stylesheet

2015年8月28日金曜日

零戦少年 - 葛西りいち

この世界の片隅に - こうの史代 を読むときに 8/6 が決して避けられないのと同様に、零戦に乗った祖父が特攻と向き合わないことなどあり得ない。

それは日本の全ての飛行機乗りを待ち受けている来るべき未来であって、それを知りつつ読み進めることは、恐らく、それを実際に経験した人とはまた違った感情を持つ。

清水茂、逢坂広、葛西安男を中心に物語が進む。数コマしか描かれなかった人達にもその後の人生はあったはずだ。戦局が悪化するにつれて、彼らは南下してゆく。自分たちが信じている海軍精神が辛うじて崩壊から免れたのは、彼らが堂々としていたからだ。多くのそういう人たちの無言が日本である。腹を切って苦しんで死んで逃れようとした人々ではない。

これほどの特攻シーンを見たことはない。その数ページほど素晴らしく描いた描写も見たことはない。これからもないだろう。

これは残さねばならない描写であって、そこにあるのは冷徹なまでの傍観者、観察者の視線である。なにひとつ、そこに作者の色を加えていない。そう決心した美しさ。

操桿し今まさに突撃しようとする人たちがそれを拒絶した、とも言えようか。静かにしておくこと、ただペンを走らすこと、それ以外の何がある。

過去を、他人を、世界を、自分語りのために剽窃し、それを切り売りする人がいる。そこから人々を感動させる物語を作り上げるなど簡単なのである。感傷を誘い、共感を起こし、逼迫した決断を迫る。人々をもらい泣きさせ恥じもない。

だがこの作品は違う。きっぱりと。何故ならこの作品が目指しているものは感動ではないからだ。人の心を揺り動かそうなど一切していない。描かれた時の流れがとてもいい。

過去は過ぎてゆく、記憶から薄れてゆく。700 年もすればこの時代の話など忘れ去られよう。それでも 70 年が過ぎてこういう作品が読めることが本当に嬉しい。この国に漫画という表現が根付いて本当に良かった。

2015年8月22日土曜日

鉄十字勲章

鉄十字勲章Iron Crossの中央にハーケンクロイツ(卐/右卍)をあしらったものはナチスが制定した1939年章として知られる。

ナチスが 20 世紀に人類が生み出した政治体制の中でも最悪の部類に類することは間違いあるまい。しかしそれがドイツのすべてを否定するものではないし、当然ながらナチスというものが指し示す何かは複雑である。

歴史的な実態を持ち、政治体制として、軍事組織として、ドイツの生活として、戦争を実行した主体として、さまざまな側面を見せるものである。我々には組織をひとつの人格と見做そうとする癖がある。

あれだけの大多数の人々が関わったナチスをひとつの人格で理解するなど無理に決まっている。それでもナチスはある抽象的な概念に昇華しようとしている。その精製過程で起きる混乱は、ひとりは水を氷と呼び別の人は雲と呼ぶ。そんな感じである。

死者数だけで言えば、ナチスよりも遥かに多くを殺した指導者は居る。民族浄化の歴史も枚挙に暇がない。しかし、ナチスが近代的官僚制度を用いて実行したことに人々は恐怖した。よく整備された官僚制度が効率化を追及すればあれだけのことがでできる。

効率化は現在も多くの企業が最上位に置く価値である。ならば企業もひとたび狂えばナチスと同じ行動を起こすのではないか。効率化を進めていけば必ず人間性と対立する場所が来るだろう。そこで立ち止まれるのか。

人類の歴史を紐解けば、民族の滅亡など幾らでもある。大航海時代以降には、持ち込まれた伝染病で活力を失い、狩猟の対象にされた人々もいる。遠い過去にはネアンデルタール人を絶滅させたのはホモサピエンスであるし、多くの動植物が今も絶滅している。その事実が深淵となって我々を飲み込みはしない。それは過去であり、克服すべき課題であっても、忌み嫌うようなことではない。

恐らくナチスは今も我々の鏡なのだ。覗き込めば、なんとも不気味な自分の姿が見えてくる。その深淵に落ちてしまいそうだ。もしあの状況に自分が置かれた時、誰が抗えたであろう。そう自問せざるえない。誰に否定できるだろう。

