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2023年5月27日土曜日

日本国憲法  前文 III

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。 


短くすると

日本国民は、代表者を通じて行動し、主権が国民に存することを宣言し、人類普遍の原理に反する憲法、法令を排除する。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげて崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。 

違和感

「日本国民は」「代表者を通じて行動」の意味が良く分からない。この一文の意図が。

「諸国との協和による成果」「自由の恵沢の確保」「戦争を起こさない決意」「主権国民の宣言」「憲法を確定」とあり、「通じて行動」によって、これらへの作用を実現してゆくと解釈する。

We, the Japanese people, acting through our duly elected representatives in the National Diet,

throughは議会を通過させて。このニュアンスなら、日本国民は国会議員を選び議会によって国家を運営してゆくと解釈できる。これは立法に基づいて行動するの意に他ならない。

しかし日本語で「通じて行動」という場合、「議会を通して」以外の解釈が可能であるし、その方が自然だと思う。

この大前提として近代国家、議会への考え方が、日本と西洋では異なる点がある。西洋と東洋の統治思想には根底で違いがある。この微妙さが様々な局面で顔を出してくる。

「お上」という政体

政府、政権、役所を「お上」と呼ぶ体質はこの国の日常にある。上=統治者という考え方は、よくアジアの統治を表現している。無意識でも上=神というニュアンスではないだろう。この「上」に最も近しいのは鼓腹撃壌と思われる。

日が出れば仕事をし、日が沈めば就寝する。
大地を掘れば水がある、大地を耕せば食が得られる。
帝の治世と言うが自分と何の関係があるだろうか。

もちろん、この老人は尭が近くに居る事を知った上で謡ったのである。統治の理想を帝のみならず民にまで浸透していた証拠であろう。自然の法則と同じように何もかもがうまく運んでいる。そのような状況を統治の理想とした。

誰も重力の法則を知らずとも生きて行けるのと同じように、統治も斯くありたい。これがアジアの理想であり、アジアの自然が生み出した理想だと思う。砂漠で生まれた理想とは異なっても不思議はない。

自然発生的にどの地域でも早い段階で王が登場し階級が生まれ法が浸透した。これに例外はないと思われる。これは人間の生物的な部分に深く根差した流れと考えられる。

東洋と西洋は異なる統治の理念を異なる歴史の中で磨き上げてきた。その背景には自然の脅威、農耕牧畜という生産、科学数学哲学の隆盛、教育啓蒙の流布、宗教の規範、諸侯による軍の動員、それらを纏めて言えば経済と世界観で培った。

長く統治の理想は理想的な人間に託す事をベーシックとした。儒教では君子という概念を掲げその中心に徳を据えた。道徳による統治は恐らく最も早期に確立した概念と思われる。故に、この考え方は今も受け入れやすい。民主主義であっても投票行動の基準から徳を取り除く事は難しい。

孔子がどのような眼差しでもって理想を掲げたかを想像してみる。それが理想に過ぎない事も分かり切っていた筈だし、それが到達困難な事も知っていた筈である。それでも他に方法があるだろうかと問わなかったとも思えない。その結果としてそれでもないという結論に至った。

孔子は民主主義を知らなかったと思うが、君子の徳だけで治世できるとは考えていなかった筈である。民の徳だけで世の中が治まるとも考えていなかった筈だ。その程度で辿り着ける理想ならとっくに実現しているから。

鼓腹撃壌を理想とするアジアでは為政者が何をしているかに無関心でいい。気にしない状況が理想である。必要ない限り好き勝手にしてくれて構わない。よって徳とは信用の問題になる。

