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2013年12月31日火曜日

実写ガッチャマン - プロット

ストーリー

西暦2050年代。突如現れた謎の組織ギャラクターは全世界に宣戦布告を行い、わずか17日で地球の半分を占領した。人類は不思議な結晶体である石に人類絶滅阻止をかけることになり、それを受けて国際科学技術庁の南部博士は、約800万人に1人といわれるその石の能力を引き出せる適合者探しを開始する。南部博士は適合者5人を探し出した上で施設に強制収容し、究極の兵器になるよう訓練を行う。そして究極の兵器に変身した5人はガッチャマンと名乗り、ギャラクターに立ち向かうのであった。

本作への反証
科学忍者に不思議な石は不思議だ。もちろん科学にも不思議はある。不思議な現象はある。しかし科学に不思議な石はない。科学も未知の力は扱う。そのために無知から人を不幸にする事もある。

もし不思議な石を原子力の比喩として使っているのならやはりおかしい。科学が不思議なまま使う事はない。説明できなくとも実験により何度も確かめられている。それを説明できる数式も組み立てられている。それが科学というものだ。

科学忍者はそういうものの上にあるはずである。原作は科学の力とそれが描く未来に希望が持てた時代であろう。それを踏まえた上で、人間が制御しきれない力をなぜ扱ったのか、は物語のテーマになりうる。

物語の位置付け、方針、意義、課題
科学を題材にするならば、この時代に福島第一原子力発電所事故の問題は避けて通れまい。

これを直接的に描くならば原子力発電所事故と対峙する科学忍者隊のストーリーが思い付く。ギャラクターが原子力発電所にテロを仕掛け、これを阻止しようとする警察や自衛隊。それが突破された時に科学忍者隊が登場する。

ここで戦いをメインにすればアクション映画になる。もしギャラクターを阻止できず原子力発電所が暴走すれば別のストーリーも描ける。そこで科学忍者隊がどうコミットするかにより幾つもの描き方が出来る。暴走に対して科学忍者隊も無力となり、そこに職員たちが決死の突入をするというストーリーでも良い。

汚染された地域に対する物語も思い付く。

放射能に汚染された地区にギャラクターの基地があり、そこに潜入する物語だ。汚染後の世界観を背景として描く。科学忍者隊は汚染を止められなかった苦い経験を絡めることも出来る。

例えば、山口県で原子力発電所事故が起きたら。九州と本州は物理的に分裂される。九州と本州を結ぶ交通機関は高速道路は使用不能になり、山陽新幹線は岡山を終点となり、残されたものは船と航空機しかない。

九州は日本国でありながら独立性の高い自治国として存在させ、山口、広島、島根、愛媛の一帯は放棄されている。瀬戸内海の汚染は酷く、沿岸部は農業、漁業ともに壊滅状態にある。その風景は、木々が生え野生動物の楽園のような世界だ。ただ人のいない世界だ。

そこには政府に反対する人々や反社会的勢力の人々、政府から見放された人が新しいコミュニティを作り出している。そこにギャラクターの基地がある。

この基地を調査するために科学忍者隊が出動する。

この世界観は、科学忍者隊ガッチャマンでなくとも、破裏拳ポリマー、でも良い。

プロット
原子力発電の事故が発生する。地震かテロか。

それから数年後・・・

放棄された地域に侵入した科学忍者隊のエージェントのひとりがぼろぼろになって戻ってくる。

そこにギャラクターの新しい基地があることを突き止めたのだ。

これを受けて出動を要請された科学忍者隊。

彼らが侵入したその地区で見たものは。

政府から見捨てられた人々の存在を始めて知る忍者隊。

その者達との対立や和解を通してギャラクターの基地へ侵入する。

彼らの目的とは何か、そこで何をしようとしているのか。

物語の肝はギャラクターの設定に全てかかってくる。

敵の定義
味方と敵の対立が物語の主軸である。争いとは両者の間に問題がある事を明示する。換言すれば、問題を解決するアプローチが物語と言える。

その解決方法は多くはニーチェが指摘したように悲劇か喜劇に集約する。突き詰めれば理性と感情の激突である。義理と人情と言ってもいい。ひとつの理解としては、悲劇は理性の勝利であり、喜劇は感情の勝利とする。どちらに転ぶかよりも、それを選択する意志の存在が重要で、物語は選択の過程とも言える。

