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2023年12月12日火曜日

日本国憲法 第十章 最高法規(第九十七条~第九十九条)

第九十七条
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

第九十八条
この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
○2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

第九十九条
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

短くすると

第九十七条
基本的人権は人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果で、過去幾多の試錬に堪へ、侵すことのできない永久の権利。

第九十八条
この憲法は国の最高法規であって、反する全部は効力を有しない。
○2 日本国が締結した条約及び国際法規は遵守する。

第九十九条
公務員はこの憲法を擁護する義務を負ふ。


要するに

この九十七条を書きたいが為にこの憲法は打ち立てられた。そう言って差し支えない。

基本的人権

日本国憲法の通奏低音は人類が獲得してきた思想、理念、理想に基づく。どう語ろうとこれらの理想を否定する事は、別の価値観を打ち立てる事に等しい。その提唱はこれまで人類が知る限りの過去のどこにも存在していないものでなければならない。何故なら、長い風雨を経て生き残ったもの、掴み取ったものが、ここに集約しているからである。

基本的人権は民主主義だから打ち立てられた思想ではない。近代国家であろうが、封建社会であろうが、絶対王政であろうが、基本的人権はある。これが人類の仮説である。

基本的人権が独裁者に蹂躙されようが、人類が宇宙人の餌となろうが、この権利はいささかも揺るがない。この権利は絶対にある。だから戦う理由に掲げられる。

民主主義に特有の権利は選挙権である。この権利の蹂躙は民主主義への挑戦と言って良い。しかし民主主義以外の政体では、必ずしも擁護されない。

もちろん、民主主義国家にも自ら投票を放棄する者はいる。それもまた権利と言えるだろう。民主主義を必要としない市民が民主主義政体に生まれる事に不思議はない。このような人にも基本的人権は揺ぎなくある。

投票権の放棄は殆ど野生動物と同等と思うが、それではチンパンジーにも基本的人権はあるのだろうか。

チンパンジーの基本的人権

チンパンジーの基本的人権は人間が与えるものなのだろうか。それは人間に奪えるものだろうか。誰が、どのような権限で。

基本的人権と言えども権利であるならば、持つ持たないがある。与える与えないがある。その意味では基本的人権にも持つ持たない場合が起こり得る。すると問題は、その区切り線をどこに引くかという話しになる。

最初に思いつくのは暴力である。武力によってそれは奪いうる。少なくとも持っていないのと同じ状況を作り得る。ちょうと檻に入れられたチンパンジーと同じように人を扱う事は物理的に可能である。

これを不正と指摘できるのは基本的人権に基づく。だから人を檻に入れる事は許されない。ではどのような根拠でチンパンジーには許されるのか。

チンパンジーとサピエンスではDNAが異なる。だからチンパンジーは人ではない。故にチンパンジーに基本的人権はない。そう結論したとしよう。

この場合、基本的人権の根拠はDNAの配列になる。結論として基本的人権はDNAに与えられるものになる。基本的人権は何の器官でもないから、DNAと基本的人権の間には何の繋がりもない。それでもDNAと基本的人権を結びつけるのであるから、ある配列を決めて、これと同じものを持つ者に基本的人権があると宣言する事になる。

DNAと基本的人権

今の所 基本的人権はDNAに与えられている。では、もし人類が進化し、それとは異なる配列を持った場合は基本的人権は与えられないのか。または、何等かの障害で、その配列の一部が突然変異した人からは基本的人権は奪える事になるのか。

DNAが異なるという点でチンパンジーと進化した人類は同列にある。よって基本的人権は持っていない。もしサピエンスから進化したから引き継げると考えるのなら、DNA以外に系統樹を持ってこいという事になる。

その結果として、我々は過去へと遡り、多種多様な類人猿の進化を眺め、ある瞬間から基本的人権が発生したと主張しなければならない。ここまでの猿は持たないが、この先の猿には基本的人権があると主張しなければならない。

