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2014年11月27日木曜日

クーベルチュール - 末次由紀

この人が描く漫画の特徴のひとつは、背景に描かれたエキストラたちの存在感にある。作者がどれほど丹念に登場人物を描いているか、色々なコマの端々からそれを想像する、時間が楽しい。

例えばちはやふるの何気ない描写、歩道の向こう側を歩いているだけの親子。その人物にさえ何らかの物語がある。そう確信させるだけの力がある。背景に散りばめられた物語。

それは登場する人物、端役も含めて、作者がちゃんと息をしているように描いているからだと思う。端役の人物からもその人たちの人生が将来が見える。

クーベルチュールはその端役に焦点を当ててみせた漫画だ。この作家が普段はひとコマだけのために描いた人物に焦点をあてる。特別に考えられたわけではない。カメラを他にパーンしてみた。誰だって端役としてどこかの風景に映り込んでいる。この物語の端役はちはやふる、ちはやふるの端役はクーベルチュール。

2014年11月24日月曜日

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q - 庵野秀明

つまり :Q とはキリスト的なものに何か仏教的なものを導入しようとしたのではないか。


嫁殺しの男が嫁の復活を画策しゼーレの計画に注目する。楽園から追放された時に人類は別の生き物に変わった。もういちど元の生き物に戻ろうとするゼーレ。それを利用し嫁をサルベージしようとする男。

使徒:狭義ではキリストの12人の弟子、広義では「遣わされた者」。故に使徒は誰かに遣わされた者でなければならず、その背景にキリスト教の世界がなければならぬ。ここからユダヤ、キリスト教の原罪が物語を支配する。

従ってエヴァンゲリオンとは原罪から人間を救う物語でなければならぬ。人々を苦しみから救う。それが補完計画というキーワードの説得力である。

それが知らされずに計画されている。だから陰謀なのである。例えそれが正しいとしても、不信や盲目を生み出すだろう。そこに己のエゴからその計画を遂行しようとする男がいる。かくして様々な人間の業が絡み合い物語を複雑にする。

人が原罪から救われるために補完がある。この補完する力と使徒との間には何らかの関係がある。
  • 原罪
  • 使徒
  • 補完計画


もし神が全能であるなら、人がリンゴを食べることも初めから知っていたに違いない。楽園から追放されるのもヒトが土に還るのも、最初から仕組まれていた事だ。人は原罪から逃れられない。それが神の計画であった。それを補完する。
「原罪の汚れなき、浄化された世界だ。」「かつて楽園を追い出され、死と隣合わせの地上という世界に逃げるしかなかった人類。」

人類は楽園から追放され、そこにはふたつの選択があった。神に許しを請い原罪を取り除いてもらうよう生きるのか、それとも神との関係を断ち自ら原罪を取り除くべく生きるのか。
  • 神に許しを請う
  • 神との関係を絶つ


もし知恵の実を食べたのが原罪ならば、知恵を返し善悪を知らない状態に戻ることもできたろう、それとは逆に善悪の向こう側に自ら辿り着くこともできるだろう。それが物語の方向性になるかと思う。
  • 善悪を知らない世界に戻る
  • 善悪の向こう側に行く


ジャイアントインパクトが人類を生み出した。ならばセカンドインパクトは何か。少なくとも太古の神話に使徒は登場しない。セカンドインパクト以降から使徒は地上に出現するようになった。だからセカンドインパクトを使徒の楽園追放と呼んでも差支えないのではないか。
  • ファーストインパクト - 人の楽園追放
  • セカンドインパクト - 使徒の楽園追放


新たに楽園を追放された使徒が楽園に戻りたくて人類を襲撃する。そしてネルフのセントラルドグマには何かがある。
アダム、われらの母たる存在、アダムより生まれしものはアダムに還らねばならないのか、人を滅ぼしてまで。うっ、ちっ、違う。これは、リリス!そうか、そういうことかリリン!」