「お上」と呼ぶ背景には、何か困ったり用事が出来た時だけに訪れる状況がある。普段は全く接点などいらない。必要な時にだけ存在すればいいというニュアンスがある。

通じて行動する

「通じて行動する」なら、代表者を差し置いて直接的に行動する事は許されない。一度託した以上は代表者に全ての権限を譲渡すべきだ。

のみならず、代表者からの要求には従う「義務」が発生する。選挙結果を受け入れる以上はそうなる。全員で代表者を選んだのだから。みんなで決めた事だから。

権限を譲渡する事で、代表者以外の行動は禁止される。代表者からの要求には従う義務がある。それを自然と感じる部分がある。

では、不満がある場合にはどのようにすればいいのだろうか。それでも従うしかないのだろうか。ナチス政権下の支配地域で、プーチンの支配するロシアで。

この段階でも個人の行動には「許可」が必要であり、我々に許される行動は代表者への「お願い」しかない。その取捨選択は代表者の側にある。お願いする側にはない。

その結果として、権力の委託は簡単に移譲となり戻ってこなくなる。禁止と強制が全員に課せられ、それへの反論も不満も取り締まられる様になる。お願いは、金銭や体を渡す意味になる。

権力は腐敗する。洋の東西に関係なく。統治の理想はそこから如何に脱却できるかという機構論として必要で、不思議な事だが、ナチスドイツでさえ自分たちの政策の正当性を訴えていた。その根拠は極めて怪しい優生思想だが、何を信じていたかが重要ではなく、自分たちに正当性があると信じなければナチスでさえも行動できなかった、その事を注意する。

優生思想の根底には進化論がある。この優れた科学を勝手な思い込みで自由に解釈した人々がいる。それに飛びつきたくなる人間の心理がそこにはあった。自分たちの優秀さに根拠が欲しい。それは民族という単位と結びつく。何故なら民主主義の精神は独立を要求するから。民族単位の民主主義が世界に広がっている。時代の世界観が時代の統治機構を構築する。

西洋の考え方

哲人、君子、理想的人間、超人という個人に深く依存する統治で、統治者のみならず、全ての人が徳を持つならば理想的な自動機械のように上手く振る舞うだろうか。

全体主義ではあるまいし全ての人が同じ考えならそれも可能だろうが、人に違いがある以上、その最大公約数であっても、最小公倍数であっても、必ず不一致がある。

全員の希望を満たす事は難しい。全てを満足させる事は叶わない。それでも決める必要がある。

決めるとは切り捨てるである。だから、不満は消えない。よくて納得してもらう迄。不満に対してどういう行動が可能か。

まず従う。不満は押し殺す。次はお願いする。金銭などで交渉する。この二つまでは特に思想的な背景を必要としない。つまり暴力的な統治システムでも成立する。

近代国家ではこのような考え方はしない。自然状態という仮説から始め、統治の正当性から神を除外した。恐らく博物学という当時の最先端の自然科学が彼/彼女らにこの世界像を与えたのである。

神が居なくても人間とはどういう存在かを考える事ができた。人間を生物として自然の中に配置する世界観で、人間はどういう存在かを考えられるようになった。その結果として基本的人権というアイデアを見つけた。

神が存在しないエデンで、アダムとエバはどのような生活をしただろうか。ヘビはヒトに対してどのような態度をとったであろうか。彼らには自由がある。どこへ行く事も許されている。何故ならそこには禁止がない。

野生状態では人間と言えども食物連鎖の大円環の一部を構成する。その結果として、食うか食われるかという生存競争に参加せざるえない。そういう世界では生き残る事が最優先であるから、力も運もその為に使われる、その上で生物は種を残すための集団を形成する。

そのような野生状態から脱した人間の集団は、自然と呼ばれる謂わば人工的な集団を形成する。近代国家の理想もこの延長線上にある。世界を席捲する民主主義の理念もここに含まれる。

自由と平等から始まった人間観が、どうやって社会と統治機構を持つのか。その正当性は何か。社会契約という考えは、神と人間の間で結ぶ契約がベースになって、聖書の教えを拡張し、統治者と市民の間の契約とした。

だから近代国家である民主主義ではお願いはしない筈である。それは正当な契約に基づく「要求」だからだ。契約に違反したのなら無効。投票によって代表者を選ぶ事は契約を結ぶ事に等しい。

