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2015年12月20日日曜日

知る者は好む者に如かず 好む者は楽しむ者に如かず 2 - 孔子

巻三雍也第六之二十
子曰 (子曰わく)
知之者不如好之者 (之れを知る者は之れを好む者に如かず)
好之者不如楽之者 (之れを好む者は之れを楽しむ者に如かず)

人の好きについて考えた。

どうやらそれは身体の中から生まれるものではないらしい。何か好きと言う感情が湧き立ち、芽を吹き、成長し、愛という結実を迎えるものではないようである。

それは、周囲に対して、自分がどうありたいかという願望から生まれる。周囲から自分はどう見られたいか、どういう形で自分は周囲に立脚したいか。

自分の居場所を欲する。群れる動物にとってこの原初的な欲求、群に認知されたい欲求が好きを規定する。集団の中で自分はどうしたいか、されたいか。自分にとって心地よい関係とはどういうものか。それが前提となって好きが生まれる。

所有は階層を決定する。自分が連れて歩く女は、周囲が自分をどう見るかを決定する。それが斯くありたいを規定する。好きな女には条件がある。それから身の回りの様々なもの、車、ファッション、佇まいなどにも影響しよう。こうして規定が自己を形成する。

人間は周囲からの影響を排除できない。また周囲へも影響を及ぼさずには居られない。群の中に自分の立場を求めること、群が自分に強いること。強弱の違いはあれ自由勝手な自分では居られない相互作用の中にある。

だから好きに理由があっては困るのだ。もし好きに理由があるのなら、理由を失えば好きでなくなってしまう。理由があるのならそれは無条件ではないのだ。

永遠の愛を信じるならば、理由によって愛が覚めるはずがないし、無条件でなければならぬ。それが周囲との関係の中で成立していてはならない。永遠に好きで居続けるためには、その対象と同一化するしかない。自分と同一化すれば好き嫌いの問題ではなくなる。

当人が永遠の愛を願望することと、他者がどういう理由から対象を好きであるかを見抜くことは別の問題だ。その人が好きなものを見れば、その人がどういう自分で居たいかが分かるだろう。周囲に優越感を与える存在としての女であれば好きが成立する。それが好きの正体になりうる。

自分探しとは、自分の中の答えを探す旅ではない。自分は斯くありたい。それを受け入れてくれる場所を探す旅だ。自分の欲望だけを押し付けて周囲と妥協ができないなら自分が独裁できる場所を探すしかない。なるほど、あいつは今も孤独か、と思えてくる。

ニュートンがユークリッド幾何学で天体を読み解き、リーマン幾何学でアインシュタインが書き直したように、数学が切り開かなければ見えてこない自然の姿がある。しかし我々の世界像が合理的だからと言って、太古のギリシャ人が非合理ということはない。

既に写真で見ているから、天動説が嘘っぱちだと知っているのである。もし太古のギリシャに飛ばされて、そこで討論したとして果たしてプトレマイオスを説得できるものであろうか。彼らには彼らの知見があり世界像がある。その世界像に基づいて最も合理的な解釈を採用した。写真を見て知っているだけの者にどれ程の説得力があるだろうか。

知る事は状況を有利にする。だから知ることは非常に重要である。人間が人間でいられるのは知る能力があるからだ。しかし知っていてもそれを誰かに伝えられなければ意味がない。伝えられる形でなければ価値を持たない。だから知る価値は周囲によって規定される。

知るだけでは足りないときは説得術が有用になるであろう。これは相手の考えを利己の方向に変える技術である。それは周囲の中で自分がどうありたいかを規定するのと似ている。斯くありたい自分に近づくための技術ともいえる。

好きであるためには相手が変わらなければならない。好きであるためには自分が変わらなければならない。そこに相手を説得したり説得されたりする。そこに好きがある。

知るを情報の価値と定義する。すると好むとは知るを伝える方法と定義できるだろう。では楽しむはどうか。

人が楽しむとき、そこには情報が伝わらなくてもよい。相手を説得しなくとも、相手に説得されなくとも良いという気持ちがある。もちろん伝わればと望んでいる。だが伝わろうとも伝わらざろうとも、そこには減ずることのない価値がある。単なる自己満足かも知れないが。

好きには理由がある。周囲からの目が自分の中にある。楽しむには理由がない。周囲からの目は関係なく自己が存在する。

楽しむが自己だけで閉じないのは、楽しむの先には誰かの笑顔があるからだ。誰かの笑顔が楽しむを支えている。これでいいという諦めも、まだやるかという未来も、誰かの笑顔に支えられている。

知ることは不幸を呼び込むだろう。好きであっても不幸はある。楽しんでいても不幸は避けがたい。たが楽しむには誰かの笑顔がある。その笑顔に理由は要らない。

知る者は好む者に如かず 好む者は楽しむ者に如かず - 孔子

2015年12月13日日曜日

モーセの十戒

汝、殺す無かれ

如何に苦しみがあろうとも、生命は生まれないよりも生まれる方がいい。神は全ての誕生を祝福するから。それが如何なる命であろうと。それ以外に言葉はない。

神は祝福する。その誕生を。どのような誕生であれ。神とはあらゆる生命の誕生を意味する存在ではないか。誕生が神であるなら、この世界に命に溢れるのは当然かも知れない。それが神の御心だからである。

神はいないといった所で生命はある。それが分子、原子の意志だとしても命はある。神がいないと言ったところで命はある。

だから、生まれた後にどう生きるかを問うようになれば世界が悲哀に満ちるのは当然かも知れない。神は苦しみからは救わなかった。何しろあらゆる誕生を無条件で無制限に祝福しているのであるから。それが悪魔であろうと神はその誕生を祝福する。

神は祝福する。そして誕生してきた全てのものを受け入れる。誕生したものが起こす全ての出来事を受け入れる。それを神は許す。若ししてはならぬのならそれを神は禁止しているはずである。

神は生みだす事に忙しい。そして等しくあらゆる生を慈愛されているのだから、生命同士が起こす悲しみも祝福しているに違いない。少なくともそれを禁止するようには生命を生み出していない。

生まれるだけで神が祝福する理由になる。等しく全ての命と命が生まれることを神は祝福する。さあ生まれよ、そして生きよ。どう生きようとも、その命を神は祝福する。例え生まれてすぐ失われる命だとしても、神は祝福しているに違いない。

人をなぜ殺してはならないか。神が祝福しているからか。命は神のものだからか。しかし神はそれを禁止していない。その理由を人間に分かるだろうか。だからモーセの十戒に記されたのではないか。

モーセの十戒
  1. ほかの主を神とするな。
  2. 偶像を作るな。
  3. 主の名を唱えるな。
  4. 安息日には休息せよ。
  5. 父母を敬え。
  6. 殺すな。
  7. 姦淫するな。
  8. 盗むな。
  9. 偽証するな。
  10. 財産は施せ。

「あなたは私のほかに何者をも神としてはならない」

もし神が全知全能であり、唯一の神ならば、他の神を存在させないことができるはずである。しかし全知全能ならば、ただひとつの神にして、多くの神が存在することも可能なはずである。

だから、この言葉に明らかな他の神の存在が示唆されていたとしても、神が唯一の神であることとは矛盾しないし、しかし、他に神がいることとも矛盾しない。神が唯一であるか、他にも居るのかは信仰とは何も関係しない。ただ己にとって唯一であれば良い。

しかし唯一の神を信仰するとして、他の神を信仰する人をどう考えるべきだろうか。もしわたしの神が唯一の神であるならば、他の神はまがい物である。これは信じるも信じないも関係ない。ただひとつの神とはただの事実である。

ならば偽物を信仰する人がただ一つの神を信仰するように導くことは、人間の正しい行いではないか。それは井戸に落ちる子供を助けようとするのと同じくらい、騙されていたり道に迷っている人をその暗闇から救うのは正しい行為ではないか。

神が唯一でなく多くの中から「この神だけ」を選んだのならば、これは信仰になる。信仰はわたくしの選択となる。もし唯一しかなければそれは選択とは呼べないのではないか。

否、仮に唯一しか選択肢がなかろうとも人には選択の意志がある。選択するのか、それとも選択をしないのかの意志である。ふたつの選択がある。唯一であろうと、多神であろうと、信仰の妨げではない。

神でないと思われるものを神として信仰しているのは滑稽であるか。例えばイワシの頭のような。しかし、神でない人間になぜそれが神でないと言えるのだろう。神は全知全能であるから、イワシの頭であることも可能なはずである。

もし、それ以外の神が存在してはならないのなら、我々はどう行動すべきだろうか。我々の手で他の神を滅するべきであろうか。

しかしどうすれば他の神を殺すことができるのだろうか。信仰するすべての人間を消しされば神も消えるものだろうか。これはとても合理的とは言えない。人間の存在とは関係なく、人間の信仰とは関係なく、神は存在するはずだからである。

人を滅すれば神が消えると信じる者が、しかし、言語の中に神の複数形が存在することを許容する。どう信じようと人間の中に複数の神を考える能力がある。それを神は禁止していない。

「わたしのほかに神があってはならない」とは、他の神を殺せと命じたのであろうか。しかし神は全知全能であるから他の神を消せないという事はあり得ない。他の神があってはならないのなら、既に神がそうしているはずである。

ならば他の神を人間に殺すよう意図したものだろうか。しかし、神は全知全能である、昨日言った言葉が今日も同じである必要さえない。またそれを人間に語る義務もない。

神の御心は自由自在なはずであり、それは全知全能である。神は間違えないと信じることは、神の全知全能を疑うことである。間違えることが出来ないのならば、神にできないことがあることになる。できないことがあるのなら、それは全知全能ではない。それは神ではない。

神は全知全能であるから、神が存在しないということもできるはずである。神が存在しないのも神の力である。人間のではない。

神の言葉を一字一句間違いなく解釈することは、本質的に人間には不可能である。神は全知全能であるから、我々の解釈が正しいとは他の意味を失うことであり、それは神の全知全能と矛盾する。神にできないことがあってはならないのである。

神の言葉をひとつの解釈が正しいと見做すのは神を疑っているに等しい。神の全知全能を信じていないのである。神は人間のあらゆる解釈を知っているはずである。どのような解釈であれ、どれが正しいも、どれが間違っているかも神の自由であり、それを明日否定することも神の自在である。

すると、わたしの他に神があってはならない、も、少なくとも、人間には神の意図を正しくは読み取れないことになる。どのような解釈であれ神の真意とは異なる可能性がある。すると、そこで人間に何ができるのか。

神の言葉から「人間を神としてはならない」という別の言葉を生み出すのであれば、これは神の言葉を勝手に解釈したことにならない。神の言葉から得たインスピレーションを元にして、人間の言葉を紡ぎだす。これは神の言葉ではない。神が生んだ生命を神としない、という別の言葉が生まれる。

我々は神の言葉を知っている。そう言っていいだろう。いろいろな書物の中にそれを見出すことができる。しかし、その言葉について何を語ろうと、全知全能の神の意図を誰が正しく汲み取れるだろうか。

神は常に正しい。それは間違えないという意味ではない。矛盾しないという意味でもない。もし神が間違えていけないのなら、それは全知全能ではない事になる。間違えることも矛盾もすべて正しいから神は全知全能なはずである。

無限であり有限であり零である。始まりであり途中であり終わりである。全てが正しく全てが間違っているはずである。あらゆるもの、無限の総和以上のものであるはずである。

よって神が苦しみを救わなくとも正しい。わたしたちが知る限り、この世界から誕生が止むことはない。今のところ。

神よ、神、なぜ私を見捨てたのですか

ならばこの世界にある苦しみをどうするのか。誰がその苦しみに寄り添うてくれるのか。

イエスがそうなのか。私はあなたの苦しみを見捨てはしない。神はどれほどの苦しみも祝福する。それも誕生であるから。そのために神は私を使わしたのだとイエスは語っただろうか。その苦しみと向き合うために。

明日、仏陀と出会ったとしても汚いじじいなどと思わない自分でいたいものだ。

2015年12月1日火曜日

歴史は「べき乗則」で動く - マーク・ブキャナン

Ubiquity - The Science of History... Or Why World is Simpler Than We Think
(偏在すること - 歴史の科学...または世界はなぜ我々が考えるよりもずっと単純なのか)

巨大な山の斜面に落ちるたった一粒の砂が、突如と山を大崩落させる。そこにはある法則が潜んでいる。

地震の予測が難しいのは、マッチ棒がどこで折れるかを特定するのが難しいのと同じだ。ある一定以上の力を加えれば折れる事は分かっている、だが一体どの場所でいつ折れるか。その都度、条件はさまざまである。だいたいこの辺りというまでは出来る。だが、ピタリと当てるのは難しい。

全てのデータが揃えば可能である。地殻だけでなく一粒一粒の砂、岩石と岩石の摩擦、水、大気、温度それら全ての関係を、原子、分子レベルまで再現できれば計算は可能なはずだ。それでも合わないなら、量子力学まで考慮すればいい。確率も入ってくるだろうが、そこまでするなら、地球と全く同じものをもう一つ造るのとあまり変わらない。

M9の地震を予測することは M1 の地震を予測するのと同じだ。地殻は常に滑っている。問題は、同じように滑り始めたのに、片方は小さく済んで、もう片方は巨大な崩壊をするのは何故か。どれもフラクタルのようにどこで切り取っても同じである。発生のメカニズムは全て同じだ。全て同じように起きるのに結果が異なる。

大きな地震だけを特別扱いしていては、とても地震予知などできまい。巨大地震を正確に予知したければ体感もできぬような小さな地震まですべて予知できぬ限り難しい。最初はどれも同じように小さなエネルギーから始まる。だのにひとつは小さな地震で終わり、もうひとつは巨大な地震になる。

これは何が違ったからだろうか。地震のエネルギーが物理的にどれほど異なろうとも、特別な発生の仕方をしたわけではない。ただ、岩粒や砂粒が連鎖を止めたか、止めなかっただけの違いだ。

起きやすい環境にある、それは経験則から知る事ができる。ある地域を危険として警戒することも可能だ。だが、海底において一粒の砂が何かの力を受けて滑り出し、次の砂を押す。この連鎖がどこまで続くか。

どれかの岩に当たって終わるか、それとも、次々と連鎖を繰り返し止まらなくなるのか。最初の砂が落ちた時に、どれほどの地震を生み出すかを知る技術は今の我々にはない。

後からなら、原因がその砂粒であると分かる。しかし、それが起きるまで、それはよくある一粒に過ぎなかったのである。起きる前にその砂粒を特定するのは難しい。巨大地震を起こさなかった砂粒と起こした砂粒に違いはない。

ほんの少し、当たる角度や初速、次にあたる砂の位置が違っただけだろう。ほんの少し、何かが違っていた。その全部が連続して起きた。

だから大きな出来事はべき乗則で起きる。べき乗則で起きるとは、小さな事象が絶えず起きていると言う意味だ。それが巨大化するかどうかは確率的である。

それは地震だけではない、と著者は語る。自然現象も株の暴落も戦争も似たような起き方をする。なぜ戦争が起きるのか。それは知らない。あの敗戦の原因を今も知らぬ。

だが著者の考えを敷衍するなら、たまたま我々が地滑りをする番だったという事になる。もしそこで起きなければ他で何かが起きていた。それではあんまりな結論なので、考えるのを止めたくはない。

2015年11月9日月曜日

心理学的考察 - キャスバル・レム・ダイクンの場合

坊やだからさ

ガルマ・ザビの戦死にシャアが発した言葉には複雑な感情が込められている。言わなくてもよい事をわざわざ口にする。そこには発露せずにはいられなかった心情がある。

ガルマとシャア。この二人の友情は士官学校の同級生として始まった。物語年齢はいざ知らずガルマが戦死したのは30代前半くらいが妥当だ。だとすれば魂胆があったとはいえ二人の付き合いは10年の長きに渡る。

その長さが育んだ友情を簡単に捨てられるものだろうか。例えそれがガルマからの一方的な友情であったとしても。

シャアが長く友人として振る舞ったのは間違いない。心底軽蔑していたとしても、計画を実現するための駒の過ぎぬとしても、何度もシャアはガルマのために危険な目にあったはずである。それが友人の証として。

ガルマ、聞こえていたら君の生まれの不幸を呪うがいい。

シャアの本丸はガルマではない。では誰か。ザビ家に復讐する目的があったとする。そのためにザビ家に近付く。するとシャアはいつ復讐するつもりだったのか。

ガルマを殺すチャンスなど何回もあったに違いない。それを今まで押し留めてきたのに、なぜこの時と決めたのか。それがチャンスだったからか。ガルマにはもう利用する価値がないと決まったからか。それともイセリナと婚約したからか。

ガルマの部隊を全滅させる。ガルマを死に至らしめるために他の多くの兵士も道連れにする。ガンダムという事件はそれに相応しいシチュエーションだったようである。

だが、そう考えると不思議な話がある。彼は死の間際のガルマに向かって話しかける。もし通信が傍受されていれば未来はない。そのような危険を犯してまでなぜ話しかけたのか。

君はいい友人であったが、君の父上がいけないのだよ。

伝えずには居れなかった想いがある。憎しみを自分に向けさせなければ納得できない。何も知らずに死ぬのでは忍びない。ガルマにはそれだけの寄り添いをしながら、その一方で多くの兵士が失われることを一顧だにしない。

自分への憎しみを植え付けながらも、自分自身はちっともガルマを恨んでいない。憎んでさえいない。死にゆくガルマを観察する冷静さだけがある。それ所か親しみの情さえ残っているのである。

ガルマ、私の手向けだ。姉上と仲良く暮らすがいい

懺悔も後悔もない。ガルマの死は何も呼び起こさない。

彼の心理には何らかの欠陥があるのか。それは過去に原因がある、と物語は示唆する。あまりに辛く悲しい出来事が彼の心を固まらせてしまったのだ。その解放が物語の主題のようである。

シャアはガルマの死に何も感じないだけではなく、全ての死に何も感じない。それはまるで戦争の象徴のようである。シャアは計画を着々と遂行する。自分だけは死なないというような狂信さはない。

死んだらそこまでだと達観しているようにも見える。だがそう簡単に死にはしないよ、と見極めている。彼は計画の遂行以外は何も持っていない。愛情も失ってしまった人間だ。

キシリア様に呼ばれた時からいつかこのような時が来るとは思っていましたが、いざとなると恐いものです、手の震えが止まりません

ただふたりの女性だけが彼の人間性に触れている。

アルテイシアとララア。

兄としてアルテイシアに対する気遣いだけが唯一のプライベートの心理に見える。彼の計画とは全くリンクしないにもかかわらずアルテイシアのために行動をする。そこだけに人間らしさが残っているようだ。

あの優しきアルテイシア・ソム・ダイクンへ。
先の約束を果たされんことを切に願う。
キャスバル・レム・ダイクン、愛をこめて。

ララアはどうか。ララアの登場によってザビ家への復讐は捨てられたようだ。しかしシャアの中には最初から憎しみなどなかった。彼は許せぬとは言ったが憎しみを口にしたことはない。シャアはララアのためにズム・ダイクンの思想を再発見する。その新しい道を進もうとした。そのときララアは死んでしまう。

母になってくれるかも知れなかった

ララアへの愛を知る前に。彼女の最期はシャアではなくアムロへと向かう。それを知るシャアは嗚咽する。それでもララアへの愛があると信じて。

ガンダムはシャアが人間らしさを取り戻す物語かも知れぬ。その対比にホワイトベースという巨大な人間のコミュニティがある。

ギレンの演説が流れる。

私の弟、諸君らが愛してくれたガルマ・ザビは死んだ。何故だ!

