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2010年11月14日日曜日

宇宙創成 - Simon Singh, 青木薫 訳

ミミズが雨の日にアスファルトの上にいる。彼の行く先には、何もないことが僕には見えている。だが、その方向に這ってゆく彼を愚かしいと言えるだろうか?

ミミズは愚かなのであろうか?

彼の感覚器は、明かりの方向が分かる目と地面の振動を感じる程度のものでしかない。その我々から見れば限られた情報の中から、彼は命の選択をしている。恐らく、彼は限られた情報から合理的な選択を行っている。

合理的に見えないのは、彼が馬鹿だからでも、下等だからでもない。彼が手中にできる情報が我々に分かっていないからに過ぎない。

全ての生物は合理的であり、もし、合理的に見えないなら、それは前提条件の方に誤りがある。

ミミズの振る舞いを笑える人は、天動説を笑うのも容易い。

全ての人が知っているとは言わないが、学校で習った事を覚えている人なら、地球が太陽の周りを回っていることは知っているだろう。

だが、今でも教科書に天動説を載せているのは、天動説を嘲り笑うのが目的ではないだろう。地動説に駆逐されるための教材として取り上げているわけでもないし、今の科学に優越感を感じるためのものでもない。

そこには自然な考えがあった、と教えたいためだろう。だが、昔の人は幼稚で子供が考えそうな思考で納得できたのだと思ったら大間違いだ。

既に、遥か昔、バビロンの頃から、人間は天体を観測していたし、知る限り、紀元前には地球の大きさを測定していた。このエラトステネスという人がどういう方法で地球の大きさを測定したかは本書に譲るがその瞬間に、地球と月までの距離が、地球と太陽までの距離も求められたという話はどうだろうか?

エラトステネスは最後のピースを見つけただけであり、それまでに、距離を算出する式は既に見つけていた。

どのようにして距離を算出したかも本書を読んで頂くとして、ここで重要な事は、これだけ合理的な考え方をする彼らが無邪気な子供の如く、太陽が毎日動いているから天動説を採用したと信じてはいけないのである。

本書を読めば、プトレマイオスが何故、地動説を嫌い、天動説を支持したのか、その理由がよく分かる。決して、愚かでも頑迷でもなく、そう考えるべき合理的な理由があったのだ。

我々が知る限り、地動説を唱えた最古の人は、ピロラオスという名前の紀元前5世紀のピタゴラス派の人らしい。らしい、とは、つまり、本書にそう書いてある、という意味だ。この説はアリスタルコスによって、更に推し進められ、アルキメデスもこの話は知っていたとある。

プトレマイオスが紀元83年に人だから500年も前の事である。

それでも当時のギリシャ人はこの説を採用しなかった。恐らくだが、現在の僕達が当時にタイムスリップしても地動説で彼らを納得させることは難しい。星を観測してごらんよ、望遠鏡で見てごらんよ、と提案してもそこには望遠鏡もない。

ガリレオの時代に、望遠鏡で見ても、人々は地動説を信じなかった話が本書に出てくる。

地動説を唱えたコペルニクスも、その軌道は円運動と考えていた。ヨハネス・ケプラーが楕円軌道を見つけるのに8年の歳月を費やしている。

僕は天文学者ならヨハネス・ケプラーが一番好きなのだが、それは多分にCarl Sagan 「COSMOS」のせいだ。ケプラーの姿は、TVのコスモスで見たロバに揺られている修道士のままイメージが定着している。

ケプラーとも文通していたガリレオが、金星の満ち欠けを天動説よりも正確に予測しそれが観測された時、初めて地動説が天動説よりもより現実を上手く説明できると示された。これによって天動説よりも地動説の方が正しい事は証明されたのだが、それでもガリレオは
「それでも地球は動く(Eppur si muove.)」
と呟かねばならなかった。

著者のSimon Singhは、これらの天動説には否定的であり「その場しのぎ」の説と呼んでいる個所がある。この記述が僕には気に入らないが、そこには科学史において不遇を得てきた人達への同情があるのかもしれない。

正しい論説が幾つも埋もれてゆく様を取材を通して見てきたことから彼は独特の怒りや絶望を感じているのだろうか。科学的に正しい理論が実験されなかったり無視される数々の事例を追いかけた著者には誤った考え方を信じ込んでいる科学者に少しだけ寛大ではなく批判的な面がある。

