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2021年4月21日水曜日

人類史俯瞰、帝国主義と資本主義 - 経済学 III

帝国主義

大航海時代を切り開き世界中に進出したヨーロッパ人は、世界中に人間がいる事を知る。人間が居住する処には資源がある事を知る。

当時の最先端の科学技術は帆船と天文学と時計であった。それを可能としたヨーロッパ人は世界中で略奪を繰り返す。略奪をし尽くした後に、彼らは考え方を変えざるを得なくなった。農作物こそは毎年収穫できるものである。それをヨーロッパに持ち帰れば飛ぶように売れた。

農作物を買って売るよりも自分たちの手で農場を経営する方が利益が良い。作物が育つ条件は土地の特性である。その土地に水も労働力もある。結論としてより多くの収益を目指すなら、その地域を支配しなければならない。

幸いに彼らには銃があった。大砲もあった。帆船もあった。銃が活躍するとは、それに屈服する人間が存在するという意味である。スペイン人はそうやってアステカ帝国の統治を終焉させた。アメリカはそうやってインディアンを追い出した。しかし略奪は決して生産には勝てぬ。この点で資源を奪う略奪型の経済主義よりも、土地を奪う生産型の経済主義が優れていたのは必然と思える。

現地で農作物を生産する経済システムが帝国主義である。この経済主義は、海外に植民地を確保し、そこで農作物を生産し、それをヨーロッパという市場で売る。安く生産し高く売る。この経済の原則を満たし、かつ、農作物という永続性に立脚する将来の展望も期待できる経済システム。農作物の生産が人間の世界で尽きるとは考えられない。原理的にこの方法は永続するかと思われた。

資本主義

帝国主義がヨーロッパにもたらした富の蓄積は、人々の間に余暇を生じさせる。この余暇が科学と技術の発展に不可欠であった。産業革命が起きるためには、その余暇を研究に捧げ幾つもの失敗を乗り越える人々が必要だったのである。

産業革命が達成したものは単に移動手段としてだけの蒸気機関ではない。工場で動く機械もまた同様であった。綿織物から始まる工業の発展は、多くの工場と多くの労働者を欲した。生産拠点は都市の近郊がいい。そこに豊かな労働力と河川がある。港湾の近くなら輸出入にも都合がいい。

工業を基盤とする経済システムが資本主義である。この経済主義は、都市近郊で工業製品を生産し、それを世界中に売る。工業が発展してゆく過程で、農業との間で市場の奪い合いが起きるのは明らかであった。

帝国主義と資本主義は、それぞれの市場で対立する。

帝国主義と資本主義

南北戦争は、綿花の南部と工業の北部の対立であった。第一次産業と第二次産業の対立と見てもいい。

帝国主義は植民地を必要とする。その市場は、本国である。資本主義は本国で発展する。植民地は重要な市場である。貧しいまま支配を続ける事は機会の喪失であり得策とは思えない。この対立が第二次世界大戦へ世界を導く。

第二次世界大戦は日独伊という帝国主義と、連合国という資本主義の戦争である。枢軸国は帝国主義を欲し、連合国は資本主義を欲した。これを最後に帝国主義は経済システムの主流から引きずり降ろされる。19世紀が帝国主義の時代なら20世紀は資本主義の時代であった。

イギリスという帝国主義の権化が資本主義陣営に立たなければならなかった事は喜劇であるが、否応なく帝国主義の旗を降ろしたから彼らは戦後も中心に居続ける事が出来たのである。一方の敗者たる国々は素早く工業国として興隆する。負ける事で一切を捨てる事が出来たからである。

解き放たれた資本主義

第二次世界大戦で覇権した資本主義は、その後の冷戦によって更に強固な姿を見せた。ソビエトの存在がアメリカの資本主義の欲望を抑え込み、市民の団結が促し健全な中産階級が創造する。広大な中産階級がアメリカの内需を活発化する。遂にソビエト型の資本主義はアメリカの資本主義の前に崩壊した。