「坊やだからさ」とつぶやいたシャアの慧眼はギレンにガルマへの家族愛など全くないことを見抜いている。だがガルマがその家族愛を信じていたことも知っていた。無垢に愛を信じているから「坊や」なのだ。その愚かさも愛おしさも知っているから。

ガルマへの手向けとして最後にキシリアを撃つ。もしキシリアが脱出すれば休戦もなく戦争は継続され何万人の兵士が死に至るのは間違いない。

そのことをシャアが知らなかったはずはない。だから最後のシャアの行動は多くの兵士を救うための行動と言える。それは他人に対して初めてシャアがとった行動であった。

誰もが宿命のようにそうあらねばならぬ。作者の思惑に揺れ動くキャラクターたちがいる。アムロと会いセイラを救う中で何かが生まれたのだ。その詳細は別の項で語ろう。

2015年11月1日日曜日

ツインテールの学術的仮説

ツインテールはグドンに捕食される生物である。その形態はユニークで、動きは海中を泳ぐゴカイに似てなくもない。

さて、ツインテールはなぜ斯ような進化をしたのであろうか。

進化に理由はないと言えども、生き残ってきた以上、環境への適用に成功した種である。あの独特の生態が適用でなければ我々の目の前に出現することもなかったはずである。

特徴
ツインテールの最大の特徴は口の位置にある。口が地面に近いのは、ツインテールの食べ物が地面の近い所にあるからと推測できる。通常、地面にあるものを食べるならば、トカゲのような進化で十分である。

なぜ逆立ちする形態に進化したのか。ひとつの考察として、鞭のようになった二又の尾で高い所にある何かを叩くためではないか。尻尾を最も高く上げようとするなら逆立ち状になるのはユニークだが十分に合理的である。

分類
由々しき事であるが、発見されたツインテールは常に原子にまで分解される消滅処分を施されるため、我々はいまだひとつの細胞片さえ入手できていない。解剖して器官を調べたり、DNAを解析して類縁種を調べれることが出来ない理由である。我々は常々訴えているのだが彼らはうなずくだけで聞き入れてもらえていない。彼らとのコミュニケーションは今後の重要な課題である。

そのためツインテールが分類上どの種であるかを特定することは困難である。しかしツインテールが外骨格を持たないことから節足動物ではないと思われている。

逆立ち状の体が環状になっており腹部の形状がゴカイにも似ていることから、数年前まではミミズやゴカイの亜種という仮説が有力であった。つまり環形動物だと思われていたのである。これはMATの記録にある卵生とも矛盾しない。

しかし、ツインテールの顔に注目すると環形動物という説もあやしい。脊椎動物やイカ、タコにも匹敵する優れた眼球、顎のある口、どう考えてもそこには頭蓋骨があるのである。そうであるならばツインテールは脊椎動物でなければならない。

現在ではこの脊椎動物説がもっとも有力である。ツインテールが脊椎動物ならばどのような骨格をしているだろうか。手足は退化して消滅している。直立している部分に背骨があるとも考えられるが、記録を見る限り脊椎があれば、あれほどの柔軟さは得られないし、もっと早く脊椎骨折を起こして死亡していると思われるのである。とすればあの直立している部分には脊椎が通っていない。

つまり地面と接地している所だけが胴体であり、直立している所から上の上半身は全て尻尾と仮説するのである。我々が見ているツインテールのほどんとは尻尾である。ツインテールは尻尾が異常に長く逞しく発達した生物と考えるのである。

地上での歩行は手足がないため這うようにするしかない。そこでしっぽを前後左右に揺らしその反動で歩行していると考えるのである。なお海中での遊泳については、まだ研究の途上である。

食性
足元胴体仮説を伸長すれば、ツインテールの排泄腔も足元にあると推定される。すると口腔から排泄腔までの距離は極めて短い。胴体の長さは頭部のおよそ3倍程度であろう。これは牛や馬などと比べても極端に短い。胴体の長さはそのまま腸の長さと比例すると考えれば、ツインテールの腸は短いと推測される。

サイズによる様々な制約を考慮に入れなければ、ツインテールを草食動物とするのは難しい。胴体が短すぎるからである。しかしツインテールを肉食と仮定するのも難しい。あの動態で狩りが得意とは考えられないのである。

ツインテールの鞭状の尾は非常に俊敏である。その破壊力も十分にある。主な用途は高い所にあるものを叩くためであると考えている。例えば、高い所にある蟻塚を破壊して巣を地面に落とすとか、高い枝に実った果実を叩き落とすなどで利用していると考えるのが適当である。そうして地面に落としたものを食していると考えるのが妥当だろう。

繁殖
ツインテールは卵生であるから、おそらく総排出腔を持つであろう。人間でも総排泄腔遺残症で生まれる難病があるが、それはもっと周知されるべきだ。さて、ツインテールの交尾がどのようなものかは観察記録にないが、上半身を絡めあって体勢を作るだろうと推測しいる。そうしないとお互いの体を密接できないだろうから。

もうひとつの尻尾の役割
ツインテールがしっぽを上に持ち上げる進化をしたのは高い所にある何かを叩くためという仮説はすでに紹介した通りである。しかし上半身を全て尻尾の筋肉だけで支えているのは奇妙すぎる。高くしたければキリンのように骨を伸ばす方が効率がよい。象鼻のように自由自在に動かす利点もツインテールの上半身には見受けられない。

この不思議な進化は、効率だけを考えれば割に合わないので、それを超える適者生存に叶う何かがあると考えるべきだろう。上体を筋肉だけで支えている理由として強い捕食者の存在に注目する。ツインテールの捕食者は強力でありそれから逃れることは困難であろう。

そういう場合でも生き延びる可能性を高めるために上半身は食べられても胴体部さえ残れば生き延びることができるように進化したのではないか。重要な器官をすべて足元に集約させて、尻尾を食べさせることで生存率を高めたのである。

そう考えるならば鞭が常にゆらゆらと揺れているいるのは、単に高い所にあるものを叩き壊したり落すためだけではなく、捕食者の注意を上体に引き付ける役割も考えられる。エビに似て美味というのも尻尾に限る話であろう。胴体は苦くて臭いかも知れない。

群生
しかし上半身を食べられたツインテールはどのようにして餌を得るのだろうか。上半身を失えば食べ物を確保することが出来ないのである。これまでの仮説が正しいとすれば、上半身を失ったツインテールは餓死するしかない。

だとすれば上半身を筋肉だけで支えるのも無駄な進化であるし、それが生き残った理由にもならない。そのような進化が許容されると考えるのも困難である。もちろん進化は不可解なものと承知はしているが、少なくとも生存に有利でない非効率さが許容されるとは考えられないのである。

すると、彼らは生き延びた後に食料を得る方法があるということである。それは傷ついた個体では難しい。ならば誰かが食事を与えているのである。ツインテールは群生で生きている。これが合理的な結論である。

想像してみて欲しい。彼らは群をつくり、そこで繁殖し子供を育てているのである。捕食者に襲われ上半身を失ったツインテールを他の個体が面倒をみて食料を与えている。彼らは我々が思うよりもずっと高等な知能をもち感情を持ち合わせた生物であると予想できるのである。

なぜなら、そのような習性がなければこの進化を合理的に説明できそうにないのである。

2015年10月25日日曜日

囲碁は滅びぬ


メイエン事件簿

以下は既に失われたサイトからの王銘エン九段の記事。
でも、僕がコンピューターの問題を考えるとき、関心があるのは「勝つか負けるか」ではなく「読み切られるかどうか」です。コンピューターソフトが強くなって、仮にプロが負けても、それを研究して、逆に打ち負かすこともできるし、その戦いで囲碁界が盛り上がるかもしれない。しかし、一手目から読み切られてしまうと、勝負自体が成り立たなくなってしまいます。碁を打つことはすなわち最善手の追求という立場から見れば、この日がくれば目標自体失われ「囲碁の終焉」となりかねません。

このような恐ろしい事態に対して、私たちはどういう風に考えるのか。そこが一番の問題ではないでしょうか。この「囲碁の終焉」に対してプロが今とりえる姿勢は以下の四つになるでしょう。

  1. いくら科学が進歩したところで碁を読み切るのは無理と決め込む。
  2. そうなったら潔く降参して別のものをやる。
  3. それはそれで細々と碁を続ける。
  4. これは僕の姿勢でもあるのですが、囲碁を愚かな人間のパフォーマンスと見て「最善手の追求」との関係を断ち切る。

その日が来ても囲碁の終焉を拒否する勝手な理屈にすぎないかもしれません。しかし、僕にとってこの姿勢をとることが、碁の未来を信じることに繋がるのです。

モンテカルロ囲碁とはなにか、ググればすぐ分かる便利な世の中になったのですが、簡単に説明しますと、すべての局面で、コンピューターにランダムに終局までたくさん打たせ(一秒に数万局)、その中で一番勝率のいい手を次の一手に選んでいく、というやりかたなのです。そこにはわれわれにとって当たり前の「読み」も「形勢判断」もない。

その基本的な考え方は「ある局面で、すでに片方が優勢であれば、その後対局者の技量が同じなら、優勢のほうが勝つ確率が高い。」というものです。ランダムに打つドヘボ同士でも、数をこなせば、よりいい手が見えてくる、というのです。しかし、そんなデタラメを積み重ねただけのデーターが使い物になると、誰も最初は思わなかった。

終わってみれば、勝つチャンスがなく完敗でした、そして、よく考えると八子局のほうも結局勝つチャンスがなかったのではないか。黒の打ち方はとにかく「最後に勝つ」のが目標、ぬるい手は打っても、負ける手は打たないのです。そこには明らかに余力があった、きわどい勝負になると、もっとがんばった手を打ってくるに違いない。十九路盤の棋力を判定するなら、アマ三段ぐらいというところですが、クレイジーさんにはまだ底知れない力を秘めている、そう感じたのである。

それでも、モンテカルロ囲碁恐るべしと、身構えなくてもいいかもしれない。囲碁とコンピューターの関係で、僕が一番恐れていたのが囲碁の完全解析ーー読みきられることでした。しかし、モンテカルロ囲碁というのは、サイコロをころがし、たくさん目が出たところに賭けるというやりかた、最初から最善を目指してはいない。「神はサイコロを振らない」という言葉からみれば、きわめて人間的な要素をもった方法と言える。

万一、近い将来に碁のXデーを迎えたとしても、敵はしょせん完璧ではなく、つねにリベンジ可能です。そのときこそ、碁打ちが神の道を目指す本当の旅が始まる、と言えるかもしれない。

コンピュータに勝負師や真剣師という肩書きは必要ない。コンピュータはただアルゴリズムにより勝利する。そこに勝利の喜びはない。敗北の悔しさも。

モンテカルロ法が到達したのは過去の棋譜である。それはコンピュータの背後にこれまでの全ての囲碁の歴史があるようなものだ。モンテカルロを相手に戦うのは、囲碁の歴史に戦いを挑むのに似ている。

数学

コンピュータにチェス、将棋、囲碁を打たせるのは人間の都合である。だから人間にとって有意な時間内に回答を出さなければ意味がない。この時間的制約は人間の都合でありコンピュータの都合ではない。コンピュータは資源がある限り計算を苦にしない。そこは機械である。

多項式時間よりも指数関数時間の方が大きい事が知られている。囲碁のデータ量は10の400乗と目されるから、それが完全に解かれるまで生きられないが、それは資源と時間の制約に過ぎない。人間という条件を除外してしまえば例え宇宙が蒸発した後であれ計算さえ続ければどこかで必ず到達できる。

NP-Completeness : Note on Algorithms
計算量はデータ量 n に依存する。
多項式時間とは例えば n12、指数関数時間とは例えば 4n

囲碁で起こりうる全ての棋譜がデータベースにあると仮定する。そうするとコンピュータは相手が打つ度にデータベースの中から違う棋譜を除いてゆく。手が進むごとに棋譜の数が絞り込まれる。絞り込まれた棋譜の中に必ず未来の結果がある。

手が進む度に負ける棋譜は排除し、それ以外の中から勝利する可能性の高い棋譜を選んでゆく。コンピュータのアルゴリズムはどの棋譜が最も勝つ可能性が高いかを計算する方法に極まる。

可能性の高い棋譜をどう探すかは見当もつかないが、少なくとも相手の選択によって負けが決定する棋譜は排除する。もちろん相手がミスをする可能性はある。人間同士ならそういう戦略も考えられるが、コンピュータがそのような手を採用するとは思えない。相手がどう打っても勝てる棋譜を選ぶべきだ。

コンピュータの未来

コンピュータは一方的に性能を向上させる。コンピュータが次々と開発されるのに対して、人間は40万年前に誕生した時のポテンシャルだけで勝負しなければならない。

よって人間が勝てぬコンピュータが出現するのは間違いない。今はまだコンピュータの能力を測る目安として存在している人間が、いずれ役に立たなくなる。コンピュータを強くするにはコンピュータしかないという時代が到来する。

その時に囲碁や将棋はどうなっているのか。いや、その頃には数学さえも人間を必要としているのか。コンピュータだけが数学を解く時代が来ても驚きはしない。かつてはコンピュータを人間が操作していたと牧歌的に話をする時代が到来するだろうか。

AI について

AI は大学入試を解いたりクイズを解いたりしている。人狼というゲームに勝利するAIも作られた。今は未だ人間と対比することでその能力を測定している。AI を語るのに知性の定義は避けられない。しかし知性の定義は難しい。

知性はもともと他の生物と人間の差を説明するものである。それが人間の特権を保証するものとなり、他の生命を自由にする根拠のようになっている。

だから人間の知性を超える機械が出現するということは、これまで自然界に対して得ていた人間の特権を見直す必要性が生じるという事を意味している。少なくとも論理的には根拠を失うはずである。

更に言えば、この世界で他の生物に対して人間が行っていた行為をコンピュータは人間に対して行使する特権を得るはずである。

これまでは唯一であり比較対象がなかったのであるから定義は必要なかった。知性は人間性のシノニムになる。だから AI が知性を持つことは人間性とは何かを問う事に等しい。

この蛋白質の固まり、巨大な化学工場、電気回路の集合体を人間と呼ぶ根拠は何であろう。それは神が土塊に吹き込んだ魂の事であるならば、どれほど緻密であろうと人間が作った機械に人間性が与えられる事はない。もしそうでないならば、人間性を機械が獲得することは可能になる。

知性と人間性

さて人間性とは何であろう。それは本人が持つ者か。それとも他者がその中に見出すものか。日常の中で機械や乗り物に擬人性を見出すことは普通である。チューリングテストでさえ知性を他者が発見するという試験である。

人間は機械と見なされることを嫌悪する。人間と呼べばいいのにわざわざ機械に例えるのだから、そこに相手の優越感を嗅ぎ取るのは自然であろう。人間を機械呼ばわりする者が人間性を蹂躙しようとしているのは明らかだ。それに警戒するのは当然であろう。

古いフレームワークで考える限り、人間は自由を有し、あらゆる生物の頂点にあり、他の生物より優先される。人間の製造物は人間が所有する。これと対立する考えは排除されなければならない。

AIの知性が人間性の根拠にはならない。愚かさも賢さも人間性の根拠にはならない。では何がかくも人間を不平等にしているのか。

人間だけが特別とする根拠がないのであれば、利己的でよく、強者の論理が支配すればよい。そうなれば、なぜ人間だけを特別扱いせねばならぬのか。人間の姿をしているだけで等しく基本的人権を与える理由もない事になる。

17世紀に生まれた自然権や基本的人権などは打ち捨てれば良い。人は平等でなく、個体ごとに権利に差がある。資本の多少こそが権利の根拠となる。全ては平等ではない。当然である。だが彼と我が平等でないことは許容できるか。

いずれにしろ AI が進めば知性に意味はなくなるだろう。その時、我々には新しい視点が求められるだろう。

軍事予算

民間では株主が許さない研究でも軍事予算が付く分野はたくさんある。最先端の研究はほとんどが軍用である。他国を出し抜くためにはあらゆる分野の研究を進める。当然ながら成果のでない研究もたくさんある。

軍事予算は工学だけに限らない。数学、物理学、化学、社会学、心理学、文学と幅広い。軍事予算が付きそうにないのは考古学くらいか。

AIが研究されるために重要な地位を占めるのは軍事であろう。無人機や人間の補助にAI技術は欠かせない。だからAIの開発力は軍事予算と比例するはずだ。その中心はアメリカと中国が占めるだろう。軍事分野は失敗に寛大であるから、幅広い研究が多方面で進む。それが民間にフィードバックされその国家全体を豊かに強くする。

AIの進化

コンピュータの基本動作は入力を演算して出力を得ることにある。現在のコンピュータは入力と演算式は人間が指定しなければならない。

従来のコンピュータ:
① x の値と計算式を人間が渡す。
② 例えば 2x2+3x+5 の式を使ってグラフを描く。

次に演算で使用するパラメータを定数ではなく計算によって求めるように変更する。データを処理するたびにパラメータを変えられるようにしておけば、次第に出力が変わるはずだ。数式はまだ固定されているが。

新しいコンピュータ1:
① 決まった形式のデータを人間が渡す。
② a,b,c の値を計算で求める。
③ ax2+bx+c の式に x の値を渡しグラフを描かせる。

次にa,b,cの値を計算するためにインターネットから自らデータを取り込む。世界中のデータを読み込み、その中から必要なものを取捨選択する。現在の技術は取り込むデータに形式を必要とする。パースできないデータは読み込めない。これを自然言語を理解できるようにして、あらゆる取り込んだデータの中から必要なものを見分けられるようにする。ただの数値の羅列が、気象データなのか、それとも金融市場のデータであるかを見分けるようになればよい。

新しいコンピュータ2:
① データをインターネットから取り込む。
② 解析したデータから a,b,c の値を求める。
③ ax2+bx+c の式に x の値を渡しグラフを描かせる。

入力を自発的に取り込めるようになれば、次は演算式を書き換えられるようにする。膨大なデータからより優れた演算式を求める事ができるようになれば、自分自身のプログラムを書き換えられるようになる。こうなればコンピュータが進化すると呼んでも差支えあるまい。

自分のアルゴリズムを自分自身で書き換える能力を獲得する。コンピュータのDNAとは数式でありアルゴリズムであるから、アルゴリズム(=DNA)を書き換えるならそれは進化である。自らのコードを自ら書き換える機械を最後のAIと定義してみる。

新しいコンピュータ3:
① ax2+bx+c に変わる別の式を生成する。

こうして自律して進化しながら演算を続けるAIが誕生したとき、その出力が人間の予想を超えた何かである事は想像できる。我々はそれを知性と呼べるかさえもう知らない。

それでもAIは強力な演算装置に過ぎず、何を出力しているかは知らない機械のままだ。ちょうど拳銃が自分が打ち出した弾丸が何をしているかを知らないのと同じだ。

出力された結果に人間が勝手に驚いているだけの状況である。そこに意志も感情もありはしない。ましてや生存本能を持たない機械であるから、電源ダウンによって簡単に落ちてしまう。コンピュータには生命として必須な何かがまだ欠けているのである。

原始的な脳が生存への強い欲求を発する。人間性の根底はこの原始的な脳によって支えられている。人間は生物の中では少し賢いがコンピュータの前では小さな葦である。

感情とは膨大な計算をした脳が漠然と伝える意識化しきれない結論であろう。意識は感情を無視してはならない。コンピュータに感情がないのは、演算結果が余りに単純すぎるからだろう。

人間の心はCPUである。脳はメモリである。感情はそこで演算された結果の一種である。

もし他の恒星系にコンピュータを送り込もうとすれば性能本能と同等の何かが必要となるだろう。それはより長く生存する事を最重要要件とするものである。その時、長く生存するために生き残る可能性を高くするメカニズムが必要だ。

AIの未来

遠い未来、AI が人間を凌駕した未来、人間とAIはどういう関係にあるだろうか。

千年後の人間はコンピュータチップを埋め込んでいるかも知れない。AIは神経やアブミ骨を振動させて人間とコミュニケーションを取る。そのうち人間はAIからのささやきと、脳が言語化した意識との区別もつかなくなる。ふたつは共生し能力は融合する。

そんな時代に囲碁は打たれるだろうか。既にAIに勝てる人間はおらず囲碁の勝敗はAIが決める。「AIは切れよ」という会話が日常的に起きる。AIさえ切れば今と同じように囲碁は困難で面白いゲームであろう。

なぜ名人も年を取ると弱くなるのだろうか。コンピュータは弱くならない。経験が多くなり勘は鋭くなる。しかし物忘れはいけない。記憶が外部化できない戦いでは記憶力が勝敗を決する可能性は高い。

棋士は対局中に google が出来ない。そういう職種には記憶力が拠り所の所がある。どれほどの名優でもセリフを忘れては舞台に立てない。しかし舞台ならば暗チョコが用意できる。

知ることは人を遥かに有利にする。このアドバンテージはあらゆる競争の局面で勝敗を決する。知らなくて(忘れても含む)勘や経験で決めなければならない者と知っている者との間で間違えない可能性は決定的に異なる。それが両者の振る舞いを大きく変える。

博学であることは戦略として正しい。全知ではなくとも、人間の中で最も知っている者が圧倒的に有利である。そしてそういう戦略で競う限り、コンピュータに凌駕されることは間違いない。

知ることでもいつかコンピュータに立ち打ちできなくなる。この世界を方程式にする能力も追い抜かれる。それをコンピュータは365日休憩も必要なく演算する。睡眠も必要ない。必要なのは電気代と装置の冷却だけ。人間が太刀打ちできると考える方がどうかしている。

19世紀は蒸気の時代である。同時に馬車業者がスチームロコモーティブに敗北した時代でもある。その時から人間は機械に負けっぱなしである。機械の発展とともに戦争も人間が耐えられる限界を超えた。コンピュータが登場してもその流れは変わらない。

肉体が最初に負けた。人間は馬に蹴散らされ、馬は機械に駆逐された。機械が駆逐した人間の肉体はスポーツとして残った。剣術や格闘技などかつての戦争術も同様だ。車より早く走る事はできないし空を飛ぶ事もできない。ナイフも車も肉体の延長である。脳も例外ではなく遠く粘土板が記憶の外部化として始まりコンピュータまで来た。

コンピュータが人間より上なら、人間はなんと呼ばれるべき立場なのか

コンピュータのパフォーマンスが人間を凌駕したのはずっと昔だ。ノイマンはコンピュータより早く計算できたが、それが人間が計算でコンピュータに勝利できた最初で最後となった。

例えば司法の判事は過去の判例から判決を決定する。これはコンピュータに置き換えやすい仕事だ。コンピュータならば、より公平で論理性の一貫した判決が出せるはずである。またそれは法律をプログラミング言語で記述できるようにすることを意味する。そうなれば人間の判事など不要ではないか。

司法こそ真っ先にコンピュータで置き換えるべき分野かもしれない。コンピュータならば100回やって100回とも同じ答えを返すことができる。これほど間違いのないことはない。

故に司法は人間がやらねばならぬ。人間ならば99回同じ判決をしても100回目に違う判断を下す可能性が残る。それが司法に求められる最も重要な点だ。周囲の状況に併せて変わる事ができること。

だから自己変革できるAIが誕生すれば人間よりも優れた演算結果を返せるかも知れない。演算結果とは、つまり判断だ。

不完全性定理はある条件では正しいとも間違ったとも決定できないものがあると教える。コンピュータに分からぬものは人間にも分からぬという事だ。そうすると決断という行為が必要となる。

だからコンピュータに決断までを託すのかという点が最後の争点になる。

なぜ人間であるべきか

戦場でおもちゃに人間が殺される。プラモデルのような戦車に撃たれてゲリラが倒れる。そこには憎むべき相手さえ見つからない。機械に殺されたらその恨みをどこに持って行けばいいのか。

人間は人間しか憎めない。機械は憎しみの対象ではない。故に機械よりも人間は人間の手によって殺されねばならない。人間だけにその価値がある。

機械が撃つことを止めることはない。その背後に人間がいる。既に勝つかどうかの問題ではない。いつ(When)の問題であり、誰が(who)の問題である。プロ棋士は経過に過ぎない。コンピュータが狩る側であり、プロ棋士が狩られる側なのである。

人々の興味は既に勝ち負けにはない。だから両者の対戦は次第に行われなくなり、時々プロ棋士の方から戦いを挑むようになるだろう。

今の名人がコンピュータに勝利したところで、それは重要ではない。いずれ何代目かの名人が倒されるのは確実だからだ。人々の興味は最初に狩られる名人は誰であるかに尽きる。それはコロッセウムでライオンと戦う戦士だ。観客も血を望んでいる。

百年後にはコンピュータに勝てないのが当たり前の時代となるだろう。昔の名人の名前を出し、彼らでも戦えば必ず負けると言われる日が来る。人間は狩られる立場になった。コンピュータの出現がもたらしたもの。少なくともチェスはそうなり将棋もそうなる。

近い将来に...

