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2013年11月28日木曜日

実写版ルパン - 僕のやりたいこと

以下は mixi に殴り書きしている時 (2013/11/27) に生まれたものを書き直したものです。これを書いていて、少しだけプロットというものをキャッチできた気がします。そしてそれが本当に自分がしたい事のようです。僕には何もない所から作品を創造するだけの素養はありません。そこから脚本や小説に仕立てあげる訓練も受けていません。しかしプロットを構成することがすごく好きだという事にやっと気付けたようです。物語を作る事の一端にようやく足が踏み込めるかも知れません。それは誰かが作ったものの上に粘土を塗りつける作業です。もしかしたら他人の褌で終わるかも知れません。それでもこれは道です。


実写版ルパンの位置付け、方針

もともとルパンという作品はアニメの PartII で方向性が完成しており、そのため宮崎駿がカリオストロの城で青ルパンをどれほどオモシロく描こうともルパンの本流にはなれず、やはりルパンの本流は赤ルパンであって、その根底にあるものはこっけいさと思われるし、その滑稽さによって物語は支離滅裂、不合理、ご都合主義になっても、それで押し通せる所がルパンの魅力であり、もちろん実写でそれをそのままやると、単なるこっけいさでは終れず、邦画特有の嘲笑を受ける事になるから、役者はルパンのリアリティをどう作り上げるかが肝であり、そのためにも脚本が重要だが、

『“所有者は世界を統べる”という宝物「クリムゾンハート・オブ・クレオパトラ」と、それを収蔵する超巨大要塞型金庫「ナヴァロンの箱舟」を巡るもの』

というプロットでは要塞に忍び込んで Mission:Impossible のパクリでもやる気ではないかと疑念を抱き、それならルパンでなくてもいいのではないか、もっと相応しい原案があるだろうと、勝手に暗澹たる気分に陥り、今のところ、ルパンと最新テクノロジーの相性は良くなく、次元の拳銃にしろ、五ェ門の剣にしろ、漫画だからね、で許されるリアリティに支えられていて、これをまさかまんま実写で再現する気じゃないよねたぶん、と心配になって、実写には実写の意義とテーマがあるだろう、いや、俺が見たいからとかそんなほら無能丸出しのセリフじゃなくて。

プロット

21世紀に30代のルパンならば、もう三世である必要はないかも知れない。三世の名を受け継ぐ者くらいの設定の方がいろいろと出来る。最初のシーンは薄汚れた路地で貧しくつつましく暮らしているルパン。

そこに依頼がくる。なぜ依頼主がルパンの正体を知っているかを最初の謎にする。依頼の内容がある場所から泥棒する事。依頼人は高貴な感じがある人、おばさん。護衛より凄腕のシーンも見せて謎を深める。

そこから次元、五ェ門にコンタクトを取るのが最初の盛り上がり。次元と五ェ門がどこにいるか、そんな彼らが直面しているトラブルを設定する。冒頭に仲間さがしを持ってくるのは冒険映画の基本。その間にキャラクターの人間性、依頼人、その敵、謎を深めてゆく。ここで伏線も張っておく。

それで全員が揃ったら依頼のために動き出す。ここで不二子が登場、銭形も含めて話しはややこしくなって、一度は裏切りから撤退を余儀なくされる、

そこである謎に気付き、体勢を建て直し、再兆戦して依頼を達成、謎解きもして終わり。

エピローグでルパンがなぜひっそりと生きているのか、普段はどう過ごしているかを見せる。

これが基本的なストーリー。アベンジャーズのプロットに似るか。

基本的に行うのは盗みだけど、それは依頼を受けてやる設定。盗みよりも依頼者の謎の方を念頭に置いて物語を進める。

謎には、依頼主は誰か。盗むものは何か、どうしてそこにあるのか、誰が持っているのか、どれくらい巨大な敵か、そこからどうやって奪回するのか、がある。

銭形がいるから最後は警察の手柄で落ち着かせる。

このルパンでは不二子とルパンの関係をリアリティの鍵にする。

2013年11月23日土曜日

過ぎたるはなお及ばざるが如し - 孔子

巻六先進第十一之十六
子貢問 (子貢問う)
師與商也孰賢乎 (師[子張]と商[子夏]とはいずれかまされるや)
子曰 (子曰わく)
師也過 (師過ぎたり)
商也不及 (商及ばず)
曰 (曰わく)
然則師愈與 (然らば則ち師はまされるか)
子曰 (子曰わく)
過猶不及也 (過ぎたるはなお及ばざるが如し)