近代化された効率的な官僚制度、民族に基づく全体主義。そこに囚われれば、またあの事件が起きる。そこから逃れる術はまだ見つかっていない。だから、ただ警戒せよ、近づくな。

ナチスが勝利していれば、もちろん歴史は全く異なる局面を見せただろう。それがどのような世界をもたらすだろう。ナチス政権下のドイツの人々にとって、ナチスはどういう生活を提供したのか。誰もが逃亡した奴隷のように隠れていなければならなかったのか。それは今も爆撃にされされている地域よりも暮らしにくい世界だったのか。ジェノサイドは決して悪夢ではない。それに近いことは今も世界で起きている。

ナチスの象徴性は、時間経過とともに変わってゆく。時代を経ればどのような悪夢も薄れてゆく。その評価も非難されたり見直されたり再発見されてゆく。次第に変わってゆくものならば、結局、自分たちにできることは、生み出されたものを歴史の判断にゆだねてみるしかない。だから今の価値基準で全てを葬ってはならない。許されるのは封印までだ。

千年後を考えてみる。その頃の人々がナチスのデザインを見て何を感じるだろうか。我々が十字軍について思うのと変わらぬであろう。それは既に過去であって感情的に語られはすまい。彼らはデザインのひとつとしてそれを楽しんでいるかも知れない。デザインから象徴性が失われているのである。

しかし、それは将来の話であってナチスを連想させるものはまだ風化する途上にある。そこには深淵があって、近づけば落ちてしまいそうだ。

デザインが純粋に形状だけを意味するのであれば、どのようなデザインもこの世界に存在可能である。それは言論の自由があらゆる言葉の存在を否定しないのと同じである。

しかし、個人の思想も言論も造形も信仰の自由も、社会が無条件でそれを許容するわけではない。世界が広がれば人々が増える。社会は自分だけの世界ではない。お互いの許容で社会が成立するから、そこには合意という制限が起きるのは自然と思われる。

何を許容するか、何を禁止するか、それは法が規定するのではない。法はその幾つかを再定義したに過ぎない。法は罰すべきものを罰するために必要なのであって、社会の許容範囲を記述したものではない。全体主義ならば全てを法に記述するかも知れない。それは教義だ。

だからといって法に書かれていないことは全て許されるという主張には現在の定義を完全なるものと見做している短絡さがある。社会の変遷を法は追いかけることしかできない。社会は常に変化している。

昨日まで許されていたものが明日もそのままとは限らない。昨日まで許されなかったものが明日もそうとは限らない。だから許されているから正しいという論理は成立しない。

誰もが同じ場所に居るわけではない。誰もが同じ座標に居るわけではない。誰もが同じベクトルで動いているわけではない。あたかも統計力学の気体運動のようなものだ。個々の議論を見れば互いに衝突することはある。

ナチスを知らなければ、右卍はただのデザインであって、好き好きの問題に過ぎない。しかしナチスを知っていればデザインが好きだけとはもう言えない。その好きという心理が、ただの形なのか、ナチスの思想に同調しているのかを他人は区別できない。形が好きという心性の底に潜んでいるものを誰が分かるだろう。

再びナチスを生みださないためにはどうすればいいか、と危惧する。ヨーロッパは未だそこを乗り越えていない。だから今は徹底的に封じ込めておく。それでも貧困と格差が一部の人々をネオナチに向かわせている。

それは日本が先の敗戦を再び繰り返さないためにどうすればいいかを分かっていないのと同様だ。こうして僕はあらゆる局面に同型を類型を見つけてしまう。それを同じ場所で足踏みしているだけかもといぶかる。

とまれ、ナチスへの熱狂、近代的官僚制度、資本主義経済、石油に依存する文明、軍隊の機械化、国家の総合力としての戦争、敗者からの解放者。その向かう先が何であれ。

もう一度と願う人々が欲したのは何かの優越感だったのか。それは不安からの逃避であったろう。抑圧された精神の開放であったろう。その先に深淵が待っていようと構わない。ここではないどこか、そこならもっと上手くいくに違いない。そういう希望はなかったのか。

