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2018年3月24日土曜日

小泉純一郎というレトリック

小泉純一郎のレトリックが日本人の反論を封じた。その中には当時の自分も含まれている。なぜ誰も打ち崩せなかったのか。彼は類稀な扇動者だったか、それとも時代を切り開いた改革者だったのか。

孰れにしろ、その後、彼以上のレトリックに出会った記憶がない。彼の言葉は単なる修辞法ではなかった。圧倒的な説得力があった。その正体を見極める。もし、そこに何らかの理があるなら仕方がない。もしも、そこに議論の敗北があったなら、それは今も続いているはずだ。我々はあのレトリックに否応なく説得された。そろそろ、反撃する時である。だから書く。

レトリック.1

第151回国会 本会議 第28号(2001/5/9)
鳩山由紀夫「総理は自ら、改革に抵抗する勢力を恐れず、ひるまず、断固として改革を進めるとしていますが、一体、その抵抗勢力とは誰のことなのでしょうか。」

小泉純一郎「どういう勢力かというのは、やってみなきゃわからない。私の内閣の方針に反対する勢力、これはすべて抵抗勢力であります。」

鳩山の主張


小泉の主張



鳩山由紀夫は小泉純一郎では何ひとつ変えられないと見ていた。その考えは実に正しい。派閥の圧力の前では改革など掛け声で終わるだろう。それがこれまでのやり方だ。だから民主党でなければ改革はできない。そう鳩山は主張した。

野党と与党という構造を持ち出して論戦を挑んだ鳩山に対し、小泉はそれを古い構造と指弾する。与党?野党?俺たちは党を遇するために政治を行っているのではない。反対する者はすべて敵だ、自民党だろうが民主党だろうが関係ない。最大の敬意をもって全力で叩き潰す。

日本憲政史上、これほど分かりやすい政治状況があっただろうか。賛成か反対か。それ以外の対立はない。何よりこれは古くから日本人が慣れ親しんできたやり方であった。我々は民主主義を知るずっと前からこの方法で決着を付けてきたのだ。

投票結果が NO ならば私は潔く持論を引っ込める。勝利すれば先に進む。これほど単純な話はない。小泉純一郎は正しく民主主義を理解していた。

民主主義とは決め方の方法である。選ばれて何をするかを決めるものではない。勝てば自由にする。負ければ引っ込める。政策で選ぶなど幻想だし、そんなものがなくても決められるのが民主主義の良い点である。

私たち民主党が、党是として主張してきた日本の構造改革に、あなたが嘘偽りなく取り組むというのであれば、あなたの内閣と真摯に議論を重ねていき、改革のスピードを競い合うことは、やぶさかではありません。

しかし、あなたが、目前に迫った参議院選挙のための単なる偽善的改革者であるとすれば、私は、徹底的にその欺瞞を白日の下にさらす決意であります。総理、私たちの国に残された時間は多くはありません。私は単に、危機感を煽るために言っているのではなく、あなたの党が今までやってきたような、改革を先送りする政治をこれ以上続けられては、この国に未来がないと確信するからです。

一昨日の総理の所信表明には、「改革」という言葉が41回も踊りました。その勇ましいかけ声とは裏腹に、具体的な提案はどこにも見当たらず、まさに「言葉は踊る、されど改革は進まず」の感は否めませんでした。

そこで、あなたの政治姿勢についてお尋ねします。

まず、あなたがつい最近まで、森派の会長として支えてきた森内閣は、景気対策と称してはバラマキを続け、構造改革を先送りしてきました。では、一体なぜ、森内閣では改革ができなかったのでしょうか。あなたは昨年、森改造内閣ができたとき、雑誌の対談で「この内閣は歴代最高の出来の内閣だ」と豪語されました。しかしその内閣は、なにもできませんでした。しからば、森内閣ではできなかったことが、あなたの内閣ならできるという理由は、どこにあるのでしょうか。

次に、自公保連立という政権の枠組みをまったく変えないまま、なぜ今度は「改革断行内閣」と言えるのか、あなたは国民に説明する義務があります。国民に対して、総理はどう説明するおつもりなのでしょうか。

さらに、総理は自ら、改革に抵抗する勢力を恐れず、ひるまず、断固として改革を進めるとしていますが、一体、その抵抗勢力とは誰のことなのでしょうか。

民主主義の要諦は議論にある。論戦によって相手の本音を引き出す。とことん対話を続ける。ただしそれで理解しあえるという馬鹿な幻想に落ち込のではいけない。ソクラテスの傍証を挙げるまでもなく、対話の行き着く先は屈服か決裂である。