それによって観客に快感を与えるためには『流す』が必須であり、それは敵を撃滅したり、和解したり、突き詰めれば、なぜそれを選択したか、それを納得させる理由はなにか、そこに機智に富んだ人間性はあるか、を観客は望むのであり、理性と感情を両立させつつ選択により問題を解決する事象が必要なのである。

それを満たすために敵の描き方が大変に重要になる。何故なら選択と意思は敵の描き方で決定する。逆に言えば物語は敵の定義づけでおおかた決定してしまう。
  1. 憎しみの相手として描き、倒す事でカタルシスを得る。
  2. 巨悪として描き、倒す事で正義を再確認する。
  3. 問題の根源として描き、対決を問題解決とする。
  4. 宇宙人や怪獣のように最期まで理解不能な相手として描く。
これらのパターンを反語にする。
  1. 憎しみの相手は、本当に憎むべき相手であったのか。
  2. 巨悪と思われた相手の主張も聞くべきではないのか。
  3. 問題の根源と見做す事が、本当に問題解決になるのか。
  4. なんらかのコミュニケーションにより理解できる相手として描く。
前者を拒絶型、後者を接触型と呼ぶ。もちろん両者の混在や時間を経るにつれ立場が遷移する場合もある。

プロット2
ガッチャマンの敵であるベルク・カッツェは元科学忍者隊の一員である (総裁Xは登場させない)。彼はかつて科学忍者隊の一員として原子力発電所事故に動員されたが政府の裏切りにより事故を誘発させていまった苦い過去を持つ。政府の裏切りを知り政府に敵対する勢力として、また見捨てられた土地の人々を救済する手段としてギャラクターを創設した。

ギャラクターの資本は、彼が持っている情報で政府を恐喝して得た資金、その運用益、更には見捨てられた土地で栽培した麻薬である。

政府はベルク・カッツェの力が巨大化する事を危惧し、また彼の持つ情報を闇に葬るためガッチャマンの出動を要請した。この裏事情も知る南部博士は、最初は難色を示していたがある政治家との会談後にガッチャマンを出動させる決意をする。南部博士が取り交わした密約とは?彼がガッチャマンに託した真の目的とは。

2013年12月29日日曜日

信なくば立たず - 孔子

巻六顔淵第十二之七
子貢問政 (子貢、政を問う)
子曰 (子曰わく)
足食足兵 (食を足る兵を足る)
民信之矣 (民これを信ず)
子貢曰 (子貢曰わく)
必不得已而去 (必にしてやむを得ず去らば)
於斯三者 (その三者において)
何先 (いずれが先きや)
曰去兵 (曰わく兵を去る)
曰必不得已而去 (曰わく必にしてやむを得ず去らば)
於斯二者 (その二者において)
何先 (いずれが先きや)
曰去食 (曰わく食を去る)
自古皆有死 (いにしえより皆な死あり)
民無信不立 (民に信なくば立たず)

民に信なくば立たず、これを国民の信頼を得なければ政治はできない、と解釈する人がいる。だが果たしてそういう言葉であろうか。

民の支えがあるから政治が成り立つという解釈はいかにも民主主義によく合う。だが少し日本的過ぎるかも知れない。民主主義の根幹は信ではない。社会契約説が訴えるように、民主主義の根底には自然状態があり、その上に合意がある。だから民主主義は革命権を当然の権利として内包しており、その権利の穏やかな行使が選挙であり政権交代であろう。

易姓革命と民主主義は構造は似るが演者が異なる。
項目易姓革命民主主義
合意した両者天と王人民と為政者
根拠を与えるもの合意 (契約)
正しさの根拠天の支持なし
統治される者人民
倒す権利を有する者天に変わっておしおきする者人民
倒し方武力投票

孔子曰く。食があり軍があれば民はその政を支持する。例え領土を失おうとも政を支持する。餓えて死のうとも政を支持する。民が支持するから政には意味があるのだ。これは政治を国に置き換えても問題ない言葉に思われる。しかし神に置き換えるとおかしい。

食があり軍があれば民は神を信じる。例え領土を失おうとも神を信じる。餓えて死のうが神を信じる。民が信じるから神に意味がある。これでは何かおかしい。神を天に変えても同じだ。

