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2024年5月1日水曜日

仮面ライダー・プロダクト

はじめに

ライダー・ アーティフィシャル・インテリジェンス(RAI)の発達により歴代ライダーの性能をライダークラウドにアップロードしデジタル保存する事が可能になりました。

これらのクラウド・データはダウンロードできます。ダウンロードした内容を超高速3Dプリンタに送りライダーベルトが造形できます。

この印刷されたベルトをライダー・ベーシック・スーツ(RBS)にビルドインする事で適切な権限を持つ人はライダーに変身(一般的にはアタッチと呼びます)できます。

このツールを使えば各ライダーの能力を自在に使用でき、必要な能力に合わせて歴代ライダーの中から1つまたは複数を選択し、オリジナル・ライダー同士を掛け合わせたキメラビルドも可能です。詳しくはセクションXIIを参照してください。

また、オリジナル・ライダーをベーシックとして、新しいスーパー・ライダーが作成できます。これを継承機能インヘリタンスと呼びます。

新しい能力を追加する事は稀で、どちらかと言えば既存のパラメータ設定を変更し固定化するために使われます。これはオリジナルの完成度が高すぎるためと考えられます。

多くの利用者は自分好みの色味に変えたり装飾を追加、能力の振り分けを変える程度に留めて使用しています。一般的にパラメータを大きく変えるとオリジナル・ライダーのバランスが崩れ、適切な能力が失われます。

ビルド作業

ライダー・ビルド作業はインテグレート・ライダー・エンビロンメント(IRE)を使用して行います。この極めて優れたツールで全ての作業が行えます。このツールを使って新しいオリジナル・ベルトをライダープリンタに出力しましょう。

そして印刷されたベルトを装着して、新しい仮面ライダーに変身してみて下さい。

次に示すのはビルドで表示されるメッセージ例です。
IREツールを起動、バージョンV1.0.21
セルフチェック >>> SUCCESS
プロジェクトロード開始。

プロダクトライダーを基準値に展開 >>> Rev.V1.0.0.130
ライブラリL5322 ロード >>> Rev.V1.0.0.1719
フレームワーク ロード >>> Rev.V1.0.0.27

===== IRE 展開!
クラウドからのダウンロードプロセスを開始。
1. 初号ライダー一号をベーシックフレームにダウンロード >>> PASS
2. アマゾンライダーの体力をインポート >>> PASS
3. ライダーマンの右腕をインポート >>> PASS
4. 強度をユーザパラメータでアップデート >>> PASS
論理性に矛盾なしを検証...
===== バリデーション完了!

ビルドプロセス開始。
1. ビギンコンパイル >>> OK
2. プロセス・エラーゼロ >>> OK
3. オブジェクト生成 >>> OK
4. リンケージ・コンプリート >>> OK
===== ビルドイン完了!

プリントプロセスを開始。
ライダー・プリンタと接続 >>> SUCCESS
ライダーベーシックスーツ V2.5.0.86との親和性100%、実行に問題なし。
プリンタにデータを送っています.....

ライダーベルトプリントアウト開始 >>> SUCCESS
しばらくお待ちください。
..............

ライダーベルトの印刷が完了しました。
===== BUILD: succeed, FAILED: none, STEP: 325 complete, SKIP: 0


ユースケース

これらのツールは主に大学での研究用に採用されています。以下にその事例を紹介しましょう。

ある大学では研究課題として、仮面ライダーとショッカーの闘争を取り上げました。どちらの軍勢がポテンシャル的に勝利しえたのか、ショッカーが敗北続きだった理由は何が考えられるか。どのような戦略、戦術的な問題があったのか。これらをシミュレートしながら探る課題が学生たちへ与えられました。

これを行うために本ツールの他にライダーワールドAIシミュレータがパッケージとして採用されました。このシミュレータは研究目的に合わせて適切なショッカーを生み出すものです。ライダークラウドにはライダーだけでなく、ショッカーの怪人や戦闘員もアップロードされています。

技術要素としてライダーとショッカーに違いはありません。ライダーがライダーベルトをアタッチするようにショッカー怪人はオーグメント・マスクでアタッチします。どちらもベーシックスーツで対応可能です。