反対する事を認めるのが民主主義だ。だから、あなたには反対する権利がある。しかしもしあなたが自民党で政治家を続けたければ諦めなさい。私が尊重するのはあなたの意見ではない。あなたの良心でもない。私への賛成だけである。小泉の敵は野党でも自民党でもない。私の敵は、屈服しないもの、敵対することで利益を得ようとする者たちだ。

調整を重ね、全員の合意を取り付ける政治は失われてしまった。調整型を極めた政治は、魑魅魍魎の伏魔殿になっていた。故に対抗するには調整型ではない方法を採用するしかなかった。

それが国民の支持を背景に敵を圧倒する政治である。政治とは首領が盲従する者たちを引き連れて戦うものである。豪族たちが兵を集めて戦いを挑んだかのように。下剋上のなかで武将がのし上がるような。これはオープン化という新しい扉を開いた論戦でもあった。新しい民主主義が到来する。民主党はその流れに乗り政権を奪取し、押し流されていった。

レトリック.2

第156回国会 国家基本政策委員会合同審査会 第5号(2003/7/23)
菅直人「今のイラクに非戦闘地域というのがあるんですか、一体。...
非戦闘地域でなければ出してしまうと憲法に反するから、非戦闘地域というものをどうしてもつくらなければいけない。フィクションじゃないですか。現実に、イラクの市内、あるいは北の方、南の方、ほとんどの地域で何らかの普通の言葉で言う戦闘行為が行われているのは、ニュースを見れば、新聞を見れば、テレビを見ればわかるじゃないですか。」。

小泉純一郎「私はイラク国内のことを、よく地図がわかって、地名とかそういうものをよく把握しているわけではございません。今も、民間人も政府職員も、イラク国内で活動しているグループはたくさんあるわけですから、今でも非戦闘地域は存在していると思っています。...
また、どこが非戦闘地域でどこが戦闘地域かと今この私に聞かれたって、わかるわけないじゃないですか。...
はっきりお答えいたしますが、戦闘地域には自衛隊を派遣することはありません。」

菅直人の主張


小泉の主張



菅直人の具体性に対して、小泉純一郎は法の理論を持ち出す。菅直人は法律と現実の乖離について追及するが、解離があるなど当たり前ではないか、自衛隊が極めて動的に移動するものである以上、状況は刻刻と変わってゆく。送り出す前には非戦闘地域であった所が、一夜にして戦闘地域に変わる事だってありうる。

それは危険だろうと菅直人が言う。だから政治があるのではないか、と小泉が答える。法律はフィクションである。小泉はそう明言したのである。

菅直人だって法律がフィクションであるくらいの事は知っている。そのフィクションに従ったから、あれだけの戦争に突入したのではないか。フィクションである法律と現実を履き違えたから、空想上の世界で戦争などができたのではないか。予想外の災害で全電源喪失(SBO)に落ち込んだのではないか。現実の前でフィクションが引き起こすものは悲劇ではないか。

小泉は、フィクションを現実に落とし込むのは行政の仕事であると答えたのである。ここに書かれている非戦闘地域とは、未来に現実となる戦闘地域のことではない。未来の問題を今の私に聞かれても分からない。立法は常に未来に対して記されるものである。その未来の出来事を現実として向き合うのは行政である。立法ではない。私には分からない、と答えたのではない。原理的に、誰にも答えられない質問であると答弁したのである。

将来の事は分からない。だから、今のうちに様々な想定をしておくべきではないか。菅直人はそう追及したのである。フィクションであるからといって現実への対応を考えないわけにはいかない。この法律に何か欠点はないか、見落としはないか。悪用されることはないか。菅直人はそう聞きたかった。

フィクションに対してノンフィクションの質問をしても分かるわけがない。恣意的な運用をされるならば、どのような法律も作っても防ぐことなど出来やしない。小泉純一郎はリアリストであった。誰に防ぐことができるものか。この点について明瞭に自覚的だったように思われる。誰かが将来その気になれば、ここでどのように議論したところで抗うなど不可能であると。

これは首相という立場にある小泉の本心であったに違いない。これまで踏み出す者がいなかったのは偶々ではない。遵法の精神が強かったからでも、法律が禁止していたからでもない。ただ政治家たちが臆病で、自らをよく律し、最後の一歩を踏み出さないという意志を持っていたからである。

