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2015年12月20日日曜日

知る者は好む者に如かず 好む者は楽しむ者に如かず 2 - 孔子

巻三雍也第六之二十
子曰 (子曰わく)
知之者不如好之者 (之れを知る者は之れを好む者に如かず)
好之者不如楽之者 (之れを好む者は之れを楽しむ者に如かず)

人の好きについて考えた。

どうやらそれは身体の中から生まれるものではないらしい。何か好きと言う感情が湧き立ち、芽を吹き、成長し、愛という結実を迎えるものではないようである。

それは、周囲に対して、自分がどうありたいかという願望から生まれる。周囲から自分はどう見られたいか、どういう形で自分は周囲に立脚したいか。

自分の居場所を欲する。群れる動物にとってこの原初的な欲求、群に認知されたい欲求が好きを規定する。集団の中で自分はどうしたいか、されたいか。自分にとって心地よい関係とはどういうものか。それが前提となって好きが生まれる。

所有は階層を決定する。自分が連れて歩く女は、周囲が自分をどう見るかを決定する。それが斯くありたいを規定する。好きな女には条件がある。それから身の回りの様々なもの、車、ファッション、佇まいなどにも影響しよう。こうして規定が自己を形成する。

人間は周囲からの影響を排除できない。また周囲へも影響を及ぼさずには居られない。群の中に自分の立場を求めること、群が自分に強いること。強弱の違いはあれ自由勝手な自分では居られない相互作用の中にある。

だから好きに理由があっては困るのだ。もし好きに理由があるのなら、理由を失えば好きでなくなってしまう。理由があるのならそれは無条件ではないのだ。

永遠の愛を信じるならば、理由によって愛が覚めるはずがないし、無条件でなければならぬ。それが周囲との関係の中で成立していてはならない。永遠に好きで居続けるためには、その対象と同一化するしかない。自分と同一化すれば好き嫌いの問題ではなくなる。

当人が永遠の愛を願望することと、他者がどういう理由から対象を好きであるかを見抜くことは別の問題だ。その人が好きなものを見れば、その人がどういう自分で居たいかが分かるだろう。周囲に優越感を与える存在としての女であれば好きが成立する。それが好きの正体になりうる。

自分探しとは、自分の中の答えを探す旅ではない。自分は斯くありたい。それを受け入れてくれる場所を探す旅だ。自分の欲望だけを押し付けて周囲と妥協ができないなら自分が独裁できる場所を探すしかない。なるほど、あいつは今も孤独か、と思えてくる。

ニュートンがユークリッド幾何学で天体を読み解き、リーマン幾何学でアインシュタインが書き直したように、数学が切り開かなければ見えてこない自然の姿がある。しかし我々の世界像が合理的だからと言って、太古のギリシャ人が非合理ということはない。

既に写真で見ているから、天動説が嘘っぱちだと知っているのである。もし太古のギリシャに飛ばされて、そこで討論したとして果たしてプトレマイオスを説得できるものであろうか。彼らには彼らの知見があり世界像がある。その世界像に基づいて最も合理的な解釈を採用した。写真を見て知っているだけの者にどれ程の説得力があるだろうか。

知る事は状況を有利にする。だから知ることは非常に重要である。人間が人間でいられるのは知る能力があるからだ。しかし知っていてもそれを誰かに伝えられなければ意味がない。伝えられる形でなければ価値を持たない。だから知る価値は周囲によって規定される。

知るだけでは足りないときは説得術が有用になるであろう。これは相手の考えを利己の方向に変える技術である。それは周囲の中で自分がどうありたいかを規定するのと似ている。斯くありたい自分に近づくための技術ともいえる。

好きであるためには相手が変わらなければならない。好きであるためには自分が変わらなければならない。そこに相手を説得したり説得されたりする。そこに好きがある。

知るを情報の価値と定義する。すると好むとは知るを伝える方法と定義できるだろう。では楽しむはどうか。

人が楽しむとき、そこには情報が伝わらなくてもよい。相手を説得しなくとも、相手に説得されなくとも良いという気持ちがある。もちろん伝わればと望んでいる。だが伝わろうとも伝わらざろうとも、そこには減ずることのない価値がある。単なる自己満足かも知れないが。

