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2019年7月16日火曜日

緊張している時、なぜ他の事がしたくなるのか

試験前に問題集を解けばいいのに、小説を読んだり掃除を始めたりする。これを心理学では「セルフ・ハンディキャッピング」と呼ぶらしい。あらかじめ失敗を想定し、失敗した時の言い訳を用意する心理的な行動だそうだ。防衛機制の一つと言われる。

緊張は人に様々な行動を強いる。ゴルフのティーグランドに立てば緊張する。緊張すれば失敗するシーンを思い浮かべる。だからいつもとは違ったスイングをしようとする。どうしていつもとは違うプレーを試みるのか。練習したこともないのに、それは練習場でやっておくべき事だ。準備が足りないのになぜここで練習しようとするのか。それもチャレンジと呼ぶべきだろうか。

緊張状態は、脳が自信がない事を知っている証拠である。どちらかと言えば、失敗する可能性が高いと脳は捉えている。それに対して、脳が失敗に備える事、成功する可能性を上げようとするのは当然である。

まず、脳には意識して制御しようとする部分と、もっと根源的な所から原始的、本能的な要求をする部分がある。この両者が失敗すると見做しているなら、恐らく失敗する可能性が非常に高い。

これが意識から無意識へ、無意識から意識へとデータリンクされ、両者の間でフィードバックされ、どちらも有効な解決策を見出せない場合は、両方の間でぐるぐるとループ状態が続く。

このループから抜け出せなければ頭が真っ白な状態となろうが、たいていは物事の方が否応なく来るものである。状況が変われば新しく対応するために古いループは終了する。

試験勉強ならば、今さら勉強しても高得点は望めない、と意識は理解している。となれば、勉強するというオプションは余り有望なソリューションではない。

という要請を受けて無意識もこの状態を打破するために様々な行動を示唆suggestionする。

両者は、互いに成功する可能性を高めようと動く。ただし、意識が時間的な行動規律であるのに対して、もう片方に時間感覚はない。過去の経験の中から、役に立ちそうなものを提案してくる。

意識する側がお手上げならば、人間は、心の声に耳を傾ける必要がある。小説を読む、確かに、小説を読むことは学力を高める効果があるだろう、掃除をする、確かに、勉強する環境を整えることは、学力を高めるのに役に立つだろう。

そう、時間的にひと月も前だったらとても有効な解決策の一つであったろう。なぜ今頃?もちろん時間感覚がないからである。

意識の側でも、どうせよい解決策がない。そういう時に無意識からのこれらのレポートに飛びつくのは至極当然である。いずれにしろ手遅れなのだ。何もしないより何かをする方がいい。それくらいの合理性は持っている。

心の声であるから、結果、それに従う。とても魅力的にさえ思えてくる。それに抗うのは難しくなる。緊張している以上、意識は失敗すると思っている。その時に、無意識の側から、サジェスチョンがある。それがとても魅力的に見えるのは当然だ。ここには多分に心理的な機構が働いているだろう。

なぜ、プレゼンの最中に放送禁止用語を大声で言いたい気分になるのか、なぜプレゼンの最中に前の人の頭を叩いてみたくなるのか。

この提案は時間感覚のない原始的な部分からの提案である。確かに、今それをすれば、この場を盛り上げられるだろう。少なくとも会場で印象に残るのは間違いない。これは確かに良いアイデアだ。印象に残る事が目的なら。

という事は、俺はここで手応えを感じていないという事だな。それが緊張の原因だな、そう理解できれば成功である。

緊張している時こそ、問題点の本質を最もよく先鋭化できると考える。何を失敗と考えているかを綺麗に暗示している。そして、それから逃れるためにどのような行動を取ろうとしているか。ここを意識するなら、ここは失敗しても次につながる失敗になるだろう。

いずれも準備不足である。ここでの機転だけで乗り切れるものではあるまい。それは一部の芸人たちが軽々やってのけるように見えるが、彼/彼女らは普段からそれをするために沢山の経験を積んでいる。そうして心からの声に従う事がほぼ間違いないという風に自分を鍛えている。

この声は緊張が終われば消えてゆく。そこに継続性はない。だから、この時の声を手放さないようにする方がいい。そして、それを継続に持ち込むのは意識の仕事である。どうすれば意識が継続の中に楽しみを感じるようになるか。

孔子は継続するためには知るでは足りない、好きでも足りない、楽しめと言った。楽しむとは、心からのフィードバックが効いている状況という事だ。

つまり、常に緊張状況を作り出す事が意識の仕事だと語ったのだ。そのためには課題を常に作り続けるのがよい。課題があればそういう状況が作れる。課題の中身はどんなものでもよい。面白い事に、非人道、極悪であっても、このメカニズムは有効だ。