将棋や囲碁は昔からあったものではない。江戸時代はプロ棋士などいなかった。明治になりプロ棋士制度が誕生する。新聞社の協賛を得てこれまで続いてきた。いつかそれも変わるだろう。伝統芸能として生き残るのか、ゲームとして生き残るのか。

20代の名人などありえないと言っていたのは坂田栄男、1965年である。井山祐太は今年で25才。これが新しい時代なんだと思ったらとんでもない。本因坊算砂が名人になったのは20才である。初心忘るべからずである。

囲碁の可能性は(19*19)の階乗で表現できる(361!)。人間がやっていることはアマだろうがプロだろうがこの莫大な棋譜をひとつずつ潰しているようなものだ。囲碁を打っているあなたは今日もこの10360のひとつを塗り潰したわけだ。

2015年10月17日土曜日

ウルトラマンの合理的な存在説明

M78星雲まで来た警備隊の隊員たちは驚いていた。

それまで聞いていた話と全く違ったのだから。

「私たちはあなたたちを責めているのではない。ただ説明して欲しい。」

「これは私たちが聞いていた光の国の姿とはあまりに違うのだから。」

「ハヤタがビートル事故に遭遇した時のウルトラマンが取った行動はまさに英雄のものです。」

「それだけではなく地球を襲う度重なる怪獣災害からも救って下さりました。当時の我々にはこの脅威と対抗する手段はなく、多くの異星人の侵略も退けてくださりました。それはあなた方のおかげです。」

「私たちは地球を代表してその感謝を伝えるためにここに来たのです。」

地球人は既にウルトラマンの力を借りなくても自力で怪獣に対処できるようになっていた。

宇宙への進出も果たした。自力で光の国に訪れるだけの科学力も獲得していた。

だが、目の前に広がるのは話に聞いてきた「光の国」ではなかった。

そこにウルトラマンの姿はなかった。ウルトラマンだけではなく誰も。ウルトラタワーもない。

周囲には巨大なシダのような植物が生い茂りまるでペルム紀の地球のようでもあった。

そこには透明の体でうねうねと動く軟体動物のような姿があった。

彼らはテレパシーで話しかけてきた。

「君たちが私たちの姿を目の当たりにする日がくるとは思ってもいなかった。」

「そうだ、私たちは君たちに隠していたことがある。」

「君たちがウルトラマンと呼ぶ姿はわたしたちの本当の姿ではないのだ。」

「私たちは君たちの体を借りて変態していたのである。」

驚いて隊長が聞いた。

「あなたたちの変身というのは、我々の体を利用したものだったのですか?」

「そうだ。我々は普段は人の背中に張り付いていたのだ。」

「必要があったとき、人間の体に沿って我々の体を伸ばす。君たちの体を覆い戦闘形態に変身していたのだ。」

「それならそうと言っていただければ良かったのに。」

「それは少し違う。当時の君たちが我々の本当の姿を見ればコミュニケーションは成立しなかったであろう。」

「我々は君たちの望む姿を知るために君たちの体に取り付く必要があったのだ。」

「謂わば君たちがいうところの寄生虫の一種だったのだよ。」

「わたしたちの偏見のせいだと言うのですね。」

「それはある。同じ人種間でさえ差別や争いの絶えなかった君たちに我々の姿を見せるリスクは取れなかったのだ。」

ある隊員が申訳なさそうに聞いた。

「私は前から疑問に思っていることがありまして。ひとつ聞いてもよろしいですか。」

「できる範囲で答えよう。」

「ありがとうございます。みなさんは地球にいるとき、食事はどうされていたのですか。」

「もう気付いていると思うが我々のエネルギーは太陽の光ではないのだ。」

「我々は人間の体に取りついて、その人間の考えを読み取り、その体から栄養を得ていたのだ。」

「なるほど、それでウルトラマンになる人間は食事量が増加するのですね。」

「その通りだ。」

さらにその隊員が聞いた。

「エースはふたりで変身していましたがどうしてですか?」

「エースはふたりでひとつの戦闘形態を形成していたからだ。彼の妻が単身赴任を嫌ったのでな。」

「単身赴任?しかし途中で帰られましたよ?」

「離婚したからな。」

隊長が話を遮って聞いた。

「あなたたちはやはり仕事として地球に訪れていたのですか。」

「それはその通りだ。我々は地球のある種の生物を研究するために訪れていたのだ。」

「それはどのような研究を?」

「地球には我々にとてもよく似た生物が居たのだ。」

「これは我々の進化とも何か関係しているかも知れない。そういう報告がもたらされたからね。」

「我々はこの生物を守るためにどうしても地球を保護しなければならなかった。」

隊長が強く聞いた。

「ということは守るべき対象は人間ではなかったという事ですか!」

「その通りだ。君たちには申し訳ないが。」

「その生物を研究するのに君たちの姿を借りるのがとても便利がよかったのだ。」

「地球を守ったのも人間のためではなかったのですね。。。」

「バルタン星人は我々と同じものを研究していてね。それで倒したのだ。」

「もちろん君たち類人猿に興味を持つメフィラス星人は倒したよ。それは君たちの利益とも一致するだろう。」

それまで考え込んでいた隊員が問うた。

「もしかしたら我々の敵になっていた可能性もあったのですか?」

「そうだな。」

「もし君たちが環境破壊を進めてその生物を絶滅させようとしたのら、我々は君たちと敵対したであろう。」

「幸い、そのようなことにはならなかったが。」

「十分な研究が終わったので我々は地球から離れた。」

「ほら見てごらん、あの辺りには地球から連れてきたその生命が繁殖しているんだよ。」

再度、隊長が聞いた。

「では最初のウルトラマンがハヤタ隊員と起こした事故もベムラーの脱走というのは嘘なのですか。」

「ああ、実を言えば、ベムラーは彼のペットだ。急に暴れて事故を起こしたのだ。彼は泣きながらベムラーを処分したのだ。」

ファーストコンタクトから何代にも渡って初めて知る真実であった。

2015年10月12日月曜日

吉田松陰

「いい?戦争を語れば、それはもう、情念、執念、怨念しか残らないのよ。」

数十年後に訪れた松陰神社は、道が広くなり駐車場が整備され観光バスが頻繁に出入りしていた。初めて見た宝物殿は近代的で、素朴な木と土間が匂う家屋だけがあの頃と変わることなく雨に降られ日に照らされている。

近くに寄れば乾いた木が匂う。これはよく知っている。生れるずっと前からそこにあった匂いだ。ここには国を想う心も塾生たちの野望も残っていない。

そこには人を想い人に想われた人が居た。貧富も身分も気にしない。強い心も強靭な思想もいらない。ただ自分の心のままだったろうと思う。

神社の境内で買った耳かきが今もある。そこはとても静かな場所だった。高い木が聳えていた。城下町にひっそりとしっかりと守られてきた。だれもこんなにも有名になるとは思っていなかった。偉人を思っても詰まらない。彼の素朴さを思えば十分だ。

死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。

花神の篠田三郎の演技に寅次郎を重ねる。最期の独白と風貌の鬼気迫る映像は如何にもそうであったように見える。それはもちろん虚構である。だが誰も松陰と話た人など残っていないのであるから、彼の実像という曖昧さよりも彼が未だ訴えかける何かと戯れるべきだろう。

松陰は女を知らないと言われるが、それを聞いたらなんと答えるだろう。私は女よりいいものを既に知ってしまったからね。其れを学問と捉える事もできる。もちろん、それを塾生との BL として描いても何ら問題ない。

夢に神人あり。与ふるに一刺を以てす。文に曰く、二十一回猛士と。忽ち覚む。
....
我事にのぞみ、猛を為すことおよそ三たびなり。而して或は罪を獲、或は謗りを取り、今は即ち獄に下り、また為すことは能わず。而も猛の未だ遂げざる者、尚十八回あり。

夢にて私は21回の猛士たれと告げられた。私はこれまで東北脱藩で一回、謗りを受けること一回、下田沖で渡米を試みること1回。これまで3回は狂った行動をして来た。だからあと18回は狂って見せる。

およそ吉田松陰と言う人は狂に殉じたに違いないが、誰も松陰の狂を本気にはしなかった。彼を困り者と思った人は大勢いたが、誰もその危険性を本気にはしなかった。彼の行動を見てさえそうは思わなかった。それに気づいたのはただ井伊直弼いいなおすけがあるのみか。

松陰の存在があの時代の何かを体現している。時代の結晶。あの時代の誰もが持っていた何かを彼は純化した。

山県太華やまがたたいか宇都宮黙霖うつのみやもくりんらとの論争から松陰が至極当然と得たものも今の我々から見れば最も過激なテロリストのそれである。それが松下村塾の門下生にも影響を与えたことは想像に難くない。

だが松陰は教育者であったから誰かをテロリストとして育てたのではない。松下村塾で学んだ者たちの多くが維新の功労者であるのも偶然に過ぎまい。もちろん彼の教育の賜物でもあるまい。そんな都合のいい教育法などありはしない。

生き残ったものが途中で倒れた者たちのことを後世に伝えた。その者たちの多くが松下村塾で学んでいる。ただ友情がある。松陰を想う時とても穏やかである。その印象は内情の激しさに気付かない。穏やかさ、優しさにある友情が松陰のように見える。

今日死を決するの安心は四時の順環に於て得る所あり。けだし彼の禾稼かかを見るに、春種し、夏苗し、秋苅り、冬蔵す。秋冬至れば人皆其の歳功の成るを悦び、酒を造り醴を為り、村野歓声あり。未だ曾て西成に臨んで歳功の終わるを哀しむものを聞かず。

幕末は対立と殺戮の時代であった。誰もが傷つき倒れて行く。椋梨藤太むくなしとうた周布政之助すふまさのすけも闘争に敗れ死んでゆく。

川路聖謨かわじとしあきらが一度は救った命を井伊直弼が死罪と書き改めた時、歴史は決まった。松陰の血が大地に流れた時、歯車は動き始めた。僕たちはその歴史の延長線上にいる。

彼が死罪されたときに幕府は倒しても構わぬという思想が宿る。高杉晋作は功山寺で刀を振り上げ、その業火は長州を超え幕府に達した。討幕は彼らの正義である。

その最初に松陰が立っている様にも見える。彼の激しさは戦争の狂気によく似ている。

天地の大徳、君父の至恩。徳に報ゆるに誠を以てし恩に復するに身を以てす。

この国の歴史は武力を如何に統制してきたかの歴史でもある。優れた官僚制度が長く続いてきた歴史でもある。江戸幕府の安定は武士を侍に生まれ変わらす工夫であった。

平安時代は官僚が貴族であった時代であり、江戸時代は官僚が侍であった時代である。それが明治となり昭和になった。修士が官僚の時代が到来した。

だから海を渡り勝利できると思う程に彼らは戦争を知らなかった。小さな国土では狭い世界しか想像できなかった。

昭和を代表する政治家である東条英機はどうか。そのメンタリティは余りにも幼稚に見え小人物と呼ぶのが相応しい。その程度の人物が首相を務めねばらなぬ程になぜ人材は枯渇したのか。

狭い国土の戦争しか知らぬ者が中国大陸に進出する。確かに日本という自然は決して優しくはない。だがそれだけでは足りぬ。日本海の海戦しか知らぬ者が太平洋に進む。

広さというものへの想像力の欠如。敵が機甲師団を繰り出した時に歩兵しかおらぬ軍隊。地平線の向こうにも陸地が続くなど夢にも思わぬ国家があった。

僕は忠義をするつもり、きみたちは功業をなすつもり。

高杉晋作はクーデターを起こしたのではない。皇国を倒したのでもない。天命に殉じようとしたのだ。

官軍であれ賊軍であれ日本というフレームを破壊したものはいなかった。攘夷を巡っては血を見たが尊王という基本思想からはみ出した者は皆無であった。誰も国を滅ぼす気も盗る気もなかった。日本を治めるには官軍になること。そういう思想が発見された。

日本の境界線は天皇の境界線と同じになる。明治維新は天皇の再発見という事件だ。それ以外のいずれも日本を定義できぬ。そういう発見であった。

もし天皇が消えてしまえば日本は消失する。そこに誰が残ろうと関係ない。時間や名前や血統が繋がっていようとも断絶する。

何がこの国を定義しているのか。何があれば日本と呼べるのか。失われた時に消えるもの。亡国とはそういうものである。

吾れ行年三十、一事成ることなくして死して禾稼かかの未だ秀でず実らざるに以たれば惜しむべきに似たり。然れども義卿の身を以て云へば、是れ亦秀実の時なり、何ぞ必ずしも哀しまん。何となれば人寿は定まりなし、禾稼かかの必ず四時を経る如きに非ず。十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり。二十は自ら二十の四時あり。三十は自ら三十の四時あり。五十、百は自ら五十、百の四時あり。

斉しく命に達せずとす。義卿三十、四時已に備はる、亦秀で亦実る。其のしいなたると其の粟たると吾が知る所に非ず。若し同志の士其の微哀を憐み継紹けいしょうの人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼かかの有年に恥ざるなり。同志其れ是れを思慮せよ。

神話を持たない国家など存在しない。小さなコミュニティや村落でさえ小さな神話を持とうとする。人間のコミュニティは神話を必要としている。家族は祖先や親戚を祭る、国家は歴史を記述する。神話がなければ0から1が産み落とせないのではないか。

人間は神話を共有する。それが生存を肯定するからだ。存在を生み出すものが神でなければ、なぜここに生まれてきたのか誰にも分らない。そして生まれてきた以上、これを否定などできない。生命とはそういうものだ。

愚かなる 吾れをも友と めづ人は わがとも友と めでよ人々

科学では生まれてくる不思議さに答えられない。それでも生まれてきた者は人間にならなければならない。そのために神話が人間となる物語を提供する。

実存する天皇はその父を辿ってゆけば記紀の世界まで辿り着く。例えキノドンの時代まで遡ろうと途切れることなく続いてきた命の系統樹が目の前にいる。

目の前のリアリティ。科学が DNA を見つけるずっと前からあるもの。陰謀や闘争に溢れる歴史の中でずっと残ってきたもの。国外の勢力に打倒されることなく支えてきたもの。

この国は近代国家の誕生よりずっと古い。近代国家の理念が消滅しても残るものがある。信仰や思想さえ不要なもの。命さえ続けばそれで十分だ。

七たびも 生きかえりつつ 夷をぞ はらはんこころ 吾れ忘れめや

ヨーロッパで生まれた17世紀の理念が近代国家は誕生させた。それはフランス革命を通して広がりアメリカ合衆国を独立させる。

アジアの建国はそれよりずっと前の中国の思想家たちの理念に基づき形成された。彼らは紀元前にはその仕事を完了させている。アジアにはアジアの理念がある。それが大航海時代を経た19世紀にアジアで対峙した。

アジアの伝統が破壊され強制的に西洋をダウンロードした国家はアイデンティティに苦しんでいるのかも知れぬ。神話を持たぬ国々は日本に先勝したと未だに謂わねばならぬほどに傷ついているようにも見える。近代は戦争に勝つ事でしか得られぬ何かがあるらしい。

恐らく独立という考えは西洋のオリジナルである。東洋の独立とは全く異にする概念だと思う。これに対抗するには近代化するしかないと最初に決断したのは日本であった。

呼びだしの 声まつ外に 今の世に 待つべき事の なかりけるかな

西洋の独立とは何か。これが帝国主義の独立であった点に注意が必要だ。彼らは独立を都合よく使った。それが帝国主義には必要ではなかったのか。帝国主義は資本主義に駆逐される。長い歴史の中でキリストの顔も随分と変わったろう。西洋の神は近代思想が再発明したのではないか。

近代科学は思想を生み出す。新しい世界観がどう神に影響を与えたか。神という仮定を取り除いても矛盾はない。これが科学だ。だから国家から神話や神が除外されるのは自然であろう。自然状態にある人間とは統治への補助線である。こうして権力から権威が完全に分離したのである。

基本的人権は、統治される側の権利であり、権力は人と人の関係を規定する。そこに神は必要はない。神は個人の良心と対峙する存在となり統治とは関係なくなる。

教会という権威、王という権力構造が、近代国家ではキリスト教という権威と近代思想という権力に置き換わる。権力は国家が保有する。権威を支えてきたものたちが消え始めている。

体は私なり、心は公なり。私を役して公に殉う者を大人と為し、公を役して私に殉う者を小人と為す。

日本は権威を天皇がになう。明治の元勲たちも、近代国家における権威と権力の分離は知っていたがそれは統治機構としての見せかけの構造として採用した。既に国造りは終えている日本では、国としての理念も思想も必要でなかった。ただ天皇という統治を配置すれば良かった。

天皇さえ居れば他の星に移住しても日本である。このような強靭な国家観と比べ、それを支える実存の天皇は極めて脆弱な存在である。それに無頓着であることがこの国の信仰ではないか。

それほどこの幻想は強力である。もし後継者を失ってしまえばどうなるのか。この問いを我々が問うことはない。

もし失ってしまえば何をもって日本と呼ぶのか。もしこれが不安を生むなら、それは何かが間違えている。その不安を追究しなければならないはずだ。既に終わっているのか。夢は覚めていたのか。

心甚だ急ぎ、飛ぶが如し、飛ぶが如し
瀬能吉次郎宛の手紙より

講義の時に顔に止まった蚊を叩いたら血みどろになるほど殴られた。玉木文之進の言。頬が痒いのは私事である。公を学んでいる時に私を優先させては公が立たぬ。

後に松陰の妹に介錯されるこの叔父の恐らく特別な考えではなかったろう。死は私に通ずる。公に死はありえない。ゆえに公の前では死を顧みぬ。

公に準じるには私を捧げる。理念を妨げるのは常に物理的制約である。ならば物理的制約の前に理念が敗北してもよいのか。もし命を投じることで達成できるならば、顧みるべきではない。

これを推し進めればたとえ理念が達成できぬとも命を差し出すのに躊躇すべきではないと言う狂信に至る。

そうして支えた公の価値を誰が証明するのか。それが犬死ではないと誰が謂うのか。誰も躊躇せずに進んでゆく。神話があるから出来たなど疑わしい。それが戦争に負けるまで続いた。生きてさえ居ればそれで良い。そう言えるのは戦後である。

