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2018年10月30日火曜日

保守とリベラル、二項対立について

言葉と世界

全身が毛に覆われ、尾を激しく振る。真っ赤な口から牙が剥き出し、涎がだらだらと垂れている。見つかれば飛び掛かりあっという間に噛みついてくる。この魑魅魍魎の怪物がもし「犬」であるならば、単に飼い主とじゃれているだけではないか。

言葉には命がある。言葉は世界を変える。バスカヴィル家の犬でさえ、所詮は犬ではないか。化け物、物の怪の類ではない。今日の僕たちはそう考える。

名前が付けられると、それは言葉による制限を受ける。行動も禁止される。犬に魔力があるはずがない。火を吐くはずがない。化け物でさえも名前を持つから世界に参加できる。なにも変わっていないのに。

自然の一風景として、たった一枚の葉が、秋の訪れを知らせる。もしそれが神の啓示だったら。そんなこと、どうして人に知れよう。太陽が隠れれば神の意図かも知れない。それを否定する合理的な理由があるわけでもない。それは単なる天体運動だよ、と言ったところで、全知全能の神である。

50億年前から計算し尽していたとして何の不思議があろう。それは啓示かも知れない。そうでないかも知れない。神の前では言葉は無力だ。この言葉の性質からは誰も逃れられない。言葉を失わない限り。

二項対立

保守、リベラル。左翼、右翼。伝統、革新。全体主義、自由主義。資本主義、社会主義。分散と集中。陰と陽。儒家と法家。デュオニソスとアポロン。縄文と弥生。人間は世界をふたつに別けて考えてきた。

それがとても自然なのは、多分に脳の構造によるものだろう。宇宙のどこかには3以上でなければ理解できない知性がいるかもしれない。この星はバイナリな論理で構築されている。それはシナプスの運動ともよく符号する。人間がどれほど複雑な生き物でも、ON/OFF の集合体である事は疑いようがない。何億もの ON/OFF が多層構造となって重なり、どこかで発火する。ある閾値を超えた ON/OFF だけが人間の意識に捕捉される。

ニュートンやライプニッツが研ぎ澄ました微積法という刃物で、人類は手当たり次第に世界を切り刻んできた。中には切れないものもあった。発散と収束。有限と無限。脳は二項対立で考える癖を持っている。

細胞の内と外に境界がある。細胞はもしかしたらそういう仕組みではないかも知れないが、細胞を観察する我々はそのように理解している。そこに浸透圧があることも知っている。

外界とやり取りするのに沢山のポンプを動かしていることも知っている。生物は入力と出力を持つ回路である。組み立てられ、成長し、やがて停滞し、壊れてゆく有機物の化学回路。

ヘーゲル

テーゼとアンチテーゼが対立する。二項対立の関係性には、対立、妥協、敵対、競合、と様々ある。そうなる理由はひとつしかない。ふたつあるからだ。

その対立の行く末はそう多くない。
  1. 共存する道
  2. 統合する道(アウフヘーベン)
  3. 隔離する道
  4. 支配する道
  5. 絶滅する道

ならば人間の態度は必ずどれかに分類できる。共存しようとする人、統合しようとする人、隔離しようとする人、支配しようとする人、破壊しようとする人。これらの態度が人間の行動を決める。それが言葉の端々にも現れる。どのような言葉も、この何れかに分類できる。

だから内容など聞かなくても、態度が分かれば何が言いたいのかが分かる。それが分かれば内容は特に必要ない。

これらの関係性の中で相手を滅ぼそうとする議論が問題になっている。同じ事件を悲しんでいるふたりが、急に対立しはじめ意見を戦わせ、相手を罵る。同じ方向を向いているのになぜ争うのか。

二つしかないから対立する。二つしかないから、相手を滅ぼす事を考える。現実の多様さ、違い、複雑な絡み合いを受け入れるならば、そう簡単に結論には至らないと知っているはずなのに。

統合もまた絶滅の道である。クラークが描いた幼年期の終わりのように。テーゼとアンチテーゼがアウフヘーベンすれば、テーゼとアンチテーゼは消滅する。蝶から見れば、幼虫は消滅したと言えるか。夢の中の自分は目が覚めたら消滅したのか。

多くの生命がこの星で絶滅してきた。ある種は別の種となることで絶滅した。ある種は完全に命の螺旋を絶たれた。一度死に絶えた生命が再び出現することは確率的に無に等しい。人工的に再生することも困難だ。50億年もすればこの星は消滅する。それまでに地球の生命は宇宙へと進出できるか。

