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2017年10月12日木曜日

日本国憲法 第三章 国民の権利及び義務 IV (第二十四条~第二十八条, 尊厳)

第二十四条  婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
○2  配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

第二十五条  すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
○2  国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

第二十六条  すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
○2  すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

第二十七条  すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
○2  賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
○3  児童は、これを酷使してはならない。

第二十八条  勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。

短くすると

第二十四条 婚姻は、夫婦が同等の権利を有する。
○2 法律は、個人の尊厳と平等に立脚。
第二十五条 健康で文化的な最低限度の生活を営む権利。
○2 国は、社会福祉、社会保障、公衆衛生向上、増進に努め。
第二十六条 教育を受ける権利。
○2 国民は、子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は無償。
第二十七条 勤労の権利を有し義務を負ふ。
○2 勤労条件は法律で定める。
○3 児童を酷使してはならない。
第二十八条 勤労者の団結、団体行動をする権利。

要するに

誰もが死ぬ時には悪くない一生だったと言えるようにしたいね。餓死なんて悲しいね。奴隷なんてイヤだね。

考えるに

AIの現実味が人間の労働や勤労について大きく変えようとしている。人々が働かなくても生活できる社会に推移しつつある。その時、この社会の資本と貧富はどのように変わるのだろうか。そのような社会で人間の価値はどうなるのだろうか。

教育や労働は国が与えるものではない。富国強兵を目指し国民を統制するためのものでもない。それは国民の権利であり、誰も奪ってはならない。

では「教育を受けさせる義務」、「勤労の義務」とはどういう事か、それは簡単に奪う事ができるという意味である。誰も奪う事はできないと記述する時、それは簡単に奪う事ができるという指摘なのだ。故に守らなければならない。誰かの権利を守る行為を義務と呼ぶ。

その権利を守った結果、国が富もうが貧しくなろうが、それは憲法の知った事ではない。教育を施し勤労を貴ぶ方が国家を豊かにするはずである。そう考えるが絶対とは言えない。ただ、それ以外の方法は収奪的な制度だろうと思われる。

人間には基本的人権があると言われている。それが元来的に備わっている自然権であるか、後天的に、つまり社会によって守護される権利かは知らない。実際の所、国家なり社会的制度がなければ、人権あれども守られずという状況は発生する。

選挙権も権利である。民主主義国家においては、投票する権利は人々に付与された唯一の権利と言っても良い。この権利が守られている所には、その他の権利も守られている。この権利がないがしろにされている所には、その他の権利も多かれ少なかれないがしろににされている、つまり投票する権利は権利尊守のバロメータと言える。

選挙においては投票を棄権することを進めたり、白票で構わないと考える人もいるが、それは権利の放棄であって、権利を放棄するとはどういう事か。権利の放棄、例えば基本的人権を放棄する事は果たして可能なのだろうか。この放棄という考え方と密接にリンクするものが尊厳ではないか。

人間には尊厳が必要だ。誰もが敬意を払われなければならない。それが実現できるならば国が富もうが貧しかろうが二の次でよい。国が滅びようが占領されようが宜しい。

我々の生存戦略は裾野を拡げる事である。裾野が広がっていれば、対応できる可能性が高くなる。生物としての戦略である多様性に加えて、人間が見出した力の集中がその基本である。

そのような戦略を採用する以上、そこには寄与しない集団も発生する。必要ないと烙印を押されれば、社会から排除されても仕方がない。そういう短絡な考えをする人が居るのも自然である。

それが短期的な最も効率的な方法である、という考えはひとつの答えだ。そして「場合の手」としては正しい事もある。例えば、津波を前に私を追いてあなたは先に逃げなさいと言われた人もいる。

だが、この世界は成功と失敗の繰り返し。成功した時の利益が最大に、かつ失敗した時の損失が最低になる様な均衡点が得られる。それは国家や時代、文化によっても異なるが、成功することしか見ないようでは人間が足りない。

どのような集団も家族から生まれる。必要ない人を排除する社会は、その家族も排除する社会である。その友人や親類も排除する社会である。長期的に見れば、そのような排除する圧力が強い社会は脆弱になる。なぜなら構成要員が次第に単一的になってゆくからだ。いつ誰に起きるかも分からない事については、それを受け入れる仕組みの方が強靭に育ってゆくはずだ。

我々の社会を弱肉強食という考えで捉えようとする人もいる。この言葉は生物学から出た言葉ではない。英語では Law of the jungle(ジャングルの法則)が意味が近い言葉としてある程度だ。

