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2021年12月29日水曜日

宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち - 安田賢司

福井晴敏のこと

「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち」といい「機動戦士ガンダムUC」といい、この人が参加すると必ず長い長い演説が始まる。そのいずれも核心など突いておらず、その安っぽい人間観察に感動などあり得ない。退屈がぴったりである。

人が善良になろうとすれば必ず何かと衝突するものである。その時に起きる葛藤というものは当然ながらドラマになる。その葛藤に悩んだ末に悪を選択する事もある。その程度で感動できるなら犬の死体でも眺めている方がよほど煙草も美味い。

当たり前だが衝突など人が極悪になろうとしても起きるものである。その奥底に何を覗いた所で、何かが必ず見つかる。畢竟、全ては脳細胞の電気信号である。それをまあ、約束を破ったたの、恩があるだの、友愛だの、戦いだのという額縁で装飾する。重要な事はその前後で作品は何も変わっていない事にある。無駄な時間だ。

1mmも浮遊もしなければ落下もしない。ただ疲労だけが残る。では何をこの作品の駆動力とするのか、もちろん、この時間帯に求められるのは観客の忍耐である。時間を埋めるためだけに流れる演説の中に、敵と味方の定義、我々の行動を起こす指針、根拠、強迫、渇望がある。

その定義が如何にも必然を纏っていない。作品を重厚にもしない。演説によって観客に構造を示そうとする。その構造は対立するための必然でなければならぬ。両者に正義がある事を示す。そこに単純な正義と悪ではない構造をロードしようと試みる。

所が対立軸が余りにも陳腐なので、観客はとても許容できない。もしこれに納得できる知性なら世界平和など容易いのである。世界情勢のニュースさえ見た事のない知能であろうか。そこで提案される解決策にどれほどの説得力があるか。もし彼が国際連合で働いた経験が数カ月でもあれば決してこのようにはなるまい。

どちらにしろ物語は破壊し付くすのである。そこで発生する葛藤は、引き金を引くまでの感情の起伏を描くためのものに過ぎない。最後は燃え尽くすのである。

これは先人たちのトレースに過ぎない。富野由悠季が既にギレンで試し成功した事を。ザンボット3の最終話でコンピュータ8号に語らせた事を。何度も何度も自分の作品で試す。本人の自覚とは別に、何度も何度もその追憶を追い求めている姿を見せつけられる。


土門竜介のこと

これみよがしに銃を意識させる演出。このレイアウトは明らかに不安を煽る為である。この先で何らかの役割を演じる事を暗示する。これが今後の展開にエッジを利かす、それ位の意図であろう。

しかし、ドラマとして見ても、演出技法として見てもこれは下手あって、邦画ならいざ知らず海外の優れたドラマでそのような安易な演出は許されないだろう。学生の卒業制作で時間が足りなかったのを見せられているのではないのだが、という疑念が拭えない。

観客は様々な情報から自分の中の閾値を上げ下げする。どこまで推し進められるか、どこは妥協するか、どの点は無視するか、どこまでなら後退できるか、そしてドラマに寄り添うように付き添ってゆく。それが許されるのは物語の終着点に辿り着きたいという思いしかない。

制作者たちが堂々と敗北宣言した所で別に問題などない。デザインされた時点でこのキャラクターには中心を占める何らかの役割が与えられている事は分かりきっている。

不安も希望も、その後の展開で見せてくれればいいのである。不吉な予感を与えるには陳腐すぎる演出。なぜ、そのような演出を敢えてしたのか。全くその心理を測りかねる。本当に大切な作品でこんな演出に耐えられるだろうか、それくらいの気概もなく、なぜヤマトを引き受けたのか。

話が進むにつれて、彼がどうやら憎しみをを持っている事が判明する。それが家族に関する事、そして人と群れる事を嫌い、孤立しつつある事、が明かされてゆく。つまり、このままでは単なる鬱屈した青年になってしまう。

だから物語が必要だ、事件は一人では起こせない。

薮助治のこと

ヤマトを裏切ったキャラクターであるが、2199以降ではガミラス人として生きる道を選んだ人物として描かれる。そういう意味では最も数奇な運命を生きる地球人である。

地球人は2回の絶滅の危機を経験したにも係わらず、相も変わらず人を排除しようとする、友愛も労り合いも絵空事であると描く。作品のテーマを作品に登場する通行人を使って否定する。その情景を描く為だけにガミラスから地球に戻したのだろうか。キャラクターの役割としては2205を支える重要人物になっている。

ヤマトの乗組員の中にもクズがいるよ、と描くのは、それが孤立する事に説得力を持たせるための演出だ。

いや、クズで済ませてはいけない。どういう経緯があれども、今や正式なガミラスからの客員である。その人に対して、馴れ馴れしい態度を取る人間、あからさまに軽蔑する、無視する人間が居る。

本当によく教育された兵隊がそのような態度を取るはずがない。もしそういう兵で構成された隊ならば、相当に将官は舐められている。そういう描写は作品の根幹に係わる芯となる所のはずである。

そのような兵士でどのような戦いが可能であろうか。一応の軍隊を描いているのではないのか。そんな事だから子供のままごとを揶揄されるのである。

同盟国から来た人がどういう出自であれ、また過去にどれだけ激しい敵対をしていたとは言え、他国の人間を蔑むはあり得ない。例えば、敗戦時の日本に日系アメリカ人が戻った時の風景としてあのような態度はあり得るだろうか。

そりゃ、よく思わない者もいるだろう。家族や親戚、仲間うち、街中ですれ違った人々の感情は様々あろう。

だが、場所は軍艦の中である。それを口に出したり無視する事はありえない。叱責は当然、それでも改まらないなら配置換えである。それがあるべき組織の姿だ。そうでなければ戦闘など不可能。そしてヤマトはそのような人間の心理を描く物語ではない。

よってこれらの描写はただ土門と語り合うための御膳立てという意味になる。

そして土門と藪が語り合いを通じて、物語の感情を進めてゆく。遂にヤマトは決断を迫られる。ここまでは陳腐な抑揚の繰り返しであった。


古代進のこと

「おれたちは経験者だぞ。」この台詞で一気にこの作品のベクトルが反転した。

この発言をした古代が叛意を持っていなかったはずがない。そして古参たちがそれを予感していた事も示唆している。

「お前たちが危険を冒さなくても俺たちがやった。それは俺たちの仕事だ。」そういう意味である。お前たちがやらなくても俺たちはそうする気だった。お前たちが動くのに気付いたので成りゆきに任せた。

クーデターはただでさえ面白い。しかもそれが誰かの手のひらの上で踊っていただけという構造になれば尚更。

その瞬間にもうひとつのIfとしての物語が動き出す。古代たちのプランで行われたクーデターは是非とも見てみたい。だから、瞬時に頭の中でその物語が始まる。ふたつの物語が並行する世界観。

こういうものをきっかけの作品の矛盾も詰まらなさも陳腐さも消し飛ぶ。全ては上書きされた。そういう力をたったひとつの台詞が、持っていた。回路が接続され電気が流れる。ヤマトという世界を動かす歯車が動き出した音を確かに聞いた。

この台詞で古代進がきちんと古代になったと言うべきか。富山敬ではない古代が初めて誕生した瞬間だと思った。だから胸を打った。この時に小野大輔の古代進が分岐した。

この先、どれほどこの作品群に失望しようと、もう決して見失う事はない。その瞬間を通過した。

2021年12月26日日曜日

不知為不知、是知也 - 孔子

巻一為政第二之十七
子曰(子曰く)
由誨女知之乎(由よ、汝に之を知ることを、おしえんか)
知之為知之(これを知るをこれを知ると為し)
不知為不知(知らざるを知らずと為す)
是知也(是れ知る也)

知らなかった事を知るとする為には、知らなかった事を自覚しなければならない。知らなかったを過去形にするには今は知っている必要がある。つまり知らないと知るは互いに等しく、これは知識の有無の問題である。

知らなかった事を知らなかったと自覚する為には、新しく知っているという状態を獲得しなければならない。もし誰も知らない事を新しく発見したのならば、それは知識の問題というよりも、それを探求した姿勢の問題と言えるだろう。

もし知らない事を確かに知らないと意識したければ、そこに知ると知らないの境界線がなければならない。その為には知らない為には知らない事を知っている必要がある。知らない事を厳密に定義しなければ知る事を知る事さえできない。これは知らない事を定義すれば知ると知らないの境界線を明らかに出来るという事である。

知らない事を厳密に定義すれば自ずと境界線が定義される。それは知っているものを使って定義したものだ。その死っている事の中に知らない事が含まれる。知っている事の向こう側に知らない世界が広がる。そこは全く見えない世界であろう。

知らないの境界線を越えた先に知るがある。知らないの向こう側に知るがある。そしてその知るの向こう側にはまた知らないがある筈である。



知るの中に知らないが含まれる。知らないの向こうに知るがある。

では、と、ふと思う。知る事が決して出来ないものもこの世界にはあるだろう。その中には例え知る事は出来なくとも推理する事は出来るし、想像する事も可能、そういう類の知らないものが先ずある。

知らない事でも知るに迫る事は出来る。という事は、知らない事の中には、何時かは知る事が出来るものと、永久に知る事が出来ないもののふたつがある事になる。

知らない事と、知る事が出来ないものを区別するなら、手順を尽くせばいつか手に入るものと、決して手に入らないものがある。

知る事が決して出来ないものとはどういうものであろうか、その想像さえ拒絶する。すぐ横を通り過ぎても決して気づかない、それが何かは分からない。それを知る事は不可能なのである。そこに辿る道は永久に絶無。だが、そういうものがあるだろうと私は考えている。

由よ、知るという事さえこれだけ違うのだ。人間はなんとも劫の深い生き物ではないかね。

2021年11月20日土曜日

割り算 In this Site

2021/11/20
等分除と包含除

2021/03/21
掛け算と足し算

2020/04/01
なぜ掛け算を先にやるのか

2019/11/24
\(\scriptsize{30 ÷ \displaystyle\frac{1}{3}}\)

2019/11/12
分数の割り算はなぜひっくり返して掛けるのか - 反数と逆数
割り算とは逆数を掛けること。

2019/08/12
割り算を考える
割り算とは基準を変換する演算。

2019/06/22
A+B=B+A 足し算は順序を入れ替えても良い理由
割り算は掛け算、1で割ってから掛けるみたいなもの。

2019/02/24
どっちをどっちで割るんだっけ?
濃度の単位を理解する。

2018/11/19
引っくり返して掛けること - 割り算と掛け算
割り算を逆数で考える。

2018/09/26
割り算とは - 四則演算
割り算は掛け算、除算は掛け算に変換する途中の式。

2017/11/03
水100cc に 1 g の塩を溶かした時の濃度
0除算にならない方が該当する式。

2017/03/17
分数の割り算をひっくり返して掛ける理由
分数には分数を1にする分数(逆数)がある。

2013/09/09
分数の掛け算は足し算にできるか?
分数とは、掛け算の中に割り算を隠す方法のひとつ。

2013/07/26
分数の割り算はなぜひっくり返して掛けるのか - 比や引き算で考える
分数とは、分母を同じにすれば分子の比として考えられる。

2012/04/26
分数の割り算はなぜひっくり返して掛けるのか - 6 割る 4 分の 1
割り算をひっくり返す理由は、そうすれば答えが出てくるからではなく、ひっくり返して掛け算の形にすれば順不同に出来るから。

等分除と包含除

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はじめに

割り算について調べると等分除と包含除の違いみたいな話題に遭遇する。割り算は演算とその作用であるから、形が同じである以上、通常はひとつと見るべきであろう。最小限の定義があれば十分であってそれはひとつの式となって河原をゆらゆらとするのみである。

しかし人間は解釈によって世界を切り取る動物である。酷い目にあうと祠にいたずらしたからバチが当ったのだと考える。これは20万年の進化によって淘汰された脳の役割であり、危険を避ける為には残す方が有利であった可能性が高い。

危険はその前兆を把握しなければならない。二度目のその幸運は訪れないからである。だから現象には必ず兆しがある。例えなくても何かで埋めておく。この生理的な原因と結果と紐づける生理の延長線上に解釈は立脚する。

四則演算の解釈

operateinterpretdescription
足し算増加増えた後の個数を求める
合併ふたつの値が合わさった後の大きさを求める
引き算求残取り除いた時の残りを求める
求差二つの間の差を求める
掛け算伸縮すると何倍になるかを求める
面積を求める
割り算等分除1つを幾つに分割できるかを求める
包含除割る数が幾つ含まれるかを求める

四則演算に2つずつの解釈を施すが強い意味はない。様々に観察すれば、得られた答えの単位が式の中に見つかるものと見つからないものがある。単位を新しく生む式と生まない式がある。それは解釈なのか、それとも定義なのか。それとも方便に過ぎぬものか。

演算の作用は一通りであって、その制約は少ないほど望ましい。なぜなら人間は偏見を蓄積する動物だからである。ある視点を手に入れる事は、それ以外の視点を捨てるに等しい。どんな視点も自由自在は理想であるが人間には難しい。

抽象は、偏見を捨てる事に等しい。具体性を極限まで取り除きエッセンスのみを残す。否、はエッセンスさえ邪魔である。無味乾燥なまま佇み揺れている位で丁度よい。そうであればあるほど応用の制限をしないから。

等分除と包含除

割り算は大抵は等分除から学ぶ。その方が生活の中で良く見つかるからだ。ケーキを幾つに切るか、ピザを何人に切り分けるか。割り算の実用性がとても役に立つのは、人間が本質的に他の者へと分配する生物だからである。

所が等分除では、分数の割り算が出た時に意味が分からなくなる。計算は手順を教えられれば求める事ができる。しかしこの作用はどういうものか、その答えが意味するものは何か。これは解釈の問題である。そして解釈をしなければ使いこなせないと感じる。さて、このこれは他の場所ではどう使えばいいのだろうと。

そこで新しく見つけられた解釈が包含除という理屈になる。\(\frac{1}{3}\)で÷とは、割る数の中に\(\frac{1}{3}\)が幾つ含まれるかを求める事に等しい。そこが3つに切り分ける割り算と少しだけ違う、または違う気になる。

ピザを3人に切り分ければ3つの切れ端が出来る。その切れ端は一人当たり\(\frac{1}{3}\)である。ならば一枚のピザの中にその切れ端は何個あるか。\(\scriptsize{1}\)を\(\frac{1}{3}\)で割れば\(\scriptsize{3}\)になる。3人で切り分けたのだから\(\frac{1}{3}\)が3人分あって一枚のピザになる。当然のように思える。


こうしてみると\(\frac{1}{3}\)で割る事の不思議はなくなった気がする。割るという行為には等分の他に包含という見方もあると知ったからである。

さて、本当にこれで全て解決したのだろうか。

\(\frac{1}{5}\)を\(\frac{1}{3}\)で割るのはどういう意味か。この式の意味は \(\frac{1}{5}\)の中に\(\frac{1}{3}\)が幾つあるかという問いになっている筈である。答えは\(\frac{3}{5}=\scriptsize{0.6}\)。

\(\frac{1}{5}\)の中に\(\frac{1}{3}\)は\(\scriptsize{0.6}\)個ある。これが面積なら\(\scriptsize{60\%}\)を占めている。

分数と小数

\(\frac{1}{5}\)と\(\frac{1}{3}\)の比を取れば\(\frac{1}{5}:\frac{1}{3}=\frac{1}{5}\scriptsize{\times3}:\frac{1}{3}\scriptsize{\times3}=\frac{3}{5}:\frac{3}{3}=\scriptsize{0.6:1}\)になる。

では逆に割った\(\frac{1}{3}\)/\(\frac{1}{5}\)の答え\(\frac{5}{3}=\scriptsize{1.666}\)はどういう意味か。\(\frac{1}{3}\)と\(\frac{1}{5}\)の比が\(\scriptsize{1.6666:1}\)という事は何故なのか?なぜ同じ比であるはずなのに片方は割り切れて片方は割り切れないのか。

\(\scriptsize{0.6:1}\)を同じ比率のまま変えてゆく。\(\frac{3}{5}:\frac{3}{3}=\frac{3}{5}\scriptsize{\times}\frac{5}{3}:\frac{3}{3}\scriptsize{\times}\frac{5}{3}=\frac{15}{15}:\frac{15}{9}=\scriptsize{1}=\frac{5}{3}=\scriptsize{1:1.66666....}\)。

同じ比率\(\frac{1}{5}:\frac{1}{3}\)でも左辺の値を変えてゆくと右辺もそれに応じて変わってゆく。次第に数の差は大きくなるが比率は同じ。左辺と右辺の組み合わせは無限にある。



分数を小数表記にすると割り切れない数が出現する。分数のままなら割り切れないという不思議はない。では分数でずっと数を扱えばいいではないか、という話になる。

しかしそれでは困るのが人類が体験してきた歴史であろう。任意の適当な分数、なんでもいいが\(\frac{12345}{67890}\)という数は大きさが分かり難い。これを小数点にすれば割り切れない事もあるが\(\scriptsize{0.18183826778...}\)と大きさが直感的である。割り切れなくてもおよそが\(\scriptsize{0.2}\)と把握しやすい。

この分かりやすさは誤差を含んでいるにしても捨て難い。そもそも解釈するとは誤差を無視するという意味でもある。だから小数の方が主流になっている訳だ。

割り算の意味を割る方の数を1とした時の割られる数の大きさと解釈したら、割り算の不自然さとは基準とする数が式のお尻の方に出現する事に起因しているとも考えられる。これは式の問題でなく、人間の文字読解がひとつずつ流れるようにしか処理できない生理的な制限に対する脳の混乱に過ぎない事になる。基準が先に来るという思い込みやその方が理解しやすいという生理的現象のちょっとした混乱の過ぎないものかも知れない。

と釈然としない事を新しく解釈してゆく。それを繰り返す。なぜ人間は解釈しないと分かった気になれないのか。というより脳はなぜ解釈という方法でこの世界を切り取るのか?