統治の理念

アジアでは社会契約に基づく国家形成が起きなかった、中國、朝鮮、日本ともに、近代国家の基本部分はヨーロッパから輸入した。その上に独自の統治理念を構築した。

どうしても統治と契約の考えが結びつかない所がある。約束は命を賭けても守るという道徳はあっても、契約は何があっても守るという考えが余り自然な気はしない。契約破棄は常に自由であるとさえ思っている節がある。その手順まで含めて契約するのは過剰な気もする。

如何なる時代も理想となる統治はあるが、それを実現し維持する事は非常に難しい。全ての時代の人々が知っている。時に気象が人々を略奪に向かわせ、蓄積された富が放出される。熱エネルギーのエントロピーが増大するのと類似した力学的運動がこの星のあらゆる場所に人類を辿り着かせた。

バベルの塔は、恐らく有史以前に人類がアフリカから出発した時の、世界中に散らばった過去を意味するのだろう。それだけの散らばりを可能としたのに、一万年程前には展開の記憶が失われ、交流は断たれ、長い停滞の時代に入った。そこには土着するという選択があったのだろう。乃ち農耕が移動の記録を上書きした。

帆船の時代にヨーロッパ人が再会の出発を始めた時にそれは不幸となった。神に乱されたのは言葉だけではなかった。

儒教と民主主義

この国の民主主義の中にも日本的なものがある。そこには強く儒教によって培われた背景が存在すると思われる。憲法に違和感を感じたので探してみたら、その根が儒教と遭遇した。

「通じて行動」の先に代表者の存在があり、それが直接的ではないという事、間接的である事は単純に間接民主制と理解する事ではない。託すは全権委任の意味であり、徳を信頼したの意味になる。

託された者には取捨選択の権限がある。権力には根拠が必要で、それはどの時代も変わらない。神が与えた、天が選んだ、民意の代表、いずれにしろ全てを満足させる道はない。手のひらから漏れて落ちて救えない者が居る。だから西洋の民主主義は神を必要とするのか。

憲法前文

「そもそも国政は」「信託」と述べるのは、その前提としてこれが日本では常識でない可能性を示す。だから「人類普遍の原理」と高らかに詠う必要があった。常識ではないから書いておく必要がある。

日本国憲法の精神には、どうも日本人という部分を地球人と読む方が相応しいと感じる箇所がある。もしかしたらこの憲法は日本人である前に地球人である事の自覚を求めているのかも知れない。その点がこの憲法の特色かも知れない。

故に「日本国民は」という言葉は、地球人という自覚を持ちながらも、我々は他国民との共存を目指すという、ある点での現状での譲歩を要求する。

「国際社会」と述べる背景には、統一政府が存在していない事を暗示する。我々地球人が単一の国家をこの星の上に築くにはまだ何かが足りない。

だから「平和のうちに生存する権利」と記述する時、これを享受すべきものとは書かなかった。これは全ての人がそうであって欲しいという願望である。それを権利とする事で、それを奪う者たちの存在を否定できるようにした。

そのような者たちに対してこの憲法は厳然と権利であると主張する。権利である以上、それを侵す者たちの武力の前でも、無条件で否定できるように。

だから「生存」としか書けない。平等でも共存でもない。ただ命は奪えないと訴える。

「各国の責務であると」「信ずる」とは、この権利を侵害する存在は否定できないという意味で、必ず将来のどこかでいずれかの国が、日本も含む、登場する事を想定している。其れに対して、我々は、「全力をあげて」「達成することを誓ふ」のである。

「誓ふ」とある以上、方法論はない。憲法は実現方法は提示しない。よって誓ったからと言って達成できるとは限らない。

これは理念であるから「これに反する一切の憲法」を「排除する」と強く書くに留めたのであり、そう書いた以上、それに反する勢力の存在が国の内外を問わず跋扈する事は明らかであると語ったのである。

