stylesheet

2023年8月26日土曜日

読書感想文の書き方

宿題


敵を知り己を知れば百戦殆うからず(孫子)


読書感想文の主な用途は夏休みの宿題で、宿題である以上、そこには必ず出す側に意図がある。その意図を満たせば模範解答となる訳ではないが、その意図を知る事は役には立たなくとも無駄にはなるまい。

夏休みの宿題はもちろん全生徒を対象とするが、実際には、それぞれの生徒の個性に応じて、それなりの働きをするであろう事は想像に難くない。大きく叩けば大きく響く、大きく叩いても小さくしか響かぬ、様々な子がいて、様々な教科がある。

それぞれの科目がこの一か月の学習を想定して考え出されている訳で、遊んでいる間に学習した内容を忘れてしまうのでは惜しい。何かを毎日やるという習慣も身に付けて欲しい。

どうせ遊びに忙しいのなら尚更それとリンクして学習と結び付けられないか、夏休みはその絶好の機会である。

スポーツ選手が一日休んだら元の状態に戻すのに一週間かかると聞く。子供の仕事は成長する事で、成長の手段のひとつが学習であるから、ランニングが基礎体力を養うように学校の教科が脳のランニングとなる。

怠惰ではこれまでのトレーニングの効果が失われてしまう。だから宿題である。そう、ずうっとトレーニングは続けて欲しい。

では、夏休みの読書感想文の意義はどこにあるのか。指定された本を読む、読んだ後に感想文を書く、それだけ。その課題は、意図は、目的は。

教科書よりも長いひとつの本を最後まで読む経験、その後に原稿用紙2~3枚程度、1200文字を埋める。

これが課題として求められている事であり、それをやるのに絶好のチャンスが夏休みだと捉えている筈である。

チャンスとは、出す側としては、今ここでやっておかないと一生本を読まないかもしれない子がいる。これだけの長文を手書きするのもこれが最後かも知れない。

パソコン、スマートフォンが中心の生活である。長文を手書きする経験はこれからどんどん減ってゆく。これが最後の体験かも知れない。その経験は無くても困らない経験ではないか、と問われればその通りである。

しかし、多くの時代、人間は手書きで文章を残してきた。それを一生に一回くらい経験しておく事は無駄に終わっても惜しくはないだろう。先生はそう信じている。

論文

最終的には読書感想文の先に論文と呼ばれるフォーマットがある。論文は人類が数千年の時間を費やして改良に改良を繰り返してきた到達点である。

このフォーマットは歴史の中で自然淘汰され洗練されてきた。だからこれは人類共通の財産である。

論文は自分の経験を他人に伝えるためのフォーマットであり、正しいか間違っているかを書くものではない。必要なのは再現手段を記述する事。

論文の目的、研究の対象、数学、物理学、化学、社会学、経済学、文学、歴史学、人が研究するもの全てで、表現の仕方は違おうと、骨子は同一である。

自分はこういう事をした。それを試したければこの手順で確認できる。料理のレシピも、炊飯器の説明書も基本は同じで、それを記載する方法があり、過去の経験から生まれたルールには先人たちの合意がある。

書く

読書感想文が感想を書くものと思っているなら、最初のボタンから掛け間違えている。

感想文だから感想を書くのではない。大人ならいざ知らず子供たちの宿題である。どう書いた所で別段の処罰が待っている訳でもない。

工作の宿題にプラモデルを出した所で何の咎がある。創造性が素材だけで決まるとは思うなよ、である。

それは先生も百も承知の助である。感想文とは何を書いてもよいというメッセージである。

先生たちの最低限の要求は『なんでもいいから文章を完成させて提出しなさい。』であって、指定された文字数を兎に角埋めろ、それで最低限の要求は満たしている。

文字を書くだけなら写経でも構わない。しかし坊主の小僧どもではあるまいし、全生徒に経典を配る訳にもいくまい。

どうせ書くなら本の一冊でも読む切っ掛けにしたい。こういう機会でもなければこの本を一生読まない子もいる。何千、何万の本の中から一冊を選ぶ。誰のどの作品にしようか。

宮沢賢治に触れるのもこれが最後のチャンスかも知れない。この一冊がその子の未来を大きく変える可能性さえ秘めている。

本を読み、それを切っ掛けとして何かを書く、この体験だけでいい。それが豊かな人生と結びつく。そう信じられる力が本には備わっている。

これが読書感想文の目的である。文章を書く、それだけで訓練になる。漢字を書く、それだけで経験である。本を写すだけでもそれも工夫。本当にそれだけでいい。詰まらないと感じても構わない。これが先生の願いである。