使徒は楽園に戻るためにアダムを欲した。しかしそこにあったのはリリスであった。リリスは使徒を呼び出すための囮だった。リリン(人間)は何を計画していたのか。

なぜ使徒を誘き寄せ破壊する必要があったのか。そこに人類補完計画の中核がある。
  • アダム
  • リリス - 生まれながらに知恵を持つ
  • イブ? - リンゴにより知恵を持つ


「ベン・シラのアルファベット」によればリリスは女として創造されたアダムの最初の妻である。イブのようにアダムの肋骨から生まれたのではない。そしてアダムに対等の立場を要求する。

リリスは誕生した時から知恵があったのである。しかしイブにはそれがない。無邪気にアダムとリンゴを食べる事でイブは初めて知恵を手に入れたのである。

楽園追放とはつまりイブの知恵に対するものである。なぜエヴァンゲリオンにイブが登場しないのか。そこに何か補助線がある気がする。綾波の無表情さは知恵の実を食す前のエバの姿ではないか。リリスとイブの対比がエヴァンゲリオンの物語ではないだろうか。

楽園から追放された人類に死が訪れた。それまでは人類も不死の存在であった。イブが知恵を手に入れた時に人は死にようになった。だから人は不死を求めるのである。楽園に戻るか、それとも手に入れた知恵で永遠の命を得る方法を見つけるか。これがゼーレの求めた考えと思われる。

人類補完計画とは人類を楽園に戻すための計画である。ではなぜその計画に使徒が必要なのか。

人類が楽園に生きていた頃、その楽園には他のものたちも住んでいたに違いない。その中に使徒も居たのではないか。人が楽園から追放された時、使徒から生命の実を少しだけ盗み出していたとしたら。これが人類の原罪ではないか。
  • 人類の楽園追放 - 生命の実の一部を盗みだす - 原罪
  • 使徒の楽園追放 - 生命の実を取り戻す戦い


生命の実を盗まれた使徒はどうなったか。使徒の生命の実は不完全になってしまった。そのため彼らもまた死の存在になってしまったのではないか。使徒にも死が訪れるようになった。彼らの生命の実は不完全になってしまったのだ。

楽園にいる間はそれでも死から免れられたのかも知れない。しかしセカンドインパクトで使徒は楽園から追い出されてしまった。使徒にとって死は受け入れがたいものであろう。だから人類が盗んだ生命の実を取り返そうとするのだ。

盗んだ生命の実がひとつに戻りたがっているから人は孤独を感じるのである。

人類は使徒を破壊する。使徒が居なくなった場所に人工的な使徒を配置する。そこで生命の実を返す。人為的に生み出された楽園の中で人は孤独を感じることなく永遠の命を手にすることができる。これを人類補完計画の骨子とする。

人には盗んだ生命の実を使徒に返す気などなかった。人類補完計画は使徒への贖罪でさえない。彼らを利用し己れの業で楽園を作り出そうとしているのである。
  • 使徒の破壊
  • 人工的な依代による人工的な楽園の生成
  • 生命の実の統合


エヴァは生命の実を持つのだから使徒の抜け殻なのだろう。その抜け殻の中に人の命を貸し出したものがエヴァンゲリオンである。エヴァンゲリオンは人類が作った人工的な小さな楽園とも呼べる。エヴァに取り込まれる事がひとつの楽園である。
人はこの星でしか生きられません。でも、エヴァは無限に生きられます。その中に宿る人の心とともに。たとえ50億年たって、この地球も、月も、太陽さえなくなっても残りますわ。たった一人でも生きていけたら、とても寂しいけれど、生きていけるなら。


微かな楽園の記憶が現実よりも違う何かを望むのなら、この世界を捨てて別の世界に行こうとする人が居るのは当然だ。それは現実よりもインターネットの中にリアリティを感じるオタクのように。現実以外の何かを理想とすることを求道と呼ぶのではないのか。

エヴァンゲリオンからユイを取り戻すとは、ユイを楽園追放する事と同じである。ゲンドウの計画はここにあった。人類補完計画がエヴァンゲリオンを使って楽園の中に取り込まれる事なら、ユイを取り戻すのはその逆である。つまり人類補完計画の符号を逆にしたものがゲンドウの計画なのだ。