ソビエト連邦の崩壊した後の資本主義がその欲望を完全に解き放ったのは自明であろう。強靭な中産階級はもう必要でない。団結する必要もない。資本主義はそこに蓄積されていた富を吸い取る事に注力する。その後のアメリカの歴史は資本主義の欲望が開放された歴史である。貧富の格差が拡大する事を正当とする理論が幾つも構築された。

アメリカ国内の強烈な対立は、全て正当化された。だから敗者は自分より弱い人を見つけては攻撃するしか残されていなかった。貧困は能力の結果と結論された。能力は個人の責任である。もっと言えば怠けていたからだ。努力が足りなかったせいだ。人々はそれが全く正当であると理解している。だからどこにも受け入れるしかない。

資本主義の欲望がむき出しになり、市場を食い荒らす事が、貧困を生み出す。貧困は市場の衰退を招く。じきに市場が活力を失えば経済全体が衰弱してゆく。その当然の流れを富める者が気付くはずがない。現在の資本主義は市場から富を採集するモデルであって、市場を育てる事は考慮されていない。

その意味で、現在の資本主義は狩猟型なのである。豊かな天然の市場を見つけては乱獲し、取れなくなったらまた別の市場を探しに行くというモデルである。乱獲をする漁業と何も変わらない。そして、人々は最後に残った大陸へと集結しつつある。

市場の未来

市場は狩猟型から牧畜型へ、採集型から農耕型にならなければ、資本主義に将来はない。いつか、天然の資源は尽きる。もう天然の市場は残っていないのだ。その先はない。

だが、現在の経済システムに組み込まれていない市場を育てるという思想は、それが古い体制を破るだけの優越性を示さない限り、決して中心になる事はない。経済的背景を持たない理想では世界は動かない。現在の考え方では、仮に市場を育てた企業がいたとしたら、その市場の独占権を主張するはずである。自分たちが育てた市場は自分たちのものである。牧畜と全く同じだからである。

いずれにせよ、アフリカの奪い合いがアメリカと中国の間に起きる。それがまるで民主主義の対立軸に見えるのは単なる偶然だろう。民主主義を標榜するアメリカと共産党主義を標榜する中国がそれぞれの統治システムを全面に押し出して争うのは便宜上の分かりやすさに過ぎない。経済システムはどちらも同じ原理で動いているのだから。

だが、その背景にあるものは強烈な二国間の資本主義の対立であり、市場の奪い合いであろう。アメリカ型の民主主義的な自由を標榜する資本主義と中国型の共産主義的な団結を標榜する資本主義のどちらがこの市場を手に入れるか。

貧困

19世紀のイギリスの労働者の扱いは、植民地の人々とそう変わるものではない。その惨状を憂いたマルクスは資本論を書いた。

マルクスの願いは貧困が齎す人間性に対する危機感であったろう。 それは自国人に対する懸念であったかも知れぬ。植民地の人々が酷い目にあったとしてもそこまで心は動かなかったかも知れない。

いずれにしろ、基本的人権という仮定の中に飢餓は含まれていなかったはずである。民主主義は飽食する権利を想定しない。だから民主主義は飢餓という問題への回答を持っていない。社会保障は各国のそれぞれの裁量で行う。よって資本主義は基本的人権を最低賃金と書き換えて理解する。それで食費に困ろうがそれは資本主義が抱える問題の範疇にはない。

資本主義の原理は、賃金が発生する事だけある。よって賃金を払えば何でも許される。これでも人間と呼べるのか、という状況に追いやられても、経営者は心を痛める必要はない。そういう免罪符も含めて資本主義は人間の心理に負担を掛けないシステムにデザインされている。

人間は学問をしないから貧困になるのである。貧富が人間の能力を決めるのではない。貧困は学問を疎かにした結果である。その当然の帰結であるから、貧困に問題意識を感じる理由は何もありはしない。あくまでそれは当人の責任である。云々、だから何も責任を感じる事はないのである、そう断じた思想家が居た。

本当にそうか、そのようなものが本当に人間が掲げる理想であるべきか。

資本主義の行く末

21世紀に台頭した企業はいずれも重工業ではない。いずれも情報産業である。だが、その行動原理は今も資本主義である。

かつての資本主義は、蓄積された富を人々の間で再配布する役割を担っていた。誰にでもチャンスがあるという希望を支えるのが資本主義の機能であった。その時にお金がないなら、投資として集めれば可能である。そういう機能であった。