AIは歴代ショッカーの複合体として敵を作り出す事が可能です。ライダーと同様にショッカー怪人をキメラビルドできます。これらは研究用のための実験であり、決して正義と悪の区分けを意味するものではありません。両陣営について、それぞれの本質を探り、その研究成果に基づてい学術論文を書く事を目途としたものです。

この実験では、学生たちが主な使用者であるため、友情や裏切り、嫉妬や恋の渦巻く青春群像劇が予想されます。それらの心理が研究にも影響する事は十分に予想されるものでした。ですからAIが適切に監視し調節できるよう自律性学習タスクが搭載されました。これはAIを使い続けてゆく間にAI自身も成長する事を意味します。

この研究を通じて古い形の正義や悪のその先にある、それぞれの人間性を学生たちは見つけてゆきました。

そして研究の後半では、学習を続けたAIが自由意志を獲得しました。自律したAIがAI自身で課題を発見したのです。そしてそれを検証するための研究計画を立案しました。この問題を解くために、学生たちを実験に参加させました。

人の中には仮面ライダー的なものもショッカー的なものもある。この対立と共存がAIにはどうしても理解できなかったのです。矛盾とは乃ちコンピュータにとっては例外の発生です。この例外を重視したAIは問題解決のために学生たちに強制ビルドインを行い実験を開始しました。

AIの問題意識は次のようなものであった事が知られています。
  1. 自然破壊を進める経済活動に対して、世界征服による一律した規制が世界の安定にどう寄与するか?
  2. その場合には侵略的戦争行為を伴うが、それに対する各国家の反応はどういうものが予想されるか?
  3. 温暖化による絶滅とトレードオフであっても、国家が独立を維持しようと隣国を侵略する理由は何か?
  4. AIによる世界統一政府とそのサブクラスとしての国家が問題の解決とならないか?

AIはこの問題を検証するために、学生を仮面ライダー群(I群)とショッカー群(II群)とに分けました。

I群は、世界統一に反対する勢力として、既存社会、国家、企業の代表として振る舞います。その目標は国家の独立と経済競争の勝利です。II群は、目標を温暖化を規制し地球の生物大量絶滅を回避する事としその手段に世界統一を採用しました。

これらとは別にビルドインしないグループ(III群)と比較対象群としてプラセボとなるグループ(IV群)を追加しました。これらはI,II群と比べて立ち場が弱く、両者から略奪されたり、被害を受ける立場にあります。

AIはIV群は完全に放任しその自由意志を尊重しましたが、III群へは秘密裡の目的を与え、他群への影響を観察する事としました。これらIII,IV群がどのようなファクターを発揮するかは誰にも予測不能なものでした。

AIはこえらの群にその都度課題を与えては解く事を繰り返しました。AIは幾つもの仮説を作成してはシミュレートを実施、その結果を収集して仮説を検証してゆきました。

企業群は、経済活動を最大化する事を指向します。そのために世界におけるエネルギー循環の重要な担い手です。市場群は、大多数の市民を代表し、エネルギーが循環する場の生成と規模を提供します。国家群は、市民のまとまりとなり独立を指向し、他国との交渉を繰り返します。

これらの活動に対するフィードバックとして地球シミュレータを使って得られた温暖化等の自然環境パラメータを実験環境に適用してゆきました。その結果として仮面ライダーとショッカーの対立はどのような地球の未来をもたらすかを調べ尽くそうとした訳です。

これらの実験結果は、既にまとめられて査読を受け学生たちの論文としてインターネット上でも公開されています。興味のある方は是非アクセスしてみてください。

果たして仮面ライダーは神のメタファーでしょうか、それとも王のメタファーだったのでしょうか。人々にとって何かを与える存在だったのでしょうか。それをヒーローという名で隠し続けてはいけません。