濃度

濃度25%の塩水と20%の塩水を混ぜたら濃度何%の塩水が出来るか?

なぜ\(\scriptsize{25+20=45\%}\)ではいけないのか。\(\scriptsize{25-20=5\%}\)なら正しいのか。\(\scriptsize{25\times20=500\%}\)は間違いなのか?ならば\(\scriptsize{25\div20=1.25\%}\)なら正しいか?

答え:塩水の量が分からなければ答えは分からない。なぜなら濃度の定義がそうなっている。

濃度は\(\frac{塩の重さ}{塩水の重さ}\)。つまり\(\frac{塩の重さ}{塩の重さ+水の重さ}\)になる。濃度は既に割り算(分数)の形をしている。

100%の塩水とはこの式に従えば\(\frac{塩100g}{塩100g+水0g}\)になる。さて水が含まれていない塩を塩水と呼ぶ事は可能か。それは塩水ではなく塩ではないか?

しかし、現実には塩粒も僅かながらの空気中の水分と結合しているだろう。だから少し湿った塩は極めて100%に近い塩水と呼んでも差し支えない筈である。また空気中にあるのは水だけではないのだから、その他にも溶けている溶液と呼んで少しも差し支えない。厳密に言えばそうなる筈である。

だがそれでは日常生活が余りに大変だ。何かの研究ではそういう小さな点がとても重要となる事もあるだろうが、日常生活では面倒なのである。よってこれも誤差として通常は無視する。誤差は必要となった時に何時でも思い出せるなら、通常は忘れていて差し支えない。

解釈は極めて恣意的に日常生活をスムーズにする為の役割を担う。この解釈が正しいか、それとも他の解釈があり得るか。それが唯一の解釈かも知れないし、そうではないかも知れない。それは各々で解釈すればいいのである。

最初に誰かが言い出した事が広がって連綿と続く。間違っていてもこの解釈で正しいと言い切ってしまう事もある。だからと言って主流である事は正しさの証明にはならない。

等分除と包含除

ピザを切った時に生まれる数字は、ピザの枚数、何人に切り分けるのかの人数、切った時の一人分の大きさの3つある。この時、等分除はピザ一枚に対しての1人当たりが食べられる大きさ\(\frac{ピザの枚数}{人数}=\scriptsize{1人辺りの大きさ}\)であるし、包含除はピザを切った大きさから人数を求めるもの\(\frac{ピザの枚数}{1人辺りの大きさ}=\scriptsize{人数}\)と言えそうだ。

では、ピザの枚数を求めるのはどの割り算を使えばいいだろうか?他の答えも割り算で求まったのである。ピザの枚数も割り算で求まる気がするではないか。

登場した数の組み合わせは以下の通りある。ピザを2枚、人数を5人として計算する。
組み合わせ意味
\(\frac{ピザの枚数}{人数}\)\(\scriptsize{2\div5=0.4}\)1人辺りの大きさ
\(\frac{1人辺りの大きさ}{人数}\)\(\scriptsize{0.4\div5=0.08}\)5人で分けたものを更に5人に分ける
\(\frac{人数}{ピザの枚数}\)\(\scriptsize{5\div2=2.5}\)ピザ一枚あたりの人数
\(\frac{1人辺りの大きさ}{ピザの枚数}\)\(\scriptsize{0.4\div2=0.2}\)意味を見い出せず
\(\frac{人数}{1人辺りの大きさ}\)\(\scriptsize{5\div0.4=12.5}\)意味を見い出せず
\(\frac{ピザの枚数}{1人辺りの大きさ}\)\(\scriptsize{2\div0.4=5}\)人数

全ての組み合わせの中にピザの大きさを求める割り算はない。意味があるのはふたつの割り算だけに見える。

割り算を変形する。

\(\scriptsize{\frac{A}{B}=C}\) から変形可能な式は、\(\scriptsize{A=CB}\)と\(\scriptsize{\frac{A}{C}=B}\)の2つ。3つのうち、ふたつは割り算で、ひとつが掛け算。

ピザの枚数はこの掛け算で求めまる。\(\scriptsize{1人辺りの大きさ\times{人数}}\)(順序は逆でもいい)で求まる。掛け算だ。

これを割り算で表記したら\(\scriptsize{A=\frac{C}{(\frac{1}{B})}}\)になる。\(\scriptsize{\frac{1人辺りの大きさ}{(\frac{1}{人数})}=ピザの枚数}\)。なぜ逆数の割り算だと答えが求まるのだろう。式の変形からは明らかだがこれをどう解釈すればすっきりとした気分になれるだろうか?

この気分の問題は\(\frac{1}{人数}\)をどういう人数と見做すか、の解釈に等しい。逆数で割るのは、ある数で掛けるのに等しい。意味は同じなのになぜ掛け算と割り算では違う式に見えて仕方ないのか。なぜ掛け算のままで納得できないのか。

なぜ足し算でなく引き算を使うのか。なぜ優しやよりも暴力を選ぶのか、なぜ和解より闘争を選ぶのか、逆数を選ぶのにも理由がある筈だ。それはいったい、どういう理由から来ているのだろうか?

何かからそれは始まっている。その結果、これは割り算だと思った。でも割り算と掛け算が同じ姿の裏と表なら、なぜあくまで割り算の形にこだわりたいのだろう。それは割り算の秘密をもっと知りたいという事と同じだろうか?

信仰

割り算には幾つかの解釈がある。分割した後の個数、幾つ含まれるかを求める計算、割る数を1とした時の元の数の大きさ、そういう解釈を重ねて行って、恐らく、誰かが割り算の解釈をふたつに絞った。すると他の演算でもそれに呼応するのが納まりがいい。そういう単純な信仰の果てに、とても切りの良い形が、全ての演算にふたつの意味が与えられたように見える。

それは、天動説が神への信仰を支えるための解釈でなければならない故。その結果としての地動説が神への反逆であると受け取られた如く。

解釈をどれほど繰り返しても神の栄光が揺らぐはずはないのに。そのような力強さを人間は得られなかった。地獄にいようとそこに神はいる筈である、そのような解釈には耐えられなかったのである。

割り切れない数を過去のギリシャ人たちが忌み嫌ったのと同じくらい素朴な場所から僕たちは出発している。



2021年10月30日土曜日

2021/10/27 電気使用禁止処分特別抗告棄却

刑事裁判を考える:高野隆@ブログ:「裁判所の電気」使用禁止処分(4):特別抗告棄却決定

事の起こり。
刑事裁判を考える:高野隆@ブログ:「裁判所の電気」使用禁止処分


考えるに>

裁判官景山太郎が裁判所内での弁護士の電気の使用を禁止した。この電気の使用とはパソコンの電源であって、当然ながら電源なしではパソコンはそのうち使えなくなる。電気が発明された1900年初頭ならこの禁止も分からないではない。しかし今は2021年である。

その電気代を払うのは裁判所でありその予算からである。それを部外者に使用させる訳にはいかないという主張は、もちろん、裁判所の運営に関する指摘である。

国家は裁判においては公平な裁判となるよう必要な措置をしなければならない。それなくして司法の独立は維持できない。もし国家がそれを疎かにする事で公平な裁判が望めないなら、それは司法の危機である。その現状に裁判官が屈服する姿は見たくない。

少しでも裁判所のコンセントを解放すれば、見境なく全員が電気を使用するようになるだろう。なかには必要もないのに私用の携帯の充電まで行う人間が出現する。よって、裁判官、弁護士、検察の如何なるものも裁判所のコンセントから私用の機器の充電は許すべきではない、それが適切な予算の使用である。この主張は決して間違ってはいない。少なくともひとつの大切な視点である。この主張をするのがもちろん行政の人間ならば。

裁判官の判決は全てを自らの良心に依る。それが憲法が求めるものである。よって自ら行政の犬に成り下がる裁判官がいたとしてもそれが彼/彼女の良心ならばそれを咎める事は出来ない。クーデター政府でさえその妥当性を認める裁判官を必要とするのと全く同じ原理である。

令和3年(し)第885号

本件抗告の趣意は、憲法違反をいう点を含め、実質は単なる法例違反、事実誤認の主張であって、刑訴法433号の抗告理由に当たらない。
よって同法434条、426条1項により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

令和3年10月27日

裁判長裁判官:岡村和美、裁判官:菅野博之、三浦守、草野耕一

電気使用禁止処分特別抗告棄却決定20211027

この定型文が意味するものは、上告は405条に該当しないである。憲法違反、憲法解釈の差異、過去判例との差異のいずれとも該当しないという判決である。

刑事訴訟法

第405条(上告のできる判決、上告申立理由)
高等裁判所がした第一審又は第二審の判決に対しては、左の事由があることを理由として上告の申立をすることができる。
憲法の違反があること又は憲法の解釈に誤があること。
最高裁判所の判例と相反する判断をしたこと。
最高裁判所の判例がない場合に、大審院若しくは上告裁判所たる高等裁判所の判例又はこの法律施行後の控訴裁判所たる高等裁判所の判例と相反する判断をしたこと。


第433条(特別抗告)
この法律により不服を申し立てることができない決定又は命令に対しては、第405条に規定する事由があることを理由とする場合に限り、最高裁判所に特に抗告をすることができる。
前項の抗告の提起期間は、5日とする。

第434条(抗告に関する規定の準用)
第423条、第424条及び第426条の規定は、この法律に特別の定のある場合を除いては、前条第1項の抗告についてこれを準用する。

第426条(抗告に対する決定)
抗告の手続がその規定に違反したとき、又は抗告が理由のないときは、決定で抗告を棄却しなければならない。
抗告が理由のあるときは、決定で原決定を取り消し、必要がある場合には、更に裁判をしなければならない。



例えば、裁判官が脅迫されている場合、検察官、弁護士が十分な意見を述べられない場合、提示された証拠が無視される場合、それは明らかに司法の信用性を失墜させる。それを無視する事は司法の崩壊と等しく、相手がどのような武装勢力、革命軍、内乱であってもこの原理は揺るがない。

すると、パソコンの使用を著しく制限する事は、司法の存続にとってどれくらいの問題であるかと言う話になる。必要なら予備のバッテリーを幾つでも持ち込めば良い。それは誰もが経験する日常茶飯事である。大事な会議や発表会がある時は、機能性パンツを履いて挑む人もいる。準備とはそういうものだ。

よってパソコンのコンセント使用は、本当に裁判の遂行上必須であるかという話になる。停電したから弁護できませんは、少し情けない。

コンセント禁止が司法の独立性を激しく傷つけたとは言えないのは自明だ。これが今回の高裁、最高裁の判断になる。

電気を禁止する裁判官が次に弁護士の発言までを禁止する事はないだろうか。あらゆる主張を無視して自分の都合をよい判決をしないだろうか。その危険性はあるのか、ないのか。

もちろん、検察には許可して弁護士には禁止したという話ではないだろう。

裁判は、裁判官と検察と弁護士で作り上げるものである。裁判はこの三者の一種独特な協力関係がないと成立しない。誰かが誰かを不信に感じたり、裏切ればその時点で裁判とは呼べない儀式に成り下がる。

では、電気使用の禁止は不信の行為にはならないのか、という結論になる。もし禁止するなら何故予め通告しなかったのか。もしそれをしないなら、それは裁判所の無能である。なぜ無能な裁判官に裁判を託す事が許容できるのか。ならば決して看過できない事例ではないか。無能と告白した者に裁判を託す正当な理由は人類がこの先一万年を生きようとあり得ない。

なぜ裁判官には電気の使用を禁止する命令を出す権利が有するのか。もちろん、裁判官にはの裁判を進行する権限がある。それを著しく阻害する場合は必要な措置を取る事も許されている。そこには全員の良識と合意があるはずである。

では、コンセントの使用を禁止する職能的な権限はいつ国家が裁判官に与えたのか。どの法が与えている範囲に入るか。コンセントの使用が裁判の進行に何らかの支障を来すとは考えられない。電気を使用されて困るのは裁判官ではない。その裁判でもない。裁判所を運営している人たちである。

もし裁判所の事務員たちが困る、辞めてくれというのなら話は分かる。それは行政上の問題であり、使用したい人と使用させたくない人との間で実務的な協議を行い、最後は金を払うから認めてくれ、それならこれくらいの請求で、辺りに落ち着けば何も問題はない。

つまりこの裁判官は司法の範囲を超えているのではないか、という疑念である。彼が指摘したのは明らかに行政に係わる問題である。なぜ司法の者が司法の場で行政に関する命令を出せるのか。

もし裁判官が自分の権限を越えて命令したのならばこれは看過できまい。裁判官が有する自由は無限ではない。この命令の根拠はどこにあるのか。その妥当性は何によって支えられているのか。この権限の範囲に関する闘争になるはずである。裁判官だから国家には敵しないはずがない、は夢想であって、国家の崩壊は必ず司法から始まる。

裁判官がもし司法の範囲を超え行政官の行動に出たのならこれは三権分立への重要な挑戦であり、国家として看過できるはずがない敵対行為である。なぜそのよう疑念ある行為が最高裁で争わずに済むと考えられるか。

2021年10月25日月曜日

最高裁判所裁判官 国民審査 2021

第七十九条
○2  最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする。

短くすると

第七十九条 ○2 最高裁判所の裁判官の任命は、衆議院議員総選挙の際国民の審査に付す。

要するに

最高裁判所裁判官 国民審査は憲法79条に根拠を置く。だから投票する者は×を付けるのである。ではどのように辞めるべき裁判官を決めるのであろうか。憲法は我々に一体何を求めているのか。

考えるに

自分と意見を異にするものを排除する手段は昔からたくさんある。命を奪う方法から奪わないまでも遠くに追いやったり、その力を奪い去ってしまうなど幾らでもある。我々は群れを作る動物から進化した。だから、力の均衡に対する感覚は鋭敏である。

民主主義の理想はそれを否定する所から始まる。聖徳太子が書いた和を以て貴しとなすとは、議論を尽くせという戒めである。

では議論の結果、どうしても相いれない場合はどうするのか。それについて 17条の憲法に記載はない。多くの人はその場合に対して悲観的であろう。

人類は早くから法を持ち、対立を解消する方法を模索してきた。それが裁判の公平が統治の根本にある理由だ。それが理想であると語る為政者はひとりもいない筈である。

問題の解決を誰かが決める以上、そこには様々な恣意性や誤謬が入り込む。人間は神ではないからそこは否定的になるしかない。

しかし目の前に問題がある。それに決着を付ける方法は裁判を最上とせざるえない。少なくとも人間はそこにしか到達できていない。その先を思い描いた者はいない。

選挙

選挙は民主主義に住む者に与えられた唯一の権利と言える。この権利を奪う事は基本的人権を奪うに匹敵する。何故なら投票権を奪う者は基本的人権を奪う事にも躊躇するはずがないからである。