菅直人の懸念は、法律が果たしてどこまで抗えるかという事にあった。小泉ははなからそんなものが幻想だと思っていた。

もし私が当事者の時に、この法律によって何かを判断しなければならないとしたら、困る。菅直人はそう聞いた。

そんな緊急時に法律の話をしている余裕などない。そんなものは事が終わってから自由に批判されればよい。終わってからすべて黙って受け入れるだけでいい。それが総理大臣の唯一の特権である。あなたにも今に分かる。

もし自衛隊員が非戦闘地帯で戦死したらどうするんだ。それを思い、菅直人はぞっとしたに違いない。小泉もぞっとはしていたであろう。ただ小泉は総理大臣であった。既に覚悟していた。

菅直人は後日、亡国について真剣に悩む数少ない総理大臣になった。

レトリック.3

第161回国会 国家基本政策委員会合同審査会 第2号(2004/11/10)
岡田克也「その議論の前提としてイラク特措法における非戦闘地域の定義を言ってください。」

小泉純一郎「イラク特措法に関して言えと、法律上、いうことになればですね、自衛隊が活動している地域は非戦闘地域なんです。」

岡田克也の主張


小泉の主張



「法律ではね」化かされた気がする。だが、法の論理に関する限り、小泉は正直者である。嘘をついていないという点で彼は誠実であった。常識と良識で対峙する岡田克也が間抜けに見える程に。

自衛隊は動かない。地域が動けばよいのである。これはペテンである。詐欺師の言葉なのである。だが、なんと見事なペテンであるか。

しかし勘違いしてはならない。法律はこの発言のどこにも矛盾を見出さないのである。自衛隊は戦闘地域には出さない。だから自衛隊がいる地域は非戦闘地域である。自衛隊が移動する時も非戦闘地域から非戦闘地域へと移動する。つまり、自衛隊がいる場所は非戦闘地域と呼んで差し支えないのである。

法律は言語で構成されるので抽象性、論理性を持つ。しかし言語である以上、現実とは乖離するものである。赤いリンゴという言葉は正しく赤いリンゴを表現しきれない。赤い、もリンゴ、も正しく定義できないからである。抽象性とはつまり厳密性の放棄に他ならない。差異を無視することで共通化する働きである。

圧倒的に小泉純一郎の方が言葉に対して先鋭化していた。岡田克也の言葉は、力強く、現実的であったが、飽くまで表層的だったのである。この抽象性と常識性の闘争において、誰もが言葉を失った。それは政治という表舞台で語られる言葉にしては、あまりに深く突き刺さった棘であったから。

矛盾を突くべき岡田克也の問いに、小泉純一郎は矛盾で答えた。だが、よく考えてみると、この答弁のどこにも論理的破綻がない。

なぜ矛盾しないか。それは論理だからである。最初から最後まで小泉純一郎は法律という架空世界での答弁を行った。ずっと抽象的であり続けた。なにひとつ現実を語らない。それが彼の方法だったのである。

そのうち現実の方からのこのこと近づいてくる。

自衛隊を移動させるのに現地の判断はいらない。それは最終的に政治が決断する範疇である。彼らが勝手に動く事は別の法律が禁止しているはずである。そして政治が自衛隊の指揮系統のトップにある以上、非戦闘地域にしか移動させない。そう規定したのがこの法律である。

法に従う限り、例え自衛隊が発砲してもそこは非戦闘地域なのである。なぜなら、法律にそう書いてある。そして我々の政府は法律違反を犯すようなならず者ではない。

なにひとつ詭弁など弄していないのである。法律の要請に従い、遵法する限り結論はそうなる。自衛隊のいる場所は必ず非戦闘地域である。もし戦闘地域に自衛隊がいるなら法律に違反しているのだ。

法律が常に無誤謬性であるとは言わない。想定外のことは起きる。準備を疎かにすれば一時的に憲法停止さえ生まれるかも知れない。それでも我々は法を守ろうとする。そのための環境を整備する。それが我々の国家である。

だから、そういう状況を想定する事と、この法が守られない事は全く別事だ。どのような場合であれ、どのような国家であれ、海外と戦争する場合、常に合法的に行うのである。非合法な戦争を行った国家などただのひとつもない。

当時の日本に、日本軍の行動を罰する法はなにひとつなかった。連合軍がA,B,Cを持ち出してまで復讐に走ったのはそれが理由である。もし日本人自身の手で裁かせれば誰一人として縛り首にできない。それが彼らにも分かっていたのである。

