stylesheet

2011年12月27日火曜日

巨大翼竜は飛べたのか - 佐藤克文

知識を伝えるだけであれば Power Point で10枚もあれば足りる。
数枚の論文でもこと足りる。

それとは逆にテレビでは詰まらない結論に辿り付くまでの長い間
どうやって人をテレビの前に留めくかの技術の蓄積に長ける。

さてほんの数行で書くことができる結論を
一冊の新書という本にする理由は何だろう。

論理を理解しようとする脅迫観念は強い。
だが論理だけを知りたければ本ではなく
論文を読むべきだろう。

論文は長い時間をかけて生れた一つの文章だ。
それも多くの言語、文化、時代を通じて人々に読まれてきたものだ。
それは小説や詩とまったく変わらない一つの形式だ。

だから論文にはひとつの構造がある。

今の教育では論文に触れるのは大学からであろうが、
小学生、中学生のうちから著名な論文に触れておくのは
有益だろうと思う。

理解するのが教育ではない。
見た事がある、聞いたことがある、
それで十分なものも多くある。
論文も誰もが触れておくべき国語の代表的な形式なのだ。

論文という形式は科学と密接な結び付きを持つが
科学だけの専売特許というわけでもない。

それはともあれ長い間に試行錯誤された形式であるから
その形式には意味も理由も権威もある。

wikipediaによれば論文はIMRADの形式をとるとある。

Introduction(序)
Method(方法)
Result(結果)
And
Discussion(まとめ)

それは再現可能な方法を記載し、データから考察し、そこから結論を記述する。

論文は、結論までに一つの道が通ってなければならず
それ以外の道を丁寧に検証したうえで潰しておくものだろう。
思考の分岐点となる所を洗い出すのが論理とも言えるだろう。

言葉にはそれぞれの表現形式がある。

誰もがそれぞれの表現形式を選ぶ。
目の前の問題や気持ちを伝えるために書こうとする。
生活のためだったり趣味だったり仕事のために。

いや逆だ、そこで選ばれた表現形式に書いた人の思いがある。
そこについてはどれほど深読みしても読み過ぎる事はない。

書いても書いても読んでもらえなかったり
書いた内容もきれいさっぱり忘れられたりしたら作者はがっかりするだろうが、
もし読んで楽しいと言ってもらえればそれは嬉しいことだ。
ましてや二回以上読んでもらえるのであればこの上ない喜びだ。

所でそれは作者の都合であって、それは読者の読む楽しみとは何の関係もない。

有意な知識を得るだけが読書の楽しみではない。
知識を得る以外の目的で読んでも読書というのは面白いはずだ。

本書には翼竜の結論に達するまでの長い間を現代の知識に振り回される。
そこが面白くなかったらとてもタイトルに偽りありなのだが
現代での研究が面白いものだからタイトルのことなど途中で忘れてしまう。

そして現代について十分な経験を積んだうえで著者の本論を聞けば
そこで得心がいくわけである。

巨大翼竜は飛べたのか、作者にその話を聞くためには、
ペンギン、ウミガメ、マンボウ、ヒメウ、ミズナギドリ、アホウドリ
様々な場所へ行き、様々な考察を聞き、作者の後を追い、追体験をしなければならない。

専門家ではないから数式や基本知識を知らなくても構いはしない。
別に採点されるわけでもなく親戚のおじさんくらいに思っていればよい。
作者と一緒にしばらく歩き回っていれば
だいたい彼の言いたいことやその根拠となる考え方は分かってくる。

専門家でなければ理解できない知識はあろうが、
専門家でなければ分からない体験というものは存在しない。

見よう見まねでいつの間にか覚えるのが教育の基本であろうが、
作者の後をおって一緒に歩いていればなんとなく分かってくるものがある。
それが経験というものだろう。

一緒にフィールドに飛び出て歩く必要がなければ
このような新書を書く必要はなかったはずだ。

ただ論文を書けばよい。
勿論、彼とともに実際に野山を歩き回った人には
その論文の内容も、そこで言いたい事もその考え方も良く理解できるだろう。
同様の研究者であれば考えに違いはあろうがそれが見当が付く。