韓愈(768-824)の送浮屠文暢師序に出てくる言葉なのだ。科学でも何でもない。これは詩なのだ。

自然界では弱い個体(弱いの定義が曖昧であるが)が必ずしも淘汰されるとは限らない。そのような単調さでこれだけの生命に溢れはしない。捕食された個体がいる世界であり、老いたもの、生まれたばかりのもの、ケガをしているもの、捕食者の近くに居たもの、捕食された理由を弱さだけで語れるものではない。かつ捕食者と雖も老いれば飢えて死ぬか捕食されて生命を全うする。

人間の尊厳を最大限に尊重する、これが社会を支える恐らく唯一の思想である。国家も軍も官僚も政治も奴隷でさえも人の尊厳のためにある。それが守られるなら民主主義を放棄しても構わない。

それでも、人間の尊厳と貧困の間にはとても近い関係がある。貧困が人間の尊厳を踏みにじる事は多々ある。と考えるのは逆かも知れない、尊厳を踏みにじるから貧困なのかも知れない。

だからといって人間の尊厳を保つためには富むしかない、という結論はいただけない。人は貧しくとも尊厳をもって生きることができる。貧困の中で尊厳をもって死を迎えることができる。どのような人でも自分自身への尊厳を失う事はできない。どれほど惨めで、どれほど失望して、どれほど嫌悪していようと、その体を作り上げる細胞のひとつひとつは最後まで生きる事を辞めない。

貧困の原因は経済の問題である。経済を豊かにするほど解決できる問題の数は増える。貧困を解消すれば人間の尊厳も高まるはずである。貧しさは人を追い込む。

ただ、この世界が抱える問題の総量は我々の経済の総量よりも大きい。だから、経済に頼らずに問題を解決する方法を模索するしかない。貧しくとも人と分かち合う人々がいる。少しでも先へ進もうとする人がいる。泣いている暇は僅かだ。

はて、人間の尊厳とは何だろうか。あらゆる権利を放棄したとしても人間の尊厳は残っている。その残っているものを最大限に尊重するとは、生命賛歌に外ならない。ならば、なぜ人間の生命だけが特別なのか。もちろんこの宇宙に人間だけを特別視する法はない。

どこまで他人と分かち合えば人間の尊厳を守った事になるのだろうか。上限がないというのは恐ろしい事である。貧しい人の横をそのまま通り過ぎるのは人間の尊厳を破った事になるのだろうか。悲しいんでいる人の横で笑う事は人間の尊厳を貶めた事になるのだろうか。

尊厳という考えは我々の手には余る。だが、尊厳は無理でも敬意を持てば緩和されるのではないか。敬意とは礼の事である。だが礼が敬意なのではない。

生まれの違いが、そのまま格差の原因となる。子供は親を選べないが、当然、親だって子供は選べない。その組み合わせが多様性である。すると生まれの差異は多様性のために許容すべき不平等という話になる。同一であったり平等である事は多様性を損なう道とも繋がっている。

よって許容すべき不平等と許容できない不平等がある。その許容は様々な立場で異なる。貧しく飢えている人の横を笑いながら通り過ぎても構わないし、立ち止まっても構わない。いずれも人間の尊厳の問題ではない。敬意の差に過ぎない。

ISで売られた少年少女たちは、ほんの数百年前ならヨーロッパ大陸で日常的な風景であった。その数はヨーロッパやアメリカで誘拐される子供の数には遥かに及ばない。何が人間の尊厳なのか。少なくとも我々が到達できた尊厳は人間を売買しない、奴隷にしない、それだけである。

人は知らぬ間に虫を踏み潰す。だから人をも。見捨てられた人にも人間の尊厳はある。彼の心臓はその鼓動を止めない。奴隷制度を放棄することだけが人間の尊厳ではないのである。

人間の尊厳とは何か、と憲法は問い続けている。それについて考えよ。ここに規定されたものは、人間の尊厳とは何も関係ない。だが、これらの事について保証しなければ、君たちは人間の尊厳について考えることさえ出来ないだろう。

そのために教育が、労働が、健康が必要である。それは知らない事を学ぶためではない。知るべき事を誰かの都合で遮断されることがないようにするためだ。

憲法は教育の権利を説くが、教育の内容については詮索しない。何をどう教えようがご自由に。独裁国家であれ、奴隷社会であれ、ご勝手に。だが教育が続く限り、人間は尊厳について考えざるを得ない。今はダメでも明日は分からない。そう憲法起草者たちは信じているのである。