ならば神への信仰と政への信は違うものか。たぶん、そうであろう。

子貢が政について問い孔子が答える。政について教えてください。子曰わく。

どれかひとつを取り除くとしたらどれですか。3つあります。どれが最も大切ですか。子貢の問いの意味は分かっている。彼の質問の愚かさもよく知っている。どれが大切かではない。私が語ったものと政がどう関係しているのか。それについて分かった気になっている。当然だと思い疑わない。だから彼はその中でもっとも大切なのはどれだろうと疑問に思うのだ。よし、ならば答えよう。だがその質問が既に違うのだ。これを政治の大切な要素だと思っていては足りない。

必要なのは信であって民ではない。民は置き換え可能なのだ。餓えぬともどうせ民は死ぬのだ。それが真意だろうか。

人の死よりも人の信を重視すると言う話は、神風特別攻撃隊を思い起こさせる。あの時間の人々は信なくば立たずであった。命を引き換えにしてさえ。それに人々は耐えられただろうか。それは今も自爆テロという形で世界を覆う。

信なくば立たずとは人々の支持を為政者が受けるという話ではなかろう。現実的な利益よりも、信という、幻想とも架空とも呼びえる、目に見えないもので人々を繋ぐ事ができる。その不思議さや恐ろしさであろう。

孔子はこう言う事も出来た。

政治で一番大切なのは信じさせることだ。領土を失おうとも飢え死にさせようとも、信じ込ませる事は出来る。それさえあれば、彼らはどこまでも付いてくる。政治とは信じさせる事だ。

それで餓えて民が死に絶えたらどうなるのか。本当に信なくば立たずであろうか。民なくば立たずではないのか。政は民を必要とするのではないか。為政者こそが民の信を必要とする。民に信は必須でない。だから立たずなのではないか。

信を運搬する者は民である。民が絶えた時、政はどうなるのか。信を失えば食も軍も意味はないかも知れない。だが民を失えば信も失われるのではないか。

信とは何か。

信用とは失敗を許さない事、信頼とは失敗を許す事。

信用は失敗がない前提、信頼とは失敗を許容する前提。

どちらも始める前の心構えに過ぎぬ。

信用している時に「やっぱり」はありえない。信頼しているなら「やっぱり」はある。

信用している時に「まさか」はある。信頼しているなら「まさか」はありえない。

一般的に信頼は強い。信用は脆い。

一般的に人は生れた国を信頼する。隣りの国を信用する。

一般的に人は家族を信頼する。他人を信用する。

信用も信頼も生れた時間や場所から始まる。

人はそれを足場にして信頼や信用を拡げてゆく。

信用と信頼の違いが、同じ言葉を違った色にする。同じ行動を違った意図にする。信用だけでは足りぬ、信頼だけでも足りぬ。どちらも心構えだから、それは安穏と安心の根拠にならない。

一度失ったら取り戻せないものがある。それだけは疑いようがない。

なぜ孔子にはそれが信であったのか。

人はパンだけで生きるものではない

と同じ話がここにある。パンだけで生きるものではない、しかしパンなく生きてゆく事もできぬ。ならば、パンとどちらかしか、と問われればなんと答えるか。問われたのがパンでなかったから答える事ができる。もしパンなくば人は如何と問われれば、答えることなぞ出来やしない。ケーキを食べればいいのにと言うわけもいくまい。

食と信だから信と答えた。その逆はない。食のみで生きるものではないと答える代りに、どうせいつか人は死ぬのだ、と孔子は答えた。どちらも言っている事は同じである。

兵も食もある事が前提なのである。パンが有る事が前提なのである。それでも失えばどうなるか、と問う。架空である。石をパンに変えよ、架空の話しならば何とでも答えられる。偽ならば真。論理包含である。だがそう答えなければ満足せぬ人の心がある。

人はパンによって生きているのだ、当たり前じゃないか。それでは満足できぬか。何を探しているのか。

その当たり前が霞んでゆく。信よりも食に決まっている。だが食は目に見える。信は目に見えない。分かりやすいのは食である。その当たり前な平凡に納得できない。だから信の理由を語ってやらねばならない。そうしなければ立たない。

孔子は答えを拒絶した。

孔子が民に信なくば立たずという時、この民は既にシャレコウベとなって亡霊として立っているのだ。

民に信がある為には生きてなければならぬ。生きている民の信を得たいならば、軍も食も必要であろう。死んでも構わぬと言うか。民に死ありではない、皆死ありである。誰が民が死に絶える事を望むか。

