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2017年7月20日木曜日

日本国憲法 第三章 国民の権利及び義務 I (第十条~第十四条, 権利)

第十条  日本国民たる要件は、法律でこれを定める。

第十一条  国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

第十二条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

第十四条  すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
○2  華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
○3  栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

短くすると

第十条 日本国民たる要件は、法律で定める。
第十一条 基本的人権。永久の権利として現在及び将来の国民に与へる。
第十二条 自由、権利は、不断の努力によつて保持。公共の福祉に利用する。
第十三条 個人尊重。生命、自由、幸福追求する権利は、尊重する。
第十四条 平等。人種、信条、性別、社会的身分、門地により、差別されない。
○2 華族、貴族は認めない。
○3 栄誉、勲章、栄典は、特権も伴はない。栄典の授与は一代限り。

要するに

人間は個人として生きる事ができるけど、油断してたら失うよ。

考えるに

日本国民かどうかは法律で決める。これを決めないと憲法が誰にまでを影響を及ぼすかが決められない。これは憲法が日本国民とそれ以外の人では違う振る舞いをすることを示している。

憲法は国民に権利、自由、福祉、個人、平等、などを保証する。それ以外の人には明言を避けている。ならば日本国民以外に対しては基本的人権を無視してもよいのか。理念や前文から言えばこの解釈は誤っている。だが憲法の及ぼす範囲はあくまで日本に限定する。この国を訪れ、居住する人に対してはどうせよと憲法は言うのだろうか。

近代国家では権利が全ての出発点である。他はそこから演繹すべきものだ。自由とは権利を行使する権利であり、それも権利のひとつに過ぎない。だからあらゆる権利を行使する自由をだれもが持っている。だが、法は何をやってもよいとは言わない。人間の自由に制限を課す。同様に個人の尊重も平等にも制限を設ける。

制限しなければ守られないものとは何であろうか。孔子はそのような状態を「民免れて恥づること無し」と呼んだ。人々は法の抜け道を探すことが賢い事だと考えるはずだ。では憲法とはそのような人々に抜け道を教えるものなのか。憲法が制限を設けるとき、制限に特別な意味があるのではない。その制限のひとつひとつが法の理念を語るのである。

当然、あらゆる権利を人々は潜在的に持っている。しかし権利を行使する事は無償ではないし無制限でもない。権利の行使には対価を払う必要がある。

例えば、人間は誰でも黒人を奴隷にする権利を生まれつき持っている。それは白人であれ、黄人であれ、誰を奴隷にするのも自由である。その自由を人間は有する。嘗てその権利を行使できる地域が存在した。しかし現在の社会はそれに高い対価を求めている。それを正当に行使したければそれだけの対価を払わねばならない。

もしあなたが誰かを奴隷にしたければ国の王となり敵対者を全て排除し法からも神からも非難されないだけの国を作る必要がある。他国からの介入を実力で排し、奴隷を維持し続けるだけの力を持て。もしその対価を払わずに行使したならば、死刑を含む極めて厳しい罰則が待っている。それらは法によって決められている。だが、その正当性は法にあるのではない。

力さえあれば何をしてもよいのか。その通りである。それを制限する存在はこの世界には存在しない。だから我々は国家を必要とする。国家は憲法の抱卵である。力により権利の行使を保証し、かつ禁止する。どのような理想であれ憲法は国家を超えた所にその影響を行使できない。

第11条で、なぜ、起草者たちは、基本的人権を「永久の権利」として「将来の国民」にまで与えたのか。これはとても大切な国家への要求である。如何に憲法が改正されようが、この条項がある限り基本的人権を保証する。そのとき起草者たちがいつか来る独裁者を意識しなかったはずがない。彼らはその独裁者に向けてこの条項を書いた。この憲法は未来の独裁者に対する宣戦布告でもある。

第12条で、なぜ、起草者たちは国民に「国民の不断の努力」を求めるのか。憲法に記述しただけでは実効を持たない。死文と化す。それを守護できるのは今を生きる国民だけである。それを起草者たちは知っていた。憲法など簡単に殺せるのだと。

