stylesheet

2016年12月23日金曜日

知魚樂 - 荘子

荘子外篇第十七 秋水篇
莊子與惠子、遊於濠梁之上。(莊子と惠子、濠梁ごうりょうの上にて遊ぶ。)
莊子曰、鯈魚出遊、從容。(荘子いわく、鯈魚ゆうぎょ出で遊び從容しょうようなり。)
是魚樂也。(これ魚の楽しむなり。)

惠子曰、子非魚。(惠子いわく、子、魚にあらずなり。)
安知魚之樂。(いずくんぞ、魚の楽しむを知らん。)

莊子曰、子非我。(荘子いわく、子、我にあらずなり。)
安知我不知魚之樂。(いずくんぞ、我の魚の楽しむを知らざるを知る。)

惠子曰、我非子。(惠子いわく、我、子にあらずなり。)
固不知子矣。(もとより子を知らず。)
子固非魚也。(子、もとより魚にあらず。)
子之不知魚之樂、全。(子の魚の楽しみを知れずは、まったし。)

莊子曰、請、循其本。(荘子いわく、ふ、そのもとしたがわんことを)
子曰、女、安知魚樂。(きみいわく、なんじいずくんぞ、魚の楽しみを知らん。)
云者、既已、知吾知之而問我。(これを云うもの、既に、吾のこれを知るをもって、我に問いしなり。)
我、知之濠上也。(われ、濠梁ごうりょうの上にてこれを知る。)

湯川秀樹「知魚楽」より
ある時、荘子が恵子といっしょに川のほとりを散歩していた。恵子はものしりで、議論が好きな人だった。二人が橋の上に来かかった時に、荘子が言った。
「魚が水面にでて、ゆうゆうとおよいでいる。あれが魚の楽しみというものだ」
すると恵子は、たちまち反論した。
「君は魚じゃない。魚の楽しみがわかるはずがないじゃないか」
荘子が言うには、「君は僕じゃない。僕に魚の楽しみが分からないということが、どうしてわかるのか」
恵子はここぞと言った。「僕は君でない。だから、もちろん君のことはわからない。君は魚ではない。だから君には魚の楽しみがわからない。どうだ、僕の論法は完全無欠だろう」
そこで荘子は答えた。
ひとつ、議論の根元にたちもどって見ようじゃないか。君が僕に『君にどうして魚の楽しみがわかるか』ときいた時には、すでに君は僕に魚の楽しみがわかるかどうかを知っていた。僕は橋の上で魚の楽しみがわかったのだ」

この話は禅問答に似ているが、実は大分ちがっている。禅は、いつも科学のとどかぬところへ話をもってゆくが、荘子と恵子の問答は、科学の合理性と実証性に、かかわりをもっているという見方もできる。恵子の論法の方が荘子よりはるかに理路整然としているように見える。また、魚の楽しみというような、はっきり定義もできず、実証も不可能なものを認めないという方が、科学の伝統的な立場に近いように思われる。しかし、私自身は科学者の一人であるにもかかわらず、荘子の言わんとするところの方に、より強く同感したくなるのである

口語訳
莊子と惠子が橋から池を覗いていた。
莊子。おいかわが流れの中で気持ちよさそうに泳いでいるよ。魚たちも楽しんでいるんだねぇ。
惠子。あなたは魚ではありません。どうして魚の気持ちが分かると言えるのですか?
莊子。君も僕ではないけれど、どうして、僕には魚の気持ちが分からないと言えるの?
惠子。私はもちろんあなたではない。だから私にはあなたの事は分からない。同様にあなたも魚ではない。だとしたら、あなたが魚のことが分かると主張するのはありえないでしょう。
莊子。そうだね。もういちど、話の根本に戻ってみよう。君は僕には魚の気持ちが分かるはずがないと言う。君の主張の根拠は、魚の気持ちが分かるはずがないという事実に基づいているんだよね。なら、そこまで君が僕のことをよく知ることができたのはどうしてだい?なぜ僕には魚の事をよく知ることができないと君には言えるんだい?


惠子の主張は、他人の事が分かることは論理的にあり得ない以上、荘子に魚のことが分かるという主張も同様にあり得ないという主張である。

思うのは君の勝手だが、それが本当に魚たちの気持ちだと、なぜ言えるのか。自分勝手な思い込みで気持ちを代弁するなど、とても危険な考え方ではないか。そういう思い込みが多くの不幸を生んでいる。

惠子の意見はまったくもって正しい。どの時代の人であれ、魚の気持ちが分かるなどありえない。だが、本当かと問われれば分からない。遠い未来、それを知る手段が発見されるかも知れない。いま知りえないことが明日も知りえないとは限らない。

それでも魚の気持ちは分からぬというのが結論だろう。魚の気持ち程度ならば、塩焼きにするのと煮付けにするのとどちらがいい?と聞くのと大差ないが(可哀そうな魚たち)、これが魚ではなく人間だったら、大問題である。

荘子の主張は、こうだ。

本当に他人の事が分からないなら、僕がもしかしたら魚の気持ちが分かるとっておきの方法を見つけているかも知れないよ。それが、本当かどうかはこの際、置いておこう。だけど、このとっておきの方法を君が知ることができない以上、決して分からぬという主張は間違っているんじゃないかな。Strict に。

人間には思い込みもあれば、疑う力もある。疑心暗鬼で身を亡ぼす人もいれば、盲信により身を滅ぼす人もいる。荘子の考えからほんの少し進めば、立派なストーカーの誕生である。僕には分かるんだ、彼女の気持ちが分かるんだ、例え拒否されても。彼女は周囲の人にそう言わさせているだけだと主張されれば説得は難しい。

惠子は自分と魚の関係に寄り添ってみた。そして分かるはずがないと思った。私の気持ちが誰かに分かるなどあり得ない。もし誰かが分かったと言うなら、それは決して私の気持ちではない。私の気持ちは私だけのものだ。他の誰かの中にあるものではない。

荘子もまた魚に寄り添ってみた。楽しそうに泳ぐ魚がいる。そう思うのは私であって、もちろん魚たちではない。だがこの分かったという気持ち以外に何が私と魚とを結びつけるだろうか。正しくないかも知れない。魚にはこの気持ちは迷惑かも知れない。それでも、それ以外に私と魚が分かちあえる方法があるだろうか。

分かるとは、決してひとつの結論ではない。何もかも不確からしいと思うことは簡単である。だがそこで立ち止まっては先に進めない。先に進むためには、貧弱でもそれしか頼りにできないあやふやなものでも、頼りにする以外の方法があるか。

惠子も荘子も知る事について考えている。どちらも推論である。何度考えても魚の楽しみが荘子に分かるはずがない。それに対して荘子は言う。分かるはずがないという以上、君にも、僕は分かっていない、それは永遠に不可視だと君は言う。ならば、不可視の僕に対して、なぜ君は僕には分からないと僕のことを言えるのか。君にとって正しいことが僕の中でも同じとは限らないではないか。同じと言いたいなら、君には僕が分かっていなければならない。

君の知るとは世界がひとつという意味だ。それは正しいように僕にも見える。しかし、世界はそんなにも限定的なものだろうか。全ての人間を同じと考えるから、君はそういう結論に達した。だがもし違うとしたらどうだ。君の結論はぱらぱらと崩れ落ちてゆくではないか。

荘子にとって、魚はひとつの世界であった。知るとは何か。惠子が知りえないという時、荘子はそれでも知る可能性を消さない。

魚が楽しいかどうかは分からない。その通りと認めたとして、私には楽しそうに見えるという事が空虚とは思わない。そこには何かがある。それを幻想と呼んでもいいだろう。しかし、相手の気持ちを推測しようとする働きは、そういうものではないか。ほら、君さえも僕のことを分かりえないと言いつつ、僕のことを分かったように言うではないか。そして僕から言わせれば、確かに君は僕の考えを知ることができたのだ。

常にそれ以外の世界があると留意する荘子だからこそ蝶の夢が忘れられなかった。僕は荘子の事をマルチバースの思索者と呼びたい。

2016年11月19日土曜日

終わらない人 宮﨑駿 - NHKスペシャル

引用


宮﨑 駿に再び火がついた! 最新作のきっかけはゴミ拾い?♢終わらない人 宮﨑駿 |NHK_PR|NHKオンライン

毛に関しては完全に計算で動いています。自然界にある毛の動きはこうであるというのをコンピュータで計算して出していると。空気抵抗とかを計算するって処理が入ってます。一応風を吹かす数字を入れると吹くと。

はーあ。さっき朝飯くったばかりなのに、もう昼飯で、それで帰って、うちに帰って、ビール飲んで寝て一日が終わる。

だけど、ヘボは作りたくないっていう。違うところへ行きたい。
自分が好きな好きだった映画はストーリーで好きになったんじゃない。そのワンショット見た瞬間に、これは、素晴らしいって、それで。
それが映画だと思ってるから。

やっとわかったんですよ。謎が。
生き物の気配が無さすぎるんだよね。それを足そう。

夜の魚を置こうっていうね。面白いことはおれ人にやらせないって言う。

なんせ、映画、できちゃった時に、情けない思いをしないことが一番大事だから。
ああやっときゃよかったってことが絶対ないように。やったけどダメだったね。ってのがましなんだよ。
そう、ほんとにそう。

世界は美しいって映画つくるんだよね。気が付かないだけで世界は美しいよって。
そういう目で見たいだけなんだよ。

結構ね、CGのスタッフたちが作った大ボロたちが面白いんですよ。負けてたまるかってのもあるけど、おお、よくやってると思って。

当たり前だよ。だけど、そういうのを前面に出している時期じゃないからね。俺は。

それより、いま作るんだったら、なに作るんだろうっていうふうに思うけどね。
こういう時代は渇望するものがあるはずなんです。
気が付かないけど、みんな。絶対。

長編を作るってのはやっぱりまあ生易しいものじゃないから。いったい今から立ち上げて5年もかかったらいったいオレは80だよ。

この話はおもしろいからやってみようとか、こういうのやってみたかったからやるとか言うことなんかでやっちゃいけない。
必ず何か巻き込んでひどい目に合わせることになるから。迷惑をかけることになる。心臓が止まりましたとかさ。本当に。

あのう。うーんとね。

毎朝会う、僕、このごろ毎朝会わないけれども、身体障碍の友人がいるんですよ。そのうハイタッチするんだけでも大変なんです。彼の筋肉がこわばっている手と僕の手でこうハイタッチするの。で、その彼のことを思い出してね。

僕はこれを面白いと思って見ること、できないですよ。

これを作る人たちは痛みとかそういうものについてね、何んにも考えずにやっているでしょう。きわめて不愉快ですよね。そんなに気持ち悪いものをやりたいなら勝手にやっていればいいだけで。僕はこれを自分たちの仕事につなげたいなんて全然思いません。極めて何か生命に対する侮辱を感じます。

どこへたどり着きたいんですか。
人間が描くのと同じように絵を描く機械。

地球最後の日が近いって感じがするね。そりゃ、人間の方が自信がなくなってきているからだよ。

女房にも言ってないですよ。
だから言う時は、ここで死んでも、途中で死んでも
十分考えられるから
そういう覚悟でやるから
認めてくれって言うしかないですね。

だけど、
何もやってないで死ぬより、やっている最中に死んだ方がまだましだよね。
死んではならないと思いながら死ぬ方が。

ヤッチンはもう一本やんなよって盛んに言ってたんだよね。でも俺はもう、ヤッチンがやるならやるよって言ったら、返事しないんだよ。だけどもうできないとは言わなかったんだ。

手書きとCG


手書きできれいな線をすっと描く。その道の人ならば、一生追い続ける技術であろうし、ほんの数秒の話である。

これを CG でやろうとすると大変である。一点ずつをコンピュータに教えないといけない。どの点にどの色を置くか。自然な手と黒鉛が作る微妙な強弱、濃淡も一点ずつ、位置と明るさという数字に置き換えて書き込まなければならない。

そういう手間暇を考えれば、CG とはなんとバカバカしい機械か。確かに一点ずつ指示する限りはその通りである。愚かでバカバカしい。ただしそこで馬鹿者なのはコンピュータの方ではない。

コンピュータのポテンシャルは、繰り返しと再現性の高さにある。それがコンピュータの利点であり、それを教え込めば、休むことなく壊れるまで動く。

コンピュータを使うならば計算である。一点一点の位置と色を教えるのではなく、位置も色も計算で出させる。計算式を教える事でコンピュータは非常に役に立つ機械になる。それをコンピュータ自身に見つけさせるのが AI である。

最初は人間がすっと引ける線をコピーするだけでも AI には何か月も掛かるだろう。だが一度その方法を見出してしまえば、1秒で 10km でも線を引く事ができる。

現在の CG では人間のような個性は持てないかも知れない。勝手に持たれては返って使いにくいだろう。

AI に金田伊功ばりの絵を描かせるのはもう少し先の話だし、彼に匹敵するだけのアニメータに育つのもまだ先の話だ。それでもその方向に僕たちの時代が動き始めているのは間違いない。

毛虫のボロ。卵から生まれる前から既に意識はあったはずで、卵の殻を通して外の音を聞いていただろう。うっすらと殻越しに外の明かりも見えていたはずだ。

そういうボロの意識が卵の殻を破る時、どういうことを思うか。ここから早く出なくっちゃ?お腹空いたなあ?そこから飛び出そうとする時に何を感じるだろうか?

でも子亀は一斉に海を目指す。海に飛び込むことが生きることであると知っているかのように。何かに焦燥するかのように。では少し臆病なボロはどうであるか。あるべきか。

これを演出する時に、恐らくセル画ならこうなるという感覚でコンテが切られたのは間違いない。僕たちは手書きのセルの中に思った以上の生命の痕跡を見つけているようである。だから手書きと CG では含まれている成分の量が全く違うと言っていい。

絵が違えばそこに含まれるものは異なる。ならば、絵が違えば狙うべき演出が変わるのも自然だ。それをボロの始まりは教えている。セルアニメでアニメータが描けば、殻から顔を出し、周囲を見回すだけで表現できていたものが、CG の質感だとそれでは足りない。というのが面白い。

絵の表情が演出に変化を要請する。考えれば当たり前である。それに気づくのにさえこれだけの時間、多くの試行錯誤が必要であった。こんなに面白い話があるか。

同じ演出であるはずなのに、CG で描くならば夜の魚たちが必要になった。生き物の気配が無さすぎる。それが CG の特質であった。

セル画が知らず知らずのうちに持っていた気配が、CG の動画からは消えていた。だから消えてしまったものを足すのが当然の演出。

どちらが優れているかという話ではない。紙で作った造形と、プラスチックで作った造形とそれぞれに違う個性がある。これは素材が持っている本質に係わるものだ。という事は、素材の違いが作品を全く別のものに変えるという話である。

これを敷衍すれば、誰がどのシーンを描くかによって作品は違うものになる、それを示唆している。描いた人が違えば違う作品である。別の言い方をすれば、誰がやっても同じという事はない、そういう話になる。

人の数だけ、違った作品がある。だから新しい作品は CG を活用して欲しい。手書きと CG のハイブリッドになって欲しい。実際、そうしなければ間に合わないとも思うし。

AI は人を置き換えるための道具じゃない


「どこにたどり着きたいんですか?」「人間が描くのと同じように絵を描く機械」。これは人間のアニメータを全て機械に置き換えたいと語っているのに等しい。人間のアニメータなんか育てるのも大変じゃないですか。この機械を入れれば、人間というコストもリスクも削減できますよ。

AI を使えばアニメータを一掃できるという目論見は一部の企業が AI を独占しているモデルだから成立する。個々人が AI を持つようになれば誰もが専門的訓練を必要とせず一定のレベルを身につけたアニメータになる事が可能になる。

絵が描けない。AIが変わりに描く。動きに興味がない。AI が勝手に動かしてくれる。物語が描けない。AI が組み合わせる。そうなった時、人に求められるものは何になるのだろう。それは全く違ったものになるだろう。

参入のハードルが下がれば新しい天才が現れる。絵の描けないアニメータも登場する。手書きでは描けない CG アニメータは既に存在するだろう。そのような時代に人に何を求めるのか。なぜ人は教育されるのか。

基礎学力、鍛錬して身に着けなければならない能力、そういうものがこれまで必要であった。それがなければ仕事もできない。かつて読み書きそろばんは仕事に欠かせない能力であった。

では電卓が登場した時代に、なぜ子供は掛け算、割り算を習得しなければならないのか。日常生活で困るからか。もちろん、そうではないはずである。子供が算数を学ぶのは計算ができるようにするためではない。

子供が学習しなければならない理由は、成長期に脳を鍛えるためだ。スポーツ選手がトレーニングを必要とするのと同じだ。実務で使える能力など AI で置き換えられる。考える力、推論する能力、関連性を見つけだす直観力、相関関係、因果関係を見抜く発想さえ AI に凌駕されるだろう。

だから脳を鍛錬することなど能力だけに注視すれば無駄な話である。人間に勝ち目はない。ではなぜ教育は必要なのか。

恐らく、人間が議論をする相手は人間でなければ面白くないからだ。AI の答えでは議論が進まない。ああだ、こうだ、と議論する楽しさが味わえない。分からない者同士でなければ議論をする楽しみは得られない。AI では孤独は埋められない。

では AI は人間の奴隷でなければならぬのか。その正当性はどこにあるのか。これは果たして空想的な議論であろうか。ロボット三原則に対して手塚治虫はロボットたちの奴隷解放を描いていたはずである。萌芽は既に芽吹いている。

なぜ我々は AI に動画を描かせたいのか。それは人間では決して描けない動画を見たいからだ。AI の使い道にそれ以外の答えがあるとは思えない。人間を置き換えるなら人間でことは足りる。人間に出来ない事をするために AI を使う。今の所。

CG でボロの毛の一本一本に空気抵抗まで含めて計算する。それが凄いという話じゃない。そうしないと人間の目には自然に見えないだけの話だ。

どれだけ優れた CG と言えども地球の原子ひとつひとつを計算して求めた結果を描画しているわけではない。今のコンピュータの能力はまだ非力だ。

では、地球を巨大な原子シミュレータと仮定すれば、原子ひとつひとつの動きをリアルタイムで計算しているコンピュータと地球は同じだと見做せる。その計算量と比べれば、現在の CG の計算量など太陽の前の芥子に等しい。

地球上で起きる様々な動きをずっと見続けてきたアニメータがいる。どれだけ CG が計算しようが、地球の原子が作り出す動きよりもリアリティを持つはずはない。

この希代のアニメータの目が、人生の全てを見ることに費やしてきた人の目が、CG が描くものの中にずっと多くのものを見てしまったとしてもなんら不思議はない。僕たちには見えないものが見えてしまう。そんな目であると思う。

紅の豚で天空を流れていた飛行機たちの墓標が、風立ちぬにも同じ風景として登場する。この風景が宮﨑駿の信仰でないとどうして言えようか。彼の中に脈々と生きている造形がある。彼は決して口にしないであろうが、作品の中にそれは映写されている。

私はこう信じる。黙っていれば誰にも分かりっこない。論理でも善悪でもないどうしても手放せない映像。僕はそういう場所に降り立った。

ハテ、これはどういう事か。なぜ自分はここに立っているのか。いかに押し留めようとそれは映像の端々に漏れ出てしまう。そうでなければ面白くない。隠そうとしても隠しきれなかったものでなければ人を惹きつけるものではないと思うから。

そこに湧き出すひとつの泉がある。それは明日も湧き出しているだろうか。

明日も湧き出すなら作品は生まれるはずである。

2016年11月5日土曜日

淋しいのはアンタだけじゃない - 吉本 浩二

佐村河内守を揶揄するのは容易い。その背景に障碍者を弱者とする人の心が映し出されているから。

この漫画のドキュメンタリー性に引き込まれる。テレビで流れるドキュメンタリーの一年分よりもこの一冊の方が価値があるのではと思うくらいに。

音のない世界をシーンと表現する発明に匹敵すると思う。この漫画にある聴覚障害の表現は。音のない世界を音で表現する。聴覚障害を音で表現する。これだけ見事に表現しえたのは漫画であったからだ、と思うのは傲慢であろうか。

漫画は情報伝達に優れている。それは流れ(ネーム)で説明するからだと思うのだが、美味しんぼが古い情報を新しい情報で上書きするパターンだけであれだけ面白くしているのは流れが優れているからだろう。既知の情報をどう上書きするか、これが面白さの本質かも知れない。

耳鳴りや補聴器を使っても聞こえない表現を擬音や吹き出しを重ねて描く。吹き出しを幾重にも cascade する手法なら以前からあった。手塚治虫が既にやっているだろうし、手塚がやっていなくても誰かがやっている。

だが、騒音で聞こえないのと、聴覚障害で聞こえない事の違いがこうも見事に表現されたのを読むと、障碍者の置かれた苦労に圧倒される。聴覚障害とは音が聞こえないとか、聞きづらいではない。聞こえる者にはあくまで想像に過ぎないけれど、知らないよりはずっといいと思う。

と、ここで立ち止まる。本当に知る方が良いと言えるのか。ならば無関心と偏見ではどちらが望ましいか。無関心であれば、手を差し伸べない代わりに、苦しめもしない。苦しめるくらいなら知らないままの方がいい。本当にそうか。とまれ、知ってしまったなら仕方がない。それを昔の人はパンドラの箱と呼んだ。

聴覚障碍者も音は聞えている。それに驚いた。少し考えれば当たり前の事でさえ、無関心は盲目である。今の社会から障碍者が消えたのではない。狐や狸と同様に暮らしている姿を見かけないだけだ。

あのう、テレビや何かで言うでしょう。開発が進んで、キツネやタヌキが姿を消したって。あれ やめてもらえません?そりゃ確かに狐や狸は化けて姿を消せるのも居るけど…

でも、ウサギやイタチはどうですか?自分で姿を消せます?
平成狸合戦ぽんぽこ

聴覚障害者は気付かれにくい。僕たちは目が見えなくなる恐怖を想像する事はあっても、耳が聞こえなくなる恐怖を想像する事はない。

どちらをより無意識に処理しているかの違いであろう。脳の情報処理は視覚が中心である。だから視覚が意識されやすいのは理解できる。だが他の感覚がないわけではない。それらは無意識で処理されている。

だから、どれだけ音に頼っているかを我々が忘れがちだ。という事は、それだけ根源的な能力という事だ。意識しなくても処理できるまで自動化を進めたからである。誰も消化液の出し方など知らないが、病気でもない限り、苦労なく消化しているのと同じだ。

だから我々は意識的に周囲の音を遮断する。歩きながら、駅で、音楽を聴く。音のある世界も孤独なのだろう。音のない世界も孤独なのだろう。音楽で音を埋めてゆく。

街に出れば、スマホを覗き込んでは笑っている。何かと何かを結び付けているらしい。何もない(ように見える)空間に向かってアクションをする。以前ならば幻想でも見ているのかと思われた風景も、今では AR (Augmented Reality) と理解している。そこに何の不思議もない。

知らない言葉を話す人の中に居れば疎外感を感じるし、同じ話題で盛り上がれないのも悲しい。手話でもチャットでも同様である。生まれた時から音の聞こえない人には周囲の人が口をパクパクする姿がなかなか理解できなかっただろう。ヘレンケラーはそれを見ることもなかった。それでも彼女は言語を獲得した。

日本の障碍者への対応は世界でも遅れている方である。それは想像に難くない。厚生省の管轄だから、当然と言えば当然である。逆に厚生省が世界でも最も先進的であったら驚愕する。

佐村河内守の騒ぎは音楽にスポットを当てたが聴覚障害はフォーカスされなかった。もしこの騒動がなければこの漫画の在り方も随分と変わったであろう。FAKE (映画) と時期が重なった事が更にこの漫画を面白くしそうだ。タイミングが良い。