2019年7月13日土曜日

「よろしかったでしょうか?」の用法研究

始まりの言葉

丁寧な言葉使いには世界でも共通した特徴がある。例えば英語では Could you ~、Would you ~ と過去形にする。なぜ過去だと丁寧になるのか。これには理由がある。

ヒトの最初の言葉がどのようなものだったかと想像する。イルカやクジラの会話、鳥のさえずり。最初の言葉は、名詞か動詞か、それとも形容詞や副詞か。気を付けろ、危ない、こちらにおいで、僕はここにいる、これらを伝えるのに、言語である必要はない。

子供が初めて言葉を話す時は名詞のように聞こえる。ファータであり、ブーである。我々はこれを名詞と理解するが、本当にそうか。世界を始めて切り取る時、物も、動きも、色も、形も不可分かも知れない。

ヘレンケラーが水に触れ「ゥァーター」という言葉に気づいた時、それは名詞でも動詞でもなかったような気もする。最初の言葉にはとても多くの意味があった。それが幾つにも繋がってゆくと知ったのではないか。彼女はこの言葉によって世界と繋がった。

Suddenly I felt a misty consciousness as of something forgotten--a thrill of returning thought; and somehow the mystery of language was revealed to me. I knew then that "w-a-t-e-r" meant the wonderful cool something that was flowing over my hand.

突然、私は霧があることを意識しました。その向こう側に、何か、忘れていたものがある。あるゾクゾクする考えが戻ってきました。どうしてかは分かりませんが、言葉の不思議さが私には明らかとなったのです。私は確かに知っていました。w-a-t-e-r とは、この素晴らしく冷たい何か、私の手を流れているものを意味するものだと。

この世界には名前がある。子供が、誰かの名を呼ぶとき、例え子猫であっても、そこには何らかの要求がある。自分の存在を伝えたいだけかも知れない。相手に注意して欲しいだけかも知れない。それをたったひとつの言葉で伝えようとする。ママ、パパ、ニャー。

言葉は究極的にはひとつあれば十分かも知れない。声のする方向を見れば、何を要求しているかなど明らかだ。少なくとも母と子はそれで充分なようとも思える。少しの表情がなんと雄弁であるか。

赤ちゃんが話してくれればいいのに、そう悩む人も居るだろう。言葉は雄弁でもあり、不足でもある。完全に満たす事はできない。

だから、日本には赤の呼び名が幾つもある。砂漠の民は水の呼び名を沢山持つと聞く。生活に密着した言葉は、どんどん増えてゆく。微妙な違い、ニュアンスを伝えたい。それが世界を拡げる。僅かな違いを知るたび、新しい名前が生まてくる。

動詞は命令に見える。しかし命令を詳細に調べれば、要求、強制、依頼、提案、懇願、など様々な形がある。横柄な命令もあれば丁寧な命令もある。何がその違いを生み出しているのか。

基本形

あなたが払ったお金は 1000 円でいいか?

コンビニ
お支払いは 1000 円からでよろしかったでしょうか?

である ⇒ いい?

支払いに出された金額を確認するなら疑問形である必要はない。「1000 円です」と事実をただ明言しても良いはずだ。これを疑問形にするのは何故か。そこには相手に確認を促すとともに、間違いを指摘しやすくする効果がある。

疑問形で聞かれたのだから、違うと答えやすい。それは否定ではなく、単なる応答だから。互いの間で間違っているかも知れないという前提があるのとないのとでは、否定に関する障壁の高さが全く違う。

である ⇏ 預かります

ここで「預かります」と言わないのにも理由がある。「預かる」は相手からお金を受け取った事を明言している。だからお金のやりとりが一旦は確定した事になる。そして確定した事実は後から訂正しにくい。

後から訂正したくなった時に、これでは預かった行為を一回取り消さなければならない。それは相手へ多大なエネルギー消費を要求する。敬語の基本はこちらがエネルギーを消費し、相手には使わせない事である。だから「預かる」という言い方はしない。

※ このエネルギーの高さが、高級な場所では別の意味、風格や気品を与える場合もある。

いい? ⇒ いいですか?

「ですか」を加える事で丁寧さを表現する。基本的に冗長であったり、修飾したり、長々とする事は、相手への尊敬を表し、こちらのへりくだりを表現する。何故なら、相手のために余分なエネルギーを消費しているからである。

それを厭わない態度は、相手への敬意をそれだけで意味する。手間暇をかけています、これだけの浪費をしてもいい程、あなたを歓迎しています、この行動はそれだけで相手への贈り物になっている。相対的なエネルギーの差も増えている。

いい? ⇒ よろしい?

