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2012年3月18日日曜日

花神 - 司馬遼太郎

一人の男がいる。
歴史が彼を必要とした時、忽然として現われ、
その使命が終わると、大急ぎで去った。
もし維新というものが正義であるとすれば、
彼の役目は、津々浦々の枯木に
その花を咲かせてまわる事であった。
中国では花咲爺いの事を花神という。
彼は、花神の仕事を背負ったのかもしれない。
彼―村田蔵六、後の大村益次郎である。

NHKの大河ドラマで中村梅之助が演じて以来そのイメージを他に見ることが出来ない。
小高昌文の語りを耳にすればこれが他の語りに置き換わるのは考えられない。
花神はドラマも小説もどちらも捨てがたい。

まずタイトルがいい。
花神、聞きなれない日本語である。
この言葉がどうして大村益次郎へと結び付くのか。

いや恐らく、幕末にはこのような花咲じじいはあちこちにいたのである。
そして花が咲くのを見る前に逝ってしまった。多くが。

この一風変わった人は可なり小説に成り難かった。と言うのは想像に難くない。
無口であり手紙は残っているが、彼が行った業績と比べればなんと逸話の少ないことか。

彼を技術者と呼んだのは正しくそうで、彼の頭の中で起きていたことは今や昔の戦争の技術であった。作戦の苦心や工夫を語っても小説には成り難い。

しかし彼が居なければ幕末は相当違った様相を見せたと思えばその魅力も捨て去り難い。

どうすればこの人の事がより多くの人に伝わるだろう。
僕が感じたこの面白さを多くの人に伝えるにはどうすればいいだろう。
それには僕が感じている問題意識を伝える事はどうしても避けて通れないはずだ。

これは小説である、それは今の時代に合うように脚色もされた。
しかしそれを単に脚色と言うか、彼はありありとそれを見ていたに違いないのだ。

そうやって書かれた司馬遼太郎の描く幕末は現代色で染められている。

そうやって染めてくれたお蔭で分かり易く非常に読み易い且つ面白い。
作者の苦心の後であるが、ここに解釈というものが持つもう一つの魅力がある。

実際、当代一の資料を収集しその上に構築されたこの小説は既に僕達の常識だ。
彼の手により知る事が出来た人物は数多い。

司馬史観と呼ばれる一種の歴史観を批判する人もいる。
この史観を主張したくて小説にした訳でもあるまい、
というのは読めば分かる事である。

そうであればそう見えるのも脚色の一つに過ぎぬだろう。
これは小説の面白さの中心にあるものではなかろう。

そしてこれらを批判する者達も多くは彼が耕した土壌の上に咲いた花に過ぎぬ。
その作品の上に立つ多くの花の一つに過ぎぬ。

どのような作品でも細部においては好みはあるものだ。
如何様な作品であれ批判も可能であるし、見方もそれぞれ工夫できる。
自分の中に形作る歴史が小説と一致する必要は何もない。

彼の足場が何のために組まれ、それが何を成し得たかについて無自覚であってはいけない。

今風の物の見方では同意できぬ所もあるし誤解もあろう。
我々が見ている司馬遼太郎は勿論、色眼鏡で着色されている。
司馬遼太郎が見ている幕末も、色眼鏡で染められている。

それを司馬史観なるもの、と呼び一括りにするのは簡単であろう、
しかしその安易さには物語の面白さはないように思われる。
勿論、批判者もその批判に感じる面白さは、作品の魅力に重力があるなら、
その重力圏の中で起きている事を知っている。

さて誰の目にも正しく見える色と言うのはあるのだろうか。
例えば幕末に正しい色と言うのはあるのだろうか。

既に視覚とは脳内における神経のメカニズムであることは明確であるし
目という機構は電磁波の一部にしか反応しないという理解も進んでいる。

見るとは見たいものだけを見る事だ、というのは皮肉でも何でもない。
視るとは、見なくていいものを捨てるための生命のメカニズムである。
(眼の発生は光源の方角を知る所から始まり像を結ぶ方向に進化した。
その発生の起源や進化の過程にも面白い話しがある。)