アジアにおける統治の理想は、鼓腹撃壌こふくげきじょうであった。統治者を気にしないでいる事が理想的な統治の姿と考えた。
日の出と共に働きに出て
日の入と共に休みに帰る
水を飲みたければ井戸を掘って飲み
飯を食いたければ田畑を耕して食う
帝の力のなにが私と関係しているのか

民主主義はそういう理想ではない。

第13条で、なぜ、起草者は「尊重」と書くのか。尊重では解釈の余地が大きすぎる。「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」はアメリカ独立宣言に由来する。

アメリカ独立宣言(1776年)
われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等で あり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力を得る。そして、いかなる形態の政府であれ、政府がこれらの目的に反するようになったときには、人民には政府を改造または廃止し、新たな政府を樹立し、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる原理をその基盤とし、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の権力を組織する権利を有するということ、である。

独立宣言ではこれらの権利の正当性は「信じ」られている。そしてこの権利が確保できないならば「革命」すべきと訴える。だが我々の憲法はこれとは違う構造を取る。尊重である。尊重とは何か。尊重とは気持ちひとつの問題ではないか。尊重というあやふやなものの上にこの国の権利を置いた。そこに、この条項の重要さがある。権利とは状況によっては尊重されるだけに留まる可能性がある。だがそこには最大限の尊重を要求する。尊重とは何か。もし尊重しない人間が登場したらどうなるのか?

第14条で、なぜ、起草者は「政治的、経済的、社会的関係」の差別を禁止したのか。それ以外の差別はどうなるのか。差別の定義とは何か。この一見、何ら誤解の余地もない条文が、良く考えると難しい、政治的に差別するとはどういう事か。経済的な差別とはどういうものか。社会的な差別にはどんなものがあるのか。それ以外の差別はどうなるのか。

憲法は完全な記載物ではない。時代に問い掛け、何度も考える事に意味がある。もとからそうなるように作られている。都合が悪いから改正するのではない。時代に合わないから消すものでもない。対話が民主主義の根幹であるが、それは国民同士、議員同士が対話すれば済むものではない。民主主義とは憲法と対話することなのである。我々の問い掛けを憲法は待っている。もちろん憲法にその答えは書いてない。

2017年7月8日土曜日

日本国憲法 第二章 戦争の放棄 II

第九条
○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

短くすると

○2 陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない。

要するに

軍隊を勝手に使うな。

考えるに

戦争はあらゆる権利の複合体である。その中にも使える権利と使えない権利があるはずである。世界はある条件下における戦争を禁止した。逆に言えば9条第1項は条件付きでの戦争を許可する。その条件が何であるかを追求する必要がある条項である。

第2項はその権利の行使を禁止するだけではなく、その権利を実現するための組織や団体の保持を禁止した。手段までも奪う事で強く禁止を強調している。これは厳重な防止策である。

交戦権だけでは実行部隊を保持できない事をこの条項は明示している。逆に言えば「その条件」に抵触しない陸海空軍の保持は許される。ある条件下でならば戦争も許される。

日本国憲法は決して戦争がないことが平和である、とうたった憲法ではない。

では具体的な「権利」「条件」とは何であろうか、という話になる。

明らかに言えるのは、これは他国との間に発生する、他国に対して行使する我が国の権利、が論点である。その権利を禁止すると9条は要求する。その権利とは、例えば他国や他民族を支配する権利、他国を滅亡する権利、他国の独立を脅かす権利であると定義してもいい。他国の政権を変える権利、他国に賠償金を請求する権利、戦争犯罪者を追及する権利としてもいい。我々はこの権利をもっと細分化して考えるべきだ。