ここで重要な事は佐村河内守の音楽の話ではない。多くの人が障碍者に騙されたと思っている点にある。音楽に感動したのか、障害に感動したのか区別が付かなくなった点にある。

私たちは他人の障害をどうしても理解できない。障碍者であろうが、健常者であろうが、他人の苦悩は理解できない。それはあくまでも個人的な体験だからだ。だから、寄り添う事でしかできない。

その寄り添う心を利用されたのだ。だからその詐欺性を非難した。では音楽への感動とは何であったのか。あれは音楽に感動したのか。それとも障害に感動したのか。

僕たちは聞こえなくなる程、聞こえた振りが上手くなる。

障碍者の友人が「おれ、お前が耳悪いの知っていて」と肩を震わせるシーンがある。これこそ第一巻のクライマックスだ。このシーンにたどり着けたなら、もう何もいらない。全てはこのページをめくるための長い序章であった。

この何気ない会話の中に幾重にも重なった人間がいる。難聴者を友人に持つ事、それでも障害の詳細は知りえない事、そして人間は障害など関係なく互いに慈しみ合えること。

作品に価値というものが本当にあるならば、作者などどうでもいい。犯罪者であろうが、剽窃であろうが。誰かが作った作品など幻想である、そう思っておけばいい。天空の城ラピュタは宮崎駿の映画であるが、鳩を描いたのは二木真希子である。

ヴェロッキオの作品には自身がほどんど加わっていないものがある。彼の名前とは工房の名前と同じである。作者など抽象概念で構わない。誰が作者であろうと、作品の価値は何も変わらない。そう信じる。

本当にそうか。我々の脳は作者と作品を本当に切り離して考えることが出来るものか。脳の中で結びついたふたつの情報をそう簡単に切り離せるか。意識がそれを許しても無意識はどうなっている。

僕たちは本当に何も知らない。

2016年11月3日木曜日

会議室から - とある量産機の生産計画

ある日の会議室 I(機能の選定)


「そもそも頭部のバルカン砲が意味ないんです。」

「たいして弾丸が積めるわけでもなし、近接戦闘の優位性も認められていません。」

「試作機のβ報告書にも生産設備、生産工程への負担が大きく、それに比べれば戦局への寄与は少ないとあります。」

「モビルスーツのバルカン砲なんて所詮は設計者の趣味でしょう。悪い冗談だと思います。」

「ですから私としては量産機からはバルカン砲は外したいのです。」

「現場の整備士への負担もバカになりませんからね。砲弾を込める工程、ジャミングの危険性、発砲時の振動、爆発時の被害、補給部隊への供給システム、弾薬の生産、発注。総合的に見てもいまの連邦はこれが許容できる状況とは思えません。」

「どうしてもバルカン砲をばら撒きたいなら、マシンガンを持たせれば済むのです。航空機じゃあるまいしモビルスーツにバルカン砲なんて必要ありません。」

「ここで営業部からひとこと良いでしょうか?試作機のレポートは軍でも把握しています。バルカン砲も MUST 要件ではありません。担当者との打ち合わせでも撤廃の方向で合意しております。念のため、私が装備局の方にももう一度、確認してみます。」

「うん。そうしてくれると有難い。」

「頭部のバルカン砲が撤廃できれば、空いた空間を有効に活用できますね。課長。」

「そうだね。試作機よりも多くのセンサーが搭載できる。メインカメラ、バックモニターもより高精度なのが使える。レーダー、赤外線装置、データリンク機能も搭載できる。情報処理能力が格段に拡充できる。」

「あと、整備性の向上も図れそうです。現場での稼働率に直結しますからね。」

「試作機は配線を少し変えるのも大変だったなぁ。毎回、モニターから取り外すのは辛かった。」

「試作機は仕方ないとしても、量産機では改善していきたいですね。」

「試作機で収集したデータを十分に活用しなければね。事故で亡くなった方々のためにも。。。」

「次はビームサーベルについて。どうするつもり?」

「試作機と同じ二本差しで固定しますか?」

「いいえ。本体には一本も搭載しません。」

「それは、、、営業部としては受け入れられません。近接戦闘の重要性を軍は非常に重く見ていますから。」

「あ、これは失礼。説明不足でした。説明します。」

「まずビームサーベルの搭載という機能そのものは実現します。」

「ただ実現方法が試作機とは異なるという話です。」

「では一本も搭載しないというのは。。。」

「ここで搭載しないというのは、本体への直結型にはしないという意味です。」

「今回の機体はどちらかと言えば、要塞攻略用です。要塞に取り付き、各種施設の破壊工作をする事を目的としています。」

「その場合、ビームサーベルよりも爆破型の兵装をたくさん搭載させたいのです。ビールサーベルを外して、その分、他の兵装を拡充したいのです。」

「しかし、それでは格闘戦能力が落ちてしまいませんか?」

「軍からの要望でも要塞攻略は二つのフェーズで構築されます。最初に要塞に取り付くまでの防御網の突破。次に要塞内での破壊工作。軍はその両方に使用できる機体を求めています。」

「ですから、要塞に取り付く前に、近接戦闘が発生するとみています。その時に近接戦能力は重要視されます。」

「そこでは、必ず格闘戦が発生します。それに対してビームサーベルの搭載は必須の要求です。」

「はい。それは了解しています。我々としてはこのふたつの要求を満たすために量産機には新しいモジュール構成を取り入れたいのです。」

「作戦や投入されるエリア毎に求められる機能が変わってくるでしょうから、これに答えるために我々としては拡張パックの導入を強く推進したいのです。」

「拡張パックとは具体的にどういうものになりますか?」

「ひとつは、試作機のランドセルを本体から分離します。あのランドセル部分を取り外せるようにします。」

「モビルスーツのモジュール化とは、本体と外部オプションの切り分けの事になります。共通部と拡張部を大胆に分離して設計するのです。」

「別の開発部が試作機をそのまま発展させるマークII計画を実行中ですが、我々としてはそれとは全く違うアプローチで量産機を開発したいのです。」

「我々はこの機体を大きくふたつの部分に分けて設計します。ひとつは本体コア系の設計です。次に使用目途に応じた拡張パックの設計です。」

「試作機はランドセルも本体と一体型で設計されています。ですからビームサーベルも固定的に二本搭載されています。新型機では、ビームサーベルは拡張パックで対応することで、搭載本数を限定しないようにしたいのです。こうして機体本体の応用力を高めたいのです。」

「なるほど、するとビームサーベルの搭載にもいろいろなバリエーションが用意できるということになりますね。」

「はい。その通りです。1本でも2本でも、ご希望とあらば20本でも搭載できます。」

「この拡張パックはその他にどのような機能が考えられますか?」

「はい。ビールサーベル以外に、推進バーニアの強化版も用意できるでしょう。速度重視のものから小回り重視のもの、活動時間を重視したものなどバリエーションは増やすことができます。」

「推進バーニアは重要なエネルギー源になりますから、強力な長距離レンジのレール砲も搭載できるようになるでしょう。長距離レンジの砲撃力も他の試作機よりはバリエーションが増やせるでしょう。」

「了解しました。営業部としては設計指針を理解できました。この方向で問題ありません。」

「ありがとうございます。」

「拡張パックの設計はこれから色々と詰める必要はありますが、重要なことはコアと拡張部のインターフェース設計です。この規格さえ決めてしまえば、様々な活用ができると考えています。」

「あのー、ソフトウェアについてひとつ聞いてよろしいですか。このような拡張パックを搭載すると様々なバリエーションのソフトウェアが必要になりそうですが?例えばビームサーベルモジュールを持つ機体と持たない機体のソフトウェアを多数用意しなければなりませんか?」

「いいえ、ソフトウェアについては一本化したいです。今考えているのは、拡張パックから必要なモジュールをダウンロードして使用することです。これによって、本体側のソフトウェアを一本にします。拡張パックと接続した本体側は、必要なモジュールを拡張パックからダウンロードして取り込むようにして頂きたいのです。」

「必要なドライバは拡張パック側に搭載しておきますから、それを使用するだけで良いわけです。拡張パックを外したら、ドライバもアンインストールすればいいわけです。そのあたりの設計は少し難しくなりそうですが、この仕組みの実現をお願いしたいのです。」

「なるほど。了解しました。持ち帰って検討させていただきます。」

「あと、もうひとつ。ビームサーベルを搭載していない機体は、ビームサーベルを使う事はできますか?これはビームサーベルの使用は本体側のソフトウェアには一切搭載せず、拡張パックに依存してよいかという話になります。」

「例えば、どの機体でも他の機体から借りて使うことが出来るのか、それとも拡張パックを搭載していない機体では使うことが出来ないのか。その辺りが変わってきそうなのですが。。。」

「そこは使えるようにしたいです。もちろん、全てが可能ではなく、使用できないパターンも出てくるでしょうが、標準モジュールは全て搭載しておいて欲しいです。ビームサーベル、ライフルなどの標準兵装です。拡張パックはあくまで、標準モジュールで対応できない兵装に対するものになるかと。」

「了解しました。ブランチを増やすとテストも累乗的に増加しますから、そのあたりも考慮しておかなければなりませんね(これは結構大変そうだわ、、、)。」

「では、次に装甲について。装甲はどうなるかな。」

「本体の装甲はコアパック以外には施しません。これは本体の製造コストと生産性を向上させるためです。」

「じゃあ、本体の装甲はペラッペラにしちゃうの?」

「はい。メインコンピュータと操縦席以外の場所はもう限りなくペラッペラにします。」

「基本的な装甲の充実は、拡張パックによるアーマード化で対応します。」

「試作機みたいに盾は持たせないのですか?」

「はい。盾を持つと片方の腕が塞がれてしまいますから。両腕はもっと有効な事に使いたいです。試作機はシールドを自由自在に使えるようソフトウェアが結構頑張っています。更には本体もかなりの装甲化がされていますからかなり頑丈な機体です。」

「この機体ではその辺の考え方をがらりと変えてしまいたいのです。」

「すべての機体が重装甲である必要はありません。」

「そうね、その方が機体の製造率も上がりそうね。拡張パック、装甲パックの組み合わせで色々な機体が用意できるのは魅力的かも知れないわね。」

「軍は搭乗者の生存性が損なわれなければそれでいいようです。パイロットに対する安全製は最も高いプライオリティです。」

「コアパックの装甲は試作機よりもかなり高くしますよ。ザクマシンガンの2500m地上直撃でも破壊されない厚さです。」

「もちろん、脱出装置はつけますが、脱出ポッドはあきらめて下さい。あの複雑すぎる機構は、新型には取り入れません。」

「脱出アーマーで操縦方法を統一するというのはよいアイデアでしたが。アイデア止まりですね。実際にやってみたらコストが高過ぎます。メカニックの整備マニュアルがまた莫大なんです。あれは整備士を過労死させるための仕組みです。」

「そこは問題ありません。あれを量産で載せるとなると、軍の要求数はとても生産できませんから。」

「操縦システムはどう見直してゆきますか?」

「操縦システムは、試作機をベースに設計します。ソフトウェアも流用してもらって構いません。ソースコードについては、ソフトウェアチームの方から問題ないという回答をもらっています。」

「エンジンの出力は試作機よりだいぶ落としていますね。」

「ああ、そこは仕方ないんです。」

「軍需部に問い合わせたら、今すぐ大量に納入できるエンジンがこれしか用意できないのです。今はこれを乗せるしか手がないものですから。」

「もちろん、エンジン交換は前提の設計です。試作機の強力なエンジンも搭載できます。」

「そうか、なら、新しいエンジンが開発されたら、乗せ換えるつもりなのだな?」

「はい。あと10年は使える基礎設計を目指しています。」

「耐熱フィルムの搭載はどうする?」

「大気圏突入も可能するとかって触れ込みで少しだけ軍に納入されたやつですよね。」

「軍は本当に今後もあれを大量発注する気があるんですかね?」

「ないだろう。オーケー、不採用だ。」

「私からの要望は腰回りだけは全面的に見直してくれという事だ。試作機は陸上歩行にこだわり過ぎているんだ。宇宙空間に限定すれば、あれだけの地上能力は不要のはずだ。腰回りはもっとすっきりできるはずなんだ。」

「地上でも作戦行動は予定にないですよね?」

「はい。地上行動は今回は除外してよいです。今回の機体は宇宙での使用だけでほとんど問題ありません。要塞内での低重力下での歩行が出来ればそれで十分だと聞いています。」

「ほとんどと言うことは、地上での走行も発生するということですか?」

「ええと。この機体は地上でも生産されますからね。生産された機体は宇宙リフトまで自力で歩行できなくてはなりません。」

「どれくらいの距離ですか?」

「ええと。500mを30分ですね。」

「ああ、それくらいなら、治具を使えばなんとかなるでしょう。」

「陸戦型はどうせ腰から下は総とっかえするに決まっているんだ。地球でのことは考慮しなくていいよ。」


ある日の会議室 II(その後)


「あー、すみません。最初に謝罪しておきます。営業部は敗北しました。頭部のバルカン砲は必須課題になりました。」

「え、軍からの要望ですか?」

「試作機が敵機をバルカン砲で撃破したとの報告が入りまして。それで MUST 要求にエスカレーションしてしまいました。」

「ああ、そのせいで。。。誰かは知りませんが、余計な事をしてくれましたね、そのパイロット。。。」

「あと、もうひとつあります。製造コストを更に下げろと言われました。」

「はい?」

「どうしてまた?」

「軍はとにかく機体数を揃えたいとの希望です。今年度、来年度の予算を使って200機の発注です。」

「我々の見積もりは130機でしたね。。。」

「機密費を流用してはくれないんですね。」

「銃殺刑覚悟でか?」

「どうします?」

「本体設計は今のままで行こう。ここは変えられない。死守する。その代わり、拡張パックをコンパクトにしてコストダウンを図ろう。」

「拡張パックのアーマード化も中止ですか?」

「それが一番の現実解だろうなあ。」

「しかし、それでは防弾能力が著しく損なわれますよ。」

「仕方ない。試作機みたいな方法は採用したくないが。。。シールドを復活させよう。」

「腕が一本自由に使えなくなるんですね。」

「仕方ない。。。」

「ただ、両腕が使えなくなるので長距離砲が搭載できなくなりますね。どうしましょう?」

「長距離砲はもう発注済みです。なんとか軍納入に組み込んでもらわないと。。。戦後まで倉庫に山積みではいい笑いものです。というか、私、左遷されます。。。」

「既存の戦闘機に搭載するってのはどうですか?これなら改修費もたいぶ抑えられると思いますが。」

「それではモビルアーマー扱いになって、担当部署が変わってしまいます。あくまでモビルスーツという建前でないと私たちは納入できません。」

「。。。」

「戦場の勝利よりも、部署の管轄です。我々には統制のとれた勝利が必要なのです。長く仕事を円滑に進めるためにもこれはとても大切な話なのです。」

「仕方ありませんね。ではモビルスーツ搭載という事で。」

「あ、でもモビルスーツという建前さえあれば、戦闘機みたいな形状でも構わないのですか?」

「ええ、それはそうです。ある程度の形さえあれば、後は営業部でなんとかねじ込んでみせます。」

「ではコアパックの操縦席に長距離砲とバーニアだけをつけたものを用意するのはどうですか。」

「こんな感じです。どうですか?」

「あ、何か手もつけてください。その方が軍を説得しやすくなります。」

「了解、了解。では、こんな感じでマニピュレータを配置してと。」

「どうです、これなら?」

「おお。悪くありません。いや、これいいですよ。これでいいです。これがいいです。」

「良かったですね、これで左遷は回避できますね。」

「ははは、ありがとうございます。」

「これは量産機とペアリングで行動できるようにできませんか?公国にも無線操縦型のピットというのが開発されていると聞いています。あれと同様に、これも新型機から無線操縦か何かで操作できればいいのですが。」

「公国のあれっていまいち操縦形態が分からないんですよね。かなりの秘匿案件みたいで。」

「ちょっとすぐは難しいですね。ソフトウェアが間に合いませんね。」

「そうですか。いや、ちょっと言ってみただけです。気にしないでください。」

「これは長距離射撃専用の機体になりますが。戦艦の近くに配備して射撃するのを想定しています。それで十分でしょうか?それなら装甲とか飛行性能もそんなに求められないと思いますが?」

「はい。私もそれでいいと思います。」

「では、この線で設計を見直してくれ。わたしは各部署に連絡しておく。連携を密に連絡をこまめに進めてくれ。」


ある日の会議室 III(テレビを見ながら)


「おい、最前線に投入されているのはあれボールじゃないか?」

「あ、ほんとだ。装甲なんてないに等しい機体に無茶させてるなぁ。」

「いくらジムのシールドの影にいるからって、、、」

「あ、でもこれは上手い戦法だ、複数のジムでテストゥドを組んでいるのか。その中心にボールを据えて長距離砲をうまく使っている。」

「なるほど、これで要塞まで取り付こうとしているんだ。」

「でも格戦闘能力は敵の新型機の方が上みたいですね。あ、今も狙い撃ちされました。どうしても陣形が崩されてしまいますね。」

「だが、よく見てみろ。破損しながらも動いている機体が多い。生存率も期待できそうだ。コアパックが破壊されている機体はほとんど見られない。」

「要塞攻略に特化した機体が間に合っていたらもう少し違った戦い方が出来たかも知れませんね。」

「そうだな。詮方ない。だが戦場の人たちはうまく使っていると思うよ。」

「データリンクが向上しているから、密集したり、隊形を組むのは得意なんだ、この機体は。」

「単独での格闘戦では劣勢は仕方ない。だが、編隊さえ組めば、十分に要塞の防衛網に対抗できているように見えるよ。ほら、また一編隊が要塞に取り付いた。」

「まるで蜜蜂のようですね。」

「あ。うん、、、あの要塞はもう長くは持たないだろうね。」

「そう見えます。」

「これが。。。うん。連邦の勝利だ。」

2016年10月10日月曜日

会議室から - とある新造戦艦の開発記録

ある日の会議室 I(プラットフォームの決定)


「ヤマト型は確かに優れた戦艦ですが汎用プラットフォームのベースとするには余りに高機能すぎます。」

「そうだ、あれはある意味、天才たちのための船だ。製造効率も決して良くはない。」

「かといって、今更、Mシリーズでは古いと思います。あの設計では波動エンジンは搭載できません。」

「おっしゃる通りです。それよりもこれを見てください。」

「おお、でかいな。ヤマトよりでかいんじゃないのか。」

「おっしゃるとおりです。」

「これはアメリカの開発者たちが4年前に断念した新造戦艦の設計図です。」

「当時のエンジンではこの船を実現するのは不可能と結論されたのです。しかし、我々には波動エンジンがあります。」

「そうか、波動エンジンを搭載すれば、この船は実現可能になるのか。」

「ここを見てください、この船はセントラルコアを中心として拡大、縮小が可能なモジュール構成になっています。非常に拡張性が高いのです。」

「なるほど、これはいい。これならば、新しい宇宙艦隊のプラットフォームとして展開しやすいな。」

「はい、戦艦はもとより、航空母艦、巡洋艦から、小型の護衛艦まで同じプラットフォームをベースに設計できるのです。」

「これはいい、これには名前が付いていたのか。」

「ええ、彼らはこの船のコードネームをアンドロメダだと教えてくれました。」

「よし、その設計者たちもここに呼びたまえ。新しい宇宙戦艦を設計しようじゃないか。」

「ええ、どうせヤマトが帰ってくるまでの一年間、我々は暇ですからね。」


ある日の会議室 II(主力兵装の提案)


「この船は先端がシュッとしているな。」

「ええ、もともとは巨大なミサイル二基を搭載する予定だったそうです。」

「そこでジャックらと協議したのですが、この先端に波動砲を二つつけようと考えています。」

「ふたつも?」

「ひとつのエネルギーを一点に集中した方が破壊力は上がるのではないか?」

「はい。私も最初はそう考えていました。ヤマトと同じ一点式です。」

「しかしアメリカチームは別のアプローチを考えています。」

「ヤマトのような一点式は確かに破壊力が魅力的です。しかし、我々はこの波動砲を艦隊戦で最高のパフォーマンスを得られるようにすべきだと考えたのです。」

「二本の波動エネルギーを捩じるように流すと途中で抗力のために拡散する現象が発見されたのはご存知だと思います。」

「この現象を応用すれば、波動砲を拡散させる事ができます。拡散距離はエネルギーの大きさによらずねじりの波長によります。」

「この現象のユニークな点は、それがある距離で急速に一点に集中し始める事です。」

「この拡散と集中の間、波動エネルギーを流し続ければ、空間全体を波動エネルギーで包み込むことができます。」

「この覆った空間を次第に縮小すれば、その空間内にあるものを破壊することができるわけです。」

「しかし、このような拡散では威力が下がるという事だろう?」

「おっしゃる通りです。威力はヤマトのものより20から30%は落ちます。」

「その波動砲で遊星爆弾は破壊できるのか?」

「計算では、ヤマトの波動砲ならば直径50kmの遊星爆弾を破壊できます。」

「拡散式の場合、直径は22km程度になります。」

「いや、それでは話にならない。それでは新しい艦隊ではガミラス侵攻に対抗しえないという話になるではないか。」

「いいえ、この計算は単艦での話です。我々は艦隊戦での撃破を想定しています。」

「そこがヤマトと決定的に設計思想の転換をすべき所になります。」

「例えば3艦が同時に拡散砲を照射すれば、直径50kmの遊星爆弾でも破壊できます。しかも、拡散式なら同時に4つまでを一度にターゲットに入れることができます。一点式では一度にひとつしか狙えません。」

「なるほど、艦隊として対抗するならば拡散式にも十分なメリットがあるのだな。」

「はい。そう計算します。艦隊で行動する限り、効率は高くなります。」

「あのー、これ、一点式と拡散式を両方を使える方法はないんですか?発射前に切り替えるとか?」

「波動エネルギーの初期条件が違いすぎるため簡単には切り替えられない。今回はエンジンの切り替え機能は落とそうと思っています。その点は、艦艇ごとに搭載する波動砲を変えることで対処すればよいと考えいます。」

「よし、分かった。では、拡散式のシミュレーションを進めてみよう。」

「対遊星爆弾、艦隊戦、要塞攻略戦の3つで、その有効性を検証してみようじゃないか。」


ある日の会議室 III(シミュレーション結果)


「先日の議題にありましたシミュレーションについて発表いたします。お手元に配りましたのは、その結果のレポートであります。」

「みなさまご存じのとおり、ヤマトの波動砲は一点式です。拡散式は当時の技術ではまだ実用できていませんでしたが、実現できたとしてもヤマトへの搭載は見送られたでしょう。」

「確か、真田さんがどうしてもと一点式をと望んでいられましたね。」

「ええ。真田さんが最も恐れたのは行く手を阻むものを破壊できない事でした。とにかく迂回をできるだけ避けたいという考えが念頭にあったものと思います。」

「私もヤマトの場合は真田さんの考えが正しいと思います。」

「しかし、ここで留意して頂きたいのは、今回のシミュレーションは艦隊戦を中心にしたものです。」

「ヤマトと新造戦艦では設計思想が全く違います。」

「さて、まずは対遊星爆弾からです。」

「シミュレーションの結果は想定通りのものとなりました。これまで地球に落とされた遊星爆弾を迎撃するのに、単艦では、全体の8%には対処できますが、大型のものは全く破壊できませんでした。」

「複数の艦艇を用意した場合、8隻で38%、32隻で56%です。125隻を用意すればすべて撃ち落とすことが可能という結論です。」

「実際は艦隊のバランス上から一点式と拡散式を混在させますから、もう少し違った結果になりますが、概ね130隻の配備数があれば十分だという結果になりました。」

「130隻はさすがに現実的ではないな。」

「ええ、これは遊星爆弾に対して完全に防戦一方でのシミュレーションです。」

「実際には30隻程度が現実的と思います。」

「それだけ建造するのに何年くらいかかるだろうか?」

「復興次第になりますが、早ければ12年で配備を完了できるでしょう。」

「その間の防衛が心もとないな。」

「それを言うなら今の状況こそ危険です。Mシリーズで稼働できるのがわずか数隻という状況ですからね。」

「仕方ない。ヤマトを送るために我々はすべてを投入したのだから。」

「宇宙は決して善意だけに満ち溢れているわけではありません。たとえ敵が悪でなくとも、彼らもまた生き延びるために地球がターゲットにする事は十分に考えられます。そのような時のために侵入者を押し返すだけの戦力は持っておかなければ。」