好きには理由がある。周囲からの目が自分の中にある。楽しむには理由がない。周囲からの目は関係なく自己が存在する。

楽しむが自己だけで閉じないのは、楽しむの先には誰かの笑顔があるからだ。誰かの笑顔が楽しむを支えている。これでいいという諦めも、まだやるかという未来も、誰かの笑顔に支えられている。

知ることは不幸を呼び込むだろう。好きであっても不幸はある。楽しんでいても不幸は避けがたい。たが楽しむには誰かの笑顔がある。その笑顔に理由は要らない。

知る者は好む者に如かず 好む者は楽しむ者に如かず - 孔子

2015年12月13日日曜日

モーセの十戒

汝、殺す無かれ

如何に苦しみがあろうとも、生命は生まれないよりも生まれる方がいい。神は全ての誕生を祝福するから。それが如何なる命であろうと。それ以外に言葉はない。

神は祝福する。その誕生を。どのような誕生であれ。神とはあらゆる生命の誕生を意味する存在ではないか。誕生が神であるなら、この世界に命に溢れるのは当然かも知れない。それが神の御心だからである。

神はいないといった所で生命はある。それが分子、原子の意志だとしても命はある。神がいないと言ったところで命はある。

だから、生まれた後にどう生きるかを問うようになれば世界が悲哀に満ちるのは当然かも知れない。神は苦しみからは救わなかった。何しろあらゆる誕生を無条件で無制限に祝福しているのであるから。それが悪魔であろうと神はその誕生を祝福する。

神は祝福する。そして誕生してきた全てのものを受け入れる。誕生したものが起こす全ての出来事を受け入れる。それを神は許す。若ししてはならぬのならそれを神は禁止しているはずである。

神は生みだす事に忙しい。そして等しくあらゆる生を慈愛されているのだから、生命同士が起こす悲しみも祝福しているに違いない。少なくともそれを禁止するようには生命を生み出していない。

生まれるだけで神が祝福する理由になる。等しく全ての命と命が生まれることを神は祝福する。さあ生まれよ、そして生きよ。どう生きようとも、その命を神は祝福する。例え生まれてすぐ失われる命だとしても、神は祝福しているに違いない。

人をなぜ殺してはならないか。神が祝福しているからか。命は神のものだからか。しかし神はそれを禁止していない。その理由を人間に分かるだろうか。だからモーセの十戒に記されたのではないか。

モーセの十戒
  1. ほかの主を神とするな。
  2. 偶像を作るな。
  3. 主の名を唱えるな。
  4. 安息日には休息せよ。
  5. 父母を敬え。
  6. 殺すな。
  7. 姦淫するな。
  8. 盗むな。
  9. 偽証するな。
  10. 財産は施せ。

「あなたは私のほかに何者をも神としてはならない」

もし神が全知全能であり、唯一の神ならば、他の神を存在させないことができるはずである。しかし全知全能ならば、ただひとつの神にして、多くの神が存在することも可能なはずである。

だから、この言葉に明らかな他の神の存在が示唆されていたとしても、神が唯一の神であることとは矛盾しないし、しかし、他に神がいることとも矛盾しない。神が唯一であるか、他にも居るのかは信仰とは何も関係しない。ただ己にとって唯一であれば良い。

しかし唯一の神を信仰するとして、他の神を信仰する人をどう考えるべきだろうか。もしわたしの神が唯一の神であるならば、他の神はまがい物である。これは信じるも信じないも関係ない。ただひとつの神とはただの事実である。

ならば偽物を信仰する人がただ一つの神を信仰するように導くことは、人間の正しい行いではないか。それは井戸に落ちる子供を助けようとするのと同じくらい、騙されていたり道に迷っている人をその暗闇から救うのは正しい行為ではないか。