戦争を始める事は容易い。今の日本でさえ武力攻撃を受けたならば自然と交戦状態に入る。それは非常に容易い。だが戦争を終結するのは難しい。仮に非武装を選択しても交戦状態は終結せねばならない。我々は戦争の終結について経験に乏しく、特に敗戦は4度しか経験していない(白村江の戦い、薩英戦争、馬関戦争、太平洋戦争)。

敗北の時にどういう行動を取るのか。そこに国家のすべてが集約すると言っても良い。世界を道連れに滅びの道をゆくか、それとも奴隷になってでも生き残るか。世界を道連れにするのは簡単である。全ての原子炉を暴発させ世界中を汚染する。使用済み核燃料で大気を汚染する。その代償が滅亡だ。滅亡する代わりに我々は敗北を知らないで済む。

相手がそのような行動を取る可能性もある。どうやって我々は戦争を終結させるのか。それは戦争に勝つ事より遥かに難しい。核兵器の登場が、敗戦を困難にした。それは勝っている側にも同等の困難をもたらす。核兵器がある限り、相手は戦争の終結を受け入れないだろう。どう戦争を終結すればよいのか。これが核兵器の抑止力である。

尖閣諸島を日本の領土ではないと主張する勢力がある。日本には日本の主張がある。その最後の根拠は広く世界の同意に依るだろう。だから相手は武力よりも先に世界の同意を切り崩す言葉を模索するはずだ。それが 4:6 になれば武力の正当性が生まれる。世界は真実では動かない。信じる事で成立する。戦う前から勝負はついているとはそういう事だ。

竹島を実効支配する勢力がある。その奪回は憲法上は禁止されていない。自国に入り込んだ勢力を追い出すだけだからだ。つまりそれは戦争ではない。内政である、と強く訴える事もできる。しかし相手はその主張を認めまい。

お互いの言い分が相反する場合、どちらの権利も成立している状態が生まれる。それを争うのが市民同士ならば裁判に訴えればよい。それができない場合に戦争となる。戦争は裁判の変わりに権利の両立状態を解消する方法のひとつだ。

争いは権利の衝突である。我々は権利を主張し続けた結果、先の戦争に敗北した。支那事変も権利だけ聞けば正当に聞こえるかも知れない。それは当然である。相手の言い分を聞いていないのだから。それでは裁判にさえならない。相手にも異なる正当さがある。

権利はある。権利の行使もある。誰がその権利の正当性を決めるのか。ここにおいて憲法は権利を記述するが、権利の正当性は決めない。憲法は権利の正当性の根拠にはならない。

では誰がそれを決めるのか。何がそれを判断するのか。世界にはそれを決める存在がない。その意味では自然状態である。

国家間の正義とは何だろう。この世界は真実よりも信じる事で動く。世界の足場は幻想で出来ていると言ってよい。不思議なことに、それは正義という釘で打ち付けられている。

我々は正義とは何かを説明できないが、それが正義であるかどうかは、ほとんど常に正しく判断する能力を持っている。より広く見る事で未来を担保したい。正義は広く見る事を要求する。

この世界には広い正義と狭い正義がある。広くても間違っているかもしれない、狭くても正しいかも知れない。だが広さ以外に正義を支えるものが見つかりそうにない。だから正義の広さを人々の意志に求めたものが民主主義の数の論理と呼んで差支えなかろう。

我々は裁判についてもっと知らなければならない。それが戦争を知る道である。我々はもっと正義について考えなければならない。それが我々の希求が世界のすべての希求と一致する道だろう。

もし、それが見いだせないのならば、我々は同じ失敗をするだろう。もし、それが見いだせたなら、我々はこの世界の未来に参加できるに違いない。

2017年7月6日木曜日

日本国憲法 第二章 戦争の放棄 I

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

短くすると

第九条 日本国民は、戦争と武力の行使は、永久に放棄する。
○2 陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない。

要するに

おまえらこんだけいくさに強いのに、戦争についてはなんも知らんな。暫くは戦争すんな、まずは外交から研け。

考えるに

パリ不戦条約 (1928年, 日本は 1929 年に批准) の理想を取り込んだ条文である。戦争は有史以前からあった。第一次世界大戦は其れまでの戦争の考え方を改めさせた。兵器が人間の限界を超えたと言ってよい。