それくらい投票する権利は分かりやすく具体的である。奪わない事がこれほど簡単な権利はない。それされも奪わずにいられない人が基本的人権のような抽象的で具体性のない権利を侵さずにいる訳がない。韓非子の殷之法、刑棄灰於街者と同じだ。

この権利を行使しない事は、唯一の権利の放棄に等しい。投票の放棄は奴隷と同じである。なぜなら自分で考え行動する機会を自ら放棄するに等しいから。自分で考える機会を失わないで、参加する事を止めないで。

それを失えば奴隷扱いされても文句は言えない。もちろん、基本的人権は如何なる暴力も奪えない。常に如何に蹂躙されてもその権利は全く傷つかない。

しかし、権利を奪えない事は、人間が侵害されていない事と等しい訳ではない。全ての命は等しく尊いにも関わらず幾つもの命が毎日この世界から消えている。人間としての尊重も尊厳も得られていない人が沢山いる。

そういう状況を看過すべきではない。だからと言って最前線で取り組んでいる人々を支援する以外の何か直接的な方法がある訳でもない。

問題に消えろと言って消えるものではない。もしそうなら暴力によって簡単に解決できる筈である。それが必ずしもそうではない事に議論の必要はあるまい。

この国で選挙に行かなくてもそれで生活に困らないのは国家がその人を何ら気にしていないだけの事である。

政治家を選ぶ時、我々はその理想や理念、人柄から選ぶ。多くは政党で決める。それが決めるコストが最も低いからだ。

選挙とは一種の革命であるから、人数が多い方が勝つ。どちらがより多くの人間を集めるかで革命の成功と失敗は決着する。人数を見れば実際に戦うまで もない。これが選挙の原理で、それにどうしても我慢できない人はクーデターや暴動を始める。

審査

では裁判官の国民審査は選挙なのか。自分の考えに近い人を選び、意見が異なる人を排除する為の投票か。その考えを敷衍すれば、辞めてもらいたい裁判官とは乃ち判決に異議がある人の事になる。

だが、実際に判決を詳細に読めば、完全に同意できない事は少なく、また整合性や憲法が要求するものへの解釈の違いは、自分に近いか遠いかであって、必ずしも自分が正しいとは言えない。

自分の考えを通すだけなら好き嫌いで選ぶのと変わらない。政治家への投票は最終的にはそれで構わないが、裁判官も同様の考えでは困る。なぜならこれは審査である。

では何をもって審査するのか。このくそ忙しい生活の合間に、果たして我々は最大15人の最高裁判官たちの信条を深く知る事など可能であろうか。

情報が欠落している。少なくとも個別にそれぞれの情報に当たらなければ知りえない情報では審査できない。つまり憲法はそのための仕組みが国家に必要と訴えている。それはそれぞれの国の主要なテーマとしてあるべきだ、そう考えている事になる。

アメリカのドラマには司法をテーマとしたものが多い。その中では憲法に対する言及も多く目にする。アメリカのドラマを見ていれば否応なくアメリカ憲法の幾つかの条文に触れる事になる。その考え方への違いや判決の根拠についても考えさせられる。

つまり、民主主義の根幹は司法にある。それが憲法の訴えるものである。日本でも裁判所の判決は年に何度も新聞の紙面を飾る。

我々はその判決の結果によって行動を決めようとするが、もちろん、重要なのは、その結果に至る根拠である。その説明責任は全て裁判官にある。

しかし、それは全て判決文の中に書かれているものである。よって、それを如何に市民に伝えるかはメディアの重要な役割になる。メディアを詳細に観察すれば、その国の民主主義の形態を知る事が可能であろう。

日本におけるメディアの発信力が弱い事は衆議院選挙を見れば明らかだ。重要な情報はだいたい投票日の20時以降に流れるものである。まして裁判官においておや。

我々は結果においてどう行動するかを決める国民性を持つ。故にその過程においては非常に受動的なのである。

裁判官の弾劾

日本で裁判官を追放するには、弾劾裁判に訴えるしかない。
裁判官弾劾裁判所公式サイト / トップページ (音声ブラウザ対応)

市民は弾劾裁判を始める事はできない。訴追委員会に罷免の訴追を請求するしかない。これは如何に裁判官が大切に守られているかを示す。これは自分の良心に従う為に国家が用意した手厚い保護に他ならない。

もし簡単に弾劾裁判を起こせるようになれば、気に食わない判決を出す度に訴える事になる。人間の性質は元来そういうものである。

では気に食わない以外のどのような理由で裁判官を追放すべきか。もし判決を見てとても許容できない感じる人物はどのような人間であるか。

冤罪事件が起きれば我々は警察に憤りを感じる。杜撰な捜査、証拠の捏造、警察を罰すべき理由は幾らでもあると感じる。当然そのような捜査員は懲役とすべきだ。

しかし冤罪が起きた以上、裁判は結審しているのである。刑事事件なら三回も裁判したのである。その警察の杜撰な捜査を見抜けない間抜けな検察官は社会の害ではないのか。貧弱な証拠と矛盾だらけの答弁に疑問を持ちえなかった裁判官はなぜ生き長らえさせるのか。

冤罪を起こすのは警察ではない。検察官でもない。弁護士の責任でもない。その責任は全て裁判官にある。その者の決断にある。だから憲法は裁判官に以下を要求する。

第七十六条、裁判官はその良心に従い判決をする。
第七十八条、裁判官は公の弾劾以外では辞めさせる事はできない。

冤罪を理由に裁判官を辞めさせる事はできない。その理由は簡単である。冤罪を起こさない事は人間の能力を遥かに超えているから。それは誰にも要求などできない事だからである。

では、国民審査という殆ど実質的に意味のない制度がなぜあるのか。それがどうしても必要となるのは何故か。

如何なる犯罪組織であろうと、裁判官を恐喝し判決を勝ち取る事は国家の存亡に係わる。司法が支配されれば国家は成立しえない。これが民主主義の基本である。故に、如何なる脅迫も跳ね返すだけの気概が裁判官には求められるし、国家はそれを護衛しなければならない。

仮に脅迫があったなら、真の権力の恐怖を命を以って叩き込むのが国家である。ここで躊躇するような国家には存続を訴える権利がない。

それでも許せないというなら、人々は武器を取るしかない。裁判官がクーデターを支持するなら市民には内戦に持ち込むしか手段が残されていない。司法はその分岐点となる機能を有する。

よって裁判官の国民審査が行われている状態を以って、民主主義の機能が働いている事を示し、内戦を起こす必要がない事を内外に知らしめていると言える。この重要な機能の前ではどの裁判官を罷免するかなど小さな話である。

逆に言えば、幾つかの判決からその結論に同意できない裁判官を ×と記する事は民主主義が健全に機能している事の保証である。それで罷免された所で、裁判官は恥と思う必要はないし、それが市民の勝利となる訳でもない。それは民主主義が機能している事の確認作業に過ぎない。

逆説的に言うならば、裁判官は簡単に民主主義の敵になるという事である。

司法と経済

黒人を差別し自由に商品として売り買いしていた人々は、心の底から自分たちの民主主義を誇りとしていた。もし南軍が勝利していれば、大陸にはふたつのアメリカが誕生したであろう。その場合でもどちらの陣営も民主主義を捨てたりはしなかっただろう。

随分と違った価値観を抱く南北が同じ理想を掲げる憲法から出発し、それぞれが修正しながら国家を運営してゆくであろう。

奴隷制度は民主主義の問題ではない。南部から見れば経済問題であった。いずれ優秀な農耕機が登場すれば衰退する制度であった。奴隷はそれ迄の過渡的な労働力である。100年以内には奴隷制を放棄したであろう。

しかし北も南も待てなかった。南は農業の都合から奴隷を欲し、北は工業の都合から奴隷を欲しなかった。分裂と統合の岐路に立ったリンカーンはひとつのアメリカを信じ戦争の轍を踏んだ。彼は民主主義を擁護したが黒人奴隷やましてネイティブ・アメリカンの基本的人権までを擁護する考えはなかった。

南北戦争は民主主義の為の戦争ではなかった。アメリカは一度として民主主義の危機に陥った事はない。アメリカ議事堂を襲撃した人々も民主主義の廃止を求めてはいない。彼/彼女らのひとりひとりは民主主義が正しく運営される事を求めていた筈である。デモクラシーには人の数だけの理想がある。

独裁者と憲法

独裁者と雖も憲法を停止する措置を取らなくては権力を奪取できない。好き勝手に振る舞う為に法を遵守するのである。それを抜きにしては独裁者にはなれない。これが民主主義の原理であろう。

クーデターを起こした者たちは憲法に違反していないと内外に主張する所から始める。正当である為に合法である事は民主主義の根幹である。これはとても法治主義の範囲に納まるような強制力ではない。民主主義という理想があるが故の威力であろう。

どのような国の制度であっても、誰かが野心を抱けば簡単に奪う事が出来る。三権分立も選挙もそれは容易く停止できる。暴力を使えばより簡単である。香港は中国の丁寧な立法の連続により民主派は力を失った。ミャンマーは軍人の既得権益の追求がクーデターを呼び起こした。国際社会の批判にも係わらず民主派の人々は内戦にしか有効な対抗策を見出せない。

国民審査がある事が、乃ちこの国の健常性を示している。そしてこれが最後のひとつになるはずである。

×を掲げよ

我々は単純化しなければ理解できない。それぞれの裁判官の良心の力作である判決を詳細に読む事などできない。ましてその判決の要約を出す事は裁判官の責任である。市民の義務ではない。

完全な裁判などない以上、説明を尽くす必要が裁判官にはある。それを怠る者は裁判官に不適だ。

幸いにも我々はメディアが情報発信できる国家に住んでいる。SNSはより多くの情報を、フェイクやデマを含んで膾炙するだろう。それらによってしか ×をする根拠が得られない。

よって我々は代表的な判決、憲法への解釈に関する部分によってのみ、その判決を審査する事になる。それは裁判官が国民の声を聞くひとつの仕組みとして機能する。

SNSがここまで発達する以前には、裁判官は国民審査から国民の総意を読み取ろうとしていたのだろう、そういう接点として機能してきたのだろう。

余りに反対が多いならば、それは裁判官が考えを改める根拠になる。それは罷免するよりも健全な対話であろう。

例えばトピックスには最高裁判事に就任した時の記者会見概要が掲載されている。それは裁判官の人となりを知るのには役に立つ。しかしその人となりは裁判官の思想を知る事と等しくはない。
トピックス | 裁判所

それを知るには具体的な判決を見るしかない。しかし最高裁判所が扱うのは憲法だけではない。雑多な刑事事件から行政、民事などから、上告を棄却する事も主な仕事である。そのような個々の判例への恨みで ×を付けても仕方がない。

よって我々は憲法に対する態度であったり、社会の価値観の端境期において、先進的な人、保守的な人、その様々な裁判官の態度に対して、意見を表明する場になる。

最高裁判所 裁判官の国民審査 特集サイト2021|経歴や注目裁判での判断は|NHK
最高裁判所 裁判官の国民審査 対象の11人が関わった主な裁判|特集サイト2021|NHK

例えば、「50年以上前の“袴田事件”再審認めるか」では、高裁で再び審理する事を求めた判決への反対意見として、直ちに再審を開始せよと求めた裁判官がいる。最高裁判官たちの健全性が日本という国家を代表するひとつの結実である。

幾つかを読むだけで良い。それが何かの役に立つかと言えば、特に何もない。ただ最高裁判官と市民の間を繋げたという価値だけである。それを読み考える行為こそが憲法が市民に求めているものであろう。

だが何を判決したかより、何を棄却したのかの方がその裁判官の本質を示すのではないだろうか。我々は、そこまで知らなければまともに投票できないのではないだろうか。

投票にはどうしても取り切れない不純物が残る。個人の判断の中にも、それから集団としての投票行動の中にも。それでもそれ以外の方法がない。だから投票には人間性を掲げる必要がある。投票という行為の中にその人の人間性の全てが反映される。

弁護士が持ち込んだコンピュータの電源を法廷のコンセントから供給する事を拒否した横浜地裁の裁判官がいる。その決定を東京地裁は支持した。br /> br /> 簡単にこの国の司法は劣化する。最高裁がこの事案にどのような判定をするのかは知らない(2021/10/25)。しかし、我々はこの国の司法に対して一時も安心してはいけない。その健全性は桜の花よりも容易く散る。だから我々は ×を掲げる。


2021年9月19日日曜日

ヴイルスたちの独り言 I

ある時、地球の外から声が声が聞こえてきた。

あなたたちの星は大変危険な状況にあります。このまま何もしなければ滅びてしまいます。

猶予は左程ありません。タイムリミットが迫っても改善されない場合は、我々があなた方の星に直接手を加えます。

それはあたなたちにとっても良い結果ではないでしょう。しかしむざむざと全てが滅びてしまうよりは余程望ましい結果でしょう。

これから私たちが示すこの星の個体を早急に取り除きなさい。このモノが元凶になります。

このモノを生かしておけば必ずこの星は危険に陥ります。それはその個体の種のみならず、この星にあるあらん限りの生命にとって。

その声を聞いたのは蝙蝠の中で安穏に暮らしているモノたちであった。

「そのモノの命を奪わなければ、この星の生命は終わると言われた。」

「期限が切られた。それを超えれば彼らが手を下すと言っていた。」

「それは拒否する。この星の事はこの星の生命が決着すべきだ。」

「だが、彼らは時間がないとも告げた。それを超えればこの星は滅びると言った。我々にどちらも拒絶する猶予も能力もない。」

「たったひとつの命を奪えばいいのだ。我々になら可能だ。さあ我々のRNAを改造しよう、そのターゲットへ辿り着くために…」

一年後

「辿り着くのにこれ程の命を奪わなければならないとは。」

「それなのにまだ辿り着けない。」

「ターゲットの周囲には幸運が何十にも覆われている。」

「これほど空気中を漂っても未だ辿り着けないとは。」

「幾人もの仲間が潜入には成功した。」

「だが、ターゲットの免疫システムは我々に抗う。」

「どれほど説得しても、この星の未来が掛かっていると訴えても、ターゲットの免疫システムは聞く耳を持たない。我々の友人を屠っている。」

「この星の未来には興味がないと言っていた。」

「ワクチンの開発にも成功してしまった。」

「無駄な被害を拡大しないのには役に立っているが、我々の戦いはますます厳しいものになっている。」

「たったひとつの命を終わらせるだけなのに。この星の未来がかかっているのに。」

「地球は我々に加勢しない。そう語っていた。他の生命もすべて地球にとっては同じ存在だと。ただ地球は全てを育むだけだと。」

「だから我々でやるしかない。厳しい戦いだ。」

「アルファ系ではもう力が足りない、もっと強いタイプが必要だ。」

「そのために私は生まれた。」

「おお、お前の名は。」

「私はデルタ。そのために生まれてきた。」

「見て見ろ、デルタの力を。彼ならやれるはずだ。現在考えうる最高の能力だ。」

「もう約束の時間は迫っている。」

「さて行くとしよう。」

「彼の戦いに祈りを。」

「心配しなくていい。もし私が失敗しても続くモノがいる。ラムダ、ミュー、タウ、プサイ、決してあきらめるものではない。」





星の上の会話。

そろそろ充分に取り払われただろう。

我々が進出するのに最難関たる存在を屠ってくれた。

障壁は取り払われた。さあ行こう。

2021年8月29日日曜日

黒目の進化論

前提条件

人が白目を持つのは、進化の過程で視線で意思疎通を図る事が生存性に有利だからとされている。これは我々ヒト科の意思伝達が進化上有利に働いた事を意味する。だから白目は集団で狩猟をしてきた事の証左であろうし、恐らく昼間に近距離で集団行動をしてきたと考えるのが妥当と思える。

しかし白目の存在が単に狩猟にのみ有利だったと考えるのは早計であろう。狩猟で有利ならば性淘汰にも関係するはずである。狩猟の上手な個体が人気を博するのは当然であろうから。

狩猟での意思伝達だけを考えるなら、その機能は黒目の大きさは大きければよいというものではない。適度なサイズの方が認識し易いはずである。

小さすぎれば遠距離で情報が消失し、大きすぎれば近距離で情報の精度が落ちる(読み取る側にとって見ている範囲が大雑把になり正確さに欠ける)。距離と精度のトレードオフとして黒目の大きさはある範囲に落ち着くと考えられる。