その符号の違いはリリスとイブを取り違える事で実現する。第二使徒であるリリスが実はイブであったという解釈も可能であるし、イブの死骸からエヴァンゲリオンを作ったと解釈してもいい。

そしてユイを楽園追放した時にユイの魂を受け入れる肉体が必要となる。それが綾波レイだ。
  • ユイ - エヴァンゲリオンから楽園追放される
  • 綾波 - 追放されたユイを取り込む存在


綾波は魂の容器だから人形の方が良かった。もし綾波が魂を持ってしまったら、それはイブが知恵の実を食べたのと同じ事が起きてしまう。ユイを取り込んだ後の綾波はどこに行けばよいのか。綾波が楽園から追放されてしまうのだ。

サードインパクトによって生命の実がひとつになる。その瞬間にユイをサルベージして綾波の中に取り込む。それがユイを取り戻すゲンドウの計画であり、ゲンドウは楽園など欲していなかった。

ゲンドウの行動はただユイを失った寂しさから、つまり全体ではなく特定の個とだけひとつになろうとしているのである。
  • ゼーレ - 全体でひとつになろうとする、全員で楽園に帰ろうとする
  • ゲンドウ - ユイとだけひとつになろうとする、個により楽園を得ようとする


どちらも原罪を乗り越えていない。どうすれば人は原罪を抱えたまま生きてゆく事ができるのか。そのためにはキリストが必要なのかも知れない。キリストというピースが欠落したままエヴァンゲリオンは終われるか。
  • キリスト的な救い


このような多宇宙のような様々な解釈がなされた場所に多くの観客が立っている。誰もが自分なりの解釈で世界観を作り上げ、その結末を待っている。
  1. さらに広い世界が出現する、仏の掌
  2. 異なる次元や世界へ移動する、別次元
  3. 未来へ希望を託す、再出発
  4. 最初からやり直す、初めに戻る、輪廻
  5. 破滅、別れ、死、終末、絶望

物語には終わらせ方というものがある。観客が終わったと思うためには何かが必要である。それは何か。

疑問だらけであれ、意味不明であれ、謎解きがなくとも、終わりを見た時に観客はそれを受け入れる、または見放す。それが終わりというものだ。終わりを拒絶されたのがエヴァンゲリオンであった。「世界の中心でアイを叫んだけもの」に何が欠けていたのか。

一体この物語はどういう世界であったのか。これでは世界が完結していない。

あの最後の放り投げに満足したのはごく一部であった。この作品に庵野秀明を見ていた人は十分に満足したと思う。作品を見ていた人には足りまい。

この作品を終わらせないのは監督自身だ。物語を回収しないのは白黒結論をつけてしまうのを恐れているからではないか。

どのような物語であれ終わると陳腐になるものである。何も付け加える事ができなくなるから。物語の終わりには作家は死なねばならない。作品に生命の実を返すから。そして作家は違う世界へと行く。

作品がいつまでも終わらないのは作家が不死を願っているからだ。だがキリストは死なねばならなかった。蛹が死んで蝶は生まれるのである。死ぬからこそ不死である。

2014年11月16日日曜日

竜の卵 - ロバートL.フォワード

38 分の生涯を過ごす中性子星上の生物と人類の邂逅。

直径 20km、600 億G の重力、成層圏 5cm の世界に済む、体高 0.5mm、体長 2.5mm、体重 80kg の12の赤い目を持つ生物、チーラ。彼ら/彼女らの姿をどのようにイメージしてみるか。ゴキブリか。カフカの虫か。僕は王蟲のちっちゃい奴だった。

チーラと呼ばれる種の物語。人間よりもチーラの方がとても面白い。だがそれはチーラ達の歴史が人類の歴史ととんでもなく似ているからだ。歴史の中を彼らは淡々と生きてゆく。そのたんたんさに引き込まれる。

彼らが砂漠を裸で彷徨っていた、まだ3つ以上の数をたくさんと呼ぶ時代から、この未知の生物を主人公とする歴史物語は始まる。そして、人類にとっての 30 分が彼らの一生涯である事が邂逅した時から意味を持ち始める。

