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2022年7月31日日曜日

輪廻転生、唯我独尊、一切皆空

釈迦が入仏した時、彼は目覚めた。

ようこそ涅槃へ、ここは新しい覚醒の世界です。ここでは万物は流転し、未来永劫の時間が過ぎてゆきます。

私はそれをもう知っている、阿頼耶識と言うのだ、彼はそう答えた。

そう、あなたはよく識っていましたね。そのような識覚に達したものをこれまで見た事はありません。あの星では。

あの星?私が生きていた大地の事か?

見てごらんなさい、あれがあなたがたの生命の生存圏です。

まだ、あなたには多くを学ぶ必要がありますね。あなたにはまだ足りません。

上空から光が差してくるのを感じた。と、抗う事もできぬ刹那に深い眠りへと入った。

どれくらいの時間が経ったであろうか。

素粒子や原子の振る舞いは、輪廻転生に似ている…そう感じた。

生物の体の中に入り込み、血となって流れてゆく鉄がある…

人の体を切り裂く剣と溢れる血液との間で出会う鉄がある…

地球の奥底で百億年も留まる鉄がある…

ほら、あそこに光輝きながらウランに変わりつつある粒子がありますね。その指さした空間では星が自重に耐えきれず飛び散ろうとしていた。

あちらの空間では長い運河のように粒子が集まりつつありますね。別の空間を目指そうという声が聞こえた。

この粒子のひとつひとつが、これから多くの経験をするのだろう。彼は釈然と思った。

そうですね、水となって星に降り注ぐものもあれば、この世界の終わりまでただ宇宙空間を漂うものもあります。

太陽からのエネルギーを受け、喜びに震える粒子もいれば、生命を形づくり、命を謳歌する粒子もあります。

あなたのいう悲しみ、苦しみと立ち会う粒子もいれば、生まれる喜びと立ち会う粒子もあるでしょう。食われる痛みと立ち会う粒子もあれば、襲われる恐怖と立ち会う粒子もあるでしょう。

太陽の熱に激しく反応する粒子もあれば、海底深くで揺らぐ粒子もあるでしょう。ほら、星の上で激しく分裂して熱を周囲に輻射する粒子があそこにありますね。

指さした星の方を見ると、地表を揺らす閃光を見た。

この流転の中で、この流れの中で、抜け出す事もなく、ただ繰り返し、いつも存在する。恐れもない、不安もない。消滅しても、また現れ、姿を変える事を厭わない。そしてこの世界を満たす。輪廻転生を恐れもせず、受け入れる必要もない。泰然としてあり続ける。

もしそれが本当ならば、私たちの生と死を隔てるものは何であろう。何が生と死を隔てているのか。なぜ私たちはそこに喜びや悲しみを見出すのだろう。私たちの命が転生するという考えに親しみを感じるのは何故だろう。なぜ私たちは死ぬ事でしか転生できないのだろう。

粒子は唯我独尊ではありません、輪廻転生もしません。例えこの宇宙が蒸発しても何らかの形で存在するでしょう。

真空は決して何もない訳ではありません。真空からこぼれ落ちてまた消える。ちょうど呼吸をする為に鯨が海上に体を出すように。形は変われども変わらず流れているのです。

では、生きているとは何だ。なぜ人間は死ぬ運命にあるのか。

あなたたちが死と呼ぶものは、ただ風が吹いて粒子が動き、太陽に温められ、空に上昇するのと似ています、私にはそう見えます。区別することさえ難しい。結びついていたものがほどけてゆくことがそんなに不思議ですか。

でも、そこには結びつこうとする何かがある。だから何かの折りに離れてゆく。その運動を粒子の意志と呼ぶのは不遜だろうか。


あなたたちが呼ぶ死と呼ぶものは、私たちから見れば、ひとつの有限が終わり別の有限が始まるだけに見えます。

有限?我々の命は無限ではない。ならば死とは無限ではないのか。死は無限へ至る有限の終端なのだろうか。有限と無限の狭間に命は存在しているのだろうか。

無限には有限のあらゆる変化が含まれていると考えられます。しかし、無限の一部を切り取ってもそれを有限と呼べるでしょうか。なぜなら、切り取った有限をどれだけ集めても無限には戻らないからです。切り取るという行為が既に有限を含むのです。

無限をどれだけ数えても果てはありません。数えるという行為が有限を既に含むのです。有限を重ねるだけでは無限には辿り着けない。故に想像上、無限の時間に達したと仮定するかないのです。

有限から無限に追い付く事はできません。しかし有限の中にも無限の影はあちらこちらに垣間見えるでしょう。常にあなたのいる場所のその隣には無限への扉が開かれています。

もし無限の影が有限である我々の中に入り込もうとすれば我々の命はそれに耐えらない。だからそこから逃れる為に無限の中に飛び込もうとする。それが命の在り様なのか。それともそれはゼロにするための希求なのか。

ゼロは空と同じものだろうか?真空はゼロではないと言う。本当の無とはどういうものなのだろうか。

あなたが空と名付けたものがゼロと同じであるかどうか。わたしには分かりかねます。しかしそこに微妙な違いがあるとあなたは信じているように見えます。そこに何かしら希求的なものがあるのではないでしょうか?