もちろん、生命活動はDNAの配列だけで決まるのではない。その発現の仕方には細胞も関係するし、化学物質、放射線、偶然が支配する細胞分裂の過程で起きる幾つものエラーが関係する。日々メチル化や突然変異に晒されている。その結果としてDNAの発動は刻々と変わる。だのにDNAの配列には基本的人権を与えるが、その働きは考慮しないというのは中途半端の印象が拭えない。

知能と基本的人権

基本的人権を一定以上の知能に有するものに与えるのは更に筋が悪い。地球を訪問した異星人には基本的人権があるのか。もし彼らが地球人程度の知性でこの権利は不十分と通達したら、返上する覚悟はあるのか。

知能は事故や病気や老齢によっても失われる。その場合も基本的人権も失うのか。今後の医学の発展によりチンパンジーとサピエンスの中間にあるような種が誕生したら。もし言語を使用する類人猿が発見されたら。虫やヘビから進化した知能の高い種が誕生したら。アンドロイドやAIが人間を超えた高度な知能を獲得したら。基本的人権は誰が誰に与えるのか。

死と基本的人権

死についてはどうだろう。基本的人権は、死亡した人にはないのだろうか。当人はもちろん何が起きても主張はもう出来ない。それは仕方ないとしても、反論しない事は基本的人権を放棄した意味にはならない。まして、残った故人と親しい人たちにとって耐えがたいと思う気持ちがあるならそれは基本的人権に基づく感情ではないか。

更には人類が絶滅した後は基本的人権はどうなるのか。人間の感情はもうこの世界にはない。誰も何も感じない世界である。他の生物種は生きているだろうが、人類はもういない。そのような世界に基本的人権はどうなっているのだろうか。

基本的人権を支える理念はこの程度の弱いものなのだろうか。姿形を失えばこの宇宙から消えてしまうほど弱々しいものなのだろうか。

確かに人類だけの特権ならば、我々の絶滅と供にこの理念が消えてしまっても異論はない。人間の属性という考え方であるなら、人間とともに滅びるべきだ。

だが、なぜ基本的人権はは我々だけの特権と言えるのか。

契約と約束

権利には正当性がある。この権利を主張してよいとする根拠がある。通常、そこには契約の考えを導入する。契約を結んだから権利が発生した。これを根底にアメリカは弁護士が活躍する社会とした。

ではなぜ契約は正当性なのか。それは約束だからであろう。約束とは未来における互いの保証である。これを破る事は責めを負う。なぜ約束は守られねばならぬのか。野生動物は約束を守りはしない。人間はどこかで約束を守るという考え方を手に入れた。

それはどこから。遠い過去の筈だ。それが社会を形成する上で必要であったと考える。この信頼に基づく人間のコミュニティの形成は原初的な根源的なものと感じられる。

人間には未来のある時点に関して予測する能力がある。それに基づいて未来の不確定要素を潰して、より強固な、より確かな今を構成する。この脳の働きが人間の社会を形づくる時に強く影響した事は確かだと思われる。

コスト

約束を守る事が社会の安定に寄与する事は想像に難くない。だが、それを破って利益を得ようとする事を戒めるのは何故だろう。少なくとも常に裏切り、抜け駆け、騙しうちは、人の常である。それを悪と認識する社会が生まれたのにはコストで考えるべきと思う。

常に裏切りに備え警戒する社会ではコストが思った以上に高いと思う。互いに安心できる関係の方がエネルギーを他の事に使える。つまり集団のエネルギーの活用が変わってくるという事である。これは社会同士が激突する時代に於いては競争力として如実な差となったと思われる。

これは人間の数が増えて集団が大規模化するほど顕著であったであろう。小人数であれ個人的に力が強い者が支配できる。しかし大規模集団になれば個人の力が及ぶ範囲は小さくなる。その結果として、組織力が社会の強靭さになる。これだけではまだ王の発生は説明できないが、集団の大規模化と階層化はたぶん同時に起きたと考える。

約束を守る社会が望ましい、これが大規模集団を生き残りやすくした。だがこれは現象のひとつである。約束を守るから集団が大規模するのではない。それが安心を与えるという事が重要であろう。それが集団を巨大化する。王はこの安心を与える者であったに違ない。恐怖の支配は、その後の特殊系と考えられる。