その先の深淵に落ちたのではないか。いまだ封じ込めるしかない歴史がある。我々は何をしてしまったのか。なぜあのような狂気が起きてしまうのか。ヒットラーの気まぐれな狂気が、かくも整然と最大の効率をもって、国民を動員し、何ら問題が起きることなく進捗させてゆくのか。我々のこの制度には何か根本的な欠陥があるのではないか。

封印している間にそれを検証する。そして、我々の社会制度ではもう起きぬ。そういう認識に共有されたとき、ナチスは過去へと至るだろう。その時には右卍もひとつのデザインに戻るだろう。まだその夜明けではない。

2015年8月2日日曜日

なぜ超能力は淘汰されたか

異星人では生来の能力として超能力を獲得している人種は少なくない。だが人類では既に失われてしまった能力である。ときたま山野浩一氏の例のように先祖帰りが起きるのみである。

なぜ地上では超能力は淘汰されてしまったのか。進化論によれば、獲得した形質が環境に適応しているならば、その能力はより強化されるよう進化するはずである。

明らかに超能力は退化した能力である。それは人の尾と同じである。生物の進化は効率化と多様化の追究であって、その方法論は量子コンピュータに近い。本論文は進化の中で超能力がいかに役立たずであるかを述べる。

以下に考察の対象を列挙する。それぞれの能力が如何に淘汰されたかを記述する。
  • 発火能力
  • 念写
  • 透視
  • テレパシー
  • 瞬間移動
  • 予知
  • サイコキネシス

発火能力

発火能力のある個体が最初に火を使い始めた。それは今から約12万5千年前。ホモ・エレクトスという種である。このことから超能力はホモサピエンス以前の類人猿で既に獲得された能力であると推測できる。

超能力によって火を扱えることは適者生存にとって有利に働いたであろう。しかしそのアドバンテージは長くは続かなかった。その後に出現した更に知能の高い猿人によって、発火能力の優位性は失われた。

知能が高く手の器用な猿人は発火能力を使わなくても、木の摩擦を利用して発火する方法を発見した。これによって発火能力に依存しない、どの個体でも等しく火を起こす革命が猿人の社会で起きたのである。

発火能力は生まれつきの能力である。個体間の能力差も大きかったであろう。この生まれつきの能力によって群れの中での格差も決まってしまったであろう。

そこに生まれつきの能力に依存しない、どの個体でも等しく使用できる発火法が見つかったのである。発火法の発見が個体間にある生まれつきの格差を消失させたのである。

次第に火の使い方が上手になるにつれて、発火能力の優位性は次第に失われていった。木が濡れていたり、燃やすものがない状況でしか意味のない能力である。しかも、知恵を付けた猿人は、そのような困った状況を回避するために、事前に準備したり、備蓄をしたり、何か所にも点在させて保存するなど、工夫を重ねていったのである。発火能力は既に生存競争に寄与しない能力であった。やがてこの能力を持つ個体は自然淘汰され失われていったのである。

現在でも先祖返りによって発火能力を持つ個体が出現する。しかしその能力は強い感情の発露によって発現する。哀しみや屈辱によって発火し制御不能に陥るため、多くは自分や住居を燃やし不幸な結末を迎える。

発火能力の方法
  • 体の近くの原子を激しく摩擦させる
  • 近くにある可燃物(人体を含む)が燃える

今や発火能力よりも100ライターの方が便利である。かつ安全である。100円ライターがあれば発火能力など不要である。もし発火能力を有する者がいるならば危険物取扱者資格を取得することを強く推奨する。


念写

念写は暗い箱の中に置かれた感光材に対して何等かの粒子(恐らくX線)を放射するものである。それは感光材のすぐ近くに電磁波を発生させる能力であり、意識的に放射線を作り出す能力である。

X線として光子を任意に発生させるのであるが、その粒子の数はアボガドロ定数(6×10^23、1兆(10^12)のおよそ一兆倍) の何十倍にも達するであろう。これら一粒づつを制御しているとは考えられない。念写したい形の電磁場を空間に生み出しているのだろう。そのため念写で写された画像はぼやけているのである。