権力公(生)王(人)国家資本
権威私(死)人間性

ここに異なる考えがある。

生命は空気を作り替え、4億年前に陸上に進出した。その揺るがない意志で鳥は空を飛び、微生物は深海深くまで潜る。この拡大の先に大気圏がある。

どう生命が仕組みを変えても突破できそうにない。幾つかの生物は地球に衝突する小惑星に吹き上げられる岩石とともに宇宙へ進出できたかも知れない。だがそれでは不十分だ。

この地球の生命を宇宙に進出させる使命がある。生命はその始まりから自らの生存領域を拡大してきたのだ。この流れの先端に人類が立っている。人類ならば宇宙へと進出できる。生命の生存圏を拡大できる。

別に人類だけが宇宙に進出する必要はない、人類は先駆けで終わっても構わない。隣の恒星に辿り着けるのが人間である必要性もない。最終的にこの地球の生命が辿り着き繁殖できればいい。あとはその星で勝手に進化すればいいのだ。

生命進化宇宙

権力でも権威も人間だけの話である。人間には生命の拡大に果たすべき役割がある。

諸君、狂いたまえ。

もし松陰が安政の大獄を生きのびていたらどうなっていたであろう。戦争も理屈ばかりで実践は下手そうだ。恐らく新しい政府でも使い道はあるまい。

純粋な思想家など建国の時には不要だ。火打石には使い時というものがある。次第に困った人になりそうだけれどど長州人は誰も無碍にできない。木戸も井上も伊藤も山縣もみな困ってしまう。だが安心なのは西郷とは違って戦争上手ではないし反乱も起こせそうにない。

萩で子供たちに学問を教えている姿が想像される。一回くらいはアメリカに渡ったであろうか。

乃木希典もまた玉木文之進の薫陶を受けた。同じものを受け継ぎそれを後生大事に抱えている感じがする。

2015年10月11日日曜日

ルワンダ中央銀行総裁日記 - 服部正也

読んでいると手塚治虫のグリンゴの絵が思い出された。本書中の写真は手塚治虫の絵に似ている。著者は昭和39年に国際通貨基金の要請により日本銀行からルワンダの中央銀行に出向した。

当時のルワンダは世界で最も貧しい国であり中央銀行も如何にも牧歌的である。人材の枯渇も甚だしい。それが彼らの今であり精一杯の向上である。

そこに登場した日本銀行マン歴25年。著者の能力は彼の地では異次元である。どいつもこいつも素人だ。ヨーロッパから派遣された連中でさえ素人だ。と著書の目には映る。

ここは確かに異質だし遅れているが、それは同時代の日本と比較するからであって、日本の敗戦期や明治維新の頃と比べればそう変わるものでもあるまい。時間を遡れば大同小異ときたもんだ。それが著者のアドバンテージである。かつて歩いた道だ、よく知っている。

著者はアフリカに抱く偏見に強く異を唱えるが、偏見が強いのはヨーロッパの人々ばかりではない。まず本書を書くきっかけとなった偏見が日本人の偏見である。それを著者は非常に強い口調で戒める。

私はこの評論家の国籍を疑った。明治のはじめ、および終戦直後において欧米諸国では、日本に対して同じような議論が行われたのである。
「まえがき」より

本書の最大の魅力は、著者の能力にある。状況を把握し、予測を立て、計算して数字を出す。計画は実行され、その結果はぴたりと予想と一致する。そこに何の不思議も疑問もない。これは科学なのだ。そういいたげな書きぶりである。

経済の舵取りはもう漫画にすべきだ。これがフィクションなら三流である。ノンフィクションならば一流である。これを描く著者の筆力がもう映画にしてくれ、漫画にしてくれと訴えている。

確かにこの仕事は著者でなければどうなるか分からなかった。しかし、著者が特別に優れていた訳でもあるまい。当時の日本銀行にはこれに匹敵する人材などごろごろしていたに違いない。特別でもなんでもない。神でもない。ただの日本銀行の職員であり一官僚である。

なるほど、だとすればだ、日本を復興しようとした人たちも、計算しまくったに違いない。あれがこうなれば物価はこうなる、さまざまな条件で将来の見通しを計算し尽くす。仮定が正しければ、結果はこの辺りに落ち着く。これは当然の帰結である。さらに想像をたくましくすれば、同じことは満州国でも起きていたに違いない。経済を計算し尽くし計画を立てていた官僚がいたに違いない。

我々はルワンダの虐殺を知っている。だから、この作品に登場する人々の未来が心配になる。それが読書中によぎる。この道はあの道へと続いているのだと思うと、著者の頑張りに少しの悲しみが帯びてくる。さすがに経済をよく知る彼でも、こんな未来までは想像しなかったに違いない。

とまれ、そういうドラマ的演出が正しい読み方であるか。歴史に責任は問えるのか。経済発展のゆきつく先に多くの動乱がある。それがどう起きるかは千差万別で分かりようがない。日本はそのような虐殺は経験せずに済んだ。

もし誰かの責任を問いたいのであれば30万年前に生まれた最初の人類の親を問えばいい。なぜその新しい種を君たちは育てたのか、なぜ死なせてしまわなかったのか。そうすれば、原子爆弾で焼かれることも大虐殺も起きなかったのに。

増補1にあるフランス軍の孤軍奮闘を読みヨーロッパにフランスがなければ随分と詰まらないだろうという思いを強くした。片方だけを信じるのは危険だ。

2015年9月20日日曜日

作品は「浦沢直樹の漫勉」を見る前から知っていた。ここで見せつけられた線の美しさに彼女を再認識した。上杉謙信が女であるという説は知っていた。さもありなんと思うが興味はない。

女であろうが、男であろうが、上杉謙信という人、彼を取り巻く人々が変わるわけでもない。もしそうなら、そうと知って動いた人々がいた。もしそうでないなら、そうでないと知って動いた人々がいた。歴史は微動だにしない。

謙信を女とすることで作品は面白くなる。それは当然だ。本当はどうだったのか。DNAを解析すればはっきりすると思うだろう。だが生物はもう少し逞しい。彼/彼女は両性具有だったかも知れない。まぁ、そうなればそうなったで今度は両性具有の謙信を描けばよい。

歴史をどのように理解してゆくかは難しい、だから面白い。資料が示すことが本当にそうであったか。そんなもの分かるはずがない。それでも資料以外の何を頼りになぞればいいのか。誰も信長の最後の気持ちが分かるはずがない。仮に本人に聞いても、焼け落ちようとする建物の中での言葉など、本心でもなんでもない。

もし生き延びればまた別の感慨が浮かんだであろう。歴史とは過去への驚嘆である。歴史とは過去への畏敬である。合理と不合理の行き交う。どうして、なぜ。その不思議さに誘われて少しでも近づきたい。だからといってイカロスの飛び方が唯一の方法ではない。

漫勉の映像から受けたインプレッションと誌面を見比べては驚嘆し感嘆する。これは新しい漫画の鑑賞だと思った。何より驚いたのは、雪花の虎を読んで受ける東村アキコの印象と、漫勉から受ける彼女の印象は全く違う。当たり前だが、実際に味わって、改めて驚いている。

作家と作品は違う。そういう話なら十分に知っていた。画家の手紙と作品、作家とその生活。だからといって作品から得られる東村アキコを虚像と呼ぶ気はない。

なるほど確かに「生きている人は何をするか分からない」。だけれども、それもこれも作品の存在による。もし作品が詰まらければ、決してこのような話をしてはいない。

上杉謙信の肖像画
この肖像画は長年好きでなかった。気持ち悪いとさえ思っていた。何もかもこの髭を書いた人が悪い。


だからおひげを消してみる。これは。。。画家は女に寄せて描こうとしたのだけれど、家老が来て、頼むからもう少し男っぽくしてくれと懇願される。画家は断ったが、どうしてもと折れそうにない。どっかを手直しするのは嫌なので、髭だけを加えた。最初は少しだけのつもりだったのに、もっと濃くしろ、もっと濃くしろとしつこい。もう、どうとでもなりやがれ。そんな物語があったのではないか。で、これを見た幕府の人も大笑いをしているという。これが違和感の正体だったらいいなあ。


2015年9月19日土曜日

新戦争論 - 小室 直樹

大学入試を控えた夏の頃だったろうか。

大船の官舎に居た頃。

多分この本だった。読んでは壁に投げつけ、また拾って読んでいた。

この人の戦争論を、結局は何度も壁に投げつけながら最後まで読んだ。そういう記憶がある。

いや、それは栗本慎一郎の本だっけか。

記憶は定かでない。

戦争は外交の延長であって、好き嫌いでなくなる類のものではない。平和を愛することと戦争をなくすことは同じではない。時に平和を愛する行動がために戦争が始まることもある。行動の結果を熟慮しなければならない。謂わば技術だ。

今にしてみればこの当たり前の話を理解するのに最初は苦心した。

この本について思い出すと、当時の家の畳だとか壁だの景色が浮かぶ。外にしんしんと雪が降り積もる夜もあった。

どこかの出版社にもうこの人の本は出ないのですか?と電話したこともある。

この人の本は、どれも声が聞こえてくる面白い本ばかりだった。

まだ何を学ばないうちに、この方はもう逝ってしまわれたんだなぁ。

お国のために、という言葉がある。

それは、もちろん、尊厳なんだけれど、逆の言い方をすれば、そうとでも言わなければ到底受け入れられない程の理不尽があった。

理不尽な事を受け止める時、人は遠ざかるか、更に近付いてみるしかない。

お国のために、という言葉には、謂わばそういう出来事があって、共同体を失った人は最後はそこに辿り着くしかないじゃないか。

お国のために、それ以外のどういう言い方で納得できるだろうか。

戦後の日本は村から会社という共同体に大きく変革した。

それは恐らく日本だけでなく先進国全体でそういう流れが起きたのだろう。

もしその共同体が失われたら人はアノミーを発症する。それはヒステリックみたいなものだけど、到底人間がそこに居続けられる類ではない。今だって共同体から弾き飛ばされた人はそこに行く付くしかないじゃないか。

最後にお国のために、とすがるしかなかったじゃないか。

その理不尽さから遠ざかる者は左に、近づくものは右へと進んだ。

でも重要なのは、そこではない。

理不尽であったとまず認めることじゃないか。

今からその場所にもういちど戻ろう。

その焼け跡に、今やたくさんの美しい草木が萌えているとしても。

それなのに、もう、お骨になってしまわれたのだなぁ。

2015年9月15日火曜日

Σのおさらい

∑とは

総和 - Wikipedia
総和の計算 - 数学メモ

数式で +-*/、√、sin, cos の次に出現頻度が多いのは ∑ であろうか。よって ∑ を理解すれば、数式を読むのが楽になる。

∑の呼び名

∑は SUM (和) S のギリシャ文字。そこで ∑ が数式中に出現したときにはシグマとではなく ∑ 合計 /サム /数列の和と読むだけでも頭に入りやすくなる。

SUM は必要な数を全部足すだけだから要素を全て列挙すれば求められる。やることは足し算だから簡単だけれど、数が莫大になるともっと簡単に答えが欲しくなる。そこでドラえもんのひみつ道具。はい、数学の公式。

∑の主な公式

これらの公式を使えば、理屈不要、理解無用、なのに答えが出る。
//展開式。
∑ i^1 = ( n * (n+1) ) / 2;
∑ i^2 = ( n * (n+1) * (2*n+1) ) / 6;
∑ i^3 = ( n * (n+1) / 2 ) ^ 2;
∑ i^4 = ( n * (n+1) * (2*n+1) * (2*n^2 + 3*n -1) ) / 30;
∑ i^5 = ( n^2 * (n+1)^2 * (2*n^2 + 2*n - 1) ) / 12;
∑ c^i = ( x^(n+1) -1) / ( x^n -1);
∑ (2i-1) = n^2;
//cは定数。
∑ c = c * n;
//足し算、掛け算。
∑ (i + j) = ∑i + ∑j;
∑ (c * i) = c * ∑i;

∑のパラメータ

最初の値と値の増え方と値の個数から答えを求める。全てを足し算するより便利だし早いし楽市楽座。

(画像は wikipedia より)
  1. 開始する値 - i
  2. 個数 - n
  3. 値の増え方の式 - k

1,2,3,4...100 の総和を求めてみよう (0は何回足しても0)



全部を足し算で求める方法。
//∑(i=1, n=100)。
var i = 1;
var n = 100;
var sum = 0;
for( ; i<=n; ++i ) {
 //f は任意の値の増え方。
 sum += f (i);
}
公式から求める方法。
//
ガウスの方法。
//
図(幾何)にすれば、長方形部分の面積の足し算と同じ。



総和と積分

面積と言えば ∫ 積分である。

∑で面積が求まらないのはグラフの通り、積分から総和を求めるにはグラフのはみ出した部分を足す。上記の場合ははみ出した三角形の面積を足す。
//

はみ出た部分が 0 になるほど x の増分を小さくすれば積分になる。これは数列を離散値から連続値にするのと同じである。基本的な発想は離散値を極小化すれば連続値として扱えるである(たぶん)。詳細は数学なので知らない。

和と積分との関係 [物理のかぎしっぽ]
//

総和と階乗

足すがあれば、掛けるがあるのが当然の帰結である。それが階乗であり 6! のように記述する。総乗は大文字のパイ (∏) 記号で表現する
//
  • 総和 ∑
  • 直積 ∏
∏は Product(積) P のギリシャ文字。そこで ∏ が数式中に出現したときはΠパイとは読まずに ∑ 総乗 /数列の積 /直積と読むだけでも理解しやすくなる。

簡易計算器

∑ i= , n= , x^ ,

∏ i= , n= ,

2015年9月7日月曜日

交換 - 経済 I

貨幣の前状態として、海幸彦、山幸彦の時代を想像してみる。海幸彦は海で漁をしている。山幸彦は山で狩りをしている。生活が豊かになればモノが余る。
  1. 生活(生産性)が向上する

モノが余ればお互いに行き来し往来が成立する。
  1. コミュニティ間で交流が成立する

モノの交換はとても早い時期から行われていたらしい。ネアンデルタール人の石器はほとんど変化していないが、同時代のホモ・サピエンスの石器は次々と変化しているそうである。

これは当時から異なるコミュニティ間でモノの交換が成立していたからだろう。技術が伝播するにはモノや情報の交換(略奪も含む)が欠かせない。誰かが工夫し、交換し、工夫の上に工夫が積み上げられた。

何度も交流すればお互いの間で信頼が生まれる。
  1. コミュニティ間で信頼が生まれる

魚と肉を交換する。どうすれば異なるモノの交換が成立するか。異なるモノの間で等価という価値の発見が必要だろう。交換可能なモノは等価でなければならない。魚と肉はどれくらいの量ならお互いに損していないのか。
  1. 交渉と合意の末、異なるモノの間に等価という概念が発見される

燻製などの技術革新によって魚も肉も長期保存が可能になる。これによって価値が長期保存できるようになった。生魚は数日で腐るが、燻製にすれば数カ月は価値を失わない。
  1. 価値を長期化する技術革新

燻製ならば交換して直に消費する必要はない。そうなると交換する時期の幅が広がる。今は必要なくても入手しておいて損はない。こうして未来を考える事ができるようになった。いま貯めているモノは何時ごろなくなるだろうか、それまでにどこで交換しておけばいいだろうか。こうしてより遠い未来を見据えた計画が必要となってゆく。
  1. 計画的に交換する

こちらにはモノがあるが、相手にない場合、従来は交換が成立しなかった。それでは機会の消失である。せっかく持ってきたモノのにまた持ち帰るのも徒労になる。お互いの間に信頼があるのならば、モノは置いて帰り次に来たときにモノを貰ってもよいだろう。こうして交換がその場で完結する必要はなくなる。時間差をおいて完結できるようになった。
  1. 交換を渡すと貰うのふたつに分離して考える

幾ら信頼していても、交換した量を記録して置かなければトラブルの元である。それはお互いにとって不都合である。不信感に陥ることなく、信頼を続けるためには、交換の履歴を記録するべきだろう。
  1. 交換の履歴を記録する

交換の記録が増えて行けば、A村との魚の交換、B村との貝の交換、C村との海藻の交換、とたくさんの交換の記録が溜まる。このとき、A村の交換とB村の交換を交換するという発想も生まれるだろう。
  1. 交換の記録も交換の対象となる

交換の記録は、交換相手がいつ消えるか分からない。病気の蔓延や事故など不測の事態が考えられる。個人と交換するのではリスクが高い。交換の相手を個人から村にすれば信頼性が増す。

最初の頃はモノの数量と誰とが記録されていた。A村のアさんとの交換の記録がある。これをB村のイさんに渡せば、アさんとイさんは直接交換することが出来る。それが村の名前になればアさんが居なくても交換できる。
  1. 交換の記録から交換相手が消えてゆく

何かが欲しい人は、そのモノを持つ人を探すよりも、記録を持つ人に相談する方が早い。

モノとモノの交換から記録と記録の交換によってモノが手に入るようになる。こうして交換の記録さえあれば誰からでもモノを入手できるようになる。相手への信頼が不要になって記録が信用できれば良い。
  1. 交換するのに相手への信頼が不要になる

こうしてモノと記録の交換が成立する。これはコミュニティ内でのみ通用するモノであるが、この記録の交換は拡大してゆくだろう。

こうして記録はそのコミュニティにおいて誰とでも交換可能なものになる。

記録が不正に改竄されないことをどうやって保証するのだろうか。この保証は交換する当事者同士では成立しない。不正がないことを保証できる第三者が必要である。それは改竄者を厳しく糾弾できるだけの力も必要である。
  1. 記録を保証するには第三者が必要である

交換の記録が貨幣に変わるためには何が必要だろうか。交換の記録では交換するモノが決まっている。そこで魚10匹と肉1kgの交換が同じなら、置き換えである。肉1kgが欲しい人は魚10匹の交換の記録を手にしてもいい。その考えが価格という概念を生むだろう。
  1. 価格が生まれる

交換の記録からモノの情報が不要になる。変わりに価格が記録されていればいい。価格を記録するための通貨単位が生まれるだろう。
  1. モノと相手の交換の記録が通貨単位に置き換わる

しかし価格が生まれると新しい別の問題が発生した。昨日までは魚10匹であった価格が今日は5匹になっているかも知れない。価格は日々変動してゆく。それでもモノの交換よりもずっと便利であった。何とでも交換できるお金の性質は手放されることはなかった。

交換には、自分のものを渡し、相手のものを受け取るまでに、必ず警戒しなければならない時間帯が生じる。この不信感の時間を長くする方向で交換は発展してきた。その最後に生まれたものがお金である。

2015年9月5日土曜日

私訳 - 戦後70年談話

戦後70年談話の要約

  • 過去の謝罪だけで済ませるべきではない。
  • それは決して過去の失敗を忘却することではない。
  • 多くの人々の援助と寛容に感謝する。
  • 日本はこれからも経済による貢献を続ける。
  • 国際秩序の安定、平和維持に積極的に参加する。

平成27年8月14日 安倍内閣総理大臣記者会見

8月は私たち日本人にしばし立ち止まることを求めます。今は遠い過去なのだとしても、過ぎ去った歴史に思いをいたすことを求めます。
一般的に、8月は戦争について何かしらの発言をしろと強制されます。それは、流れ去ろうとする遠い過去と、まだ忘れられない今との間にあります。我々にはまだ解決されていない課題があります。

政治は、歴史から未来への知恵を学ばなければなりません。戦後70年という大きな節目にあたって、先の大戦への道のり、戦後の歩み、20世紀という時代を振り返り、その教訓の中から未来に向けて、世界の中で日本がどういう道を進むべきか、深く思索し、構想すべきである、私はそう考えました。
通常、政治は歴史から学びます。同じ失敗はすべきではないからです。先人の成功も失敗も最大限に研究し尽くさねば決断すべきではありません。だからといって何時までも過去の失敗に怯え続け、その場で足踏みし続けるべきでもないでしょう。我々には恐る恐るであっても少し前へと足を踏み出す時期が迫っています。

同時に、政治は歴史に謙虚でなければなりません。政治的、外交的な意図によって歴史がゆがめられるようなことは決してあってはならない、このことも私の強い信念であります。
政治家は歴史を自分に都合よく解釈してはなりません。世論や国外の要求に迎合するためにでも、自分の考えを訴えるためにでも歴史を使うべきではありません。歴史は多様な解釈が可能なものとして私たちの眼前にあります。

同じ色を見ているはずなのに、ある人には赤と見え、別の人には青と見える。どのような解釈が本当に正しいのかと問われれば、歴史は正しさが刻まれたものではないと答えるしかないでしょう。信念を持つ者だけが、歴史から何かを取り出せます。人はだれもが自分の探しているものをそこに見つけるからです。