起草者たちは、この一文が必要であると考えたという事である。

2023年5月4日木曜日

シン・仮面ライダー - 庵野秀明

上映

作品に興じるとはどういう行為だろうか。映画館まで出向いて今までにない何かと出会う。そんな作品を生み出す人がいる。

キョーダイン、マジンガーZ、アクマイザー3、デビルマン、火の鳥、ザンボット3、クイーンエメラルダス、地球へ、イデオン、ミクロイドS、ブラックジャック、様々な作品の地層がある。

先人から受け取ったものを誰かに渡す。バトンを渡すというより花粉を飛ばすという方が比喩には相応しい気もする。意欲に溢れた作品が今日もどこかで再生されこの繰り返しの尽きる日はない。未完成品としての作品が人の間に浮遊する。視聴者が見なければ完成に近づかない。しかしそれが完成でもない。

面白さとは何か。映像が感覚を励起する。最初は単純な生体反応であるから、暴力シーンを見ればアドレナリンを悲しければプロラクチンを放出する。これは純粋な原初的な反射的な生物的な反応に過ぎない。その反応を起こす事で映画は脳の回路を巡る事が出来る。

これは映画である、架空である、注意する必要はない、というのはその後の脳のタグ付けである。否定する事が、映画と現実を区別し、全体を覆うバイアスとなる。その上に音という連続刺激が加わり複雑な記憶として映画の上演中、蓄積され続ける。

現実ではないのに何かが迫ってくる。映像が持つリアリティを何と表すべきか。脳の中に刷り込まれ続ける描写が、過去の似た体験を探す。今まで知らなかった感情か、これはどこかで知っている体験か。映像を処理し続け脳は注釈付きの短期記録を作り続ける。

暗がりの中でバイクの音が広がる。血飛沫で打ち付けられる最初の五分でこれこれという感触に浸る。快哉。この先の展開に期待が膨らむ。どんな展開が続くのか。

ショッカーとの対決、国家政府との軋轢、これだけの力を持つ等身大のヒーローである。作家の思惑とは関係ない所で、自分勝手な妄想が膨らむ。どんな戦いが待つか、この先は作者の手中である。本編と自分の中で生まれる様々がもつれあうはずだ。

石ノ森章太郎

石ノ森章太郎の作品には人間でない(なくなった)主人公たちの苦悩がある。人間を超える力の手の入れ方には幾つ経路がある。その中で主人公たちが悩む。人間でない存在は「持たない者」として描かれる。持つ者は悩まない。人間でない者が主人公となり人間ではない者たちと戦う。その姿はまるでキリストが原罪を抱えているかの様でもある。

人間の力を遥かに超えた力を持つ超人。そういう特殊な能力がなければ主人公にはなれないのか。運命に抗うには高い能力が求められるのか。ならば特殊な力を持たない我々はどうすればいいのか。

社会が人に能力を求めている。その対価として雇用がある。それが資本主義の原則である。キャピタリズムが求めるのは勤労である。能力がある事はその前提条件である。誰もこの流れから逃れてはいない。全ての人がこの圧力の中で泳いでいる。

だから存在価値がないと殺された人たちがいる。そんなもの家族には受け入れ難い。人間の存在意義は誰が決めるのか?他人に決められるのか、家族に決められるのか、人間に決められるのか、自然は淘汰する、決めてはいない。社会が人を選別し続けている。自然界ではこれを適者生存と呼んだ。

この星に誕生する生命はどれも特殊だ。他のどの星系にも存在しない。二兆年の宇宙の寿命の中で今この時間にしか存在しない。宇宙の全ての原子の組み合わせの中で、この瞬間のこの組み合わせは恐らくただの一度しか来ない。素粒子の総数が恐らく統計的にそれを裏付ける。

この宇宙の時間の流れの中で、どれひとつを取っても二度と同じ時間が訪れる事はないだろう。輪廻転生を訴えた仏陀でさえ恐らくそう考えていた筈である。宇宙の寿命が尽きようともこの100年の時間が失われる事はない。原子がそれを記憶していたら嬉しいのだけれど。