感想文

そうして生まれた読書感想文が夏休み明けには提出されてきた。本を読み、長い文章を書くという先生たちの目論見をそれは満たしている。

所が、多くの生徒にとって、それは「何故」という疑念を残してきた。「何」が感想文であるかを誰も知らないし答えもない。自分が書いたものは本当に感想文と呼べるものなのか、と言う疑問は今も解決していないはずである。

読書感想文という他の宿題とは大きく異なる独特の記憶は今も多くの人の中に残っていて、読書感想文の経験は決して無駄ではなかったのである。

そうなったのは、子供たちが何を書いて持ってきても「これが感想です」と言いさえすれば反論できない仕組みを先生たちが組み上げたからだ。そうする事で宿題としてのハードルを極端にまで下げる事に成功した。

それが、多くの人にとっての感想とは、漠然としたもやもや、自分でさえ何を書いたか覚えていないもの、けれども提出はして特に怒られなかったもの、という経験の沈降となった。

読書感想文で表彰された、書くのが好きで何の疑問も感じなかったマイノリティを除けば、多くの人に刷り込まれた読書感想文は、訳は分からないけれど、とりあえず成立する何かとして記憶だけが残った。

だから感想が侮蔑語として使われた時に、初めて多くの人がハッとしたのではないか。

それは、あなたの感想ですよね

この言葉がこれほど短期間で膾炙したのは、読書感想文という伏線があったからで、それをうまく回収したから、これだけ多くの人にこの言葉の正確なニュアンスが伝わったのではないか。

この言葉の微妙なニュアンスは読書感想文を経験していない人には伝わらないと思われる。

もちろん、それを独特な抑揚や語尾変化で的確に表現した話者の力量が加わる。

対面で人を「あなた」と呼ぶ。初手からマウントを取りに行っているのは明白である。

「あなた」という呼び掛けには明白な対人関係の提示がある。「君」では馴れ馴れしい。「あなた」なら丁寧であるが、それをよくは知らない、親しくもない、親密になる気もない人に向けて発する。だから、これは宣言なのでである。

わたしとあたなは他人ですよ、慣れ合う気もなければ親しくなる気もありません。私のパーソナルスペースへの侵入は禁止です。私にとってあなたは取るに足らない他人です。この距離感が相手を自然と遠くに小さな存在とする。

その上で「ですよね」で語尾を畳み掛ける。

よもねも念押しの終助詞である。念押しをするという事は相手の理解力に疑問を持つからだし、それを丁寧に馴れ馴れしくするのは、相手との力関係を瞭然とするテクニックになっている。

感想

これが成立するという事は、このディベートの場所では権威や権力は役に立たないと宣言しているように見える。まるでジャイアントキリングの構図で、相手は無条件でゴリアテである。

その相手の言葉が「感想」である。あなたは気付いていないでしょうが、は省略されている。

あなたの主張は、何を書いても怒られない読書感想文程度の内容、だから取るに足りません、と指摘している訳である。

では、「感想」の反対語は何であろうか。何を語れば説得力があると言えるのだろうか。面白い事に読書感想文に反対語は存在しない。よって、何を持ってきても全て「感想」が成立する。

何でも感想である。何を語ろうと感想と言われればその通り。感想って何?という事に、我々は読書感想文以外の答えを持っていないから。

感情も感想、考えた事も感想、証明も調査も感想と言えば感想、解析も感想。人の言葉は全て感想である。だって夏休みの宿題がそういうものだったんだから。

所詮はあなたの読書感想文でしょう?あなたが好き勝手に書いたものでしょう、と言えばそれまでである。例えアクセプトされた論文であろうと、そう言い切ってしまえば、多くの観客にとってニュアンスは理解できてしまうのである。

読書感想文を再発見したという点が画期的だったのだろう。多くの人にとって読書感想文はそういうものであったでしょう?と思い起こさせた時点で、人々の関心は討論の場から、そういえば読書感想文ってなんだったのだろうという方に移る。そこで終わり。そういう修辞技法のメカニズムが背景にある。