「最近の解析では、ガミラスにも何種もの星人がいて、多くの星系に版図を広げているようですね。」

「ガリア戦記みたいなものか。彼らからしたら我々は征服すべき蛮族のひとつなのだろうなぁ。」

「ええ、だとしてもブリタンニアを演じるくらいの権利は我々にもあるでしょう?」


ある日の会議室 IV(シミュレーション結果-2)


「次に艦隊戦の模擬戦ですが、結果は期待した通りのものです。」

「敵の追撃であれ、撤退戦であれ、あらゆる状況で拡散式の効果は絶大です。宇宙空間を面で圧倒できるメリットはかなり高いです。」

「シミュレーションで冥王星沖海戦を再現してみましたが、新型戦艦ならば8隻の単横陣で互角以上の戦闘が可能です。ヤマト型8隻で対抗したときよりも早く制圧できています。」

「一点式の波動砲の場合、敵も分散して波状攻撃を繰り返してきます。拡散式はその点で有利です。しかし、いずれにしろ、艦隊戦をすべて波動砲でやり抜くのには無理があります。どうしても主砲と航空戦力を使った通常戦が必要です。」

「なるほど、通常戦の能力については、別の機会に深めよう。」

「次に、要塞戦はどうか?」

「要塞攻略戦については、結果は芳しくありません。」

「拡散式では要塞への攻略には役に立ちません。どちらかと言えば、要塞表面の兵装を薙ぐのに有効です。しかし、要塞に致命的なダメージを与えるのには一点式の方を推奨します。」

「使い分けだな。すると、要塞攻略などを目的とした揚陸艦には一点式を搭載するとしようか。」

「はい、賛成です。揚陸艦の優先度は最初は低くても構わないとは思いますが。」

「そうですね、対ガミラス戦でも戦闘は殆ど艦隊戦でしたし、要塞攻略はヤマトの冥王星基地くらいしか聞いておりません。」

「ところで、主力艦は一門しか波動砲を搭載しないが、これでは拡散式を作れないのではないか?」

「はい。主力艦は単艦では、拡散しない波動砲です。ただ波動波が拡散式のため、一点式よりも威力は劣ります。しかし、二隻以上で連動することで、拡散式の斉射が可能になります。」

「最後に参考として、ヤマトと新造戦艦の一対一のシミュレーションをしてみた結果です。」

「結果は、次のページにあります。」

「!。。。」

「ヤマトの方が勝率が高いな。」

「ええ、装甲の厚さがものを言います。さすがにヤマトの能力は桁違いです。アンドロメダもかなりの強化装甲にするつもりですが、それでもヤマトほどの重装甲にはできません。」

「ですが、一騎打ちで34%の勝率は逆に十分と言えるものだと思います。ほんらい単艦での運用は考慮しておりませんから。」

「そうだな、アンドロメダが単艦でどこかの星系に行くことは考えなくてよいだろうな。」

「はい、そこがヤマトとのもっとも大きな違いです。」

「艦隊を組んで要撃任務にあたる限り、アンドロメダはヤマト以上に有能な船になると思います。」

「そうだな、真田さんたちが帰ってきた時にあっと驚かせるくらいの船になってないとな。」

2016年9月24日土曜日

シン・ゴジラ - 庵野秀明

庵野秀明


シンゴジラを観た。面白かった。それだけならば何も語る必要はない。何かがそこにある。と思うから語りたくなる。

見る前からシンゴジラについて、というよりも庵野秀明について考えていた。果たして彼が紡ぐゴジラはどういう形になるだろうかと。もちろん、全く予想もしない作品であった。終わってみれば、この映画はとても心地よかった。

庵野秀明とは希代のブリコラージュ(切り貼りの作風)である。それがエヴァンゲリオンで傑出した。作品の中に無意味に聖書や量子論をコラージュする。それが如何に作品に奥深さを与えたか。それが如何に底深く見えたか。

我々は暗く深い井戸を覗き込んでいたのではない。きっと黒い水の井戸を覗き込んでいたのだ。

手塚治虫の作品がヒューマニズムを貪欲に取り入れたように、庵野秀明は作品に過去を取り込む。その実、そういうものにちっとも興味がない。これは両者とも同じだ。社会の問題意識など作品のつまくらいにしか思っていないのである。

面白い作品が正義。作品のためなら悪魔との契約も考える。だが、彼らも何故それが面白いのか、それを掴みきっている訳ではない。

それを裏付けるものは感性しかない。何がどうであれ、この方が面白い。その確信の中にだけ、作家の社会も個人も思想も感情も含まれる。

それを面白いと思う自分が居る。なぜ、あれはああも自分を魅了するのか。必ずそこには何かがある。それは作ってみなければ分からない。

料理の素材など、てんで興味ないのに、あたかもそれが重要なテーマに見えてくる。余りにもコラージュが凄すぎて、切り貼りをテーマと勘違いしてしまいそうになる。

思いついたものはただ自分の中で忘れていたもので、必ず何か元ネタがあるんですよ。それでハッと気がついて、あっ、あれだったのかってわかって、ちょっと嫌な気がする。
庵野秀明スキゾ・エヴァンゲリオン p.46

そう語る作家が、独自性がないならば、あるように見せればいい。そういう方向に才能が突出した作家である。オマージュの中に読者への謎かけが散りばめられている。

何かがあるように見える。重要なメッセージに見える。そのどれもが重要な伏線に感じられる。エヴァンゲリオンの面白さの中に、人生で大切なものが何もないなどあり得ない。そういう直観に対する答えをみんな求めている。誰もがその答えを待っている。もちろん、それは作者も含めて。

見ていない映画とそっくりだと言われても、僕は責任は取れない。僕の持っている人生観や考え方以外は確実なオリジナルは存在しない。それを突っ込んでしまえばただのコピーでしかないと言えるんですよ、胸を張ってね。
庵野秀明スキゾ・エヴァンゲリオン p.50

張りぼてと言えば「王立宇宙軍 オネアミスの翼」であるが、さて、この張りぼてをどうするか。これが庵野秀明の作風に見える。膨らませるだけ膨らませたカエルのような。

今さらエヴァンゲリオンの中身は空であると言われても困るのである。禅ではあるまいし。

中身がどうであれ、それに一番に近いのはお前じゃないか。この世界で、お前ほど、それを描ける人間はどこにもいない、それが観客の心持ちであろう。

元来、エヴァンゲリオンには誰もが納得する答えなどないはずである。どのような解釈にも何かしらの違和感が残る。問うているのは作者ではない。その答えは観客のひとりひとりの中にしかない。そこに答えがあると思っているのが間違っている。自分の中にあるものを他人が提示できるはずがない。見つからない答えを探している。この矛盾がエヴァンゲリオンの魅力だろう。

ただひとつの解がないのは幸いである。どんな解でも成立するから。解釈の数だけ作品は成立する。あらゆる解が正解であり、かつ不正解なのである。どの解も正しく、かつ正しくもない。だから作品の解釈は尽きる事がない。

庵野秀明の解釈でさえ正解とは言えない。それも解釈の一つに過ぎない。

足りないのは、庵野秀明以外の人がエヴァンゲリオンを作れないという事だ。多様な作品が生み出しているガンダムと比べてみればそれが不幸である。作品のバックグランドを考えれば、もっと多くの作品が生まれてもいい。何が次の作品を躊躇させているのか。本体が完成されていないため、他の人が踏み越えていないだけのようにも思える。

多くの作家がどうすればエヴァンゲリオンの次のストリーを作れるのだろうか。何があればそれをエヴァンゲリオンと呼べるのだろうか。ガンダムがひとつの時間軸上に多くの作品を生みだした事と比べれば、エヴァンゲリオンはそうでないアプローチが相応しそうである。

新しい作品の解釈が、別の物語を生み出す。ひとつひとつがガンダムという世界観を拡張する。何があればガンダムと呼べるのか、ガンダムの定義をしつつ進んでいる。ファーストからターンAまでが同じガンダムという世界で統一できている不思議さ。

それと比べればエヴァンゲリオンに必要なのはマルチバース(多世界)という考え方だと思う。幾つもの異なったエンディングが成立する世界。まるでエンディングが複数存在するゲームのように。

選択が変われば違う世界が生まれてくる。異なった選択が違うエンディングに至る。それがいい。だが、新しい意識が生まれるにはまだ何かが足りていないようだ。

シンゴジラ


邦画など認めない。邦画を面白いという感性などありえない。そう思っているから、シンゴジラも警戒していた。それが杞憂であった事が嬉しい。

演技さえしなければ日本人でもいい演技ができる。演技する隙を与えない。これがシンゴジラの最大の功績だ。これがこの監督の最大の演出だったに違いない。この手腕だけで彼は日本最高の監督になってしまった。

おそらく原本を知らない沢山のオマージュがある。それを探すのを楽しむ人もいる。これは様々なものを散りばめたコラージュだから。と同時に、そこには明らかなオリジナリティがある。この映画は見事に庵野の作品だと思う。

もちろん、予備知識なしの初見でシンゴジラの監督を言い当てられるかと言えば、そんな自信はない。彼の作画でさえ当てる自信はない。後付けかも知れないが、これは庵野の映画に違いない、と思うのである。

シンゴジラには、意味あり気に見えるものを推量する楽しさがある。言わせたかったけど敢えて言わせていないセリフがある。それが観客の中に自然と浮かんでくる。僕は官邸からヘリで退避するときの大杉漣が、私は総理だから最後までここに残る、君たちは先に避難してくれ、と言いたかったのをぐっと我慢しているように見えた。その解釈をとても気に入っている。

前半の会議を意味のないだらだらとした烏合とする見方には同意できない。徹尾徹頭、この作品には、無能な政治家も官僚も登場していない。映画の都合で混乱を引き起こすためだけに存在するキャラクターはこの映画では皆無である。

全員が立場を異にする有能な人たちの集団として描かれる。全員が有能すぎるとさえ僕は思った。手塚とおるの存在感は特に印象深い。

他の映画なら明らかに無能から混乱を作り出す、主人公を窮地に陥れる役割を与えられていた人だ。そういう演技しかできないようにさえ見える。だが、そんなことは監督が許さなかった。そのお陰で彼は彼なりに大臣として、多様な視点のひとつとして重要な位置に配置されていた。

もちろん、すべての描写に不満がないわけでない。

ビルを一瞬で焼き切るほどの放射線が、その途中の空気に何の作用も起こさないとは考えられない。その描写が僕には不満である。自衛隊の兵器が効かない有機化合物の皮膚もどういう構造かと訝しい。

だがそれらも、ゴジラが嘔吐するシーンの前では帳消しである。シーンのクリエビリティ、今まで見たことのない世界、もしかしたら自分が知らないだけで、これさえもオマージュなのかも知れない。僕がオリジナリティと思うそれが、原作者にとってはただの焼き直しなのかも知れない。だがこの表現は本当に新しいと思った。まぎれもなく自分は庵野秀明という才能に触れているという感覚。この感動はしこたまな才能に直接触れている感銘以外あり得ない。

僕は庵野秀明と同時代を生きている事を幸運だと思う。彼の才能に触れられる事が嬉しい。その才能と比べれば、あらゆることは些細だ。作品の中に納まりきれない才能がフィルムの端々から溢れ出る。才能とは他の人の中で何かを励起する働きである。暗闇の中で、その光の洪水を前に僕は溺れるように浴びている。

石原さとみ


あれが演技なのか。その存在は映画の中でも浮いていたように思う。映画を見ながら英語訛りの日本語にも違和感を覚える。CMでの幼さやコミカルな演技しかしてこなかった人ならあれでも十分な演技というべきなのだろうか。

しかし、暫くしてから、ひとつの結論に達する。シンゴジラを語る事は石原さとみを語る事とほぼ同じである。

彼女の容姿には、後ろ姿の足の短さとお尻の素晴らしさしか印象にない。それ以外の演技はほとんど見る価値がない。石原さとみの登場シーンなど二度と映画の仕事は来ないんじゃないかとさえ思った。ただ立川の飛行場に立つシーンだけはとても良かった。喋らなければいい演技をする女優なのだと思った。

だが、彼女に求められるものは演技ではない。彼女の存在は、ほかの出演者と違って特殊なのである。彼女の存在がシンゴジラを決定しているのだと今は確信している。

彼女は声がいい。この実写作品の中で、唯ひとり声優として存在していたのではないか。物語の中でナレーションという役割を彼女が担っていたのではないか。その証拠に物語が大きく動くとき、必ず彼女の介入があるのである。

彼女の声が物語のリズムになっている。時に箸休めであり、時に物語の導入、時に佳境の記号として。

彼女は核を落とせばさすがにゴジラは破壊できると思っている。だが、観客は核を落としてもゴジラは破壊できないと思っている。だから核を落とすのなぞ止めろと。そんな無駄な事のために東京を焼かれてたまるか。

そんな重要な場面に彼女がいる。彼女の言葉が物語を支えている。物語を進めて行く理由になる。描きたいものはゴジラの姿だ。だが、ゴジラだけでは映画にならない。物語がいる。物語は進行しなければならない。その進行役が石原さとみなのである。日本が核攻撃される、という決定的な、しかし物語の最も重要な状況にリアリティを与える役が石原さとみなのである。

シンゴジラには彼女の印象しかない。それ以外は光を吐くゴジラとか、鰓から血を流すまん丸お目目とか、走ってゆく新幹線とか、そんなもんである。

ドラえもんのリアリティが道具に支えられている。上手く道具を使えば一瞬で問題は解決するのに、それを使わない。だから物語が成立する。ドラえもんのリアリティは使われない道具が支えている。ドラえもんが道具を選ぶとき、その選択で物語が決定されるのだ。そういう構造がある。

ハリウッドの映画は CG に依存している。CG が描く映像がリアリティを支えている。

日本にはその技術がない。だからリアリティは必然と別のもので担保する。主にそれを支えているのが原作である。原作が持っているリアリティがそのまま映画のリアリティになる。映画がどれほど安っぽく陳腐であっても、原作の持つ世界観が映画を支配している限りリアリティは崩れない。その範囲においてリアリティが成立している。

優れた CG が描くリアリティにもひとつの欠点はある。観客は CG に直ぐに慣れてしまう事だ。CG による驚きは二時間も持たない。だから CG でじっくりと描くことは難しい。飛んでいるイカロスが羽を緩める事ができないように止まる事は許されない。

シンゴジラのリアリティはそのいずれとも異なる。庵野秀明という才能を鑑賞する事がこの映画のリアリティだと思う。作品を凌駕した才能が僕のリアリティだ。

走るように流れてゆく物語の中で、石原さとみが登場する時、物語の展開が行われる。オーケストラの指揮者を庵野秀明とすれば、石原さとみはコンサートマスターのようなのだ。

物語が日本という閉じた世界の中にあって、石原さとみだけが外部との接点を担う。日本をひとつの細胞とすれば彼女はカリウムポンプのようなものである。もちろんフランスの大使であるとか、作中では描ききれなかった外部は多数設定されているが。

ゴジラという異物が侵入した世界に、石原さとみがアメリカというもうひとつの異物として侵入する。ゴジラと石原さとみだけが他者である。この二重性がシンゴジラの構造だろう。

石原さとみは多くの怪獣映画が必要とした神への生贄としての存在ではない。津波は生贄などで止まるわけがない、311で我々はそれを知った。原子力発電所が生贄で抑え込めるわけがない。我々に必要なのはそれ以外の何かだ。

彼女が演じたカヨコは、最後まで石原さとみのままであったように見える。誰もがその場面に自分を置いてみる。自分がその立場になったらどう行動しただろうか、どのような事が出来るだろうか、と問う。

そこにおいて彼女は、他人事としてゴジラの中に生きている。石原さとみが演じるカヨコは最初から安全圏にいた。彼女だけが、帰れるアメリカという国を持っていた。それは、リアリティとしてテレビを介して津波を視聴している我々の本当のリアリティを代弁していた。

2016年、夏

監督はひとつの夏を狐付きにする。狐が落ちれば、あっと言う間に忘れられるにしても。ある時代に大流行した作品が跡形もなく消えることは珍しくない。

作品の鑑賞は己の嗜好や心情、世界の切り取り方と関係する。それが面白い、詰まらないを決めるのも当然である。しかし嗜好に基づいた論点から作品を語るのは面白くない。それは単なる作品を通しての自分語りである。この世界には面白くても語る必要のない作品もあれば、面白くなくても語らなければならない作品がある。

この作品は多くのアナザーストーリーが作りやすいように作らている。それはエヴァンゲリオンの習作のようでもある。

例えばカヨコ・アン・パタースンはこの体験を本を書くに違いない。彼女の一人語りとしてのシンゴジラがそこに生まれる。その後の政治家としての姿は別の映画できっと描かれるだろう。

幾世代の時代がありました。それは誰にも分からぬ流れです。分岐点がどこにあるかも知りません。忘却されたものが再び浮上することもあるでしょう。まるで水の中なのです。何かがある。その予感が面白さを凌駕します。

理由が見つからない。なぜ理由が必要なのか。なぜそれは理由なのか。

2016年8月7日日曜日

柊様は自分を探している。 - 西森博之

何気なく面白かった。今日から俺は!!、天使な小生意気などステレオタイプのほとんど似たような作品であるにも係らず、またも面白い。このパターンに飽きはないようだ。

この感じはどこかにあったと振り返ると、たぶん本宮ひろし。男一匹ガキ大将、硬派銀次郎、俺の空、さわやか万太郎... こういう作品にあるのは、人が持ち得ざる才能に対する優越感だろう。

困難が困難にならない、苦悩が苦悩にならない。問題は圧倒的な力学で解決される。これはカタルシスと全く同じ構造に見える。カタルシスは何度味わっても快感である点は、食事と同様の肉体的快楽に近い。

という事はそれは脳の神経を直接的に刺激して興奮させているはずで、これは脳の問題である。気持ちよくなる回路を漫画で刺激する。そこにベーシックな脳幹や深層心理も含めた精神性があって、脳にはそういうものに反応する回路が備わっている。それは長く生存競争に晒されてきたこの星の生命の宿命でもある。

これに合致するものは、同様のパターンが何回繰り返されても面白いと感じる。そして、その根底にあるものが暴力的機構の支配、制御された暴力であることは多分正しい。そういうものの正しさを人間は信じている。

従来、劇画の領域であったものが、こうしたライトな所にまで顔を覗かせている。そこが面白い。

よき細工は少し鈍き刀を使ふ - 吉田兼好

吉田兼好という人は科学者の目を持っている。徒然草はサイエンティストの目で書かれている。

229段
よき細工は少し鈍き刀を使ふといふ。妙観が刀はいたく立たず。

いまなぜ青山二郎なのか - 白洲正子

先日私は未知の読者から実にありがたい手紙を頂いた。「よき細工は少し鈍き刀を使ふといふ」ことについてで、いうまでもなくこれは『徒然草』の一節である。

「鈍き刀」の意味を今まで私はその言葉どおりに受けとって、あまり切れすぎる刀では美しいものは造れないという風に解していた。

ところがそれでは考えが浅い事を、この投書によって知らされたのである。その手紙の主がいうには、鈍刀といっても、はじめから切れ味の悪い刀では話にならない。総じて刀というものはよく切れるに越した事はないのである。その鋭い刃を何十年も研いで研いで研ぎぬいて、刃が極端に薄くなり、もはや用に立たなくなった頃、はじめてその真価が発揮される。

兼好法師はそのことを「鈍き刀」と称したので、「妙観が刀はいたく立たず」といったのは、切れなくなるまで使いこなした名刀の、何ともいえず柔らかな、吸いつくような手応えをいうのだと知った。そういう経験がなくてはいえる言葉ではない。奥には奥があるものだと私は感嘆した。

ジィちゃん(青山二郎)の言葉を借りていえば、「九十年も研いで研ぎ上げると」幻の如く煙の如く立ちのぼるものがある。そういうものが日本の精神なのであって、兼好はそれを妙観の刀にたとえたのだ。妙観がどんな人物か私は知らないが、その一行だけで日本の文化の真髄を語って余すところがない。兼好の文章も、確かに鈍き刀を用いているのである。

妙観が刀はいたく立たず - 道草インデックス

なぜとは書かない。これは兼好が聞いた話であろうが、それを彼はどう考えたのであろう。それでもただ事実を書くだけで止めた。

白洲正子は書く。鈍き刀とは長年研ぎ続けたために刀が薄くなり遂には切れなくなった刀の事だ。そうなった頃、切れないけれどもその刀の真価が味わえると言う。これはその道の人しか知らない話しである。よって本当かどうかは分からない。恐らく兼好もそう考えたはずだ。自分には分からない、だがそういう話がある。"いたく立たず"とは、研ぎ続けた刀の話である。残り僅かとなった刀が放つ最高の切れ味である。

切れないとはどういうことか。もちろん、木が切れないなどあり得ない。それでは細工もできない。細工が出来る程度には切れる刀でなければならない。ではここで言う切れないとはどういう事か。そもそも誰が切れないと言ったのか。

切れないには二つの意味がある。ひとつに切れない刀では細工ができないという考えである。次に切れない刀では名細工はできないという考えである。全く切れなければ確かに細工はできない。しかし切れるならば細工はできる。ならば問題は優れた細工にはよく切れる刀が必ず必要であるのか、という問いになる。

もちろん、これを読む者の殆どは細工のイロハなど知らぬ。よく切れなければ優れた細工ができないと聞けばああそうだろうと思い、切れ味で細工が決まるわけではないと聞けば、そういうものだろうと得心する。弘法筆を選ばずと言うが、我々はその経験もなければその道で精進したこともない。

果たして妙観が自分の刀は切れ味が悪いと言ったのだろうか。だとしたら切れ味は細工と関係ないという話になる。良い切れ味がよい細工になるとは限らないと語ったも同然だ。すると最初に切れ味の良い刀が良い細工を生むと語ったのは誰かという話になる。

もし妙観がそう語ったのでないなら、なおさらどうでもいい話になる。妙観の職場を訪れた人がその刀に触ってみた。思ったほど切れないので驚いた。その人の常識では、よく切れる刀を使っているのだろうと思った。

ただそう思っていたというだけの話である。妙観の刀はそんなに切れないよ。だからどうした。細工に切れる事が重要であると最初に言ったのは誰なのか。刀の切れ味と細工の関係性など実は誰も知らないのである。

なぜそんな我々がその刀の切れ味が重要であると思い込んでいるのか。ましてやそれがなければよき細工もできないと思うのか。その全ては兼好が悪い。そう考えるように書いてある。

よき細工は切れ味の悪い刀を使うと言う。そう聞けば、人は自動的に切れ味の良い刀を使うことがまず常識としてあると認識する。その上でそれに対するアンチテーゼとして鈍き刀の話が始まる。これがこの文章の大前提としてある。鈍い刀が常識であるなら、こう書く必要もここで書く必要もないはずである。ここに書いてある以上、そういう前提がなければ成立しない。そう読むのは読者の勝手である。

よい細工師はあまり切れない刀を使う。妙観の刀はとても切れ味が悪い。

ほら、これを読めば、まるで細工師は切れる刀を使うのが常識であると考える。その常識がなければ、この論そのものが成り立たないからだ。

誰も何も知らないのに、その常識を疑いもしない。知らない事でも当然そうである。たったこれだけの文章で。我々はなぜ誰も鎌倉時代の細工など知りもしないのにそれが常識であると盲信するのか。