どんな色を付けるか、
それは塗る者の自由であるが
またそれが何色に見えるかは見る側の自由である。

幕末においてさえ、100人いれば100人の言い分があったろう。
後世に一人の小説家が新しい言い分を加えた所で何の不都合があろう。

更に言えば、あなたが見ているその赤色を他の人も同じ色に見ているとは限らない。
目の構造は同じでも細胞も神経も脳も人それぞれに違う。

そうであればテレビが違えば色合いが異なって見える様に夫々に違うものが見えても不思議はない。

2000年前から残っている言葉はいずれも解釈されるものである。
如何様にも解釈され、それが尽きる事がない。

一つの解釈が答えになるような、そんなものが時代を超えて残る訳がないのだ。

詩人は自分の詩でさえ、別の意味を見つけ出すと言う。
同様に時代もまた様々な解釈が出来るものであるし、出来ぬものは歴史ではない。

はっきりとしているのは、自分にとってであって、それが他の人にとっても同じである理由はない。誰もが自分で解釈する事、他人の解釈を信じぬ事。

よってある色で染まっているから素晴らしい、と言う話しは面白くない。
色は即ちどんな優劣も示さない。
僕にはこの色に見える、という告白が面白いのだ。

さて、日本におけるドラマというのは声である。
声がいい。

どの声もいい、印象に残る。
これがドラマそのものと言える。
この"声"に加わるように演技というものがある。

この国には昔からサイレントという芸能はなかったのである。

篠田三郎演じる吉田寅次郎がこれまた好い。

歴史が動くのに誰かの血を欲する事がある。
アラブの春は、モハメド・ブアジジの死から始まった如く
明治維新も一人の青年の死を必要とした。
若し彼が死ぬことなくいれば、
幕末はずっと違ったものになっていた。
彼を死罪としたとき、
江戸幕府は自ら倒れる運命になった。
吉田松陰がその人である。

彼の死を飲み干した歴史は目覚め、明らかに運動を始めた。
誰一人欠けることなく多くの人の血を欲し、
それを飲み干しながら、歴史が進む。
誰も見た事がない事件が起き、新しい朝日の下には
誰も聞いた事がない一日が始まる。

君たちは功名をなすつもり、僕は忠義をなすつもり

蔵六の退屈でさえあるイネとの密会などどうでもよい。
近代化に対する見方はこれだけとは限らぬ。
それでもそういう所を取り去っても
やはり面白いのは司馬遼太郎の嗅覚の確かさだろうと思う。

我々には解釈しか出来ぬ、
だからどう正しく解釈するかを気にしても仕方がない。
正しさなど分からぬと答えるしかない。

もし解釈に誤りというものがあるのなら
それは何をもってそう言えるだろうか。

誰もが人生で積み重ねて来た中で見つけたものを
解釈の違いをもって切り捨てるような事が出来るだろうか。

我々の行動を未来の人達もまた解釈をする事だろう。
そして後世の評価が正しい保証もまたないのである。
今の信じる解釈に従って後世が困らぬと信ずる方へ行くしかないではないか。

今を生きる、には解釈する力は欠かせない。
それは信仰や信念の基にさえなる。
論理でさえ其れを積み重ねて新しい論理を生み出す仮定で多くの解釈が生まれる。
解釈は仮定であり推測であり発見であるのだ。

後世から見ればどれだけの事をやったろうか、
ただの一人の官僚に過ぎないではないか、
と言う人に命を吹き込んだのは、司馬遼太郎であり、かつ、中村梅之助である。

靖国神社の大村益次郎像を見上げながら思う所があるだろうか。
それは何か驚きに満ちた発見であったろうか。

描き方次第でどのように後世に残るか、これもまた恰好の題材であり、
そういう意味ではこの小説とこのドラマは歴史を造ったのだ。

蘇らせたと言ってもいい。

歴史とは評価するものでは勿論ない、それは解釈するものだ。
正しい歴史というものはない、ただ風雪に耐えている姿を見て、
僕達はそれぞれ思うところあり、と言うだけである。

2012年3月2日金曜日

君子和而不同、小人同而不和, 以和為貴 - 孔子, 聖徳太子

和という言葉は誰もが知っている言葉。
そして誰も上手く説明できない言葉。

巻七子路第十三之二三
子曰 (子曰く)
君子和而不同 (君子は和して同ぜず)
小人同而不和 (小人は同じて和せず)

この言葉は人の集団での在り方を語ったものだと思われる。

だが、和と同の違いは何であろうか。
君子と小人では集団において振る舞いが違うという。

和するとは何か、同じるとは何か、何がどう違うのか。
和する、同じる、この違いを言葉にするのは難しい。

なんとなく、の感じは誰もが分かっている。
和するとは自分の意見を主張しながらも仲よくする。
同じるとは他人の意見に同調しそれで良しとする。

しかし人にはこの二つの在り方しかないのだろうか
これ以外の人の在り方というものはないのだろうか。

そうであるとすれば
孔子が言いたかったことは、恐らく語られなかった所にある。

人が誰かと共にある時に、和するでもなし、同じるでもなし
それ以外の在り方があると言いたいのではないか。

それはどういう時であろうか、と彼は口を噤む。
即ち、それ言葉に出来ぬものと。

彼が言葉に出来なかったものを僕達が言葉にできる道理はない。
僕が見つけたものを彼が見つけていないはずはない。

孔子が捨てたものを拾うべきだろうか。

和するや同じるならそれでも結構である。
しかしそれ以外の在り方こそを怖れよ、と述べたのではないか。
君子でも小人でもない集団というものがあるのだと。

十七条の憲法第一条
一曰 (一に曰く)
以和爲貴 (和を以て貴しと為し)
無忤爲宗 (さかふること無きを宗とせよ)
人皆有黨 (人皆党あり)
亦少達者 (またさとれる者は少なし)
以是 (ここをもって)
或不順君父 (或いは君父にしたがわず)
乍違于隣里 (また隣里に違う)
然上和下睦 (然れども、かみ和らぎしも睦びて)
諧於論事 (事をあげつらうにかなうときは)
則事理自通 (すなわち事理おのずから通ず)
何事不成 (何事か成らざらん)