思想としてみればこれほど詰まらない話もない。戦争は悪い。そんな話しは誰でも分かる。その善悪は誰もが知っている。なのに戦争は止まない。

もし戦争が誰かの悪い考えで起きるならば、悪人をこの世界から排除すれば良い。または悪い考えを駆逐すればよい。もし誰かを殺すことでそれが達成できるのなら、その殺人は正義である。もし、この殺人が悪であるなら、戦争は悪ではない。何故なら、悪によって討たれるものが悪のはずがない。悪は常に善を討つものだからである。

この条文が未だ論争の中にあるのは、先の大戦がこの国でまだ解決していないからである。戦後の日本はそれを直視せずにやり過ごそうと努めてきた。だがいつまでも忘却できるものではない。世界はそのような態度を待ち続けるほど温くはない。

あの戦争を突き詰めれば、我々は信じるに足る人間であるか、という問いに尽きる。我々は何故あのような戦争を始めたのか。なぜ関係ない人々を巻き込んだのか。なぜ愚かで無能な敗戦を経験したのか。我々はもう一度同じ状況において、今度は戦争を回避できるのか、今度は勝てる戦争ができるのか。それをこの条文は問うているのである。

あの戦争は内政の延長に過ぎないものであった。あの戦争は外交とは呼べない。2回のクーデターで縮みあがった内政がいかにクーデターを抑え込むかという権力闘争の果てに起こした戦争であった。我が国はクーデターを抑え込むその片手間でアメリカと戦争をしたのである。

GHQ が作成した日本憲法原案が日本憲法になる。9条は「事情変更の原則」に鑑みて既に無効ではないかという指摘もある。

原文
Article VIII
War as a sovereign right of the nation is abolished.The threat or use of force is forever renounced as a means for settling disputes with any other nation.

No army,navy,air force,or other war potential will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon the State.

私訳
8条 戦争は、国が権利として有する戦争は、廃止する。威嚇、力の行使は、永久に放棄し、他国との争いを解決する手段としない。陸軍、海軍、空軍、またはその他の戦争を遂行する能力は許されないし、交戦する権利も国に与えない。

9条原案。
第八条 国民の一主権としての戦争はこれを廃止す。他の国民との紛争解決の手段としての武力の威嚇、又は使用は永久にこれを廃棄す。
陸軍、海軍、空軍または其の他の戦力は決して許諾せらるること無かるべく、又交戦状態の権利は決して国家に授与せらるること無かるべし

日本政府原案
1. 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。
2. 陸海空軍その他の戦力の保持は、許されない。国の交戦権は、認められない。

日本国憲法
第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

これら変遷を辿れば憲法に係った人たちの気持ちが見えて来る気がする。この条文の骨格は次の解釈でよい。
  1. 日本国民は、戦争を永久に放棄する。
  2. 陸海空軍を保持しない。国の交戦権を認めない。

日本国憲法はその基本骨格の上に次の条件を付与し諾とする。
  1. 国際紛争を解決する手段としては、これを放棄する。
  2. 前項の目的を達するため、保持しない。
  3. 国の交戦権は、これを認めない。

注目すべきは、誰にでも明瞭にではなく、解釈できる余地を入れた所にある。彼らは、9条を明記しなかった。彼らは解釈可能となる余地を残した。憲法はそのように作られている。
  • 国際紛争を解決する手段でない場合、放棄しなくてよいか?
  • 放棄するものが指す「これ」とは何か?
  • 前項の目的を達しないためならば、陸海空軍の保持は許されるか?
  • 交戦権が認めない「これ」とは何か?