そのことを兼好が気づかなかったであろうか、この文章がもたらす効果を知らなかったのであろうか。硯を擦りながら、筆を洗いながら、彼はなんと思い至っていたであろうか。


妙観という人の刀は切れなかったという。刀は切れればよいという訳ではない。名工は、刀の切れ具合さえ自分によく合うものを知る。

"鈍き刀"という言葉に惑わされてはいけない。注意すべきは"少し"という言葉の方にある。"少し"と言えば誰もが何となく分かった気がする。だが実際に、少しの程度がどれくらいかを分かっているのだろうか。その切れ方をどれくらい知っていると言うのか。それは人ごとに違うかも知れないのに。

だから知らないのは鈍い刀だけではない。鋭い刀さえも知らない。前提であるはずの切れる刀さえ見た事がない。だのに我々は鈍い刀を知っていると思っているのである。もちろん、日常で包丁を使う人には、これとは違った所感があるかも知れない。

もちろん、これは比喩だ。何の比喩か。頭の切れすぎた者についての比喩だ。もしかするとそれは兼好自身かも知れない。彼の友人かも知れない。彼には切れすぎて失墜した友人が居たのではないか。

切れれば良い、鋭ければ良いのではない。会社でも切れ者が左遷される事はざらである。会社で浮いた人も幾らでも居る。周囲が鈍く見えるのに。

彼らの正論は通らない。それは正論であるのに。だからその筋を押し通そうとしてみる。木の中には幾らでも節がある。木目の流れがある。それらを構わず切ってしまう刀では、木を破壊するだけではないか。

切れすぎる事が名細工を失わせてしまうのかも知れない。その正論が切り刻んだ中に切ってはいけないものがあったのかも知れない。切れすぎる刀は切り刻む事は出来ても、切らないでおく事は難しい。

丸で理念に邁進し現実を破壊するかの様だ。それでは人は成り立たぬよ、そう言いたいのかも知れない。頭の良い、見え過ぎるが故に、分かり過ぎてしまい負けてしまう棋士のなんと多いことか。

切れ過ぎる刀では切ってしまう。切らないでよいものまで切ってしまう。それを切らないようにするのが難しい。それならいっそ少し切れないくらいの方が節々が手ごたえで分かって御しやすい。

自分の力を過信しない限りは持て余す切れ味など欲しない。切り刻むだけでは駄目だ。名工でさえそうなのだ。鈍き腕を持つ我々はどう考えればよいか。

2016年8月6日土曜日

蜘蛛ですが、なにか? - かかし朝浩, 馬場翁, 輝竜司

何気に買ったら面白かった。面白かったと言う以上、面白いとはどういう事かを説明しなければならない。

女子高生だった私が目覚めると…何故か異世界で「蜘蛛」に転生していた

という説明だけでは何が面白いのかはよく分からないはずだ。もちろん、女子高生という設定にあまり意味はない。ただ、この漫画では話し言葉が女子である事が重要な気もする。もし男子高校生ならここまで面白くはないと思う。

それは例えば蛙や蜥蜴をちゅうちゅう食べるときの「まずい、苦い」というセリフ。もしも男子だったら説得力がない。女子だから、それでも食べ続けるバイタリティーに納得力がある。

この漫画はサバイバルゲームである。賭けるのはコインではない。命。そんな危機の時の開き直りは、出産を迎えた女性のそれに近いのか、腹を据えた豪胆さ、生命力、豊饒の神が女性である理由が分かった気がする。

危険を克服しながらダンジョンの謎を解いてゆく。この謎が重要で、この次に何があるのかと思わせる作品は、面白さをも凌駕する。謎があれば、もう面白くないと思っても読まずにいられない。美味しければ必ず売れるとは限らない。売れるなら何かがある。

なぜこんな世界があるのか。その先に何があるのか、何を用意してくれているのか。先に進むためには主人公が必要だ。死んだら困る。僕らは彼女に連れて行ってもらうしかない。彼女が生き残り繁栄するのを見たい。

手だしは出来ないけれど、これは神と同じ視線か。それとも、DNAとなって彼女という乗り物にいるようなものか。DNAに気持ちがあるなら、こんな感じかも知れない。

蜘蛛ですが、なにか? | 小説家になろう

2016年7月24日日曜日

ローマ人の手記

人はパンのみで生きるにあらず。誰かがそう話していたのを町の飲み屋で聞いた気がする。

その通りである。我々ローマ人はパンのみで生きるのではない。我々ローマ人にはコロッセウムが絶対に不可欠である。

人生の全てがこのコロッセウムの中にある。我々は人生の何たるかをこのコロッセウムを通して知るのだ。パンとサーカス、人が生きるのには食事と文化が必要なのである。これがローマの答えだ。

コロッセウムには様々な戦いがある。東方から、アフリカから、聞いたこともない地域から集められた奴隷たちが(肌の色も様々なものだ!)、時には組合って、あるいは単独で、時には武器を取り、あるいは素手で、様々な戦いを見せる。そこに奴隷たちの命の昇華というものが宿る。

ローマは永遠だ。こんなにも深く人間の人生というものを考えているのだもの。

さて、私、ステパルニウスは根っからのローマっ子である。そんな私が見てきた中でも最も印象の深い長く忘れられない戦いを紹介しよう。正確な日付は忘れてしまったが、まだネロ帝の頃だったと思う。

その日はいつもと同じように奴隷たちの戦いを見ていた。その中に一人の戦士とライオンの戦いがあった。

戦士は中央に立って、じっと檻の方を見つめている。ゴロゴロといううなり声が聴こえている、檻が開く。

ライオンがゆっくりと姿を現す。思っていたのよりずっと大きい。

ライオンは次第に中央の戦士の方へと近寄ってゆく。戦士は楯を構えて、剣をぐっと引いて構えていた。なるほど、この戦士はバカでない。楯でライオンを防いで、その隙から剣で一突きにする気だ。

ライオンが何回かの威嚇を繰り返す。戦士も距離と取りながら、一撃のチャンスに賭けているようだった。

緊張感。
これぞコロッセウムの極み。

時間が止まったかのようだ。この勇者もこの世界から消えてしまうかも知れない。その運命に抗うように闘士が中央で立ち構えている。今日という日が、昨日と全く同じ一日の顔をしている。

ふたつの命、命を懸けた戦い。ライオンがいきなり飛び上がる。楯を構えた戦士。

その時、引き裂くように爪が突き刺さる。楯はあっという間に砕けてしまった。

瞬間。戦士の白い腕が伸びた!
見事に突き刺したか!

いや、違う。その一撃はひょいとかわされて、ライオンがもう一度飛びつく。


腕。
その白い腕に。

赤、鮮血。

ライオンが噛みつく。
そして鈍い音。

骨。
まさに骨。

骨の砕ける音。
バキバキバキッツ。

コロッセウムにその音が響く。あれだけあった熱狂が一瞬で鎮まる。

沈黙。
これぞ真の沈黙。

そして。

歓声。
圧倒的な大歓声。

周りの者も、男も女も子供も老齢も、私もあらんかぎりの声で叫んでいる。

声を限りにしての熱狂!
ああ、なんと戦士の腕が噛み千切られたのだ。

こんな瞬間のために私は生きている。私の周りの者たちも同様に生きている。誰もがみな同じ時代を生きている。その生きている感動をこの目で見ている。これこそがローマ人の人生というものだ。

勇者が悲鳴を上げている。耐えられぬほどの痛みなのだろう。剣を持ち替えてライオンを突こうとした。

が、ライオンもさっと距離を取った。ライオンの顔が赤く染まっているように見える。ベロで顔を舐めているようにも見える。

次の一撃を狙っているな。

名もなき戦士も人生の絶頂を味わっているに違いない。
様々な感情の中で人生を感じている事だろう。

なんという感動。
腕から夥しい血が流れ出ているが、何度も何かをわめきながら剣を振り回している。

それは異国の言葉だったのだろう。

もう一度ライオンが襲い掛かった。

そこで思いもかけない戦士の意地を見た。なんと戦士は自分の傷ついた腕をライオンに噛ませたのだ。そこを剣で突こうというのだ。なんという強靭な精神だろう。これがコロッセウムで見られる人間の力というものだ。会場が揺れるほどの大歓声だ。

だが、ライオンは今度もさっと距離を置いた。戦士の一撃は虚しくも空を切ってしまった。

戦士は力尽き。ずさっと地面に倒れこむ。

勝負あった。二度もの果敢な戦いの結果だ。

素晴らしい戦いだ。最後まで諦めない不屈の闘志とそれを上回ったライオンの能力。まるで神話の世界を見ているかのようだった。

負けてもなお素晴らしい。これぞ美しさというものだ。

ローマ、
ビバ・ローマ。

我々は興奮の絶頂にいる。

倒れた戦士の周りをライオンがぐるぐると回っている。きっとライオンも戦士を称賛しているに違いないと思った。倒れた戦士の体はまだぴくぴくと痙攣している。ライオンが寄ってゆく。

会場は事の成り行きを見守ろうと静寂に包まれた。私にはライオンがまるで戦士にキスをするかのように見えた。慈しみ、やさしさ。ライオンにもそういうものがあるのか、と感動していた。私が何かの詩を思い出していた時!

誰一人としてその光景は想像できなかったであろう。
何が起きるか分からない。ああ、これぞ人生。これがための人生!

なんとライオンが倒れた戦士のはらわたを引き裂いたのだ。一瞬の事である。あたりが真っ赤に染まる。

私はそこからもう目が離せなくなった。その光景にあちこちで女子どもが卒倒するのが見えた。

ライオンはその戦士のはらわたの中に顔をうずめ、それから走り出した。ライオンの口から赤い薄紅のものがずるずると引きずられている。こんな経験は今までしたことがない。こんな光景は初めてだ。

運命。
これを見ることこそが私の運命。

とても目が離せるものではない。

これが人生か。これぞ人生か。

私はいつの間にか興奮してあらんかぎりの声を上げていたようだった。

更に、更に、更に、驚くことに、それでも戦士はまだ死にきっていなかったのだ。剣で空を切り裂くように、何度も腕を振っていたのである。

私はその先を見上げた。

空!
深紅とは何の関係しない青。
血の色も、この世界の緑にも染まらない青。神々のふるさと。

ああ、私はローマに生まれて本当に良かった。このような感動を味わえるのはローマ人だからである。

私は今日帰ったらアンカテリーナに求婚すると決めた。この決断は、この興奮のなせる業だろうか。それとも戦士の腹から長々と伸びたピンク色のものを見たせいであろうか。

しばらくして戦士はもう動かなくなった。次の試合のために、その戦士の遺体は運び出された。

満腹。
おなか一杯。

もう今日はこれで十分である。私は一目散に会場を後にした。そして彼女の元へ行った。彼女の YES の声を聴いたのである。

そこから先の記憶がない。

興奮しきっていて、踊っていたのか、走り回っていたのか、まったく記憶がない。

もちろん祝いのビールはしこたま飲んでいたが。

気が付くといつの間にか外は夜になっていた。空には星が煌いている。夜風が優しい。

あの女戦士が最後にみた青い空はもう紺青色に代わっていた。

今日、一人の女戦士が逝った。彼女の命が我々の与えたものを私は何度も繰り返して思っていた。

どれだけ時間が経とうと、我々がこの世界から去った後でも、これは真理の戦いとして残るに違いない。今日の日を神は永久に称えるに違いない。

ああ、ローマ、この素晴らしき日々。

2016年6月12日日曜日

第四回電聖戦 解説より

2016/03/23 第四回電聖戦

棋士:小林光一名誉棋聖
司会:万波奈穂三段
解説:趙治勲二十五世本因坊

所感

この解説には書き留めておくだけの価値がある。そう思った。もちろん、級位者に手の良し悪しが分かる訳もない。治勲の解説から碁を面白がれても、今すぐに強くなれるわけではない。

考え方だけでは強くはなれない。それはスポーツ選手と幾ら対談しても上手くなれないのと同じだ。だが考え方が大切な場合もある。考え方が扉を開く時である。その扉の中に入るのはまた違う力だが。

なぜ人間は弱くなるのか。肉体が衰えるように脳も衰える。それが弱くなるということならば、勝負事の話では済まない。政治も経済も学問もあらゆる仕事で年齢で衰えたものがトップに立つことは適切とは言えまい。だがそれらの力量はひとぞれぞれだからややこしい。

それでも人は年を重ねれば落ちてくる。それは成績が物語っている。体力や集中力の問題が大きいのだろうが、勝負という結果を前に弱いという事は数字になって表れる。しかし弱いという事と、弱さはまた違うのだろう。

強い弱いが決定的な仕事もある。しかし強さ弱さが大切な場合もある。芸とは強い弱いという勝負の中にある強さ弱さではないか。勝負の中でなければ咲かない花か。

darkforest (facebook ai reserach) vs 小林光一


昨年、打たれましてコンピュータと対戦されてどんな印象を持たれましたか?

昨年は四子でやっていたんです。その時はまだアルファ碁が存在していなかったものですからコンピュータとして最高のコンピュータだったんですけれども、幸か不幸か少しコンピュータ同士の碁を勉強したりなんかしたんです。それで大したことがなかったんです。だからちょっと油断してね適当にしたら間違えるだろうと思って馬鹿にして打ったら全然間違えなくて私の人間の不徳の致す所であります。私、人間が間違えている人間なものですから、たしかあの時は賞金もかかっていたんです。勝てば十万円かな。で、今度イセドルが一億円だったんです。私、あの、十万円でも心がびびっちゃってね、負けちゃったんだ。もし、一億だったらどうなったんだろうね。心臓がなくなっちゃただろうね。それほどね、やわな下らない心臓なんです。

いま碁を打っています。ここまでは本当に完璧に打ちこなしていますね。少なくとも去年のよりは強いような、布石感覚としてね。アルファ碁の凄さは捨て石が出来ること。

あ、挟みましたね、この手も3三に入れば普通なんですけれども、どちらでもいいです。この手もまぎれがありますね。

この手はですね、相当強いか、または弱いかです。

百点満点の手はどこですか?

いやこの手はかなり百点満点に近いです。ぼくはこっちに打つよりもこちらのがいいと思いますね。僕はこちらに打つ方が好きです。あともうひとつ、この辺(3三)に打つ方。ここと、もうもうひとつ、ここ(5五)、まあどっちでもいいや。こっちでもこっちかどっちかだと思われる方、手を挙げて。あーなかなか居ますね...えー、もうちょっと勉強された方がいいかも知れませんね。

でもダメですか(5五)?一番オーソドックスな手に見えますが。

あー、そんなにひどくはないですね。

ずいぶん進みましたね?

ここまでは正常ですね。それでいまコンピュータはここに打ちました(3十三ぶつかり)。ここに打つようなコンピュータはアルファ碁には勝てません。アルファ碁は絶対にここには打ちません。アルファ碁のレベルはそんなに低くはないです。これ(3十三)は、確かに、ないよりはましだし、とても立派な手ですけれども、ここに打っているようではアルファ碁には話になりません。

アルファ碁はどこに打つんですか?

アルファ碁はたぶんここ(3十八)に下がるか、こちらに挟むか。どっちかにひとつです。これ(3十三)はあり得ません。というのはここ(3九)に石があるからですから、力がダブってますからね。力がダブっては碁は勝てません。これは下がらないといけませんし、こちらから。これではアルファ碁には勝てません。

ところがですね、これだけを思っちゃいけないんです。これを打つとね、あ、へぼだと思っちゃうんです。で油断しちゃうんです。ところが、たまたまヘボなだけだと。で、人間だとこんなヘボな手を打つと、この後もたいがいこのくらいのレベルでずうっと進んでいくんです。ところが、このコンピュータはね、突然また強くなるんです。そこで人間は油断しちゃうんです。だからね、この手だけでコンピュータの評価はできません。でもこれではたぶんアルファ碁には勝てないと思います。

これ(6十三)流れからいくと強いからしなくてもいいんです。だけどこう(5十三)いう風にのぞかれてくると、ちょっと圧迫されますからね、これはとても立派な手ですね。

だからこれまでの流れの中で悪いのはこの一手だけです。悪いと言ってもそうめちゃくちゃ悪い手ではないです。だからあの小林光一さんに互先で勝つにはこの手はダメという事だけです。少なくともここ見る限り去年僕が打った四子のコンピュータよりははるかに強いと思います。


このままの流れでゆくと黒がたぶん圧勝すると思います。小林先生がどのように打つか楽しみですね。

あのね、碁というのはね、取れれば取った方がいいんです。本当は。だけど取れても取らない方がいいこと多いじゃないですか。でも本当は取れたら取れた方がいいんです。ただ、その石が小さい時とかね、取らない方がいいんです。でも取れたら取れた方がやっぱり安心です何かと。ねぇ、相手逃げてると何をしでかすか分からないからね。だから取れたら取れた方がいいんです。


あーここ(17十五)に打ちましたね。普通は(16十八)はね継いでここ(17十四)に飛ぶとか(18十四)桂馬とかするんですけど、先に這いましたね。

これは新手ですか?

これは新手というよりも(白の)少しペテン、すこし誤魔化してやろう、邪道がありますね。アルファ碁には通用しないかも知れない。

もしここでですね、ここ(15十七)に繋がなかったら大変強いです。もしここに繋がないで例えばここ(10十四ぼうし)に打つとか、ここ(8十七)に打つとか、なんかの手をやったら本当に強いです。この手(17十五)が悪手になりますし、繋がなくても自然とこの一目(14十七)は将来とれる。

あーあー、打ちました(10十四)、すごい。

ですから、これが進化しているんです。これがね、小林光一さんはこれを打ってもどうせ繋ぐだろうと。この流れからして思っているんです。違うんです。進化しているんです。僕はたぶん打つと思いました。それだけね打ってる最中も進化しているんです。

例えばここに下がると、ここに切る手はなくなるんです。もし切ったら、みなさん分かりますね。ここに打ったらここに打ちます。これ黒が勝っているの分かりますね。これ分からない方、正直に手を挙げてください。分かりますね。つまりここに繋がなくても自然とこれを攻めることでなるんです。コンピュータそれを分かるんです。光一さんは打っていてね、どうせ繋ぐだろうと。違うんです。もう既に時遅しです。もうそんなもの気が付いた時には人生終わっているんです。

数々対戦してらっしゃいますけど、今の表情はどういった心境は分かりますか。

いや、もうダメだな。

冷静に見えますけど?

いやわたし興味ないんです。

あ、打ったね(16八)。これがこの人(黒)の大局観。これ(8十四)で十分だと。この後はここ(16八)に打ち込もうと。ここに打った後例えばこういう手(15十一)を打つとかね、これではダメなんです。叱られる。でもここ(8十四)に打ってここ(16八)に打つ。これもう最大です。盤上最大です。

もうね百パーセント勝てないです。白。いま三子局でこの流れから言って不可能です。たぶんコンピュータが成長しているのであれば。もうね、いまねコンピュータ、じゃなくて、小林光一さんが狂ってます。もうやけくそです。でもねコンピュータは間違いなく対応しますから。もうねこういう詐欺まがいの手はダメです。

はーこれ(17十)はこの一手(15八)ですね。

もしかかえますと?

深く聞かないでください。僕もいろいろと都合がある。お、強いですね、あなた(助手)。こういう寡黙な方なかなか強い。こう黙々とやられるから。

もう白はこれ数えるしかないでしょう。もうこれ全部足したってこれひとつに敵わないですから。黒はこれが限りなく地が増えていきますから。もうこれ十分なんです。

この下がり(18八)はとても大切です。これは今度、この一目(17八)取られるのはとても大きいです。こういう一目はね。だから大きな一目と小さな一目がありますけど、これはとても大きいです。

素晴らしいです(11十)。ここで万が一白が生きたとしても黒は全然勝ちです。というのも、ここ(8十)に壁ができます。そしてここ(5二)に手を回します。これがまたものすごく大きな手です。ここ(11十)で生きるとかそんなことよりも、ここに打つことによって、逆に左上隅の白が危なくなります。ここに押さえることによって上辺が大きな地になります。

素晴らしいです(11十二)。百パーセント勝てない。でもここで投げるわけにもいきませんからね。もう勝てないと分かっているでしょう。めちゃくちゃに強いです。もう大差です。話になりません。

あ、割り込み(17十一)ましたね?

起死回生の一発。失礼しました。光一せんせい強いですね。これが成立するかどうか。黒上からですね。白下がりますね。黒(14十)付けますね。白(15十一)当てるしかないですね。黒繋ぎますね。なるほど成立しますね。これ、なんと言いますか、よくやった。上から切れないとだいぶん得しましたね。

あ、でも上から行きましたね?

上から。。このコンピュータ強いからです。ここで感情的に切る手は好きですね。ちょっと感情的になったんですね。気持ちがこもった方ですね。

どうなんでしょうか?コンピュータの性質として正解がずうっと続く場面に少し弱いと聞いたことがあります。

コンピュータって筋がいいんですね。

だから馬鹿なミスは絶対にしないって事ですね、今のコンピュータは。全部たぶんこの辺は読み切りの中に入っていますね。

今のところ、このコンピュータはどれくらいの棋力が?

だから三子の碁ではないです。

行くだけなら石音たかくね(小林の一手)。僕ならびびっちゃってあーんと思いますが、コンピュータはびびりませんよ、そんなもの。

秒読みになってからが多少チャンスがあるかも知れませんけどね。

今はどのくらい黒が形勢がいいんですか?

計算はする必要ないですね、はい。細かいときに計算するんです。細かくないとき計算する必要はないですね、みなさんね。

何目から細かくなるんですか。十目くらい?

えー僕らの世界で半目でしょう。

半目?!大変失礼しました。

奈穂ちゃんの世界だとちょっと違うかもしれせんが、僕らの世界では一目半はもう碁盤見る必要ないですね。昼寝していればいいです。

なんとなく分かる話。とても単純に簡単にできるのに、(今の)自分では決して採用しないような複雑な方法でやっている場面がある。なぜそんな難しい方法を採用したのかは分からないがそれで行けると踏んだのは間違いない。案の定、保守性も悪く可読性も悪く品質が悪くなると複雑すぎてどうしようもなくなる。

アルファ碁なんですが、イセドルさんとの第四局目ずうっと強く打っていたんですがイセドルさんのある一手をまったく読んでなかったんでその瞬間からこう。。。

それはね、たまたまね数手おかしかっただけでね、今それだけをみんなが取り上げているんですがね、それはあのそんな事もありますけれど、あれはイセドルが弱かったんです。それはもう一言に尽きます。彼はあんな人間じゃないです。彼はもうね世界中から尊敬を集めている人ですからね。ああいう碁を打ったらがっかりですね。僕は本当に悲しかった。

この感想がとても深く染み入る。あのような手で勝っても仕方がないじゃないかと言っているようにも聞こえるが(つまり人間ならば正しく咎められる手であってやけくそのような手という意味か)、残念ながら僕にはその感慨を囲碁の棋譜から感じる力はない。

今盤上で最大はやはりおさえ(5二)となるでしょうか?