幸福

人は安心を求める。安心とは要は脳内ホルモンの分泌であるから生物学的な反応である。生物の幸せはホルモンに支配されている。不安もホルモンに支配されている。それらは来るべき未来に対する体の準備の為にある。

野生動物にも群れや家族がある。それはとても慈しむべきものである。魚類は言うまでもなく、虫や軟体動物、そして恐らく細菌も、これに近い反応系は持っていると思う。多くの生物は観察する限り人間とそう変わらない。神経系の有無に関係なく、進化の収斂として幸せという概念が必要であった。

フェロモンなどの有機物質を使用した内外を識別する能力は多くの生命体が持っている。それは近親を避けるための仕組みと考えられるが、これがないとDNAの多様性が失われ、そのような生命群は自然に淘汰される。

所有

人間は、自分の大切な人、家族、友人、出会った人に何かを贈りたいという自然な気持ちを持つ。この贈るという行為の背景に贈るモノは自分が所有しているという前提がある。これが所有権であるが、この所有の感覚はどこで生まれたのか。

考えてみても所有権に関してはそれを正当とする根拠が見つからない。少なくとも野生動物はそうである。野生動物は決して所有権を主張しない。奪い奪われるを当然の状態として今を生きている。

人間は何か所有する事を当然と考えている。この権利は恐らく数万年前の人類も持っていたと思われる。この感情は脳が突然変異によって獲得したと考えるのが妥当だと思う。

そうでなければ長い時間の中でミームとして残ってきた事になる。それも可能だろう。しかし、それなら言語と同じように地域毎で大きく変わる可能性の方が高い。世界中の人が共通して同じになるとは考えにくい。

自我

所有という考え方が生まれるには、まず自我を必要とする。自分が持つという概念が必要で、その為には自分と他人を区別できなければならない。これは言語において I(私)の発見の前に起きていたはずだ。主語はそうやって生まれた。

自我の発生は、記憶を蓄積する時に時間順に並べる事で可能である。時間が変わろうと変わらない部分の事が自我である。よって自我は時間軸に配置されるので、併せて、過去と現在と未来という概念も自然に獲得する。記憶する能力が時間を軸にして行われる事、その帰結として自我を持つ事、それによって未来という視点を得る事。こうして人間は未来を予測する能力を獲得した事になる。

記憶の中で景色を見ているのは常に同じ視線である。それを私と定義した時、自分という概念が発生する。これは Me.Perspective (enviroment) という関数で表現できる。そこで自分と他人を区別できるのならば、You.Perspective (enviroment) という考え方も可能となる。

instanceとしてのMeをparameterにして Something.Perspective(Me, enviroment) とすれば、Meの場所にYou,She,He等を自在に置ける。Something.Perspective (You, enviroment) は共感の関数となる。
//私の視点
Me.Perspective (enviroment)
//あなたの視点
You.Perspective (enviroment)

//客観的な私の視点
Something.Perspective (Me, enviroment)
//客観的なあなたの視点
Something.Perspective (You, enviroment)
//私から見たあなたの視点
Me.Perspective (You, enviroment)

社会

所有という概念で色々な人間の行動が理解できる。譲渡する正当性は所有しているからである。だから王は権力を世襲するのも禅譲するのも正当である。

未来のある時点で所有している事が信用になる。これが貨幣を生み出す。狩猟よりも農業を選ぶ理由は蓄積できる穀物が未来のある時点での飢えを計算可能にしたからだ。その時点で所有しているから飢えないですむ。なぜ奪ってはならないか、それは所有しているからになる。よって奪えば罰する。法が生まれた。

奴隷を所有する。所有だから交換ができる。売買ができる。そして所有には失うというリスクがある。我々は所有で未来を確定しそれで安心を得る。所有の失う可能性によって不安を持つ。人間の行動は所有に基づく。