考えてみて欲しい。もし我々の軍隊が、戦闘地域にいつまでも残っているとか、状況が一変するような地域にいつまでも停留しているなどありうるだろうか。そんな状況を許すなら、それはもう国家的な愚かさである。自衛隊だの軍隊をどうのこうのという問題ではない。

そのような状況になれば法律を守るだの破らないだの意味をなさない。そういう状況になれば法を守ることは何よりも優しい。権力を有すれば有するほどこれほど簡単なものはない。

そういう連中が国のトップに君臨する事を想定して法律がただの一つでも作れますか。我々の前提にあるのは、この国の健全性である。そしてそれを守るものは法ではない。決して法ではない。法でそれを守ろうとするのは順序が逆なのである。

「種々やってみたものだけれど、結局人民の程度しかいかないもの」
西園寺公望

この法律は、自衛隊を送り出す時に非戦闘地域であることを求めている。送り出した後の情勢など適宜対応してくれ。としか言えない。当たり前の話だ。想定していない事が起きるのは世界の常。如何なる状況であれ、それに対応する。その確かさと、自衛隊を送り出す時に確かに非戦闘地域である事は全く別の議論なのだ。

法を逸脱しない限り、何の悪い事があろうか。そう嘯く連中のなんと多い事か。そして次は法を一切破らずに何でもしようとする連中がやってくる。すべてを合法的に略奪すればいい。彼らに法の理念を問うても、賛同するだけだ。人間が長い間、試行錯誤して獲得した理想はそういう便利なものでもある。

岡田克也は現実の無力を恐れた。小泉純一郎は抽象の無力を掲げた。法体系というものを信じる限り抽象でなければならない。その抽象が戦前の愚挙を制限しようなど噴飯なのである。わが国家は近代国家である。軍事とは政治の延長である。そんな事はどこの独裁者でもよく知っている。法で規制しようというのが夢想なのだ。法は人々を押しとどめるテープである。もし破る気になれば、容易い。

なんと脆弱なものの上に立脚する国家か。なんと健全でなければうち倒れてゆく仕組みであるか。

岡田克也は戦前回帰の臭いをかぎ取ったはずである。戦前回帰とは軍国主義のことではない。軍事を以って国際社会と協調する道筋である。

それを如何に律するのか。戦前のあの愚かな敗戦を二度としないために、何をすればよいか。このままでは、全く同じ愚かしさで愚挙に走る。二度目はない。次はもう僥倖はない。

そもそも国を正しく導くという考えが不遜なのか。人間性などを信じて韓非子にはなれない。近代国家の法体系も作れない。だから法は罰則を規定する。甘くもなく厳しくもない、罪と等価な罰則を。

我々の未来を罰則で抑え込もうとするアプローチには無理がある。法の健全な運用は如何にして実現するか。時代とともに健全性は移ろい変化する。我々は何に立脚して法と対峙すればいいのか。

それを放棄した仕組みが民主主義ではないか、と政治家である小泉純一郎は言いたかったではないか。投票結果を見れば明らかだ。誰も何も理解していないのにこの得票率はどうだ。それに否と岡田克也は言いたかったのではないか。法の理念や人間の理想というものはどこへ行くのかと。

かつて人間の社会は、奴隷を所有することを健全としてきたではないか。外の国に赴き侵略の限りを尽くすことが正義だったではないか。とても古い時代はそうではなかったか。ならば、今の我々の健全性も千年後の人々から見れば、野蛮で無知なものではあるまいか。

だから、我々は今の理念と理想でやりくりするしかない。そこに齟齬があれば、根底から見直す。それに耐えられるだけのものを法体系は提供している。この仕組みそのものは決して破綻はしていない。

先人がこれまで押さえ込んできた扉が開かれた。国際社会への貢献という道が。その過程で必ず軍事が必要となる。世界がそれを要求する。それが嫌で国内に引きこもり続けるのか、それとも、おもちゃのような軍事を語り隣国の脅威を叫び続けるのか。

国際社会への参加は、遅かれ早かれ実現しなければならない。問題は、かつてのような愚かさを繰り返さない根拠がどこにあるのか。そのようなものはこの国のどこにもない。聞いても、右往左往の議論ばかりだ。