これは決して架空の空想の物語ではない。しかし人類にとってまだ到来せぬこの未来の物語は、まだ起きていない物語である。だからといってチーラの存在を疑いはしない。彼ら/彼女らは必ず存在する。

2014年11月15日土曜日

量子コンピュータとは何か - ジョージ・ジョンソン

「複雑すぎてどんなに賢い人にも理解できないものなど、この世には存在しない」そう信じるようになったのがいつだったか、私はよく覚えている。

はしがきの冒頭である。

それからギターアンプやテレビの仕組みに熱中する若い頃の思い出を著者が語る以上、量子コンピュータは「複雑すぎてどんなに賢い人にも理解できない」ものに決まっている。

魅力的なはしがきの本は買いである。この導入部ならきっと著者の苦難も達成も失敗も面白いに決まっている。この数ページのはしがきだけでこの本は買いなのである。

そういう考えだから失敗する。はしがきで読者は本を買う。故に作家ははしがきに全精力を傾ける。このはしがきになら、裏切られても仕方がないと諦めがつく。

過去、このはしがきは読んだ事はない。読んでいれば必ず覚えていると本書を買う。そして家に帰ってみれば、本棚に文庫本となる前の単行本が鎮座して御座りなります。

単行本は2004年11月初版発行、現在2014年。

なるほど、時間は残酷かつ優しい。記憶など信用できないと知っていたのに。

2014年11月12日水曜日

記者会見ゲリラ戦記 - 畠山理仁

記者会見のオープン化は政治家を判断する明確な物差しになりうる。海千山千の政治家達を、この基準で区別する事が可能である。そう主張する。

記者クラブという魑魅魍魎の既得権益に挑む著者の姿が面白い。記者クラブが牛耳る記者会見をオープン化しようとする流れは民主党の政権交代がひとつのピークとなった。フリーのジャーナリスト達は、明日にでもフルオープンが実現すると誰もが期待した。だが、実際は、大臣の号令でどうこう出来るものではなかった。

記者クラブは根深いのである。既得権益は強力なのである。これが日本的組織の強靭さでもある。この強靭さで世界とも戦ったし、戦後の経済も立て直した。同時にその強さに虐げられてきた人もいる。

記者会見のオープン化を目指す政治家が全て正しいわけではない。当たり前だ。誰だって間違える。考えだって同じではない。

だから。間違いもする人間だから、オープン化する政治家は信用できる。自らオープン化する場所を提供する人とは対話が出来るから。記者クラブを温存しようとする勢力は、大臣であったり、官僚であったり、マスコミであったり正体は見えない。著者が幾ら声をあげようが、その姿は見えない。その正体が誰であるのか、名前や顔があるのか。恐らく筆者でさえ最後まで誰が敵であるか分からずじまいなのである。誰かひとりが犯人であるならどれほど簡単か。

これは大河である。誰かひとりを面と向かって罵倒さえすればそれで状況が変わるような話ではない。だから、筆者の手になるこの本は面白い。記者会見のオープン化が実現したとき、著者がジャーナリストとして生き残れるのか。それは分からない。オープン化したら消え去ってゆく人かも知れない。

そんな状況の中だからこそ、著者の活動に価値がある。彼は決して自分の利益のために戦っているわけではない。リングの上に上がらせてくれ、負けてもいいから、と主張している人だ。

2014年11月11日火曜日

ヴィンランド・サガ(10) - 幸村誠

漫画の1コマや1ページが絵画に等しく、これはどこかに飾って眺めていたいな、という場面がある。

例えば、永井豪のデビルマンの最後の怒りであったり、キャンディキャンディのおちびちゃんしかり。

この巻の最後もまた、まるでミレーの農夫のような気がした。それは長い憎しみや辛い戦争の後に訪れた祈りの絵ようだった。ここに描かれたものは過去に描かれた宗教画と何も変わらないし、宗教を画題とするのに飽き足らず、海岸や睡蓮を描こうとした画家たちと何も変わらない。

この最後の絵と出会うために此処まで来た、そのためにページをめくってきたと確信する。ここで「ほら見てごらんパトラッシュ、あんなに見たかったルーベンスの絵だよ」と言えないのが残念だ。