突然変異

だから、なぜ所有は正当なのか。

これに答える自然が見つからない。まるで公理の様だが、公理として認めてしまうと人間は考えるのを止める。すると誰かがこれは公理でないと主張し始める。所有という考えを持たない異星人はいる気がする。個人として所有の薄い人もいるだろう。

だが、所有の正当性を失えば、人類の文明はぼろぼろと崩れるだろう。人々から権利が失われる。そして世界は合法的に略奪するように法律を変えれば、それは正当な利益であるという考えに基づき経済改革を進める国がある。

だから所有の必ずあるはずの根拠は探すべきと思う。その仮説として、家族を持ち込む。

家族

所有と家族は切り離せない。世界のどこでも、恐らく殆どの人で時間で、誰もが自分の資産は自分の家族に譲るものである。例外はあるにせよこれが自然で当たり前のはずである。お互いにこれの理解に苦しむ事はないはずだ。この正当性は説明できないが、これが我々の脳の働きである。

家族が特別な単位である為には、一度その前段階として「動物としての群れ」が解体された経験をしたはずだ。それまでの人間の集団がバラバラになる過去があった。その後に家族を中心に人は再集結した。それが今の社会の基盤となった。その事件が我々に何らかの突然変異をもたらしたのではないか。だから家族中心が当たり前と考えるようになった。

恐らく大規模な自然災害があったと空想する。絶滅に瀕するような大災害が。それに立ち向かうのに家族と言う単位だけが残った。だから血縁という考えを強く意識するようになったのではないか。というか、そういう本能の強い個体群しか生き残れなかった。

この巨大なインパクトが疫病ならどうだろう。それなら家族単位で生き残るか死滅するかが決定する。故に家族単位で強く結び付いた群れだけが生き残れた。これが起きた事なら、我々の所有の概念は偶発的な免疫の類似性を根拠として発生した事になる。

自然

人類が次世代に伝えてゆくミームに言語がある。民族部族の滅亡などで失われてゆく言語もあるが言語という機能そのものが人間から失われる事はなかった。それと同じように所有という考えも人類の中に残った。

持っている事が当然で、譲る事が当然で、全ての家族で共有されている価値観。だから家族は特別なのだろう。それを全ての人々が認める。または、これが正当となるように家族という形は形づくられたのかも知れない。

自然は常に人間から奪う。しかし人間が所有できるものは全て自然から持ってきたものだ。自然が意志を持つと考えるなら、それは人間と会話する。脳は自然の現象の中にも合理的な意図を見つけたい。物語を好む脳の機能が自然の中に神を設置するのは自然と思われる。

だから人間は本質的に神が所有しているものしか入手できない事になる。神から与えられたから正当である、という考え方も可能で、いずれにしろ、大切なものを守りたいという感情が成立する為にはその背景でそれが無条件に正しいという信念が必要になる。

自然が黙う最たるものは命だろう。命は自然に属するから所有はできる。ただ自在にはならぬ。

こうして人間は自然から得たものは他人に対して譲る権利が主張できる様になった。奴隷であれ、婚姻であれ、外部から取り込まれたものは準自然である。蛮族も災害も同じ自然である。奪われる事は不当である。それはもともと我々に権利がある。こうなれば互いに引けない戦争が始まる。

特権

権利は人間を特別扱いする点で人類のエゴである。その意味では特権でない権利はありえない。だから人間の間でも権利には大きな差が生まれる。それを正当性と人々は納得している筈である。この大前提を認めた上で、誰までを人間に含めるかを拡大し続けたのが近代の歴史だろう。

権利は特別扱いの事だから、本質的に特別扱いから除外される立場の存在は除外できない。権利は所有の意味だから持つ持たないがあって当然である。

よって、権利はある場所に線を引き、そこを超えているかどうかでその有無を決定する。その線上にある者と僅かな差で外のいる者と差は僅かであろう。それでも線引きを正当とする事で、その権利は正当性とされた。

それを互いに確認できるようにしたものが契約であろう。細かな契約によってのみ権利には正しく線引きができるであろう、故に弁護士を重要視したのがアメリカのひとつの答えである。