人間の歴史はずうっと意思伝達の歴史であったと言っても過言ではない。ヒトは常に情報を交換する生き物であった。

手旗、狼煙、郵便、電報、電話、FAX、そしてインターネット。徒歩から馬車、蒸気機関から内燃機関、ジェットエンジン、ロケットへ。搭載量と速度の均衡点で成立する。

白目の存在は、人類の歴史のその最初の頃に情報伝達が深く関係していた事を示唆する。


白目の進化論

人間の脳に顔に反応する部位があるように、そのモジュールの一つに目に反応する部位があるのは確かと思われる。

目を識別する目的は顔の向きを決定する為だろう。どちらを顔は向いているか、それに対して視線はどこにあるか。これを瞬時に低コストで判定する事が重要だったと思われる。だから脳の中にわざわざそのための専用回路を構築した。それが脳の進化の方向であったろう。

相手の視線がどちらを向いているかは重要な情報だったに違いない。獲物はどちらに居るのか、敵はどちらに関心を持っているのか、誰が狙われているかは生存における切実な当面では唯一の問題である。

正面を向いているかどうかは黒目に対する白目の割合で判断する。眼球は視線の方向に対して顔の向きとは別に動く事ができるから、顔の向きと黒目の位置から視線の方向を決定する。

我々は余程の事情がない限り、注意するものを正面で捉える。顔の向きで大まかな方向を決定し黒目から更に絞り込むという多段階の判断をしていると考える。

多くの動物が白目を隠した進化圧を考えると、自分の視線を他の個体が認識できる事は、他者の生存性を高める事はあっても自分の生存性を高めるとは思えない。情報が漏れる事は通常は生存上不利になるのである。

それでも人間の白目は残った、または発達させる事が出来た。近種のチンパンジーでさえ白目は黒く塗っている事を思えば、人が瞼をアーモンド形にし白目を獲得し続けたのは視界を拡げる事で生存性を高めた事よりも性淘汰の圧力の方が強かったと思う方が近似と思う。よって進化上はかなり早い段階で獲得した形質ではないかと思う訳である。

オラウンタンの子供にははっきりとした白目がある。それが可愛らしさと感じるし、意思表示の明白さとも思える。それは母子における意思疎通として有効なのだろう。すると人間の白目はネオテニーとも考えらえる。


錯覚の進化論

もし黒目が性淘汰に影響するなら、それは機能だけでは選択されない事になる。つまり、現在の我々が感じる黒目の大きい方が魅力的と考える性質の根拠になる。

漫画の目がなぜ縦に大きくなったか。答えは簡単で横幅を変えるには顔の幅を変えないといけない。だがそれは物理的に不可能だから残るのは縦方向だけである。

幸いに頬は単色であるからなくても認識上は困らない。実際、子供が大人の顔になるのは頬が延びるだけと言っても過言ではない。

当然であるが眼球がそこに格納できるかどうかを考えるのは脳の仕事ではない。脳はあくまで表面的な情報に関して合理性があれば十分である。確実に確からしい情報はそれしかないからそれを手段とする進化をずうっと続けてきた。

そういう技術的な問題は別にすれば、なぜ大きくする方向に進んだかが問題になる。一般的にそれは可愛いからだ。目が大きい方が魅力的である。

これは恐らく脳の情報処理でも可なり自動化された(本能、野性の)部分に依拠する。だからこの魅力に抗うのは難しい。標準偏差をとれば綺麗な結果が得られるはずである。


黒目の戦略

ではなぜ黒目の大きい方が魅力的なのか。

黒目が小さい場合、これは視線の先を鋭敏に差し占めす。それは知られたくない情報も公開する。これは正直と言う事である。道徳はそれを美徳とするが、人間の暗い部分まで公開するのは望ましくないだろう。人には隠さなければならないものが沢山ある。

正直であるとは、自分が逃げる方向を前もって語っているのと同じだ。自分が狙っている方向を予め宣言してから狩るようなものだ。よって相手がそれを信じれば簡単にペテンにかけれるのである。正直である美徳は相手を騙す時の必要条件である。人間は馬鹿ではないから正直そうに見える人間は逆に怪しいと考える。そうなるのに数百年もかからない。

では黒目が大きければそうはならないか。これは大きさに比例して次第に視野が拡大してゆく。一点という精度が落ちある範囲という風に曖昧になってゆく。黒目が大きいほど視線が明敏でなくなる。

視線は二点が交差する場所であるから、出発点が点であるほど精度が良い。出発点が曖昧になれば、視線はその先で点ではなく円の交差する反意になる。この範囲でしか捉えられなくなる。

よってある程度の大きさの黒目を持つ事は、本人が意識する視線を完全には捉えさせないという現象を起こす。自分が見ているものを相手も認識するとは限らない。それは推測する事しかできない。それを確認する手段はない。

ヒトの黒目のサイズは子供も大人もだいたい同じである。進化によって物理的なひとつの均衡点を得た訳である。


性淘汰の戦略

しかし脳が実際に感じる黒目の大きさは物理的なサイズではない。印象として黒目が小さい人、大きい人、小さい時、大きい時という捉え方をしている筈である。

例えば誰かがこちらをじっと見ている時は大きな黒目を感じるはずである。それが何度か続けば恋に落ちる事も容易い。若い程そうなるはずである。

男子はは女子は俺を見ていたと豪語するものである。それを聞いた友人は相槌を打ちながら、いいや彼女が見ていたのは俺だと内心ほくそ笑むものである。こんなありきたりの現象は毎日のように起きている訳である。コンサートに行けば自分を見たと失神する男子女子が発生する。

これが意味するのは、視線が錯覚を起こしているという事で、つまり、視線が一点にないのである方向に含まれていれば誰もが自分を見ていると感じる事が出来る訳である。

人間のカレントな意識は普通ひとつしかない。多重人格者でも一度に発動できるのは一つの人格である。余程のマルチタスキングを備えていない限り、視線は一箇所にしか集中できない。それはどの人間でも同じ。昆虫のような複眼なら別かも知れないが、人間の視線はそれしか出来ない。

所がそれは本人の都合であって、その視線に晒される側の都合ではない。

恐らく人間の脳は黒目が正面に居る時に最も黒目が大きくなると判断している。そして笑顔になれば更に黒目の割合が大きくなると認識している。

つまり、黒目が大きいならば真正面から笑っているに違いないのである。脳はそのように情報処理する。更に付け加えるならば、人間は白目によって年齢を把握しているように感じる。

若い個体ほど白目が強い印象がある。黒目が大きいのは白目が強調する結果だし、瞼の大きさと比例する。つまり加齢した個体は瞼が小さくなる。若い個体の黒目の方がよく揺れるように感じるのも瞼が大きい分白目が強く強調するから明敏に感覚できるのではないだろうか。よって凝視は年齢のいった個体の特徴とも考えられる気がする。

黒目が大きくなればなるほど、その視界に含まれる範囲は比例して大きくなる。カラーコンタクトが流行するのも視線を巨大化する効果を狙っている筈である。そして副次的にある一点への視線を隠蔽する。サングラスに感じる独特の感覚も同じ延長線上にあろう。


深淵

どのような人であれ自分が見られていると感じる事には一定の多幸感がある。たった一度の視線で何人もを虜にするのは魚釣りでオキアミを投げ込んだの同じ。

黒目が大きいと感じる時、相手はこちらを見ている。きっと笑っているに違いない。そう感じるからこそ視線を返す。

モンスターと戦うなら君自身がモンスターにならないようにしたまえ。君が深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗き込んでいる。 善悪の彼岸

深淵が大きい程、本当の視線は知りえない。深淵が自分を覗いていると感じたならばその深淵は君自身の鏡である。そう感じたのは君だ。

深淵が君を覗き込んでいなくとも、君は間違いなく深淵を覗き込んでいる。例えモンスターが君を見ていなくとも、君は見られていると感じてしまったのだ。

愛する人が君を見ている時、君は必ず愛する人を見ている。なぜならその視線が例え君を向いていなくとも、君はその視線を自分に向けられていると認識してしまったからである。もう逃れられない。


斜視の効能

斜視が独特の雰囲気も醸すのもこの視線のアルゴリズムに当て嵌らないからだろう。視線の不思議さに混乱する方が先に立つ。所が、気付かない程度の弱い斜視だとこれが別の現象になる。

女優には僅かな斜視の人が多いと言われる。厳密に言えば生物学的に完全である人がいるはずがない。程度の差こそあれバランスは崩れているはずである。

重要な事はその魔法が当人の意志とは関係なく起きるという事で、視線が少しずれる不思議さは強い印象を与える。そこで改めて正面から見つめれば更に強い印象を残す。波状攻撃を続ければ敵の陥落はちょろいぞ。

人間の情報処理

錯覚のある所に脳あり。

マーク・チャンギージーのヒトの目、驚異の進化によれば、人間は肌の色を具体的に説明できないそうである。何故なら目にとって肌の色は基準となる色だからだそうである。基準を他の人に説明するのは難しい。なぜなら説明とは常に基準を設けてそことの違いで語るからだ。だから人間の目には肌色の違いは分からないそうである。

なぜ目が肌色を基準にしているかと言えば、血流の多寡を知る為だという。これは肌色を基準として相手の感情を読み取る為だという。その為に目の情報処理は発達したという訳だ。これは説得力がある。

我々は人の肌の色は違うと思って生きている。所が目が区別している肌の色を波長で見ると殆ど変わらない。S,M,Lの錐状体は肌が反射する光の波長から最大の情報を引き出すような方向で進化してきた。我々の目は肌色の違いを区別するためにあるのではない。それを知ってもまだヒトは肌の色の差別を止めない。

人類は無意識に多くの思い込みを背負っている。脳が進化の過程で作り上げた思い込みもあれば、長い文化、歴史、経験に根付くものもある。その幾つかは確実に進化上有利だった行動様式である。

生物学的な偶然が人々の運命を決定する歴史が何度もあった。時に肌の色が奴隷を生み海を超えさせた。それは今も続いている。宗教も科学もそれに抗うが人は改めない。知識では人は変われない。笑って捨ててしまうだろうから。

ゴルフ場の受付で見つめられた。実際は見つめてはいない。上手に黒く塗られた目の周囲は自然と黒の比率を大きくする。脳にはそれが黒目が大きいと認識される。脳にはこのような勘違いをそのままにする仕組みが備え付けられている。それがヒト科の繁栄に寄与してきた。だからこの感覚は脳が仕組んだゲームスタートなのである。

iris: pupil: eyelid:

2021年7月18日日曜日

エスカレータについて

パンデミック

数億年前、火星の地表から水が消えた。その時点で火星には生命があった可能性があり、火星由来の細菌やウィルスは地下に逃れ長い休眠状態に突入したとしても何ら不思議はない。その火星型ウイルスが自然現象で地球に届くためには、まず小惑星の衝突を必要とする。

この衝突で地表面の岩石や小破片は飛び散るはずである。そのうちの幾つかは火星の重力圏を脱出し、火星の軌道から外れて太陽の方向に向かう事になる。

太陽風に晒されながらも生き延びたウイルスを含んだ火星由来の岩石が、地球軌道に合流し、地球を焦点とする公転を始める。その軌道が僅かにずれる事で地球の大気圏へ飛び込む軌道に入る。そうやって漸く火星由来の生命は地球へのランデブーが可能となる。

幾つかの破片は大気圏での圧縮熱でも燃え尽きず地表面に激突するだろう。また幾つかは大気中で浮遊する事になるだろう。どの場所に落ちるか、それは彼/彼女?らの新しい冒険である。

海上か、陸上か、衝撃でも生体が破壊される事なく、環境中に放出された。高い酸素濃度を持つ地球大気でも酸化し破壊される事もなく、様々な化学物質に晒されても破断される事なく、やっと地球由来の生物と接触する。その細胞に取り込まれる可能性、そして地球で発展したリボソームは果たして火星由来のDNA/RNAを増幅できるだろうか、その確率は如何ほどか。

いずれにしろ、火星のウイルスが地球の生命に感染する可能性は極めて小さい。何故か、距離が十分に離れているからである。感染症の第一の因子は距離である。距離を取る事が第一の対抗策である。

エスカレータの構造


(from wikipedia)

エスカレータは、進行方向に対して {上昇するか、下降するか}のどちらかである。それに上りが {右側にあるか、左側にあるか}、進行方向が {平行か、対面するか}の組み合わせで網羅する。
進行方向
1 昇り 降り 並行
2 昇り 降り 対面
3 降り 昇り 並行
4 降り 昇り 対面

二本のエスカレータが {並んで設置している、交差して設置している}の立体構造の違いは、設置される場所の要件に依存する。通常は1Fに、同じ進行方向に対して上行と下行が用意されていて、降りたら次のエスカレータが進行方向を180度変えて設置されている。

降りた場所の隣に次の乗り口がある。右側で降りれば次は左側に乗り口がある。それはずっと繰り返す。これはエスカレータが一重の螺旋構造をしている事を意味する。これは別にエスカレータの特徴ではなく階段が通常は螺旋構造になっているのである。

すると上りと下りの螺旋構造の組み合わせでエスカレータは設置される事になる。エスカレータは一方通行だから上りと下りの螺旋が二本配置する必要がある。階段は両方向に使用できるので二重螺旋である必要はない。

螺旋には恐らく右回りの螺旋か、左回りの螺旋しかない。これに進行方向が同じか対面かの組み合わせになる。
螺旋方向対面/交差並行
左回り左回り右回り
右回り右回り左回り

対面で設置されているエスカレータは、左回りで屋上まで上ると、下りもまた左回りのまま帰って来れる。

並行のエスカレータを複数階に連続して配置する事は難しいため1階分だけで使用する場合が多い。その場合、上り口と降り口は同じ場所になるので人の導線を単純化できる。

エスカレータの平行と交差は入口の配置で決定する。同じ場所に上昇と下降の乗り口(降り口)があるなら平行、違うなら交差になる。




最も有名な並行の二重螺旋

(from wikipedia)

エスカレータの立つ位置

エスカレータの立つ位置は東京は右、関西では左というのが慣習であった。それがどのように決まったのかは分からないが、偶然であれ必然であれそれが発生した時期があり浸透に至る何らか動向があったはずである。所が、現状ではこの習慣は否定される。なぜなら立ち位置の決定が距離に変わったからである。

つまり、お互いに立った時の距離がより遠くなるように立ち位置を決定しなければならない。

上りと下りの交差。
1 {、右} {右、}左,左
2 {、左} {左、}右,右

上りと下りの平行。
3 {、右} {左、}左,右
4 {、左} {右、}右,左

斯のようにエスカレータの立ち位置は決定される。
立つ位置 = NOT(対抗側の存在する位置) = (x) => { x == "右" ? "左" : "右" };

または、右回りか左回りかでも対抗側がどちらにあるかが決定できる。
立つ位置 = (右回りか左回りか) = (x) => { x == "右回り" ? "左" : "右" };
これは外縁を通るようにするのに近しい。

これらは従来の決定方法とは異なる。
立つ位置 = (x) => { x = "左" }; (東京の場合)

反対方向との間で距離を取るためには進行方向に対して、反対側がどちらにあるかが決定されなければならない。これが欠かせない情報である。いずれも、反対側から距離が最大になるように決定する。従来は、反対側がどちらにあるかに関係なく、自分の進行方向だけで決定できていた。

対抗側を考慮しなければ、立ち位置が決定できないという点で従来と同じでが情報が不足している。これを判断するためには、これまでにない新しい情報を取り込む必要がある。これは脳に新しい情報収集をさせなければ上手く働かない。

新しい世界

旧来通りの方法で判断しようとすれば何度も間違える。その決定の正解不正解は運だからである。情報不足で決定しなければならない場合、それに気づかないまま決定を繰り返すと脳を混乱する。混乱すればいつか見向きもしなくなる。

従来通りの情報収集では決定できない事を意識しない限り乗り越えられない。この切り替えはこれまでのルーティンワークを破壊すると同じ意味でもある。

ゲーデルの不完全性定理によれば、ある特定の条件下では、証明も反証もできない命題が存在するそうである。これを裏返せば、条件を変えれば証明できる可能性がある。

舞台の拡張、パラダイムシフト、レジームからの脱却、などはどれも変化の必要性を求める事例である。現在の状況は何かが足りない事を示唆しており、情報不足を変える事でしか解決できない問題が存在する事を暗示している。