2017年10月7日土曜日

風姿花伝 - 世阿弥

1363年生れ、世阿弥。観阿弥の子。室町時代 希代のプロデューサー。

風姿花伝の一節、「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」

折に触れ この言葉を思い出す。古典がどのような読み方も許し、受け入れるものである以上、ただひとつの答えがあるとは思わない。この言葉は、その時々で何かを訴えてくる。自分はこう読むという以外、どんな面白みがあろうか。

この芸、その風を継ぐといへども、自力より出ずるふるまひあれば、語にもおよびがたし。その風を得て、心より心に伝はる花なれば、 風姿家伝と名附く。

この芸は、猿楽から発したものだが、一種独特のものがあって、その機微を伝えるのは難しい。猿楽から始まり、どう変わっていったか。その変わるものが花だ。この変わってゆく力が花だ。

風の姿を花の姿で伝える。風は目に見えない。だが花が揺れれば風があると分かる。花の姿を使えば風を伝える事ができる。同様に風の姿で花を伝える事もできる。風が吹いている所作に花を感じる。花を伝えるのに花である必要はない。花の姿で風を伝え、風に舞う姿で花を伝えてみようと思う。

花の咲くを見て、万に花とたとへ始めしことわりをわきまふべし。花と申すも、去年咲きし種なり。

なぜ世阿弥はすべてを花に例えるのか。

花は消えてゆく。能もどこにも残らない。では何が残ってゆくのか。能という芸であり、それを演じる人である。恐らくそれが種であろう。花を咲かせる種もあれば、咲かない種もあるだろう。ある季節だけ美しく咲き枯れる花もあるだろう。枯れた姿が印象に残る花もある。

花は人の心を種としてまた次の花を咲かせる。

古きしては、はや花失せて、古様なる時分に、珍しき花にて勝つことあり

猿楽は、当時、勝敗を争う勝負の芸であった。立ち会い能と呼ばれるもので、どうやって勝敗をつけたかは知らないが、最後は観客の喝采がそれを決めたに違いない。それは芸術というより芸事なのである。囲碁や将棋と同様にかつてはこういうものにも勝敗がついた。そういう歴史が自分には分かる気がする。何事にも勝負を感じる心がある。

秘すれば花、秘せぬは花なるべからず

世阿弥は花を秘せよ、と言ったのではない。隠し続けよと言ったのでもない。そういう類のものは勝負を一回しか仕掛けられない。マジックのトリックではあるまいに、相手に知られたら終わりというものではない。

隠している間はそれを花と呼べ。みんながそれを花と思うだろうから。それを開いた時に花のままだったら驚きがない。それでは隠した意味がない。

人の心に思ひもよらぬ感を催すてだて、これ花なり。

何を秘しているかは観客の思い込みである。勘違いするのは演者ではない。だから隠している事を上手に見せる必要がある。

何かがあると思わせる事、これが重要であって、何もないと思われたら終わりだ。それを最後まで隠し続けるのが能のはずもない。隠しているものを最高のタイミングで表に出づ。その時、それはもう花ではない。

秘する花が重要なのではない、それを隠し続けるのに意味があるのでもない。秘する花は、ある瞬間に隠さないのである。その時にどうするか。

この物数を究むる心、則ち花の種なるべし。されば、花を知らんと思はば、まづ種を知るべし。花は心、種はわざなるべし。

花を伝えるだけなら、例えば、ただ手に持っている所作をすればよい。演者はそこに花がない事を知っている。観客も知っている。それでも舞台の上に花がある。

そこに風が吹いた所作を加える。本物の花が揺れる必要はない。ただ風が吹いていると伝える。演じるとは観客が勝手に花が揺れるのを見ることだ。花が揺れたなら、今度は風が吹く。風が吹けばまた花が揺れる。観客のその読み取る力の前では、演者の所作など小さい。観客に花が咲く。演者には風がある。

出来庭(できば)を忘れて能を見よ。
能を忘れて為手(して、演者)を見よ。
為手を忘れて心を見よ。
心を忘れて能を知れ。

心など忘れてしまうがいい。そんなものでは能には辿り着けない。

舞台の景色から離れて、能を見よ。すると、能は失われて、演者だけが見えてくる。演者だけを見続けていると、その姿も次第に消えて、心の動きだけが見えてくる。その心さえもどうでもいいものになってきた時、そこにあるものが能である。心など忘れてしまって構わない。感動など花が風に揺れたようなものだ。そんなもの花でもなんでもない。

人間などいらない。花があればいい。彼はそう言いたかったのではないか。