信があれば民はいらぬと言うか。政はそうなり易いのだ。その恐ろしさを知っているか。

信がある。だが民に信を求め始めれば民を見まい。

民と信、子貢はなぜいずれが先かと問わなかったか。

2013年12月21日土曜日

罪と罰 - フョードル・ドストエフスキー, 米川正夫訳

へ、へ、へ、不思議な話しですな。罪とは何ですか、罰とは何ですか。

ええ、この退屈な小説を読み進めるのは苦痛以外の何ものでもありませんでした。どうしようもなく退屈です。そして訳がまた古い。初版が昭和 26 年とありますからそれも仕方はありますまい。

この訳はもう絶版です。もう古典と言っても差し支えない代物です。確かに 1866 年の世界はこうであった、そう思えるくらいに古い訳です。

もしドストエフスキーが現代に生れていたら。この小説を読みながらそういう考えが浮かびました。きっと彼は小説家ではなく映像作家になっていたと私には信じられるのです。

この小説を読めば分かろうものです。描写が映像的なのですから。ドストエフスキーは映像を目の前にしてそれを写し取っているのではないか。その映像的な手法で人間の心理を文字にして描写してゆきます。

建物の汚れた描写はそのまま心理の暗さを暗喩します。それは人間の気分です。風景に感情が投射されて描かれているのです。彼が長々とした心理描写を始めたら要注意です。何かが起きる前触れです。

何故でしょう。彼は人間の心理など全く信用していないように思われます。にも係らず小説は心理描写によってぐいぐいと引っ張られ、先へ先へと進み、読者を引き摺り込みます。

まるでこの小説に登場する誰もが水の流れに浮かんでは消える水の泡です。彼らの意志は誰かの何気ない言葉で浮かびあがり、捕えられ、実行され、そして沈んでゆく。それが多くの人間で織り成される風景です。

その織り成された風景のひとつが、たまたま聞いた言葉が、それだけがラスコーリニコフに階段を昇らせる理由になるのです。

誰もが行動を己の意志の結果であると信じています。しかしどうやらそれは疑わしい。

その意志と思われるものは波紋かも知れません。河に石を投げて生まれた波紋と変わらない。誰かの言葉が波となり、川面を揺らすように誰かを揺らし、心に干渉して腕が動く。そういった人間の中で起きている化学反応のようなもの。どこから来たのでしょう。

罪と罰もひとつの事象に過ぎないのです。同様の物語はこの世界のあちこちにあるはずです。更に言えばキリストさえも。

ソーニャがもし日本に生まれていたならば彼女はきっと聖書の代わりに阿弥陀仏を唱えていたことでしょう。

南米のどこかの街に生まれていたのなら別の物語になっていた事でしょう、そういう物語があるはずです。

それは世界のどこにでも。宗教も民族も超えた所でも人が居る所には何かがあるのです。ええ、罪と罰はその表層に生まれた物語のひとつなのです。罪と罰は水面に現れた波紋です。

この小説で語られているどんな思想も、一杯のウォッカの価値もありません。そんなものは全て氷山の先の氷の1粒に過ぎません、それがどれだけ人の心を打ったとしても、注目すべきは、見えていない、その奥の奥の海の奥に沈んでいるあの大きな塊の方でしょう、そうお思いになりませんか。

キリストなどたまたま目の前に現れた小石に過ぎません。私は賭けてもいいですけど、ドストエフスキーという男はキリストなんてこれぽっちも信じちゃいなかった。彼はイエスに石をぶつける者でしょう。そういう自覚が彼には十分にあったと思います。彼の前で無条件に跪くなど考えられやしなかった。彼には聞きたい事が山ほどあった。逆に言えば、それほど本気でキリストという男の存在を信じていたのです。

一度も罪を犯したことのない正しき者だけこの女性に石をぶつけなさい。

罪と罰で注目すべきは、最期に罰を法に委ねた事でしょう。罰が、良心の問題ではなく法の執行なのです。これはどう解釈すればよいのでしょうか、我々はここにも注目しなくちゃいけません。