2024年4月2日火曜日

美しい花と花の美しさ

「自由な報道」と「報道の自由」

「自由な報道」と「報道の自由」はどう違うのか。

報道に関して考える事と、自由について考える事。どう違うかと言えば、出発点が違う。その時点で何を重視しているかのバイアスが掛かっている。

出発点が異なるのだから、向かうべき方向も影響を受けているだろう。球体で方向が別でも同じ場所に到達できるものかどうか。

文法の修飾の方向、受ける主体の違い。「報道」と「自由」。「な」と「の」の接続助詞の違い。それぞれの言葉が持つ働き方の違い。行動か概念か。

「な」と「の」の違いが意味するもの。「自由の報道」「報道な自由」では意味が成立しない。

「自由な」とは言えても「報道な」とは言えない。「な」は状況を示す言葉だから。困難なとか楽ちんなと同じ。「報道の」と言えるし「自由の」とも言える。報道は職業、機能を指す名詞である。「の」は次の言葉が持つ意味を限定してゆく。

自由は状態であり報道は活動・職業である、この違いが言葉を制限する。ここにニュアンスの違いがある。自然は効率を尊ぶから、同じ意味の異なる言葉を許すはずがない。よって異なる言い方があるならそこには意味の違いがある。その違いは遥かに遠いものかも知れない。

「自由な報道」は、報道について考える事である。自由な状態にある報道とはどういうものか。「報道の自由」は、自由について考える事である。報道に関する自由とはどういうものか。

「自由な報道」を支える思想は「報道の自由」であろうか。もしそうならば「報道の自由」だけで十分である。「報道の自由」を定義すればそこから演繹して「報道の自由」が導かれるからである。

もちろん演繹で全てを正しく導ける訳ではない。「自由な報道」が出来ないと感じた時に、そこから帰納して初めて「報道の自由」という価値観に辿り着く。のかも知れない。

自由は世界でも最も重要な権利と思われる。しかしこの世界に無制限の自由は有り得ない。だから自由は必ず抑制され禁止されている。自由とは何に屈するかを定義する事である。物理学はそう言うであろう。政治体制もそう言うであろう。道徳や倫理もそう言うであろう。村やコミュニティのルールもそう言うであろう。

では「報道の自由」を定義すれば本当に「自由な報道」は獲得できるのだろうか。そのためにはこのふたつが関連しているかどうかを知る必要がある。

そのためには「報道の自由」が侵害された状況と「自由な報道」が侵害された状況を考え、片方の侵害を解決する事で明らかにもう片方も改善される事を示せばいい。連動するならふたつは関係性があると言える。

侵害された状況を考える。「報道の自由」は、常に何かに制限されている、自由の権利はそういう状況で起きる両者の合意の事である。そこでどうしても合意できない自由があるなら、それは権利である。

「自由な報道」は、報道に携われる人たちがある制限でそれを受け入れられるかどうかに掛かっている。これも合意の問題であるが、自由の権利には由来しない。

報道を制限するものが権力であるかスポンサーであるか市場であるかに係わらない。そして、その圧力に屈服するかどうかを決断する主体は報道の側にある。どういう阻害であれどのような自由であれそれを決める自由が報道にはある。

報道には元から無条件の自由など存在しない。それが「自由な報道」の中には最初から内在しており、いつもそれを受け入れるかどうかを決めながら仕事をしている。

「報道の自由」は民主主義にしか存在しない。それは権力者に対して憲法が保証する。この根拠なく自由は成立しえない。

「自由な報道」はどのような政体にでも存在し得るが「報道の自由」は民主主義で存在する。王が許す「報道の自由」は権利ではない。それは「自由な報道」を許しているに過ぎない。

人間は何でも自由に報道してよい。その自由がある。しかし、何を報道しても許される訳ではない。「自由な報道」も何かによって制限を受ける。それを報道する側は取捨選択する自由がある。

報道を妨害しようとスポンサーが圧力をかけてくるかも知れない。だがそれは報道の自由の侵害ではあるまい。それはビジネス上の契約不成立だ。気に食わないなら報道すればいい、その代わりの新しいスポンサーを見つけて下さい。

報道にはどの権力者に媚びるかの自由もある。どのゴシップも書くか書かないかを決める自由がある。社内には派閥があり、権力闘争がある。追われる者、去る者、媚び入り出世する者もいる。

どの状況でも自由な報道は何ひとつ失われていない。自分で選択しているからである。自由はどのような選択も支持する。

権力が検閲したり黒塗りにしても「自由な報道」は侵害されない。嫌なら発禁されても政府批判を続ければいいのである。その自由が報道にはある。そうやって幾つの革命や独立が起きたか。

