書籍など種類は多く、ジャンル多彩、出版数も莫大だ。どれかを選び読んでゆく楽しみが読書だろうが、活字だけが読書ではない。雑誌、漫画、ファッション、写真集と、本を読むならばそれは読書だろう。

あまりに多い本の中から読む本を選ぶのは大変だ。と言うことは、売る方も大変なはずで、新聞の書評からアルファブロガーの書評まで、本との出合いはビジネスである。本屋で偶然に手にしたものは恋愛で、書評で出会ったものは見合い結婚みたいなものか。

さて、9ページ8節からなるこの小品も、また、読書しながら、読書について考えさせる。タイトルが「読書について」とあるために、まさに読書しながら、自分の読み方を確認しなければならない。本くらい好きに読ませてくれよ、と言いたくなる。

だが、タイトルに影響されて読み方が変わるようでは読書は怪しいし、タイトルなんぞはなから見ないで読んでいるかもしれない。読書は詰まらなければ、二度と読まなければいいし、途中で止める自由がある。読書について、どう書かれていようが、それを受け止める自由は読む側にある。

読み方というものは、誰もが自分なりの方法を持っているだろう。この小品も話はそこから始まる。「妙な読書法」とは、「濫読」の事である。手当たり次第、興味ある本を読んでいた、数種類の本を並行して読んでいた、と書いている。「濫読」は「読書の最初の技術」を得るためにはいい方法だろう、と言う。「濫読」は、本を最後まで読む癖が付く、らしい。

そして、一人の気に入った作家がいたら、徹底的にその作家のものを読めと言う。

その人の全集を、日記や手紙の類に至るまで、隅から隅まで

読み尽くせと言う。そうしていると、その人がまるで隣人のように感じられるようになるそうである。「ONE PIECE」を徹底的に読んでいけば、尾田栄一郎という人の姿が見えてくる、というのである。

作家の傑作だとか失敗作とかいうような区別も、べつだん大した意味を持たなくなる

片言隻句にも、その作家の人間全部が感じられる

書物が書物に見えず、それを書いた人間に見えてくる

これは「経験」であると書くが、「作家の性格とか、個性」だとか意味をなさない、顔は知らないが「手はしっかり握った」という分かり方をするそうだ。

そのためには、

読め、ゆっくりと読め

相当な時間と努力とを必要とする

という読み方がいる。サント・ブウヴは、

彼ら自身の言葉で、彼ら自身の姿を、はっきりと描き出すに至るだろう。

と語る。

こういう風に読むことが読書であると言う。畢竟、人間と付き合う事と読書は変わらない。これが「文は人なりの真意」であると言う。The style is the man himself. 『一般と個別の博物誌』を著した数学者で博物学者でもあるフランスのビュフォンの言葉だ。本から作者の言っていることが分かる事ではない、本が作者に見えてくる事だ、と。

「人間をよく理解する方法」と同じように「読書」をするべきだ、と言う。なあに簡単だ、自分の息子や娘の手紙のように読んでみればよい。この日本の批評家は、全ての仕事をそうやって来た、とここで告白しているに等しい。それを「朋、遠方より来たる有り、亦た楽しからずや」の一言で済ましても良かったはずである。

自分は、本を読み、絵画を見、それを批評したのではない。彼らの姿が見えるまで、読み、見てきたのだと言っている。姿が見えないのに、彼らを語ることは「亡霊」を語る事だと言う。亡霊について語って平気でいる態度を「無邪気」であると揶揄する。

実生活で、論証の確かさだけで人を説得することの不可能を承知しながら、書物の世界にはいると、論証こそすべてだという無邪気な迷信家となるのだろう。

実生活では、

人間はほんの気まぐれから殺し合いもするものだと知っていながら、自分とやや類似した観念を宿した頭に出会って、友人を得たなどと思いこむに至るか。

人と付き合う時に自明な事が、本を読んでいる時は忘れてしまう、それはおかしな事だと言う。そのおかしさは、結局のところ、人の分かり方にあるのだろう。

みんな書物から人間が現れるのを待ちきれないからである。人間が現れるまで待っていたら、その人間は諸君に言うであろう。

君は君自身でい給え、と。

一流の思想家のぎりぎりの思想というものは、それ以外の忠告を絶対にしていない。

読書する人に何かが足りないなど、そんなわけはないのだ。

この小品が掲載されている手頃な本は既にない。全集でしか読めない小品も多いが、最も影響を受けたので最初に紹介した。