聖徳太子が示した和という言葉は日本を示す解釈でもよい。
この国に想いを寄せることを尊きものとす。

和するとはまるで人間の体のようだ。
沢山の細胞があつまりそれぞれが活動し人を生かす。
全てが同じ働きをしているわけではない、それなのに一個として存在する。

では単細胞生物は和しているとは言えないのか。
いやそれぞれは勝手気ままに生きているにも係らず
その単細胞生物がこの地球をここまで変えてきた。

この星に酸素があるのは30億年と単細胞生物の所作である。他の誰のものでもない。

和するとは調和と訳すべきであろうか。
同ずるは同調と訳すのが一般的であろうか。

しかし和するとは仲良くせよ、という戒めではない。
当時を思えば仲良くするほど弱々しい考えはない。
武を持ち敵を打つことに臆病であったりはしない。

だが、と考える。

和を尊ぶとは如何にせよ暴力を使うな、という事ではないか。
同じた集団は、一つの武力となって襲い掛かる。

武が無くなることを考えることなど出来ない。
しかし、暴力の中に和は見いだせない。

それを諌める。

聖徳太子も蘇我馬子も共に仏教を厚く信奉した。
国を治め戦争もし行く末に心砕いた。
共に国を作る二人の間にあったものは何であったろうか。

太子の才能を早くから見つけ驚く馬子、
馬子の力強さに驚嘆しながらも改革を急ぐ太子、
互いの間にある不思議な友情が紡がれながら国の行く末を編んでゆく。

その時の太子の心が第一条にあったとしても不思議ではない。

(訳)
まず第一に、
お互いに話し合うことを良とせよ。
話し合う前から反対するような事は慎みなさい。
人には帰るべき集団がありお互いの立場も異なる。
また全ての事を理解している者などこの世にはいやしない。
そのため
時には家族でもいがみあう事もあり
また隣人と意見が激しく異なる事もある。
それでも、誰もが仲睦まじく
良く話しあい、
お互いの理解を深めてゆけば
必ず分かり合える場所が見つかるはずである。
なぜ解決できない問題というものがあろうか。


学而篇にはこうある。

巻一学而第一之一二
有子曰 (有子曰わく)
禮之用和為貴 (礼はこれ和をもって貴しと為す)
先王之道斯為美 (先王の道もこれを美しと為す)
小大由之 (小大之によるも)
有所不行 (行われざる所あり)
知和而和 (和を知りて和せんとするも)
不以禮節之 (礼を以てこれを節せざれば)
亦不可行也 (亦行うべからざるなり)

なぜ聖徳太子は礼を退け和で良しとしたのか。

和の重要性は礼だけにあるのではない、と考えた。
この言葉は使う場所により色々な意味を含むものだと捕えた。
国家を作るのに礼は幼い日本にまだ定着していなかった、のかも知れない。

礼とは何か、相手を待つことである、と言える。
相手の語るを待ち、聞くことが礼の基本であると。

それを様式にまで高めた大陸と日本とでは違いがあっても不思議はない。
世界を治めるために礼が生れたのであり、礼が世界を治めるのではない。

(訳)
国を治めるには礼が大切である。
礼はお互いの間の憎しみを取り除くものである。
先王もそのようなやり方を是とした。
いろいろな場所で礼が行われるが形ばかりでは上手くいかない。
また和があるだけで礼が無ければこれも上手くいかない。

和を上手く行うには礼が必要である、と言う。
そうであるなら、まずは和から説くべきである。
和を以って礼を生す、とでも言えようか。

礼は第四条。
四曰 (四に曰わく)
群卿百寮以礼為本 (群卿百寮、礼をもって本とす)
其治民之本要在乎礼 (それ民を治むるの本は、かならず礼にあり)
上不礼而下非齊 (上、礼なきときは、下ととのわず)
下無礼以必有罪 (下、礼なきときはもって必ず罪あり)
是以 (ここをもって)
群臣有礼位次不乱 (群臣、礼あるときはいじ乱れず)
百姓有礼国家自治 (百姓、礼あるときは国家自ら治まる)

とまれ、和は礼に行き着く。
しかし、礼を考えるには未だ足りない。

今は和して同ぜずに留めておく。

(訳)
君子は広く人と話をする、しかし行動を共にする事はない。
小人は人と行動を共にする、しかし話し合いをしない。