しかしその体験がない人には論文では足りないかも知れない。
だからこの新書は読者を連れて一緒に研究現場を見てもらうように書かれている。

同じ物を見て、同じように疑問を持ち、同じように苦労し、考えてもらうために。
それを体験をするために。

そういう意味では本書は現生動物の行動学の学者が、
古生物学者を連れて自分の研究現場に行く物語なのだ。

ほらこれらの鳥を見てみてよ、
彼らはこういう飛び方をしているんだよ。
古生の翼竜だってそれと違うわけないじゃない。

そうでない我々はそのおこぼれに預かるというわけ。

2011年12月19日月曜日

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー - 押井守

responsibilityはラテン語のrispondereから来た言葉であり、もともとは応答するの意であった。

この応答とは自分の行為を他人に説明することであり、他人からの質問に答えることだろう。
時には詰問され、これに答えることがresponsibilityを果たしたことになる。

そこには自由主義の思想と深い関係があるような気がする。
自由に行動することを許す、それを担保するものが、
その自由な行動について他人に説明することであるとする。

後から説明できることが自由な行動の条件であり
もし説明できないのなら自由な行動は許さない。

自由を勝ち取るとは説明する事、
内容などはどうでもよろしい、説明している事を示さねばならぬ。

犯罪者が病理的理由にその行動の理由を説明できないのなら罰せない、はこの原則に由来する。
精神鑑定が必要なのはこの根幹を調べる必要があるからだ。
それを説明できない者は自由を拘束する、これがresponsibilityの考え方だろうか。

責任を問うとは、説明することに尽きる。
問われた事に責任者は答える義務がある。
そこで答えないのはresponsibilityがないと見做される。

responsibilityを責任と訳したのは西周らしい。

しかしこの考え方では日本語の責任を説明することが出来ない。

責任は古くからある言葉で
【責】は棘のある枝で貝(貨幣)を返せと責め立てる様から生れた字である。
【任】は人が荷物を背負う様子から生れた。

語源通りに解釈すれば苦役を自ら背負うくらいの意味でよいだろう。

責任とは茨を背負い歩く事であった。
それほどの艱難が明治にはあった、
それらを自ら背負い、それにより責めを負う事に成ろうとも背負おうとした人々がいた。
彼らの持っている人間の資質をresponsibilityと訳した。

武士が腹を切ったのは責任を取る為ではない。
この世でやるべき事が無くなったから腹を切った。
切腹は美学に過ぎぬ、おさらばするという決意に責任という概念はない。

いつの間にか腹を切るとは美学から他の目的に変わってしまった。
死んで詫びるという意味に切り替わってしまった。
詰まり相手を納得させることになってしまった。

我々が使う説明とは、説明する行為ではなく、相手を納得させることにある。
いくら説明を繰り返しても相手が納得しない。
そんな時、相手から出る言葉がある。
「責任と取れ」

これは我々が自由主義の責任に生きる者ではない証左であろう。

責任という言葉は次のように使われる。
「責任を与う」
「責任を持つ」
「責任を任す」
「責任の有無」

これらの言葉に共通することは、
責任のもともとの意味が何かが起きてから語られるものではなく
何かを始める前に語られるべきものである、という事だ。

何かを始める前に責任を与える、持つ、任す。
そうであれば、責任とは何かを始める前に発生し
その何かが終わった時点では消滅するのだ。

僕達はこの"責任"という言葉を知ら無過ぎる、
恐らく、戦後の混乱も戦後の欠落も全てこの言葉に集約させていい。

僕たちは先の戦争の"責任"という問題を抱えて未だに出口のない暗闇で迷い続けている。

責任とは何であるか、今でも僕達はその語源の通り棘のある枝を自ら背負い自問を続けている。
これは茨の冠とは違う何かなのだ。

責任と取れという言葉が存在する時、そこには誰にも何も出来ない状況が生まれている。
前にも進めず後ろにも戻れない、それは、戦争の責任と全く同じ構造をして僕達の前に立ちはだかっている。

そうではないのだ。

元来、責任とは取るものではない、執るものである。

責任は未来にしかない。
過去に対して取るべきは説明だ。

だが、僕達はこの言葉を未来に対して使っている。
戻す事のできない命やこの世界について。

失った命を戻すことは出来ない。
責任を取れ。
汚染された大地を前にして。
責任と取れ。

これは神に求める言葉だ。
人は神ではない。
ならば彼らは神への信仰を口にしたことになる。

彼らは怒りという感情を前にしてこういうのである。
責任を取れ。
どうしようもないこの怒りをどうしてくれるのか。
責任を取れ。

この責任を取れと言う言葉は神でなければ即ち腹を切れという意味なのだ。
それは自らの責任を取って死ねという要求に過ぎない。
死ねと言わずに責任と取れという時この言葉の根底に醜さや汚らしさがある。
それに気付かず相手に詰め寄る者は無垢な信仰の所有者だろう。