念写の方法
  • 特定の空間に電磁場を生成する
  • 電磁場から放射線が放射されるようエネルギーを与える

この能力が放射線の発生ならば物理学の研究には有益であろう。もしその能力が CERN の LHC を超えるものであれば、科学への寄与は計り知れない。しかし、X線は1895年にレントゲンが発見するまで未知のものであった。故にそれ以前に念写の能力に気付いた人は皆無であったろう。この能力を持っている人は手かざしで腫瘍に対する放射線治療を行い、病気を治療する人として活躍したであろう。

いずれにしろ念写の発見は写真によるものである。本能力は感光物質が生産されなければ発見されなかった。そして写真が生まれた直後は写真への珍しさから話題になったが、カメラが広く社会に浸透するに従って忘れられたのである。

今や誰もが携帯を持ち、何百万画素の写真を撮る時代である。そのような時代に念写にどれだけの価値があるだろうか。それは単なる薄ぼんやりとしたピンボケ写真である。念写という事実以外に注目すべき理由はないのである。

本能力を有する者は診療放射線技師資格を取得することを強く推奨する。


透視

透視には目が必要と思われる。多くの記録にも目を瞑って透視したという記述はない。黙想で見えるのならそれは未来であって、光景ではない。仮に透視を予知の一種、時制をごく短い未来(1ms)の予知とすればその能力は目を瞑っても発揮できるであろう。

ここでは目の視覚能力としての透視に限定する。本能力は可視光以外の何らかの粒子を見る能力である。それは赤外線、放射線、音波などであろう。

透過する範囲を指定して透視できるのであれば、それは体から何らかの量子を放出し、その跳ね返りを目で認識している可能性が高い。蝙蝠の超音波やレーダーなどと同等の能力である。

透視の方法
  • 粒子を対象に向かって照射する
  • 跳ね返ってきたものを視覚で認識する

この能力は太古の戦争では極めて有益であったろう。隠れた人間を探したり、手紙を盗み見るなど、スパイとして必要な能力である。しかしこの能力への対策は簡単である。ただ相手の目を潰せば良いのであり、敵としてはこの能力を有するものを探し出し、近づき、目を潰す、または殺せばよいのである。

この能力は死亡するリスクを高める。味方は彼を守るために敵から隔離せねばならず、隔離すればその能力は発揮できないのである。こうして透視能力は意味を失うのである。

現代では透視は服を透過するしか能力がない。しかも人体は複雑な曲線で構成されており、服と皮膚の間だけをトレースするのは至難の業であろう。例えば 10cm の平面を透視できるとしても、それは MRI の画像である。女性の乳房を見ようとしても胃の中が見えたりパンツの中を覗こうとして足の切断図を見るようなものである。本能力を有する者は医者の道へ進むべきである。


テレパシー

黙っていても他人と会話できる。これはコミュニケーションの改革である。グラハム・ベルが電話を発明する前から遠距離の相手と会話できた能力は太古においても重宝されるであろう。

この能力者はどうやって会話する相手を特定したのであろうか。伝達手段が音であれば誰にでも聞こえてしまう。しかも相手の返事を受けることができず、テレパシーを発信した当人でさえ相手に届いたかどうかさえ分からない。

よってテレパシーは相手の脳波を自由自在に操るものと想定できる。相手の脳波を自由自在にして音を聞かせたり、相手が言語化した内容を読み取ることが出来るのである。

ただし、なぜ操作できる脳波が聴力野と言語野だけに限定されるかは不明である。限定される理由が脳の構造に起因するとは推測できるのだが詳細は不明である。

テレパシーの方法
  • 会話したい相手の脳波を探し出す
  • 相手の聴覚野の脳波を操作し、声を聴かせる(擬似幻聴)
  • 相手の言語野の脳波を読み取り、言葉を理解する

コミュニケーションの円滑は携帯電話があれば十分である。しかし音声よりも圧倒的にメールでのやり取りの方が便利である。テレパシーを電話に例えるならば、メールは文字の発明である。テレパシーを使って情報をやり取りをするよりも、文字を読み書きできる方が圧倒的に便利だったのである。