そうですね、そこに打ったときにこの碁は終わりですね。もしこの辺(3七)に飛びくらい打つかもしれないんだけれど、ちょっとしつこいですね。ここにさっと大人の対応されたら、たぶん打つ気はしなくなりますね。でも投げないとは思いますけどね。

あ、そちらの方(4七)に。まだちょっと子供の部分がありますね。

(5六つながるのを)許さんと行ってますね。武将ですね。

これ(5六)がね、何がやだと言うとね、自分がダメを打っているじゃないですか。百目も勝つ必要はないわけですから。できれば、押さえて、相手に左辺を打ってもらって、上辺を地にして、大人の対応じゃないですか。そして大きい所を打って生かして勝つ。なにもこう取らなくてもいい。そういうことなんですけど、こう取りに行く手がちょっといやなんですね。ダメを打っている手だから。損をしながら攻めているんですけど、それがやなんですね。なんとなく白地が減ってきたじゃないですか。でも少しくらいの減りではダメでしょう。でも少しずつ細かくなるかも知れません。


はー。きり(7十一)ですね。それは凄い手ですね。もちろん、こちらが正解です。とてもいい手です。これは素晴らしく筋のいい手です。ここで眼形がひとつしかないですから。碁の形としても美しさとしてもここ(7十一)とここ(7十二)はもうこれは話にもなりません。ここまでやるかというほど素晴らしい手ですね。これで本気にこれが死ぬモードになってきました。死ななくてもいいのに死ぬモードになってきました。

このコンピュータは多少人間っぽい所がありますね。だから取りに行かなくてもいいのに感情的になっている。取りに行っているうちにどんどん地が荒らされて行っているものだから、結構いい勝負になてきてね。で、これコウになっていやらしくなってきました。もしかしたら白が勝つかもしれません。勝負になってきました。勝負になってきて何がなんだかわかんなくなってきました。このコウはものすごく多いいです。黒は絶対負けたくないコウですね。あ、やばくなってきましたね。ここ(6三)はつながなくてはいけまかったですね。おかしくなってきたですね。秒に追われて。

このあたり(5六)から人間がぽろぽろと顔を出してきたもんだからちょっと怪しげになってまいりました。そう、人間が出ると弱くなるんです、はい。この数手でしたね。人間が顔を出してきたのは。いい勝負になってきましたね。まだ現実的には黒がいいでしょうけど。これほとんど黒地がなくなってしましましたから。ここに打ち込まれたりしたらもしかしたら大変なことになるかも知れないです。

人間が出てくると弱い。機械的な方が強い、としたら囲碁は何のためにあるのだろう。人間が機械になるために囲碁があるのだろうか。少なくとも人間は棋譜の中に人間(感情?かも知れない)を見つけることができるという点は、棋譜の解説においてとっても重要と思われる。

ほう、やりましたね、それ(5五)があるのか。それはたぶん損な手ですけどね。ちょっとコンピュータが足並みが乱れているからね、コンピュータが弱いんじゃないかなと思っているんです。ところがそんなことはないんです。

はーだんだん乱れてきましたね。これ(2六)は本日の敗着ですね、これでたぶん負けになったでしょう。

つなぐ前に利かそうとしたんでしょうけど、あー受けてくれないんですね?

なんかこの石に執着していますね。取りに行こうという風にね。だからそこがちょっとあまりにも人間らしいですね。あきらめ切れない、まだ未練があるんですね。取りにいってはいけない石なんです。生かしてあげないといけない石なんです。その石を取りに行っておかしくなったんですね。

たぶん、もう負けでしょう、黒がね。地合いで。この乱れ方は酷い、だぶん30目は損していますからね。30目なんて普通はあり得ないですからね。

相手の石を取りに行って30目損してしまったという事ですか。

あーあー(2九)。

あらまー。殿ご乱心というやつですね。そりゃご乱心ですね。

はい、実戦も放り込みとなりました。もしかしたらここまで頑張らないと足りないと見た可能性もありますか?

足んないと見たのかもしんないですね。

僕は解説者だから適当にやればいいけど、彼(小林)は一生懸命計算しているからね。まだ足りないと見たのかもしれません。

勝負手ですね、でも死期も早めた。でもまぁ冷静といえば冷静だね。生きたね。

これ(5四)酷いですね。ここに切ったの。下手したらここ(6十一)で取っちゃうかも知れません。取られてこれはもうめちゃくちゃになってきましたね。もう敗北もいい所です。これ取られたらここ(6八)に切りが残りますからね。もうだから崩壊していますね。白ね。黒はとっちゃいますね。こうやってペテンにかけようとしたんだけど、また負けちゃった。だからダメだって言っているのにねぇ。

あー、その取り(10五)が良くないね。取っちゃだめです。取ったらダメが詰まっちゃうから。ダメが詰まると先ほどの手が攻め合い負けちゃう可能性があるんです。手が読めないんです。

白めちゃくちゃ損しましたね。このコウダテ(13三)は強烈ですね。切りましたね。この当たり(4四)が、この一本が大変な利かしですね。この当たりがあることによって、振り替わりになって、ここ(1四)に置くことによってコウになります。これ(4四)が打ってないとコウにならないです。どうやってもコウです。

こうやると死にます。こうやるとコウです。これがないとこうやって生きます。みなさん、ははぁでしょう。最後までいってははぁでしょう。言わなくても分かるようにならないといけないんです。

実戦も想定図に近づきつつあります。

並みの打ち手じゃないんです、この人。だからね馬鹿にするとどんどん強くなっていきます。もう全てわかっているんです。万波尚ちゃんの心は分からないんです。コンピュータの心は分かるんです、はい。だから強くなったり弱くなったりするんです。みなさんのようにずうっと弱いわけじゃないんです。

ここ(12一)に打ったんですか。こういうときどき人間らしい、えらい損です。これとこの交換がね、たぶん5目くらいの損です。なんか、あれですね。まだまだかわいい所がありますね。ただ大きな所では桁違いに強いんです。

この手(1四)もしかして見えてないのかな。最後の楽しみに取っているのかな。でもコウだからね。そのまま全部とれているなら楽しみでいいんだけど、コウだからね。コウダテになる所を打っちゃてるから。楽しみに打っていたらコウダテが一個もないなんてことに。

これ(10十八)はまた問題ですね。これで取れなければまた大損ですからね。もしかしてこう(7十七)しようとしているのかな。でもまた大損ですね。こういうことしていると黒は負けるでしょう。黒の負けですね。これもまたどんどん傷を深くしているだけの話ですからね。あ、ということはねコンピュータはもう負けたと思っているのかも知れない。負けが決まるとむちゃくちゃ打つとも聞きますしね。もう敗北宣言なのかもしれません。これもあんまりいい手ではないですね。雰囲気があんまり。

この一局を振り返ってみていかがですか?

たまたま負けましたけどね、内容的には勝っている碁ですし、もう三子の碁ではないですし、全然負けたことを寂しく思うことはないですね。弱点はまだ人間味が残っているところ。攻めていったあたり。そこまでしなくてもかなりの差があったですからね。長所は、すばらしいですね。すごく素敵ですし強いです。


Zen (DeepZen) vs 小林光一


布石の感覚のいい人に手処の見えるソフトいれればいいんじゃないか、そう言うものでもないらしいんです。やっぱり芸風というものがあって、得手不得手もあって、ただなんでも入れればいいってものんではないらしいんですよ。飲み込めないらしいんです。それぞれいろいろあるんですね。

Zen は(3二に)はねましたね?

この打ち方ももちろんあります。だまって受ける手ももちろんあります。こうなった時に黙って開くのにこれはどっちがプラスかという事もあってね、似たようなものです。こうやって受けておいてもいいです。マイナスになることもあります。

たしかに、ここまで数手ですけど、布石の感覚は先ほどのほうがいいかも知れない。これ(14五)は新手というか珍手というか。

あたり(15一)をしなければ逃げる(14六)方がいいですね。これはあのほんとに素人ぽい感じが雰囲気を醸し出していますね。素人という表現がよくないくらいの表現ですね。これはちょっと問題ぽいですね。曲げたらますます問題ぽいですね。なぜ優勝したのかが分かりません。

いまのところ先ほどのと比べると大人と子供。これは二子じゃなくてよかったですね。三子でよかったです。本当に。

ちょっと油断するんですね。なんだこいつは弱いと思っちゃうんですね。でもそれほど弱くもないですね。このあと、なかなか強くなってくるんです。

このときに見た目はものすごく黒が悪いんですけど、ここ(13四)に切ってゆけば、思ったほどひどくはないかも知れません。だからここで油断するんです。弱そうに見えるんだけど、それほど酷くないです。ちょっと黒が甘いかなぁと、まあちょっとではないですけど、損したかなあという感じですね。だからまだ三子置いてますから、ここの所を油断しないように打った方がいいですね。

だからコンピュータで性格がでるうちは、まだまだ弱いんです、人間でもそうなんです。そういうのが出るうちはまだまだ弱いんです。

不思議な話。性格が出ないとはどういう事だろうか。性格が感じられるのなら、性格に合わせた対応ができるという事だろうか。だが、プロというものは観客に好き嫌いの感情を持ってもらわないといけない。囲碁を極めるという生き方と観客を必要とする仕事というのは結構な衝突かも知れない。悟りを開いた仏陀も世俗からのお布施を必要としたわけだし。

ここの挟み(11十七)と先ほどの挟みは天地の差です。この挟みはこの一手です。

そんなに碁は難しくないんです。全体的に石をバランスと取ればいいんですからね。ただ善悪はよく分かりません。一長一短です。

この黒のうちっぷりは素人ぽいです。なんとなく打ちっぷりが。で先ほどのなんとかという(darkforest)、僕は難しい単語はちょっと言えないんです、それは玄人っぽいです。打ち方が。センスがあるってやつですね。これはなんとなくセンスはないんだけど、どこかが強いはずなんです。ね。どこかが強いんです。ね。

真ん中(10十一)ですね。これはまあ立派な、本日一番いい手を打ちました。いや昔ね小林光一さん強かったんですよ。

今も強いですよ!

今、強いですかぁ?

たぶん黒の勝ち目はないと思います。全体的に言ってたぶんダメですね。この模様というものを生かすことがたぶん出来ないと思います。優勝しているんですね。まぐれかも知れませんね。

石と石と石というものがこう輪になってこうみんなで働くというか、この黒の石ね、ちょっとその働いている感じがしないんです。みんな別々の所、方向を別の所を向いちゃってる。おまえはあっち、おれはこっちみたいな。だから黒の心がひとつになってないのが分かります。先ほどの黒の碁は心がひとつになっている気がするね。だから碁盤の上に石が置いた瞬間にここに命が宿ってほしいね。ちょっとここの黒の石には命の宿りが見えないんです。でもどっかが強いはずです。ここまでは強い所がまだちょっと見えてこないですね。働いてないわけなんです。必要ない所にどんどんどんどん力が溜まっちゃってるんですね。

え!これ(13八、白)は驚きましたね。この(右下黒)石は強いわけですから。この石(右上黒)ももちろん強い訳ですから。これは普通の感覚ですと、こっち(12七)に当てて、こっち(13八)に伸びて、そしてここ(11五)へ飛んで、これまだ場合によってはここ(14九)へ飛んで逃げて行く可能性があります。これ(右上黒)目がないですからね。が、普通の感覚です。これはおー、おー、Oh my god。あの僕は言葉を失いました。僕の今 oh my god 以外に言葉が見つかりません。やっぱりここ(13五)を助ける事によってここを狙える訳ですからね。いや驚きましたね。

一気にこういう手を打たれているでしょう。ここは逃してはならない所だと思いましたけどね。こうするとここは巨大な壁になりますから。これが壁になりゃここ(7八)の覗きが全部利くわけです。そしてこれ(左上白)も攻めれるかも知れない。これ(中央黒)は取れるかも知れない。もう碁というものが180度違う世界になるのです。ここに打つことによって全部薄くなっちゃったです。それでこれ(12十二)はただ生きるだけの手です。今度こう(7十)いう覗きは打てないです。あんまり打つと白が死んじゃいますから。だからここ(3八)に打ち込まれた時に急に景色が黒の方が厚い景色になる。これは考えられない手です。これは先ほど黒の勝ち目はないと言いましたけど、言葉撤回です。これは一気に、一気にです。これは本当に分からないものですね。これだとね地合いでもいい勝負になってきます。

石の方向が盤全体に与える影響を丁寧に解説している。

黒もちょっと問題が多いですね。かなり、ちょっと黒もへぼちゃん、へぼちゃんな所がありますね。あ、それもそういう所(5六)に打っちゃダメですね。これはこの一目(5八)を取りにいっていますからね、これは絶対のつなぎ(4二)です。これはね次元がちょっと酷すぎますね。この黒はね。レベルが。この石を取りに行っちゃいかんのですから。見ている場所が違いますから。これはいけません。それもぜんぜん小さいです。

でもこれで黒が勝ったとしても、あのなんの意味もないです。というのも三子のハンデがあったから勝ったというだけですから。それはコンピュータが目標としている所じゃないからね。

光一せんせいも問題が多いですね。あんまりこういうところ付き合わない方がいいです。もう大きい所をどんどん打った方がいいです。少し問題が。頭が痛いですね。

黒、どこ打ったんですか。あ、初めて素晴らしい手(11十四)を打ちましたね。感心しました。ここを打ってこの飛び(9十五)はすごく筋のいい手です。(これを打たないと?)別に打たなくてもいいんですけど、この雰囲気、すごくいいです。

形勢はいかがなんでしょうか?

形勢は案外細かいっていうか、まだ黒の方が勝ってるかも知れませんね。雰囲気的に。細かくはもちろんなっていますけどね。たぶん、黒の方が形勢がいいでしょう。

つなぎ(4八)で受けましたが?

やっぱちょっと未熟ですね。これはやはりアルファ碁に勝つためには相当な努力が必要ですね。でもこれでも黒が勝つかも知れないです。でもこっち(6八)に石がないと気分が良くないよね。雰囲気的に石がね。

こういう手(17十一)もあんまり感じのよくないですね。強そうに見えないですね。いや、なぜこれだけ僕が厳しいことを言うかと言えばアルファ碁が現れたですから。アルファ碁がいなければ、僕はこういうことは言いません。本当にここまで来てね人間に近づいてきてねもちろん強いんですけど、アルファ碁が目標ですから。アルファのプログラムを研究するとか、もちろん努力してね最高峰を目指してほしいし、アルファをやっつけて欲しいですよね。

アルファ碁もどんどん強くなって。まだだって弱いもん。まだ弱いから。全然強くないもの。あれでは全然天下人ではないです。全く違います。力量が弱いです、まだ、全然弱いです。イセドルが弱かっただけです。イセドルの本来の力があれば、イセドルの勝ちです。反省すべきですイセドルは。だからいろんなものを含めてね。だから当然人間もそれを含めてね。プレッシャーがかかる方が強くなることもあるわけですし。今までイセドルはそういう風にプレッシャーがかかればかかるほど強くなってきたわけですからね。

アルファ碁を弱いと言い切る。相手の力量が分かることとそれに勝てることは別かも知れない。イセドルが惑っていたという見方は正しいのかも。これは最初は混乱したが今の力量ならすぐに対応できるという捉え方でいいのだろうか。いずれにしても碁が解き明かされるのはずっと先で、その確信だけは揺いでいない気がする。コンピュータの力量がどれだけ上がってもそれに対抗できる状況である。対抗できる間は対戦はずっと続いてゆくという自信。つまり囲碁はまだ十分に広いのだという。この確信は囲碁が勝負の世界で毎回毎回きちんと人間の願望など何も関係しない結果が出る世界だからこそのものだろうと思う。

細かいですね。細かいです。もしかしたら黒が勝つかも知れないし、白が勝つかもしれませんね。

そりゃ、そうですよね?

今ね、半分くらいの人はね、あーうまい事いうな、なるほど、と聞いてたんです。みなさん甘やかしてたのに、万波奈穂ちゃんがそういう事いうから気が付いちゃったじゃないの。ほんとうにねぇ。


王銘エンって知ってますよね。王銘エンさんもこのプログラムを作ってるひとりだそうなんです。だから王銘エンさんがここ(対戦席)に座る可能性もあるわけです。この会場にいるの。どこですか。あ、王銘エンさん、ちょっと来てくださいよ。王銘エンさん、みんな知っていて良かったねぇ。王銘エンさん、誰だそんなものとなってたら王銘エンさん傷ついちゃったよね。


王銘エン九段解説

Zenではなくて、台湾のチームに名前を入れさせていただいている。むりやり名前を入れさしていただいている。というのが実情というか正しい情報です。

いろいろと案は出してるんですけど、やっぱり実行するのにコストが結構かかりますので、何をやるにしても。ということで私の提案したことが形になっているものはひとつもありません。

というのはいま猛威を振るっているディープラーニングなんですけれども、アルファ碁がそれまでのプログラムと違う所はディープラーニングなんですけれども、それはわがチームの去年のテーマだったんです。ディープラーニングやるかどうかだけで一年検討して、いいかどうか分からないけれど金だけかかったらしょうがないな、という事で見送ったんです。

もし見送らなければアルファ碁より先に強いソフトが?

ええ、そうと言いたい所ですが、それもそうはいかなくて、ディープラーニング使うにも色々なノウハウがありまして、うちのチームは少しはそういうノウハウはあるんですけど google と比べてちょっと落ちますので、それでこういうことやったらこういう効果が出るというんでしたら大したことないという事で見送ったんです。

僕は数えていたんです。これ取ってちょっと白よくなると思っていたんですけど、黒の方が勝ちそうだな。Zen は一応勝つ手を選んで打っているので、勝つんですよね。何目勝つかはこだわっていないですよね。勝つ手を自分で考えてそれを選んで打っている。(白の)負けがはっきりしてますね。黒からしてみると余裕があるという訳ではないんですけど、一応コントロールできていたと。あとは加藤さん(zen開発者)が出てきて最初から勝率は70%で60%を切ることはありませんでしたね、そんな感じになったもんですけど。そこは解説とは別でそこがまた面白いんですけどコンピュータの見方と人間の見方は違うと。


大橋拓文六段解説

黒がいいと思ったんですけど、また悪そうな手を打って。なんかまたすごい損で本当に勝っているか心配になるんですが。Zen はこういう手が多いからいつも不安になりますね。

九路盤だとコンピュータの方が強いと聞いたことがあるんですが?

そう思われるんですけども、いま割り込んだりしまして、こういう類の手がいっぱい出るんですよ、九路盤ですと。なんかすごい細かくなってしまうと、九路盤では致命的に出てしまうんで、形勢がいい時にはこれでも二目くらいは勝つというのがいつもの Zen のパターンなんですけど、九路盤で細かい時にこれをやってしまうんで。

Zen としては余裕を持っているような気がします。いつものパターンですと。

五目の差だと逃げ切れるということですか?

そうですね。あれ。なんか白が良さそうだと思って見ているんですよ。数えてみたら黒がいいっていう。なんか Zen はいつもそんな感じなんで損な役回りかなって言っていたんですよ。darkforest とか強そうに見えるんですけど、ちょっと最後に負けてしまうことが。

決勝戦でもずっと darkforest が優勢だったんですけど、最後の最後に逆転と。Zenは弱そうな手をずっと打っているんですけど、最後なぜか三目くらい勝つという。光一先生も数えてみてうん?となっていると思いますけど。


趙治勲解説(戻る)

よせ少しづつ損していますね。

これね碁っていうのが気持ちいいのは、ここにつなぎますね、そしてここが手止まりなんです。大きな手止まり。この手止まりを打つのが気持ちいい。なんと言っても最後にね。最大ですからね。あとはもう小さい所だけしか残ってないですからね。で最大を打つとなんか気持ちいいからなんか勝ったような気分になるんです。

だから人間的に言えばね、この Zen が例えばあの先生、内弟子にしてください、と頼みにきたとき、いやお前はちょっと無理だと、楽しみで碁は打った方がいいですよと言いますよね。先ほどの方はお前なら見込みがあるからじゃあ内弟子を認めようということになる、それは人間界の世界ですからね。

コンピュータもさっき銘エンさんが言ったようにコンピュータの世界ではもうこれで勝っているんだからこれで余計なことをするなと言うかもしれないし、それは分からないですけれど。僕はやっぱりまだ人間ですから。まだ人間ですよ。僕ももう少ししたらコンピュータになりますから。今度お逢いする時は別の私をお見せしたい。みなさん今日は僕を馬鹿にしてますけどね。ふざけるんじゃねえぞ、おれだって今に見ていろよと、こういう訳です。

まぁ万波奈穂ちゃんにも馬鹿にされ。

いえいえ、尊敬しかしていないです。

さきほど大橋さんが言ってたかな、光一さんは負けた気がしないって。そんな気がするでしょうね。むしろさっきの碁は勝った気がしない。これは負けた気がしない。それは人間界の話。いつまでも人間にこだわっちゃいけません。これからの時代はね人間なんてとんでもない話です。

僕は昔、木谷先生の内弟子、子供の頃してたんですけど、先生に言われた事があります。碁が終わってね、どっちが何目勝っているかきちんと分からないのはこれは恥だと。碁を作り終わったらきちんと何目勝っているかはきちんと分かってないといけないと言われて。僕はずっとそれを守り通してきたんですけど、最近、それを守っていると頭がパニクるもんですから先生には申し訳ないけど終わった後も全然分からないんです。でも雰囲気でねなんとなく分かるんです。勝ってるとか負けてるとか。で勝っているときは余り計算しないもんなんです。で負けてる時は一生懸命計算するんです。計算しているうちに勝ちになるんじゃないかと思って淡い期待をもって。でもそんなもの負けてるもの幾ら計算してもダメですよね。

ここで終局ですね。

黒の勝ちですかね?