つまり、読書感想文と結びついたから破壊力があるのであって、その力学さえ理解すれば、言葉自体には議論を終わらせる力はないと気付くであろう。

つまり、英語などの他言語に翻訳してみたら突然と意味をなさないであろう。


2023年8月12日土曜日

敗戦と福島第一事故

死と絶滅と

ユングは集合的無意識の存在を考えたが人間の自我が深層心理を含めてどれほどの複雑さと頑健さから成り立っているかは計り知れない。恐怖とは、あらゆる器官から上げられ、色、匂い、味、音、触覚を脳が先鋭化し死の恐怖を励起する個体の死だ。

だから、原発への反発は恐怖から起きたものではない。その根は個人の死より更に大きい。自分だけではない、全部が死に絶えるという恐怖。家族ならDNAの断絶であり、これなら江戸時代にもあった。これが最大にエスカレーションすれば絶滅の恐怖になる。

これは人の想像力に根差す恐怖だろう。つまり情報に恐怖する。この世界にはそういう恐怖を感じない生物も沢山いる。

人間だけ、とは言わないが絶滅に対する恐怖を感じる生命にはそれなりの神経系の発達が必要な筈である。

ヒトを死に至らしめるものはこの世界に多々ある。毒物、細菌、ウィルス、原虫、免疫疾患、事故、銃、自らを死に至らしめる事さえある。恐怖の中で放射線は新参者で20世紀以前の人々には存在しない恐怖であった。例え人身に被害を及ぼしても未知の不思議であった。

セシウム 137 の半減期は 30 年であるから 500 年もすれば大地は元に戻る。これは個人では許容できなくとも生物種として見ればたいした時間ではない。

土地の汚染は放射性物質だけが引き起こすものではない。自然に自浄能力があるとはいえ人が汚染し住めなくなった土地はある。海を汚したのは誰だ、川を汚したのは誰だ、山を汚したのは誰だ。なぜ放射線だけが一部の人々にこれだけの恐怖を与えるのか。

放射性沃素の恐怖は既に人々の記憶から遠のいている。海藻を多食する日本人は特に甲状腺に与える影響が小さいと考えられる。海藻を摂取しない一部の人たちを十分にケアすればいい。では、放射性物質の恐怖の正体はガンなのか、どうもそうとは思えない。

この世界には放射線よりも遥かに強力な発癌性物質はあるし、煙草の害も広く知られている。地球の大気汚染は放射性物質より深刻なはずで、海に放出された水銀、マイクロプラスチック、環境ホルモン、酸性化も安易な問題ではない。

遺伝障害を恐れるにしても、遺伝子を傷つけるのは放射線だけではない。オゾン層をこれだけ破壊しておいて今更である。化学物質も遺伝子を傷つける。今更である。酸素も遺伝子を傷つける。今更である。

我々は毒物に対して稀釈や中和、合成などで対抗する。それでも大規模汚染の場合は相当な年月を解決するまでに要する。

毒物には無機物もあれば有機物もある。放射性物質はその一部を占める。そのいずれも自然現象の、物理学の範疇にある。

原子力発電所の生み出す放射性廃棄物は 10万年先まで管理しなければならないとされる。現行種のヒトが生まれたよりももっと長い年月がある。人類が10万年先までは残っているとは考えにくい。新しい種に変わるか、途絶えている。

5万年後の生命が廃棄物の放射線を浴びながら生活する状況はあり得る。そこで起きる不思議な病が彼/彼女らに何を齎すか。

そのような運命をこの星に残していい権利は我々にはない。その生命たちに新しい神や恐怖を与える自由はない。我々の恐怖ではもうないというのに。

福島第一原子力発電所事故に憂える者はそれが個々の危機ではなく広範囲に拡大する危機だと認識している。この認識は、隕石への恐怖と似ている。

古里を返せと叫ぶ人がいる。ダムの底に沈んだ村の人々は同じ言葉を飲み込んだ。ある日、奪われた状況はそう変わらない。ゆっくりと受け入れる時間があったか突然かだけの違い。土石流、火砕流で失われた人もいる。自然災害は原子力発電だけではない。

原子力発電所がシビアアクシデントを迎えるのも、ダム開発が始まるのにもそう大きな違いはない。時にダムが破壊される事もある。そこで生じる自然現象は恨めない。

だから責めるべき人間がいる。不条理ならば理由がある。理由がないから不条理なのではない。そのような考えを脳は拒否する。不条理も理由のひとつで、納得できない理由で奪われるなら幾らでもあるが、理由もなく奪われるは受け入れられない。

事故を人が起こす。だからその責任を人に負わせる。でなければこの気持ちは晴れない。もしこれが隕石であるなら、責める人間がいない。どうやってこの気持ちを受け入れるか。