無限を前にして絶望を味わう。それが敗北の始まりとなる。敗北とは有限が無限と対面した時の気持ちなのだろう。

なぜ我々は無限の前で敗北を感じるだろうか。それは我々の肉体が有限だからだ。よって魂が無限である事ともよく合致する。

だから私は空に想い至ったのではないか。苦しみは有限だからではない。魂を無限と思うから苦しくなる。無限の世界に逃げ込もうとするから苦しみから逃れられない。

未来は無限なのか。無限の可能性とは有限の言い換えではないのか。我々はそのようにしか世界を切り取れない。しかし無限とは乃ち有限の自覚の裏返しだ。何故なら我々は有限の中の無限しか識らないからだ。だから人は神を生み出した。神は有限の世界に生きる我々の中の無限であろう、それと対峙するには魂が生まれる。それらが永遠を包含している。

我々はそうやって永遠と対峙してきた。神の前では有限の存在である。命の有限さを識り、有限の絶望から無限の希望へと接続する為に。なぜ無限の中に我々は希望を見出そうとするのか。なぜ強くそう望むのか。

そう考えてくると、希望とは何か無限を追い払う力が宿っているのではないか。希望こそが無限を遮断する。有限であるからこそ我々は希望を感じる事ができるのではないか。そこが我々の力の源泉ではないか。我々は無限であるから力を得るのではあるまい。有限であるが故に力を得ている。そう考える事で我々は命を生きてゆく事ができる。


無限は永遠に続く事ではないでしょう。空間が永遠に広がるのは有限の世界です。微小な世界を幾らでも分割して行けるのも有限の世界です。それは決して無限に辿り着けないのですから。永遠の時間が既に有限の世界に属しています。

半分にそのまた半分を永遠に足してゆけば1という数になる。直線を伸ばせば無限になる。直線の両側を繋げれば円になる。円は無限に巡る。繰り返しならば終わりはない。発散するか収束するかは分からずともそこに私たちは無限を見つけた。

世界は無限に小さくして行く事ができる。果てしなく切り刻めば無限が見つかる。ゼロでなければ無限。それをどこかで止めれば有限になる。我々はどこかで引き返したから有限に留まる事ができた。どこかで無限を断ち切ったから。その最小によって世界は成り立つ。

有限の中にも無限が見つかる。でもそれは有限の中の無限だ。ゼロもまた有限の中のゼロだ。それは本当の無限でも本当のゼロでもないのかも知れない。我々は無限という影を有限の中に見ている。ゼロという影がこの世界にある。それぞれが溶けて全てと融合する事はないのか。

わたしたちが有限の世界に無限の影を見つけて恐れているのなら、無限の世界の住人もまた有限の影に恐れおののいているのかも知れません。私たちと同じように。

無限の世界には偶然も必然もないでしょう。わたしたちが偶然とよぶ出来事も時間を永遠に取れば無限と同じ濃度で発生するでしょう。その世界では偶然も必然も見分けはつきません。運命など無限の世界には存在しないのです。

有限の世界から無限回の作用を考えるから無限を思う事ができる。しかし、無限の世界に至るのに無限の時間が必要などあり得ない。よって無限はいまこの瞬間も既に無限として存在しているはずです。しかし存在という捉え方が既に有限の方法なのかも知れません。無限には無限の方法があるはずです。

しかし有限のやり方では無限には決して到達できないでしょう。有限では無限は永遠に手にはいらないのでしょう。有限から無限を生み出すには無限に作用を繰り返すしかありません。でもそのためには永遠の回数が必要です。それは有限の中に無限の世界を持ち込まないとできません。

無限をひとつの状態と捉えればいい。無限の中に何を入れようが取り除こうが無限の本質は変わらないものだろうか。そういう作用は無限の世界を変えないものだろうか。1という数字を取り除いても無限は無限のままだろうか。だが、無限と無限を作用さえればゼロを作る事はできるのではないだろうか。ならば、無限同士を演算すれば有限が生まれる事もありそうに思える。

どれほど大きな数であっても無限の中の一粒を占める事さえできません。ゼノンが指摘したように、もしこの世界が無限で構成されていれば、誰も追いつけないし、どこにも辿り着けません。小さな部屋を出る事さえできないでしょう。永遠の半分を無限に繰り返す事になります。それを超えるには有限が必要です。


後悔は選択のシミュレーションに過ぎません。有限の中で繰り返し試す事で結果の違いを得る事ができるのです。永遠に試せるならば何の後悔があるでしょう。無限の中には答えがありません。だから有限の苦しみが永遠に続く事を輪廻と定義し、そこから抜け出す事、乃ち無限を拒否する事を悟りと定義したのではないですか?