条件が付いた。無条件ではない。「これ」に解釈の余地がある。紛争は起きる、問題は解決しなくてはならない、だがその時の手段を放棄すると言っているのであって、紛争を解決する権利まで放棄したのではない。

放棄するものは権利である。その権利を行使して解決することは許されない。よって紛争を解決するにはそれ以外の権利を行使するしかない、と言っているのに等しい。そのためにはどのような権利があるか。使ってはならない権利を明確にしなければ、どの権利が紛争解決に使えるかも分からない。だからどのような権利があるかを明確にせよ、と言っているのである。

「これ」が指す権利とはどのような権利か。それはまだ世界にない権利かも知れない。我々は無制限の戦争を許さない。だが、我々は戦争を色々な権利の複合と見做す。ならば、その中には我々に使用できる権利があるかも知れない。つまり9条とは新しい戦争の形を創出せよと語っているのである。

我々に必要とされているのは不戦の誓いではない。古い時代の戦争でもない。我々はこういう戦争ならばする、と言う宣言である。

2017年7月1日土曜日

日本国憲法 第一章 天皇

第一条  天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

第二条  皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

第三条  天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。

第四条  天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
○2  天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。

第五条  皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。

第六条  天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
○2  天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。

第七条  天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一  憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二  国会を召集すること。
三  衆議院を解散すること。
四  国会議員の総選挙の施行を公示すること。
五  国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
六  大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
七  栄典を授与すること。
八  批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
九  外国の大使及び公使を接受すること。
十  儀式を行ふこと。

第八条  皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない。 

短くすると

第一条  天皇は、象徴。
第二条  皇位は、世襲。
第三条  天皇の国事は、内閣が責任を負ふ。
第四条  天皇は、国事行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
○2  天皇は、国事行為を委任することができる。
第五条  摂政を置くときは、天皇の名で国事行為を行ふ。
第六条  天皇は、内閣総理大臣を任命する。
○2  天皇は、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
第七条  天皇は、国事行為を行ふ。
一  憲法改正、法律、政令及び条約を公布する。
二  国会を召集する。
三  衆議院を解散する。
四  国会議員の総選挙の施行を公示する。
五  国務大臣、官吏の任免、全権委任状、大使、公使の信任状を認証する。
六  大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除、復権を認証する。
七  栄典を授与する。
八  批准書、外交文書を認証する。
九  外国の大使及び公使を接受する。
十  儀式を行ふ。
第八条  皇室に財産を譲り渡し、又は財産を譲り受け、若しくは賜与は、国会の議決に基かなければならない。

要するに

おまえら天皇のために死ぬような戦争するくらいだから残してやる。だけど天皇を利用しようとする奴もいるから政治からは完全に切り離す。そのための呼び名が象徴だ。あとそれだけだと国民の前から消えそうな感じがするから行事の時には顔を出すようしておく。これは単なる行事であってなんら効力も実体も持たない。そこは勘違いしないように。それでも勘違いするやつが出てきそうだから摂政を置けるようにしておいたからな。

考えるに

これは天皇という特別な存在を政教分離原則では政治から切り離すことができなかった証拠であろう。それを模索した結果がこの章と思われる。現人神とされた天皇を宗教とは見做さなかったという事である。
が、天皇の地位を規定して、草案が「シンボル・オブ・ステーツ」となっている点は、さすが外務省きってのわが翻訳官たちをも大いに惑わせた。
「白洲さん、シンボルというのは何やねん?」
小畑氏はぼくに向って、大阪弁で問いかけた。ぼくは「井上の英和辞典を引いてみたら、どや?」と応じた。やがて辞書を見ていた小畑氏は、アタマを振り振りこう答えた。
「やっぱり白洲さん、シンボルは象徴や」
新憲法の「象徴」という言葉は、こうして一冊の辞書によって決まったのである。

「週刊新潮」1975年、8/21日号 「 占領秘話 」を知り過ぎた男の回想 戦後三十年 より

日本憲法では総理大臣(行政)と最高裁判官(司法)を「任命する」と定義されている。他にも「召集する」「認証する」とある。もし天皇不在に陥り任命できない時はどうなるのだろうか。この憲法の見直すべき点のひとつであろう。起草者たちはそれを想定し摂政というものを置いたと思われる。任命により有効となるのであれば国政に参加する状況を作り出す事が可能である。それは第四条に違反する。