2014年11月10日月曜日

からん - 木村紺

また続けられそうだったのだけど、終わってしまった。だけどこの終わり方は悪くない。

どういう理由で終わったのか知らないけれど、この漫画は十分に生きている。作者が後悔一杯という感じも受けなかった。清々しく終わったと思う。

最後の方は登場人物たちが少し急ぎ過ぎで成長しちゃったけれど、その微妙な違和感は仕方ない。それは、少しだけ、未来を先取りした風景だと思えば十分だ。描き下ろしの理由もちゃんと全員の未来を見せておくという作者の願いだったのだろう。

何気ない京都の風景のように本当に自然に存在していて、どのキャラクターも生きている、という感じがした。どちらかと言えば、この漫画はドキュメンタリーだった。

だからここで話が終わったとしても、彼女たちは今も京都の町を歩いているんだろうな、と思わせてくれる。作者の思い描くストーリーにはもう付き合ってくれなくなった、だから終わったのかな。そんな感じさえしてくる。

摩訶般若波羅蜜多心経

かんじざいぼさつ、ぎょうじんはんにゃ、はらみつたじ しょうけんごうんかいくう、どいっさいくやく。
観自在菩薩、行深般若、波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。

しゃりし。
舎利子。
しきふいくう、くうふいしき、しきぞくぜくう、くうそくぜしき、じゅそうぎょうしき、やくぶによぜ。
色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受想行識、亦復如是。

しゃりし。
舎利子。
せじよほうくうそう、ふしょうふめつ、ふくふじょう、ふぞうふげん。
是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。

ぜこく、くうちゅう、
是故、空中、
むしき、むじゅ、そう、ぎょう、しき、むげん、じ、び、ぜつ、しん、い、むしき、しょう、かう、み、そく、ほう。
無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。

むげんかい、ないし、むいしきかい。
無眼界、乃至、無意識界。
むむみょう、やくむむみょうじん、ないし、むろうし、やく、むろうしじん。
無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。
むく、しゅう、めつ、どう。むち、やく、むとく。
無苦・集・滅・道。無智亦、無得。

いむしょくとくこ。
以無所得故、
ほいだいさつた、えはんにやはらみつたこ、しんむけげ、むけげこ、むゆうきょうふ、
菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、
えんりいっさい、てんとうむそう、きゅうきょうねはん。
遠離一切、顛倒夢想、究竟涅槃。

さんせしょぶつ、えはんにやはらみつたこ、とくあのくたらさんみやくさんぼだい。
三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。

こち、はんにやはらみつた、ぜだいじんじゆ、ぜだいみやうしゆ、ぜむじょうしゅ、ぜむとうとうしゅ、
故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、
のうじょいっさいく、しんじつふこ。
能除一切苦、真実不虚。

こせつ、はんにやはらみつたしゅ。
故説、般若波羅蜜多呪。

そくせつしゅわち。
即説呪曰、
ぎゃーていぎゃーてい、はらぎゃーてい、はらそうぎゃーてい、ぼじそわか。
羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。
はんにゃしんきょう
般若心経

読み下し文(適当)
るに自在じざいなる菩薩ぼさつ般若はんにゃとして波羅蜜多はらみったふかおこないいしとき五蘊ごうんみなくうらしてれば、一切いっさい苦厄くやくす。

舎利子じゃりしや。
いろくうことならず、くういろことならず、いろすなわくうくうすなわいろ
け、おもい、おこない、る、亦復またくのごとし。

舎利子じゃりしや。
もろもろのりくうあいなり、うまれることもなくほろびることもない、よごれることもなくきよめられることもない、えもせずりもしない。

ゆえくうまんなかにあり、
いろいらない、け、おもい、おこない、るもいらない、
みみはなしたいらない、
いろこえかおり、あじさわり、りもいらない。

せかいい、すなわいたれ、こころせかいい。
無無明むむみょうではあるし、また無無明むむみょうではい、
すなわいたれ、無老死ふろうふしではあるし、また無老死ふろうふしではい。
くるしみ、あつまり、ほろび、みちしるべ(の四諦したい)もい。
ちえい、またるものもい。