だから隕石で滅びるなら仕方がない。だから原子力発電所は違う。理由を人間に求められる。人が人を殺す事は許されない、自然が人を殺す事は許すしかない。

クマが街に出てきたら撃ち殺す。自然だから仕方がない。ならば放射線物質も自然である。ヒトも自然現象の一つである。ひでりの夏に餓死者が出るのは仕方がない。

癌細胞も自然である。細菌も自然である。ウィルスも自然である。自然なら仕方がない。そうであっても原発事故で土地が汚染されるのは納得できない。

危険とされてきた原発を放置し、案の定、事故が起きた。それが許せない。これは食い止める事が可能だった事案である。それを金銭の問題で見過ごした。

こんな愚かな理由で先送りされ我々は殺されるのか。そんな悔いは残したくない。だから恨みとなろうとも残す。もう二度と許さない。原発は許さない。それを制御してきた人たちを許さない。

この先に、もう戦争はコリゴリだがある。二度と御免だ。この気持ちがあるから戦後の日本は復興した。

曰く、これはエンジニアリングの敗北だ。我々は何よりもエンジンで負けた。だから空を海を陸を手離したのである。

戦争は悪である、戦争はしてはならない。ひとまず米軍が肩代わりしてくれる。戦後は全てをエンジン開発に投入した。まずはエンジンへの技術的渇望を克服する。だから世界一のエンジンを作る。これが日本産業の根底にある脅迫観念であった。

愚かさ

先の戦争も愚かなら、この事故も愚かである。この愚かさの正体は何か。

愚かさは正しく切り刻む必要がある。事象を時系列で並べ各場所で問いかける。別の道は可能だったのか、それとも困難だったのか。最後の敗着はどこか。

別の道にはどうすれば進めたか。それを可能とするためには何の条件が必要だったか。ある仮定をする。コストを見積もり。その実現性を検証する。そこから更に過去に遡る。それが可能とすれば、これも可能である。

未来は質量を持たない。だから何を言うのも簡単である。過去に戻れば具体的な重さが出現する。そこで成立するかを検証する。

遅々として進まなくとも前進は続けていた。もう少し時間があれば。まったく違う未来は有り得た。ならば時間がないとは事象の起きるのが早すぎただけだ。

準備不足で突入する。結果は机上でも分かる。ただ進めてゆくしかない。そのためなら数百万の命も投じよう。曰く、これが軍国主義の敗北である。

軍を統制できなかった政府、独自の理論で暴走した軍部、これは明治憲法の欠陥である。誰も訂正できなかったまま、その事象が起きた。その時点で手遅れだった。

愚かさを学ぶとは二度と繰り返さないためか?それは人間に可能な事ではない。我々は同じ失敗を繰り返す。同じ失敗をしなくても似たような失敗を繰り返す。誰かが必ず。

それを愚かというのは簡単である。結果論だから。それが起きる前に語っていなければ意味がない。語るだけなら八卦でも可能だ。ならば実際に止めてみよ、それが起きなかった未来なら、愚かについて議論する必要もない。

それが愚かに見えるならば、そこには愚かでない何かがある。今よりももっといい未来はあったはずと信じる気持ちがある。ではどうすれば良かったか、これからどうすれば良いのか。

果たして、それが人に可能な事だろうか。だれも愚かに向かう人はいない。それでも起きる。起きた原因を探ってゆけば愚かに見えるだろう。愚かに見えなければ起きるはずがない。

逆である。原因を探せば愚かしか見つからない。愚かでないものがその原因であるという因果関係を見つける事が人間には難しいからだ。そして愚かさを探せば個人か組織にしか至らない。なぜなら、それ以外に人間は存在していないからだ。

我々は組織で負けた。情報で負けた。隠蔽され、改竄された情報に基づいてどうして正しく判断できるだろう。どう決断すれば良かったのだろうか。

しかし正確な情報を得ていたならば正しく決断できたと考えるのは幻想であろう。人はそこまで正しくはない。情報は常に二次、三次と加工されている。その過程で何が抜け落ちたか読み切れるものではない。直接の情報に触れた所で何を見落としているやら。

後から、ああすれば勝てたのに、こうすれば爆発を防げたのに。科学としての検討には値する。そのプロセスの中にミスはなかったか、前もって準備しておかなければならないものが不足していなかったか。常に検証し刷新する態度は失えない。