アニマル・ライツ

かつて、黒人であるとか、アジアに居住していたとか、宗教が異なるなどが基本的人権を持たない理由になった。彼/彼女らは人間とは言えないのだから。

その反省から、基本的人権を持つ持たないと考えるのは間違っている。基本的人権は所有の延長では破綻する。もし基本的人権がこれを乗り越えられないなら、基本的人権は全ての人間に与える根拠を失う。それは都合よく利用できてしまう。つまり支配の根拠になる。

これを認めない限り、人間に線引きがされ奴隷制度、人身売買が合法になる。

歴史的に線引きを禁止すべき、という基本的人権に関する原則が、次に人間という範囲を超えて拡張されるのは自然だと思う。一部の人にとってアニマル・ライツは当然の拡張だろう。ある人にとって見知らぬ人間よりもペットの方が大切なのは当然である。家族なのだから。

だから基本的人権は権利とは呼べない。権利に有無がない。持つ持たないが理念として有り得ない。この権利に線引きは許されない。基本的人権は所有を根拠とするものではない。所有から完全に分離されている。神も必要でない。神がいようがいまいが基本的人権は存在する。

太陽

すると最終的に人類は基本的人権をこう定義しなければならない。基本的人権は人類という種を超えてあらゆる生物が持つものでなければ成立しえない。基本的人権はあらゆる生命にある。これ以外の考えでは基本的人権は成立しえない。

すると、この根底にはあらゆる生命は幸せに生きるべきという考えがあるように見える。だがそれでは人間は困る。我々は食物連鎖の頂点に位置する捕食者であり、それをせねば命を長らえない、火中に飛び込む兎に全員は恐らくなれない。

全ての命を尊重しその尊厳を認めるならば、我々はもう牛肉が食べられなくなる。魚も食べられない。

これは菜食主義で解決する問題だろうか。確かに肉程度なら人口肉の開発を待つ手もある。しかし、全生物種には植物も細菌も含まれる。きっとウィルスも含めるべきであろう。

この星の生命は等しく太陽に命を与えられている。もちろん、それ以外にもとても沢山の偶然の結果が命を支えている。月が小天体からの衝突を防ぐ盾となる。プレートテクトニクスもたらした海流の流れが、熱循環となり温度の安定を提供する、海が生命をはぐくむ、地磁気の存在が、オゾン層の存在が、宇宙線の被害を回避する。

少なくとも全ての生物には太陽を要求する権利がある。太陽は人間の所有ではない。

生命

例え武力で支配されようと、あらゆる権利が侵犯されており奪われていようと、命も含めて所有状態にあろうと、基本的人権は奪えない。例えそれが満たされていなくともこの権利は毫も傷ついてはいない。傷ついているのは人間である。基本的人権ではない。

基本的人権を否定すれば、我々は暴力を前に対抗する根拠を失う。立ち上がるには基本的人権を常に絶対の存在と認めるしかない。だが、それは全ての生命の権利に拡大される。全ての生命に適用するば、食物連鎖で構成されるこの星では矛盾を解消しなければならない。

生命とは何か。それは原子や分子の化学反応に過ぎない。生命はこの化学反応を自然状態よりも促進しているに過ぎない。世界の流転を加速する存在だ。明らかに生命の住む星の方が化学変化は大規模かつ早く起きている。

このエネルギーの原資は太陽の核融合であるが、これが物質の反応を活発にしたとも言える。ならば生命とは単なるエネルギーの現象のひとつに過ぎないか。

生命活動は化学反応なのだから、その反応の結果としての思想であったり、国家や法体系というものも、この反応系の延長にある。よって基本的人権も同様な延長にあるだろう。

それが最終的には人類という存在から分離して存在する事になる。それは人類ではなく生命に属する考え方だ。ここに至り基本的人権の中には何もない事は明らかである。

健康で文化的な

基本的人権によって国家や政府に要求するものがある。憲法はそれを「健康で文化的な最低限度」と定義する。それは生活において幸せホルモンを分泌させるである。食事、排泄、住居、睡眠、衣服。