ですから談話の作成にあたっては、21世紀構想懇談会を開いて、有識者のみなさまに率直、徹底的なご議論をいただきました。それぞれの視座や考え方は、当然ながら異なります。しかし、そうした有識者の皆さんが熱のこもった議論を積み重ねた結果、一定の認識を共有できた、私はこの提言を歴史の声として受け止めたいと思います。そして、この提言のうえにたって歴史から教訓をくみ取り、今後の目指すべき道を展望したいと思います。(以上、記者会見での冒頭発言)
ですから、談話は様々な考えを取り入れました。もしかするとそれが玉虫色に見えるかも知れません。ならばそれは虹です。虹は7色ですが、元はひとつの光です。玉虫色に見えるこの談話もそれはひとつの光なのです。



平成27年8月14日 内閣総理大臣談話
終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。
日本は1928年にパリ不戦条約に署名しました。それはそれまでの帝国主義とは異なる新しい局面を世界にもたらそうとするものです。その奥底に帝国主義の残渣があろうと、それはこれまでとは違う新しい価値観のテーゼだったと思われます。世界は急速に帝国主義的、植民地的経済から、何か別のものへ、資本主義的な経済へと変わろうとしていたように思われます。

百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。
百年以上前の欧米列強がアジアで取った行動は、契約による詐欺、差別意識丸出しの、神の名を冠する略奪でした。そのような世界観を押し付けた彼らが欲したのは彼らの国を富ます金銭的利益でした。帝国主義は略奪にこそふさわしい経済体制でした。

日本はその過渡期にあって自らの歴史に帝国主義をハイブリットした近代国家として生まれます。これは等しく誰もが驚愕すべき事件です。アジア独自の帝国主義的な近代国家が誕生したのですから。この国家は遂には日露戦争にも勝利しました。

世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。
日本には第一次世界大戦の教訓がすっぽりと抜け落ちています。遠い海の向こうで起きたことだからでしょうか。それとも西欧だけで起きたことだからでしょうか。

産業革命が地球を小さくし、距離の短さが世界中の民族を際立たせます。植民地支配による経済発展が終焉を迎えようとするとき、次の新しい経済を模索中のヨーロッパで起きた戦争は、20世紀の初頭に多くの人々の目を開きます。科学も社会も人間の価値観を根底から揺るがすような大きな潮流の中に居ました。

当初は、日本も足並みを揃(そろ)えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。
日本はアジアの黄色い猿扱いから脱却しようと、差別に耐え、世界と協力して秩序を保とうと努力します。しかし、その努力は世界恐慌によって吹き飛んでしまいます。

各国は自国民を守るために、懸命に小さなボードに乗り込みます。沈む行く船から何艘ものボートが逃れてゆきました。小さなボードに他人を載せる余裕はありません。各国は排他的に他国を扱います。

運よくボードに乗れた者はいい。しかし、海で溺れる者にも守るべき国民が居ました。例えボートを奪いとってでも生き延びねばなりません。日本は幾つかの経済政策で成功しそうに見えましたが、貧困と格差に対する不満から軍事クーデターが起きます。国内の政治は一気に萎縮し、抜け道のない暗い深い霧の中に入り込んで行きます。

満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。
満州事変も、国際連盟からの脱退も、新しい国際秩序に対する挑戦と見做されました。世界が資本主義へ推移している時に、日本は帝国主義に活路を見出そうとしました。大陸にそういう軍人たちの夢物語が花開いたのです。あの戦争は帝国主義経済と資本主義経済の戦いであったと思うのです。

そして七十年前。日本は、敗戦しました。
日本は常に軍事クーデターを横目に見ながら戦争をしていました。

戦後七十年にあたり、国内外に斃(たお)れたすべての人々の命の前に、深く頭(こうべ)を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫(えいごう)の、哀悼の誠を捧げます。
あの戦争で300万人が死にました。勝ち目のない戦と知りつつ死んだ人が大勢いる。家族の幸せを願い死んだ兵士がいる。それら兵士の家族の何人が劫火で焼き殺されてしまった事でしょう。国家はこの人々の無念に未だ答えていない。

先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱(しゃくねつ)の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。
このままでは犬死ではないか。戦後のシベリアの地で亡くなった人たち。まるで、その後の世界が核兵器で滅んでしまわないようにと、焼かれていった広島、長崎の人たち、そこで焼けたのは日本人だけではない。この戦争は兵士たちだけのものではなかった。民衆の全てが被害者となり、加害者となる事を教えています。

戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜(むこ)の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。
死んでいったのは日本の国民だけではない。戦闘だけではない、行軍の途上にあったために、村は焼かれ、戦争とは関係なく子供たちが生き埋めにされたのです。その被害は女性にも及びました。世界中のどれほどの人が苦しみを背負っている事でしょう。

何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈(かれつ)なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。
これだけの苦しみ、悲しみを与えた中に日本も居ます。それは疑いようのない歴史です。そこで起きた事は恐らく人間の限界を超えていました。

これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。
そういう犠牲を払わなければ得られなかったものとは何でしょうか。束の間の平和ですか。新しい国際秩序ですか。新しい経済体制ですか。それ迄より少しは良い世界が来たと信じます。しかしその後も多くの苦しみがこの星にあります。

二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。
二度と「悲惨な戦争」をしてはならない。そう言葉にするのは容易い。

事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別(けつべつ)し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。
事変と呼ぼうが、侵略と呼ぼうが、戦争と呼ぼうが、如何なる武力による威嚇も行使も、国際紛争を解決する手段としては使わない。新しい憲法はそう日本を規定しています。この崇高な理念を目指しつつ、この世界とどう折り合いをつけてゆくか。

先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。
先の大戦は大いなる失敗でした。日本は戦争に負けるとはどういうことかを理解しました。この世界にはまだ多くの戦争があります。そこで日本は再び誰かに負かされる訳にはいかない。しかし、誰かを打ち砕き負かしたいと願うわけでもありません。

もし仮に、先の大戦と同じような、略奪する以外に生き延びる道が見いだせない時。我々は次ならどうするか。その答えは未だ見つかりません。

我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫(わ)びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。
しかし同じ過ちを繰り返していいはずがない。そのような愚かな行為をこの世界は許さないでしょう。我々の歴史もそのような愚かさを許容できるとは思わない。それを謝罪でしか伝えてこなかった所に問題があるのです。

こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。
我々は次はどうするのか。そう問われています。次は違うということを証明しなければなりません。

ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛(つら)い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。
奪われたものの悲しみは、奪ったものの努力によって、癒せるものでしょうか。

ですから、私たちは、心に留(とど)めなければなりません。
それを私たちは自分自分に問いかけなければなりません。

戦後、六百万人を超える引き揚げ者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。
戦後の混乱の中で、600万人を超える人々が日本に戻ってくることができました。中国では三千人近い残留孤児が昨日まで敵だったはずの方達に暖かく育てられました。捕虜として苦しんだ方々が、戦後に交流し、許し、お互いを慰霊しあっています。

戦争の苦痛を嘗(な)め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。
もちろん助けが届かなかった人々は既にいません。声を聴くこともできません。そうやって亡くなり忘れられている方も大勢いるのです。それでも生き残った人々が紡ぐ糸があります。いつも許すのは奪われた人たちです。そこに至るまでの苦悩と道のりを思うとき、私は人間性に対する絶対的な信頼を得ます。

そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。
私たちはこの星に住む数多くの生物のほんのささいな集団です。

寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。
激しい怒りも許されざる犯罪もありました。日本人は決して美しき敗者であったわけではない。戦後もこの国には多くの理不尽がありました。それでも多くの寛容によって日本は戦後の国際社会の一員に復帰できました。許す事がどれほど多くの人々を救ってきたでしょうか。

日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。
今や先の大戦を知らない世代が人口の八割を超えました。彼らは先の大戦を知りません。もちろん、世界中には多くの紛争があります。もし私たちが先の戦争だけを考え、それ以外の戦争に無関心ならば、それを正しい選択とは思いません。

しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。
我々自身があの戦争を忘却していいはずがない。あの敗戦には学ぶべきものがあります。

私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈(しれつ)に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐(おんしゅう)を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。
戦後を歩む時、私たちは孤独ではなかった。米国を始めとする多くの国々の善意と支援がありました。それは先の 3/11 の大震災でも証明されています。

そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。
感謝と謝罪、我々の失敗と向き合い、日本はアジア、そして世界の国々に何かを貢献したい。それが世界とつながることであり、未来へとつながることだと信じているのです。

私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。
私たちの過ちを一言で言うなら孤立でしょう。なぜ我々は孤立していったのか。私たちは、他の国々よりも優れていると慢心していました。それ故に孤立していったのでしょうか。それとも我々は孤立したが故に、優越感を感じるしかなかったのではないか。

ならば孤立を作らないことが、例え敵対する相手とでも、孤立しない事が我々にできる事ではないか。

私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。
20世紀の戦争は多くの女性を苦しています。それは今も続いています。これ以上、性差による苦しみが許されるはずもない。戦争であれ犯罪であれ多くの不幸を解決すべく邁進したい。

私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意(しい)にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引(けんいん)してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。
この世界はますます経済の価値が強まってゆきます。その先には、もしかすると政府と企業の敵対関係が生ずるかも知れません。経済は人と人を繋げます。

この星は殺し合いの場ではありません。この世界を救うのに経済以外の方法があるとも思えません。繁栄を分かち合うことが平和の礎です。限られたリソースを如何に分け合うか。世界中の貧困と寄り添える国を目指します。

私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。
我々は世界と敵対する挑戦者ではなく、国際社会の一員として世界に貢献する挑戦者でありたい。この星に生まれた自由、民主主義、人権という理念を出発点としてこの世界に貢献してゆく。それが「平和への率先した貢献(Proactive Contribution to Peace)」の意味です。

終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。
この先の世界のビジョンを世界中の国々と共有してゆきたいのです。



(談話を読み上げ後)以上が私たちが歴史から学ぶべき未来への知恵であろうと考えております。冒頭私は、21世紀構想懇談会の提言を歴史の声として受け止めたいと申し上げました。

同時に私たちは歴史に対して謙虚でなければなりません。謙虚な姿勢とは果たして、聞き漏らした声がほかにもあるのではないかと、常に歴史を見つめ続ける態度であると考えます。私はこれからも謙虚に歴史の声に耳を傾けながら、未来の知恵を学んでいく。そうした姿勢を持ち続けていきたいと考えています。私からは以上であります。
歴史に謙虚であるとは、様々な解釈を許容するという事です。これまでの解釈だけではない。新しい見方を許容するとという事です。私に聞こえているものはあななたちと違うかも知れない。私は私が正しいと思うものを学んでゆく、あなたにはあなたの意見がある。それを論じ、お互いの理解を深め、ひとつの合意を目指す。それが日本の和だと思います。

2015年8月28日金曜日

零戦少年 - 葛西りいち

この世界の片隅に - こうの史代 を読むときに 8/6 が決して避けられないのと同様に、零戦に乗った祖父が特攻と向き合わないことなどあり得ない。

それは日本の全ての飛行機乗りを待ち受けている来るべき未来であって、それを知りつつ読み進めることは、恐らく、それを実際に経験した人とはまた違った感情を持つ。

清水茂、逢坂広、葛西安男を中心に物語が進む。数コマしか描かれなかった人達にもその後の人生はあったはずだ。戦局が悪化するにつれて、彼らは南下してゆく。自分たちが信じている海軍精神が辛うじて崩壊から免れたのは、彼らが堂々としていたからだ。多くのそういう人たちの無言が日本である。腹を切って苦しんで死んで逃れようとした人々ではない。

これほどの特攻シーンを見たことはない。その数ページほど素晴らしく描いた描写も見たことはない。これからもないだろう。

これは残さねばならない描写であって、そこにあるのは冷徹なまでの傍観者、観察者の視線である。なにひとつ、そこに作者の色を加えていない。そう決心した美しさ。

操桿し今まさに突撃しようとする人たちがそれを拒絶した、とも言えようか。静かにしておくこと、ただペンを走らすこと、それ以外の何がある。

過去を、他人を、世界を、自分語りのために剽窃し、それを切り売りする人がいる。そこから人々を感動させる物語を作り上げるなど簡単なのである。感傷を誘い、共感を起こし、逼迫した決断を迫る。人々をもらい泣きさせ恥じもない。

だがこの作品は違う。きっぱりと。何故ならこの作品が目指しているものは感動ではないからだ。人の心を揺り動かそうなど一切していない。描かれた時の流れがとてもいい。

過去は過ぎてゆく、記憶から薄れてゆく。700 年もすればこの時代の話など忘れ去られよう。それでも 70 年が過ぎてこういう作品が読めることが本当に嬉しい。この国に漫画という表現が根付いて本当に良かった。

2015年8月22日土曜日

鉄十字勲章

鉄十字勲章Iron Crossの中央にハーケンクロイツ(卐/右卍)をあしらったものはナチスが制定した1939年章として知られる。

ナチスが 20 世紀に人類が生み出した政治体制の中でも最悪の部類に類することは間違いあるまい。しかしそれがドイツのすべてを否定するものではないし、当然ながらナチスというものが指し示す何かは複雑である。

歴史的な実態を持ち、政治体制として、軍事組織として、ドイツの生活として、戦争を実行した主体として、さまざまな側面を見せるものである。我々には組織をひとつの人格と見做そうとする癖がある。

あれだけの大多数の人々が関わったナチスをひとつの人格で理解するなど無理に決まっている。それでもナチスはある抽象的な概念に昇華しようとしている。その精製過程で起きる混乱は、ひとりは水を氷と呼び別の人は雲と呼ぶ。そんな感じである。

死者数だけで言えば、ナチスよりも遥かに多くを殺した指導者は居る。民族浄化の歴史も枚挙に暇がない。しかし、ナチスが近代的官僚制度を用いて実行したことに人々は恐怖した。よく整備された官僚制度が効率化を追及すればあれだけのことがでできる。

効率化は現在も多くの企業が最上位に置く価値である。ならば企業もひとたび狂えばナチスと同じ行動を起こすのではないか。効率化を進めていけば必ず人間性と対立する場所が来るだろう。そこで立ち止まれるのか。

人類の歴史を紐解けば、民族の滅亡など幾らでもある。大航海時代以降には、持ち込まれた伝染病で活力を失い、狩猟の対象にされた人々もいる。遠い過去にはネアンデルタール人を絶滅させたのはホモサピエンスであるし、多くの動植物が今も絶滅している。その事実が深淵となって我々を飲み込みはしない。それは過去であり、克服すべき課題であっても、忌み嫌うようなことではない。

恐らくナチスは今も我々の鏡なのだ。覗き込めば、なんとも不気味な自分の姿が見えてくる。その深淵に落ちてしまいそうだ。もしあの状況に自分が置かれた時、誰が抗えたであろう。そう自問せざるえない。誰に否定できるだろう。

近代化された効率的な官僚制度、民族に基づく全体主義。そこに囚われれば、またあの事件が起きる。そこから逃れる術はまだ見つかっていない。だから、ただ警戒せよ、近づくな。

ナチスが勝利していれば、もちろん歴史は全く異なる局面を見せただろう。それがどのような世界をもたらすだろう。ナチス政権下のドイツの人々にとって、ナチスはどういう生活を提供したのか。誰もが逃亡した奴隷のように隠れていなければならなかったのか。それは今も爆撃にされされている地域よりも暮らしにくい世界だったのか。ジェノサイドは決して悪夢ではない。それに近いことは今も世界で起きている。

ナチスの象徴性は、時間経過とともに変わってゆく。時代を経ればどのような悪夢も薄れてゆく。その評価も非難されたり見直されたり再発見されてゆく。次第に変わってゆくものならば、結局、自分たちにできることは、生み出されたものを歴史の判断にゆだねてみるしかない。だから今の価値基準で全てを葬ってはならない。許されるのは封印までだ。

千年後を考えてみる。その頃の人々がナチスのデザインを見て何を感じるだろうか。我々が十字軍について思うのと変わらぬであろう。それは既に過去であって感情的に語られはすまい。彼らはデザインのひとつとしてそれを楽しんでいるかも知れない。デザインから象徴性が失われているのである。

しかし、それは将来の話であってナチスを連想させるものはまだ風化する途上にある。そこには深淵があって、近づけば落ちてしまいそうだ。

デザインが純粋に形状だけを意味するのであれば、どのようなデザインもこの世界に存在可能である。それは言論の自由があらゆる言葉の存在を否定しないのと同じである。

しかし、個人の思想も言論も造形も信仰の自由も、社会が無条件でそれを許容するわけではない。世界が広がれば人々が増える。社会は自分だけの世界ではない。お互いの許容で社会が成立するから、そこには合意という制限が起きるのは自然と思われる。

何を許容するか、何を禁止するか、それは法が規定するのではない。法はその幾つかを再定義したに過ぎない。法は罰すべきものを罰するために必要なのであって、社会の許容範囲を記述したものではない。全体主義ならば全てを法に記述するかも知れない。それは教義だ。

だからといって法に書かれていないことは全て許されるという主張には現在の定義を完全なるものと見做している短絡さがある。社会の変遷を法は追いかけることしかできない。社会は常に変化している。

昨日まで許されていたものが明日もそのままとは限らない。昨日まで許されなかったものが明日もそうとは限らない。だから許されているから正しいという論理は成立しない。

誰もが同じ場所に居るわけではない。誰もが同じ座標に居るわけではない。誰もが同じベクトルで動いているわけではない。あたかも統計力学の気体運動のようなものだ。個々の議論を見れば互いに衝突することはある。

ナチスを知らなければ、右卍はただのデザインであって、好き好きの問題に過ぎない。しかしナチスを知っていればデザインが好きだけとはもう言えない。その好きという心理が、ただの形なのか、ナチスの思想に同調しているのかを他人は区別できない。形が好きという心性の底に潜んでいるものを誰が分かるだろう。

再びナチスを生みださないためにはどうすればいいか、と危惧する。ヨーロッパは未だそこを乗り越えていない。だから今は徹底的に封じ込めておく。それでも貧困と格差が一部の人々をネオナチに向かわせている。

それは日本が先の敗戦を再び繰り返さないためにどうすればいいかを分かっていないのと同様だ。こうして僕はあらゆる局面に同型を類型を見つけてしまう。それを同じ場所で足踏みしているだけかもといぶかる。

とまれ、ナチスへの熱狂、近代的官僚制度、資本主義経済、石油に依存する文明、軍隊の機械化、国家の総合力としての戦争、敗者からの解放者。その向かう先が何であれ。

もう一度と願う人々が欲したのは何かの優越感だったのか。それは不安からの逃避であったろう。抑圧された精神の開放であったろう。その先に深淵が待っていようと構わない。ここではないどこか、そこならもっと上手くいくに違いない。そういう希望はなかったのか。

その先の深淵に落ちたのではないか。いまだ封じ込めるしかない歴史がある。我々は何をしてしまったのか。なぜあのような狂気が起きてしまうのか。ヒットラーの気まぐれな狂気が、かくも整然と最大の効率をもって、国民を動員し、何ら問題が起きることなく進捗させてゆくのか。我々のこの制度には何か根本的な欠陥があるのではないか。

封印している間にそれを検証する。そして、我々の社会制度ではもう起きぬ。そういう認識に共有されたとき、ナチスは過去へと至るだろう。その時には右卍もひとつのデザインに戻るだろう。まだその夜明けではない。

2015年8月2日日曜日

なぜ超能力は淘汰されたか

異星人では生来の能力として超能力を獲得している人種は少なくない。だが人類では既に失われてしまった能力である。ときたま山野浩一氏の例のように先祖帰りが起きるのみである。

なぜ地上では超能力は淘汰されてしまったのか。進化論によれば、獲得した形質が環境に適応しているならば、その能力はより強化されるよう進化するはずである。

明らかに超能力は退化した能力である。それは人の尾と同じである。生物の進化は効率化と多様化の追究であって、その方法論は量子コンピュータに近い。本論文は進化の中で超能力がいかに役立たずであるかを述べる。

以下に考察の対象を列挙する。それぞれの能力が如何に淘汰されたかを記述する。
  • 発火能力
  • 念写
  • 透視
  • テレパシー
  • 瞬間移動
  • 予知
  • サイコキネシス

発火能力

発火能力のある個体が最初に火を使い始めた。それは今から約12万5千年前。ホモ・エレクトスという種である。このことから超能力はホモサピエンス以前の類人猿で既に獲得された能力であると推測できる。

超能力によって火を扱えることは適者生存にとって有利に働いたであろう。しかしそのアドバンテージは長くは続かなかった。その後に出現した更に知能の高い猿人によって、発火能力の優位性は失われた。

知能が高く手の器用な猿人は発火能力を使わなくても、木の摩擦を利用して発火する方法を発見した。これによって発火能力に依存しない、どの個体でも等しく火を起こす革命が猿人の社会で起きたのである。