政治が信によって立ってたまるか。法は矛盾だらけである。政治家は必ず私欲に走る。このか弱い体制は、あっと言う間に瓦解する、その可能性を岡田克也は見た。それは決して政治の力で回避できるようなものではない。だからと言って、政治家が政治家としてそれを放棄するわけにもいくまい。

レトリック.4

「総理大臣である、人間、小泉純一郎が参拝しているんです」
2006/8/15、靖国神社参拝後の記者質問に対して

記者の主張


小泉の主張



参拝は私的な信仰心で行えばよい。それが近代国家の原則である。故に総理大臣という公人の立場で参拝するのは極めて政治的な行動である。それは特定の効果を狙って、つまり利益誘導でなければあり得ぬ。

君たちは私を総理大臣として戦争を賛美していると書きたいのであろう。だがそうではない。私は総理大臣であり、かつ小泉純一郎とう一己の私人でもある。この体が一つである以上、どちらもこの中にある。切り刻んでこれを分離することなど出来やしない。

よって、ここに参拝するのは極めて私人的な思いからである。ただ肩書を捨てるなどできやしない。それだけの事である。私という人間が参拝した。総理大臣という肩書がくっ付いてきたに過ぎない。

もちろん彼は総理大臣という肩書をそこに連れて行きたかったのである。

人間に纏わりつく属性は死ぬまで付き続ける。死してなお。
余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス

虚構も真実も関係ない。人間が行こうが、総理大臣が行こうが、欲しいのは票田である。そこに思惑がある。それは個人的な思惑に留まるはずもない。公人とは、つまり付き合いを断れないという意味である。

質疑応答にはもううんざりだ。私が総理大臣として死ぬことと、私として死ぬことの間に何の違いもありはしないじゃないか。なのに参拝では違うと諸君は主張するのか。そういう覚悟をしてみたまえ。だから、実はどうでもいいのだ。同じ場所に居続けようとする君たちの相手をする気にもなれない。そう言う代わりにただ「人間」と言ってみただけなのだ。

改革の行く末

「私が、小泉が、自民党をぶっ潰します」

2001年の澱んだ空気を一掃する言葉であった。それはバルブ崩壊の停滞から抜け出ない袋小路の日本において、新しい方向を指し示す言葉であった。誰もが長く手探りで探していた道が、ようやく見つかった気がする。これで方角は決まった。改革だ。

取りも直さず、停滞には理由があるはずだ。風が吹いていないのか、それとも風は吹いているのに帆を張っていないのか。その見極めによって未来が変わる。

「構造改革なくして景気回復なし」「構造改革なくして経済成長なし」

そうか、これは構造的な不況なのか。ならば構造を変えれば停滞は解消される。多くの人がその考えを支持した。痛みが必要なら進んで甘受しようと決心した。何年続くか分からぬ痛みでも耐えてみせよう、この停滞からこの国を抜け出させるために。

では構造的欠陥とは何のことだったのか。誰かが言う。それは規制の事だ。だから規制を緩和しよう。

規制を緩和したらなぜ経済は成長できるのか。規制の何が経済を停滞させた原因なのか。誰もメカニズムも知らぬまま、その言葉を鵜呑みにした。

成長する分野がある。停滞している分野がある。停滞している分野はそのまま停滞させ、成長する分野に重点すればいい。構造改革とはそれを促す方法だ。障壁となっているルールを撤廃すれば、競争が起きる。そこで一番強い者が生き残る。きわめて単純な考え方である。何の事はない、人間を野生状態に放り出すだけの話である。動物園の檻を取り除く、動物園の中に人を放り込む。それを妨げているのが規制である。

なぜ規制が必要とされたのか。自然といい野生状態といい、そんなものは昔の状態である。規制には規制が存在する理由がある。

よってただ規制を撤廃するとは昔に戻すことと同じだ。それはこれまで抑え込んできたリスクを野放しにするという意味である。その代わりに得られるベネフィットはどういうものか。

彼らはそれを痛みと呼んだ。何のことははない。自分たちは決して痛みを味わない立場から叫んでいたのである。戦争に行かないもの達ほど、戦争を賛美する例のアレである。

彼らはリスクのヘッジもなんら講じなかった。セーフティネットが声高に叫ばれたが、整備されることはなかった。本音を言えば、衰退する分野の人々は自己責任なんですよ。そう言って切り捨てるのが既定の路線だったのである。