それらは、地域、文化、宗教、紛争、経済によって可変する。それでもそれぞれの文化が定義する「健康で文化的な最低限度」があり、奴隷として人身売買されない事、思想の自由がある事、人は誰にも殺されない事、が含まれる。

だが、これらは基本的人権の前から形成されていた価値観である。望ましいとされる方向に進めば、これらはどのような状況からでも到達可能であった。

つまり、人間の在り方として幸せを願えばこうなる。この程度は、近代思想を待つ迄もなく親は子を想い、子が親を想う孔子の時代の人たちもよく知っている。

こういう気持ちに基本的人権を持ち込む必要はない。自分がされたら嫌な事は他人にもしない。共感の能力で十分である。

衛霊公
己所不欲(己れの欲せざる所を)
勿施於人(人に施すこと勿れ)

だからと言って常にそれが出来るとは限らない。人間にはしがらみも欲望もある。性善だからといって行動まで善とは限らない。一方で性悪説が人間の愛情を否定している訳ではない。刻々状況は変わる。常に正しく行動できるものか。正しいとは何か。

例えおばあちゃんの生まれ変わりだとしても家に入ってきた蚊は叩く。線香を焚く。

自由

人間には、というよりも生命には自分を含み、あらゆる他の生物の命を奪う自由を持つ。まずこれらの力の行使は、第一に地球は禁止していない。物理学にも何の制約もない。

だから人間は多くの生物を、種族をこの星で絶滅させてきた。人間は人間さえ絶滅させてきた。基本的人権は物理学の法則ではないから、これらの力の前では役に立たない。遠く先まで戦争は終わらないだろうしジェノサイドも起き続ける。

その狂気の加害者たちさえも、そのうちAIに制御された機械に置き換わり、そのような世界で人間は何を主張するのか。そのような時代に人間が主体者でいられるのか。

侵略して来たものは撃たなければならない。だが侵略する側が飢えに耐えかねて来たならどうすべきか。こちらの食料もないなら、飢えて死ねと返すしかあるまい。それを言う権利はあるだろう。その食料は我々が所有しているのだから。ならば殺した方が守るにも奪うにも早い。どうすれば良かったのか、答えはあるまい。食べ物が不足したこの星が全て悪い。

照らす

人は生まれながらにして基本的人権を有する。この権利は生きている間は勿論、死後も消えない。なぜなら死後に切り離す根拠がない。よって、生まれた時に持つとする理由もない。つまり基本的人権は命に係わるものではない。基本的人権は個人とは切り離せないが、個人の所有でもない。どちらかと言えば、大河のように我々の周囲をずうっと流れているものだ。

故にそれは全ての人に無条件にある。と言うよりも、息をする空気のように、魚にとっての水のように、この権利は世界に満ちている。

この星のすべての命はこの権利と接触している。この星の命は人間だけではない。

全ての命がこの基本的な権利が満たす空間の中に生存している。だからこの権利は命については何も語れない。腸内にどれだけ多くの細菌が生きているか、それらが免疫によって消滅させられている。皮膚の上でどれだけの常在菌が生きているか、そして消えて行っているか。この体の細胞も日々生まれ死んでゆく。

基本的人権は、命について語りはしない。もし傷つけたら、殺したら、その答えは刑法が持っている。その刑法の根拠に基本的人権はいらない。と言うよりも基本的人権ではこれに答えが出せない。基本的人権はそれらに答えるようには出来ていない。全ての命を等しく考えるから。

思索

なぜそのようなものを掲げて人間は思索を続けているのか。野生動物たちは、一部の人間も含めてよいが、基本的人権を顧みない。それでも基本的人権という仮定がなければこの先を考える事は出来ない。

基本的人権は、新しく見つけたものを格納できる容器である。基本的人権だけに決まった定義がない。何かを見つけた時にこれは基本的人権だろうかと問う事ができる。

この問い掛けが重要であって、だから何かを探している時の灯りとして掲げられる。それを燃やす油は我々の中にある。そしてこの灯りは生命を等しく照らしている。人間という枠を超えて照らしている。そこに一切の境界を持たない。