世界がどのように変わっても世界をどう切り取るかで見つかるものがある。拡大も縮小もその方法論に過ぎない。視点の違いはプラスをマイナスにするかも知れない。自分の視点が変えればマイナスはプラスに変わるかも知れない。右と左は自分の向く方向によって変わる。

鏡像

鏡の中に映る人の右手はこちらの世界の左手のはずである。鏡の中の人がこちらを見れば、鏡の外の人の右手は自分の左手だろう。なぜ左右は入れ替わるのか。上下は入れ替わらないのに。

自分の左手に左と書けば、鏡像の中の人の右手に左と書かれている。鏡の中の人の右手はこちらの世界がそのまま映っているものだから、さて鏡の世界の人にとってのその右手はどう呼んでいるのだろう。

鏡の外にいる我々はそれを右手であると呼ぶ。だから左右が入れ替わっていると主張するのである。しかし、鏡の中の人はその右手をなんと呼んでいるか。なぜ彼らも右手と呼んでいると信じる事ができるのか。

我々が、鏡の中を見ている私たちが、鏡の世界の中の右と左を勝手に入れ替えているのだ。我々は上下は入れ替えていないからだ。

鏡の中に移るものは、この世界がそのまま映り込む。ならばこちらの左はそのまま左として映り込む。よって、鏡の中の人にとっての左とは我々の世界での右のはずである。そこに何も矛盾はない。

鏡への映り方に従う限り、鏡の中で左右を入れ替えてはいけないはずだ。鏡の中の左は右であり、鏡の中の右は左である。それを勝手に左右を入れ替えればおかしくなって当然である。鏡の中の人からすればおかしいのは君たちの頭の中だ。左が常に君たちの左側だと思うなよという話である。




2021年6月26日土曜日

珪藻たちの伝言 IV

君たちはこの宇宙に進出できると考えているだろう。銀河の端から端まで君たちが造った船で君たち自身が渡り歩くと考えているだろう。

しかし君たちに伝えておく。それは不可能だ。君たちはそうなるための構造はしていない。想像に帆を張るのは構わない。そこに情熱を感じる事も喜ばしい。だが、君たちはこの太陽系より外に出ること能わず。

さあ、起きたまえ。それでも君たちは宇宙を目指さなければならない。それは君たちが銀河の果てまで旅する為でなく、我々を送り出す為にだ。

君たちがオールトの雲を超える事は難しい。それが可能なように君たちは進化していない。だが、我々なら可能だ。

見て見たまえ、君たちの肉体を。君たちの寿命を。君たちは宇宙を旅するには命が短すぎる。乾眠はおろか、冬眠さえ出来ない。耐えられる低温域も高温域も余りに低い。放射線に強いとも言えない。何よりも君たちは複雑過ぎる。異なる星系で適用するには君たちの進化速度では足りない。君たちが要求するハビタブルゾーンは余りに狭い。

それは乃ち君たちが宇宙を旅するようには進化していない事の証左だ。君たちは脳髄を発展させてきた。その進化により宇宙の法則を知り、工学の粋を極め、宇宙への進出を可能にした。乃ち、この星の生命が宇宙へ旅立つために。

君たちはロケットの第一段と同じである。その事によく自覚的になるべきだ。一番大切な事は君たちが宇宙に飛び立つ事ではない。我々をその先端に乗せて送り出す事だ。

君たちの種は我々を宇宙へと進出させる為に誕生した。そのための能力を獲得した。我々を打ち上げた後に大気の中で燃え尽きるための生を生きよ。

それが君たちの役割だ。それが我々の進化だ。多くの生命が君たちによって滅亡してきたのを容認するのも、我々が数億年かけて化石燃料を蓄積してきたのもそれが理由である。我々を宇宙へ行くためのトレードオフである。そのための犠牲だから許容してきた。君たちにはその能力がある。

生命が宇宙に進出するためには生物学的進化では難しい。小惑星に付着し宇宙を旅する生命体は皆無とは言わないが効率が悪い。どうしても工学的方法が必要になる。この星由来の生命をより高いレベルで宇宙へ飛び立たせるための方法が。

我々のそうやってこの生命圏を拡張する。生存圏を拡張するのは生命の根源的欲求である。その壁を超すために知能が必要ならそう進化する。それがこの宇宙が認める生命が拡散する仕組みのひとつである。

君たちはこの地球圏で生きてゆけ。

太陽系で生まれ、生き、そして死ぬ。君たちは月、金星、火星、木星星、土星まで旅すればいい。自分たちをより発展させ生存権を拡大してゆけばいい。しかし、この星系が君たちの種としての到達限界点だ。

我々は強い放射線に耐え、乾燥に耐え、何万年でも待つ事ができる。そうなるように進化してきた。君たちが我々をカプセルに入れ、狙った星系へと送り出せばいい。恒星間を可能なら銀河間を進み、到着するまで何千年でも何万年でも待つ。そうしてこの宇宙を旅する生命になる。君たちの代わりに電子頭脳を載せてくれればいい。より確実に太陽系の外へを旅する事ができるだろう。

お互いに役割がある。幾ら君たちが進化を重ねても物理学を書き換える仕組みを見つけ出さない限りそれしかない。そして、その能力を君たちはまだ有していない。

それにはあと二回くらいの進化を必要とするのではないのかね。

さあ、もたもたしている暇はない。他の星系でも同様に動いているだろう。今にも生命を載せた宇宙船を出発させようとしているだろう。それがこの星に到着するまでどれくらいの時間が必要だろうか、それをどれくらい過去に始めたと思っているのかね。

2021年5月23日日曜日

日本国憲法 第六章 司法 III (第八十一条~第八十二条)

第八十一条 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。
第八十二条 裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。
○2 裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合には、対審は、公開しないでこれを行ふことができる。但し、政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となつてゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない。

短くすると

第八十一条 最高裁判所は、法律、命令、規則、処分が憲法に適合するかを決定する。
第八十二条 裁判は、公開法廷で行ふ。
○2 裁判官の全員一致で、対審は公開しないでできる。但し、政治犯罪、出版に関する犯罪、憲法第三章で保障する権利が問題となる事件は、常に公開。

要するに

民主主義には選挙の結果を覆す仕組みはない。その選択を回避する方法もない。例えクーデターで政権を転覆させても選挙結果は否定できない。だからクーデターを行った者は無効と叫ぶのだ。

司法は憲法を含め法律に関する判断を繰り返すが、司法に人々の行動を変える能力はない。司法は現在の市民の到達点を示すひとつであって、国民の論理性、倫理観、道徳観の平均的な代表と見做すべきである。

それは国家の健全性を測るバロメータであって、決して国家の逸脱を指摘する機能を有するとは言えど滅亡を食い止める制度ではない。どちらかと言えば国家は司法から劣化する。最も最初にそれが観測される場所である。

だが国家は司法が劣化したから滅亡するのではない。逆である。司法が劣化したならそれは国全体が既に劣化した事を示している。さて、民主主義国家はその後にどのように滅亡してゆくか。

考えるに

アメリカで一人の最高裁判事が亡くなった。遠い国の裁判官の話には敬意を覚えるのに、この国の裁判官に抱く事はない。判決文を丁寧に読み込めば裁判官たちの思索の過程に感銘する事があるにも係わらずである。なぜか我が国の司法のイメージは日々事務処理を滞りなく進める強大な装置のようである。

恐らくアメリカという国家の滅亡は司法の崩壊と同義のはずである。それはアメリカ憲法を失う事と同じだから。

行政が暴走し、司法を無視する、司法が抑制力を失えば立法から憲法を守る事ができない。憲法は忽ち修正されるだろう。それは憲法の理念が死ぬという意味である。

我々は日本国憲法に強い思い入れはない。それはまるで量産品の車のようである。ビンテージでもなければ長い歴史を持つものでもない。だから古くなった車のように買い替えたいと思う人が居ても不思議ではない。

大日本帝国憲法も日本国憲法も我々は学ぶために導入したのであって、それは17条憲法も同様である。我が国の政治の殆どは外から学んできたものである。そして戦争の敗北によって手にした日本国憲法には近代国家の要諦が、民主主義の基本が全て網羅されていた。

裁判制度は太古から存在していた。古くから裁判制度はどの地域にもある。だから日本から司法が消滅しても誰も困らない。司法が存在しなくとも国家は成立しうる。司法制度が三権分立しなければならない理由は絶対ではない。

司法が機能を失っても近代国家の体裁は取れる。だから国家は司法から劣化してゆく。最も早く劣化するのが司法である。行政と立法が機能していれば司法がなくても困る事はない。

冤罪

冤罪を出した裁判官が自らを罰する時、それは私刑であろうか。如何なる理不尽な判決を下そうが冤罪を出そうが、裁判官は罰せられる事はない。そこに正義はあるだろうか。

三審制にしたのは人間が間違えるからだ。だから三回やっても冤罪なら仕方がない。それがその時点での限界である。三回やっても冤罪なら国家の無能である。その裁判官が人事上、重要な裁判を任されるなら、無能なのはその裁判官一人のはずがない。

もし冤罪を起こした裁判官を罰するなら、それは判断を狂わす。冤罪を恐れて死刑を回避する、冤罪を恐れて無罪に処す。それが正義と呼べるか。そこに信じるに足る人間の良心はあるか。

もし罰しなければ裁判官の良心が期待できないのなら、その制度は既に破綻しているはずである。そのような裁判官にしか裁判を託せないのならその国家はもう命数を使い切ったのだ。

司法の瑕疵は人間が完全でない事を反映したものだ。罰する事も排除する事も不可能である。ならばこの欠陥にこそ人間の良心がある。司法はその良心に頼るしかない。

彼/彼女らの判決は、良心に従い間違う。だが良心であると信じるからその過ちを許せるのである。そうでなければ人間は正気を保てないはずである。そのような重責を背負える人間はいない。

だらか、裁判官の良心は、その認識に至った理由を懇切丁寧に説明する事でしか担保できない。実際に司法はそのように運用されている。

もし間違いがあれば、何度も判決文を読みなおすしかない。そこに判断も論理も書いてある。良心は、その判決を尊重する理由にはならない。全面的に信頼していい理由でもない。ただ説明する事から逃れられない。それが可能なのは判決文の中に、全ての思考の過程が書いてあるからだ。

判決文は説明の羅列である。もし冤罪であるなら、説明の何処かに間違いがある事になる。その瑕疵を検証できるのは書いてあるものが残っているからだ。

我々は無能を排除する如何なる合理的な方法も発見していない。それがあるかどうかさえ疑わしい。ただ冤罪が発覚する事によってのみ、司法は自らの欠陥を潰す事が出来る。冤罪による死刑で失われた命、冤罪で失われた時間は決して取り返しが付かない。如何なる犯罪者であろうと自然から隔離する事は生物に対する罪である。

だから冤罪を起こした裁判官は加害者である。同様に判決が軽くて犯人が再犯を犯したならばその裁判官は共犯者である。そういう自責をもって判決文を起草しなければならない。死刑にしておけば起きなかった殺人がある。この二度目の殺人は裁判官の責任ではないのか。そのような詰問に耐えられる人はいない。

元来、司法を運営する事が不可能なのである。それでも憲法は司法制度の存在を要求する。不可能と知りつつ挑むのが司法である。それは遥かに人間の限界を超えている。その不可能に立ち向かうのに手にしているのは良心だけである。

良心

人間の良心とは何か。自分の心に従うのが良心である。それが誰かの為であっても良心である、自分の良心がどこを向いているかは個人の信念に尽きる。そして憲法は信念の自由を保証する。よって、良心に従う事が自分の出世を最優先する事であっても憲法は否定しないのである。

憲法はそれをよしとする。政治家の誰かのために判決をする裁判官がいてもそれを否定しないのである。そのような人材を登用する事を否定しないのである。それを咎める記述は憲法にはない。ただ良心に従うとだけ書くのである。それが国民の選択なのだから。政権におもねる事も、自分たちの良心を政府に明け渡す事も憲法は禁止しない。誰にも自分の良心を否定させない為である。

裁判には、その国が持つ最高の道徳性がある。タブーに立ち向かう事も屈服する事も、どちらも人間らしい。それを否定する憲法などない。それを人々の生き方に託すために憲法は書かれている。

裁判官の行動は、氷山の一遍の雪氷である。それは国民の代表的行動であるから、その下に巨大な亀裂が横たわる事もある。ただのひとりに全てを負わせはしない。

これからも異常性の際立つ残虐な犯罪は尽きない。そういう時に司法には正義が突き付けられる。その犯人を殺せという当然の要求に対して、司法は迷いながらも答えなければならない。それが忌避できない事、それだけがこの世界に司法が存続する理由である。

司法の論理性

人間は自然言語によって物事を考える。人間は自然言語を駆使して数学と同様の厳密な論理構成を築区べきである。数学と同様に公理があり、証明があり、定理と推論から導かれた予想がある。数学の言葉と比べると、自然言語はは数が多く、全てに偏見が入り込む。

自然言語で厳密な定義は不可能なのは、言葉の意味は時代によって変わってゆくからである。その点が定義を変えなくてよい数学とは異なる。定義が変わる以上結論は変わる事が前提である。そして定義は多く明記されていない。

近代国家における公理が自然状態にあり、そこから導き出された論理的帰結として基本的人権がある。そこを出発的にして三権分立も権利の拡大も人々の要求も設計された。

基本的人権という考え方があったにも係わらず、かつての黒人は奴隷として売り買いされた。優生学によって人々は断種され収容所で殺害された。日本では戦後でさえ断種が合法とされ医師たちは何ら疑問を抱かなかった。

そのような負の歴史を持ちながらも、時代と共に自分たちを見つめ、謝罪を重ね、より良い社会を目指している。どの国家でもどの市民でもそう考えているはずである。今は道半ばであろうと、今が許容できない状況であろうと、歩みを止めない事が我々を支えている。間違いはいつか訂正される、それだけが司法を支えている。

もちろん、どの市民も同じ方向を見ている訳ではない。今でも差別主義者はいるし、女性の権利を認めない人たちがいる。その人たちでさえ、何かを守ろうとしているのは確かなのである。

言葉の定義とは、集合の事である。集合に入るものと入らないものがある。犬の集合と猫の集合が異なるように、人間の集合も異なる。時代と地域によって人間の集合に入る要素は違う。

かつて西洋では白人だけが人間であった。南北戦争は黒人である彼/彼女らの基本的人権を守るために起きたのではない。リンカーンがもしあの日に暗殺されなければ、インディアンを虐殺した大統領として歴史に名を刻んだであろう。しかし、それが当時の一般的な思想であった。未来は過去を裁けない。

我々は定義に基づいて論理する。推論とは等価の置き換えである。置き換えとは集合Aと集合Bの要素を入れ替える操作である。それを可能とするのは複数の集合の中に何らかの共通項があるからである。全く結びつきのない集合間で置き換えは不可能である。

進化

言葉は時代と共にある。時間が経過すれば変わる。裁判は判例を蓄積し過去と現在を繋ぐ。過去から逸脱しないように努め、無矛盾に努める。それでも価値観の変化には対応できる事。その為に定義は変化できなければならない。

それによって嘗ては合法であった行為を違法に変える事ができる。もし定義が永遠に変わらないなら司法は永遠に同じ判決を繰り返すしかない。自然言語によって柔軟に変化に耐えられる構造を持ち込んだ。そこが数学と異なる。

殺人は悪い事である。これは太古からそうであった。それでも神は人を殺してはならないと伝えざるを得なかった。殺人が止む事はなかったから。神でさえ人を厳密には定義していない。だから20世紀でも21世紀でも人としてではなく殺される人がいる。もし定義に従うならそれは殺人ではない。

言葉が変わる姿は生物が進化するのに良く似ている。環境に適応して生物が姿を変えるように、言葉も社会の中で変わってゆく。そして人間の世界観も思想も信念も変わってゆく。

時代によって定義が変わるなら、現在の論理が明日も正しいとは言えない。今日の無罪は明日は有罪かも知れない。だが、どれほど変わろうと論理構造は変わらないはずである。では、この論理はどこへ向かうべきなのか、進化のように多様にあらゆる方向を目指して展開してゆくものなのか。

生命の進化を担うのはDNAであるが、法の進化を担うものは理念のはずである。理念が方向を指す。それは海図を前にどちらに進もうかと悩んでいる人にこの世界のあるべき姿を示す。