しかし、これを突き詰めれば資本主義は短期的な利益に極まる。投資とは如何に瞬間風速を最大にするかを求める事である。それ以外の全ては粗末に過ぎない。その結果として資本主義はカネの流動性を利用して一箇所に蓄積する仕組みになってしまった。まるで河川に巨大なダムを造ったようである。

富の流動は、熱と同じようにエントロピーの低い所から高い方へ向かう。マルクスが想像した共産主義はエントロピーが最大であるシステムだと思うが、それは失敗した。資本主義はエントロピーに抗って一度富を蓄積しエントロピーの低い状態を作る。それからどこかで開放する。それで富に仕事をさせる。この時に行われた仕事を利益と呼ぶシステムである。

富の蓄積が必要なのはエントロピーが低い状態を作る為であって、これは重いものを高い所に運び上げ位置エネルギーを作るのと同様であろう。それをしなけければ次の仕事ができない。では現在の問題は何か。エントロピーが低い状態のまま使われない事にある。富が蓄積されたままの状態にある、または更に蓄積するためだけに使われている。

仕事がエントロピーが低い状態から増大する事だと定義するなら、富の蓄積は仕事を成す条件であるが、低いままでは仕事としたとは言えない。それはポテンシャルが増大する事を意味するが、ではどのように解放されるのが望ましいか、という答えにはなっていない。

自然に放置すればエントロピーは低い状態から高い状態に向かうはずである。それが変わらないのは何らかの流れが出来ているからだ。歴史上、富の蓄積が永続した記録はない。だがその期間が人の命の長さと比較して長いかどうかは別である。恐らくそれを維持するための条件が失われた時にそうなる。

とまれ。貧困はあらゆる悲惨の原因のひとつだ。世界で起きる殆どの不幸が経済的貧困に起因する。それでも資本主義のどこにも利益追求よりも優先すべき原理はない。法が許す限り何事も許容される。こういう原理を持つ資本主義であるから、資本主義が合法的に多くの富を独占しようとするのを否定できる思想はない。すると問題は立法である。立法を支配する事が資本主義の合目的性になる。

企業と国家は対立する。グローバル企業のポテンシャルは既に幾つかの国家を凌駕している。もし国家が経済活動のネックになるならば、既存の国家を捨て、自分たちの国家を打ち立てる事も夢ではないはずだ。

労働

労働が市場を形成する。経済システムは労働を求める。求められた労働がどのような形で形成されようと、その形成は市場を生み出す。帝国主義が形成した市場は、ヨーロッパとプランテーションの地域で並列した。それは富の略奪であると共に、地続きの共通の市場となった。

資本主義は、生産現場が都市圏にあり、労働力も都市圏にある。労働者が市場の一部を構成する。だから豊かな市場のためには豊かな労働者が必要である。しかし資本主義は市場から略奪する形で発展する。市場を食い荒らし、次の市場に向かう。富は蓄積する方向に働くから、現在の資本主義では地方が衰退するのも当然である。富の移動が都市に向けての一方通行だからだ。

新しい経済主義

コンピュータの登場がモノからデータへの移行を促す。データとはモノに付随するものであった。値段やメーカー、誰が広告をしたか、そういうモノに付随するデータが売り上げを決定してきた。

誰が購入し、どう使い、どう感じたか。どこで作られ、誰が携わったか。そしてモノの流通にデータが決定的な役割を果たすようになる。人々はデータに説得されて購買するように変わる。

これまで資本主義が提供してきたモノが中心の世界が、データが遥かに凌駕するのである。モノに様々なデータが付けられるようになる。購買者の動きがミクロでもマクロでも表示され、あらゆるモノがトレーサビリティされ、人々はモノを見て選ぶのではない。データを見て選ぶように変わる。

水も食べ物も車も服も、人々が欲するモノは手に入らないという事情も含めて全て情報の一部である。このデータの莫大な集合がモノの価値を決めるようになる。デザインはモノの一部なのではない。情報の一部である。だから、モノがデータの一部に過ぎなくなる。実体など情報の付属であれば十分である。実体が売れるのではない。情報がモノを売るのである。脳は情報を食うのだ。