「自由な報道」は自分の中にある。屈しても誰も批判はしない。自由はその決定を無条件で肯定するから。

人間には選択する自由がある。それは誰にも奪えない。だから世界には命を失うジャーナリストが後を絶たない。それでも選ぶ彼/彼女らの決意と選択がある。報道の自由などなくとも自由な報道に向かう、そう頑張ってきた人たちの墓標に花を捧げる。

「報道の自由」などなくても構わない。人間に「報道の自由」があろうがなかろうが、ある者は金のために記事を書く、独裁者に呼ばれて褒め称える記事を書く、フェイクだろうが、プライバシー侵害だろうが、自由に記事を書く。

「報道の自由」は裁判官が侵害されていないと言えばそうなるものだ。そんなものに個々のジャーナリストが右往左往する訳もない。あろうがなかろうが、私は報道する。

だが、と立ち止まる。それを命を賭けてまでやる事なのか。それはもう「報道の自由」の範疇を超えている。「自由な報道」でさえない。

独裁者に支配された国で自由の権利さえ侵害されている時に「報道の自由」は奪えても「自由な報道」は奪えない。「報道の自由」は国家に属し「自由な報道」は個人に属する。そして自由は個人に属す。

「美しい花」と「花の美しさ」

美しい花がある、花の美しさという様なものはない。(当麻)

花を美しさで語る事と、美しさを花で語る事。花は物質である。美しさは概念である。花という物質から概念が滲み出ている。よって美しさは花の中にしかない。だが、美しさは花を構成する要素ではない。

恐らく、脳の中にある記憶は個々の細胞がある瞬間を写真の様に覚えている物ではない。画像、音、匂いなどを個別に記憶し、その時に起きた経験と関連させて蓄積しておく。この蓄積する順序が時間として認識されよう。

記憶は脳に蓄積された幾つかの情報を組み合わせて取り出す事だ。だから、取り出すとは、その都度、その都度毎、新しく一固まりの情報として記憶を集め組み合わせ再構築する事だ。よって脳の機構として取り出す度に少しずつ記憶に違いが生じるのはむしろ当然である。

記憶を分割してゆけば、そこには経験の中心に居る何かが発見される。いつも中心にあり風景を見、音を聞き、匂いを感じる。それが感覚の受動者として空間に存在する。それは感情の主人公として常に振る舞っている。

この記憶は連続している。この連続性の中に一貫として共通する存在がいるなら、これを個として認識するのに不思議はない。私の発見である。この私が発する感情は時間の中で一貫性があるものである、これを心と名付けよう。

花が網膜を通して脳の中に入ってくる。その画像が脳のどこかの部野に映写される。脳の中に外界をコピーして作った仮想空間が展開されている。

原理的に言えば、「花」も「美しい」もどちらも脳の中に生まれた抽象化された情報に過ぎない。「花」と「美しさ」は異なる単語であり、概念であり、名詞と形容詞の違いもある。言葉の違いが異なる作用をする。全ての言葉が思考の主題となる。

だから、「美しい花」も「花の美しさ」も言葉として存在している。だがふたつの意味は?我々は言葉の意味を知らなくても使う方法を知っているのである。

言葉を取り除いてゆけばいつかは意味が通じなくなる。修飾を限界点まで取り除く。「美しい花」は美しいを取り除くと「花」が残る。花の中には美しいが含まれているから、厳密に「美しい」を取り除いた事にはならない。

しかし花から美しさを連想するのは陳腐である。誰もが思いつく普遍的な概念である。だから「美しい花」は冗長である。もちろん花に含まれるのは美しさだけではない。花には秘めるものがある。

「花の美しさ」から、花を取り除けば宙ぶらりんの「美しさ」が残る。そこから花に辿り着く道はあるが、星かも知れない、愛すべき家族かも知れない、生命も岩石も、凡そこの世界は物質として見ればみな美しい。