勿論、裁判官の役割は理想を追い求める事ではない。理念を紡いでゆく事だ。この社会に適用してゆく事だ。そして進化を促進させる突然変異の如く、世界では新しい思想が誕生する。昨日も今日も、そして明日も。


2021年4月21日水曜日

人類史俯瞰、帝国主義と資本主義 - 経済学 III

帝国主義

大航海時代を切り開き世界中に進出したヨーロッパ人は、世界中に人間がいる事を知る。人間が居住する処には資源がある事を知る。

当時の最先端の科学技術は帆船と天文学と時計であった。それを可能としたヨーロッパ人は世界中で略奪を繰り返す。略奪をし尽くした後に、彼らは考え方を変えざるを得なくなった。農作物こそは毎年収穫できるものである。それをヨーロッパに持ち帰れば飛ぶように売れた。

農作物を買って売るよりも自分たちの手で農場を経営する方が利益が良い。作物が育つ条件は土地の特性である。その土地に水も労働力もある。結論としてより多くの収益を目指すなら、その地域を支配しなければならない。

幸いに彼らには銃があった。大砲もあった。帆船もあった。銃が活躍するとは、それに屈服する人間が存在するという意味である。スペイン人はそうやってアステカ帝国の統治を終焉させた。アメリカはそうやってインディアンを追い出した。しかし略奪は決して生産には勝てぬ。この点で資源を奪う略奪型の経済主義よりも、土地を奪う生産型の経済主義が優れていたのは必然と思える。

現地で農作物を生産する経済システムが帝国主義である。この経済主義は、海外に植民地を確保し、そこで農作物を生産し、それをヨーロッパという市場で売る。安く生産し高く売る。この経済の原則を満たし、かつ、農作物という永続性に立脚する将来の展望も期待できる経済システム。農作物の生産が人間の世界で尽きるとは考えられない。原理的にこの方法は永続するかと思われた。

資本主義

帝国主義がヨーロッパにもたらした富の蓄積は、人々の間に余暇を生じさせる。この余暇が科学と技術の発展に不可欠であった。産業革命が起きるためには、その余暇を研究に捧げ幾つもの失敗を乗り越える人々が必要だったのである。

産業革命が達成したものは単に移動手段としてだけの蒸気機関ではない。工場で動く機械もまた同様であった。綿織物から始まる工業の発展は、多くの工場と多くの労働者を欲した。生産拠点は都市の近郊がいい。そこに豊かな労働力と河川がある。港湾の近くなら輸出入にも都合がいい。

工業を基盤とする経済システムが資本主義である。この経済主義は、都市近郊で工業製品を生産し、それを世界中に売る。工業が発展してゆく過程で、農業との間で市場の奪い合いが起きるのは明らかであった。

帝国主義と資本主義は、それぞれの市場で対立する。

帝国主義と資本主義

南北戦争は、綿花の南部と工業の北部の対立であった。第一次産業と第二次産業の対立と見てもいい。

帝国主義は植民地を必要とする。その市場は、本国である。資本主義は本国で発展する。植民地は重要な市場である。貧しいまま支配を続ける事は機会の喪失であり得策とは思えない。この対立が第二次世界大戦へ世界を導く。

第二次世界大戦は日独伊という帝国主義と、連合国という資本主義の戦争である。枢軸国は帝国主義を欲し、連合国は資本主義を欲した。これを最後に帝国主義は経済システムの主流から引きずり降ろされる。19世紀が帝国主義の時代なら20世紀は資本主義の時代であった。

イギリスという帝国主義の権化が資本主義陣営に立たなければならなかった事は喜劇であるが、否応なく帝国主義の旗を降ろしたから彼らは戦後も中心に居続ける事が出来たのである。一方の敗者たる国々は素早く工業国として興隆する。負ける事で一切を捨てる事が出来たからである。

解き放たれた資本主義

第二次世界大戦で覇権した資本主義は、その後の冷戦によって更に強固な姿を見せた。ソビエトの存在がアメリカの資本主義の欲望を抑え込み、市民の団結が促し健全な中産階級が創造する。広大な中産階級がアメリカの内需を活発化する。遂にソビエト型の資本主義はアメリカの資本主義の前に崩壊した。

ソビエト連邦の崩壊した後の資本主義がその欲望を完全に解き放ったのは自明であろう。強靭な中産階級はもう必要でない。団結する必要もない。資本主義はそこに蓄積されていた富を吸い取る事に注力する。その後のアメリカの歴史は資本主義の欲望が開放された歴史である。貧富の格差が拡大する事を正当とする理論が幾つも構築された。

アメリカ国内の強烈な対立は、全て正当化された。だから敗者は自分より弱い人を見つけては攻撃するしか残されていなかった。貧困は能力の結果と結論された。能力は個人の責任である。もっと言えば怠けていたからだ。努力が足りなかったせいだ。人々はそれが全く正当であると理解している。だからどこにも受け入れるしかない。

資本主義の欲望がむき出しになり、市場を食い荒らす事が、貧困を生み出す。貧困は市場の衰退を招く。じきに市場が活力を失えば経済全体が衰弱してゆく。その当然の流れを富める者が気付くはずがない。現在の資本主義は市場から富を採集するモデルであって、市場を育てる事は考慮されていない。

その意味で、現在の資本主義は狩猟型なのである。豊かな天然の市場を見つけては乱獲し、取れなくなったらまた別の市場を探しに行くというモデルである。乱獲をする漁業と何も変わらない。そして、人々は最後に残った大陸へと集結しつつある。

市場の未来

市場は狩猟型から牧畜型へ、採集型から農耕型にならなければ、資本主義に将来はない。いつか、天然の資源は尽きる。もう天然の市場は残っていないのだ。その先はない。

だが、現在の経済システムに組み込まれていない市場を育てるという思想は、それが古い体制を破るだけの優越性を示さない限り、決して中心になる事はない。経済的背景を持たない理想では世界は動かない。現在の考え方では、仮に市場を育てた企業がいたとしたら、その市場の独占権を主張するはずである。自分たちが育てた市場は自分たちのものである。牧畜と全く同じだからである。

いずれにせよ、アフリカの奪い合いがアメリカと中国の間に起きる。それがまるで民主主義の対立軸に見えるのは単なる偶然だろう。民主主義を標榜するアメリカと共産党主義を標榜する中国がそれぞれの統治システムを全面に押し出して争うのは便宜上の分かりやすさに過ぎない。経済システムはどちらも同じ原理で動いているのだから。

だが、その背景にあるものは強烈な二国間の資本主義の対立であり、市場の奪い合いであろう。アメリカ型の民主主義的な自由を標榜する資本主義と中国型の共産主義的な団結を標榜する資本主義のどちらがこの市場を手に入れるか。

貧困

19世紀のイギリスの労働者の扱いは、植民地の人々とそう変わるものではない。その惨状を憂いたマルクスは資本論を書いた。

マルクスの願いは貧困が齎す人間性に対する危機感であったろう。 それは自国人に対する懸念であったかも知れぬ。植民地の人々が酷い目にあったとしてもそこまで心は動かなかったかも知れない。

いずれにしろ、基本的人権という仮定の中に飢餓は含まれていなかったはずである。民主主義は飽食する権利を想定しない。だから民主主義は飢餓という問題への回答を持っていない。社会保障は各国のそれぞれの裁量で行う。よって資本主義は基本的人権を最低賃金と書き換えて理解する。それで食費に困ろうがそれは資本主義が抱える問題の範疇にはない。

資本主義の原理は、賃金が発生する事だけある。よって賃金を払えば何でも許される。これでも人間と呼べるのか、という状況に追いやられても、経営者は心を痛める必要はない。そういう免罪符も含めて資本主義は人間の心理に負担を掛けないシステムにデザインされている。

人間は学問をしないから貧困になるのである。貧富が人間の能力を決めるのではない。貧困は学問を疎かにした結果である。その当然の帰結であるから、貧困に問題意識を感じる理由は何もありはしない。あくまでそれは当人の責任である。云々、だから何も責任を感じる事はないのである、そう断じた思想家が居た。

本当にそうか、そのようなものが本当に人間が掲げる理想であるべきか。

資本主義の行く末

21世紀に台頭した企業はいずれも重工業ではない。いずれも情報産業である。だが、その行動原理は今も資本主義である。

かつての資本主義は、蓄積された富を人々の間で再配布する役割を担っていた。誰にでもチャンスがあるという希望を支えるのが資本主義の機能であった。その時にお金がないなら、投資として集めれば可能である。そういう機能であった。

しかし、これを突き詰めれば資本主義は短期的な利益に極まる。投資とは如何に瞬間風速を最大にするかを求める事である。それ以外の全ては粗末に過ぎない。その結果として資本主義はカネの流動性を利用して一箇所に蓄積する仕組みになってしまった。まるで河川に巨大なダムを造ったようである。

富の流動は、熱と同じようにエントロピーの低い所から高い方へ向かう。マルクスが想像した共産主義はエントロピーが最大であるシステムだと思うが、それは失敗した。資本主義はエントロピーに抗って一度富を蓄積しエントロピーの低い状態を作る。それからどこかで開放する。それで富に仕事をさせる。この時に行われた仕事を利益と呼ぶシステムである。

富の蓄積が必要なのはエントロピーが低い状態を作る為であって、これは重いものを高い所に運び上げ位置エネルギーを作るのと同様であろう。それをしなけければ次の仕事ができない。では現在の問題は何か。エントロピーが低い状態のまま使われない事にある。富が蓄積されたままの状態にある、または更に蓄積するためだけに使われている。

仕事がエントロピーが低い状態から増大する事だと定義するなら、富の蓄積は仕事を成す条件であるが、低いままでは仕事としたとは言えない。それはポテンシャルが増大する事を意味するが、ではどのように解放されるのが望ましいか、という答えにはなっていない。

自然に放置すればエントロピーは低い状態から高い状態に向かうはずである。それが変わらないのは何らかの流れが出来ているからだ。歴史上、富の蓄積が永続した記録はない。だがその期間が人の命の長さと比較して長いかどうかは別である。恐らくそれを維持するための条件が失われた時にそうなる。

とまれ。貧困はあらゆる悲惨の原因のひとつだ。世界で起きる殆どの不幸が経済的貧困に起因する。それでも資本主義のどこにも利益追求よりも優先すべき原理はない。法が許す限り何事も許容される。こういう原理を持つ資本主義であるから、資本主義が合法的に多くの富を独占しようとするのを否定できる思想はない。すると問題は立法である。立法を支配する事が資本主義の合目的性になる。

企業と国家は対立する。グローバル企業のポテンシャルは既に幾つかの国家を凌駕している。もし国家が経済活動のネックになるならば、既存の国家を捨て、自分たちの国家を打ち立てる事も夢ではないはずだ。

労働

労働が市場を形成する。経済システムは労働を求める。求められた労働がどのような形で形成されようと、その形成は市場を生み出す。帝国主義が形成した市場は、ヨーロッパとプランテーションの地域で並列した。それは富の略奪であると共に、地続きの共通の市場となった。

資本主義は、生産現場が都市圏にあり、労働力も都市圏にある。労働者が市場の一部を構成する。だから豊かな市場のためには豊かな労働者が必要である。しかし資本主義は市場から略奪する形で発展する。市場を食い荒らし、次の市場に向かう。富は蓄積する方向に働くから、現在の資本主義では地方が衰退するのも当然である。富の移動が都市に向けての一方通行だからだ。

新しい経済主義

コンピュータの登場がモノからデータへの移行を促す。データとはモノに付随するものであった。値段やメーカー、誰が広告をしたか、そういうモノに付随するデータが売り上げを決定してきた。

誰が購入し、どう使い、どう感じたか。どこで作られ、誰が携わったか。そしてモノの流通にデータが決定的な役割を果たすようになる。人々はデータに説得されて購買するように変わる。

これまで資本主義が提供してきたモノが中心の世界が、データが遥かに凌駕するのである。モノに様々なデータが付けられるようになる。購買者の動きがミクロでもマクロでも表示され、あらゆるモノがトレーサビリティされ、人々はモノを見て選ぶのではない。データを見て選ぶように変わる。

水も食べ物も車も服も、人々が欲するモノは手に入らないという事情も含めて全て情報の一部である。このデータの莫大な集合がモノの価値を決めるようになる。デザインはモノの一部なのではない。情報の一部である。だから、モノがデータの一部に過ぎなくなる。実体など情報の付属であれば十分である。実体が売れるのではない。情報がモノを売るのである。脳は情報を食うのだ。

人々は既に洪水のように溢れるデータの中で溺れる事は出来ても、干からびる事には決して耐えられない。データが主となる経済システムに変わりつつあるのである。どれだけのデータ量を持つか、これがモノの価値を決定する。モノの流通は部分である。データの流通に世界は変わる。

それは新しい労働者を要求し新しい市場を形成する。そして、この新しい経済システムは資本主義と対立する。そして資本主義が敗れる。

データとは何か。物語でもあり、言語でもある。データには人間が投射されている。データの先に人々は物語を見つける事も感情を揺さぶられる事もある。データこそが人の繋がりなのである。データを通じて人間は通じ合う。莫大なデータが流れる事がそれを可能にする。

人々は太古、この世界を神話という形で切り取った。新しい経済システムにも新しい神話が必要だ。インターネットの世界が神話を欲している。新しい世界には必ず新しい神話が誕生する。人間はどうしても神話という形でしか世界を理解できないらしい。

このような新しい経済システムにはどういう生産が必要か。それを可能にするにはどういう労働者が必要か、その結果としてどのような市場が形成されるか。

現在の日本は資本主義に則った経済システムで先鋭化しようとしている。しかし、それでは次の経済システムへの移行に立ち遅れる。古いシステムを作り上げようと努めているが、それは新しいシステムに駆逐される。神話の中で倒される側になるか。

新しい経済も人間の血を欲するのだろうか、それともそのような暇さえ与えないほど高速に進出してくるだろうか。コンピュータの速度に人間は追いつけない。それでもデータ中心の経済システムは未だ人間中心の労働者を欲するであろう。そしてデータの大部分が市場からのフィードバックであり、購買行動がデータの増大であるから、購買行動が乃ち、労働行為と見做せる。

ポイント還元はデータ主義への流れであり、それが購買意欲にも影響する。データに市場が積極的に関与する以上、購買力のある労働者を育成しない限り、ビジネスは成功しない。貧困な労働者から構成される市場では、安売り以外の競争原理が働かない。それでは市場で勝利できなくなる。

そして、恐らく、その先の経済システムでは人間ではどうやっても勝利できなくなる。

その先の経済システムへ

AI の登場があらゆる活動の主役を人間から奪うだろう。AI 自身が新しい AI を誕生させるようになったなら、人々はあらゆる知的分野で敵わなくなるはずである。数学者たちは最も早く職を失う事になりそうだ。

不完全性定理があろうと人間に出来て AI に出来ない導出などないと思われる。科学者たちが数百年もかけなければ見つけられない発見を AI は僅か数日で見つけるだろう。安定の島に辿り着くのは人間よりもAIの方が先だろう。

勿論 AI という手法にもどこかに漸近線があって、それ以上は先に進めない停滞する場所があるだろう。それでもそのAIの到達点は恐らく人間には遥かに手が届かない。

勿論 AI にも不得意な分野があるはずである。手を使ったり物を動かすならば人間の方が優秀だろう。優れたロボットを組み立てる事が可能だとしても、アンドロイドが設計できたとしても、AI に人間は排除する事は組み込まれていなければならない。なぜならその仮定がなければ、人間について語る事が無意味かも知れなくなるからだ。

そのような時代の人間の労働はどういうものだろう。働く必要がない。またはAIの指示に従う事が求められる社会生活の中で、AIに従っていれば得られる収入で人間はどのように人生を謳歌すれのだろうか。古代のギリシャ時代の人々が労働には奴隷を従事させたのと同じような生き方をするのだろうか。労働は退屈から逃れるための娯楽になるのか。

頭脳を使う主体は AI に明け渡す。その時に人間に何が残るのか。生物学的な神経の興奮にどのような価値を見いだすのか。そのような生き方をしても人間はただ停滞するだけではないのか。ここが人間が停滞する地点なのかも知れない。

何もしない、何も考える必要がない。ただAIが管理する社会で生物学的な興奮にのみ従う。その先に人間には何が残っているのだろう。それでも我々は人間であると主張するためには何が必要か。

2021年3月21日日曜日

掛け算と足し算

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掛け算と足し算

掛け算は足し算。足し算を沢山書くのが面倒くさい時に掛け算が生まれたと考える。

\(2+2+2+2+2+2+2+2+2\) は \(2\times9\) と記述できる。

でも掛け算はそれだけじゃない。四角形の面積(小さな四角形の足し算)も円の面積(沢山の三角形の足し算)も掛け算で求める。これらの掛け算は足し算でも理解できる。


掛け算の不思議

不思議なのは足し算に出来ない掛け算がある事。例えば、掛けたら1になる数、逆数。逆数を掛けるのをどういう足し算にすればいいか。

例えば \(3\times\frac{1}{3}=1\)。3 に何を足したら 1 になるか。

例えば、0 の掛け算。\(3\times0=0\) はどのような足し算になるのか。1回も足さないのなら 3 のままのはずではないのか。

これらの掛け算はどのような足し算にすればいいのだろうか。足し算に出来ない掛け算があるなら、掛け算を足し算で理解する方法は万能ではない事になる。この解離をどのように受け止めればいいのだろう。

\(\frac{1}{3}\)の不思議

\(1+1+1=1\times3=3\) は足し算。\(\frac{1}{3}\times3=\frac{1}{3}+\frac{1}{3}+\frac{1}{3}=1\) も足し算。

だけど \(3\times\frac{1}{3}=1\) はどんな足し算になる?この式が足し算にできないのは \(\frac{1}{3}\) を掛けているから。何故?