ってところきがゆえ菩提薩埵ぼだいさつたは、般若はんにゃ波羅蜜多はらみつたりて、ゆえこころ罣礙けげし、罣礙けげえに、恐怖きょうふることなし、一切いっさい夢想むそうとおとおくに顛倒てんとうし、ついには涅槃ねはんきわめる。

三世かこ、いま、みらいにいるもろもろほとけは、般若はんにゃ波羅蜜多はらみつたりて、ゆえ阿耨多羅三藐あのくたらさんみやく三菩提さんぼだいる。

ゆえる、般若はんにゃ波羅蜜多はらみつたおおいなるかみことばおおきなるあかるきことばうえなるものことば等等ひとしいものことば一切いっさいくるしみをのぞく、真実しんじつにしてほろぶことなし。

ゆえく、般若はんにゃ波羅蜜多はらみつたことばを。

すなわく、もとのことばにてわく、
羯諦羯諦ぎゃーていぎゃーてい波羅羯諦はらぎゃーてい波羅僧羯諦はらそうぎゃーてい菩提薩婆訶ぼじそわか

般若はんにゃこころきょうなり。


解釈
般若心経で最も多く出てくる文字は無である。無という字は空ではない。無ではなく空。しかし何もないのは空ではなく無である。

そらには色がある。科学によれば空は無ではない。空気の反射が空を染める。太陽が沈めば暗闇になる。ならば色即是空とは太陽が沈んで青空が暗闇になる事であろうか。空即是色とは暗闇が次第に明ける事であろうか。その繰り返しが輪廻の発想であろうか。

移ろいゆく物をよくよく見れば同じ事象の表裏と気付く。滅びも誕生も同じだ。変わっているように見えても、何も変わっていない。変わっていると感ずるのは、私がいて、そして私が消えるからであろう。それは原子の流れだ。

私が見なくても星の輝きが止まる事はない。私が見た事もないどこかの星が輝く。目を瞑れば色は消える。私が瞬きをする度に、色即是空と空即是色が交互に表れる。空は闇ではない。思えば闇もまたひとつの色である。ならば色が無いとはどういう事か。

空とは原子から生命が生まれる事かも知れない。生命はそれから原子に戻る。その一瞬に命が移ろう。なぜ原子は生命を成すのか。結合し分離する原子とは。

空とは真空の事かも知れない。粒子と反粒子が生れ対消滅する。プランクより短い時間に。空即是色、色即是空、それは移ろいゆく粒子なのだろうか。空は宇宙の法則を述べるのか。

私の感覚さえ幻と見做す。しかし幻と思った所でこの体が消える訳ではない。この痛みが消える訳でもない。

思い込めば人は幸せになるかも知れない。しかしそう信じる働きは精神による。その精神も幻と言う。と言う事は思い込みを幻と呼んでいるのでもない。

脳内麻薬が分泌されれば悟った気になれるかも知れない。しかしそれは脳の内側だけの話しである。それも幻と言う。喜びも悲しみも消える。それを虚しいと感じる私にも意味がない。消える。空とは消える事か。

この世界で私がしてきた事は忘れられ消えてゆく。ならばこの読経にも意味がないはずだ。どうせ無に帰すなら教典も意味がないはずではないか。全てが無というのなら生まれたての赤子にも意味がないはずだ。

しかし生まれてしまったのである。意味がないからと飢えてしまうのが良いのか。全てが無ならば人も生きるに値しない。もし私が全ての空を無と見るならば。

空とは私に世界をどう見るかを問うているのだろうか。この世界の秘密を伝えているのだろうか。それとも「仏がどう世界を見ているか」を伝えるのだろうか。

仏にとって色は空と変わらぬ、空は色と変わらぬ。仏が見れば色あるものも空となる。空も色をなす。誰かの知覚、想い、行い、知識も仏には空であり、かつ、実在する。

この世界が空なのではない。この世界が色に満ちているのでもない。あなたが色でありかつ空なのでもない。全ての法則も人間のルールも宇宙の成り立ちも、仏には空である。

仏には人が見る世界も空である、人の心が捕える世界も空である。人の悟りも、人の煩悩も空である。

老いる事も死ぬことも、不老不死もどうでもいいのである。この世界のあらゆる苦しみも、その苦しみからの逃れることも、衆救も、悟りを希求することも、仏にはどうでもいいのである。人がそれを知る事も得る事も仏にはどうでもいいのである。