これは死にゆくものに語る言葉ではない。
生き残る者らが怒りを鎮めるために必要な生贄を希求しているのだ。

責任と取れとは、即ち神を希求する言葉だ。
その根源にあるのは神への助けだ。

我々の時代にも影を落とすあの戦争への怒りは
神によって鎮めるしかない。
説明によるresponsibilityでは解決できないのだ。

だが戦後、我々の世界に神はいない。

責任と取れとは、神のいない世界で敵の神を滅ぼすために語る言葉だ。

彼らは目の前で神を殺して見せよと要求している。
哀しみを慰めるものは、同じ哀しみだけだと考えている。
復讐の連鎖は過去から今の世界へとあちこちにある。

何故にお互いを許しあえないのか。
この世界から神が消えてしまったからではないのか?

信仰のない世界で我々はどうやって許し合えばいいのだろう。
それとも相手の神が滅びるまで責任を問い続けるしかないのだろうか。

誰かの神を殺して見せることは後戻りのできない世界を作り出す。
それを許す神を持たずしてどうして人はお互いを許しあえるだろうか。

夢の世界からこの現実に戻るためにはラッパが鳴り響く必要があった。
ラッパが鳴り響き、世界が瓦解を始める。

哀しみや憎しみが待ち受ける神のいない世界に戻るためには一つの約束が必要だった。

責任とってね

アタルは夢から覚め、鐘が鳴る。

ほんまあの人らと付き合うのは並大抵のことやおまへんで

これは演出家自身のセリフであることに気付く。

そして映画はオープニングを迎える。

観客は席を立ち、映画館を出る。

そこから本当の物語が始まる。

この映画はそれぞれの人のプロローグだったのだ。

2011年12月7日水曜日

南野陽子

私の中のヴァージニア
20年前に好きだった。
既に通り過ぎたはずの流行歌に今さらまた聞き浸っている。
昔と変わるはずのない音なのにそれでも昔のようには聞こえてこない。

これは僕の方が勝手に変わっているのであって
実在の彼女と何か関係があるはずもない。

昔は恋だと思っていた。
でもそれが今では恋の歌には聞こえない。

そこには恋という一つの出来事と対峙している一人の少女がいる。
恋が全てという人生ではない、恋に出会い戸惑う、悲しみ、その想いを歌う。
そういう女の声だ。

彼女は恋という幻想を演じきれなかった歌手だ。
恋の詩を歌うその背景にある姿まで透かせて見せてしまう。

恋の歌に留まらずそれを歌うスタジオの景色までも思い浮かべさせてしまう。
それは幻想であるにはあまりに近く女性の姿を幻燈する。


花びらの季節(ころ)
これは恋ではない、存在そのものだ。
確かにそれはそこに存在している、
それがどこにもない実態だとしても存在している。

写真の中の彼女のように、
今ここにはいないどこかに消えてしまってもそこにあるもの。

声はそれを如実に出現させる。
恋など歌の表層に過ぎない。
この歌にある懐かしさやどことなく悲しい響きは恋の寂しさではない。

これは人が生まれ落ちたこの地球の悲しさそのものだ。
それは誰もが生れ、生き、そして朽ちてゆくそういう生命のように聞こえる。

それを昔は言霊というのではなかったか。
言葉の魂ではない、楽曲に乗り移り聞こえてくる声に宿った存在感だ。


宝石だと思う~ノエルの丘で~
流行歌というのは、時代とともに消えてゆくのかも知れない。
それでも歌はいつも存在している。

歌謡曲には他の楽曲にはない特有の難しさがある。
その難しさとは歌い手が歌を選ぶ権利を持っていない事だ。
歌手に歌を選ぶ自由はない。

歌が歌手を選ぶ。

曲に選ばれた人でなければ何の価値も持たない。
歌唱力も音楽性も知識も愛情も情熱も何もかも関係なく。
音楽への力も願いも思いも愛さえも全てを拒絶して歌謡曲は存在している。

自分にある全てをぶつけてみようが歌に拒否されたらおしまい。
弱々しかろうが音楽の才能に乏しかろうが音楽への信仰がなくても
曲が微笑みさえすればその者に全てを与える。