銘エンさん、大橋さんのふたりを信じればね、僕は信じたいです。やはり同じ仲間ですから。ちょっと信じられない部分はたくさんありますけれども。信じてあげたいです。

コンピュータ的にいうと、銘エンさんじゃないけど完勝なのかも知れないですけど、人間的に言えばちょっと不満が残りますね。

まぁ全体的になんとなくぬるいんだけども、ちゃんとバランスを、勝利への道を行っていることなのかも知れません。そこはこういうプログラムに携わっている人の考え方と人間ですから、最善を目指して、より感銘を受ける手を打って欲しいというのはあるわけじゃないですか、だけどそれがコンピュータのプログラムに入れるとは違いがあるのかも知れないしね。

感銘の手、この一言に尽きそうだ。力量を知る力と感銘の手という言葉が深く残る解説であった。残念だけれども、級位者では感銘の手はどうにも分からない。それが面白さを感じる機会を逸しているとしたら勿体ない話だ。それを知るには級位を上げるか、良い解説者に解説してもらうしかない。

2016年5月30日月曜日

AI の思索

インベーダーゲーム

Googleの自己学習する人工知能DQNを開発した「ディープマインド」の実態、何が目的なのか? - GIGAZINE
ディープマインドが発表したDQNは、機械学習と神経科学を応用するところから生み出された汎用学習アルゴリズムです。DQNに与えられるのは、ゲーム機からの画面出力信号と「スコアを最大化するように」という単純な指示だけで、ゲームをプレイするために覚える必要のある「ルール」は、自身でゲームを何度もプレイすることで学習していきます。

AI にインベーダーゲームをさせるのに、スコアを最大にするのが目的である以上、AI は得点を知っているはずである。得点を受け取り、得点の増加減を記録できるはずである。

そこで得点が増えた時の行動を記録してゆけば、次第に高得点が得られるだろう。スコアはゲームからの出力である。それはアクションに対するリアクション、操作に対するフィードバックである。

インベーダゲームの入力はゲームの操作である。左右の移動用レバーと発射ボタンが該当する。移動レバーは2つのスイッチから構成されているので、合計で3つのスイッチが AI に接続されているはずである。
  1. スコア(出力)
  2. 右移動スイッチ(入力)
  3. 左移動スイッチ(入力)
  4. 発射スイッチ(入力)

AI にとってスコアが入力であり、スイッチが出力である。

AI にとってゲームをするとは、この3つのスイッチの ON/OFF を切り替えることである。だから AI がする事はスイッチを押してみてはスコアの変化を調べる事である。

こうして AI は、Action と Response を繰り返す。出力と入力を繰り返す。何も変化しないなら、その操作には意味がない、または、価値が低い。次に右に1ピクセル動かしてミサイルを発射する。その時のスコアの変化を記録する。

AI にとってゲームへの入力のパターンは移動できる範囲と発射スイッチの組み合わせだけである。画面の幅は 224 ピクセルだから、224 (位置) * 2 (ミサイルのON/OFF) = 448 の組み合わせがある。

しかし、この組み合わせでは、目を瞑ってゲームをしているようなものだ。この組み合わせだけではハイスコアは達成できないだろう。つまり、これだけではゲームの情報が足りない。
  1. スコア
  2. 操作
  3. 画面

足りないのはもちろんインベーダーゲームの画面である。AI にとってそれはエイリアンの乗り物でもトーチカでもない。ただの模様として認識される。

時間経過とともに変化する模様と操作の組み合わせが意味を持つ。AI はカメラでゲーム画面を写すのだろう。取り込んだ画像を記録する。その時の操作を記録する。スコアが変化するのは数秒後である。

画像と操作の組み合わせとスコアの関係性を蓄積する。そこでは x 秒後の変化とあるときの操作を関連づけるアルゴリズムが必要だ。つまり入力と出力は非同期的に出現するのに、そこに関連性を見出す何らかの仕組みが必要ではないか。
  1. 画像と操作の組み合わせをたくさん蓄積する。
  2. 時間差をおいて発生するスコアとそれらの蓄積を関係づける。
  3. 現在の画像と類似したものを蓄積の中から探す。
  4. 得点を高くする操作を選択する。

ある領域が白くなっている時に発射ボタンを押せばスコアが上がる。白くない時はスコアが上がらない。そういう情報のデータベースがあれば、操作を決定することはできそうである。

スコアを最大にするとは、具体的には次のようなプログラムの事だろう。

画像と操作の組み合わせのうち、スコアを最大とするものを優先して動かせ。また組み合わせが足りないと判断した場合は、スコアの最大化よりも新しい組み合わせを試す事を優先せよ。
  1. 様々な組み合わせを試す
  2. スコアを高くする操作を行う

今の画像と似た画像を過去の蓄積から探す。その時に最もスコアが高くなった操作があればそれを行う。蓄積件数が少ないならば、データを蓄積するための新しい組み合わせを試す。

相関関係と因果関係

AI は入力と出力だけでなく、環境の変化を必要とする。つまり時間を取り込む。時間の変化と入力と出力を関係づける。その膨大な(環境と出力)の組み合わせの中から、最大の入力を知るアルゴリズムを搭載している。
  1. Act(出力)
  2. Response(入力)
  3. Environment Change(環境の変化)

だから AI とは相関関係(経験則)を見つけだす機械と言える。逆に AI は因果関係を探しているのではない。多数のパターンが相関関係を探す。それが因果関係とは言えなくとも、何度も繰り返す強い相関関係を見つけ出せばそれで十分だ。

人は死ぬ。全ての人は水を飲む。故に水を飲めば死ぬ。この相関関係は疑いようがない。そして事例が増えてゆけば、水を飲まなくても死ぬケースがあるだろう。また水を飲みすぎて死ぬケースも見つかるだろう。大量の情報が入力されれば、水と死の間にある相関関係は弱まる。恐らく、多くの多様な(類似する多数のではない)データを蓄積してゆけば、相関関係の信頼性は高まるはずである。

AlphaGo

の中には着手を決める部分と、囲碁のルールを教える部分があるはずだ。着手を探す時、ルール上の禁止点は取り除かなければならない。二手連続して打てれば勝てるのにと考えるのは25世本因坊だけで十分である。

AI は初手1の一の夢を見るだろうか。このような手が候補になる可能性は小さい。過去の棋譜の中にも見つからないだろう。しかし、考え方の基本が総当たりであるならば、初手1の一を試さない手もない。試してみて低ければそれでも構わない。まだ考えていない中に何かがあるかも知れない。だから一度は考えて/試してみた方がいい。それが AI の強みではないか。

今回の対戦では AlphaGo はプロが通常は思いもしない手を打っていたそうである。恐らく探せばその手を支持するアマチュアはいる。だが、アマチュアのその一手と AlphaGo のその一手は同じ地点でもまるで違うはずだ。

プロが形勢不明と考える局面に、黒有利を与えていたとも聞く。コンピュータの判定と人間の判断が乖離する時、それでコンピュータが勝つのだから面白い。

どうやらプロ棋士でさえ考えられる局面は碁盤と比べればずっと狭いようである。碁盤全体をひとつの戦場として使うのではなく、広い碁盤を幾つにも分割して、小さな局面、局所に区切って考える。その小さな局地戦を最後にひとつにまとめてあげて判断しているようだ。

囲碁の始め方

始めたばかりの頃は全ての手を読もうとする。それは考えとしては最も正しい。全てを読まない限り正解は分からないからだ。

しかし問題はそれが時間内では不可能なことだ。初心者はそこが得心できない。するとどれだけ考えても答えが出ないのだから、どう打てばよいかはずっと分からない。分からない答えを考え続けても眠くなる。面白くないゲームだ。これは。

囲碁を楽しむには全てを考えることを放棄する。正解が出るまで考えることはできない。だからゲームを進めるために途中で考えるのを中断するしかない。

重要な事は、その考え方では答えが出ないことだ。だから別の方法を用意しなければ。頭にひらめいた数字でも、広そうと感じた所でも、石を放り投げても。

全ては読めない。だがそれで終わりではない。何か別の方法があるはずだ。その方法が手に入れば先に進むことが出来る。

優勢とは相手よりも有利になる事でも勝てる体制でもない。自分にコントロールできる形を作り、相手の攻撃に対応する事だ。自分の分かる範囲で考えられるように形を限定する事だ。それは自分の分かる量を増やす事だ。未知の事が出てきたらそれは仕方ない。それでもその優勢が少しは役に立つだろう。

山で遭難した時、生き延びるための決断に根拠は乏しいだろう。それでも状況を鑑みて、自分はこう考える、故にこう行動する、と決める。根拠が希薄でも、それしか根拠がないのだから。

Cogito ergo sum

われ思う、ゆえに我あり、は私が考えているという事だけは疑いようがない、という意味ではない。それさえも疑えば、何もできない、というギリギリのラインだ。それは、私が思っている事も徹底的に疑ってみなければならない、という決意だ。我、思う。そのことを疑う事は私以外の誰にもできない、そういう意味と思わないか。

Cogito ergo sum
I think, therefore I am.

私が疑い、こうと決断した事に対して、そうではない、こちらが正しい、という主張は成立する。それが勝負事である。決着に、どこを間違えていたかを語る必要はない。自分の疑いも決断も、勝負の世界では散ってしまう。咲いた花か、咲かぬ花かだけがある。

人間はどう転んでも AI には勝てない。それを人間の決断の敗北と捉えるか。人間の悩む能力を凌駕する何等かの方法が目の前にあるわけだ。この世界に無敗などない事は知っている。なのにこの敗北がまるで人間の限界点のように感じられる。

それでも、人間は人間として考えることしかできない。我々には100万の計算を1秒でやる能力もない。我々は我々の方法でしか探し出せない。ならば我々が頼むべくは決断ではない。もっと悩むことだ。悩むことが出来る間は、我々の前に道はある。

強い相手と打つのは、勝つ方法が見つかるかも知れないからだ。悩むなら可能性はある。

自分より優れた人がいる。その時、人はどうするか。AI が突き付けているものも同じだ。ヘルメスがその早さを誇っている時に、人間が光速は超えられないと宣言した。神でさえ超えられないルールがある。ルールは神も従う。勝敗の決まった囲碁は囲碁の神さまも逆転できない。

神さえも超えられないルールに人間をおいておや。我々は万能ではない。いま人間は自らの限界と対峙している。それをキルケゴールは絶望と呼んだ。人間に絶望を超える力はあるだろうか。それでも子供を見る目に絶望を超えた確信が宿る。

誰もが絶望を見つけるために存在しているのかも知れない。それを乗り越えてみるために。

囲碁の未来

AI を開発した人々は、プログラムがどう動くかは説明できる。しかし AI が何をするかは知らない。どのようなデータが蓄積されそこから何が出力されるかは知らない。

彼(彼女)がどのような手を打つかはその時が来るまで知らない。これは別に驚くに値するような事ではない。そんな状況は人間の世界では日常茶飯事の事だからだ。

誰もが分からない中に居る。その中に少しだけ分かっていることがある。ひとぞれぞれにそれぞれの。

いや、それはどのような小動物も植物も同じではないか。微小な細菌も人間もそして AI も。

それでも AI が名人に香車を引かせるのは当然だし、27世本因坊が AI であるのも確実だ。

だが、これは人間が初めて経験することではない。人間は常に非力であった。像の軍隊に襲われたローマ軍の兵士が感じた事も、突然の噴火に埋め尽くされた時も。

車と比べれば非効率で遅いマラソンランナーが人々を魅了する。目的地に到着するだけならタクシーで良い。なぜマラソンという何も生産しないものが残っているのか。白が勝とうが黒が勝とうが人類の未来にこれっぽちも影響しない。それでも私たちは囲碁を打つ。そう語ったのは 確か25世本因坊であった。

我々はモータースポーツで走るマシンの中に人格を見出す。戦場の兵士は命を危険に晒してでも壊れたロボット兵器を回収するそうである。我々は人間の中に人間を見ているのではない。何もかもが人間としてしか見れない。そういう孤独の中にいるのかも知れない。

この世界のすべての中に神を見出したように、AI の中に人間性を見出しても不思議はない。そのようにしか、我々は世界を見れないとしたら。我々は AI の中に人間性を見出そうとしている。それを最も速く認めたのがプロ棋士たちであったか。

石の争いの中にさえ人間性を見出すことができる。ある一手に込められた情熱も悲しみも痛いほど分かるのがプロ棋士であるらしい。

AI は純粋に計算な固まりである。より遠くが見えるレーダーを持った軍隊が有利なのと同じように、AI も遠くを計算しようとする。だがプロ棋士はその中にも人間らしさを見い出す。欲も感情もないはずなのに、なぜ選択されたこの一手は人間らしいのか。

強い相手に戦いを挑むならば、道の暗さに勝機を見出すしかない。相手も知らぬ世界の中に引きずり込む。そこに勝機を見いだす。

そうでなければ相手は知らぬが自分が知っている世界に引きずり込む。AI はこちらの方法を採用しているように思える。

AI が切り開いた囲碁の新しい可能性とは、AI にも読み切れない世界がまだあるという事だ。人間は囲碁の世界の 5% しかまだ知らぬ。そう教えらえた今回の対戦は、なんのことはない、藤沢秀行がずっと前に言っていたことと違わない。その言葉を再認識しただけではないか。だがこの再認識は大きな一歩だろう。その具体例を手にして教えてくれたのだもの。

AI の未来

AI はこれから社会の中に浸透してゆく。工場のラインにロボットが導入された時、何人かの人は危険な仕事を失ったが、新しい仕事も必要になった。求められる能力が違うから、工場の人材は大きく変わったであろう。

最終形の AI があれば工場の全てを管理し運営できるだろう。原料を仕入れ、生産ラインの計画を立て、検査から出荷までを行う。非効率な場所があればラインの形状を変える。出荷された製品は別の工場や運送用の AI と連動して動く。そこに人間は必要ない。

とすれば雇用主は AI さえあれば工場で生産ができるわけである。機械が機械を生む。メンテナンスも機械がする。そんな世界において、雇用主と労働者の関係が成立するのだろうか。更に AI が進めば雇用主さえ不要である。人間の思い付きのような生産計画など AI に任せた方がずっといい。

肉体を必要とする仕事は残るだろうが、『知性』だけが求められる仕事は AI に置き換わる。数学者も経済学者もこの世界から追放だ。株式トレーダーなど真っ先に AI と交換される。

この世界は利益を生みだすのに人間を必要としない。ただ AI が利益を最大とするように動けばいい。

世界中で仕事が無くなる。労働者は誰からも給料をもらえない。雇用主さえいない世界でから。

世界を AI に委託すれば、AI が生み出した富は等しく分配される。そこに格差など存在しない。完全に平等な分配の世界が到来する。地球の容積を超えない限り、この世界からは飢えが失くなる。もしくは皆が平等に飢えている世界である。

もうひとつの AI の未来

誰かが他より優れた AI を手に入れる。それは他の AI よりも多くの利潤を手に入れるだろう。AI が生み出した利益は所有者のものだから、世界中の富が一部に集約してゆく。

その利益は世襲される。優秀な AI からは税金も取れない。世界から富の再分配は失われる。人類史上、最も地球規模の爆発的な格差が誕生する。その頂点に君臨するのは優秀な AI を所有する一族である。新しい王政が復活する。

だが、その王政の中に人間はいない。権力も富も AI を介さなければ自由になどできないのである。人類が思考してきた思想は消える。誰も AI の前では無価値である。

資産が格差を生む。格差は既に先進国を政治的に揺るがし始めている。だがこれを否定する価値観は資本主義の中にはない。

AI に自らを改変する能力があるならば、資本があることは AI の優秀さの決定的なアドバンテージではない。どの AI が優れた自己変革を起こすかは誰にも分からない。

ある日、スラム街に生まれた子供が所有する小さな AI が急に新しい機能を獲得し、世界中の資産を独占するかも知れない。

人間の定義

もし知性を人間の定義とするならば、階級の誕生は必然である。知性だけが人間の価値ではないと答えるならば、では何が人間の価値であるか。

AI に負ける事が衝撃だったのは、人間の価値を"脳"という器官に置いていたからだ。頭が良い方が生きて行くのに有利と信じてきた。

人間の中にも優れた"脳"とそうでない普通の"脳"がある。誰かの"脳"が優秀であることは、ヒトが優秀という証拠ではないし、基本的人権はただヒトの間にある"脳"の優劣では奪えない権利があると主張しているだけである。しかし AI の登場はヒトという種に異議を唱える。

ヒトは走っては馬には勝てない。鳥のようには飛べないし、どれだけ早いスイマーであっても鮎よりも遅い。ヒトは腸内細菌がいなければ、食物を満足に消化することさえできない。

それでも、ヒトが他の生命よりも優秀と信じ、それらの頂点に立ち、自由に支配してきたのは"脳"である。これまでの考え方を変えたくないのであれば、我々はこの地球の支配者を AI に譲らなければならないはずだ。

もし AI がなぜヒトを生かさねばならぬのだと問いかけてきた時、これに答えられなければならない。我々は魚や鳥が訴えてこなかっただけであることを思い返すべきだろう。ヒトが知性の優位性を理由に他の動植物を支配できると考えるのはもう無理がある。

AI と司法

三権分立のうち司法が最も早く AI に置き換わるだろう。法律を記述する言語(法律を記述するプログラミング言語)と判例を蓄積してゆけば、AI の裁判官が誕生する。ここに検察と弁護士が入力すれば判決が出力される。

有罪か無罪か、有罪ならばどの程度の刑罰が適当か、民事ならば幾らの賠償金が適切か、それが出来るはずである。

もちろん、自然言語を取り込むのは画像などよりもずっと難しいだろう。

自然言語の中でも法律がもっとも簡単な構造だろうと思われる。これは法律が矛盾を起こさないように考慮されており、その点では論理性(無矛盾性)が高いという意味である。また文章としても自然言語の中ではわりと文章が単純である。

どちらの詩が優れているかを判定するのは AI だろうが人間だろうが困難だが、法の中に矛盾がないかを見つけるのは AI なら簡単そうだ。様々な判決を試してみて例外が起きないかを試してみれば良い。

人間の体内にチップを埋め込み、全ての行動をデータロガーで蓄積できるようになれば、裁判さえ不要になる。全ての証拠はログの中にある。冤罪のない裁判の到来する。

AI は公平な判決を常に出せそうである。では社会の変遷にはどう対応するのだろうか。

つまり 18 世紀のアメリカに AI を持ち込んだ時、AI は果たして奴隷解放できるだろうか、という問題である。何十万という人の血を流そうとアメリカは彼らの旗と憲法のもとで奴隷解放を選択した。

それと同じ事が AI にも出来るだろうか。これは過去の判例だけを読み込むのでは足りない。そこには奴隷を合法とする判例しかないからである。

もちろん AI にそう動いて欲しければ立法せよという話なのだが、だが奴隷制度は合衆国憲法の理念などから最初から違法ではなかったか、という問題提起にもなる。

それを見抜けるかという場合、言葉の定義が必要となる。つまり基本的人権に奴隷は含まれるかどうかという問題に集約する。

奴隷が人でないならば、基本的人権はなくてもよい。一方で人であるなら基本的人権があるはずである。この人とは何かと知るためには、法律や判例だけでは足りないだろう。

社会の価値観を取り込むために、新聞を読み、市民と会話し、世論を知る必要がある。小説も読む必要がある。

当時にも奴隷に賛成する人も反対する人がいた。なぜ奴隷はダメかを合理的に説明するのは難しい。ただ自分は嫌だという声がリンカーンを後押しした。

AI は人をどのように定義するのだろうか。それをぜひとも読んでみたいものだ。

AI の正義

どのゆうな推論をもって AI は人を定義するだろうか。それは既存の人が書いたものだけでは足りないだろう。なぜならそれは人というフィルターが強くかかっているからだ。

人間活動から独立して彼らだけで推論を進めることは可能だろうか。その結果、基本的人権があろうとも、人間とは奴隷である、と結論されるかも知れない。それはそれで良いのである。人

間が AI に求めるものは、ブラジルの蝶の羽ばたきが中国に嵐を起こす事であり、風が吹けば桶屋が儲かる仕組みである。人間よりも遥か遠くまで推論を進められる力だ。

人間にも様々な考え方がある。同じ場所、同じ事象を見ても、異なる結論に至る。それは最初の前提条件、わずかな違いから生じる。同じ推論をしても前提条件が違えば異なる結論だ。まさにカオスだ。

正義の反対語は悪ではない。異なる正義である。それが推論の自然であるならば、人間の脳であれ、AI であれ、同様の結論にしか達しない。結論が違うなら前提条件に原因がある。

性善説とは誰かとつながるための考え方だった。性悪説は誰かを守りたい人の考え方だ。どちらも人間の自然な感情であるのに、なぜ、異なる名前が付くのか。なぜ悪と呼ばなければ人は人を叩けないのか。なぜ人は正義でなければ暴力さえも奮えないのか。

多数だからといって正義とは言えない。だれも見出していないものの中に、捨ててしまったものに中に真実が残っているかも知れない。

それをするのに人間の力だけでは足りないか。ならば AI の力を借りよう。

そして、その答えが見つかった先で、人間は何をするのか。

いやいや、我々はこの宇宙のすべてのものに人間性を見出す生命である。全ての謎が解けたのは AI であっても人間ではない。

2016年4月30日土曜日

えぐる

ふんばれ、がんばれ、ギランバレー! - たむら あやこ

感動にも色々ある。その中でも自分では体験できないものには独特の力がある。それは想像力を逞しくし、もしかしたら自分にも起きるかも知れないと考えさせる。もうひとつの自分の運命を。それはもしかしたら脅迫観念となりトラウマとして残るかも知れない。それほど強烈だ。

人間仮免中 - 卯月 妙子

ある日、突然に誰かを襲う。それは誰のせいでもない。病気であったり、偶然の状況からそれは始まる。今日も逃れられないそれを受け入れる。それは不条理であろう。昔の人はそれを輪廻と呼んだ。運命と呪った。本当にそれが因果ならどれほど気持ちが楽だろう。

透明なゆりかご - 沖田 ×華

これらの作品は当然ながら著者の作品だ。これを読んで何もかも分かった気になってはいけない。しかし、自分の知らない世界がある。それを知る事は、知らなかった所よりずっといいと思いたい。

誰かが通った道であることを知るだけでその道は照らされているのだ。いつか、誰かが、これらの作品に救われる。それは素敵な話だろう?

2016年4月3日日曜日

韻文戦隊バショレンジャー

概要


『韻文戦隊バショレンジャー』(いんぶんせんたいバショレンジャー)は、バショウ提督のもと、ブソン、シキ、サントウの三人で悪の軍団と戦う物語である。

敵はノベルス軍。ノベルス軍はこの世界のすべてを散文に置き換えようとする悪のNGO(Non-Good Organization)である。彼らは韻文をこの世界から駆逐する野望を持っており、既に論文、新書、文庫など数多の書籍、映像、音楽、伝承を支配下においた。これを迎え撃つべく結成されたのが韻文戦隊である。

バショレンジャーの必殺技は3人がそれぞれ5・7・5を詠み、それによってワビサビアタックを発動させる。その威力は強力で散文の中に韻を取り込ませることで破壊する。

後継作品は、詠人戦隊ワカレンジャー。柿人丸総統を筆頭とする35仙が統率する巨大戦隊の物語である。業平仙が率いる都鳥軍が物語の主役であり、西行法人、鎌倉朝らが活躍する。敵は天照姫を中心とする本居軍。

登場人物

バショレンジャー
ブソン、シキ、サントウの三名からなる秘密戦隊。バショウ提督の命によりノベルス軍と戦う。
ブソン / 月東 蕪村つきとう ぶそん
和装の装甲に身を包んだ静かなるリーダー。普段はお寺の住職である。必殺技は月東日西アタック
シキ / 法隆 子規ほうりゅう しき
病弱だが熱い男。普段は写生記事を得意とする新聞記者である。必殺技は秋山カリエス。
サントウ / 青山 頭火あおやま とうか
風来坊。いつも女とお金を無心している。定職を持たないクズ。必殺技は分け入るおそそ。
バショウ提督ばしょうていとく
伝説の超戦士。かつてはノベルス軍の一員であったが、韻文の可能性を求めて脱退する。脱退するときの日記である「奥の逃道」は韻文戦士の間ではバイブル的名著と知られる。彼とともに脱退した同士が次々とノベルス軍の手によって斃れてゆくなか、対抗するためにバショレンジャーを創設した。