思想もまた滅びる。そしてリインカーネーションする。壮絶な体験で死に絶えたと思った思想が、復活する。打ち砕いたはずのナチスが蘇る。がん細胞が頑強なまでに増幅を繰り返すのと同じように。

相手を打ち砕くには暴力が必要である。論戦もまた相手を叩くなら暴力的である。言語が行動を伴うのも自然である。言論の自由はある。行動の自由はない。それが我々の社会である。だから行動を支える正義がいる。正義が絶対的であるほど、相手を撃つ力は強い。人間は正義を持たなければ虫も殺せない存在だ。

右翼と左翼

右翼と左翼の歴史はフランス議会から始まる。議長から見て右側にいる人々、左側にいる人々。最初から対立はふたつの間で始まった。三つはない。

右翼にいた人々は保守であった。左翼にいた人々は革新であった。保守である人々は、昨日と同じ今日が明日も続くという考えに基づく。変化は緩やかな方がよい、大きな変化は大きな負担を生むという慧眼に支えられている。

革新である人々は、この世界は常に工夫し改善する余地がある。理想からはほど遠い。今日を変えれば、明日はきっと違う日になる。

これらふたつは、変化に対する態度に違いがある。変化への受容性が、そのまま時間感覚の違いになる。保守の人は自然とゆっくりとした変化を支持する。革新の人は一気に変わることを厭わない。

だから、保守だから穏健なのではない、革新だから性急なのでもない。考え方の違いが自ずと時間に対する感覚の違いを規定する。保守と革新は、現状との差に着目して、大きく変わる方が革新、小さく変わる方が保守と分類できる。

20世紀最大の変革は共産主義であろう。この世界を二分する改革は、極めて人工的なものであったが、より変革的を求める共産主義が革新に、そうでない勢力が保守と分類されたのも当然である。共産主義は左翼、資本主義は右翼に分類された。森の奥深くに住む人々は置いてきぼりであったが、彼らはこの対立にほどんと無関係であったから無視できた。

こうして何かが起きる度に、それは革新か保守かという観点で左翼か右翼に分類される。容器がふたつしかないのだから、必ずどちらかに収納される。こうして物事は単純化してゆく。

日本が経験した次の変革は敗戦であろう。昭和20年以降に起きた社会的変革はアメリカ主導で行われた。これに賛意する側が革新、反意する側が保守になる。こうして、日本では左翼が戦後派、右翼が戦前派となった。

左翼と呼ばれれば、左翼的に考えるようになる。右翼と呼ばれれば、右翼的に考えるようになる。狂人と呼ばれれば、そのうち狂人と見分けが付かなくなる。徒然草にもそう書かれている。

(第85段)
狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。を学ぶは驥の類ひ、しゅんを学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。

右傾化は日本だけの現象ではない。すべての先進諸国で起きている。ヨーロッパでも極右政党が支持を伸ばしている。イギリス、フランス、日本、ドイツはどれも同じような問題に直面し、それぞれの方法で解決しようとしている。

右傾化する理由に急激な変化がある。100年かけて行うべき変化を10年でやろうとするなら右傾化する。10年でやるべき変化を100年でやろうとするなら左傾化する。右傾化、左傾化と時間の関数は常に一定であろう。

この時代の右傾化は、激動の時代に入った証拠であろう。反中、反韓、ナチス、都合のよい標語は歴史の中にある。だがそれは変化の本質とは何も関係ない。右傾化は変化に対するリアクションに過ぎない。嵐が来たからと言って、問題が解決するわけもない。

There's an east wind coming, Watson.
I think not, Holmes. It is very warm.

縄文と弥生

この国の多様性は二項対立の内包に支えられている。それが縄文と弥生である。ニーチェが{アポロン的 , ディオニュソス的} と言うとき、わが国は {縄文的 , 弥生的} と答える。

この国は決して単一ではない。多種多様な民族、文化の混在である。近年、様々なバックボーンをもつ方々も帰化している。この国は大陸の終端にある。そもそも、此処は逃げてきた人々の吹き溜まりである。そうでなければ誰があんな厳しい海を越えてまで辿り着こうとするものか。

この国には雑多なものがある。誰もが雑種である。それだけがこの国の強みだ。ではこの国の統一感は何が支えているのか。ひとつには日本語がある。ひとつには天皇がある。それ以外の何があるだろうか。