選ばれた者には全ての力を与える、それが歌謡曲というものだ。
どのようなオペラ歌手であっても歌謡曲を歌う事は難しい。
曲に選ばれるという点ではどのようなアリアよりも難しい。

歌謡曲とは一つの神託だからだ。


カナリア/秋のIndication
何も歌っても恋の詩になるのが歌謡曲だと思っていた。
しかし彼女の歌はそういう風には聞こえてこない。

恋の歌を歌っている時でもその声が届く先にあるものは
なんというか人間らしい何かだ。
それを優しさとでも言おうか、生きて匂ってくるような女の姿とでも言おうか。

人生とか生き方というような大仰なものでもない。
激しい恋というほどに刹那でもない。

歩いている風景や風のささやきほどに近く
息遣いや表情ほどに親しい。

直ぐそばにいて生きているそんな感じがその吐息から聞こえてくる。
これは録音された音というよりも写し取られた彼女の存在に聞こえる。

彼女はコートを着て北風に吹かれている。
歩きながらそんな景色が目の前にあるかのように聞こえてくる。


フィルムの向こう側
それにしても何故これ程までに流行歌は郷愁を誘うのだろうか。
歌謡曲にあるほろ苦さはどういう音楽の力によるのだろう。

若いときにしか分からない切なさがある。
年を取ってみなければ感じない郷愁がある。

音楽はそれぞれの人に違うものを奏でる。
流行歌は聞く人に違う景色を見せている。

歌は時代を切り取り空、海、春、星を描く。
空気、色、景色、思い出を記憶の隅から映し出す。

ある時代の言葉が歌として声を震わす。
それはある者には街の景色を見せ、
ある者には海の景色を見させ、
また別のある者には帰るべき人の姿を見せる。

そしてその声が消えた時、
誰もがそこにあったものが何かを忘れてしまう。


シンデレラ城への長い道のり
音楽は世界を救いはしない。
人々を孤独にさせてゆく。

イヤホンで世界と隔離し孤独な音の部屋に閉じ込める。
そこで人は何かを忘れ音楽に揺られている。

音楽と対面しているとき僕達は何を見ているのだろうか。
郷愁とは失ってしまった記憶だろうか。
切なさとはこれから来るはずの透明な予感だろうか。

その悲しみは彼女の声と共にやってくる。
その声は彼女の心だと思う。

懐かしいその声はどこかで聞いた誰かの声だ。
子供のようでいて母のようでいて
恋人のようでいて友人のようである。

彼女の声に心を見たのは自分だろう。
それは自分の心に届いた彼女の姿であり
自分の心が描いた彼女の姿でもある。

彼女の足取りは未来へと続く。
音楽は未来に向かってしか流れない。
懐かしさに佇んでいる人を歌は未来へと押し流してゆく。


うつむきかげん
歌を聞けば彼女の体のラインから
その肌の色までが見えてくるような気がする。

そういう実体感というものがあって
これが幻覚であったとしても
この生々しいさはどうだろう。

こういう想像力を喚起するのが彼女の声の魅力だ。
他の何も必要としない彼女の力だ。

声が全ての存在のような歌手だ。
音階に乗せた声だけで他は何もいらない。


リバイバル・シネマに気をつけて
彼女は女ではある。
だが恋や愛などは苦手だろう。
実生活での話をしているのではない。

彼女の歌に恋や愛の表現はどこにもない。
あるのは歌詞にだけであってそういう表現ではない。

彼女が好きという言葉を言うとき
それはエロスよりもアガペーやフィリアに近い。

女としての色恋の感情よりも自然を描写する艶めかしさを感じる。
女の感情よりも女性の心という方により近い。


砂に埋めたSECRET
歌を一つの形にするために多くの人が携わっている。
彼女の声を取り巻く幾つもの楽器やコーラス。

それらを編曲した萩田光雄について僕は詳しく知らない。
それでも彼がこれらの歌の魅力を構築する中心にいた事は間違いない。

幾人もの作詞家や作曲家、演奏者に支えられた上に彼女の声が乗る。
それらは彼女の声を支える舞台装置のように存在する。

この編曲家についてはもっと語られるべきだが
それが奏でる音楽の彩りと心地よさや世界観その上に彼女の声が乗る。

それが一つの歌謡曲として僕の耳に届く。
僕の耳はその楽曲の上で流れる彼女の声から何かを受け取っている。

彼女の声だけではこれほどまでにこの歌を好きにならなかった。
それは間違いないことだ。


すみれになったメモリー