ラスコーリニコフは最後まで自らの意志にではなく誰かの言葉に振り回され続けました。それは最初から、物語の最後まで、ずうっと。ずっとです。

殺人という思い付きでさえ始めから彼の中には存在しなかった。どこかで読んだか聞いた話しが彼の中で成長したのです。彼はそれを自分のオリジナルと信じていたのだけれど。

もう一度読んでみてください。何かが彼の心を捕えたその瞬間を。ラスコーリニコフがそれを決行したのも誰かの言葉があったからじゃないですか。その言葉を聞かなければ彼はあの階段を昇る事もなかったのに。

なぜラスコーリニコフは告白したのですか。一見簡単そうなこの問いの答えが悉く間違っています。彼は自分がヘーゲルのいう世界史的人物でない事に気付いたのでも、超人思想の誤りに気付いた訳でもありません。

ましてや己れの罪に気付いたからでもありません。彼は物語の最期まで、本当に最後まで老婆については何も語ってはいません。可哀そうなアリョーナ。

なぜラスコーリニコフはラザロの復活を必要としたのか。なぜソーニャから聞きたかったのでしょう。この美しい描写が示すのは、この説話によってラスコーリニコフは死者に成れたのではあるまいか。だからソーニャによって復活する、そのとき、彼が初めて口にする言葉は何であるべきでしょう。

罪の告白とは自分が生まれ変わる事に違いない。告白により人は新しい自分に生まれ変われる。決別した昨日の自分の罪だから、告白ができるのです。ならばラスコーリニコフが望んだものは復活であったのか。

いいえ、ラスコーリニコフはそんな事を自分の本心として望んだのではありません。彼はソーニャを試そうとして、ソーニャの言葉を聞いた。ソーニャへの蔑視、同情、憐憫、驚愕、彼にはそれに見合うものが必要だったのです。このお人よしは無償でさえ人に与えるのです。何かを受けたらそのお返しが必要だったのです。

それが彼の中には殺人の告白しかなかった。もしソーニャと出会わなければ彼は告白もしなかったでしょう。その時はラスコーリニコフはどういう人生を歩んだのしょう。

彼はいつでも引き返す事ができた、逃げることもできた。しかし、ソーニャの顔を見た。だから引き返せないのです。だから踵を返したのです。

彼に自分の意志などなく最後まで人の中で翻弄され続けたのです、聡明なラスコーリニコフが、です。

ふむ、賢いあなたはそれを彼の孤独さに求めるかも知れません。社会とのかかわりの問題と言うかも知れません。

しかしこの小説を読んでゆけば、次第に全ての登場人物が梅毒に脳をやられた狂人ばかりに見えて来るかも知れません。もしそうでないならこの小説の中に幻想を見ているのです。ほらどちらにしても脳をやられているのはあなたではないですか。

この小説のプロットは実に単純なものです。幾つかの印象深いが取り留めのない日常の出来事が起きます。難しいトリックも複雑な起伏もありません。しかしなぜこれほどまでに印象深いのでしょう。

重要な二人の人物がもつれ合います。それが二組あって二重化します。# (井桁) のような構造です。ラスコーリニコフとスヴィドリガイロフ、ソフィヤとドゥーニャ。この四人が対比します。マルメラードフとラスコーリニコフの父親の思い出が導入部にあり、目を打たれる馬の話しはなんとも幻想的です。

ポルフィーリーとラスコーリニコフ、ウラズミーヒンとラスコーリニコフ。この軸で殺人事件を支える。ここでルージンという役者の存在が面白くありませんか。

この物語を途中で強制退場させられる都合の良い人物はしかし物語を成立させるリアリズムを支えています。物語の中で金銭的な問題を浮き彫りにする彼に与えられた役割は、散らばった演者達をある時期にある場所に集める。そういう役割です。それが物語を始めるのに必要だったのです。

初めからその場所に全員が居たのでは成立しない物語でした。これが映像的な時間と空間の広がりです。

これら四人の二重構造が交差し絡み合いラスコーリニコフとスヴィドリガイロフのふたりに集約します。この二人の対照的な、そして小説的な終わり方が、商品として必要でした。

誰があんな自殺を信じますか、あれは史実ではありませんよ、脚色です。ドストエフスキーの悪乗りです。筆が滑ったのです。つまり、あの時点でドストエフスキーは言いたい事は全て書き切っていたのです。