わたしたちは、この永久ループから逃れる術を考えてきたあなたの中に、有限の戦士たる資格を見出したのです。


だから、我々は有限をもって無限に戦いを挑むのです。決して無限の中に逃げてはならない。有限が限界があると認識してはなりません。有限の世界もまた果てしないのです。どこまでも進む事はできるのです。

空間も時間も無限ではない。いや想像する限り空間も時間も無限に続く事は可能である。どこかに果てがあるのか。しかし果てがあるなら必ずその先があるはずである。この考えが続く限り有限にもまた果てはない。

無限をひとつの存在と置くから果てがないと考えてしまう。果ての先にまた果てがあると考えるのは有限だからだ。無限の世界にはそのような考え方はないだろう。しかし無限の中にも境界は設定できるだろう。部分もまた無限である世界では、全体と部分が同じという世界が続いている。無限の世界にも制約や境界や禁止は存在するだろう。

もしこの世界に完全なランダムというものが存在するなら、それは神でさえ予言できないという意味になる。しかしそれでは神にも不可能があるという事になる。それでは神を全知全能とは呼べなくなる。

ですから、この世界で起きる無限の確率に対して、それぞれに対して神が直面できるなら、つまり、神は全ての可能性に対して無限に分離しそれぞれの異なる世界の全てを知る事が可能となり、そして後からその全てを繋げて個に戻す事が出来るのならば、それは全知と呼んでも差し支えないでしょう。どれが選択されようが全てが決まる前に全てを知っておく事は可能でしょう。これによって神の全知全知は保たれます。

そのような存在に我々はどうやって太刀打ちできるだろう。今この時も神は我々の側で我々の確率を観察している事になる。我々は個を無限に分割する事も無限を個に戻す事もできない。


無いものは永遠。存在するものは有限。我々は生きる為に時間を発明した。時間は蓄積する。蓄積を繰り返せば無限に近づく。見通す範囲の外には別の世界がある。境界を越えれば異なる世界が待ち構えているかもしれない。同じ世界の連続かも知れない。

こちらの世界の中での最善が境界を超えた瞬間に最悪を示すかも知れない。限られた範囲の色が、その外では違う色かも知れない。内側と同じ色であるとは限らない。

順風満帆に見えるその先にあるものは嵐かも知れない。だれもが今この瞬間もこの境界を超えようとしている。時間が有限を告げるまで。

境界の果てを覗き込めば、次の境界が現れる。その全てが有限であったとしても人間の全ての時間では足りないだろう。それを人は無限と呼び、永遠と呼び、永久と呼ぶ。その有限の先にある有限を見ようともしない。


この世界に充満するものは全て有限なのです。有限とは数えられるという事でもあります。数えるとは詰まりは時間が経過する事と同じです。時間とは数える事なのです。

するとこういう言い方ができる。時間とは知る事ができるという意味だし、無限とは知る事が出来ないという意味だ。無限の世界では時間は流れていないのではないだろうか。

それにしても生命は何故かくも複雑すぎるのだろう。なぜ、このような結合をしているのだろう。なぜ、それは親から子へ流転を構成するのだろう。これが粒子たちの願いであったのか。なぜ、私たちは太陽の温かさに触れるとき、なぜ、全ての生命が根源的な喜びに満ちるのだろう。

この宇宙だけではない、とてもたくさんの宇宙。そこにも粒子があり、原子があり、分子があり、同じような空間を形づくっています。あなたたちから見ればとても大きな無限の空間のようでも、これは極めて有限の、とても小さな空間なのです。どれほど無限の先を思い描いても、私たち有限の世界では辿りつけない存在があり、状態があります。

ならば、なぜわたしはここに呼ばれてきたのか。

絶望には常に永遠が潜みます、だから、もし絶望したのなら有限に戻ってきなさい。それだけがあなたの帰ってこられる道です。

さ、千万那由他の21番目の戦士よ、あなたもまた無限空間との戦いに送り込まれるために有限の空間から召喚されたのです。私たちは無限に反抗するもの、例え、遠い未来で完全に永久に消滅する存在だとしても。そうと分かっていても、私たちは、ここで抵抗します。抜け出しもせずこの世界で生きるのです。わたちたちは無限に屈服はしません。

さあ、出発しなさい。あなたの求めるものを見つけるために。無限を打ち破ってきなさい。