「いい」は何も確定していない。よって相手に取り消す負担が掛からない。まだ確定していません、どう変えるのも自由です、というニュアンスが含まれている。

しかし「いい」という言葉はフランクである。親しい間柄の距離感である。そこで少し距離を遠くする言葉に置き換える。基本的に丁寧な言葉は長くなる。長い単語ほどエネルギーの消費が増える。そして両者の距離感が遠くなれば、相手は安全圏にいる感覚を得る。それによって気を高ぶらせなくて済む。つまり、余計なエネルギーを消費しなくて済む。

よろしいですか? ⇒ よろしいでしょうか?

「です」から「でしょう」に置き換える。これで言葉そのものが推定に変わった。明示的な言い切りをしない。これによって、言葉はぼやける。ぼやければ、確定しない、はっきり見えなくなる。このはっきり見えないが、視覚的には遠くにある景色に等しい。

相手の呼び名、呼称を省略するのも同様で、相手(Who)、時間(When)、場所(Where)、話題(What)、理由(Why)を明示しない事、直截しない事、限定しない事によって、それを受け取る側の心理的負担を減らそうとする方向である。

※ この考えを敷衍すれば、実は悪い話題ほど、敬語で話す方が両者の心理的負担を減らす事ができる。

よろしいでしょうか?⇒ よろしかったでしょうか?

過去形にすることは、敬語の基本である。

何故なら、過去形にする事で動詞が持っている命令の強制力を弱める事ができるからだ。「よろしいでしょうか」は、今すぐに返事を返さなければならない圧迫感がある。これは現在の話であり、未来へと続いている。時間を無駄にできない。

しかし、時制を過去にすれば、言葉は既に終わったことを話題にしている。過去の話題である以上、今さら返事をした所で手遅れである。つまり、急いで返事をする必要がないというニュアンスを与えられる。

話題からして現在、未来の問題であるのは当然であるが、過去形にする事で、話題を過去の方向に持ってゆき、過去が持つ遠い場所(過去には誰も辿り着けない)での発信とする事で、言葉の持つ潜在的な命令力を弱体化し、距離もより遠くにする。

不快の理由

これらの敬語に不快を感じる人は、恐らく敬語の過剰さを感じている。過剰になれば、相手を馬鹿にした感じが出る。

それは必要以上の過剰は、通常は恣意的だからだ。すると、私はここまで過剰にやってますけど、本当はもっと下ですよね、というニュアンスが含まれてくる。ここで自分が想定する敬意と相手が持つ敬意との間に高低差があると、そこに強い風が吹きはじめる。

それでも、マニュアルがこのような丁寧さで設定されるのには理由がある。最上の丁寧さによって顧客との間の距離を少しでも遠くしたいからである。この流れは、クレームに対する店側の弱さと比例している。現在は、そういう圧力が強いビジネス環境になっているからである。

もし「てめぇなど二度と来るな。」、「塩をまいとけ。」というような商売が出来るのであれば、敬語はそこまで過剰にはならないはずである。

敬語とは

敬語は、否定しやすい環境を作るためのものだ。そのためには、こちらがより多くのエネルギーを使い、相手のエネルギーを相対的にも、また絶対的にも減らす。

同じ理由から相手の選択肢も少ない方がいい。選択肢が多すぎると相手に沢山のエネルギーを消費させるからだ。

と同時に、どれを選択してもエネルギーが同程度となるように平均化する。本質的に、否定、拒否には沢山のエネルギーが必要である。だから、それを選びやすくする事が敬意という行為である。

観点方向性
否定しやすくする疑問文
自分の消費エネルギーを増加する言葉を長く、多く、
相手の消費エネルギーを減少する選択肢を絞る
明確、断定を避ける直接的な表現の回避、代名詞の多用
関係性の距離を遠くする敬称、呼び名の省略、フォーマルな用語
時間的な距離を遠くする過去形

敬語は誰のため?

拒否を否定する。否を言えない状況に相手を追い込むのも一種の敬意に見える。しかし、否定できないという時点でそれは敬意ではない。

それでも、敬語とよく似た形式になるので、その解離が相手に強い印象を与える。それが更なる圧力となって肯定を強要する。こういうメカニズムを意識して使う人たちは沢山いる。

敬語には相手の気持ちを思い図る事で、自分の心理的負担を下げる効果がある。相手に否定させる状況に陥らせるのは元来、避けたい事である。それでもそういう状況は往々にして発生する。その時に敬語ならば、相手だけでなく自分の心理的負担をも下げる効果がある。

こうして互いの摩擦を最小にし、それが円滑さを生み、お互いの距離感を程よく調節し、争いを回避し、悲しみを軽減する。敬語でなくとも、エネルギーを多く使う事で、人は自分の敬意を表現しようとする。それは言葉だけではない。

敬語という形式は、相手への敬意だけでなく、悪意ある人が自らの心理的負担を減らすのにも使える。このメカニズムをエネルギーという観点から解いてみた。