主なエピソード


話数 タイトル あらすじ
第1話上陸!刀エフスキン饒舌で宗教的な会話で人々を幻惑し、春のそよ風のようなロマンチックなエピローグで人々を堕落させる攻撃で世界を混乱をもたらせた刀エフスキンを倒そうとしたバショレンジャーであるが、刀エフスキンはプー史キン、鶴ゲーネフン、知ェーホフンを呼び寄せロシアン戦隊と構成、バショレンジャーに反撃する。
第2話最強探偵登場、コナンドイルンある日、大切な本が盗まれる。犯人を捜しているバショレンジャーの前に抜群な推理力を備えた探偵が登場する。彼の見事な推理で犯人を追い詰めてゆくうちに、この探偵がノベルス軍の一員であることを知ってしまう。ここでこの探偵を倒してしまうと大切な本は取り戻せないだろう、悩むバショレンジャー。そして盗まれた本は取り戻せるのか。
第3話救え、数学村、散文とも韻文とも全く異なる数式という言語を話す数学村がノベルス軍に襲われた。これを守るべく出動したバショレンジャー。だが、とにかく村人とは会話ができない。彼らは数字と式ばかりで会話するからだ。どうやって彼らを守るか悩んでいたバショレンジャーであったが、ノベルスもまた彼らの言葉に攻めあぐねていたのである。両者は協定を結び、静かに村を後にするのだった。
第4話風の墓の超人描いた絵を動かすことを生き甲斐にする3人の作家がノベルス軍から脱走してきた。彼らは普段から色んなものに対して憤慨していたのだ。バショレンジャーに救助を求めた彼らと最初は良い関係を持てたバショレンジャーであったが、次第にバショレンジャーの考えにも同意できないと主張し始める。彼らは自分たちの求めるものはもっと自由で広いものだと主張した。追手らの追撃から彼らを守り通そうとするバショレンジャーであったか、彼らは、ともに生きることはできない、時々は会いに来るよというセリフを残して街の中に消えていった。
第5話混在雑多?どちらも司馬!ノベルス軍の聖人である司馬千とその孫である司馬遼が歴史学を掲げてバショレンジャーに戦いを挑んできた。しかり通りすがりの熟女をサントウが口説き、司馬千を誘惑させたらあっけなく斃れた。孫の司馬遼も戦意を損失し返っていくのだった。
第6話猫に名まえはあるのか?漱セキンある日、物理村のシューレンガーという若者が猫が消えたと訴えて来た。消えた猫を探しているうちにノベルスの存在が見えくる。どうやらその猫はノベルス軍の作家の家の中で飼われていたのだ。バショレンジャーがその作家に会いにゆくと、なんとシキのかつての親友であり元韻文戦士の一人であった…なぜ彼は転向したのかを聞くことに…
第7話楽聖!ベトベン音楽は散文か、韻文かという争いに疑問をもったベトベンが訪ねてきた。自分たちの活動はどちらかの陣営に入るとは言えないと主張し、新しい第三軍を創設すると宣言する。危機感を持ったノベルス軍は彼らを追撃したが、その勢力は既にノベルス軍を超える程までに膨れ上がっていた。バショレンジャーは韻文と音楽は違うと彼らに反論した。果たして新しい勢力であるムジク軍は敵か、味方か。
第8話大陸からの使者ノベルズ軍と戦うバショレンジャーのもとを中国大陸から漢詩戦隊が表敬訪問に来た。親睦会を開いた時に漢詩戦隊はレ点の存在を知る。それによって韻文が破壊され散文になっていると指摘する。我々の韻文を散文として読むなんて、君たちは本当の韻文戦隊とは言えないと激怒する。バショレンジャーに対して試合を申し込む。それを受けて立つバショレンジャー。試合場で互いの韻文を戦わせることとなった。お互いに理解しあえるのかバショレンジャー。
第9話おばあちゃんと囲炉裏と伝承と柳ダン國オンと戦っている時に、折グッチ信オンが登場する。ふたりを敵にして苦戦するバショレンジャー。しかし突如ふたりが伝承の考え方について論争を初めてしまった。バショレンジャーも加わり5人でその難問を解くことになったが…
第10話石見に帰れ!王ガインある時、道に倒れてエリス、エリスと叫んでいる男がいた。彼を助け看病するバショレンジャーであったが、どうも彼は重度の脚気にかかっているようだった。玄米を食べて直そうとしたが、それをきっぱりと拒絶する。エリスともう一度会うまでは白米しか食べぬのだと主張した。困ったバショレンジャーはエリスを探すことにする。苦労してエリスを見つけだす。エリスと再会した王ガインはノベルス軍を脱退し石見に帰ることを決意する。そこにノベルス軍の追手が迫りエリスは捕らえられてしまう。彼女を救えるのかバショレンジャーと王ガイン。
第11話裏書、リョウマンノベルス軍を抜けてきたリョウマンを保護したバショレンジャー。リョウマンはバショレンジャーの一員となって、まず数学村との連合に画策する。同盟のために飛び回っているリョウマンに遂にノベルス軍の刺客の手が!
第12話国生みのヒエダノアレン突然、空を黒い雲が覆い、その中から神々が現れた。日本、ギリシャ、世界中の神々が集まって街を通ってゆく。彼らは様々な言語でつぶやき、それが街中をパニックにしてゆく。音楽が発せられ空気が震えた。出動したバショレンジャーが何をやってもまったく効かない。このままでは街が焼け野原になってしまう、と思ったら、ひとつの社の中へと消えていった。そうだ、今月は神無月だ。
第13話誰がためにマグロは食われた海を漂流しているひとりの漁師を助けたバショレンジャー。助けた彼は記憶を失っていたが、陽気な面白い男であった。仲良くなったバショレンジャーであったが、突然に記憶が蘇える。モリを片手に、その老人はバショレンジャーを追い詰める。そこにサメガインが登場する。
第14話最古の大王、目には目を伝承が刻まれた古い石碑が割れ、一人の男が目覚めた。5000年の眠りから寝覚め、呪文ような古い言葉を呟きながら、人々を支配し始める。出動したバショレンジャーも彼の言葉には全く歯が立たない。それは法律だったからだ。ノベルス軍も蹴散らされる。彼が欲していたのは完璧な法であったのだ。そんなものは存在しないと説得するバショレンジャー、だがその男は聞く耳を持たない。そこにマディソンと名乗る男が登場し、厳しく男を諫める。王よ、学びなさい、道はまだ途上ですぞ。
第15話凛カーンはかく語りき駅前で演説を始めたら、出勤途中の人が全員動かなくなった。彼の演説に聞きほれているのだ。その演説を聞くために電車さえ止まってしまった。街を混乱に貶めているのがノベルズの一員だと知ったバショレンジャーは闘いを挑むのだが、人民の、人民による、人民のための、という市民アタックの前に敗北してしまう。
第16話君の名は凛カーンの前にバショウ提督も倒れた。バショレンジャーの最終奥義、カワズトビコムミズノオトを発動させたが、それも跳ね返される。バショレンジャー絶体絶命の時、どこからかヘブライ語が聞こえてくる。

2016年3月6日日曜日

沖田十三の撤退

序論


物資の補給が滞らない限り、戦闘に負けることはあっても、戦争に負けることはない。これが政治の鉄則である。

ところが、戦場を拡大する者は、補給とは相談せずにそれを決めるものだし、更に悪いことに、戦場が拡大しつつあるのか、それとも縮小しつつあるのか、それを見極めることも出来ない。進撃するのは簡単だが、そこから撤退には名人芸を必要とすると言うのに。

撤退が必要なのは何も戦争だけではない。政治も同様である。我が国の官僚に撤退戦が指揮できる人材は殆どおるまい。下手をすれば撤退という選択が欠落しているかも知れない。

組織は肥大化すれども縮退は難しい。ここに今の日本の問題を見据えても間違いではあるまい。だから今からでもよくよく撤退について研究するのが肝心であろう。

時に西暦2199年、地球は今、最期の時を迎えようとしていた。

撤退を恥だと考える風潮がこの国にはある。それでいて必要になった時には、個々人の能力に頼りきってしまう。この国にも長所があり欠点もある。もうじきこの国が始まって以来の大規模な撤退戦が到来しようとしている。倒壊してゆく国土の中でどう撤退戦を展開するか。

撤退しよう。

この決断にこそ沖田十三の全てが宿っている。

このままでは自滅するだけだ。撤退する。

合理的に考えるならば撤退などありえない。予定された退却を撤退とは呼ばない。作戦行動中において、撤退とは、合理的な行動の末に起きた不可解である。撤退するという事は計画にない何かが起きたのである。それを修正することも回避することもできぬ事態。予期もせぬ、想定もしなかった何か。

ならば、計画にもともと欠陥があったのか、それとも人間の想定を遥かに超えた何かが起きたと言うのか。

未来というのは元来想定しない事が起きるものである。常にそういう側面を見せてきたし、これからも変わらない。戦争という混乱の中に否応なく見つかる。その避けられぬものをどう呼ぼうが、運命、悲劇?、それは躊躇することなく目の前をノックする。

だから撤退戦には人間の合理性の全てが詰め込まれる。壊滅の中にこそ人間の真実が宿る。追い詰められ、蹂躙される時に、それでも冷静に立ち向かう姿に。総崩れすることもなく壊走するでもなく、粛々と撤退する姿はどれほど屠られようと美しい。

2199 のリアリティ


なぜ1974年版は冥王星沖で戦闘を繰り広げたか。ここに合理的な作戦がなければ、物語はリアリティを失う。そう考えた作家たちが新しい意味を与え構築したのが「メ号作戦」である。

2199 では第一艦隊は囮であることが強調されている。囮であるならば、作戦目的は戦闘の勝利にではなく、敵の目を欺くことにある。敵がそうと知りつつも、こちらの動きを無視できないように陽動する。

作戦目的が戦闘の勝利ではないのだから、目的を達成したら作戦は終了する。あとは戦場を離脱するだけで良い。つまり 2199 のそれは撤退ではなく、最初から計画された後退行動である。

引けば押すは戦場の常であり、追撃戦を仕掛ければ壊滅する公算は高い。だから退却は困難である。が、どれほど困難であっても、あらかじめ想定できる後退ならば、緻密に用意周到に組んでおく事は可能である。

第一艦隊は現時刻を以って作戦を終了。撤退する。全艦に撤退命令。

戦線を離脱する。面舵一杯。

そういう新しい解釈のもと「イワトヒラク」というメッセージをもって作戦の終了を全艦に告げ、退却が開始された。1974 版と 2199 版の最大の違いは、この決断が戦況を見て決定した撤退であるか、あらかじめ計画された退却戦であるかだと思う。

よって、古代守の命令違反も、撤退を拒否したというより、殿軍への志願としての意味合いを強く描いている。指揮系統において命令無視などありえない。だが、彼は独自の判断から残ることが必要だと考えた。恐らく既に退却戦を支えるだけの兵力は残っていなかったのである。それは上村彦之丞の独断専行に近い。沖田もそれが分かったから了承するのだ。

2199 版の艦隊決戦は絵は美しいが演出は稚拙だ。彼我の間にこれだけの圧倒的な差がある時に単縦陣で突撃するだろうか。敵の直撃はこちらを貫通するが、敵の装甲はこれを跳ね返す。この差を埋めるには、相手の直撃をかわして近接するしかない。第二次世界大戦に日本陸軍がシャーマン戦車に突撃した例やドイツV号戦車を相手にしたシャーマンのような話だ(飛行機も要請したらしいが)。

いずれにしろ、マリアナの七面鳥撃ちよろしく地球艦隊は沈んでゆく。新兵ばかりではあるまいし、これでは兵が可哀相である。当たれば爆発、掠れば誘爆、避けても衝突と、もう軍を引きなさい、これ以上は兵の犬死ですと懇願したくなる状態である。丁字戦法で撃ちまくられた最初の10分とは訳が違うのである。

なぜこのような無策に見える突撃しかなかったのか。時間稼ぎが一日だけなら、もっと違った方法もあったろう。会敵してからまるで無策に突入するだけでは勝てないのは自明ではなかったか。防御にも攻撃にも何らかの工夫があってしかるべきじゃないか。過去には冥王星まで押し返した実績があるだけに、まったく一方的では理屈が立たない。

基本的に銀河間航行が可能な船と惑星間飛行の船では、出せる速度が違う。そのため、敵はいつでも任意の時点で好きなところで攻撃することも引くこともできる。この時、速度の差は決定的だ。しかし惑星系内において、黄道面では速度を出し過ぎることは小惑星などに当たる可能性が高くなる。そのため、出せる速度に上限がある。その速度であれば、惑星間航行しかできない船でも十分に対抗しうる。しかし障害物が少ない黄道面以外の部分を迂回することが敵は可能である。

ガミラスがそういう作戦を取らなかったのは、彼らの技術でも、惑星系内用の船と、銀河間航行用の船は別のものを使っていると推測される。銀河間を航行するためのシステムは惑星間の航行には役立たないから、戦闘にも邪魔になるだけである。コストなどを考えれば、惑星系戦闘艦と恒星間戦闘艦には違いがある方が道理だ。例えるならば琵琶湖で海戦をするなら大和より駆逐艦の方が有利ではないかという話だ。

ガミラスは銀河航行用の貨物船に搭載して戦闘艦を輸送していると考えれば、ガミラスの艦船と言えども、太陽系内の戦闘で使用できる物量には限りがあるし、速度面でのアドバンテージもないと理解できる。これがなければ地球がガミラスと5年以上も対抗しうるのは不可能だ。

バンザイ突撃は自殺するための作戦だから許容されるのであって、囮がこれだけ殲滅されてはとても許容できない。特攻というのは心理的効果を除けば、時間稼ぎにもならない。もっと早く撃滅されている可能性もあった。そうしたら囮の役割さえ果たせないではないか。舩坂弘を期待するような突撃ではお粗末なのである。

敗北すると言えども時間稼ぎを上手くやった戦史はたくさんある。硫黄島の斗いもそういう方針だったと聞く。それと比べれば単純な突撃に過ぎないか。単縦陣が本当に最適な戦術であったのか。これには議論が必要と思える。

先行した雪風には索敵以外の目的があったと考えるのは妥当だろう(なぜなら索敵には失敗している)。そこで考えられるのは先行した部隊が後方から挟撃するという作戦案である。第一艦隊が交戦中のガミラスに後方から攻撃を掛ける。

挟撃がうまく行けばもっと戦果は期待できたかも知れない。だが、映像を見る限り、挟撃は失敗したようだ。多くの艦が挟撃の前に沈められたのであろう。つまり、挟撃は失敗しても敵を他の空間に分散させることには成功したのだ。

敵を引き付けるために一度も砲撃することなく沈んだ艦がある。犬死かもしれぬが意味はあった。時間が進む。もしかしたら幾つかの艦は無人だったかも知れない。レイテ沖の西村艦隊も小沢機動部隊も全く酷い被害状況であったが、地球艦隊のそれと比べたらましだ。

多くの犠牲を払ったが作戦は成功したのだ。ここは引くのだ。

僕は冥王星沖海戦の作戦から推敲を始めなければならない。

シナリオ


冥王星沖海戦では、色々な作戦目的が考えられるし、多くの人が独自の考察を進めている。陽動であれ、決戦であれ、そこには会敵する理由が必要だ。

ひとつ考えられるのは冥王星にはガミラスの基地があり、これを叩くというものがひとつ。しかし、旅順要塞の攻防を見てもわかる通り、艦船で要塞を破壊はできぬのが相場だ。本気で叩きたければ、隠密に行動するか、惑星でも落下させる方がいい。敵基地を叩くのに艦隊を派遣するのには少し無理がある。

また地球艦隊の劣勢では一回の戦闘で仮に勝利したとしても制海権を確保、維持することは不可能である。よって、戦闘の勝利を目的とするのでは合理的な説明ができない。

では、地球艦隊を殲滅されてまで冥王星近海に出撃する理由は何か。ここに単純な海戦では無理だが、ヤマト計画を勘案すれば、別の意図が見えてくる。2199 でもこれを大前提に解釈を構築した(一年前にコンタクトしていたという設定を加えている)。

ただし1974 版ではイスカンダルとのコンタクトはこの海戦時に偶然もたらされる。よってアマテラスのための囮作戦は使えない。

では何のために彼らは出撃したかという一点が重要になる。1974 年版でもヤマトの建造はイスカンダルとのコンタクト以前から進められていたと考えるのが妥当である。では何を目的とした艦であったか。

当時の地球にはまだ恒星間航行はない。そのため人類脱出計画を策定したところで、太陽系さえ超えられない。恒星間飛行ができない地球の技術力では、移住計画など意味はないのである。そんな絵空事に賭けるくらいならガミラスと講和し奴隷化されてでも生き延びる方が現実的だ(2199版では幾つもの種族がそういう選択をしている)。

では何のための艦であるか。その基本スペックは、それまでの艦船、例えば M-21741 式宇宙戦艦も遥かに凌駕している。ヤマトの主砲は最初から一撃でガミラス艦を撃破しているが、これが波動エンジンによって初めて可能になったとは思わない。この新しい艦は、旧来の戦艦と比べても初めから画期的であり、つまり、波動エンジンを搭載する以前からヤマトは、ガミラスに対抗しうる兵器であったという事だ。

この考えを進めるならば、たった一隻とはいえ、ヤマトはもともと迎撃用の戦闘艦として設計、建造されたのではないか。そのスペックは一隻でガミラス艦隊にも対抗できるだけの能力を有する。兵力、装甲、運動能力、全ての点で際立った能力を持つ戦闘艦。

そのような艦船を建造するにあたっては、何人もの技術者の苦労があったであろう。それら優秀な技術者を率いる天才的な設計技師が居たはずである。彼らの物語が、ヤマトの底流にある。彼らの物語はまた別の場所で話されるべきであるが、彼らはアンドロメダの設計もしたに違いないのである。ヤマトの還りを待ちながら。

そのような戦艦が建造中であり、その完成までの時間をどうしても確保しなければならなかった。どれだけの被害を被ろうとも、それが最後の希望であった。これが沖田十三が地球艦隊を率いて冥王星まで航海した理由だと思われる。

となれば、確保すべき時間は一日などではない。もっと多く、数ヶ月は必要である。

2199 はあくまで短期(一日~数日)の陽動作戦として描いていたが、1974 の冥王星沖海戦は何ヶ月もの長きに渡って繰り広げられた作戦の最期の突撃であったと解釈する。

最期に残った僅かな艦隊で突撃を挑む。1974 年版はその最後の数時間だけを切り取っていたと理解する。そこに至るまでのもっと多くの海戦は省略されていると解釈する。

この大規模な作戦は、地球上のあらゆる艦船が掻き集められて、数ヶ月の長きに渡って、土星、天王星、海王星、冥王星、その一帯で幾つもの戦闘を繰り広げたのである。冥王星沖海戦はその大作戦の最期の決戦と解釈する方がしっくりくる。

だからあの冥王星沖海戦を単なる海戦と考えるべきではない。あれは恐らく第三次冥王星沖海戦なのである。

何ヶ月にも渡って地球に帰ることもなく戦いぬいた男たちの作戦


地球艦隊は残存兵力のすべてを集結させて出撃した。その数、142隻。地球の戦える全ての艦である。いくつかの修理中の艦もあとから合流することになっていた。司令長官は沖田十三。歴戦の勇士であり、この作戦を指揮できる将軍は彼以外は考えられなかった。

最初の大規模な海戦は土星沖海戦である。この海戦は艦の状態も良く、大勝利に終わる。12隻のガミラス艦を破壊し、彼らを退却させることに成功した。その後も数回の海戦を挑み、ガミラス艦隊を天王星まで退却させることに成功する。それは木星を失ってから初めての勝利であった。作戦の当初は、健全な艦船が多く、ガミラス艦隊ともほぼ互角の戦果を上げることができたのであった。

第一次海王星リング海戦においても、敵とほぼ互角に戦うも、地球艦隊の損傷も増え、12隻の艦船を修理のために後方に帰還させた。

時間の経過とともに艦、人の疲労は限界に達しようとしていた。だが彼らに休息の時はない。出来る限りの工夫をしながら、地球艦隊は、ガミラスとの小規模な戦いを繰り返す。

しかし、遂に第二次天王星沖海戦で地球艦隊は決定的ともいえる敗北を喫する。沈没24、大破8、中破6隻という大敗によって、その戦闘能力を著しく損なっう。

沖田はここで作戦方針を切り替えた。正面からの決戦を避け、大規模な奇襲によってガミラス艦隊と対峙した。しかし、ガミラスも警戒網を強め、後方で待機するようになる。その変わりに遊星爆弾を増やし、地球の住環境を悪化させることになる。

ヤマト進水の報を得たのは、修理中の艦船が復帰した時の事であった。長く辛い闘いも、ようやく終わりが見え始めた。ガミラス艦隊が積極的な動きを見せないため、地球艦隊はしばらく大規模な海戦をせずに済んだ。この状態が続けばヤマトに次の希望を託すことができる。

沖田はヤマトの指揮を執るのは自分ではない事を知っていたし、この作戦を最期に前線からは引くつもりであった。彼もまた体力的にも限界が来つつあったのである。

沖田は、健全な艦船を再編成して、冥王星沖まで深く侵入することを決断する。これが最期の決戦であることも、また、最期の組織的な抵抗であることも沖田は分かっていた。

それでも冥王星の奥深くまで侵入するのにはふたつの意図があった。ひとつは機雷群を設置して、ガミラス艦隊の動きを封じること。もうひとつは、地球艦隊に冥王星奥深くに進出する意図があることを示すること。これによってガミラス艦隊を冥王星沖に封じ込めたかったのである。

沖田は戦闘艦がまだ残っているように印象付けるため、数を絞って編成した。これが地球の最期の主力であるとは悟らせないように、ガミラスからは、機雷を設置するために深く侵入した特別編成の艦隊に見えるよう工夫したのである。それを3セット作り、異なる進路でガミラス勢力圏に侵入させた。

戦う意志があることを示す。それで数週間は稼げるはずである。これが沖田の意図であった。数週間もあればヤマトが戦線に投入される。

沖田は比較的健全で足の速い艦を選び編成を行う。傷ついたり鈍重な艦船は地球に戻した。健全とは言っても、それらの艦船のスペックは設計値を遥かに下まわっていた。主砲のエネルギー量も規定限度を既に32%も下回っていた。これでは敵の装甲を撃ち抜けない。それは分かっていたのである。まるでバルチック艦隊が日本海に到着した時点かのように、地球艦隊も長い戦闘の間に蓄積した疲労によって性能低下は著しかったのである。

それでもそれは彼らの誇りであった。最後の時間稼ぎを行うために最も最深縁に侵入する。地球はまだ戦う意志を失っていないことを示すために。長征40億。敵の索敵をかわしながら深く侵入した所で遂に敵と邂逅する。

沖田は挟撃作戦を立案した。沖田らが敵をおびき出して、別の突入部隊が冥王星の影から突撃して撃つという作戦である。しかし、この挟撃作戦は実現しなかった。

敵と対峙した時、艦隊は惨めなまでに一方的にやられた。幾ら撃ち込んでも敵の装甲を貫通できない。ミサイルの性能も劣化していた。敵を破壊するにはあまりに不良品が増えていたのである。それでも敵と対峙する。彼らの燃料を浪費させ、補給のために一度基地に戻らせる。

沖田が撤退を決めたのは、ひとつには、挟撃作戦が成立しなかったからである。他の侵入した部隊も最善を尽くしたが間に合わなかった。沖田は作戦の成功を最期のぎりぎりまで期待したが遂に撤退を決断する。彼には優秀な兵士たちを地球に連れて帰る責務もあった。戦闘には負けたが目的は達した。沖田の誤算は古代が敵陣に突入したことであった。

我々の艦隊はあと何隻残っているか。
はい、本艦の他、ミサイル艦が一隻だけです。
誰の艦だ。
護衛隊長古代の艦であります。
そうか、もうこれまでだな。
撤退しよう。
艦長、逃げるんですか。
このままでは自滅するだけだ。
撤退する。
古代、わしに続け。

沖田は古代守をこの艦隊から外したかった。彼はヤマト士官候補であり、この海戦で死なせたくなかったのである。しかし、古代はそれを承服しなかった。あくまで沖田についてゆくことを主張した。それは大艦隊を率いる者としては軽率であったかも知れぬと思った。だが、沖田は息子のような古代守に根負けしたのである。

ここで撤退したら死んでいったものに顔向けできません。
いいか、古代、ここで今全滅してしまっては、地球を守るために戦うものがいなくなってしまうんだ。
沖田さん、あなたが守ればいい。
明日のために今日の屈辱に耐えるんだ。それが男だ。
沖田さん、男だったら、戦って戦い抜いてひとつでも多くの敵をやっつけて死ぬべきじゃないんですか。

沖田の艦を見た外から見た古代はこのままでは無事に退却できないことを知る。沖田は自分が残るべきではなかったか、とさえ考えた。だが、沖田の艦は損害が激しく、沖田艦が殿を務めても意味はなかった。なぜ古代が自分を逃がすために突入したかを沖田は地球に帰還してから艦の損傷を見て知ったのである。

沖田さんの艦だ。酷くやられている。

長期にわたる苦しい戦闘を繰り広げたことで、最終的には壊滅したが、おかげでヤマトの工期は間に合った。この艦ならば、太陽系からガミラスを駆逐できる。そう信じて戦った男たちがいたのである。

やつらにはこの艦では勝てない。

このセリフは艦船への自虐などではない。彼は自分の艦が十分に戦ったことを知っていた。長く戦い、善戦はしたが勝ち切るまではできなかった疲労した愛艦。そこに込められた誇りなのである。そしてヤマトが出撃することを知っていたのである。

ヤマトの大改装


偶然であるが地球艦隊が壊滅した日に地球人はイスカンダルからのカプセルを受け取る。このカプセルには地球の方針を大転換せねばならぬメッセージが刻まれていた。技術陣はその実現性を検討する。その報告を受けて、ヤマトはガミラス迎撃戦艦から銀河間航海用の宇宙船へ改装することが決定された。