発火能力は生まれつきの能力である。個体間の能力差も大きかったであろう。この生まれつきの能力によって群れの中での格差も決まってしまったであろう。

そこに生まれつきの能力に依存しない、どの個体でも等しく使用できる発火法が見つかったのである。発火法の発見が個体間にある生まれつきの格差を消失させたのである。

次第に火の使い方が上手になるにつれて、発火能力の優位性は次第に失われていった。木が濡れていたり、燃やすものがない状況でしか意味のない能力である。しかも、知恵を付けた猿人は、そのような困った状況を回避するために、事前に準備したり、備蓄をしたり、何か所にも点在させて保存するなど、工夫を重ねていったのである。発火能力は既に生存競争に寄与しない能力であった。やがてこの能力を持つ個体は自然淘汰され失われていったのである。

現在でも先祖返りによって発火能力を持つ個体が出現する。しかしその能力は強い感情の発露によって発現する。哀しみや屈辱によって発火し制御不能に陥るため、多くは自分や住居を燃やし不幸な結末を迎える。

発火能力の方法
  • 体の近くの原子を激しく摩擦させる
  • 近くにある可燃物(人体を含む)が燃える

今や発火能力よりも100ライターの方が便利である。かつ安全である。100円ライターがあれば発火能力など不要である。もし発火能力を有する者がいるならば危険物取扱者資格を取得することを強く推奨する。


念写

念写は暗い箱の中に置かれた感光材に対して何等かの粒子(恐らくX線)を放射するものである。それは感光材のすぐ近くに電磁波を発生させる能力であり、意識的に放射線を作り出す能力である。

X線として光子を任意に発生させるのであるが、その粒子の数はアボガドロ定数(6×10^23、1兆(10^12)のおよそ一兆倍) の何十倍にも達するであろう。これら一粒づつを制御しているとは考えられない。念写したい形の電磁場を空間に生み出しているのだろう。そのため念写で写された画像はぼやけているのである。

念写の方法
  • 特定の空間に電磁場を生成する
  • 電磁場から放射線が放射されるようエネルギーを与える

この能力が放射線の発生ならば物理学の研究には有益であろう。もしその能力が CERN の LHC を超えるものであれば、科学への寄与は計り知れない。しかし、X線は1895年にレントゲンが発見するまで未知のものであった。故にそれ以前に念写の能力に気付いた人は皆無であったろう。この能力を持っている人は手かざしで腫瘍に対する放射線治療を行い、病気を治療する人として活躍したであろう。

いずれにしろ念写の発見は写真によるものである。本能力は感光物質が生産されなければ発見されなかった。そして写真が生まれた直後は写真への珍しさから話題になったが、カメラが広く社会に浸透するに従って忘れられたのである。

今や誰もが携帯を持ち、何百万画素の写真を撮る時代である。そのような時代に念写にどれだけの価値があるだろうか。それは単なる薄ぼんやりとしたピンボケ写真である。念写という事実以外に注目すべき理由はないのである。

本能力を有する者は診療放射線技師資格を取得することを強く推奨する。


透視

透視には目が必要と思われる。多くの記録にも目を瞑って透視したという記述はない。黙想で見えるのならそれは未来であって、光景ではない。仮に透視を予知の一種、時制をごく短い未来(1ms)の予知とすればその能力は目を瞑っても発揮できるであろう。

ここでは目の視覚能力としての透視に限定する。本能力は可視光以外の何らかの粒子を見る能力である。それは赤外線、放射線、音波などであろう。

透過する範囲を指定して透視できるのであれば、それは体から何らかの量子を放出し、その跳ね返りを目で認識している可能性が高い。蝙蝠の超音波やレーダーなどと同等の能力である。

透視の方法
  • 粒子を対象に向かって照射する
  • 跳ね返ってきたものを視覚で認識する

この能力は太古の戦争では極めて有益であったろう。隠れた人間を探したり、手紙を盗み見るなど、スパイとして必要な能力である。しかしこの能力への対策は簡単である。ただ相手の目を潰せば良いのであり、敵としてはこの能力を有するものを探し出し、近づき、目を潰す、または殺せばよいのである。

この能力は死亡するリスクを高める。味方は彼を守るために敵から隔離せねばならず、隔離すればその能力は発揮できないのである。こうして透視能力は意味を失うのである。

現代では透視は服を透過するしか能力がない。しかも人体は複雑な曲線で構成されており、服と皮膚の間だけをトレースするのは至難の業であろう。例えば 10cm の平面を透視できるとしても、それは MRI の画像である。女性の乳房を見ようとしても胃の中が見えたりパンツの中を覗こうとして足の切断図を見るようなものである。本能力を有する者は医者の道へ進むべきである。


テレパシー

黙っていても他人と会話できる。これはコミュニケーションの改革である。グラハム・ベルが電話を発明する前から遠距離の相手と会話できた能力は太古においても重宝されるであろう。

この能力者はどうやって会話する相手を特定したのであろうか。伝達手段が音であれば誰にでも聞こえてしまう。しかも相手の返事を受けることができず、テレパシーを発信した当人でさえ相手に届いたかどうかさえ分からない。

よってテレパシーは相手の脳波を自由自在に操るものと想定できる。相手の脳波を自由自在にして音を聞かせたり、相手が言語化した内容を読み取ることが出来るのである。

ただし、なぜ操作できる脳波が聴力野と言語野だけに限定されるかは不明である。限定される理由が脳の構造に起因するとは推測できるのだが詳細は不明である。

テレパシーの方法
  • 会話したい相手の脳波を探し出す
  • 相手の聴覚野の脳波を操作し、声を聴かせる(擬似幻聴)
  • 相手の言語野の脳波を読み取り、言葉を理解する

コミュニケーションの円滑は携帯電話があれば十分である。しかし音声よりも圧倒的にメールでのやり取りの方が便利である。テレパシーを電話に例えるならば、メールは文字の発明である。テレパシーを使って情報をやり取りをするよりも、文字を読み書きできる方が圧倒的に便利だったのである。

相手の考えが読める能力は便利に見えるが、他人の妄想は決して綺麗事ばかりではない。それを読み続ければ心を病むことは必死である。

稀に人の考えを読む事に興奮を覚える奇特な性格の人も居るだろう。しかし考えを読むという事実が王に知られてしまえば猜疑心を呼び込むのは明白である。

乃ち、この能力者は最後は王に殺されざる得ないのである。それを知っている者はひとり気を狂わすか、死ぬまでこっそりと楽しむしかないのである。


瞬間移動

他の場所に移動できるテレポーテーションはしかし、地球の自転、公転、太陽の銀河の周りの公転、更には銀河の移動、宇宙の膨張を考慮した座標をどのように指定しているのだろうか。

相対性理論を待つまでもなく、我々が地球の自転を意識せずに移動できるのは重力によって地球と一緒に移動しているからである。

よってテレポーテーションは地球の重力から逃れることは出来ないと思われる。これによって能力者は 100m 先だけを意識して移動できるのである。

重力から逃れられないという事は例えば月への移動は困難であろう。地球の裏側に移動することも困難ではないか。重力場に束縛されているため、重力が空間をひずませる。場所が変われば空間のゆがみも異なる。そのため単純な空間の写像では正しく像を結ばないようにと思われる。空間の異なる場所へのテレポーテーションはこのような危険性をはらむものである。

量子のもつれを利用した量子テレポーテーションは時間と空間を超えて起きる(情報が伝わるには光の速度を超えられない)が、瞬間移動は量子テレポーテーションを利用したものであろう。

テレポーテーションとは、移動する前に、ある空間にある全ての量子の量子もつれを作成し、任意の場所にそれを配置、それから情報を移動する方法と言えるだろう。量子テレポーテーションで空間の全ての量子の状態を他の空間にコピーし、その情報を元に原子構成を再構成するのであろう。

移動できるのは量子もつれを作成した時点での状態であって、もつれを作った以降の記憶は失われる。それでも、欠落する記憶は僅かで済むし、テレポーテーションをするという記憶さえ残っていれば記憶の欠落を補うことは可能である。それは眠って記憶がなかったと思えばいいのである。また A,B の順と B,A の順で異なる情報を送信できるのである。

テレポーテーションは、どこに量子もつれを配置するかであって、その配置は光速を超えることはないし、距離にも限界があるだろう。だいたい数百kmの範囲で使用できるであろう。

テレポーテーションの方法
  • 移動元となる原子の量子もつれを作成する
  • 作成したい量子もつれを移動先に配置する
  • 移動先で観測状態を作り量子テレポーテーションを起こす
  • 量子の状態に応じて移動元と同じ原子構成を再現する

テレポーテーションには幾つかの課題がある。まず量子もつれをどの範囲で作成するかである。生命活動をしている範囲は良いとして、胃の中や腸にある排泄物まで量子もつれを作って送るのだろうか、寄生虫や病原菌も転送するのだろうか。

もし生命活動している細胞だけが対象ならば、血液を流れず水はテレポーテーションの対象外であり、元に戻した瞬間に人間の干物が出来上がる。

それはナンセンスであるから、テレポーテーションでは自分の身の周りの空間を丸ごと移動させていると考えるべきであろう。そう考えれば、服、物品ごと瞬間移動している理由も妥当である。逆に言えば、移動する空間に腕だけを突っ込んでおけば、腕が瞬時に消えてしまうだろう。注意が必要である。

移動先は再現するのはいいが、元の空間にある原子はどうするのであろうか。これは「どこでもドア - 哲学的な何か、あと科学とか」問題と同じ課題であって、消滅させねばならない。そのメカニズムは量子もつれによって元の空間を消し去ると思われる。

テレポーテーションは伝達役として重宝されそうだが、史実によれば使用された記録は僅かである。なぜならテレポーテーションには高さの問題があった。移動先の高さが数m 違えば、地中に埋もれるか、空から落ちてケガをする。結局、サイコキネシスを持たぬ能力者はこの能力を使えず、馬を使って伝書する方がよほど便利だったのである。


予知

予知とは未来に起きる出来事を読み取る能力である。今の我々はそれが量子力学を基本とするエヴェレットの多世界解釈と関係する能力だという事が分かっている。

予知能力は、多世界におけるどれか一つを決定する能力と定義できる。幾つもの多世界に分裂してゆく世界に対して、自分が読み取った世界と現在をシンクロさせる能力である。

我々はこの能力に関する如何なるメカニズムも思い付かない。しかし、この能力が失われてゆく過程は説明できるのである。

予知能力が起きうるあらゆる多世界のどれかは選べても、未来を自由自在に出来る能力ではない。幾つかの選択のうち、望ましい未来を選ぶだけである。また全ての多世界を見る事は不可能なのだから、自分が限られた時間の中で探し出したものから、一番望ましい未来を選ぶことになる。

無限の多世界を全て見ることは不可能である。多世界の未来は脳の全ての細胞の数よりも多い。仮に細胞ひとつにひとつの未来を割り当てたとしても、それより多い情報は保持できない。限られた時間ですべての情報に触れるのは不可能だ。

予知とは畢竟すればあらゆる量子の組み合わせが時間経過においてどう変化するかである。その取り得る運動量の全て記録することは不可能である。だから未来を見ると言っても幾つかの大まかな違いからどれかを選ぶしかないのである。

多世界を重ね合わせたら、少しづつ違う所のある絵に見えるだろう。同じ所は濃い色となって見えるし、異なっている部分はぼやけて見える一枚の絵画である。それが時間の流れで動画として見えるはずである。予知とは、その動画の中から、どれかを選択することである。

予知の方法
  • 現在から起きうる多世界を出来る限り読み取る
  • そのうちの特定のものを選びだす
  • 選択した未来と現在とを結びつける

もちろん、見える部分は限定的である。限られたエリアであって、見えていない部分で何が起きているかは分からない。そのため見えていない部分で不都合を選ぶ可能性がある。

これが自分の身に起きることを完全には予知できない理由である。王の未来を予知した時に、自分に何が起きるかは見えていないかも知れない。これが予知の限定性である。

また未来を回避したくても、見えている範囲の中から回避できる未来が見つからなければどうしようもない。既に選ばれた未来からどうしても回避できる未来が見つけ出せない、回避する未来を多世界の中から限られた時間では探し出せない、状況は起きえるのである。

賢明な王は予知というものが限られた未来からどれかひとつを確定させることであり、それは人々が日々決意し未来を生きる姿そのものであり、その中にあって未来を知る予知者が自分にとって都合の良い未来ばかりを選ぶであろうことを見抜き、必ず予知能力者を殺してしまうのである。


サイコキネシス

戦争に最も有益な能力は念力であろう。人を殺すのに槍も矢も必要ない。動脈に小さな穴を開けるだけで十分なのである。

  1. 空を飛ぶ
  2. 石や水などを飛ばす
  3. 崖崩れを起こす
  4. 川を氾濫させる
  5. 相手の動きを封じる
  6. 他人の内臓を潰す、脳幹を切る

巨大なサイコキネシスがあれば、一国の大軍と渡り合うことも不可能ではない。ハンニバルにように像に頼ることもなくローマを蹂躙することが可能なのである。

だが、人は食べてゆかなければならない、排泄をしなければならない、寝ずにすむわけにはいかない。

いかに強力なサイコキネシスがあろうとも、奴隷を1000人殺す気になって連日連夜やすむことなく攻撃を続けてゆけばいつか疲弊し倒れるだろう。

サイコキネシスが強力である程、王はその存在を無視できない。常に反乱に備えなければならぬ。暗殺の恐れもある。王からすればサイコキネシスを持つ者は自由気ままな軍隊を国内に持っているようなものである。だから見つけ次第に抹殺すべきである。

コントロールできない軍隊を使おうと考える王はいない。強力なら強力である程、ただちに殺すに如くはない。もし彼が仲間を作れば更に排除は困難になる。

こうして念力を有するものは直ちに社会から排除されるのである。それが嫌なら社会を捨てひっそりと生きるしかない。

最初は彼らも能力者同志で纏まって生きるのであるが、次第に王の苦悩を彼ら自身も味わうことになる。隣にいる彼が突如襲ってきたらとどうしようかと。疑心暗鬼は結局、離れ離れになって生活する道を選ばすのである。

こうして孤独に耐えきれず自殺するものや、寂しさから近くの村から人をさらってひっそりと生きるしかないのである。念力は自然の中で狩りをして生きてゆくのには都合の良い能力である。

天狗であれ、仙人であれ、そういう訳である。神隠しはこうした訳である。温泉の底が繋がっているのではないのである。

2015年7月23日木曜日

他星系破壊活動者に対する申請書

事件番号272272

本事件は、銀河辺境第32管区で起きた恒星系文化に対する宇宙連邦非加盟星系からの侵略は、紛争を未然に防げず、その被害が拡大した事例である。本事件の結末は悲劇というしかなく、ひとつの恒星系文明が滅亡した。

以下にその事件の概略を記載する。なお、本事件の当時の責任者は不作為による業務上過失惑星崩壊罪により懲役12年の実刑を受けている(控訴中)。

彼はこの方面での事件を担当していたにも係らず、学術興味を優先し、必要な措置も取らず、犯罪の成り行きをただ観察するに留めていた。裁判でも「事件の推移があまりに面白く私にはどうしても介入することが出来なかった」と発言している(裁判記録32)。彼の個人的な興味のために滅びた星系の生物に対してはどのような謝罪も無意味である。

さて、事の起こりは、宇宙連邦非加盟星系のひとつがその母星の命数を使いきろうとしている所から始まる。この星系文明をAと呼ぶ。Aは数年のうちにも自星が崩壊することを知り新しい移住先を探し始めた。Aは(C+2ランク)の文明であり、銀河間航法も可能であった。

我々はAの動きを遠くから監視し、また彼らの移住先にふさわしい星系も幾つか見つけ、メッセージも発信した(非加盟星系接触法第12条487項)のだが、コンタクトには失敗した。それは多分にAの政治体制が原因であったと思われる。

Aは移住計画を成功させるために強力な指導者を仰ぐ独裁型中央集権の統治機構を採用した。その体制は彼らの好戦的でかつ英雄的行動を好む性質ともよく合っていたようである。しかし我々からの接触はこの指導者によって一蹴されたのである。

Aはこの指導者のもと幾つもの星系を侵略した。宇宙連邦はAとの軍事接触は避けていた。彼らの宙域には、宇宙連邦加盟星は皆無であったし非加盟星系も強く保護を必要とする星系はなかったからである(警察行動法第32条12項による)。Aの活動が辺境宇宙に限られていたことから強い対応は認められなかった。

Aが銀河辺境の惑星系文明に侵略の触手を伸ばした時のことである。この星系文明をBと呼ぶ。Bは百年前までは惑星内文明に留まり、惑星間でさえ無人機探査のみを飛ばし有人飛行もできないレベルであった(F+2ランク)。彼らはそこから百年で惑星内文明から恒星内文明へと発展した。(E-3ランク)。

その頃にBは不幸なファーストコンタクトをAと経験する。Aはこの星系を移住先に相応しいと考えたようである。Aは侵略を開始した。ここで我々も驚くべき事態が発生したのである。

最初に起きた惑星間海戦においてEランクに過ぎない恒星系文明(B)が銀河間航海も可能であるCランクの文明(A)を撃破したのである。これは我々の常識でも考えられない事例であった。この海戦の詳細は添付したレポートに詳しい(レポート9-1)。

この最初の海戦に勝利したBはその後にも数年の間は十分にAを迎撃し続けていたが、それでも技術の圧倒的な差は何時までも通用するものではなかった。

いかなる作戦上の工夫も圧倒的な技術力の前では抗えるものではない。技術の差は結局は総合的な物量の差となってはっきりとするものである。

Aは惑星内海戦による直接的侵略から遠距離攻撃を主体とした環境破壊に切り替えて攻撃を続けた。これに対抗できるBの技術はなく、それは高高度から爆撃を受けるのに唾を吐いて対向するようなものであった。

Bの敗北はあと数年と思われた。ここで次の事件が起きる。Aは二重惑星であり、姉妹星にIがあった。AとIは異なる文明であり、IはAに対してではなくBに対して援助を申し入れたのである。

IはBに対して銀河間航法に必要な技術を教え海図も渡した。Bは惑星系航法から恒星間航法を飛び越え、一気に銀河間航法を手に入れたのである。Eランクの文明が数年でCランクの文明になった事例は極めて珍しい。

Bは航法を手にいれただけでなくそのエネルギーを武装に応用した。そして一隻の強力な宇宙船を建造しAの星系へと発進したのである。Bが建造した宇宙船は宇宙連邦で言えば軽巡洋艦サラミスと同等の戦力である。

Bには戦闘の天性の才があるようだった。数に劣る戦力だが圧倒的なロバストネスと作戦の妙により勝利を重ねていった。

侵略したAには戦力の著しい片寄りが見られた。彼らの装甲や武装は同程度の文明の中では非力な部類である。特に防御が弱く、その作戦は人命軽視、勇敢さを頼りに相手の意表を突く突撃を繰り返すものであった。

Bは作戦の単調さに気付き何度も相手の意図を挫き勝利を収めた。遂にBはAの母星に到着した。侵略されていたBと侵略していたAの立場は逆転したのである。話し合いが持たれることはなく、Bはあっという間にAの星に襲い掛かった。

Bは今や侵略者となった。Bは巧みな方法でAの母星に地殻変動を起こしその星の生命99%を死に至らしめた。Bが救出活動をした記録はない。ひとつの文明を滅亡させた後、BはAの姉妹星であるIにまで侵入を開始した。

後日、我々が行った被害調査によれば、Aの母星は壊滅しわずかな生命のみが生き残っていた。Iにはまだ多くの自然が残っていたが、知的生命体は居らず多数の墓と思えるものが残っていた。Eランクの星が僅か数年でCランクのふたつの文明を滅亡させたのである。

我々はこのような悲しい事件を防止できなかった事を深く悔いるものである。

Bはその後も異星人とコンタクトするが常に相手を滅亡させている。どうもBは異星人との争いを好むらしく、常に相手を侵略者と認定し自ら進んで相手を滅亡させることを繰り返す。それをBはAIと呼んでいた。AIがどういう意味かはまだ不明だ。

銀河辺境第32管区地方検察庁はBを武装依存症と見ている。このまま放置すれば被害者が増えるのは明白である。彼らをシリアルキラーとさせないためにも今こそ強引な捜査介入が必要である。それには盗聴、おとり捜査、惑星内捜査が必要である。裁判長殿にはこれらの令状をお願いするものである。

2015年7月4日土曜日

衆生仏を礼すれば、仏これを見たまふ - 法然上人

衆生仏を礼すれば、仏これを見給たまふ。
衆生仏を唱ふれば、仏これを聞き給ふ。
衆生仏を念ずれば、仏も衆生を念じ給ふ。

かかるが故に阿弥陀仏の三業と、
行者の三業と、かれこれひとつになりて、
仏も衆生も親子の如くなる故に、
親縁と名づく。
『往生浄土用心』(『拾遺和語燈録』巻下)