規制緩和とは規制をカットするだ。それによって安い労働力を得ることだ。

一般的に規制を緩和するなら罰則を強化するというバランスが必要なのである。最初に規制によって問題を回避するか、自由に任せるが何か起きた時は厳罰に処する、このどちらかしかない。しかし構造改革は規制を緩和し罰則をなくす改革なのである。

一方でこの改革は既得権益に対して激しく攻撃を加えた。規制緩和によって新規参入者の障壁を下げる。それはど素人に自由に市場に参入することを許すものであった。略奪するだけ略奪してよい、そういう方法論である。羊の群れに狼を放し、それを自由競争と呼ぶようなものであった。彼らは市場が力を失うほどに根こそぎ掻っさらって行った。

経済が停滞している限り、彼らの言葉は決まっている。改革が足りません。もっと激しく規制を撤廃すべきなのです。世界経済の中で日本経済を浮上させるためには更に改革を進めるしかありません。云々。

彼らがやりたいことは市場から必要な金を盗むための合法的な国家改造である。なんら罰則を受けることなく合法的に利潤を得る方法を実現しようと模索したのだ。経済発展も市場の開発にも興味ない。彼らが狙うのはただ労働者の賃金である。

そのための理論武装が組み上げた。何かをするための資金をどこから調達するのですか。まずは予算を立てなければなりません。

小泉改革は人々の価値観を転換した。労働の価値とは報酬である。安い賃金には安い労働しか得られない。雇用が流動する事が経済を活性化するのである。生産性を高めることが企業の利潤を高める。こうして経済的価値とは短期的な利益の追求に極まった。

それまであった長期的な経済活動の価値観を破壊し、短期的な利潤の最大を獲得する方向へシフトした。その経済戦略を一言で言うならば、略奪せよ、根こそぎ略奪せよ、その後の事など知ったこっちゃない、である。

能力に見合った報酬も、雇用の流動性も、生産性の向上も、終身雇用制の終焉もただの一点を目指している。改革の発案者らは自由自在な解雇権を欲している。これさえ手に入れれば労働者を使い捨てにできる。簡単に最低賃金で合意させられる。彼らの賃金を切り詰めそれだけ自分たちの収入を増やす。これが彼らのビジネスモデルである。

この国の経済は既に掘り尽くされている。経済成長も見込みがない。だから残りかすから徹底的に搾り取る以外に利潤を追求する方法はない。それが彼らの主張なのだ。彼らのターゲットは日本経済ではない。経済成長にも興味などない。いかに労働者から簒奪するか。その一点。

終身雇用制の消滅と比例するように日本経済は衰退している。強靭性も輝きも失い、長い停滞も終わらない。袋小路から抜け出すつもりで更に追い込まれたのは明白であろう。彼らは、そうなるように改革を仕組んだ。

この国の格差はますます酷くなる。スラム街の出現もストリートチルドレンの出現も現実である。ただ一部の者たちが数百億円の利益を手にするために、国を改革し、法を変え、そして合法的にこの国の経済を略奪する方法を実現させようとしている。今も彼らはトリクルダウンという言葉を使いエクスキューズする。彼らはまだ騙せると思っている。これは明らかな人間性に対する度し難い侮蔑だ。

国の構造を変えるとこんなにもあっけなく経済力を失うとは誰も思いはしなかった。我々は今や疑心暗鬼の中で暮らしている。それがどうして健全な経済や国家を生み出すだろう。

小泉改革の正体は人々を不安に陥れる事であった。骨太の改革などという下らない標語で、己の利益を追求した経済学者がいる。そのおかげで大多数の市民は既に自分の身を守るだけで精一杯なのである。そのような状況を生み出し、労働者から搾取するためにこの国を売り飛ばした連中がいる。

追い詰められ、家族を守り、騙されないように注意深く暮らしながら、その片手間で創造的な仕事をする。そのような状況でどうして経済性が復活できるだろうか。この国に生きるものたちは自己防衛の片手間で経済活動に勤しんでのである。弱体化して当たり前である。理想を失った国家をどうして建てようか。

思惑がどうであれ、小泉改革を発端としてこの国の凋落が始まった。改革がなくとも、没落するのは時間の問題だったのかも知れない。変えなくとも衰退したのかも知れない。だが、それが一部の人間だけを富ます理由になっていいはずがない。

どのような時代であれ没落する人もいれば、興隆する人もいる。その人たちの数だけ、時代に対する見方はあるだろう。それでも、小泉改革というものは唾棄すべきものである。これは改革という名を語る略奪である。ここから始めなければ我々は一歩も動けない所に追い詰められた。