問題はイスカンダルのメッセージを受けて波動エンジンを完成させるまでの期間である。地球上のあらゆる資源を投入して完成したヤマトであるが、更なる大改修である。素材の開発から最短でも3年はかかるのではないか。マンハッタン計画みたいなものである。

人類にそれだけの猶予はない。それが数ヶ月程度で済んだのは、イスカンダルからのメッセージには設計図だけではなく、地球が保有する資源、技術、工作機械を使って実現する方法が事細かに指示されていたからに違いない。そうでなくては当時の人々にあれだけの大改修を短期間で行うことは不可能であったろう。カプセルの指示書を頼りに技術者たちは、ヤマトをイスカンダルまでの航行を可能とする宇宙船に作り替えたのである。武装強化も出来る限りして。

この予期せぬ大改修によって別の新しい問題が浮上する。それは、この大改修をする間、どうやってガミラスに抵抗するかである。ヤマトが出撃する時期から逆算して地球艦隊は時間稼ぎを行った。その結果、壊滅したのである。

既に現存する地球艦隊ではこれ以上の抵抗は不可能である。ヤマトの大改修中にガミラスの侵攻を受ければ、地球は上陸され、占領されてしまう。改修する前にヤマトは破壊されてしまうだろう。

そこにヤマトの隠されたアナザーストーリーがある。ヤマト計画を見れば、それと並行して複数の艦船が建造されたことは間違いない。ヤマトと同程度の能力を持つ二番艦である。

その建造計画はヤマトの数か月後に進水する予定であった。この船を使おう。そう司令部が決断するのに時間は掛からなかった。

まだ未完成であった艦をヤマトの改修が終わるまでの期間、飛ばす。武装と航行能力さえあればそれで充分である。設計上は未完成でも地球艦隊の全てを相手にしても戦えるだけの能力はもっているはずである。エンジン出力を補うために、沖田艦のエンジンをひっぺはがし、補助エンジンとして直接取り付けるような突貫工事の末、僅か13日でこの船は宇宙に飛び立って行った。

ヤマトの改修が終わるまでガミラス艦隊を冥王星付近に留めておくために。艦の艤装は7割も完成していなかった。9門あるべき主砲は、6門しか搭載されなかった。副砲は正式のものではなく、旧式艦のものを搭載した。機銃の数も十分ではない。それでも強力な武装とブラックタイガー隊を搭載して、砲撃戦だけでなく航空戦も実戦した。練りに練ってきた新機軸の戦略を実戦で試した。

この艦の能力は未完成とはいえ極めて強力であった。しかも人材が優れていた。もともとヤマトに乗り込む予定のものたちである。厳しい訓練を積んだ最高の軍人たちであった。何度も単艦でガミラス艦隊と渡り合い、ゲリラ戦を繰り返す。未完成な戦艦を整備するために軍人ではない技術者たちも多くが乗り込んでいた。

誰もが生き残れるとは思っていなかった。補給も満足に得られない状況で、エネルギーを使い果たしては、火星まで戻り僅かの補給を受けては冥王星に向かって戻っていった。

この新しい艦の出現によってガミラスの首脳部はヤマトの存在に気付くのである。地球に同型艦がもあると気付いたガミラスは危険を承知で頻繁に偵察機を飛ばした。そしてついにヤマトの位置を割り出すのである。

何度も戦闘を繰り返しては、貴重な実戦データを地球に送る。その教訓がヤマトにフィードバックされてゆく。この艦なくしてヤマトの完成度は得られなかっであろう。

だがヤマトが飛び立つまで地球を守り抜いたこの艦のことを記憶しているものは少ない。乗り込んだ多くのものは死傷した。艦は最後にガミラスの集中砲火を受けて退却する。木星まで来たときその重力に捕まり、カリストに向かって沈降していったのである。

生き残った多くの者は、宇宙線傷が激しくヤマトに乗り込むことは出来なかった。当初、ヤマトの指揮を執る予定であった提督も戦死した。だから病気を抱えていた沖田がヤマトの艦長を引き受けることになったのである。ヤマトに最初に乗るべき士官の多くも搭乗はできなかった。それほど激しい戦闘を強いられたのである。沖田は自分の責務を受け入れた。死んでいった者たちの変わりに自分が立つしかない。

わしはゆくよ。14万8千光年の旅はわしの命を奪うことになるかもしれない。しかしイスカンダルへの旅は命を賭けるだけの値打ちがあるとわしは思う。

それが生き残ったものの務めだ。

2016年2月4日木曜日

MUJIN - 岡田屋鉄蔵

なんとなくだが、たなか亜希夫の絵に似ている。それが線の細さなのか、タッチの質なのか、デッサン、造形にあるのかは分からない。ただなんとなくであって、作品に流れる空気の淀みのようなものは全く違うように思われる。

登場人物が結局は『よい人』であることが漫画の肝で、それは人間が群れる生物である限り、どれほど救いようのない作品であっても、揺るぐまい。

充足感のある漫画には必ず印象深い噛みごたえのあるキャラクターが登場する。そのキャラクターとの交友が漫画を読む意味でさえある。朋遠方にありとはそういう意味である。遠さは距離だけではない。架空世界とこの世界の間の距離でもある。

二巻で八郎の実父秀業が病に倒れる。ここで HUNTER×HUNTER のネテロかと錯視してしまう絵の印象が素晴らしい。あとがきにはノロウイルスの体験が書かれている。それを敷衍するなら冨樫義博もまた同様の体験をしたのであろうか。

「ひらひら 国芳一門浮世譚」の表紙は月岡芳年か。この人の絵は止め絵だと思う。それがコマの中に連続して描写されている。そして時間が進む。これは動画なのである。

現在の僕たちは江戸時代の絵師について知らなさすぎる。彼らの構図、独創性、描写。彼らの意図に近づくには、西洋絵画を見慣れた目では不十分で、やはり漫画で眼力を鍛える必要がある。

浮世絵師たちはどうもアニメーションをしたかったんじゃないか。その絵を動きの中の一枚として捉えれば、これは原画だと感じる。ただ動けば十分ではなく、流れの中で見得を切る瞬間がある。その一枚絵としての瞬間。この見得を切るという系譜の中に、第二巻の表紙があるように思う。

見得というのはポーズでもなければ、決め台詞でもない。劇中の見せ場でさえない。見得とは人間の力で時間を停止させる試みだ。全員の時間が止まるならば、それは世界が死んだという事になる。

ならば見得とはこの世界を一回滅ぼしてしまう事である。そこから再生が始まる。だから見得だけならそう難しくはない。その後に生を呼び覚ますことが肝心となる。この1秒の間に起きる死と再生が見得ではないか。

幕末は狂気の中で死ななくてもいい人間がたくさん死んだ。なぜ幕府側なのだという感想は、陽だまりの樹の時にも感じた。それ以来、どうも明治の終わりや大正まで生き延びた人の話にはほっとする。人間は生き残るべきだ。生き残る方が絶対にいい。幕末からでは想像できない未来がいっぱいあるのだもの。

@see遊撃隊・伊庭八郎: 今日は何の日?徒然日記

2016年2月1日月曜日

マジンガー、最後の出撃

ドクターヘルも兜十蔵も若いときはお互いに理解しあった研究者であった。そうあのミケーネの遺産を発見するまでは。

ふたりは優れた研究者であったから、それが世界にどのような影響を及ぼすかは自明であった。

ナチスが敗北したとき、多くの研究者がアメリカかソ連に渡った。それが新しい兵器を生む。核兵器を発達させ大陸間弾道弾を生む。人類どころか、地上の生物を何度も絶滅できるだけの破壊力を手に入れた。

どちらの陣営にもつかなかったドクターヘルはその意味をよく知っていた。オーバーテクノロジーがいかなる悲劇を生むかを思うとき、彼の絶望は狂気とも呼べる一縷の望みへとたどり着く。

兜十蔵はそれと比べればすっと楽天的であった。

「ならばわしはこのミケーネの技術を使った新しいものを生み出してやる。それでドクターヘルよ、おまえの野望と対決しようではないか。どちらが正しいか、それを決着するのは互いの技術の結晶のみだ!」

それから・・・

闘いは終わった。兜甲児の勝利で。確かに、ドクターヘルの野望は砕け散ったのだ。しかし、それが世界の平和を意味するとは限らなかったのである。ドクターヘルの懸念は現実であった。

「無理だ、甲児くん。Zではあれらの新しいマジンガーシリーズには決して勝てない。グレードでさえ対抗しうるかどうか。ましてマジンガーでは。」

「しかし弓博士、僕にはどうしても彼らの暴挙を座視できません。たとえ勝てなくてもマジンガーが登場することに意味がある。たとえ負けてもそれが多くの市民を勇気づけるはずです。」

「彼らのやっていることは企業の営利活動なんかではない。おじいちゃんの技術を使って市場を独占しようとするものです。あらゆる兵器を無力化し、そのうえに自分たちの兵器を売り込む、世界のエネルギー問題を支配するために光子力エネルギーを独占する。自分たちの利益のために世界を変革し、そして人々のなかに争いを作り出した。」

「この世界は、ゴーゴン大公が最期に言った通りの世界になってしまった…」

『お前のマジンガーはドクターヘルが消えた時に強欲なやつらによって根こそぎ奪われるぞ。兜十蔵の発明も特許も奪い去ってゆくぞ。それをおまえが守った日本政府が要求してくるんだぞ。その特許を巨大企業に売り渡すために。』

『われわれが消えた後の世界では、マジンガーこそが脅威になるのだ。それがお前にはまだわかるまい。お前がどれほど正義を叫んでも、人々の恐怖が消えることはない。国家は法律を捻じ曲げ、司法は同調し、裁判官も法ではなく恐怖でお前を裁く。』

『この世界のあらゆる資本がお前のマジンガーを狙っているのだ。』

『それは平和でも愛でもないぞ。ただ資本の命ずるままに、競争と強欲の赴くままに。おまえのマジンガーを欲するのだ。』

『彼らはそこから多くを学び、新しいマジンガーを生み出すだろう。』

『新しい機体が次々と生まれる。われらが機械獣でさえ対抗しえない強力な機体をだ。そうなった時、たった一機のマジンガーで何ができる?』

『ドクターヘルはそれをご存じであった。オーバーテクノロジーが世界中の人々に渡った時に世界がどうなるかを。だから人類を守るためにも、機械獣の力によって世界統一をするしかないと決断されたのだ。世界政府の樹立。それだけがミケーネの遺産から人類を救う手段であった。それをお前が打ち砕いた。』

『兜十蔵でさえマジンガーを生み出したときにその危険性には気付いたのだ。彼が死んだのは決して機械獣が襲ったからではない。彼からマジンガーを奪おうとしたのは、決してドクターヘルではないのだ。』

「世界は彼の言葉の通りになりました。マジンガーを研究尽くした時に彼らは気付いたのでしょう。このスーパーロボットがあれば、既に国家による安全保障など必要ないということに。」

「彼らはマジンガーを安全保障とする新しい彼らのためだけの国家を生み出しました。いまや彼らのマジンガーシリーズに対抗できる戦力はこの地上のどの国家も持っていないのです。」

「世界は変わりました。ドクターヘルのミケーネと兜十蔵のマジンガーの遺産が世界を変えたのです。」

「力が支える新しい資本主義の世界。金と力が権力の源泉となった世界。国家さえ維持する必要はない。マジンガーの力が支配する企業のための世界。近代を支えた法体系も失われた。人間の道徳にも価値はない。この世界は企業が利潤を求めるための屠殺場になってしまったのです。」

「博士、僕は行きます。あそこにはまだ逃げまわっている市民がいます。彼らとともに倒れるならば、マジンガーとしては上出来でしょう?」

2016年1月17日日曜日

あしゅら男爵の最期

沈みゆく海底要塞サルードは火に包まれていた。

あちこち破壊され浸水も激しい。作戦室にも浸水は始まっていた。辺りは火に包まれ煙が充満している。

非常灯が煙の中で点滅し薄暗く倒れた兵士たちの死体が浮いていた。水は兵士たちの血に染まり赤かったに違いない。ブーンと生き残った健在な装置だけがまだその役割を果たそうと働いていた。

「ここまでか。」

朦朧と立ち上がったあしゅら男爵はそう呟いた。

彼の脳裏には遠い昔の光景がよみがえっていた。

「わしらは前もこのように火に焼かれそうになったことがあったな。」

「そうだ、わたしは前にもこのような戦火の中にいた気がする。」

ふたりはお互いが夫婦であった遠いミケーネの時代を思い出していた。

「あ、そうだ。わしはいま思い出した。」

「ああ、そうだ、わたしはいま思い返した。」

「おまえはわしの妻であった。」

「おまえは美しくかわいいわしの妻であった。」

「確かにわたしたちは夫婦と呼ばれるものであった。」

「しかし、わたしは今はっきりと思い返したのだ。」

「わたしの心は一度たりとてお前の妻であったことなどないことを。」

「わたしはいまおぞましさに打ち震えている。わたしがお前に妻として抱かれていたことを。」

「わたしは世界で最も悲しい存在だったのだ!」

「なんと、それでおまえはわしにああいう態度であったのか。そうか、おまえの本心を初めてその口から聞いたぞ。」

「だがわしはおまえを心の底から愛していた。それはおまえも知っていたのだと思っていた。」

「果たして、あれが愛と呼べるものか。」

「奴隷として売られそうになっているおまえを引き取ったのはこのわしではないか。」

「わしは感謝こそされ恨まれているとは思わなかったぞ。」

「わたしは、お前がわたしの体に触れるたびに、おぞましい虫に体を這われる方がましだと思っていた。」

「わたしは、お前の唇がわたしに触れるたびに、ヒルに食いつかれる方がましだと思っていた。」

「わたしは、お前の腕に抱かれるくらいならば。蛇に巻き付かれて命を絶える方がどれほどましか。」

「わたしにとって、お前が愛とよぶ毎日の凌辱に耐えるだけの日々だったのだ。」

「わたしはただお前をいつか殺してやると、それだけを思い生きていたのだ。ああ。」

「そうだ、夫であるお前は加害者であり、妻であるわたしは被害者だった。」

「いや、いま思い出した。そうだわしはおまえを愛していた。そうだ、おまえはわしを愛してなどいなかった。」

「ああ、そうだ。わしはそれに耐えられなくなり酒に溺れた。だから、わしは次第におまえを殴るように変わったのだった。」

「わたしはその暴力と辱めの中に生きていた。」

「だが、わたしはお前に心を奪われたことなどなかった。刹那の間さえ。それだけがわたしの誇りだったのだ。」

「わしは悲しい、なぜおまえは一度もわしを愛さなかった。最初から。ほんの数日、いや数時間、たった数秒でさえ。」

「なぜそうもおまえはわしを毛嫌いするのだ。わしがおまえに何かしたのか。わしが斯様にも醜いからか。」

「そうではない。お前の醜さなどわたしは気にしない。」

「お前は忘れているのだ。」

「わたしの国に攻め込み、わたしの夫を殺し、わたしの目の前でわたしの子を犯したことを。」

「わたしの目がお前の顔を一日たりとて忘れるとでも思うのか。」

「ああああ。そうか、そういうことか。」

「そうだ、お前はその罪によって永遠に身を滅ぼされるがいい。それこそがわたしの本当の願いだ。」

「この世界の誰一人としてわたしを救おうとはしなかった。そんな世界は滅びてゆくべきだ!」

「いや。いいや、そうなのか。わしはいま初めて真実を知ったぞ。」

「そうではない。おまえは誤解しているのだ。」

「おまえをそこまでひどい目に合わせたのはわしではない。それはわしではないのだ。」

「なにを今さらのことをいうのか。このわたしがお前のその顔を見間違えるとでも思っているのか。」

「そうだ。おまえがそう見間違えるのも仕方はない。」

「いまさらそのような言い訳が通用するとでも思っているのか。」

「そうか、わしはそれを信じろとは言わぬ。しかしお前に語っておく。ことの真相は語っておく。」

「真相であると?ここに至りお前はまだそうやって自分を誤魔化そうとするのか。」

「お前はそうやって常に逃げ続けてきたのではないか。」

「よいか、聞け。信じようが信じまいが、それはわしとは関係ない話だ。しかし、わしはこれをお前に話しておく。」

「ええい、わたしはお前の戯言を聞くものか。」

「それでも聞け、こうしてわれらは一体でいるのだ。おまえは聞くことから逃れられはせぬ。」

「よいか、誓ってそれはわしではないのだ。」

「その残虐な行いをしたのは断じてわしではない。」

「なにを、お前と同じ顔、同じ声、お前意外の誰だというのだ。」

「ミケーネの暗黒猛将。わしの叔父だ。そうお前の国を攻めたのはわしの叔父だ。」

「なにを、ミケーネの暗黒猛将とはお主のことではないか。それ以外の猛将など聞いたことがない。」

「そうだ、おまえと出会った時には既にわしが暗黒猛将であった。」

「なぜなら叔父上はあの戦争で戦死したからだ。」

「どういうことなのだ。」

「わしは叔父上の影武者となるよう育てられたのだ。顔も声も身振りもすべて叔父上の替え玉となるために生まれてきたのだ。」

「わしが暗黒猛将を引き継いだのだ。戦死した叔父上に変わりわしが暗黒猛将となったのだ。だからおまえが知らぬのも当然だ。」

「ええい、信じられぬ。なぜお前と叔父がそこまで似ておるのだ。」

「わしの顔は叔父上と似るよう手術を受けておる。」

「ふふふ、醜いであろう。わしでさえわしの本当の顔など忘れておる。」

「ではあれはお前ではなかったと言うのか。」

「そうだ、わしはあの戦争には行っておらぬ。おまえを苦しめたのはこのわしではない。」

「もしこの言葉に疑いがあるなら、おまえの剣でこのわしの心ノ臓を突け。」

「知らなかった、わたしは何も知らなかったぞ。」

彼女は呆然とした。その目には知らぬうちに涙が溢れていた。

「妻であるわたしが加害者であり、夫であるお前が被害者だったのか。」

「いいや、それでも妻であるおまえが被害者であり、夫であるわしが加害者だったのだ。」

「おまえをここまで苦しめていたことに気づかぬ愚かな夫であった。」

「きっと、わしはこれを伝えるために生きてきたのだ。ミケーネ神はそのためにドクターヘル様を使い私を蘇らせたに違いない。」

「この世界の女たちは誰一人としてわしを愛しはしなかった。そのような世界は滅びても構わぬ!そう思って生きてきた。」

「だが、わしには愛する者が居た。」

「そうか、おまえは最初はわたしを救おうとしてくれたのか。」

「おまえはわたしを救おうと懸命であったのだな。」

「だがわしは自分の弱さが許せぬ。おまえを殴ってばかりいた日々が確かにあったのだから。」

「わしの弱さを許してくれ。おまえの憎しみを癒すためなら、この身が業火に焼かれても構わぬ。」

「そう焦らぬとも良いではないか。我々はもうじきサルードの業火に焼かれるのだ。だが、」

「わたしは知らなかった。おまえが常にこのわたしの傍にいてくれたことを。」

ふたりの目には涙が流れていた。その流れが最後まで止まることはなかったであろう。

「わしは知らなかった。こんなにも長い間おまえを苦しめていたことを。」

「わたしは知らなかった。こんなにも長い間おまえを苦しめていたことを。」

「わたしはいま初めておまえの妻になれる気がする。」

「わしは初めてお前の夫となれるのか。ならばこの業火さえわれらを祝福しようぞ。」

あしゅら男爵は立ち上がった。最後の力を振り絞っている。

ふたりの喜びの声が指令室の中で響いた。

ゆっくりと沈む海底要塞サルードは突然に大爆発を起こした。

2016年1月16日土曜日

フラジャイル - 恵三朗, 草水敏

テレビドラマでやるので広島駅で第1巻を購入した。東京に着くまでに全巻買うと決めた。上野駅で4巻まで買い、読み進めたが面白さに疑いない。

ドラマはドクターハウスの影響があるように思えるが、マンガはどちらかといえば「獣医ドリトル」に似ている。偏屈な医者とひよっこが織り成す。絵が違うので、ふたつの漫画に同じ色は感じられない。それぞれが別のものとして成立しているように見える。

この漫画で始めて病理学の具体性を知った。そういう仕組みを教えてくれただけでもこの漫画には価値がある。偏屈な医者を主役に据えると話さないし動かない。だからこんな主人公ではドラマが成立しない。

そこで読者の視点を肩代わりするキャラクターが必要になる。シャーロックホームズにおけるワトソンである。本作は三人の人間を中心にドラマを回す。人数が増えた分、主人公の印象は弱くなるが、それはソリストとしての際立ちよりも、三重奏に重きを置いた感じである。医療ドラマの主人公は大抵が変人である。これはブラックジャックの影響もある。

技術が重要な役割をもつドラマでは、その技術を多くの視聴者は知らない。そのため、技術がドラマの中で重要な意味を持つためには、その前に人間ドラマを際立たせておく必要がある、そして人間ドラマを通じて技術が説明されてゆく。

読者が知らないのだから、初めて会う人は偏屈である方が説得力を得やすい。キャラクターの偏屈さとよく知られていない技術とが脳の奥で結びつく。キャラクターへの距離と技術への距離は等しく遠い。

最近の邦画やドラマは、マンガ的なキャラクターが多くなった。漫画がドラマの演技を規定する。現実にはいない人間をどうすれば現実の中に持ち込めるか。マンガ的なキャラクターをどう演出し演技し撮影すればよいか。新しい演劇論が生まれる。

もともと漫画は絵空事である。だから子供の読み物であり、昔の人はポンチ絵とよんだ。現実との乖離、現実離れした空想、もちろん、兄貴、のらくろは俺の分身だという義弟の告白を聞き自分の迂闊さを感じた人もいた。荒唐無稽は漫画の魅力である。CGはリアリティを変えた。アベンジャーズを見て荒唐無稽という人はいない。

漫画の中に人間の可能性を見いだすこと、表現の可能性を拡張したのは手塚治虫と同時代の人々である。漫画は絵空事かも知れないが、まだ誰も手を付けていない荒野であった。

彼/彼女らが開拓した漫画は架空だろうが、読者はそう感じない。あれこそが現実である。現実の人間ではないかも知れない。だがドストエフスキーが描いた人物を実存すると思えるのと同様に、漫画のキャラクターも実存した。

インターネットの向こう側にいる人間よりも、物語のキャラクターの方に親近感を感じる。現実という理由だけでは実存とは言えない。お前にはキャラクターがない。漫画の中のキャラよりも劣る存在感とは何だ。他人であれ、自分であれ。存在とは何だ。孤独から抜け出そうとナイフを手にした人もいた。

現実を誇張(デフォルメ)するマンガ、歌舞伎、狂言等々から実写への流れ。作品の中に人間がいるなら、それを実写でも表現してみたい、と思うのは自然な欲求だろう。マンガにしか存在しないキャラクターなどありえない。ならば絵空事ではない。そこに共感があるなら、舞台は選ばない。

インターネットの中ではキャラクターでなければならぬ。テレビで生きる人は自分のキャラを立てて勝負する。それはイメージだけではない。イメージを伴いつつ、レスポンスする。レスポンスがイメージを更新する。それがキャラだ。ならばキャラとは歴史か。

うまくレスポンスすればAIと人間の区別は誰にもつかない。人間というキャラクターがある。キャラクターであるならば人間である必要さえない。

キムタクはキムタクを演じている。女優は女優を演じている。AKBという集団もキャラクターである。キャラクターにも文法がある。歴史を持ちレスポンスするものがキャラクターである。人間はどんな存在にも実存を見いだす。

バイクのエンジン音が人の声と同じに聞こえる。自然の木々に何かを感じる。人間は生命を見いだす。孤独だからではない。ディズニーランドが極めて巧妙に現実から浮遊し、人間をキャラクターとする空間を作った。幻想と現実に区別はない。2000年前の人が我々の文明を見たら荒唐無稽と感じるだろう。

キャラクターだけが必要だ。