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2020年2月20日木曜日

山桜枝きる風のなごりなく花をさながらわがものにする - 西行

山家集 上春140
山櫻枝きる風のなごりなく花をさながらわがものにする

この歌には次のふたつの意味があるらしい。いずれも「なごりなく」をどう解釈するか、という点に係るのだが、解釈の行方は「わがもの」を誰にするかで決まるようだ。

主語は、風かそれとも西行か?

もし風であるなら、この歌は次のような風景になる。
風が枝を切るかのように吹いて山桜の花を散らしてゆく。さもこの桜はわたしのものだと言うかのようだ。

もし西行であるなら、この歌は次のような景色になる。
さっきまで吹いていた風が止んだ。どこに行ってしまったのやら。花びらが静かに散ってゆく姿をひとりじめにしてもいいよって。

なごり雪は、冬を惜しみ春の訪れに抗う「なごり」という感覚があるから寂しさを感じる。「なごりなく」はその否定形だから名残惜しさなく、すっきりとした感じ、何も残らない、未練がないという意味になろう。この否定は、部分に対する否定ではなく全体に対する否定と考える。

この歌が、風のなごりなさなのか、なごりない花なのか、どちらでも読めるのは、西行がそれを知りつつそのままにおいたという事だろう。そう考えれば、この歌はどちらの解釈も西行の想定した通りであろうし、更に進めれば、意味の重複を狙ったと解釈してもぜんぜん悪くない。この歌は、なごりなくと花の間に休符があるかどうかで変わる姿をしている。





枝を切るかのような強い風が吹き、わが物顔をして花を蹂躙し散らしている。その風が去った、残った花びらが静かにひらひらと散っている。風さえ消えた世界に、わたしはひとりそれを眺めている。

風を戦乱に置き換えると、どうだ、エロいだろ。


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