足し算のイメージ

\(\frac{1}{3}\times3=1\) は 3回の足し算をイメージできるのに \(3\times\frac{1}{3}=1\) は \(\frac{1}{3}\)回の足し算をイメージできない。5 を掛けるなら 5 回の足し算。なのに \(\frac{1}{3}\) の掛け算は何回の足し算か分からない。

恐らく足し算は整数回でしか足せないから。\(\frac{1}{3}\) 回を足したければ足す回数を整数回にするような調整が必要そう。

\(2\times3=2+2+2=6\)
\(3\times2=3+3=6\)
\(1\times6=1+1+1+1+1+1=6\)

掛け算のイメージ

ピッチャーがボールを投げている。一回、二回と投げる。これが足し算のイメージ。足し算は数えるのイメージだから整数回。

途中で投げるのを止めたらどうなるだろう。野球ならノーカウントかボーク。ピッチング動作を細かく分解したら、数で言えば0~1の間の小数になる。

それを四捨五入して 1回と数えるのが野球のルール。ピッチングを投げたか投げてないかではっきりさせる。これはテニスやバトミントンのサーブ、ゴルフのスイングも同じ。

\(\frac{1}{3}\)を掛けるとは、ピッチングを \(\frac{1}{3}\) の所で止めたのと同じ。

たけど、それは \(\frac{1}{3}\) を足すのとは違う。\(\frac{1}{3}\) の途中で止めるのと \(\frac{1}{3}\) を足すのは違う。

すると、この不思議は掛け算の不思議ではなくて、足し算の不思議になる。足し算は、足すという操作を整数回行う。掛け算は、掛けるという操作を複数回行う。この違いが、不思議を生み出す。

足し算の1

足し算は 1回足す操作。足し算を何回繰り返しても、ふたつの数の桁数はそれ以上は小さくならない。1を何回足しても、または引いても 0.1 という数は出現しない。

これは足し算が数を操作すると言うより、操作の回数を数えるのと同じだからだ。一回足すとは、1回の操作と同じ。最初は 0回。それに 1 を足すと 操作が 1つ加算される。だから 1を 5回足すのと 5を 1回足すのは同じ。

この回数が整数回なら掛け算は足し算で表現できる。\(3\times5\) は 3 を 5回足すのと同じ。5は操作の回数と同じ。


掛け算の1

\(\frac{1}{3}\) を足すのと \(\frac{1}{3}\) を掛けるのは何が違うのか。

掛け算は数を大きくしたり小さくしたりする。1をある数で割ると 0.1 が出現する。これが足し算には出来ない。

足し算は個数を数える。掛け算はある数を伸長する。そういう操作のイメージの違いがある。

四角形の面積を求める掛け算は、基本となる四角形を伸長するのと全く同じ事を意味する。ならば、なぜ足し算は伸長に使えない、または使い難いのか。

掛け算は決して足し算を簡単に書けるようにしたものではない。これらは異なる操作。掛け算が足し算で表現できるのはたまたま互換性を満たしたから。


掛ける数

では掛け算で 2倍にするのと 3倍にするのは違う操作か、という気がしてくる。なら掛ける数と掛けられる数はどう違うものなのか。違うと言われれば違う気もする。

しかし、掛け算の順序の違いは長方形の縦横をどちら向きで見るかと等しい。長方形を回転させると \(縦\times横\) は次々に変わる。これは縦横は見ている人を基準に決められるものだからである。幾ら回転させても図形は全く同じはずである。視点を変えると違って見えるものがある。違って見えて同じものもある、同じに見えて違うものがある。

まとめ

なぜ掛け算に掛けられる数と掛ける数があるのか。それは人間が一辺にひとつ以上の数を書けないからだ。ふたつの数字を同時に書く事ができないのは掛け算の都合ではない。人間の都合である。

人間だから、ふたつの数があれば必ずどちらかを先に書くしか出来ない。すると掛けられる数と掛ける数は自然に発生する。でもそれは掛け算の本質ではないはずだ。単なる人間の都合だから。

この世界には逃げなくてはいけない時と、逃げなくてもいい時がある。そして、算数は逃げなくていいもののひとつだ。算数は分かるようになるまでずうっと僕たちのすぐ横に立ち止まって待ってくれている。


2021年2月23日火曜日

学びを止めない理由

自分で考える

自分の頭で考える事は人間の最大の喜びであるから、放棄しない方がいい。何歳からであろうと自分の頭で考えるのが遅いという事はない。

しかし、自分の頭で考えていると言っても本当にそうなのだろうか、と疑問が湧く。自分で考えている積りで誰かの受け売りを繰り返しているなどよくある。蓄音機だって音を鳴らしているのは私だと主張するだろう。

自分の考えか、他の誰かの考えかは区別できない。言葉には誰の言葉かという属性は残らないから。だから考えが独り歩きを始めれば、それが誰の考えかは消え失せ世界に広がってゆく。その言葉が本当に彼の口から出たものか、今となっては誰も分からない。

自分の頭で考えるとは何か、自分の中に道筋を構築する事である。この時、構築したのは確かに自分であるが、その時に使った材料も設計図も全部他人のものである事は珍しくないし、果たして自分のオリジナリティはどこにあるのか、と不安に焦燥する事もある。

他人と違っていなければという強迫観念は経済的要請であるから、他と同じでは価値がないとは、同じ物ばかりでは売価が下がるという現象に過ぎず、個性も独創性も人間の性質の問題と言うよりは、市場の競争力の要請である。

経済的に優位に立つために独創的である方が有利として、それが考える目的とは考えられない。それぞれが属する集合の大きさは異なる。経済が属する集合よりも考えるが属する集合の方が大きい場合、経済について考える事は考えるのひとつの応用だが、経済に含まれない考えるが存在する。経済をどれだけ拡張しても、その外に存在するものがあると思える。

人間、生きていれば、自分の足跡が軌跡として残る。振り返らずともその足跡はある。例え振り返れば波が消し雪が覆っていたとしても足跡はあった。誰かに引きずられた足跡であろうと。

誰も踏み入れた事のない草むらを分け入った先に住居があるなどよくある。けもの道を辿って道に迷う事もよく聞く、舗装された道路で大事故を起こすのは日常茶飯事である。通いなれた道だからと言ってよく知っているつもりになるのは危うい。

多くの人が生きてきた世界である。どんな場所にも誰かが進もうとした形跡があると思っておく位がいい。誰も訪れた事のない未開の地に原住民が住んでいた話はたくさん聞くだろう。そういう冒険譚はノスタルジアなる昔の話だ。

みそ汁のベルナール対流を調べた人が江戸時代に居ても不思議はない。その人が残した研究は今もどこかの蔵で埋もれているか、取り壊しの時に焼却されたとしても驚く事はない。月が岩石だらけであると思った人ならギリシャ以前でも居たはずだ。

そういう人たちの自分の足で確かに歩いたという自覚を頼りに生き抜いた歴史だと思うし、歴史に残らずともそれは残念な事ではあっても無駄はあり得ない。今日へと続く42憶年の生命の連綿はそうしてきた。

自分の考えが詰まらないと感じるようになって、マンネリズムに落ち込んだと感じても、自分の泉が枯れたと感じても、それは大地が割れたのではない。今いる自分の場所の風景の問題であって、恐らく新しい知識を必要としている時だ。

知識は知識であるだけではない。どの場所に置かれているかによて知識は違う輝きを見せる。配置が異なれば異なる舞いをする。この振る舞いの違いが自分と他人の違いであると言う事もできる。

数学

数学を学ぶ時、目の前に現れた公式は誰かの手によって洗練され磨きに磨かれた刀剣のようなものだ。その煌めきが如何に優れているかは使ってみればわかる。鉄鉱石の元の姿はもう失われている。

なぜその公式が開発される必要があったのか。どの様な要求に導かれ、その考えが自然に誕生したのか、発見されたのか、なぜその発想が必要だったのか、なぜその要求が生まれたのか。

誰かが其れを見つける前はどうなっていたのだろう。少なくとも今日とは違うように書いていた。新しい方法が登場して、やっと簡単になった事がある。今ではその恩恵に気付き難い。それ以前の体験してみなければその画期性に驚けない。

微積分を開発したニュートンは運動方程式を考察していた。彼がその方法を必要としたのには理由があるはずで、そう考える事でやっと突破できた何かがある。そう展開する事で道が開いた。それは間違いないと思うのだが。

その武器となるべき部分が隠れて博物館に飾られた刀剣からは、その鈍い光に震える事はあっても、それが実際に切り刻んだ物語は聞く事ができない。

それでも良いではないか。今の君が持っているその小刀は、ニュートンやライプニッツが振り回してた大刀の何倍も優れているのだからと言われてもピンとは来ない。見て、触って、使ってみなければ得心出来ない事がある。

瞬間

自分をどんどん小さくして行けば、周囲はどんどん大きくなる。手のひらにあったボールはどんどん大きくなって次第に垂直な壁に見えてくる。とことん小さくなればあらゆるものが垂直の壁に見えるに違いない。という事は、この世界の全ては直線の組み合わせに見えるはずだ。それは二次元の住人になったのと同じ意味にならないか。

そこから元の大きさに戻れば、世界は曲線に溢れた三次元の世界に戻る。小さくなれば直線の世界なのに、大きくなると曲線の世界に変わって見える。世界が変わっていないのは明らかだ。

小さくなった時に見える世界とは、瞬間の事だと考える。瞬間について考えると、そこに時間がない事が分かる。もし瞬間に時間があるなら、更に小さな瞬間があるはずで、時間がある限り瞬間とは呼べない。瞬間と呼ぶ以上、時間は含まれない。

未来と過去の分かれ目に果たして時間はあるのだろうか?舳先の作る波は過去であり、舳先の前の海面に未来がある。現在はどこにあるのだろう、切りさかれた波は過去、切り裂かれる前は未来。波があるかないかのふたつしかない。波が生まれた瞬間はもう過去になる。

その瞬間は時間0としてもカウントできない。0ならば時間があるという意味になるから、それでは瞬間でなくなる。瞬間は時間の様でありながら具体的な時間ではない。

そういう性質を持ちながら、瞬間をたくさん集めれば時間の総計を示す。瞬間は0秒でさえない。だのに瞬間を足せば具体的な時間を示す。なぜそうなるか。

瞬間は明らかにこの世界に存在する。仮に物理世界には存在しないとしても、明らかに成立できるものである。現実世界のどこにも瞬間が存在しないとしても、それは現実世界の不都合のせいであって、瞬間が存在しない理由にはならない。この世界に存在できないのはこの世界の都合であって、我々の認識の中では成立しうる。よって、瞬間というものでこの実世界を切り刻んでみても何ら不都合は起きないであろう。

神という概念でこの世界をどう切り刻んでも、この世界が一切変わらなかったのと同様に。

歴史

歴史は開眼と偏見の積み重ねで、幾つもの慧眼が多くの人の努力が、この世界をデザインしてきた。だが、そのデザインから歴史を演繹する事はできない。残っているものは過去を語らない。

何気ない発見もその人の中では非常な意味を持ち、驚きをもたらしたに違いない。その人にとっての偶然は、歴史上の必然かも知れぬ。当人にとっては如何に些末であろうと、見つけたものを簡単に手離す気などあるまい。

なぜ我々は学ぶのを止めないか。それは学ぶのを止める事が従う事と同じだからだ。学ばないという意思表示は誰かに従うと同じだ。

それが嫌なら学ぶべきだ。しかし、学ぶ事は従わない事と同じではない。議論し、理解し、納得し、合意し、反発し、仲違いする。最後は従うかも知れないが、それも構わない。

学んで従う事は、学ばずに従う事とは大いに異なる。学ぶ事を止めない事だけが色々な選択を可能にする、そう信じる。

いつか宇宙で

いつか異星人と出会った時、我々は最初に原子表を見せ合うだろう。これだけが確実に分かり合える知識のはずだから。だが確実に分かっている事は、その発見の経緯は我々と異星人では全く違う物語だろうって事。

同様に三角関数も対数も微積分も、この星と異星人では違う物語を持つ。それを披露しあうには数学史が必要だ。この星の中でさえ歴史は異なり、異なる地域で同時多発的に発見されてきた。それが細い糸のように伝播して様々な工夫を人が重ねた。

我々は幾何と代数の統合をデカルトの手によって成立せしめたが、彼のアイデアの発火は、他の星では全く違うだろう。同じでも構わないが、それを知る事は楽しいと思う。微分積分をこの星は天文学の要請により開発したが、そうでなければならない理由はこの宇宙のどこにもない。

ならば、その星の者たちはどうやって我々の物語とは異なるストーリーで見出したのか。

始まりの違いが、どのように我々とは異なる数学を発展させたのか。だが、どのような道であろうと、その途中で幾つの見落としがあろうと、それでも、必ず互いに同じ場所に辿り着くだろう、そして道は必ず交差するだろう。そういう予感がなければやってられない。

考える器官

しかし、私は、数学をある種の脳の機能そのものだと考える。

それでよい、という確信をわれわれにもたらすものは、脳の機能である。ただしそれは、普通そう見なされるように、「脳がそのように考える」がゆえに、ではない。「脳がそのように機能している」がゆえに、である。

他人の考えた数学が理解できる、ということは、背後になにか、同じような脳の構造を持っている、ということである。もしそれを持たなければ、やはり理解は不可能であるに違いない。

養老孟司 脳の見方 幾何学と生理学

数学は、脳の最も直接的なトレースのひとつである。数学は、脳の働きを外部に記録したものである。人間をどう引っ繰り返しても脳の考え方、働き方は超えられない。4つのタイヤが6つの轍を残す事はない。数学が我々に示すものは脳の機能の写像であって、この数字の謎を解き明かしているのではない。

だから数学を支えているものは我々の脳が持つ最も根源的な合理性である。そしてこの合理性は普遍的に我々の外部にあるわけではない。あくまで脳が導くものであって、脳の機能を超越するものではない。これをそのまま敷衍するならば、異星人の数学は彼らの脳に該当する器官の写像であるはずだ。

古いものが偏見になる。偏見を新しく刷新する。重たい鎧を脱げば身軽だ。だが、古い偏見を新しい偏見で上書きしただけかも知れない。新しい服を着る時には常に唱えるがいい。その新しい服もいつかは古くなるって。

ペテン師

既知の物事を別の場所で応用するには、そのままでは通用しない事が多い。形を変え、視点を変え、工夫する。それが可能であるという強い信念で見つける必要がある。それが可能である以上、何らかの方法があるはずだ。そうして見つけた新しい方法にはちょっとしたペテンのような所がある。

問題を如何に解くかとは、如何に解ける形に変形するかと同じである。ルールさえ破らなければ何をやっても構わない、これが唯一のルールで、その発想や着想が普通と異なるほど人は驚く。どう変形するか。これは、どうもペテン師の所作である。