江戸時代は藩の連邦制が敷かれていた。およそ三百年という鎖国の間には、国内の流通も制限された。多くの人が自分の生まれた土地で一生を終える。それが一種の純化を促す。国学も朱子学も蘭学もこの時期に磨きに磨きぬいた。この蓄積が明治維新で爆発し近代国家への乗り換えを支える。それは今も県民性として残っている。

この国にはなんと多くの二項対立を見出すことができるか。だれか一人の突出がない。必ずもうひとつの価値観が生まれる。そのどちらかだけを選ぶなんてできない。例として北山、東山がある。

アジアと西洋

アジアにはアジアの統治思想がある。中国に生まれた様々な思想家の手によって紀元前には体系化されていた。日本はこの考えに影響された上で国を作ってきた。それを支えるのは「天」という思想であろう。

西洋はキリスト教の影響を強く受けてきた。近代国家の統治思想は、ヨーロッパ、中東などを経て、権力(王)と権威(教会)という二軸の中から誕生する。それが権利の章典である。この時点で法が王、教会と並び立つ。王と雖も法を自由にすることは禁じられた。王、神、法という構造が、行政、立法、司法にシフトするのは自然だと思う。アメリカに近代国家が誕生する。フランスで革命が起きた。

江戸時代に人々は科学技術に支えられたヨーロッパの圧倒的な軍事力を背景とする恫喝と出会う。我々の統治思想ではこれらの軍事力に対抗できない。だから、我々の統治思想は見直されなければならない。それともアジアの統治思想でもそれは可能であるか。

長い鎖国があったからこそ、日本は西洋から入ってきた技術に少しも躊躇しなかった。それを取り込んで自らの手で組み立てるのに多くの時間は必要なかった。だが、歴史は試行錯誤するほど多くの時間は与えてくれなかった。

明治維新において我々は、アジアの統治思想の上に近代国家を構築すると決めた。ペリーと通常条約を結んだ幕閣たちはアジアの統治思想を携えてヨーロッパと向き合った。伊藤博文は西洋のセの字も知らなかったはずだが、彼の手になる帝国憲法は、よく西洋を理解しており、彼の慧眼には驚くべきものがある。

どうして我々はこんなにも簡単に近代国家に乗り換えることができたのか。キリスト教の代わりに天皇を権威に据えた。これが日本の独自性であった。誰かが、彼らを支える教会が、我が国では天皇と同じであると気付いた。小室直樹によれば、ここに日本の悲劇がある。

我々はヨーロッパとアジアのハイブリッドとして国家を樹立した。だから、憲法をよく学ぶだけでは足りない。同じ熱力で論語も必要としている。それは今もである。

法と統治

日本人は理念、理想を絵空事と考える。ヨーロッパの人々が考え抜いてきた思想であっても、借り物と呼ぶ。自由民主党の憲法私案は近代国家をなにひとつ理解していない証拠として挙げられるが、それで困ると考える人は少ない。彼らは憲法を武家諸法度の延長と考えている。

憲法は理念を記述する。その理念に基づいて権力を制限する。だが、我々はそれを絵空事と考える。ルールは重要であるが、守る事でうまく動かないなら守る必要はない。

我々はそういう方法で十分だと考えている。ここに日本の法体系の源流がある。我々にとって法は建前であって「規則は規則」である。力を持つものがその気になればそれに抗う方法はない。それを体験的に知っている。それに対抗するのは力しかない。

なぜそのような通念でよいのか。なぜヨーロッパにある法の強靭さを信じる事ができないのか。

日本は治世で成り立っているからだ。治世が最初にあり、その次に法が作られる。法に理念を書く必要ない。なぜなら治世という考えの中に理念が含まれている。我々にとっての理想とは治世の理想であり、その源流は堯舜にある。

なにも悪い事が起きず生きられる、なんと素晴らしい事か。

我々の統治思想は、自然発生的な考え方に近い。それは勝ち取るものでも当然の権利でもない。基本的人権を幾ら叫ぼうとも津波は人を飲み込むではないか。

治世の理想が根底にある。憲法は最上の法律かも知れないが、統治機構の最上位にあるものではない。そういう統治思想がある。我々には法の理念よりも更に上位の統治理念がある。

だからこの国は法に明記しない所をぼんやりと運用するのに長けている。現場の判断でうまく処置するのに重きを置く。明文化すると、切り捨てられるものがあることを知っている。正体ははっきりとさせないままにする強靭さと永続さを知っている。不可思議のまま置いておくほうが、きっと役に立つ、そういう考えがある。