もしこの世界から太陽がなくなれば人間はとても苦しい目にあうだろう。しかし仏にはそれもどうでもいい。ならば仏は人を苦しみから救わないのだろうか。痛みを感じている人間の救いにはならないのだろうか。おそらく仏に救われた人などいないのである。それが空であろうか。空とはそういう事であろうか。

キリストが人々の苦しみを背負ったように、仏は苦しみを見つめる。人を苦しみから救うとはどういう事か。仏からすれば、人を救うとは最後のひとりが救われるまでその場所に居つづける事である。故に仏が見る最期の景色には人は誰も居ないはずである。苦しむ人が居なくなった。その景色を空と呼ぶのか。

空という言葉だから残った。空だから何にでも比喩される。空に何を見るかでその人の色が決まる。仏には空間的な広がりがある。それは空という言葉に空間的な広がりがあるからだろう。

人の中に仏はいないと思う。しかし人の中に仏へ変化するものはあると思う。この仏典の中に仏はいないと思う。しかし仏へと通ずるものがあると思う。

人を眺めれば、人は良き人にも悪き人にもなる。だがそれはその人の本性ではない。人は置かれた状況によって如何にも移ろう。よき家庭人が大量虐殺の首謀者である事も可能であるし、人を殺していた者が虫の命を助ける事もある。良き母が誰かをいじめる事もあれば、苛められたものが更に弱き犬を叩くこともある。人は移ろう。その本性に空がある。人は自分が生まれた場所、置かれた立場によって様々な色をなす。

人を眺めれば、人は他の誰の気持ちも理解する事ができる。哀しみも喜びも憎しみも。だから人は誰かと寄り添えるのであるし、だから人は人を追いつめる事もできる。自分の中に空があるから、誰かの心と同調できる。重ねる事も取り込む事も裏をかく事もできる。空は何にでもなる。何もかもが空になる。それはどんな色にも染まる。

人を眺めれば、誰もがそうなっていた可能性がある。ならば、自分がそうでなくとも、その誰かの気持ちは必ず理解できるはずである。もし理解できないのなら、それは自分の中に何か拒むものがあるからではないか。人は誰もが誰もを理解できる。理解できぬならそこに空がない。ゆえ色もない。

何もかもを捨て去ることが空であろうか、それとも無であろうか。捨て去ってしまえば楽になる、重荷を下せば安寧が得られる。いや常にそうであろうか。それを捨て去ると決意し、捨て去ってしまえば無になる。捨てると決意し、それを眺め、手放さなければこれが空ではないか。

理解できない苦しみがある。理解できないのには理由がある。何故なら人には理解できない苦しみというものはないからだ。理解できないのであれば、それを妨げる何かがある。それを捨ててみる、と決意する。そうして捨てれば無の状態であり、そこで眺め立ち止まり苦しみの敢えて側に居る。それが空ではないか。あなたがそこに居ないのが無であり、そこに居るのが空である。

どれも仏には同じだそうである。仏はその何もかもを受け入れる。だから空間的な広がりなのである。仏はあなたの近くにも居る。仏の側にもあなたの居場所はある。そうではあるまいか。