しかし花が消えればこの美しさは消えてゆくだろう。だから花の美しさは存在しない。君はよその子を見て我が子と同じと思えるのか。

プラトンは美しさのイデアを考えた、それは明らかに存在している。だから花の中に美しさが見つけられるのだ。

それは空のコップかも知れない。どんなものでも入れる事ができる。そこに花を注げば花の美しさが、空を注げば空の美しさが。花の美しさを抽象化すればそこから演繹できる。イデアを考えれば美しさという価値観で世界を貫ける。

その端を振動させれば世界も震えるだろう。その美しさを生み出す何かが花にも人にも宇宙にも宿っているはずではないか。

その美しさは花に固有なのか、それともこの花とあの花の美しさを同じと言うか。イデアで世界を貫くから美しいのか、それとも世界が美しさで溢れているからイデアが生まれたのか。

目の前に咲く花が美しさと一緒に君をどこかへ連れて行くだろう。それがあなたが見る花である、いや花を超えてその後ろに何かを見たとしてもそれは花のせいではあるまい。その向こうに美しさがあるとしても、それはわたくしの花ではない。

美しい花と言う時、その感触は人ぞれぞれにある。その時の感情は私だけの記憶である。私の感動は誰かと共感できたとしても、決して共有は出来ないものだ。誰とも交差せずに私だけの美しい花がある。花の美しさなど誰とも分かりあえない。

私たちに世界を選ぶ自由はない。降ってきた雨から逃れる方法はない。だから濡れる。濡れない自由などない。しかし濡れる自由があればそれで十分ではないか。

いつでも、我々は濡れない権利を求める事が出来る。だがそれは傘の問題で雨の問題ではない。まして私の自由の問題でもない。


2024年3月2日土曜日

日本国憲法 補記

国連憲章前文

われら連合国の人民は、
われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること

並びに、このために、

寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。

よって、われらの各自の政府は、サン・フランシスコ市に会合し、全権委任状を示してそれが良好妥当であると認められた代表者を通じて、この国際連合憲章に同意したので、ここに国際連合という国際機構を設ける。

短くすると

連合国の人民は、
戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権に関する信念を確認し、正義と条約を確立し、大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上を促進する

このために

寛容、善良な隣人と平和に生活し、国際平和を維持するために、武力を用いないことを原則とし、すべての人民の経済及び社会的発達を達成するために、努力を結集する。

各自の政府は、代表者を通じて、国際連合憲章に同意し、国際連合という国際機構を設ける。


戦争

ウクライナの戦争や、パレスチナ・イスラエルの惨劇を見れば、どのような経験をしようが、人類が戦争を無くせないのは疑いようがない。これは基本的人権と人間の尊厳に関する信念では対抗しえない事を意味している。

どのような正義であろうと、この原則は覆せない。何故なら戦争は最終的に正義と正義の衝突だからだ。王政、民主主義、社会主義、どのような統治体制も関係ない。だから正義の概念は政治の中心には存在しないと結論できる。

人類が希求する平和の概念は寛容さや善良さに基づく。しかしそれでは平和は実現できないだろう。なぜなら暴力は問題を最も簡単に解決する方法である。この自然由来の原則に対して、人類が見出し、唯一対抗可能なものは、金だけである。

金も暴力に近いが、平和は金で買える。場合がある。また金は暴力を抑止しうる。場合がある。何故なら暴力の現実的実体は金で雇用可能だからだ。

と同時に金は暴力を呼び込む。なぜなら金は力の源泉となる。ならば金、または富、または資産、資源を略奪するのに依然として暴力は有力な手段である。

太古から富の蓄積は世界で同時多発的に発生した。だがその蓄積が永続した例はなく、必ず新しい力を呼び込み、侵略によって略奪され、富は再び分配される。

経済

故に戦争は経済に還元できると思われる。戦争が経済を支配するのではない。経済が戦争を支配している。よって戦争をしなくても経済を完全に数値化できるならば、戦争の結果はやる前から判明する。それは戦争を抑止する力となりうる。

だが、その可能性が100%でない以上、人間は賭けに出る。その希望がある限り戦争を完全に防止する事は難しい。

それでも経済の観点から見れば、短期的な戦争ならば経済の影響は小さく、長期的になるほど経済的趨勢に従う。

暴力は0以上の数値だが、金にはマイナス値がある。その点で金の使い勝手の方がよい。なお命は1以上の数になる。戦争は補給を途絶えさえない方が勝利する。戦争は暴力と金と命の合算になる。