理想、理念から出発して原則を大切にするよりも、状況に合わせた運用の妙に重きを置く。だからヨーロッパのように法や原理を最も重要と考えていては理解できない部分があるのは当然だ。

自然観と統治

ヨーロッパでは、キリスト教によって自然は神の造形物となった。一神教の思想と砂漠はよく似合う。ヨーロッパが深い森に覆われていた頃、おそらくキリスト教は一神教ではなかった。

人間が神にとって特別の存在であるならば、神が造形した自然は人間にとって恵みである。自然にあるものをどう使おうが勝手である。聖書には似せて造ったと書いてある。それだけで自分たちを特別と信じてしまう。

日本の自然観は、自然の強靭さに裏付けられている。少なくとも、産業革命以前の人間の力でどうにかできるようなものではなかった。そういう歴史が、人間程度に打ちのめされるものかという幼児のような無邪気さの裏付けになっている。科学的根拠を示されても絶滅など信じられない。我々の自然は強い。その程度の自然観である。だから、どこかで生きていると信じている。

アジアでは王に権威があった。権力は家臣が持っていた。教会ではない。なぜ法家は三権分立を生み出すことができなかったのか。

先に進むために

ヒットラーがあれだけの大事業を成しえたのは何故か。その切っ掛けは右傾化にあると思われる。それが彼を打ちあげるためのブースターとなった。打ち上がれば切り離される。

大勢力とはそういうものだ。それが民主主義である。多くの為政者が危険だと知りつつも、袋小路から抜け出なかった。それと比べれば、少なくともヒットラーは袋小路に立ち止まる人ではなかった。それがどのような悪夢であれ立ち止まるよりはましだと考えた人は多かったであろう。

彼らは変化を求めた。そういう意味では革新であった。だが戻りたいのはもと居た場所だった。そういう意味では保守であった。もと居た場所に戻ろうよと言う人々と、別の場所に行こうよという人々がいる。場所が遠くなるほど、彼らの希求は強くなる。願いが強くなれば暴力的になる。

兵庫県警察-雑踏警備によれば、群集心理は通常とは全く異なる振る舞いをする。

明石歩道橋事故の教訓を受けて、人間の心理から問い直した素晴らしい仕事であるが、それの教える所によれば、どのような人であっても、ある条件下においては豹変する。人間はそのような動物なのである。なぜなら人間はそのような状況を前提として進化していない。蟻たちとは違う進化をしたからである。都市化によって初めて起きる状況に生物として対応しきれない場合があるのは当然と考えられる。

このドキュメントが示す群集心理の特徴、軽薄性、無責任性、興奮性、暴力性、直情性、付和雷同性を眺めていると、これがそのまま炎上と呼ばれる現象と類似している事に気付く。インターネットではそういう状況に好む人もいる。ネトウヨと呼ばれる人たちの議論もこれと同じだ。それらはまるで群集心理のように振る舞う。それは現象である。

インターネット上ではこれらの群集心理は一過性のものではなく、継続性を持っている。ここが大きな特徴とも思われる。インターネットという特殊な状況が、この興奮状態に対して、一種のハレを求める、一種の依存性を持っていると考えられる。これが大きな流れを持てば人間の力では如何ともし難い潮流を生む。米内や井上ではその流れを止めようがなかった、そういう無力感がある。

なぜ我々はこうも簡単に二項対立のどちらかに落ち込んでしまうのか。

警戒心と依存心、忌避と賛意、左翼は政府に銃を向けられて戦場に立つのを警戒する。右翼は近隣諸国に征服され奴隷となるのを警戒する。彼らが語るものは国家のようで国家ではない。世界でもない。平和でもない。なぜ対立が必要なのか。ふたつあるからだ。

絶滅の科学

現在は、経済がすべてを決するという考えが先鋭化した時代と言えるだろう。かつて、我々の価値観は、目先の利益に走るのを由としないものであった。平家物語を読まなくても、「奢れるものも久しからず」という考えがあった。

この世界は、未来永劫つづいてゆく。この世界もずっと続いてゆく。そう信じるならば、未来に対してどういう生き方をするかという考え方も重要であろう。

核兵器の登場が、人類の絶滅を現実化した。この現実が、未来永劫という考えを揺さぶる。もし滅びるのなら、滅びる明日よりも、今を謳歌する方がよい。手に入るかも分からない10年後の利益よりも、目先の利益を最大化する方が生き残る可能性は高くなる。