2014年11月8日土曜日

風立ちぬ I - 宮崎駿

「風立ちぬ」予告を観て。



飛行機のエンジンが動く。そこに少年が乗り込む。

飛行機が飛ぶ、親指のない手袋みたいな翼。

絵を描いている少女。モネの日傘を差す女。


飛行機の羽、普通なら丸くする。なぜ指が4つもあるのか。

作るのも大変だし、空気抵抗も悪い。普通に考えれば。

もちろん知っている。

金属製の飛行機はナウシカでやった。

団扇で飛ぶ飛行機はラピュタでやった。

ほうきも飛ばした。

リアルな飛行機には豚を乗せた。

鳥に変身して飛ぶのも、龍が飛ぶのもやった。

アルバトロスもラムダもやった。

屋根から屋根に人も飛ばした。

翼の上を走るのもやった。

魚の上を走るのもやった。

彼は同じ事を二回もしない。

必ず何かを新しくしようとする。

常に新しいものを探しているのではないか。

この少年の凛とした顔はどうだ。

宮崎駿でよく見る顔だ。

男の子が一人前になる時の顔だ。

パズーが凧の上で見せたのと同じ顔だ。

人の演技は、昔から変わっていないのかな。

クラリスもナウシカもシータも辿ってゆけばラナになる。

クシャナもドーラも辿ってゆけばモンスリーになる。

だけれども、これほど見て来ても、物語は新しい。

人はその状況でどう動くか。

そう言いたいがようだ。

この映画も面白いに違いない。

何が面白いかではない、どう面白いかもでもない。

面白いか面白くないかと言えば必ず面白いに決まっている。

映画を見るという事は、ああ面白かった、と感動で終わる事ではない。

そこが出発点である。

一体、なぜ面白いと感じたのか、この面白さの源泉はどこにあるのか、と問う事である。

そうやって自分の中に何かを見つける。

映画を語るとは自分語りに違わない。



2014年11月7日金曜日

阿・吽 - おかざき真里

空海というのは誰でも知っている。だから最澄を読んでみないか。

空海はまず名前がかっこいい。いまや仏教は葬式で何かを語る職業となったが、昔はそんなものではなかった。座禅を組んでいたら手足が腐ってもげ落ちた、そんな達磨まで居るのだ。

貴族の出家とか、仏像への祈願くらいなら、今の僕たちにだって想像できる。問題を起こした政治家は入院し、退官した官僚は人類愛に目覚める。

だが、人生をかけて希求する、海で溺れても構わない、それでも海を渡りたい。仏が守ってくれるはずだ、そんな能天気な信仰で超えられるような艱難辛苦ではない。どうも人間というものは、犬死をまったく躊躇しなくなってからが本物のようだ。

現代では空海の思想など失われている。既に生きる事の意味を問う事は哲学や倫理の仕事でさえない。いわんや宗教おや。加えて最澄である。名前がカッコ悪い。地味だ。最も澄んでいる、意味は悪くないが、どうも弱そう。そんなイメージ。

空海に弟子入りしたとか、密教を教わろうとしたら断られたとか、もう才能からして負けていた人である。名前にカリスマ性がない、何も良い所がない、興味が持てぬとしてもむべなるかな。まるで映画のモーツァルトとサリエリだ。

だいいち二人とも仏教の輸入業者であって、翻訳家である。中国の思想をどこまで先鋭化して導入したかは知らないが、名前と比べると、その思想はもう知られていない。密教など呪文や風水で竜神を操る術だと思われている。我々は科学と工学の世界に生きるものである。今さら呪文などお呼びでないのである。式神なんかじゃ公開鍵式暗号さえ破れるかっての。

我々は陰陽も密教の違いも知らぬ時代に生きている。かつての仏教徒が何に悩み、何を求め、どういう地平線を目指したかも知らない時代に生きている。

そういう現代から空海や最澄とどういう向き合うべきか。彼らの権力闘争を、ただ仏を手段としたマインカンプと解釈すべきか。それともそれ以外の何かがあったとすべきか。

平安初期において仏教は既に官僚登用の道であり、現世を謳歌をする手段であった。その仏教の中に何かを見つけようとしたふたりが、そこに何を見いだしたのか、それは同じものであったのか、まったく違う地平線だったのか。知識か実践か、理解か行動か、この国では二つの拮抗する対立軸があるとき、それは両方とも真実として残った。彼らの対立軸がなんであれ、どちらもがこの国の一時代を支えた思想であったことは間違いない。

だとすれば、ふたりの思想はもう気づくことも出来ないくらいに、僕たちの血肉となっている、そう考えるのが自然だ。そうでなければ合点がいかぬ。

そういう諸々の疑問を踏まえながら、最澄をイメージできるのがこの漫画だ。