登場人物の中で、初めから終わりまで真っ当な人物がいます。ナスターシャの善良さ、ラズーミヒンの友情、ポルフィーリィの常識。これだけの真っ当さで描かれた人物が物語の軸として必要でした。

ヘーゲルの世界史的人物という思想、歴史的超人という思想は、恐らく当時の人々にとっては深刻な解決すべき問題だったのでしょう。同じように今の人にとっても解決しなければならない問題があります。どんな思想がではないのです、そういう思想がある事が肝心なんでしょう。

ラスコーリニコフが論文に書いた非凡人思想も、ソーニャのキリストへの信仰も、物語を進めるための駆動輪に過ぎません。それらは代替え可能でしょう。読み進めればキリストへの信仰でさえ心理描写を転調するためのきっかけでした。長い長い心理描写が始まれば読者はそれが行動を起こす前触れと知るのです。

何が罪なのか、何が罰なのか、それは語られる事なく物語は最後まで行きます。しかし、最後まで読んだ人なら微かな思いがあるでしょう。

この作品の全ては次の三つに集約します。ドストエフスキーが本当に書きたかったのはその三つだけと私は思うのです。

僕が殺したのです。

あなたが殺したのですね。

そして殺したんでしょう!殺したんでしょう!

行い、告白し、そして指摘される。これが物語のコアになります。ここが罪と罰なのです。ドストエフスキーの思索の後は次第に消えてゆきます。そして心理描写だけが残ります。

ここまで言えば、もうお分かりでしょう、ええ。みなさんが読んでいるのは雰囲気なのです。ドストエフスキーはそんなものを書くのに苦労したんじゃありません。

誓ってもいいですが、ドストエフスキーがこの作品をだらだらと書いたのは、毎月の掲載枚数を埋める為に過ぎません。それ以外のなんの理由もない。ええ、この際ははっきり言いますがね。薄っぺらいのですよ、貴方たちの読み方は。

誰も自分の事を善良でない人間と認める事はできないものです。もしそう口に出す人がいたとしても、それは嘘です。本人も気付かぬ嘘です。どれだけ懺悔しようと後悔しようと心の奥底にはどうしても壊せない小さな粒子が振動を続けています。それが私は善良な人間ですと言い続けているものです。

もう一度問うてみようではありませんか。罪とは何か、罰とは何か。罪とは生きていること、罰も生きていること。それ以外は考えられません。罰が人に降りかかります。だから人は罪を思うのです。罪がある、だから罰を受けるのではないのです。それは後から気付く因果関係に過ぎません。もっと言えば、そうやって安心したに過ぎない。罰がある。だから罪を探すのです。

思想も金も妄想も罪にはならない。罰でもない。生きているから罰がある。生きているから罪がある。では死ねばいいのか。死ねば罪は消えるのか、罰はそこで終わるのか。いいや、そうではありますまい。

罪も罰も人間が生きる本質には何も関係していない。

はっ、はっ、はっ、そう思いませんか。

あなたはドストエフスキーのエピローグを読みましたか?

これがこの小説の全てでありましょう。そして読者の誰もがここで騙されてしまいます。

このエピローグこそはドストエフスキーが読者を前にしてほくそ笑んでいる所です。君たちが望む気持ちのいい恋愛話なら私はいつでも書けるのだ。何の疑問もいだかなくて済む話を書くなど簡単な事だ。

だが私はそれを書かない、だから此処まで付き合ってくれたあなたたちに少しだけサービスをしよう。

エピローグはまさにそういう話ですよ。

それは救いでもなんでもないんですよ。かくも格好よく終わるなんて容易いものだと読者を前にして優越感を味わっている作者がいます。その姿が見えて来るじゃないですか。全ての読者がここで敗者になるのです。

罪と罰 あらまし - フョードル・ドストエフスキー
罪と罰 (上) あらすじ - フョードル・ドストエフスキー
罪と罰 (下) あらすじ - フョードル・ドストエフスキー

2013年12月13日金曜日

ジム - 機動戦士ガンダム

ガンダムとは、試作機へのロマンである。

試作機は従来のものより性能もよく、費用も掛けられ、最新鋭の理論、科学、技術、素材が投入され、試行錯誤の果てに完成する。もちろん試作機の多くはこれだ。

試作機の源流を求めれば鉄人28号機まで遡る。番号が示すものは失敗の数である。だが鉄人には量産機がない。それとは別にマジンガーZの系譜がある。一品ものの系譜である。