これが20世紀の価値転換ではなかったか。

天という思想、神という存在は希薄になった。核兵器の前で神が無力であることは広島、長崎が教えてくれている。

快楽の追求はいつの時代も、どんな場所でもあった考えである。ギリシャの哲学者たちだって考えていた。それでも未来を疑った者は少ないであろう。黙示録に恐れるのは永遠を信じているからだ。

科学が永遠を児戯にした。いつか滅びる、いつか絶滅する、宇宙さえも希薄になる。原子さえ存在できない未来が来るかも知れない。目の前の利益を追求することに躊躇する必要はない。今日の勝利者になるべきだ。

この時代とイスラム過激派には何か関係があるようにも思える。永遠という概念が世界を形作ってきた。あらゆる宗教はそれを前提とする。それが崩壊した。これほどの変革が時代に激動を与えないはずもない。

権利

失われることに人間は耐えられない。失った悲しみを乗り越えられるほど人は強くない。だから永遠性を必要とした。我々が寂しさで絶滅せずに先に進めるのは脳がそれを発見したからだ。永遠がある。だから、それは悲しくはない。そういう知性をもった生物として誕生した。寂しさで死ぬのは人間だけではない。

永遠が失われれば、国家が肩代わりする。右傾化はそういう流れだろう。永遠の代わりをどこかに見つけなければならない。国家はその中で最も簡単に見いだせる存在のひとつだ。

人間は時間が一過性の一方通行であると理解している。時間は巻き戻せない。と同時に時間が終わるという事も想像できない。自分が消えても時間は動いているはずだ。人類が滅びても世界は動き続ける。ならば時間とは動くことか。すべての物質が絶対零度で止まっても、時間は流れているはずだ。人間は時間が終わるという状況を考え出せない。

時間を永遠と仮定するから様々な思想が成立する。永続の具象として神や天が仮定された。その補助線を頼りに、思想を発展させてきた。

もし、それが消失したらどんな事が起きるだろう。

なぜ人間は権利を考え付いたのか。

権力とは禁止する能力のことである。権力の源泉は許可にある。そのためには禁止するための何かが必要である。人々を説得するだけの。それが力にあればこれは権力であろう。これが命令にあるならばそれは権威であろう。これが正当性にあるならば法であろう。

権利の根源は所有にある。私が所有するものは奪われない。これが権利の基本だ。よって権利は所有の延長にある。そして所有とは自然から略奪する事である。

この命さえも自然から略奪した。だからこの命は私のものと考える事ができる。恐らく虫たちはこういう考えをしていない。そして、自然から略奪した以上、そこに正当性はない。奪ってきた、そして私がいま所有している。他の誰かに奪われた所で、何の文句を言えよう。アフリカのサバンナではよく見る景色だ。

永遠を超えて

所有を守るためには力がいる。命令がいる。正当性がいる。そういう守られているという考えから、最初から所有しているはずだと思想を転換した所に近代国家の根本がある。人間もまた自然の一部なら最初から所有しているものがあるはずだ。それは決して人間と切り離せないものとして存在しているはずだ。

神が与えたものは神に奪われるだろう。誰かが守っているものは、誰かに奪われるだろう。だが最初から所有している権利は奪えないはずだ。その人の腕をもぎ取ろうと、その人の権利は奪いようがない。この考えが基本的人権の正当性を裏付ける。

自然から奪ったものに権利はない。所有した瞬間から権利が発生する。この考えならば太古からあった。全ての法律は所有に関する係争を裁くために存在している。

近代国家は、新しい権利を発見した。人間が自然から奪ったものだけが権利ではない。我々の中にも権利がある。それは所有というよりも、不可分なものである。だから奪えない。不可能なものの正当性を論じても意味はない。そういう形の所有を発見した。

誕生したものはすべて祝福される。誕生はすべて正しい。これが神の意志である。その1秒先に例えどのような運命が待って居ようと。その瞬間にすでにある権利を持っているのだ。この考え方に永遠は必要なかった。

神に与えられるのならば、それは永遠であろう。そうでなければ説得されまい。だが生まれつき持つ権利という考え方に永遠は必要ない。永遠などなくとも納得できる。それが近代国家の出発点となった。その始まりから永遠を排除できた。

永遠によって支える必要のない価値観。永遠を必要としない正当性。もし永遠を信じることができないならば、それは忘却してしまえばいい。考えなければ、それは存在する。否定しなければ、それは存在できる。存在しようがすまいがどちらでもいい。

なぜ我々は意味もなく否定するのか。ふたつあるからだ。

人が生まれながらに権利を持つといえば、孔子は笑うだろうか。キリストは興味のない顔をするであろうか。