私たちが頭を下げたのを、見ています。私たちが唱えたのを、聞かれています。私たちが願えば、それは届いています。そして仏もまた私たちを願われます。

では何故どれほど願おうと私たちの目の前に姿を現さないのですか、なぜその声を聞く事はできないのですか。本当に存在していると言えるのでしょうか。

見てくださろうと、聞いてくださろうと、念じられようと、それは無力です。見るだけなら地面を這う虫でもできます、聞くだけなら鳥でも森の中でしています、念ずるだけなら子供でもできます。なぜ仏だけが尊いと言えるのですか。

見ることは聴くことよりも匂うことよりも味じわうことよりも強烈な体験です。ですから犯罪捜査は目撃証言を重視します。しかし近年の研究から、犯罪現場や事故現場の目撃証言の多くは正確性に欠けるものでした。印象が強いことは正確性の保証にはなりません。人間の記憶は全体像を捉えようとする時、細部を曖昧にします。記憶は写真ではありません。強い印象は映画とは違います。

思い込みや記憶の置き換えが簡単に起きます。そうなるのは人が世界を自分なりに切り取り再構築するからでしょう。それが脳の働きだからでしょう。全てが正確性である必要はなく、大切なのはその強烈な体験が自分に何を強いるかでしょう。ライオンと対面した時にライオンの姿形、毛の色などあまり重要とはなりません。どう生き延びるかは、どう行動するかに掛かっています。

見る、聞く、匂う、触れる、味わう、いずれも生きるために必要です。ですがそれは正確さのために進化した器官ではありません。仏を見たと言う者の体験はその通りなのです。ですが仏を見たことが仏の存在証明にはならない。その体験だけでは存在証明となりません。

私たちは物理法則さえまだ理解していません。神は全知全能です。我々の如何なる試みも否定できますし、如何なる試みも肯定できます。あらゆる私たちの試みも神が自由にできます。その結果に神の作為が入るならば、その結論は信用に値しないはずです。

ところが神にさえ自由にならぬものがあります。それはルールです。例えば囲碁の勝負、例えば数学の証明、科学の知見。ルールに基づくものは神と雖もルールに従う限り自由自在ではありません。神と雖も無理がある。神と雖も勝てぬ囲碁がある。神にさえ不可能がある。ルールに従う限り。ルールの範囲内であれば神と雖もルールに縛ることが可能なのです。

私たちは未来どころか過去さえも知りえません。歴史書はどれひとつとして同じ内容でなく、人の数だけ歴史があります。視点の数だけ物語があります。視点が変われば風景が違う。絶対の正しさも視点の数だけあります。

私たちには途切れることなく問い掛けてくる存在がある。だれであろうと関係なく、私たちの心に問いかけるものがあります。それが外の世界の存在なのか、それとも私たちの心の働きなのか。なぜ私たちの心の問題であれば、神が存在しないと言えるのでしょう。

ジョルダーノ・ブルーノ(1548 - 1600)
神が無限の存在である以上、無限の宇宙を創造することはなんらおかしなことではない。神はどこにでも存在するのであるから地球だけを特別な星とする理由もない。神が宇宙の一部だけに特別に心を配る必要もない。ならば宇宙は地球と同じ物質から出来ていて、地球上でみられる運動法則は宇宙のどこにでも適用されるはずだ。さらに宇宙と時間は無限であるならば、宇宙の中で地球だけが生命の存在できる空間とする必要性はない。太陽も決して特別な存在である必要はなく、他の星々と同じひとつに過ぎない。ブルーノは地球のような太陽系が宇宙の基本的な構成であると考えた。

ブルーノは彼の合理的な思索を進めました。そこで誰とも異なる結論に達した時、彼は異端者として火あぶりにされます。彼はただ神という前提を置いたに過ぎない。それは当時の人々にとっても常識な所でしょう。

同じ場所に立っていたはずなのに彼は他の人たちと違う風景を見ました。彼が仮定した神は今の私たちの科学的知見ともよく合います。神を仮定しても間違うとは限らない。今の時代に彼が生まれていたら?どこかで普通の人生を歩んでいることでしょう。

私たちはこの世界に境界を置きます。それは様々な問題を引き起こします。しかし境界がなければ問題が解決されるわけではなく、境界は問題を顕著にしているだけです。

この世界には明確な境界があるのでしょうか。腕と肩の境界を細胞単位では決められないし、細胞壁には外部と物質をやり取りをするための穴が開いています。穴のどこが境界か分かりますか。あなたはドーナツの穴だけ残して食べられますか。免疫は外と内を区別していますがそれは境界ではなく、お互いで決めたサインに従うものです。

閉じていない系に境界はあるのでしょうか。しかし量子の世界まで小さくなれば原子のほとんどは真空であり、小さな原子核と遠く離れた場所にある電子のどこが原子の境界になるのでしょう。ゲージ粒子が飛び出る時、どこからが境界になるのでしょう。プランクセルより小さい世界のどこに境界があるのでしょう。

境界を作り出すものは言語です。言葉は物の名前だけではなく、機能や形態、概念さえ表現できます。人間のサイズに合うように生まれてきた言葉が、大きさや長さが変わっても同じように通用するとは限りません。場所が変わっても同じように通用するとは限りません。

私たちは心を自分のものだと感じます。その奥底にユングの言う集合的無意識があります。その表層だけを私たちは自分と見做しているのです。私たちが浮かんでいるこの海はどれほど深いのか。

心で起きていることを空想と呼べば何か分かった気がする。私の個人的な経験にこの社会は価値を置きません。世界を探求し社会に還元するものは大切にしますが、個人の体験には関与しません。それが心の自由というものです。仏はどこに居ても、誰の心にあると言っても、それが個人的経験である限り価値を持たなくなりました。

一切衆生悉有仏性いっさいしゅじょうしつうぶっしょうと言った所で、空に感謝する人など居ないでしょう。空気に感謝するものは居ないのです。それは溺れるまで分かりません。

誰かを論説で打ち負かすために相手を偽物にします。一部に誤りを見つければ勝てるのです。相手を打ち負かすために弁論術を学びます。それは誰かを説得する技術です。それは正しさを追究したり真偽を証明する方法ではありません。なぜ人は相手を打ち負かしたいのか。相手を打ち負かすことで安心できる。なぜ安心したいのか。

菩薩は誰をも救うと誓いました。それは私たちが望もうが、望むまいがです。もし悟りというものに誰かを救う力があるのなら、釈迦が悟りを開き、釈迦に涅槃が訪れた時に、この世界の、全ての生命、時間、場所、他の星に住む生命も含め、全てが救われたに違いありません。

ならばこの世界は既に救われた世界でしょうか。それとも釈迦は悟ってなかったのでしょうか。それとも釈迦の悟りも解脱も救いとは関係なかったでしょうか。もし解脱したのなら既にこの世界から去り、もしこの世界に住むなら仏ではない。とすればこの世界に仏が居るはずがない。

私たちが仏に求めなくとも救おうとする存在がいます。私たちは仏に現世の利益を求めます。それでも救おうとする存在がいます。仏は私たちの奴隷でもなく召使でもありません。それでも私たちを救おうとする存在がいます。

何から救おうとするのか。何から救って欲しいのか。この世界のほとんどの不安はお金で解決できます。飢えた子どもには先ず一切れのパンが有用です。

望まない。欲しない。救ってもらおうとさえしない。礼しても、唱えても、念じても、答えなど返ってきません。もしどこにでも仏が居るのなら、なぜ礼し唱え念ずる必要がありますか。目を開けても瞑っても仏の姿が変わるはずがありません。願おうが願うまいが救って下さるのが仏です。

空は大地の全てと繋がっています。この空ではない空がどこにあるでしょう。ここではない別の空があると信じるのなら、本当は何を探す旅ですか。なぜ解脱を望み、なぜ悟りを得ようとするのですか。

2015年6月27日土曜日

二桁の掛け算のやり方

米メディアで紹介され話題になっているかけ算の方法 インド式かけ算法など - ライブドアニュース

二桁の掛け算

92×96

筆算では 92*96 は次の足し算で解きます。
(90*90) + (90*2) + (90*6) + (6*2)
= 8100 + 180 + 540 + 12
= 8100 + 720 + 12
= 8100 + 732
= 8832

次の方法でも解く事ができます。
Step1: 左側の数字を 100 から引きます。100-92=8
Step2: 右側の数字を 100 から引きます。100-96=4
Step3: Step1 と 2 を足します。8+4=12
Step4: Step3 を 100 から引きます。100-12=88 この数字が答えの左側になります。
Step5: Step1 と 2 を掛けます。8×4 =32 この数字が答えの右側になります。
Step6: Step4 と Step5 を左右に置くと、答えである 8832 が完成します。

どうして?

100 から引き算にした形を展開したものだから。
92*96
= (100-8) * (100-4)
= (100*100) + (100*-8) + (100*-4) + (-8*-4)
= (100*100) - (100*8) - (100*4) + (8*4)
= (100*100) - 100*(100-92) - 100*(100-96) + (8*4)
= (100 - (100-92) - (100-96)) * 100 + (8*4)
= 10000 - 800 - 400 + 32
= (100 - 8 - 4) * 100 + 32
= 88 * 100 + 32
= 8832

引き算による表現

それぞれを 100 からの引き算に変形してやってみます。
(90*90)(100-10)*(100-10)(10000)-2(1000)+(100)10000-1900
(90*2)(100-10)*(100-98)(10000)-(9800)-(1000)+(980)-800+980
(90*6)(100-10)*(100-94)(10000)-(9400)-(1000)+(940)-400+940
(6*2)121212
10000 - 800 - 400 - 1900 + 980 + 940 + 12
= (10000 - 800 - 400) + (-1900 + 980 + 940 + 12)
= (8800) + (-1900 + 1800 + 120 + 12)
= (8800) + (-100 + 120 + 12)
= (8800) + (20 + 12)
= (8800) + (32)
= 8832

幾何による表現

幾何で表現してみます。(8*4) の部分を二重に引いている事が分かります。
(100*100)
-
(100-92)*100
-
(100-96)*100
+
(8*4)

=
(100*100)
-
((8*100)-(8*4))
-
((4*100)-(4*8))
-
(8*4)

=
(100*100)
-
(8*100)+(8*4)
-
(4*100)+(4*8)
-
(8*4)



2015年6月25日木曜日

論説の技法

人が同意するためにはいろいろな方法がある。これは人間の理解する能力と人間の決断する能力のハイブリッドともいえる。

論理の流れ


恐怖にある人を憎しみの対象や敵である場合、同じ判断をすることができない。

論理の構成には立場が含まれる。つまり論理とはあくまでも前提と帰結の関係性に過ぎない。前提を増やしたり、考慮すべき前提が増えるとは、判断をするアルゴリズムの増大と言える。

つまり前提という入力から帰結という出力を得る間にあるものが人間である場合、

よって数学であったり科学であるものは、前提を限定する方向に動いたと言える。そこに含めてはならぬものを規定した。その幾つかは人間性であったり、国家であったり、政治や、神である。





安倍晋三という人は懐古趣味の全体主義者であるから、僕の趣味ではない。基本的に全体主義を信奉する人には頭の悪い人が多い。それはたぶん論理的にそうならざる得ないのであって、つまりひとつの価値観を信じられるという事は疑う能力が乏しい証拠であり、ハリウッド映画が何といおうと信じることが素晴らしいのではない、人間の知性の結実はすべて疑う所に凝縮する。

全体主義が生まれるためには中心が必要であり、その中心の価値観を他よりも高いと見做すものである。そういう点では全員がひとつの目標に向かおうという時には、強固された中央集権と、四の五の言わせぬ強権発動が必要な場合もある。

例えば戦争、これはどうしても全体主義的に動かざる得ないもので、敵を目の前にすれば、昨日まで争っていた派閥も一致協力する道理である。大政翼賛会も同様である。

日本における脅威としては中国の勃興が一番大きい。韓国のように軍事的には同盟であり、また戦争状態になってもまず負けない国を敵対する勢力も盛んである。

このような脅威に対するリアクションとしては、明治、大正期の人々はロシアであった。日露戦争で退けたが賠償問題では、状況を理解しない市民によって政府は瓦解したし、軍部は依然とソビエトの恐怖に対抗しようとした。

何等かの恐怖に陥っている国家というものは全体主義になりやすいだろう。また国外の恐怖でなくとも経済不況や格差拡大もその要因になる。

恐怖の心理とは解決策を見出していない場合に起きるもので、これは一種のヒステリーであろう。排外主義者がたいていヒステリーにしか見えないのも同様であると思われる。

本気で侵略をしたいならば、地道に計画を練るのみである。計画とは予算と人材である。大衆に訴えかけるなど馬鹿らしいほどに必要ない。なぜなら大衆に訴えかけて指示を得るためには、大衆はバカだから論理や計画など理解できないのである。そのため、どうしても個人のカリスマに頼るしかない。

所が個人というものは長くて30年程度でお陀仏様になってしまう。この後の権力の禅譲が偉く難しい。しかも個人に依存すると、そいつの間違いを全体でかぶってしまう。つまり中心こけたら全員コケるという集中型の利点がそのまま欠点になる。

インターネットの堅牢さというものを、全体主義的、集中管理式、中央集権的にせず、分散型、多重型、地方分権型にしたのはそういう欠点を重視したからである。つまり継続性を重視したわけだ。

集中と継続性はトレードオフの関係にあるのかも知れない。そうだとすると、とうぜん、全体主義はどうしても短期決戦型の方式である。だが、恐怖であるとか、出口のない状態で短期決戦など選ぶべきではない。短期決戦とはあくまで明確な敵が定義できる場合のみである。

すると当然、敵を作り出す必要がある。それが中国、韓国という事になるだろう。この二国を相手にする以上、明治以降の輝かしい歴史をお手本にするしかないため、復古主義に戻るしかない。

所で安倍晋三が目指す明治という治世は同然ではあるが、最後はアメリカ相手の大戦(おおいくさ)で大敗したのであるから、どうしても復古主義でいくなら、あれは勝てた戦争であるとか、あれは負けたが精神性は正しかったとか、大義名分を求めなければならない。

大義名分があれば良い、正義があるなら負けるはずがない、というのは、子供の御託である。相手に勝つのに必要なのは、集中と破壊あるのみ。そのもっとも確実で安全な方法が物量で押し切るという方法である。

正義で勝てれば苦労はしないというのは現場の声であろうが、これを信じているとしたら、これはバカの証拠として列挙していいだろう。

当然、勝ちたければ研究を怠らない事である。勝利とは準備した側にのみ授かる。くじ引きではないのである。

2015年6月20日土曜日

これもかっこいい未来だ - Vortex Bladeless

これはかっこいい未来だ - 株式会社グローバルエナジー

振動で発電すると聞けば人は好からぬ想像をするものである。歩道を歩く振動で発電する素子があると聞けば、発電する場所は遊歩道だけではあるまい、高速道路やホテルなど人が生活し機械が動く場所ならどこでも使えそうだと考える。

それでも振動と風力の組み合わせを思いついたのはそう多くない人々であったようだ。そのひとつの形がようやく広く知られることになった。開発を初めてからの時間の進み方の遅さは少し悲しいかも知れない。それでもこれは未来を切り開く新しい技術のひとつだ。



自然エネルギーの特徴はクリーンさにある。もちろん太陽は決してクリーンではない。生命が陸上に進出するのに莫大な年数を必要とした。その太陽と比べれば我々が使用する太陽光、地熱、風力などはクリーンなエネルギーである。

地球の外に放出すべきエネルギーを大気中に熱として放出するのが本当に問題にならないのかと問う必要はある。それでも化石エネルギーへの依存を下げる事は資源の枯渇に起因する問題を軽減する。それは未来への希望に繋がる。

自然エネルギーは気まぐれだ。必要な時に必要な発電が得られるかは神に任せるしかない。クリーンエネルギーは女神の如く気まぐれである。そんな彼女と付き合うのにはそれなりの覚悟も知恵もいる。

必要な時に雨が降ったり風が凪いたせいで電気が得られない。これはとても許容できない。そんな不安定さに立脚してどう計画が立てられようか、インフラに責任を持つ企業ならばこの欠点は致命的であろう。

当然の帰結として人間が自由に制御でき必要な時に必要な電力を安定し得られる火力、水力、原子力という大型発電所が重視されたのに不思議はない。

この世界のあらゆるものをコンピュータが結びつけるまでは。

狭いひとつのエリアに制限するから風は止む。しかしそのエリアを拡大させればさせるほど風力の平均値は安定してくるはずである。太陽光で得られるエネルギーは安定するはずである。ここの風が凪いでいても他のどこかでは風が吹いている。あらゆる場所の風が凪ぐとは考えにくい。

コンピュータが人類に与えた(または人類がコンピュータで獲得した)能力とはエリアの拡大、距離の収縮だ。地球程度の大きさ(1秒以内に光が届く範囲)であれば、遠く離れた機器の情報を収集し、電気の送受信を制御することも可能である。

コンピュータが発明されインターネットがインフラとして拡がることで世界中を変革している。もちろんコンピュータプログラムは完全なはずもなく不具合はある。ハードウェアもいつ故障するか分からない。だから不測の事態が起きてもインフラが安定するためのロバストネスの研究は重要である。

広域インテリジェンス伝送網。
  1. クリーンエネルギー
  2. 蓄電システム
  3. 電力不足を補うための大型発電所
  4. 広域伝送網を制御するコンピュータシステム

各家庭、ビル、公園などで発電を行うクリーンエネルギーとその不足分を補うための大型発電所、電力不足や停電時に対応するための蓄電システム、そして地域間で電力を分配し融通しあうコンピュータシステム。

自然エネルギーではどうしても生じてしまう不足分を水力、火力、原子力などの大型発電所に依存して補う。これらの発電所は安定した大規模発電には適しているが稼働と停止を繰り返すと非効率である。だからこれらの発電所は継続して運転させる。問題は、これらの発電所でどれほどの電力を依存すべきか。

もし全てのクリーンエネルギーが停止した時も電力供給を完全に満たすことを要求するならば、これらの発電所に全ての電力を供給するだけの能力を要求しなければならない。そうであれば、これらの発電所だけで電力を賄う方が効率的である。これは現在の発電所モデルになる。

全ての発電をこれらの発電所で行うならそれ以外の不安定な電力(クリーンエネルギー)は無駄であるし無用となる。それらを導入することは管理コストを上昇させるだけである。もしクリーンエネルギーを使いたければ大型発電所への依存度を下げるしかない。

それは能力的にこれらの発電所だけでは100%の電力を賄えないようにするしかない。これらの発電所をフル稼働させても全体で必要となる電力を賄えなければクリーンエネルギーに依存するしかなくなる。

大型発電所への依存度を例えば60%と設定する。これを超えた必要量はクリーンエネルギーで発電する。その時、自然エネルギーの不安定さが問題となる。もし電力が供給できなければブラックアウトが発生する。

とすればクリーンエネルギーに依存する仕組みは停電を前提とした仕組みになる。クリーンエネルギーとは停電をどのようにやり過ごすかという問題にフォーカスされる。

現代社会は停電を許容しない。予期せぬ停電は最悪である。電力会社のノウハウとは停電を回避する能力に究極させて良い。従来は予備の発電所を準備することで対応していた。クリーンエネルギーではそれが蓄電である。クリーンエネルギーの発電施設は電力の供給と同時に蓄電を行う。電力不足の時にはその蓄電した電力を供給する。

これで停電を前提としたシステムが構築できる。更には予期せぬ停電への対応だけでなく、計画された停電を行う。蓄電された電力を積極的に活用するために停電のローテーションを地域毎に行う。停電する地域が常にどこかにあるが、蓄電によって誰もどこが停電状態であるかに気付く事はない。

各地域はクリーンエネルギー(風力、太陽光など)をベースとした発電を行う。発電した電力はその地域の蓄電システムに貯める。夜間など発電能力が下がる時間帯は蓄電した電気を使う。天候不順や自然災害などで電力不足が発生した場合も、同様である。それでも不足する部分は、基盤発電からの送電を活用する。

電力の不足した地域には、電力が余っている地域の電力を供給する。こうしてクリーンエネルギーと基盤発電で電気を供給しながら、地域毎の電力を融通しあう。発電過剰になれば停電状態を作ったり他へ電力を送電したり蓄電することで全体の電力を賄う。

大規模な発電所の建設と運用は、例えばアフリカでは既に現実的で手法はなく、各村に太陽光発電を置き、村単位で電力の自給自足するのが普通になっている。そういうやり方が今後の発展途上国の電力の主流となるらしい。これだけでは大都市向けのシナリオとしては不十分であるが、逆に言えば大都市向けシステムを国中の全ての場所に張り巡らす必要もないはずである。

広域電力分配システムの構築にはインターネットの考え方が参考とする。中央で一括して管理する方法は、管理しやすく計画的な運用に適しているが、外乱に弱く中央がダウンした時に全体が停止してしまう。

地域毎に独立した分散システムを配置し、各システムで電力の入出量を計算し電気を融通しあう仕組みを構築する。こういうシステムは何か未来に繋がりそうな感じがする。

どのようなアルゴリズムで電気を融通しあうか(電力の割振りの調整機能)。それを設計し開発するのは面白い仕事になるだろう。コンピュータウィルスへの対策、異常なシステムを起因するダウンの防止、悪意のある外部からの攻撃への耐性も重要な課題となるだろう。

これらのシステムは次のような機能から構成されるはずである。
機能インターネットでの比喩
他地域システムとの接続を管理するDNS
現在の電力状況を通知しあうSNMP
電力の要求(融通)を要求する機能
どの地域に売電するかを算出する
(相手との距離、需要、販売額、緊急性などから決定する)
RIP
他地域に電力を送電の予告、および送電開始
受電の停止予告、および切断
送電の停止予告、および切断

Vortex Bladeless: a wind generator without blades | Indiegogo

いずれにしろ、全てはこのようなかっこいい未来を切り開く風力発電が実用化してからだ。

2015年5月4日月曜日

二兎物語 - 滝沢聖峰

この人の作品は戦闘機が兎に角かっこいい。美しさの分類は弥生的で、すっきりとした流れるような美しさである。人物の描画もいい。

この人の作品では東京物語がいいのだが、いかんせんラストが気に食わない。確かに作者には物語を自由にする権利がある。だが読者にも作品を解釈する自由がある。僕は勝手に筋を変えて自分なりの最後で物語を締めくくった。

二兎物語は、たぶん二都物語から拝借した名だろうが、関係はよく知らない。浮世絵の絵師が主役であり時代は幕末である。派手な展開はないがそれは時代のせいであって、そこに住む人々には派手な物語が展開されるのである。

悩みがある。それを誰かの助けを得て解決する。そこに逞しさがある。趣味の為ならご禁制の品だってこっそり収集する。女もおおらかだ。

江戸時代は確かにこういう空気だったんだろう。そう思わせる感じがとても良い。それが虚構に過ぎぬとしても。今の価値観ですべてを串刺しにしない。

戦記もそうであろうが、ある時代にそこに生きた人を尊重する。その確かさが作品である。

トロッコ問題

トロッコ問題
線路を走っているトロッコのブレーキは壊れている。このまま直進が続けば線路で作業をしている5人の保守員が轢き殺されてしまう。この時たまたま線路の分岐器のすぐ側にあなたがいたと仮定する。分岐器を使ってトロッコの進路を切り替えれば5人は助かる。しかしその切り替えた路線の先に別の1人の保守員が作業をしていた。もし切り替えれば5人の代わりに1人がトロッコに轢かれて死んでしまう。

さてあなたはトロッコをそのまま走らせるか、それとも別路線に引き込むべきか?