個々のミクロを集めマクロ視点で見れば標準偏差の平凡を示す。ガウスの能力は誰もが持っているわけではない。同時代にその才に嫉妬し苦しんだ者は幾らでもいる。サリエリこそが我々の手本とする生き方だ。とサリエリの能もない人が言う。能力は数値化され順序よく並べられ階層を形成する。

だから社会には疎外されたと感じる者が存在する。それは避けえない。特別と言われようが平凡といわれようが避けえない。その孤独は能力のせいではない。家族や友人からも得られない疎外感の中で今日も風が吹く。さて明日をどうしよう。

等身大の考察

等身大ヒーローが巨大ロボットと違う点はどこか。巨大ロボットはあくまで人間が主人公でいられる。幾つもの例外があるとはいえこの構造は同じである。なぜならロボットを失うと非力で平凡な人間に戻されるからである。

巨大である事はそれだけで問題を解決する。巨大な破壊力を作中に持ち込めば何事も容易に解決できる。その前で人々は立ち向かう術を持たず、逃げ惑うしかない。

そういうシチュエーションに石ノ森章太郎はリアリティを感じなかったのかも知れない。それを拒絶したリアリズムはあくまで人間と人間のかかり合いの中で動かしたかったという気がする。

戦いは人間同士が行うものである。そこにヒーローが参加する。彼/彼女らに人間の運命を変える程の万能感はない。悲観的な結末が多いのも等身大ヒーローたちが問題を解決する存在ではないという宣言だと思う。ヒーローひとりふたりで解決できる問題ならとっくに人間が解決している。

子供の頃

自分が子供の頃に出会った作品は特別な存在で、当時のリアリティの基準は違うから、その時にしか得られなかった記憶となっている。だから生涯の大切な作品である。もし出会うのが今だったらきっと見向きもしなかったに違いない。

特撮に物理学は欠かせない。リアリティは物理学が支えるからだ。子供なら100mでも1kmでも好きな高さまでジャンプするがいい。しかしニュートンの法則を知る頃には現実の軍隊について知るようになる。

ライダーキックの破壊力はジャンプして得られる自由落下にある。その破壊力は100kg程度の質量が得る重力加速度に等しい。そこにプラスアルファの何かを加えた所で桁数はたかが1か2の増加である。恐らくそれらを超える破壊力を人類は既に手にしている。計算はしていないが、戦場を走る戦車が撃ちだす砲弾の仕事量は恐らく仮面ライダーの自由落下より遥かに大きいと思われる。

米軍より劣る世界では特撮は成立しない。シン・ゴジラが米軍を相手に演じた戦闘はその限界点に近いであろう。あれ以上になるとリアリティが失われる。だからシン・ウルトラマンでは米軍を登場させなかった。宇宙空間での人類の技術はまだ特撮には馴染まない。それでも両者に十分な説得力があったのは主役が巨大だったからだと思う。

等身大は工学の範囲を超えられない。そこで与えられるリアリティは現実の延長線上に非常に近い。だから仮面ライダーは実在の世界の何も凌駕しない。だかがは少し凄い程度である。ウクライナのビルを破壊するロシアのミサイルより強力ではないし、戦場を走り回る医者たちの献身よりも何かを成しているとも言えない。

特撮に現実のリアリティを持ち込むのは難しい。だから作品は最初に宣言する。リアリティの基準を示す。観客も共犯者だから喜んでその約束事を受領する。そこからは互いのご都合主義で応答しあう。

様々なシーンの中に潜む矛盾も戦う理由も世界線も乗り越えて作品の行き先を見ている。どんなシーンがこの先に用意されているか。それが映画である。

あまりにも庵野的な

庵野秀明の作品ではアスカ的なものとシンジ的なものが交差する。シンゴジラ、ウルトラマンはアスカ的な作品であろう。仮面ライダーはシンジ的な作品であろう。

アスカ的な作品は軽快さと颯爽さが立ち止まる事なく進行する。そこでは戦う理由は必要ない。目の前で起きている事に対応する。自然災害に悩む理由がない。映画は理由も意味も提示しないまま進行してよい。逃げる途中で立ち止まり自問していては生き残れない。疑問はいらない。ただ先へと進め。この感情がこの戦いが絶対に正しいと訴える。