人々は既に洪水のように溢れるデータの中で溺れる事は出来ても、干からびる事には決して耐えられない。データが主となる経済システムに変わりつつあるのである。どれだけのデータ量を持つか、これがモノの価値を決定する。モノの流通は部分である。データの流通に世界は変わる。

それは新しい労働者を要求し新しい市場を形成する。そして、この新しい経済システムは資本主義と対立する。そして資本主義が敗れる。

データとは何か。物語でもあり、言語でもある。データには人間が投射されている。データの先に人々は物語を見つける事も感情を揺さぶられる事もある。データこそが人の繋がりなのである。データを通じて人間は通じ合う。莫大なデータが流れる事がそれを可能にする。

人々は太古、この世界を神話という形で切り取った。新しい経済システムにも新しい神話が必要だ。インターネットの世界が神話を欲している。新しい世界には必ず新しい神話が誕生する。人間はどうしても神話という形でしか世界を理解できないらしい。

このような新しい経済システムにはどういう生産が必要か。それを可能にするにはどういう労働者が必要か、その結果としてどのような市場が形成されるか。

現在の日本は資本主義に則った経済システムで先鋭化しようとしている。しかし、それでは次の経済システムへの移行に立ち遅れる。古いシステムを作り上げようと努めているが、それは新しいシステムに駆逐される。神話の中で倒される側になるか。

新しい経済も人間の血を欲するのだろうか、それともそのような暇さえ与えないほど高速に進出してくるだろうか。コンピュータの速度に人間は追いつけない。それでもデータ中心の経済システムは未だ人間中心の労働者を欲するであろう。そしてデータの大部分が市場からのフィードバックであり、購買行動がデータの増大であるから、購買行動が乃ち、労働行為と見做せる。

ポイント還元はデータ主義への流れであり、それが購買意欲にも影響する。データに市場が積極的に関与する以上、購買力のある労働者を育成しない限り、ビジネスは成功しない。貧困な労働者から構成される市場では、安売り以外の競争原理が働かない。それでは市場で勝利できなくなる。

そして、恐らく、その先の経済システムでは人間ではどうやっても勝利できなくなる。

その先の経済システムへ

AI の登場があらゆる活動の主役を人間から奪うだろう。AI 自身が新しい AI を誕生させるようになったなら、人々はあらゆる知的分野で敵わなくなるはずである。数学者たちは最も早く職を失う事になりそうだ。

不完全性定理があろうと人間に出来て AI に出来ない導出などないと思われる。科学者たちが数百年もかけなければ見つけられない発見を AI は僅か数日で見つけるだろう。安定の島に辿り着くのは人間よりもAIの方が先だろう。

勿論 AI という手法にもどこかに漸近線があって、それ以上は先に進めない停滞する場所があるだろう。それでもそのAIの到達点は恐らく人間には遥かに手が届かない。

勿論 AI にも不得意な分野があるはずである。手を使ったり物を動かすならば人間の方が優秀だろう。優れたロボットを組み立てる事が可能だとしても、アンドロイドが設計できたとしても、AI に人間は排除する事は組み込まれていなければならない。なぜならその仮定がなければ、人間について語る事が無意味かも知れなくなるからだ。

そのような時代の人間の労働はどういうものだろう。働く必要がない。またはAIの指示に従う事が求められる社会生活の中で、AIに従っていれば得られる収入で人間はどのように人生を謳歌すれのだろうか。古代のギリシャ時代の人々が労働には奴隷を従事させたのと同じような生き方をするのだろうか。労働は退屈から逃れるための娯楽になるのか。

頭脳を使う主体は AI に明け渡す。その時に人間に何が残るのか。生物学的な神経の興奮にどのような価値を見いだすのか。そのような生き方をしても人間はただ停滞するだけではないのか。ここが人間が停滞する地点なのかも知れない。

何もしない、何も考える必要がない。ただAIが管理する社会で生物学的な興奮にのみ従う。その先に人間には何が残っているのだろう。それでも我々は人間であると主張するためには何が必要か。