あの頃これらの歌を聞いていた僕は
そこに何かを見ていた。

あの頃に見ていたものが
今も僕の手には入らぬままでいるのか。
だから今でもこの歌を聞いているのか。

僕の心を打ったそれは何であったのか。
この曲を聴く以外の手段で僕はそれを手にすることができるのか。

僕はこれらの曲を聞きながら
手にしたいものがあったはずだ。

音楽で見つけたものを
他の場所でも手に入れようとしたはずだ。

興奮や恋心は音楽だけが表現できるのではない。
だが、未だにこれらの曲の上以外では見つけられないでいる。

この郷愁や懐かしさ嬉しさというものは
音楽以外のどこにもなかったのではないか。

そうだ、音楽を聴きながら欲しいと思っていたものは
その当時から今に至るまで一度として手に入ることはなかった。

音楽は奏でられ人を誘い
そして消えて行ってしまった。
残酷なままに。

音楽でしか手に入らない世界が存在するのか。


White Wall
消えて行ってしまったものの先に何かがあったか。
その先に行ってみてもまた過ぎ去っていく。
ずっと手に入らない何かが奏でられては消えてゆく。

聞こえていた声は今も変わらない。
僕は変わっていないという幻想を抱えたまま
あの日が蘇る。

あれはいつの日の川だったか、海だったか。
空の星だったか。

そう変わらない。
この空を覆う雲が流れて行ってしまっても。
空が空であり続けるように。

波が一つとして同じ形をしていなくとも
海が海であり続けるように。

音楽は昔も今も同じ音を繰り返しながら
今も僕の掌からこぼれ落ちてゆく。

それでも少しだけ立ち止まって
後ろを振り返るようにこの曲が流れている。


曲がり角蜃気楼
声は魂となって通り過ぎてゆく。
肉体をどこかに置いてしまったまま。

南野陽子という少女が
歌を失って既に久しい。

きっと彼女も掌からこぼれた何かを見つけようとしたのだろう。
彼女は歌は失ったかもしれぬが
その声までも失ったわけではないだろう。

場末のような劇場でその声が響く。
その声の響きはきっとシナリオとも演出とも関係なく
彼女の存在そのものを乗せて届いているはずだ。

曲がり角で彼女は新しい道を決めた。
後ろを振り返ることもなく。
僕達に幾つかの歌を残していって。


思いのままに
見た事もない風景を見せてくれる。
それは記憶の中に残る風景を原画にして
新しいキャンバスに描き出されているようだ。

春景色や砂浜の匂い。
図書館の薄明かり、雨の降る歩道。
これらから感じる懐かしさというものがある。

だがそういう空想は弱いものだ。
意味のない音そのものに感じる彼女の存在のほうがずっと強い。
その風景の中に彼女の姿がなければなんの価値があるだろう。

この歌にある悲しみは少女ではいられない未来図だ。
歌はそのままの姿で残るのに歌う本人は未来へと押し流されてゆく。

恐らくこの懐かしさに初恋は無関係ではいられない。
懐かしさとは遠くに過ぎた初恋を思い出そうとしているのかも知れない。

僕は何か大切なことを思い出そうとしているのかも知れない。
だがそれは思い出すには余りに遠い。

こぼれて行ったものは初恋であるとか美しい女性の姿であるとか
忘れていた手紙、記憶を呼び返す心に生み出された風景。
記憶とは常に今作られているのだという事を知る。

僕はこの懐かしさとは決別の事だと思う。
今を生きるから思い出が生まれる。
それはまさに音楽が今ここで流れているという事に等しい。

初恋の水の流るる面影はここにありて遠きにもあり


星降る夜のシンフォニー
まるで小説や詩のような響きを持つ曲がある。

恋でもなく愛でもなく、ましてや人でもなく、
ただ女の声が流れる。

慈しむでもなく憐れむでもなく、ましてや思いやるわけでもなく
ただ満天の星のような景色がその声の向こうに見える。

意味があるわけでも言葉になるわけでもなく、ましてや感動があるわけでもなく
ただ発せられた調べに合わせた女の声が聞こえてくる。

何故だろう、
この曲から夜空の星空が見えるのは。
その星を見る少女が歌うのが見えるのは。

何故だろう、
この歌が遠い過去にあった星の姿には見えず
星達が遠い未来に向けて発したメッセージに聞こえるのは。

何故だろう、
この曲が僕に与えてくれるものは
力強く輝く星が光る今まで見た事のない空であるとは。