相手の考えが読める能力は便利に見えるが、他人の妄想は決して綺麗事ばかりではない。それを読み続ければ心を病むことは必死である。

稀に人の考えを読む事に興奮を覚える奇特な性格の人も居るだろう。しかし考えを読むという事実が王に知られてしまえば猜疑心を呼び込むのは明白である。

乃ち、この能力者は最後は王に殺されざる得ないのである。それを知っている者はひとり気を狂わすか、死ぬまでこっそりと楽しむしかないのである。


瞬間移動

他の場所に移動できるテレポーテーションはしかし、地球の自転、公転、太陽の銀河の周りの公転、更には銀河の移動、宇宙の膨張を考慮した座標をどのように指定しているのだろうか。

相対性理論を待つまでもなく、我々が地球の自転を意識せずに移動できるのは重力によって地球と一緒に移動しているからである。

よってテレポーテーションは地球の重力から逃れることは出来ないと思われる。これによって能力者は 100m 先だけを意識して移動できるのである。

重力から逃れられないという事は例えば月への移動は困難であろう。地球の裏側に移動することも困難ではないか。重力場に束縛されているため、重力が空間をひずませる。場所が変われば空間のゆがみも異なる。そのため単純な空間の写像では正しく像を結ばないようにと思われる。空間の異なる場所へのテレポーテーションはこのような危険性をはらむものである。

量子のもつれを利用した量子テレポーテーションは時間と空間を超えて起きる(情報が伝わるには光の速度を超えられない)が、瞬間移動は量子テレポーテーションを利用したものであろう。

テレポーテーションとは、移動する前に、ある空間にある全ての量子の量子もつれを作成し、任意の場所にそれを配置、それから情報を移動する方法と言えるだろう。量子テレポーテーションで空間の全ての量子の状態を他の空間にコピーし、その情報を元に原子構成を再構成するのであろう。

移動できるのは量子もつれを作成した時点での状態であって、もつれを作った以降の記憶は失われる。それでも、欠落する記憶は僅かで済むし、テレポーテーションをするという記憶さえ残っていれば記憶の欠落を補うことは可能である。それは眠って記憶がなかったと思えばいいのである。また A,B の順と B,A の順で異なる情報を送信できるのである。

テレポーテーションは、どこに量子もつれを配置するかであって、その配置は光速を超えることはないし、距離にも限界があるだろう。だいたい数百kmの範囲で使用できるであろう。

テレポーテーションの方法
  • 移動元となる原子の量子もつれを作成する
  • 作成したい量子もつれを移動先に配置する
  • 移動先で観測状態を作り量子テレポーテーションを起こす
  • 量子の状態に応じて移動元と同じ原子構成を再現する

テレポーテーションには幾つかの課題がある。まず量子もつれをどの範囲で作成するかである。生命活動をしている範囲は良いとして、胃の中や腸にある排泄物まで量子もつれを作って送るのだろうか、寄生虫や病原菌も転送するのだろうか。

もし生命活動している細胞だけが対象ならば、血液を流れず水はテレポーテーションの対象外であり、元に戻した瞬間に人間の干物が出来上がる。

それはナンセンスであるから、テレポーテーションでは自分の身の周りの空間を丸ごと移動させていると考えるべきであろう。そう考えれば、服、物品ごと瞬間移動している理由も妥当である。逆に言えば、移動する空間に腕だけを突っ込んでおけば、腕が瞬時に消えてしまうだろう。注意が必要である。

移動先は再現するのはいいが、元の空間にある原子はどうするのであろうか。これは「どこでもドア - 哲学的な何か、あと科学とか」問題と同じ課題であって、消滅させねばならない。そのメカニズムは量子もつれによって元の空間を消し去ると思われる。

テレポーテーションは伝達役として重宝されそうだが、史実によれば使用された記録は僅かである。なぜならテレポーテーションには高さの問題があった。移動先の高さが数m 違えば、地中に埋もれるか、空から落ちてケガをする。結局、サイコキネシスを持たぬ能力者はこの能力を使えず、馬を使って伝書する方がよほど便利だったのである。


予知

予知とは未来に起きる出来事を読み取る能力である。今の我々はそれが量子力学を基本とするエヴェレットの多世界解釈と関係する能力だという事が分かっている。

予知能力は、多世界におけるどれか一つを決定する能力と定義できる。幾つもの多世界に分裂してゆく世界に対して、自分が読み取った世界と現在をシンクロさせる能力である。

我々はこの能力に関する如何なるメカニズムも思い付かない。しかし、この能力が失われてゆく過程は説明できるのである。

予知能力が起きうるあらゆる多世界のどれかは選べても、未来を自由自在に出来る能力ではない。幾つかの選択のうち、望ましい未来を選ぶだけである。また全ての多世界を見る事は不可能なのだから、自分が限られた時間の中で探し出したものから、一番望ましい未来を選ぶことになる。