拡張性

キリストでさえも当初は

「イスラエルの家の失われた羊以外の者にはつかわされていない。」

と語った。神は異教徒を区別する。イエスは飢えた人のために沢山の魚を用意した。その魚は人間の食物となるために生きていた訳ではあるまい。一粒の麦が地に落ちてと語るが、人と麦は違う命である。

基本的人権だけはこれらの考えを突き抜けて考える事を可能とする。この拡張性はこれまで人類が手にしたあらゆるものよりも強力だろう。アメリカ奴隷について考える時に基本的人権を持ち出す必要はない。人間の概念を人種を超えて拡大するだけで十分である。同じと宣言するだで足りる。

基本的人権はそれを同じとも違うとも言わない。この権利には一条も書かれていない。Human Rightsは決して「人間『の』権利」ではないのである。今の所、この星では人間だけが全ての生命について考える事ができる。それを考えたい人の側に必ず寄り添う。

命の尊重しよう。だが捕食する、生物の多様性が重要である、だが実験動物は欠かせない。地球環境を守ろう、だが戦争はする。侵略者を倒すためには兵士を無制限で殺すべきだ。時にジェノサイドも選択する。奴隷を所有する者も絶えない、人身売買も終わらない。

それらについて基本的人権だけが考える根拠を提供する。例えそれが蟷螂の様に吹かれようが、葦のように折れようが、空を見て恐れる杞憂であっても、この権利はある。

医療用動物を見て悲しいという気持ちは孟子の性善説があれば十分であろう。多くの人を動かすのはそういう衝動のような感情である。それは確実な動機となる。

宇宙

この汚い戦争は終わりそうにもないし、核戦争によって人類が絶滅する可能性も高い。謀略を尽くす独裁者とそれを支持する軍と警察が、その道を進む。振り返る気などあるまい。基本的人権は何の説得できない。基本的人権は説得術ではないから。

命について考えようと語りかけても嘲笑を止めない。彼/彼女らが気にするものは、権力、利潤、資本、国家、恐怖である。この構造からも基本的人権の正しさは証明されている。命のついて考える根拠となりえるのは基本的人権だけではないか。

この宇宙は生命に溢れている。この星の命が消えたとしても宇宙から命は尽きない。だから我々は生命について考えておく必要がある。正しく宇宙に出て行くためには基本的人権を拡張して将来を見てゆくしかない。それ以外では不十分である。

あらゆる生命について考えた所で明確な答えは得られないだろう。矛盾ばかりだ。だがそれでも我々は前に進む。それがなければどちらが前かさえ分からぬ。

我々はこの星系を命だらけにする。人類は宇宙に進出するから。それがこの星に生まれた生命の生存戦略だから。いつか見知らぬ生命と邂逅する時には我々は基本的人権を磨き続けたもので対峙する事になる。

要約

  1. 基本的人権は制限を持たない。
    1. この概念が提唱された当初はヨーロッパ人しか持たなかった。
    2. 歴史の流れは黒人奴隷やアジア人にまで拡張され続けてきた。
    3. 動物虐待、生物多様性、菜食など拡張の範囲は種を超えている。
    4. 上記歴史的経緯から、人権に制限を設けず拡張する方が望ましいという経験値を人類は持っている。
  2. 権利の根拠には所有の概念があると考えられる。
    1. 権利は持つ持たないの区別がある。
    2. 基本的人権に持つ持たないの区別はない。
    3. よって基本的人権は権利ではない。
  3. 基本的人権は具体的な何かについて人類に要求する項目の羅列ではない。
  4. 基本的人権は生命について考える根拠を人類に提供する。
  5. その根拠に理由はない。基本的人権の正当性を裏付けるものは何もない。
  6. その拡張性の広さはあらゆる思想を超えている。
  7. この構造ゆえに基本的人権は正しい。
  8. 人類が宇宙に進出するにはこの思想を抱えてゆくのが有望である。