シンジ的な作品は、戦いと戦いの間で立ち止まる。そして自問する。戦闘と葛藤の繰り返しの中で答えが見つからない。まるでそれが作品の主題であるかのように。作者は答えを拒絶する。この謎は解かれた試しがない。

シンジはどうやって戦いに参加するのか。戦いたくないなら拒絶すれば十分である。なぜ戦いに参加する破目になるのか。

レイがいたから。シンジはレイと出会ったから戦いに参加した。そう決意した。しかし、レイは戦いを始めた理由ではあっても、決して戦いの理由ではない。

シンジの戦いはレイによって起動したが、駆動を続ける理由ではない。アスカも戦いの理由は知らない。互いが主人公として戦いの渦中に放り込まれ、ひとりは戦いの理由を探し、ひとりは戦いに理由を求めない。

最初にアスカ的なものが戦いを始め、そこにシンジ的なものが投入される。シンジはレイ的なものと出会い戦いへと参加し、戦いを巡り、どこかを目指したいと感じる。

戦いの触媒であったはずのレイが、初期は謎として存在していたレイが、謎そのものとなり、次第に卵的な存在となり無垢無色の透明な所から孵化しようとしてやがて消えてゆく。そこにカヲル的なものが新しい触媒として投入され反応を更に進めてゆく。

正義の彼岸

人類補完計画もSHOCKER(Sustainable Happiness Organization with Computational Knowledge Embedded Remodeling)も全く同じコンセプトから生まれている。という事は、これは作者にとっての重要な命題なのだろう。捉えられて逃れられない運命のようである。

幸福を追求する。これを否定する思想はない。幸福の追求はアメリカ憲法にも記載された基本的人権である。だから幸福からは誰一人として取りこぼさない。全ての人を幸せにする事は正義である。

幸福から只のひとりも置いてきぼりにしない。誰も疎外などしない。全ての人が幸せになるべきだ。

現状では生ぬるい、もっと積極的に全ての人を幸福にすべきだ。これはとても菩薩的な考え方であろう。全ての人が救われるまでに私はここに残る。悟りよりも立ち止まる事を願う。

作中の組織はいつもこの思想を強制に施行する。何故かは知らないが全ての人を強制的に支配しようとする。全体主義的、強権的。人々を救うためには嫌でも連れてゆくしかないのか。拒否権はない。自由も認めない。それはもう強迫観念ではないのか。

そういう幸福の追求の仕方が作中に登場する。何故だろうか。ここを無自覚とは思えない。するとこの敵の在り方に本気でリアリティを感じている事になる。この世界をそう分析している事になる。

すると空気の強制力とか、この国に蔓延する閉塞感や疎外感、タモリが例えた新しい戦前という匂い、鋭敏な感覚の前ではショッカーの存在は決して架空なものではなく、この国のあちこちで幼少期から今に至るまで実際に散見されてきたリアルな体感だったのではないか。

悩むのは何故か。戦いに理由が必要か。なぜ敵は倒すべき存在なのか。なぜその当事者が自分なのか。自分が選ばれた理由は何か。まともならとうてい受け入れられない。太古の冒険譚ではそれを呪いと呼ぶ。

子供たちはみな大人の戦いに参加したいものである。参加を欲する。自分が選ばれればきちんと果たしてみせる。そういう想いが根っこにある。恐らくはこれは根源的な感情だろう。

所が作中の主人公たちは戦いを拒絶したがる。主人公である事を拒否したがる。そこから逃げ出したがっている。相応の理由がないなら戦えない。これは戦後の我々の命題なのだろうか。戦争が如何に簡単に嘘で塗り固められるか、我々はそれを良く知っているから。