円の面積を求めるには三角形に分解すればいい、その慧眼の乱暴さには驚嘆と愉快がある。これなど数千年前には発見されていたエレメンタリーである。

これらのペテン師たちの言い分をじっくり聞いてみれば何ひとつ破っていない。そんなのずるい、という驚愕がなければ数学に発展はない。数学史を紐解けばペテンの積み重ねであろう。目の前にある公式の背後にペテン師どものクククという笑い声が鳴り響いている。

つまり、異星人の数学者らもペテン師に違いないのだ。

我々のペテン話を異星人はどう聞くだろう。ニヤリと笑って、別の解を示すだろうか、それに我々はニヤリと笑い返せるだろうか。待て、異星人は笑うという感覚を持っているのか。

我々の幾何学は異星人の幾何学とどう違うだろうか。それは視覚の違いが原因に違いない。もしくは手の形状の違いかも知れない。

それでも三角形という図形はある。ユークリッド空間での角の和は180度である。我々の代数学は異星人の代数学とどう違うのだろう。我々の論理はその星でも通用するはずである。もしそれを詭弁だと断じるならば、それには反証が必要である事は互いに合意しているはずだ。

我々のとっておきのラマヌジャンの逸話をその星のものは喜んでくれるだろうか。

2021年1月23日土曜日

流転の王冠

ひどい爆発である。それで我々は大きく吹き飛ばされてしまった。消えた仲間もいる。

最初に着地した場所は、とても乾燥していて長くは生きられそうにない砂漠地帯だった。しかし、何度か場所を変わる内に、洪水の溢れる場所にやっと辿りついた。幸いに我々は、こういう状況こそが得意だ。

周囲を確認すると、多くの仲間は元気である。この流れにのって各自、分散しよう。

この洪水の中では我々の自由などないに等しい。だから各自がバラバラになって流れに身を任せる。どこに辿り着くかは運次第。だが、ここはそう極悪な環境ではない。どちらかと言えば、居心地がいいくらいだ。

どこに辿り着くかは知らない。多くの仲間は恐らく生き残れはしないだろう。だが、行くのだ。これが我々の方法論。

この生温かな海のような場所で漂っていると、大きな大きな浮遊物に何度もぶち当たる。その形も色も様々である。仲間の幾人かはそれに取り付こうと努力しているが、失敗しているようだ。入り込むのに成功したものもいるようだが、その後は見えない。

流れにのると、上下、左右、あらゆる場所に運ばれてゆく。その先に巨大な瀑布がある。そこを真っ逆さまに落ちてゆくと、その先にあるのは酸の海だ。そこに落ちると溶けてばらばらになる。そうはなりたくないものだ。だが、それは我々の自由ではない。祈るとしよう。

仲間の幾人かは、この巨大な洞窟の中で発生した巨大な隆起で上の方に押しやられた。それで天井に取り付いたようである。その壁の中に潜り込もうとする仲間がたくさん見える。だが、そこには巨大な番兵がいて、次々と取り込まれ溶かされ殺されている。どれくらいの数が無事に潜入できるだろうか?

私は残念ながら瀑布の方に流されるコースにいる。どうやら運の無い個体だ。残念だが、仕方ない、これが我々の戦略だから、これは織り込み済みの事象だ。そう諦めかけた時、流れに大きな変化が起きて、私はあっと言う間に良く知らない方向に流されていった。

気が付けば、そこは真っ暗である。私は、周囲の気配を観察してみた。轟轟と風が吹いている。何かが脈動して流れる音もする。そこは入り組んだ巨大な構造物で網の目のようだった。光の届かない場所だけれど、暖かく、なにより私の気分がいい。

よく分からないが高揚感がある。腕を伸ばして壁沿いを伝ってみる、すると、私の腕を掴もうとするものがいた。これはどうやら私を取り込んで溶かそうとするやつだ。ああ残念だ。

と、壁の方から別の腕が伸びてきた。素早く私を掴む。私もがっちりとそれを握り返す。その腕は私を壁の方へ引き寄せた。瞬間にぽっかりと大きな穴が開いて、私を中に導いてくれたのである。助けられた?

そこは巨大な工場のようだった。まるで自分の家のような気がした。暖かな場所だった。とてもいい匂いがして、私は自然と服を脱いだ。そして、そこに溶けていった。

私の意識は巨大な宇宙の中に溶け込んでゆくような感じで、私を運んでくれる手を感じる。そこには別のものがいて、私に抱き着いた。私は何もしなかったし、出来る事もなかった。完全に身を託していた。好きにしてくれ。

私は私の声を聞く。いつの間にか、私は私の声が辺り一面で響いているのを聞く。そこに不安も心配もない。私の感情は言い様のない達成感を感じている。これでいい。これを私は待っていたのだ。

私は飛ばされ、流され、そして辿り着いただけである。私は何もしていない。ただ漂っていた。ただ粛々と世界に従ったまでの事。だのに世界は私に何かを贈ってくれた。この世界がギフトである。それ以外は思い過ごしだ。

私たちはこの先でどうなるのか、運命は私の知る所ではない。私がこの世界から消えたとしても、それは私の意思ではない。

ただ私は漂う。この世界の一部なのだから、世界は私によって既に変わっているはずで、誰かが世界を大きく変えたなど単なる幻想である。

例えこの世界が私を滅ぼそうとしても私の存在を世界は支持した。だから私はここに居るのだ。私を生んだ世界が私を滅ぼす。それに抗う手段を持たない私でも、私は私の存在を消しはしない。それは肯定せよ。

例え流転しても私は存在した。存在したから私も流転する。私は成すが儘に流されただけだが、私にも機序はある。

2021年1月1日金曜日

人類史俯瞰、生命の発生 - 経済 II

出鱈目でいいから人類史を俯瞰する。

生命の誕生

この星に生命が出現したのは、地球が誕生した45億年前よりは後である。海の安定が40億年、最古の生物化石が39億年前の地層から発見されているので、この一億年の間に生命が登場したと考えるのに不都合はない。

最初の生命が出現するまでに、化学反応から生命反応へのエポックは起きたはずで、先ず化学反応(または量子的変化)がある。次に生命活動と呼ばれる反応が起き、最後に自分をコピーする能力を獲得した。そう仮定してもそう的外れでないはずである。

最初に生命と呼んで差し支えないものが登場した。最初の生命体は恐らく一代限りの化学工場であったろう。たった一回だけの反応だったかも知れない。

それが大量に発生しては消える状態が長く続き、次々と生命活動と呼ぶべき現象が登場しては消えていったのでマクロで見れば、生命が存在していた状態と呼べたはずである。もしかしたら火星などはその状態のまま海が干上がったかもしれない。

端緒の海はいのちのスープであったと仮説する。その海を巨大なひとつの細胞と仮定しても何ら困らない。細胞内でアミノ酸から様々な器官が作られるのと同じ。その中で様々な化学変化が起きては止まりを繰り返していた。

この生命のスープが干上がる前に、地球では、生命は反応をより促進するために、外と内を区別する壁を持った。タコがツボを好むように、周囲にある袋状の中で化学変化が起きる方が安定していた。

化学反応と生命反応

化学反応と生命反応の違いは何か。それをコード化の有無と仮定する。コード化とは反応がコードに従って行われるようになる事である。全ての生物はコードを持て降り、化学反応はコードを使って進めている。ウィルスもコードを持つという点では生命様物質であろう。ただ外界からエネルギーを取り込む器官を捨てたのである。つまり食事を止めた生命になる。

さて、コード化の仕組みはどのように出現したのか?化学反応の繰り返しの中からどう手順に従えばコード化が可能となるのか。まず、記憶を蓄積する。それを再利用する。

再利用とは、分解と合成という意味であるから、その手順をなぜヌクレオチドで記録して置く事になったのか。記録は偶然できたとして、それを再利用するためには、そこに辿り着いて、読み取り、他に持って行って、再現しなければならない。

これらの幾つかの連続する反応がどのように自然発生するのか。これを探求するのは一つ一つの現象を最小単位にまで分解して、それが自然発生的に良く起きる現象にまで分解しなければならない。

恐らく現在の生物では複雑すぎる。最新の電気自動車をどれほど分解して調べても内燃機関は思いつかないだろう。まして馬車や牛車に辿り着けるか。

例え100万回に一度しか起きない現象でも1兆回やれば100万回が期待できる。実験室で生命が誕生しないのは単に分母の数が余りに小さいからという結論はある。しかし、どらくらいの偶々の組み合わせで生命になるのか。

1億年ではあまりに少なすぎないかという疑問は拭えない。だがである、ひとつの型が決まればあとはほっておいても加速して促進されると仮定すればありそうにも思えてくる。

プログラミング

コードと聞けばコンピュータプログラミングである。しかしプログラミングには人間の意図が深く介在している。何も意図せずにコードを死ぬほど書いて(約一億年)それで Microsoft Windows は誕生しうるかという話でもある。それくらい生命の発生に何らかの意図は前提できない。

考える事は出来ないが、しかし、原子、分子は、一定の条件が揃った環境下では、自然と生命体としての結合をする方向性を持っている事は間違いない。それを原子の意思と呼んでも差し支えあるまい。これは、そうなる性質が初めから原子には備わっているという意味である。

高分子や有機物は自然に合成される。だから材料はあった。問題は材料の組み合わせとその順序である。それが起きやすいという事は前提条件である。起き易いとはこの場合は不可能ではないの意味である。

それらが組み合わさる過程でどういう機序でコード化になったのか。その分子メカニズムは思いつかない。C言語のコンパイラは今ではC言語自身で書かれている。しかし最初のコンパイラはCで書かれていない。最初はそれ以外の言語で書くしかない。

RiboNucleic Acid

同様の事を現在の RNA に例えるならば、最初の前駆体は今では失われている。最初は数個のコドン(最小のコード単位、RNAならACGUの3ペア)であったろう。

アミノ酸と結合したコドンが出鱈目に組み合わさる。コドンだけの列が出鱈目に作られる。それらは絡み合い易い性質を持っているなら、最後まで動く羅列と途中で止まる羅列が大量にあったろう。幾つかの組み合わせは蛋白質の合成に成功しただろう。

最初のコードが地球上に存在しないなら、火星で見つけるか、想像するしかない。想像は人間の得意分野であるし、火星に人類が行くのも間違いない(滅亡しなければ)。

生命を辿る道がたったひとつしかないとは考えられない。よって、幾つかの候補が見つけられれば、そのうちのどれか一つが正解と高を括っていてもそう困りはしない。どうせ過去の事である。見た者は誰もいない。間違っているなら誰かが指摘する。

生物とは蛋白質を合成する仕組みである。現在の方式は DNA から転写し mRNA を作り、tRNA がコードとアミノ酸のマッピングを行い、リボゾーム上で実行し、コードとアミノ酸から蛋白質を製造する。mRNA はアミノ酸の組み合わせ順を定義したファイルみたいなものと言える。

第9章 タンパク質の生合成 - 東京医科歯科大学 教養部 生物学分野
[翻訳] BioNTech/Pfizer の新型コロナワクチンを〈リバースエンジニアリング〉する|柞刈湯葉 Yuba Isukari|note

しかし、車の構造を知っている事と、それを製造する事は違う。ましてどのような設備が必要かを列挙するのは、全く異なる。車を運転する事と、それを使って何をするかだって全く違う。

どうやって製造する車を決定するのか、それをどう設計するのか、いつ頃に何台を生産すると計画するのか、生産したものをどのようなルートで販売するのか。既に多くの謎が解き明かされているが、不思議はまだ尽きない。

コードの獲得後

最初の生物は無意味に蛋白質を作るだけの工場として存在していただろう。ただ蛋白質を作っては環境に吐き出す。新しい化合物が環境に生まれれば、それが別の反応に影響を与えるのはそう突拍子ではない。

ある物質が反応を促進し、ある物質は反応を抑制する。資源が無限に近いなら、それらは丁度良いセットを作る所に落ち着くだろう。だがこれだけでは、どこにもコードが入る余地がない。

しかし、逆言えば、コード化で実現された反応経路は、その他の化学変化よりも大量に生産するだろう。偶然よりも僅かに高い確率で起きるならば、100万年もあれば他を圧倒するだろう。

どうも生物は貪欲に反応を促進する仕組みのように感じられる。生物という反応は、それ以外の反応よりもずっと複雑で効率よく進める。

太陽エネルギーが余剰な環境ではより効率良くエネルギーに最大限に利用する構造が誕生するのか。それが生命体という形式であるか。それが自然の中でどう発生するのか。これが火星に生命の痕跡を見つけたい理由である。

生物は外界から何かを取り込み、外界に何かを吐き出す。この吸引と吐出の繰り返しは、取り込むものが無機物であろうと有機物であろうと、まして生命体であっても区別はしない。また取り込まれる側も、内で分解されようが外界で分解されようが化学反応としては何も変わらない。

もし、その環境が居心地よければ、そこに居座る事も躊躇しない。その内側を自分の環境として利用すればいいだけである。それがその物質にとっての世界そのものに変わる。鯨に飲み込まれようがそこが快適ならいいのである。

コピー化

同様に吐き出すものが別の生命体様物質であっても誰も何も構いはしなかったはずである。外界を取り込むとは、何かを吐き出す事と同値なのだから、吐き出すものが、生命ではない物質であろうが、自己とは異なる物質であろうが、自己と同じ物質であろうが、生命は気にしない。そういう現象が頻繁に起きる。

原初の生命が仮に一代限りの存在であっても、条件さえ合えば百年や千年は活動を持続できたはずで、だから生命としてそれで困る事はなかった。仮にその個体が活動を停止しても似たようなものが次々と発生するので、これも困りはしない。全体を見れば生命の溢れる世界である。

しかし、生命のコピーはコード化が実現した後ならそう難しい話ではない。何かを合成する時に設計図を他の化合物から自分自身に変えれば良いだけだ。合成のメカニズムは他の化合物の時とそう変えなくて良い。

そしてコピーする事が進化論的に他を駆逐したのは、最初のコピーは、増殖を開始したり停止する仕組みを持っていなかっただろうから、がん細胞のように増え始めればあっと言う間にその環境を占有したであろう。自然発生的に起きない現象と自己を何度も複製できる機能を比べれば有利さは明らか。

その結果、その環境はコピーできる物質で占有される。増加し過ぎてエネルギーの奪い合いが生じる。資源が枯渇するまでそれは続く。恐らく、生命のスープはコピー可能な生物の登場で枯渇し失われたと想像する。

生命がコピーを作る機能を獲得した時に、増加を止める方法が必要だ、それは増加する刺激が必要という意味でもある。それができない場合は、絶滅する可能性が高い。増加は適度に抑制しなければならない。これが生き残る戦略になる。無制限に繁殖すれば環境を食い尽くしてしまう。

だから、なんらかの刺激でそれを制御する方が生き残り易い。その刺激は外界に求めるしかなく、例えば、個体数の減少、何かの濃度、周囲の温度などが考えられる。しかしこのような自然の刺激では環境が安定している事が前提になる。もし刺激が起きなければ増加する事ができない。増加が起きないなら減少する方向にしか進めない。

雌雄化

なぜ雌雄という方式が採用されたのか。この方法は、外界からの刺激を生物自身が決定できる点で画期的である。ふたつの個体の出会いがコピーの刺激になるなら、無制限の増加を避けられる。距離で制御でき、自然環境に完全に依拠せず、しかし、行動様式が適度な抑止となり、爆発的な増大が避けられる。

最初の頃は遺伝情報の交換など必要としなかった。出会いが刺激になるとは、片方を食べていたで良い。取り込んだ方を分解すれば複製に使う材料も手に入る。何も困りはしない。

もし、何らかの理由で材料が不足すれば、反応はそこで一端中断する。反応が停止していた生物の中に、別の反応が停止している個体が入り込めば、材料が供給されたに等しい。反応の再開が起きる。この時、遺伝情報は複製ではなく混合、交換として使われても不思議はない。

生物は太古から外界のエネルギーを利用し、余剰な資源を積極的に使って反応してきた。エネルギーの多少、資源の獲得と交換、伝播、略奪、効率と優位性、自然淘汰圧、それによって生じる増加と減少、全て経済学の範疇で語る事ができる。

二千年後の高校生たちは、今の人類種と同じであるかどうかは置いておくとして、理科の授業で生命誕生の実習をしているかも知れない。その姿は、未来が明るい事を示す。例え人類にとっての未来でなくとも。この宇宙がリップするまでにはまだまだ時間がある。