だが、どちらも合理的であろうとする態度に誤りはない。神の世界や保守的な考えであっても、その中での合理性がある。

二つの異なる意見が対立する場合、そこは科学的態度をもって挑むべきだが、だが、それさえも甲乙つけがたい場合、つまり判断ができない場合が起きる。

どちらの意見にも一長一短があり、それが実証されるのを待っていた。

それが、本書のテーマであるビッグバンである。

本書の第二章より始まるビッグバンの話は、まずは、光の速度がいつどのように測定されたか、から始まる。1670年代の話である。

17世紀には、光の速度を科学的に正しいと思われる観測と理論に基づいた方法で算出した。その方法が想像できるだろうか。

光速の測定から始まって、アインシュタインの登場、量子力学の台頭、天文学の発展と絡みあう。相対性理論の話は、お決まりのエーテルから宇宙定数の話まで登場するがこれはプロローグに過ぎない。

宇宙の起源を知るためには、量子力学の成熟が必要であった。その理由を知っているだろうか。本書にはきちんと書いてある。

スペースシャトルの事故が、宇宙の起源を探る学者らを落胆させた理由を知っているだろうか?それも本書に書いてあった。

定常宇宙モデルとビッグバンモデルの二つのモデルがどのように決着を見るのか、この本に登場する科学者たち(それはほんの一部に過ぎない)が、どのように主張し、どのように実証したか。驚く勿れ、この問題が解決を見るのは、1992年の事である。

本書は当代随一の科学書であり、科学者を好きになったり、嫌いになったりしながら、合理的とはどういうことか、科学的とはどういう事かを物語る。

そして、この本で語られている幾つものテーマは、実は何千年も前からあるテーマであることに驚く。太古の人類が自然と問うたその問いに、幾つかは納得できる答えが用意できたが、まだ答えがないものがある。それは、神話の地球像と対して変わらないままで今も横たわっている。

その答えはいつか見つかるだろうか?

著者は楽観的であるように見える。それは科学という態度を信じているからだろう。

まったくのゼロからアップルパイを作りたければ、まずは宇宙を作らなければならない。(カール・セーガン)

BIG BANG vol.1/vol.2

2010年11月1日月曜日

ちはやふる - 末次由紀

ちはやふる4巻に次のセリフがある。
綿谷先生とまた会える。
じいちゃん
おれ
かるたが好きや

これは、長くかるたから遠ざかっていた新がもう一度かるたを始めようとするシーンだ。このシーンを読むと、僕は「ヒカルの碁」でヒカルが佐為と再会する場面を思い出す。

いた・・・
どこをさがしてもいなかった佐為が・・・
こんなところにいた―――

この二つは、どちらも止まっていた時間がもう一度動き出す瞬間を描いていて、いつもと変わらない空や町の風景の中に二人の心だけが涙となる。とても良く似ている。

二人とも大切な人を失い、そこに自分のエゴを見つけ、自己嫌悪の中に閉じこもっている。それを再確認し、許されることで一歩進もうとする。 

何が二人を許したか。

もう一度、失った人と会えること?

違う、たぶん、それを知る他の人、第三者が必要だったのだ。そこから自分を引き上げてくれるのは、自分の伸ばす手を掴んでくれる人がいてこそだ。一人で悩むのを止めた時に、許された、それは、物語が少年時代に別れを告げた瞬間でもあった。

きっかけは、ただのおじさんで良かったのだ。そのおじさんは、ただの第三者であったか、ただの脇役であったか。一見そうみえるそのおじさんも彼女が描けば物語がある。そのページを眺めているとおじさんにも物語があるのだろうな、と思えてくる。

この人の描く漫画には、他の漫画とは一風変わった印象を受ける。ちはやふるだけではない。クーベルチュールやハルコイでも同じ印象を受けるのだ。

それは、この物語を何回か読んた後でいいから、是非、背景に描かれたすれ違うだけの人に目を配ってみることだ。その表情やファッションを見ていると、その人の物語もまた描かれている事に気付く。誰一人として脇役などいない、逆に言えば、この漫画に主人公と呼ばれる人はいない。

これがこの作者の描写だ。

何気ないクラスメートたちが、それぞれの人生を歩んでいる様が、何気ない一コマのなかにも描かれている。それぞれのクラスメートが卒業してそれぞれの人生を歩み家庭を持ち、そしていつか再会するんだろう、そんな思いが読む人の心の中に湧きおこる。