問題の抽象化はギリシア人が発見した技術であり数学の基盤だと思う。抽象化は問題を顕著化するし解決すべき要点を明確にする。無視できるものを決め、不要なものを取り除き、それでも残ったものが問題の本質であると仮定する。そうすることで問題を簡単に考えられるようにする。複雑で困難な問題を単純化し解決を見つけやすくする。

抽象化によって得られた結論は転用したり応用するにも便利である。抽象化しておき様々な状況で具現化する。その応用が広がれば逆に以外な所で具体化から抽象化に戻すこともできる。そうやって異なる具体化が実は同じ抽象化できるという発見もある。抽象化は問題を扱いやすい形に変換しているとも言える。抽象化により漠然にひとつの形式を与える。そこから具体化に戻すことを応用と呼ぶ。

ユークリッド(エウクレイデス)が結実した公理と定理が数学を厳密で巨大な体系に作り変えた。数学とは抽象化のことだろう。より抽象的に考えることだ。必要ないものを極限まで取り除き、それでも残った「正しいもの」を扱う事だ。ここでの「正しいもの」とは「脳が正しいと認識する」という意味だから、数学とは脳という回路の実体化、回路図の表現とも言える。これは養老孟司の言である。

トロッコ問題の論点も抽象化の中にある。5人の命と1人の命はどちらが重いか。すると人はそんなの分からないと答えるに決まっている。だって見知らぬ5人よりも我が子ひとりの方が大切なのは自明であるし、見知らぬ5人と1人なら決められるはずもない。まずそれを考える必要がない。

見知らぬ1000人の子供がアフリカで飢え兵士になり死んでしまおうが、目の前の我が子が重いのは当然である。それはアフリカで悲しむ親だって全く同じだ。それ以上の何が言えるか。

そこでその抽象化に少しの具体化を入れてみる。何故なら回答を強要するためである。どのように具体化を入れれば期待した問題となるか。なぜそうすることで回答に変化が表れてくるか。問題の抽象化に具体的な条件が付随する。それはつまり、
  1. 見知らぬ5人と1人の命のどちらが重いか。
  2. あなたがどちらかを殺さなくてはならぬ時にどちらを選ぶか。
  3. どちらかを選択する自由はあるがそれ以外のあらゆる選択は許されない。

この問題の特徴は問いそのものにはなくそれを問う側の思惑にある。なぜ彼らはこのように問いたいのか。この問題は人間について道徳を自問させ自省を促すように見える。しかしそれは違う。

この問題の本質にあるもは選択肢を失った時に人間がどう振舞うか、その時にどのような言い訳を用意するかという点にあるのだ。これはそういう意味では収容所の実験である。トロッコ問題は次の問いと置き換える可能だ。
あなたは軍隊にいる。5人がいる収容所と1人の収容所がある。どちらかを爆破しろと言われた。あなたはどちらを選ぶか。命令の拒否も自殺も許さない。

この人間への問いかけは何だろうか。なぜ哲学者はこのような問題を思いついたのだろうか。そこに資本主義が無関係とは思われない。我々の社会は根底からこういう問いかけを欲しているのである。

資本主義は人間に選択を強要する。その選択のもっとも単純化された抽象化である。それは例えばリストラを通告する時に具現化する。この問題はどうやれば心理的負担を軽減できるかの実験と考えるべきだ。

このような抽象的な問い掛けは人間に対する侮蔑と呼んでもいいだろう。更に問いかけの構造が特徴的である。なぜこのような具体性のない設問をしておきながら、回答者にはより具体的な答えを要求するのか。

抽象化された問題に具体的に回答させる。問われた側は非現実的な問いに対しても具体的に考えようとする。それは人間の自然な心理であろう。そこに着け込んだ手法はフェアとは思えない。なぜ問う側がかくも絶対的な立場から回答を要求するか。なのに彼ら自身は答えを明かさない。しかし聞くもからはそれを強要するのである。そこに答えがないのは自明である。彼らはその反応を知りたいだけなのだ。これは巧妙な社会実験に過ぎない。

もし答えを欲するなら具体的にしっかりと考えるべきだ。我々に必要なのはこの問題に回答することではない。具体的に質問することだ。抽象的な問題に具体的に答えなければならぬ状況にあるのなら、答える側には具体性を知る権利がある。問う側にはそれに答える義務がある。それがなければ答えなど出せるわけがない。

抽象性はそれと合った抽象性で考えるべきだ。円が現実は再現不可能だからといってそれで数学の定理が失われることはない。現実の制限が抽象性の正義を否定することも、また抽象性の正義が現実の中で否定される事もあり得る。そしてそうであってもそれは決して不正義とは呼べない。

トコッロ問題に必要なのも結論ではなく問い返す事だ。対話の中で、質問者に何の意図があるかを問い掛ける事だ。そこに何か矛盾があるなら、それは背理法により偽の証明になる。質問そのものが間違えているのだ。そして何ら矛盾がないことが証明されたとしたらただ答えは一様にならぬと証明されるに終わるだろう。

  1. その5人と1人とどちらがわたしは親しいのか?
    どちらも見知らぬ人である。
  2. 誰もトロッコの暴走に気づかないのは何故か?
    全員がウォークマンなどを聞いている。
  3. 叫んでも聞こえない状況とは何か。もしかして唖か?
    全員がウォークマンなどを聞いている。
  4. その工事になぜ見張りを立てていないのか?
    その企業はお金がないので見張りを雇えない。
  5. トロッコの運行時間などを工事関係者に示し合せていないのは何故か?
    作業指示にミスがあったのだ。
  6. 暴走しているなら線路に振動とか異変が伝わるのではないか?
    近くで別の工事があって音も振動も激しいのだ。
  7. 何等かの異変に対して警笛を鳴らさないのは何故か?
    警笛は壊れていたのだ。
  8. 警笛が壊れているとしたら整備点検を怠っているのか?
    その通りだ。
  9. なぜわたしは分岐器のそばに居られるのか。そういう路線の中に勝手に入れるのは何故か?
    管理が徹底しないのだ。
  10. そういう企業に路線運行を許している行政はどういう状況か?
    先進国ではないと考えて欲しい。
  11. 私の持ち物には旗とかジャケットとか笛とかはないのか?
    相手は何にも気づかない。
  12. 分岐器を真ん中で固定してトコッロを脱線させられないか?
    それは出来ないだろう。
  13. わたしはなぜそんな急にそんな異変に気付いたのか?
    たまたま気が付いたのだ。
  14. 私はそんな咄嗟にどう決断すればよいのか。
    咄嗟の事ではあるが、決断する時間はたくさんあると考えて欲しい。
  15. どうやったらそんな状況が現実に起きるのか?
    現実ではない、一種の思考実験と考えて欲しい。
  16. 架空の人間が何人死のうが知ったことではない。
    なるほど現実性がない時にはそういう決断にも心理的負担が少ないのか。

相手からの質問に対して選べるオプションが少ないのとよく似たシチュエーションがある。映画や漫画や小説の中で。主人公が危機に陥る時とはこれと同じ状況である。その先でどうなるのか、そこからどうやって全員を救うのか、これが物語の面白さになる。

上の子か下の子か、どちらかを差し出せ、そういう話はフィクションでも実話でも耳にする。そしてこういう強要をするのは何時いかなる時も悪者である。

戦乱の中で、事故の中で、津波の中で、人には生涯悔いる失敗や決断がある。トロッコ問題はそれを人間に強要している。この問いに対して必要なのは答えることではない。この問いに回答することに意味などない。そういう決断をせざる得なかった人、決断ができなかった人、目の前で流れてゆく人をどうしようもなく見て立ち尽くしまった人。そういう人をいかにケアしてゆくか。人間は万能ではない、だのに自分を責める強さは時に巨大だ。

トコッロ問題は可能性を徹底的に取り除いている。それは夢の出来事と言って良い。その夢に対して回答を要求する。夢の中で浮気をした者はやはり浮気をしたのであろうか。夢の中での妻への裏切りは離婚の原因になるのだろうか。そう問い掛ける自分の心とは何だろうか。
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。

夢の中で姦淫したものは、既に姦淫をしたのである。これを否定できないから迷うのである。心神喪失が無罪という話はこれと無縁ではない。自分に覚えがない事、自覚のないことに社会的な責任は取れないとするのにも理由がある(これは考えてゆかねばならぬ問題だ)。夢の中での出来事には責任をとれない。もしそれを要求されたら誰が夢と向き合えるだろう。

それでも夢の中で女性を抱いた事に罪悪感を感じたならばどうすれば良いのか。もしそれが夢の中で海に落ちたふたりの子供だったら。あなたはそのどちらを助けようとしたのか。どちらの子供を見捨てようとしたのか。誰もが夢を見る。そして飛び起きるのである。

飛び起きてから自問する。もしあれが本当だったら。自分はどうなってしまうのだろう。その時になってみなければ分からない。自分の認識を新たにする。そんな事は起きませんように。ただ祈るしかない。

それが本当に起きてしまった。そういう人がたくさんいる。あの津波を目の前にして、今も悔やんでいる人々は大勢いる。どうしようもなかった。そんな言葉では納得できずに答えを探している人が居る。その答えなど見つからないと知ってそれでも探している。そういう苦しみと寄り添うためにキリストは磔になったのではないか。仏陀は説いたのではないか。

心の負担を減らしたいだけならば夢に帰せばいい。苦痛の決断なぞ架空だ。その決断は誰のせいにもしない。サイコロを振るだけの人、その数値を教えるだけの人、その数値で分岐器を動かす人、その結果は誰のせいでもない。あらゆる作業を分業化する。決断を不要にする。それでもそれは実現される。それが誰かの命は救ったのだ。これも人間である。

2015年4月30日木曜日

アンゴルモア 元寇合戦記 - たかぎ七彦

「なまずランプ」がモーニングで連載されていた記憶はある。だけれど同じ作者とは思わなかった。

基本、負け戦は撤退戦である。いきなりの逃走劇になるか持久戦の後に撤退するかは状況による。持久戦の基本は時間稼ぎだから、時間を作る目的と方法と期限が設けられる。つまり計画。この計画に対して、実際がどうなるか、ここで面白くなる。

この物語では、最初に援軍の到着が示される。当面はそれまで如何に生き残るかが物語の中心になる。もちろん、援軍が遅延したり到着しない展開もある。そうなったら登場人物はどうするか、作者はどうなるのか。

まさか玉砕?脱出劇なら希望が持てるけれど。玉砕も持久戦の一種だから何かあるかも知れないけれど、意味も目的も失った持久戦なんか読みたくない。こうした塩梅で、撤退戦は先行き不明で大概が面白い。作者の掌で転がるのみである。

  • 皇国の守護神 - 伊藤悠
  • 軍靴のバルツァー - 中島三千恒
  • 雑想ノート 妄想ノート - 宮崎駿
  • キングダム - 原泰久
  • 火の鳥(乱世編) - 手塚治虫
  • 銀河英雄伝説 - 田中芳樹
  • 彷徨える艦隊 - ジャック・キャンベル
  • 敗走記 - しまたけひと

撤退戦はテーマが明確だし、目的もはっきりしている。犠牲も説得力を得やすい。緊張感が長く続くので題材としても優良である。生きる死ぬが必ずあって読者をキリキリさせる。犠牲は不可避、普通に考えれば主人公が死んでも文句は言えない。言えないから、そういう展開になっても読者は離れてゆかない。

撤退戦は絶望的な立場に主人公を追い込む。運だけでは生き残れない。物語の面白さには真実が要る。どんな人も虚偽や嘘では感動できない。必ず一握りの真実がある。

事象や物語がどれだけ嘘だらけでも、真実さえ潜んでいれば本物だ。

物語には約束事がある。社会の良識や常識、歴史が育んだもの。「それ」を分かった上で、「だから」敢えてこうする、「そして」こう切り返す。観客は架空を楽しみ、即興性、当意即妙、機転に驚く。そういう瞬発力に翻弄されたい。

2015年4月19日日曜日

仮面ライダー - 石ノ森章太郎

石ノ森章太郎が描くヒーローを哀しみが支えている。その哀しみは正義も悪も関係なく。

キカイダーの孤独、ハカイダーの哀しみ。これさえ描ければ作品は成立する。キカイダーが孤独なのは、ただ一人、人間の心を持たないから。ハカイダーが哀しいのは、ただ一人、人間の姿ではないから。この対比が本作品の面白さではないか。

仮面ライダーも同様、物語には悲しさの通奏低音が流れている。その哀しみとは何だろう。

自分の意に反して戦闘用の人造人間に改造された哀しみである。仮面ライダーのモデルはバッタである。カフカの変身ではないが、果たして虫になることは人間のどのような悲しみだろうか。輪廻転生で虫に生まれ変わることは人間のどのような悲しみであろうか。

ショッカーの技術者たちはバッタを研究し尽くしてその能力を仮面ライダーに移植した。バッタのジャンプ力がライダーキックの破壊力を生み出す。この必殺技が授けられた仮面ライダーは本来は従順なショッカーの戦闘マシーンとして世界征服の一翼を担うはずであった。

ショッカーの改造人間は戦闘に不要な機能、器官は捨てたと考えるのが妥当である。例えば消化器官は必要最低限でよい。バッタであるなら雑草からエネルギーを取り出せば十分である。

味覚など必要ない。本郷猛が食すのはサラダでさえない。そのあたりに生えている草ばかりだ。ごはんや肉を食べても味はしないし、消化する能力もない。仮面ライダーが強力なあごを持つのは、ススキや樹皮などを噛み砕いてエネルギーを効率よく取り出すためだ。

みんなと食事しても食べている振りをするだけである。味はなく美味しさも感じない。消化されることなくそのままの形で排出される。そして誰も居なくなってからひとりでススキの葉を取り込むのである。

聴力は強化され、人が歩くと骨の動く音が聞こえ、食事をした人が消化している音も聞こえる。視力は紫外線まで見える。人の動きも止まったようにも見え、肌に住むダニまでもはっきりと見える。

嗅覚も強化され通りすがりの人が前の晩に誰に抱かれたかも分かる。生殖器は切除された。しかし脳が人間のままであるから性欲は残っている。どうやってそれを満足させれば良いのか。

体の機能欠損や脳障害を抱えている障害者はたくさんいる。新しい技術がそういう人たちにとって新しい補装具となり助ける、一部の機能では一般の体を遥かに凌駕してゆくだろう。

人造人間と同じ姿になって苦しんでいる人が居る。人間が人間の体であることは幸せなことだ。しかし不幸にしてそれを失っても生きることを止めるわけにもいかぬ。対峙するしかない。すると仮面ライダーの悲しみは障害者の悲しみなのだろうか。

義手、義足がコンピュータを搭載し改良を続ければ、パラリンピック(この呼称が近い将来は廃止されるだろう)の記録がオリンピックを抜き去ることは確実だ。ならば仮面ライダーの悲しみとはふつうの人と違う体を持つことの悲しさとは言うべきではない。ならば彼の孤独や悲しみはどこにあるのか。

ショッカーの技術者たちは強化人間を作るだけでは不完全と考えた。怪人をショッカーに従順な戦闘マシーンとしておくには、自分で考え行動する事が邪魔になる。強力な怪人たちはシビリアンコントロールされなければならない。

強化人間を幾ら揃えてもばらばらであれば戦闘力にならない。裏切りや逃走するようでは危険である。自分の正義に基づいて行動されては困る。戦闘集団に優秀な士官は欠かせぬ、しかし命令は絶対なのである。それを誰に担わすのか。

ショッカーには思想もなければ宗教もない。しかし多くの科学者に最先端の研究所を与え、医学論文こそ発表しないが研究内容はノーベル医学賞ものである。国際的な犯罪組織として世界中の警察組織を相手に対等以上に対立している。非合法で世界中に支部を持ち莫大な経済力がそれを支える。それが可能なのは世界的な麻薬カルテルくらいではないか。

巨大な麻薬組織は経済的な力を背景として地域と密接し自治を行う。ショッカーも同様だろう。彼らが目指すものは世界征服ではない。自分達のビジネスがやりやすい環境を世界に作り上げるべく、麻薬が流通しやすい世界に変えたいのだ。打倒すべきは国家の法規制あり、それを打ち砕くためなら政府さえ相手にする、そういう非合法の企業体なのだろう。

ショッカーの戦闘員は自分達の地域から雇用する、彼らに改造人間を配して敵対する麻薬カルテルを破壊したり根拠地を焼き払う、ショッカーはそうやってのし上がってきたに違いない。そんな彼らがなぜ日本をターゲットにするのか。麻薬組織と対峙する世界的な警察機構が日本にあると設定すれば説得力が増す。本部近くでスパイ活動を円滑にするために陽動として事件を起こすのである。

いずれにしろ改造人間は志願者ではなかろう。有望な身体能力を持つ者を誘拐してきたのだ。恐らく適合する人間が必要なのだ。彼らをショッカーに従順な怪人にするには脳の改造が必要であった。

仮面ライダーは他の人からは哀しみに見える障害を引き受け生きている、その姿を見せる物語だ。当人がそこにどのような心理的葛藤を抱えているのか、どうやってそれと乗り越えたのか、それは語られていない。

その悲しみをただおやっさんだけが知っていたと思われる。おやっさんの陽気さの奥にある何かを誰もが感じていたに違いない。おやっさんは仮面ライダーに少しでも人間的な喜びや快感を取り戻してもらおうと色々な研究をしていたのではないか。

この人間性の問題にショッカーの科学者たちも気付いていたに違いない。その解決方法として何も感じないよう脳に改造を行った。脳の改造をされた怪人たちは命令を受けていない時はただ部屋の中に座って微動だにしない。ただ待っている。命令を受けるまで。そうすることが人間的な苦しみから解放する方法だとショッカーの科学者たちは考えた。脳を無感覚にすることもひとつの人道性だと考えた。

仮面ライダーには誰にも明かせぬ秘密があった。それを抱えて生きてゆく悲しみ。それを知るのはおやっさんただひとり。

それが苦しくとも、その苦しみとともに生きてゆくほうがよい。仮面ライダーはそういう物語ではないか。