神が唯一でなく多くの中から「この神だけ」を選んだのならば、これは信仰になる。信仰はわたくしの選択となる。もし唯一しかなければそれは選択とは呼べないのではないか。

否、仮に唯一しか選択肢がなかろうとも人には選択の意志がある。選択するのか、それとも選択をしないのかの意志である。ふたつの選択がある。唯一であろうと、多神であろうと、信仰の妨げではない。

神でないと思われるものを神として信仰しているのは滑稽であるか。例えばイワシの頭のような。しかし、神でない人間になぜそれが神でないと言えるのだろう。神は全知全能であるから、イワシの頭であることも可能なはずである。

もし、それ以外の神が存在してはならないのなら、我々はどう行動すべきだろうか。我々の手で他の神を滅するべきであろうか。

しかしどうすれば他の神を殺すことができるのだろうか。信仰するすべての人間を消しされば神も消えるものだろうか。これはとても合理的とは言えない。人間の存在とは関係なく、人間の信仰とは関係なく、神は存在するはずだからである。

人を滅すれば神が消えると信じる者が、しかし、言語の中に神の複数形が存在することを許容する。どう信じようと人間の中に複数の神を考える能力がある。それを神は禁止していない。

「わたしのほかに神があってはならない」とは、他の神を殺せと命じたのであろうか。しかし神は全知全能であるから他の神を消せないという事はあり得ない。他の神があってはならないのなら、既に神がそうしているはずである。

ならば他の神を人間に殺すよう意図したものだろうか。しかし、神は全知全能である、昨日言った言葉が今日も同じである必要さえない。またそれを人間に語る義務もない。

神の御心は自由自在なはずであり、それは全知全能である。神は間違えないと信じることは、神の全知全能を疑うことである。間違えることが出来ないのならば、神にできないことがあることになる。できないことがあるのなら、それは全知全能ではない。それは神ではない。

神は全知全能であるから、神が存在しないということもできるはずである。神が存在しないのも神の力である。人間のではない。

神の言葉を一字一句間違いなく解釈することは、本質的に人間には不可能である。神は全知全能であるから、我々の解釈が正しいとは他の意味を失うことであり、それは神の全知全能と矛盾する。神にできないことがあってはならないのである。

神の言葉をひとつの解釈が正しいと見做すのは神を疑っているに等しい。神の全知全能を信じていないのである。神は人間のあらゆる解釈を知っているはずである。どのような解釈であれ、どれが正しいも、どれが間違っているかも神の自由であり、それを明日否定することも神の自在である。

すると、わたしの他に神があってはならない、も、少なくとも、人間には神の意図を正しくは読み取れないことになる。どのような解釈であれ神の真意とは異なる可能性がある。すると、そこで人間に何ができるのか。

神の言葉から「人間を神としてはならない」という別の言葉を生み出すのであれば、これは神の言葉を勝手に解釈したことにならない。神の言葉から得たインスピレーションを元にして、人間の言葉を紡ぎだす。これは神の言葉ではない。神が生んだ生命を神としない、という別の言葉が生まれる。

我々は神の言葉を知っている。そう言っていいだろう。いろいろな書物の中にそれを見出すことができる。しかし、その言葉について何を語ろうと、全知全能の神の意図を誰が正しく汲み取れるだろうか。

神は常に正しい。それは間違えないという意味ではない。矛盾しないという意味でもない。もし神が間違えていけないのなら、それは全知全能ではない事になる。間違えることも矛盾もすべて正しいから神は全知全能なはずである。