帝国憲法には「第一条 大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」とある。「大日本帝国憲法義解 (伊藤博文著)」は天皇の横暴を抑止したが臣民の暴走は赦してしまった。
所謂「シラス」とは即ち統治の義に外ならす蓋祖宗其の天職を重んし君主の徳は八洲臣民を統治するに在て一人一家に享奉するの私事に非さることを示されたり
此れ乃憲法の拠て以て其の基礎と為す所なり

帝国憲法で「天皇が統治する」とあるのは天皇のために日本があるのではないと明記する為であった。天皇が臣民を統治するとは、天皇は臣民のために存在するという意味である。しかし立憲君主はどうも駄目だった。何故か王様を利用する人が出現する。そういう人が出現すると不思議と必ず戦争になる。

天皇という存在は、長い日本の歴史の中で神話に書かれ、歌に表れ小説にも登場した。政治にも文化にも深く関係してきた。幾つもの政権が変わっていったが天皇は連綿と続いた。父親を辿れば神武天皇に行き着くという血の存在がこの国の歴史に根ざす。このような危うい生物的なものの上に構築された仕組みがどこまで有効であり続けるかは分からないがそれを続けてきた国である。

国の滅亡にも色々な形がある。民衆は国が滅びても残ることが多い。では何が変わったら滅亡と呼べるのか。統治機構か文化か他民族に支配される事か。支配されても再び独立する例はたくさんある。日本も一度は統治システムを完全に剥奪された。

その記憶が希薄なのは天皇が在位し続けたからである。天皇がいる限り支配者が誰に変わろうとも日本は日本だ。そういうものが根底にあるような気がする。GHQは天皇さえも支配下に置いたが、どうも天皇のもとで統治者として振る舞うアメリカがあった、そういう一時代があった。そのように感じられる。

我々は天皇を知ることでこの国の歴史を過去の逸話としてではなく今も存在する話しとして実感する。早い話が 1000 年以上も前のお話しをおじいちゃんから聞いているようなものだ。もしこれを失えば日本は大きな歴史的な断絶を経験する事になる。世界にこれほど古い血の連綿は残っていない。

止める事は容易い。平等だ人権だ人道だのという近代思想で止める事は容易い。しかしそれらの思想と比べても古くから存在し、恐らくそれよりも長く続きうる存在である。その耐久性ははるかに強い。それでも失えば二度と取り戻せない歴史である。それを象徴と呼んだ。破壊する事は容易い。しかし破壊者はいつも自分の行為の意味を理解せず消えてゆくんだ。

天皇が消失すれば我々は歴史を深く知る手段を失う。たんなる同じ場所にあった遠い知らない国の歴史となってしまう。それに代わる思想が人権、平等、民主制という近代思想であるか。この国はアメリカとは異なりその思想で成立した国ではない。17世紀に生まれた思想と2000年間続いた歴史が等しい価値とも思われない。新しい思想は水槽の中にある。天皇は水槽の外にある。

天皇には人権も平等も民主制もない。そう憲法が規定した。天皇はそれを嫌い退位する権利は有する。昔は出家と言った。しかしそれにとって代わる天皇を立てる必要がある。そういう存在である。

天皇は明治期に国民統合のシンボルとして担ぎ出され昭和に入り絶対君主として利用された。明治憲法は元老という非公式な機関が存在する事で機能したが、その消失とともに欠陥を露呈した。昭和になって天皇機関説が退けられる事で明治憲法は死文化しただろうか。

明治憲法は敗戦に至るまで一度も改正が行われなかった。漸進的で試作的であった明治憲法にただの一度も改正の必要性がなかったはずがない。我々の根底に欠けていたものは元老でも軍事でも政治でもなく憲法を改正し運用する能力であったと思われる。それは今も続く。