これは現実の工業生産品でも同様である。量産を目指した試作機、一品もののための試作、試作機のみで終わるもの。技術者の手に成る一品もの。通常はそれを趣味と呼ぶ。

一般的に工業品は試作機よりも量産機の方が優れている。試作機は、間違いと勘違いの試行錯誤であり、無駄と不効率と経験不足の集積物である。手探りと実験のためのアルゴリズムがパッケージングされていて、エンジニアが残業を重ね、家族とすれ違いながらひとつひとつの不具合を潰し品質を向上・安定させてゆく。

試作機と比べれば、量産機こそ、品質の向上、アルゴリズムの洗練、コストと性能のバランス、そして少しだけの妥協と課題の積み残しからなる完成体である。あらゆる面で試作機を凌駕するものである。

試作して見なければ分からない事は確かにある。しかし試作機に実装して量産機で落したものであれば、それは結論として不要だったのだ。コスト問題など開発が難航でもしなければやる前から分かっている話しである。オーバースペックはエンジニアの勝利とは必ずしも言えないのである。

と言う訳でガンダムが試作機の傑作なら、ジムは量産機の傑作である。そこにあるダサさ、チープ感、手抜き感は秀逸なデザインの成せる技である。同じ量産機でありながらザクとジムの違いはどうだろう。ジムはザクにも成れなかった。それはガンダムという試作機を頂点とするヒエラルキーの問題である。

ジムの模型を眺めていれば、ガンダムからのブラッシュアップを試してみたくなる。設定によれば、短期間の製造とコスト削減のために試作機から機能を削ぎ落したとなっている。削ぎ落せば通常は機能美の極致が生まれたりするものである。

各機は計画どおり、もしくはそれ以上の性能をもったMSであったが、そのままではコストが高すぎ、短期間のうちに量産できる仕様ではなかった。そこで3機種のうち近距離戦用であるガンダムの量産タイプとして、再設計されたのがジムである。後のムックや模型の解説書などの後付設定では、ジェネレーターの出力や武装および装甲素材などの性能をガンダムより落とすことで、前期生産型の生産コストはおよそ20分の1以下に抑えられたとされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジム (ガンダムシリーズ)

しかしジムの造形の難しさは、少しカッコよくするとバイファムになってしまう事である。これが難しい。ORGIN 版はジムをガンダムに近付けることで回避した問題であるがジムの元の造形をカッコよくする方法は今も発見されていない。ジムのチープ感は唯一無二でありこのデザインこそ傑作と言ってよく世界には未だこれを超えるものはない。

軍用の輸出版にはコストや国防の課題から性能を落とした機体がある。一般的にエコノミーと言えばパトレイバーに登場した機体であるが、あの機体の素晴らしさは作中では扱いよりもそれに対応するエンジニアたちの描写にある。あんなのが出てくるようじゃこの機体じゃダメだよなぁ。エンジニアの歴史はこの台詞の積み重ねなのだ。

この国はどうのこうのと言ってもエンジニアで成り立っている。デザイナーが流行りそうな気配もあるが、デザイナーもエンジニアも根っこは同じだ。エンジニアとは工業で働く人の呼び名ではない。サービス業であれ、農業であれ、漁業であれ、営業であれ、金融業であれ、スポーツであれ、デザイナーであれ、アニメーターであれ、映画監督であれ、メカニズムを思い描き、ああすればこうなると考える人、その上に論を重ねる人は誰もがエンジニアである。

だから分野が違えども分かり合える事がある。

試作機の開発秘話はもちろん風立ちぬで見たように面白い。そこから量産に向けてのエンジニアたちの物語がある。ガンダムからジムへ設計の変更をしたエンジニア達がどこかにいるはずである。設計を変更し、量産のために工場に出向き、そこで製造のためのディスカッションを行い、量産のための組立を行い、テストパイロットが登場し、性能問題での改修を行い、ロールアウトに向けて営業が売り込み、採用側と折衝を重ね、ライバル機との争いに勝ち、そういうものとしてジムを描いたらさぞ面白そうだ。

漫画のパトレイバー(ゆうきまさみ)がそういうエンジニアの普通をもっともリアルに描いていると思う。