無限であり有限であり零である。始まりであり途中であり終わりである。全てが正しく全てが間違っているはずである。あらゆるもの、無限の総和以上のものであるはずである。

よって神が苦しみを救わなくとも正しい。わたしたちが知る限り、この世界から誕生が止むことはない。今のところ。

神よ、神、なぜ私を見捨てたのですか

ならばこの世界にある苦しみをどうするのか。誰がその苦しみに寄り添うてくれるのか。

イエスがそうなのか。私はあなたの苦しみを見捨てはしない。神はどれほどの苦しみも祝福する。それも誕生であるから。そのために神は私を使わしたのだとイエスは語っただろうか。その苦しみと向き合うために。

明日、仏陀と出会ったとしても汚いじじいなどと思わない自分でいたいものだ。

2015年12月1日火曜日

歴史は「べき乗則」で動く - マーク・ブキャナン

Ubiquity - The Science of History... Or Why World is Simpler Than We Think
(偏在すること - 歴史の科学...または世界はなぜ我々が考えるよりもずっと単純なのか)

巨大な山の斜面に落ちるたった一粒の砂が、突如と山を大崩落させる。そこにはある法則が潜んでいる。

地震の予測が難しいのは、マッチ棒がどこで折れるかを特定するのが難しいのと同じだ。ある一定以上の力を加えれば折れる事は分かっている、だが一体どの場所でいつ折れるか。その都度、条件はさまざまである。だいたいこの辺りというまでは出来る。だが、ピタリと当てるのは難しい。

全てのデータが揃えば可能である。地殻だけでなく一粒一粒の砂、岩石と岩石の摩擦、水、大気、温度それら全ての関係を、原子、分子レベルまで再現できれば計算は可能なはずだ。それでも合わないなら、量子力学まで考慮すればいい。確率も入ってくるだろうが、そこまでするなら、地球と全く同じものをもう一つ造るのとあまり変わらない。

M9の地震を予測することは M1 の地震を予測するのと同じだ。地殻は常に滑っている。問題は、同じように滑り始めたのに、片方は小さく済んで、もう片方は巨大な崩壊をするのは何故か。どれもフラクタルのようにどこで切り取っても同じである。発生のメカニズムは全て同じだ。全て同じように起きるのに結果が異なる。

大きな地震だけを特別扱いしていては、とても地震予知などできまい。巨大地震を正確に予知したければ体感もできぬような小さな地震まですべて予知できぬ限り難しい。最初はどれも同じように小さなエネルギーから始まる。だのにひとつは小さな地震で終わり、もうひとつは巨大な地震になる。

これは何が違ったからだろうか。地震のエネルギーが物理的にどれほど異なろうとも、特別な発生の仕方をしたわけではない。ただ、岩粒や砂粒が連鎖を止めたか、止めなかっただけの違いだ。

起きやすい環境にある、それは経験則から知る事ができる。ある地域を危険として警戒することも可能だ。だが、海底において一粒の砂が何かの力を受けて滑り出し、次の砂を押す。この連鎖がどこまで続くか。

どれかの岩に当たって終わるか、それとも、次々と連鎖を繰り返し止まらなくなるのか。最初の砂が落ちた時に、どれほどの地震を生み出すかを知る技術は今の我々にはない。

後からなら、原因がその砂粒であると分かる。しかし、それが起きるまで、それはよくある一粒に過ぎなかったのである。起きる前にその砂粒を特定するのは難しい。巨大地震を起こさなかった砂粒と起こした砂粒に違いはない。

ほんの少し、当たる角度や初速、次にあたる砂の位置が違っただけだろう。ほんの少し、何かが違っていた。その全部が連続して起きた。

だから大きな出来事はべき乗則で起きる。べき乗則で起きるとは、小さな事象が絶えず起きていると言う意味だ。それが巨大化するかどうかは確率的である。

それは地震だけではない、と著者は語る。自然現象も株の暴落も戦争も似たような起き方をする。なぜ戦争が起きるのか。それは知らない。あの敗戦の原因を今も知らぬ。

だが著者の考えを敷衍するなら、たまたま我々が地滑りをする番だったという事になる。もしそこで起きなければ他で何かが起きていた。それではあんまりな結論なので、考えるのを止めたくはない。