そのふたつしか選択肢がないとすれば足りないよりも過ぎた方がましだと考える。ことわざにも大は小を兼ねると言う。それを違うんじゃないかと言う。過ぎたのも及ばないのも同様と孔子は言う。

もちろんこの世界にぴったりと調度いいものは少ない。多かれ少なかれ足りなかったり多かったりする。孔子はどちらも同様と語ったが、では及ばないと過ぎたるではどちらがより及ばないかを語らない。

帯に短し襷に長し。使い道が悪い事のたとえだ。この世のほとんどは過ぎたるか及ばざるかなのだから、どれもこれも使い勝手は悪いものだ。そう思っていれば、盲信も少なくなる。

どちみち及ばざるならば、現状維持もある。優れていると考えるから人はもっと優れたいと考える。それで止まらなくなる。過ぎたれば留まれず。ここでよい、ここが調度よい。そんな場所が分からない。

そういう危うい場所を孔子は中庸と呼んだ。中庸が困難な場所であるならば、過ぎたるは猶及ばざるが如しとは、過剰も不足も両方とも足らないではない。過剰は不足よりもたちが悪いとなる。

人は足りないよりも過剰の方がましと考える。何故なら過剰から不足へは物理的に可能だが、不足から過剰へは不可能だからだ。そういう可能性の問題として過剰は不足よりもましな状況と思う。

それを孔子は否定する。確かに物理的な状況としては過剰の方がよい。しかし過剰は中庸で立ち止まれなかった。そういう人が踵を返し不足へと向えるはずもない。

過ぎたものは中庸を通り過ぎた。及ばないものも中庸を過ぎるかも知れない。しかしそこで留まるかも知れない。可能性がある。

及ばないなら不足しているのだ。それは誰もが分かっている。だから良い。しかし過ぎたものは中庸を超えたのだ。もしまだ及ばずと思っていたら、どうやって立ち止まれようか。

孔子は弟子の優劣を明言しない。及ばず、過ぎたると優劣の問題は関係ないと言いたいのかも知れない。中庸の難しさを思えば、及ばずも過ぎたる同様なのだ。

子貢が聞きました。
子張と商ではどっちが優れた人材でしょうか。
孔子は言いました。
子張は行き過ぎる。
商はまだ足りない。
子貢がそれを聞いて言いました。
それなら子張の方が優れていますね。
孔子がムッとして答えた。
子張はもう方向が定まっている。商にはこれからの可能性がある。どっちがいいと決めつけるなよ。

人を見ずに言葉で決める事を戒めたのだ。

2013年11月15日金曜日

海は悪くない - ヒーローについて

藤子F不二雄のウルトラ・スーパー・デラックスマン。不死身の体を持った小池さんの物語である。コミックに登場する多くのヒーローと同様に彼も正義のヒーローである。ただ小池さんは強すぎた。悪の軍団も国家も大企業も敵ではなかった。軍は核を以って排除を試みたが倒せなかった。この世界から悪は一掃された。訪れた世界は平和のはずだった。

ヒーローの正体を誰もが知っている世界。だが誰も言えない世界。知らない振りをする世界。生きるために。立ち向かっても意味がない。その時、敵を失ったヒーローはどうなるのか。ヒーローは悪を欲する。悪はヒーローを欲しない。一体ヒーローとは何なのか、悪とは何なのか。

聖書に登場する悪は神に聞く。神の許可を得てから行動する。悪の目的は分からない。純粋な好奇心か、神の退屈をまぎらわす相手なのか。試されるのは神の方である。その答えを人に託す。

ヒーローの条件とは何か。悪を決める事か。無償である事か。正義か。敵か。勝利か。ヒーローは観衆を盲目にする。思いを託し重ね合わせる。それがヒーローの万能感になる。誰かでなければ助けられない時、その場所にいた者がヒーローになる。

震災から二年以上が経過した。当初の勇者たちはどこかへ消えてしまった。彼らはヒーローであった。彼らが命を覚悟した事は誰にでも分かった。命を賭すことがヒーローの条件であろうか。彼らは確かにヒーローであった。彼らは戦った。命と引き換えにできる代償などない。あの震災で福島第一原子力発電所の事故と取り組んだ人がいた。津波の被害者を救おうと救助に当たった人がいた。

自らの命を顧みず危険の中に飛び込んで行った人たち。原子炉の暴走を押さえ込もうと踏んばった人、取り残された人を助けようと海に出た人、物資を運んで行った人、仕事を放り投げてボランティアに行った人、ボランティアに送り出した人、それらを支えた人。