無限の多世界を全て見ることは不可能である。多世界の未来は脳の全ての細胞の数よりも多い。仮に細胞ひとつにひとつの未来を割り当てたとしても、それより多い情報は保持できない。限られた時間ですべての情報に触れるのは不可能だ。

予知とは畢竟すればあらゆる量子の組み合わせが時間経過においてどう変化するかである。その取り得る運動量の全て記録することは不可能である。だから未来を見ると言っても幾つかの大まかな違いからどれかを選ぶしかないのである。

多世界を重ね合わせたら、少しづつ違う所のある絵に見えるだろう。同じ所は濃い色となって見えるし、異なっている部分はぼやけて見える一枚の絵画である。それが時間の流れで動画として見えるはずである。予知とは、その動画の中から、どれかを選択することである。

予知の方法
  • 現在から起きうる多世界を出来る限り読み取る
  • そのうちの特定のものを選びだす
  • 選択した未来と現在とを結びつける

もちろん、見える部分は限定的である。限られたエリアであって、見えていない部分で何が起きているかは分からない。そのため見えていない部分で不都合を選ぶ可能性がある。

これが自分の身に起きることを完全には予知できない理由である。王の未来を予知した時に、自分に何が起きるかは見えていないかも知れない。これが予知の限定性である。

また未来を回避したくても、見えている範囲の中から回避できる未来が見つからなければどうしようもない。既に選ばれた未来からどうしても回避できる未来が見つけ出せない、回避する未来を多世界の中から限られた時間では探し出せない、状況は起きえるのである。

賢明な王は予知というものが限られた未来からどれかひとつを確定させることであり、それは人々が日々決意し未来を生きる姿そのものであり、その中にあって未来を知る予知者が自分にとって都合の良い未来ばかりを選ぶであろうことを見抜き、必ず予知能力者を殺してしまうのである。


サイコキネシス

戦争に最も有益な能力は念力であろう。人を殺すのに槍も矢も必要ない。動脈に小さな穴を開けるだけで十分なのである。

  1. 空を飛ぶ
  2. 石や水などを飛ばす
  3. 崖崩れを起こす
  4. 川を氾濫させる
  5. 相手の動きを封じる
  6. 他人の内臓を潰す、脳幹を切る

巨大なサイコキネシスがあれば、一国の大軍と渡り合うことも不可能ではない。ハンニバルにように像に頼ることもなくローマを蹂躙することが可能なのである。

だが、人は食べてゆかなければならない、排泄をしなければならない、寝ずにすむわけにはいかない。

いかに強力なサイコキネシスがあろうとも、奴隷を1000人殺す気になって連日連夜やすむことなく攻撃を続けてゆけばいつか疲弊し倒れるだろう。

サイコキネシスが強力である程、王はその存在を無視できない。常に反乱に備えなければならぬ。暗殺の恐れもある。王からすればサイコキネシスを持つ者は自由気ままな軍隊を国内に持っているようなものである。だから見つけ次第に抹殺すべきである。

コントロールできない軍隊を使おうと考える王はいない。強力なら強力である程、ただちに殺すに如くはない。もし彼が仲間を作れば更に排除は困難になる。

こうして念力を有するものは直ちに社会から排除されるのである。それが嫌なら社会を捨てひっそりと生きるしかない。

最初は彼らも能力者同志で纏まって生きるのであるが、次第に王の苦悩を彼ら自身も味わうことになる。隣にいる彼が突如襲ってきたらとどうしようかと。疑心暗鬼は結局、離れ離れになって生活する道を選ばすのである。

こうして孤独に耐えきれず自殺するものや、寂しさから近くの村から人をさらってひっそりと生きるしかないのである。念力は自然の中で狩りをして生きてゆくのには都合の良い能力である。

天狗であれ、仙人であれ、そういう訳である。神隠しはこうした訳である。温泉の底が繋がっているのではないのである。