そう考えると、作家にとって無条件に何処であれ何時であれ誰にとっても絶対に正しい正義がある事は救いになりそうである。それが仮面ライダーである。

ヒーローの運命

仮面ライダーの正義は絶対に正しい。そういう仮定でなければ作品は成立しない。果たしてそんな絶対的な正義はあるのか。正義の敵は悪である。だからショッカーは悪の組織である。よってショッカーから見れば仮面ライダーが悪である。

一般的に正義は相対的である。だから正義と悪は立場を変えれば逆転する。敵が常に悪である。この相対的な関係から、正義の敵は常に別の正義であると結論される。そうなれば正義の意味は消失する。敵と味方の言い換えに過ぎない。

仮面ライダーの正義はそういう類の正義ではない。そうであってはならない。仮面ライダーの絶対的な正義は、敵味方の区別なくどのような視点でも常に正しいものでなければならない。敵には敵の正義があるだろう。そういう議論を仮面ライダーの正義は否定する。

よって、仮面ライダーが絶対に正しい正義であるためにはショッカーが常に絶対に間違っている悪でなければならない。

果たして無条件に正しい正義がこの世界に存在するのか。絶対的に正しい正義とは何か。それは絶対的に間違っている悪も存在しなければならないという事だ。仮面ライダーはそれを具現化する。どうやって。

正義の中に矛盾がある。絶対的な正義は存在しえない。なぜなら正義は相対的なものだからである。この矛盾をどう解決するか。矛盾は背理法により否定される。しかし仮面ライダーでは否定してはならない。どうやって。

仮面ライダーの側にこの矛盾を解決する因子は見つけられない。ショッカーもこの矛盾を解決する因子は有さない。すると仮面ライダーの正義の根源は対峙しているのはショッカーによって成立しているのではない事になる。ショッカーは単なる力の作用点に過ぎない事になる。

ならば仮面ライダーの正義を成立させうる敵とはどういう存在か。それは矛盾を封じ込める存在でなければならない。唯一解決できる存在は神である。それも一神教の神である。神が敵である場合だけ絶対的な正義は成立する。この場合だけ矛盾が発生しない。

なぜか。神は全知全能である。全能であるとは何事も可能の意味である。つまりA=BとA≠Bが同時に両立させられる存在である。よって神を相手に掲げた正義だけは矛盾が発生しない可能性がある。神は全能だから発生させる事もできる。しかし発生させない事もできる。これにより絶対的な正義は成立した。

仮面ライダーの正義は自分の運命を巡る神への問い掛けに等しい。仮面ライダーの正義は神との戦いの時にのみ成立する。そのような正義を掲げてショッカーと戦っている。よってショッカーとの戦いに正義は必須ではない。

神と対話しつつ日常を送る。何の事はない、これはごく普通の生き方である。

なぜシンジは悩むのか、運命とは拒絶可能な他者的なものであると理解しているから。なぜアスカは悩まないのか、運命とは自分の一部と理解しているから。レイがこのふたつの間にあって、傷ついても負けても、存在を見つめている。見つめられていることに意味がある。

マフラーを巻かれるとはそういう意味だろう。

作品をありがとう。

オマージュ

ショッカーが幼稚園を襲う。世界のテロ集団に育成した兵士を供給する為だ。学校を襲撃し誘拐し人身売買、臓器売買、兵士育成というビジネスを展開する。それを世界中で展開する。その存在がニュースでも報道されている。

そんな非合法なビジネスが成立するのは賛同者が居るからだ。世界は混乱で溢れている。悲しみ、不幸、不正義に溢れている。権力闘争があり資源争奪戦がある。対立する場所に介入するには武力がいる。資金は欠かせない。

ショッカーが目指しているのは世界統一による世界平和であり、それを優れた科学技術と結びつけて直接的な武力闘争で目指している。なぜならそれがもっとも近道だと信じられるからだ。

対立が起きている場所でその解決を図る。争いの当事者たちを排除し、ショッカーから執政官を派遣する。現地に優れた者がいれば改造する。それで後進国や最貧民国から救ってゆく。経済発展の中で人々をショッカーの思想で染めてゆき新しい経済圏を構築する。