全てのキャラクターが全て生きている。主役も脇役もいないこの漫画の、これがこの作者の驚くべき力だ。

それと比べれば、彼女の盗用事件など詰まらない話だ。決して絵が圧倒的に上手いわけではないこの漫画家をそれでも漫画家たらしめているのは、それでも絵でしか表現できないこの漫画自身の描写の魅力なのだ。

トレースしても気付かれなかったと告白している漫画家がいる。その発言に何らメッセージを込めていないとは思えない。

彼女は、少しだけ上手すぎたという所か。もう少し下手であれば、誰にも気付かれなかったかもしれない。

基本を問えば描写とは表現の問題であり、盗用は経済の問題であろう。自分の描写を自然から拝借しようが、人の作品から拝借しようが、基本的に表現とは関係ない。表現とは、一場面をトレースしたからといってどうのこうのなる話ではなかろう。

贋作を贋作たらしめているのは、芸術への評価という経済問題に関するのであって、作品の本質とはなんら係わりがない。贋作のほうが優れて芸術的というのは、ありうるのだ。だからといって、芸術であれば優れているという訳ではないのであるが。

本を売ってお金を得ることと、表現の間に断崖がある。表現したものでお金を得ているが、そこに合理的な正当性はない。少なくとも作品の価格は市場が決めるのであって、作品とは関係ない話だ。

お金を払ったものが盗品では困るというのは社会の要請に過ぎず、表現とは関係ない。自然から掘り出した石に価格を付けることと、手が描いた図形に価格を付けることは同じだ。盗品であろうが殺略の果てだろうがその石になんの違いがあるだろう。

もともと、価格など付けようがないものに価格を与えるのが経済なのだから、人が多かろうが、少なかろうが、本質、価格とは言い値に過ぎない。

作品ではなく、その背景に興味がある人は、ただ、類似点を探し、似ているから盗用だといい、盗用であれば悪と言う。商業においては悪であることと、作品が悪であることの違いなど一生考えてみないのだろうか。今の所、そういう人たちは自分を売り込んでいる人としか呼びようがない。

それでも、この不都合な盗用やトレースという出来事は、我々にとっては幸運であった。

二年間、作品が発表できなくて、過去の作品は絶版となり、作者は苦しんだだろう。その苦しみのおかげでこの漫画と出会えたのだから。読者である僕らが何の苦痛を受けたというだろうか。待っただけの価値は十分にある。

もしかしてこの作品と出合えていなかったかもしれない、と思えば、不幸も事件も僕達にはそれでよかったのだ。

これだけの作家の作品であるならば、これからの漫画の一つ一つが、絶版となったものを再販させてゆくだろう。問題とされるシーンは差し替えられるだろうが、それは出版社と作者の問題だ。古本であれ、再販であれ、それらを読めるならどちらでも差支えない。僕は、手垢で汚れてボロボロになった少年ジャンプを回し読みして育った世代である。

物語がどのように紡がれるかは、製作者の工夫であり、百代あれば幾千の技があるだろう。それを我々が垣間見ることはあっても、工夫も語り尽くすことなどできない。あるいは本人でさえ、それを説明する能力は、範疇を超えているかもしれない。

作者の人生が、人との付き合い、読書から得たもの、自然の中から見たもの、町の風景、作り出した物語、そういったもので紡ぎだされた物語は、まるで一つの人生を再構築したかのように魅力に溢れている。

どのコマにも物語を持つ人がおり、それぞれの人生のなかでちはやふるという物語と係わりを持っている。それがページの一つ一つを埋めていって、日々の生活が出来上がるのと同じように、この漫画は動きだす。

読んでいれば誰かの生活が始まるのと同じように、漫画が始まる、そして漫画が動き始める。漫画が動く、という表現がぴったりくる。

この漫画は動く。

キャラクターが動いていると言うよりも漫画が動いている、という語感が良く似合う。これはアニメーションの話ではない。

ある作家が精力を込めて一コマ一コマを仕上げた、彼女の息吹であり、歩いている道なんだと思う。

難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今を春べと 咲くやこの花

ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは
誰をかも しる人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あわむとぞ思う
めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな
すみの江の 岸による波 よるさへや 夢のかよひ路 人めよくらむ
田子の浦に うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ
こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ
かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
わたの原 こぎいでてみれば 久方の 雲ゐにまがふ 沖つ白波