どれほど対策を講じても災害は起きる。一番弱い部分が折れる。テロリストかも知れない。例え誰も爆発させようとしなくとも物理学に従えば爆発する。

あの爆発は、色々な手を講じた結果、起きたものだ。あれだけの地震に遭遇し、津波をくらい、事故を起こし、爆発し、それでもまだ冷却する手段が残っていた。姿形は今やボロボロとなったが、機能はまだ失われていない。

既に多くの人が焼野原を知らない世代である。白黒の写真でしか昭和の戦争を知らない世代である。米軍の鮮明なカラー写真の中に戦争を見てきた世代である。この大地震の惨状を見て、初めてあの戦争の焼け跡を経験した気がする。

この地震に特段な意味などない。プレートの端が少しだけ地滑りしたに過ぎない。だが、今まで見なかった景色を見せつけたのは確かで、その光景は、あの日の焼け野原と一直線にある。この光景を見ても思い返せない歴史なら、この先に歴史は必要ない。

今もあの焼野原に立ち戻れるのなら、その大地に立ってみる必要がある。ぽっかりと何かをあそこに置き忘れた。過去の重さを未来と繋ぐ。

もし先の戦争をしなかったらどんな歴史が。原子力発電所を建造しなかったらどんな歴史が。それはSF小説の範囲であるが、その if を想像しない力でどうやって未来と向き合うか。

もう一度戦争して勝つ自信はあるか。戦争への嫌悪感は次も負けるかもしれないという感情が背景かも知れない。戦争に突き進みたいのは、次は勝ちたいという願望の背景かも知れない。

今も我々は先の戦争の負けの理由を知らない。次に戦えばどうなるかを議論する資格はない。勿論、戦ったから負けたのである。戦わなければ負けなかった。その為に非戦、不戦は合理的な帰結。これが、最上の、負けない方程式である。

多くの日本人は中國には負けたと思っていない。我々はアメリカに負けたのであって、それ以外の敗北の記憶はない。だからあの敗戦を考える時にはアメリカが目の前にある。

ならあの広大な中國大陸を支配できなかったのは、我々の落ち度なのか、それとも中國の人たちの奮戦の結果か。我々は足を踏み入れたが、決して勝ってなどいない。

今も戦闘の勝利と戦争の勝利の区別ができないから、もういちど戦争について考える必要がある。我々の優越感のために外国が存在しているのではないのである。

我々はあの戦争をした、それでどうなったか。我々はこの事故を起こした、それでどうなったか。ここまでなら、誰でも問える。

だが、これに続く言葉が見つからない。我々はまだケリをつけていない。どのような所へ導かれようと、納得できる答えがいる。それだけが愚かさから逃れる道のはず。

恐怖は風化する。放射能の恐怖は、我々の絶滅と直結している。我々の背骨の先に永続を希求するものがある。脳の中には増えようとする回路が組み込まれている。ここに起因すれば永続化の希求も生まれる。恐怖と呼んでもよい。

事故であろうが、故意であろうが、トリチウム汚染水の放出では必ず間違いが起きる。規制以上の放射線、核種を含んだ汚染水がそのまま流される。それに気づくまでに何週間もかかるもありえる。隠蔽の告発もあるはずだ。多くの非難と損害賠償を被るだろう。

愚かさ、裏切りがあり、目先の利益を追うものあり、逃げる者あり、責任を取らない組織。謝罪するもの、処罰されるもの、賠償するもの、全員が責任者になれない構造がある。そうやって強大な責任を全員で支えてきた。

生きのびる事、死に対する唯一の武器として、我々は永続性を掲げる。家族を作り、群れを形成し、空間的にも時間的にも永続性で世界を切り抜き、過去を祖先として祀る墓で保存する。

その普遍性として石を刻み、その先に神や仏が生まれ、言語はこれを補完し、伝説、伝承、歴史を残した。

愚かさは、探せば必ず見つかる。なぜなら愚かさは過去にある。未来から見ればどんなものも愚かにできる。未来と過去は愚かさで断絶している。多くの理由の中からの選択次第で決まる。その選んだひとつにより、愚かでも、愚かでもなくなる。

愚かさとは選択である。未来を切り開こうと選択し、過去を振り返っては選択する。選択が異なれば結果も変わる。

過去を学ぶのは未来に生かす為ではない。愚かさを学ぶのは、失敗の後について知っておく為である。愚かさなど学べない。回避もできない。ただ、等しくその後の処し方を得る。それを見つけるために愚かさを知る。そこに侮蔑すべき数多の人間が横たわっていようと。