世界統一は人類の夢であろう。本当にそれは素晴らしい世界か。それは分からない。独占が起きる時、必ず一方的な支配が始まる。どのような者であれ寡占状態は人々から自由を奪い、資本を奪い、思想を奪う。

もし世界統一を目指すなら何らかのカウンターを設ける必要がある。仮想敵を作らなければ統一を維持する事は不可能である。仮面ライダーはその目的でショッカーが作り出した仮想敵である。仮面ライダーという敵が存在する事でショッカーの武力統一は野心ではなく人類の希望的理想であり続ける事が出来る。

どのような組織も外部に敵が必要である。それが同胞の力を結集し自分たちの理念を際立たせる。ショッカーが仮面ライダーを欲する時、仮面ライダーもまた欲しているのである。

特撮ヒーローは警察官の延長ではない。治安維持の官吏でもない。子供らに法治国家や徳目を修身させる存在でもなく、理想的に完成された道徳的完成を前にして、この者を見よと語るためのものでもない。敵がいなければ成立しない理想がある。

仮面ライダーに改造された本郷を逃がしたのは緑川博士であった。それはある意味ではショッカーの計算通りだったのである。それが組織を利すると考えたのである。AI的には用意周到である。この裏切りが怪人たちの団結力を強め、更に計画を邁進させると考えたからである。

クモオーグは緑川ルリ子を誘拐して連れ帰ろうとしたが、それはショッカーのアジトを見つけて潰してしまおうとする緑川の策略に嵌ったものであった。其れを知ったクモオーグはルリ子の行動に失望する。

この失望を救うために仮面ライダーが登場する。互いに説得を繰り返すが、分かり合えない。結局生き残れるのは二人のうちのどちらかだけになった。

仮面ライダーの存在に気付いた政府は接触を命じる。仮面ライダーとの共闘を目論むが、その背景には既にショッカーに取り込まれた政治家たちの存在があった。信用できる僅かな者たちだけと接触するように決め本郷と緑川は独自に行動すると決めた。

独自に行動する緑川と本郷は首都圏で最大勢力であるハチオーグが支配している都市に侵入する。

ハチオーグが振りかざした刀身でライダーの腕は切り落とされる。ニヤリとするヒロミ、その瞬間に仮面ライダーはヒロミの心臓部を刀で突き抜いていた。やめてと叫ぶ声の向こうで、崩れ落ちてゆくヒロミを抱きかかえる、その泣き顔が見たかったの、と言い消えてゆく。

しかし、この戦いで首都圏に甚大な被害が出たために政府はふたりをテロリストに指定し追跡を開始する。その背景にショッカーのバッタオーグの策略があった。

政府支配を排除すべく単身で乗り込む1号、そこで2号との戦闘を開始する。緑川によって洗脳を解かれた2号であるがカマキリオーグも参入して戦いは更なる激戦状態に入る。

戦いには勝利するものも、政府がショッカー支配から抜け出す事は簡単には出来なかった。共闘を約束した者たちにかくまってもらいながら、逃走を続ける1号と2号は遂に首都圏での最終決戦を決意する。

そこには群生相である飛蝗をモデルにしたショッカーライダーが待っている。彼/彼女らは団結して空中戦を得意とする点で、1号、2号ライダーの能力を遥かに凌いでいた。空中戦での不利な状況から地上戦に持ち込もうとするが、数の連携の前で次第に押されてゆく。

あわやという瞬間に辛うじて6人キックを避ける。この時の接触によってダブルライダーも群生相の飛行能力を獲得し、空中戦でショッカーライダーと対応の戦いに持ち込む。遂に同士討ちをさせた事で仲間意識が強いショッカーライダーは各人が暴走状態に陥り、孤独相であるダブルライダーが躊躇なく各個撃破してゆく。

アジトの乗り込んだふたりはそこでV3ライダーとまみえる。これが最終決戦となるであろう。最後の戦いが始まった。