誰も一人では立ち向かえなかった。物資があり、蓄積された経験があり、帰る家があって初めて現場に向かう事が出来た。訓練で鍛えぬいた日々があった。完全とは言えなくとも何もないよりかは遥かにましな装備だった。最悪の状況の中で、最悪の装備で立ち向かったがいた。

困難の中、挫けなかった人たち、挫けた人たち、支えた人たち、倒れた人たち、逃げた人たち、迎えた人たち、看取った人たち、100 年以上も前に津波の危険を伝えようと石に刻んだ言葉。刻んだ人たち。どの人が欠けてもこの世界は違っていただろう。今より良かったかも知れない。だが今よりもずっと悪い世界であったろうと思う。どちらしろ今さら引き返せる訳もない。

いまや日当は 15000 円だと言う。中抜きをする人がいる。その程度で十分だと予算を組んだ人がいる。政府に、東京電力に、その下請けに。彼らには彼らの言い分がある。とてもではないが資金が足りぬ。今ここでストップさせるわけにはいかない。彼らには彼らの、彼らが支えている場所がある。

その対価は命を削るにしては安い。とてもでないが命の対価にしては安すぎる。あの恐怖を忘れたか、100 万、200 万で十分と思ったか。それが命の代償か。彼らの決意への報酬がその程度か。これが彼らの仕打ちか。

過酷な作業に従事しながらも生活も心配しなければいけない。生活を支え、家族を支え、地域を支え、町を支え、国家を、この世界を支えるのはお金だ。そういう心配をしながら彼らは死地へと赴いた。送り出すのにその程度の金額か。

勲章は老人の為にあるのではない。彼らに勲一等旭日大綬章を授けばいい。「国家又ハ公共ニ対シ勲績アル者ニ之ヲ賜フ 」。もし勲章で足りぬなら、年金も呉れてやれ、10 年くらいは犯罪も見逃してやれ。特別扱いしてやれ。それだけの事はしたはずだから。

ヒーローには勲章を、そうでなければお金を。

最悪の事態の被害を考えれば、それを食い止めた彼らには、それ相応の対価を受け取る権利がある。

将来、働いていた証拠がないと言う理由で病気の治療を受けられない人も出るだろう。事故収束に携わった人が、お金がなくて苦労した、病気の治療が受けられなかった、では悲しい。

福島第一原子力発電所事故は国家の危機であった。国の壊滅を思った。あの時は想像を絶する最悪が待っている事だけは確かだった。

数万人への賠償が必要となった。東京電力は100年間で返す借金を背負ったようなものだ。もし彼らが 40 兆円のお金を持っているなら、これを 200 万人に配ればひとり 2000 万円だ。4 人家族なら 8000 万円になる。これだけ賠償すれば多くの被害者は許してくれるだろう。それだけ払えばインフレになるかも知れぬが。

東京電力は 2500 億円の賠償を上限とする約束で取り組んでいた。それを反故にされれば彼らにも言い分がある。貧すれば鈍する。賠償をしたくとも金が無ければ出来ない。次第に笑顔が戻った人から受け取るのは遠慮して欲しい、という話になってゆく。

原子力発電所には 40 兆円の保険が必要と考える。これを勘定しなければ原子力発電の電気代にならない。

東京電力は国策の当事者であった。事故の時、たまたま立っていた場所が悪かった。彼らだけの瑕疵ではない。想像力の欠如があった訳でもない。東京電力だけが背負えば済む話しではない。

この場所に発電所を建てた官僚や政治家は既に死んでいるか呆けている。推進した学者もいる。反対した者もいる。彼らに責任がないわけではない。事故が起きた時にどうすればよいかを十分に研究し準備してきた人など皆無であった。政府は手探りで事故収拾するしかなかった。

民主主義では誰も言い訳が出来ない。お互いで支え合っているから。特定の誰かの責任には出来ないし、自分にも責任がないとは言えない。それは等しく他の誰かに責任を押し付ける構造だ。誰かを憎んで先に進む。だれも自分が悪いと思っては生きて行けない。あれだけの事故を起こせば誰も責任を背負えやしない。それは最初から分かっていた。

あの事故は誰の責任か。

誰のものでも。

誰かを助けた人がヒーローになった。

誰かを憎しめば自分を責めなくて済んだ。

確かな事はヒーローも、憎しみを受けるのも

どちらも人間にしかできないと言う事。

誰かが悪いわけではない。

誰かに負えるものでもない。

誰かが解決するものでもない。

地震が来るのが早すぎたのだ。

それだけの事。

誰の責任か。

海か?

いいや海は悪くない。

答えは決まっている。

そうしなければ誰も生きていけないのだから。

自分以外の誰か。

そう、海は悪くない。