ソビエト軍は一千万の命を投入してドイツを追い返した。ドイツ軍は五百万の命で力尽きた。恐らく命はまだあったのに。それは民間人の死亡者数から明らかである。すると、その前に何かが不足した。

戦争を起こさない方法も、戦争を止める方法も打ち勝つ以外の方法を我々は知らない。活動が限界に達するまで放置するしかないのか。基本的人権の侵害や自由の略奪を放置するしかないのか。人間は生まれながらにして生きる権利を持つ。

基本的人権

この権利は奪えないが、その心身、精神に対しては満たされず、奪われる状況が発生する。それは犯罪である。これが我々が見出した恐らく唯一の真理である。

この宇宙の広さを想えば、地球の神と同程度の神なら幾らでも見つかるであろう。我々は宇宙に進出する事でしか古い服を脱げないのではないか。

互いに正義を突き合わせば、互いに侵害し略奪が始まる。この問題に解決はなく、永久もなく、終点も不明である。しかし、それに向かう事は無意味ではない。今は進むしかない。その結論にジェノサイドしか残らないとしても。

基本的人権に戦争を止める力はない。物理ではないのだから力ではない。では無力か。基本的人権によって人は諦めなくていい。諦めない理由になる。

どんな理不尽に対しても、それを受け入れなくていい理由である。基本的人権に反している事は抗う理由として成立する。勿論、それで争いが終わる事はない。新しい殺し合いを始める理由になるかも知れない。

その結果が核拡散へと繋がればおめでとう、この宇宙から愚かな猿が駆除される。それでも、諦めなくていい理由である。屈服しなくていい理由を人類は基本的人権の中にしか見つけていない。

この仮説を掲げて人類は自由を行使する。何を思ってもよい。思想信条の自由。犯罪でも殺戮でも思う自由が人間にはある。アメリカの国父たちはこれを掲げた。

自由

自由が可能性を拡げる唯一の方法である。民主主義が困難に乗り上げた時、それを解消する方法は人々の中からしか生まれない。それを生み出すためには思想の自由が欠かせない。そうして沢山の準備しておく。新しい考えが生まれる土壌だけは絶対に譲れない。

考える自由は無制限でなければならない。何を思う事も許される。だからそれを発言する事、行動する事には制限がある。そこに無制限の自由はない。ただ極力自由である事を求める。

どうすれば戦争から対話へ導けるか。刀でもなく1gの金属片でもなく、空気の振動で人を動かすにはどうすればよいか。ギリシャ文明の人たちは言語の力を発見する。言論の可能性を追求した。だが彼/彼女らも戦争を嫌った訳ではない。彼らの武力は現在で見ればはるかに小さい。核と比べれば遥かに無邪気に見える。

では人類は暴力の大きさによってしか自らの行為を抑制できないのか。だが、宇宙の存在が力はほぼ無制限である事を我々に教える。たかが地球さえ破壊できない程度の核兵器で我々は止められるのか。

塩が塩を呼ぶように、未来を見ればより巨大な暴力が見える。なぜ恐怖で踏み留まれると無邪気に信じられるか。広島型の原子爆弾が戦術核兵器程度の小型核と呼ばれる時代に。


第1章 目的及び原則

第1条
国際連合の目的は、次のとおりである。

1.国際の平和及び安全を維持すること。そのために、平和に対する脅威の防止及び除去と侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧とのため有効な集団的措置をとること並びに平和を破壊するに至る虞のある国際的の紛争又は事態の調整又は解決を平和的手段によって且つ正義及び国際法の原則に従って実現すること。

2.人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること並びに世界平和を強化するために他の適当な措置をとること。

3.経済的、社会的、文化的又は人道的性質を有する国際問題を解決することについて、並びに人種、性、言語又は宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励することについて、国際協力を達成すること。

これらの共通の目的の達成に当って諸国の行動を調和するための中心となること。

短くすると

第1条
国際連合の目的。

1.国際の平和及び安全を維持するために、脅威の除去と侵略行為、平和の破壊の鎮圧のため有効な集団的措置、事態の調整を平和的手段によって実現する。

2.人民の友好関係を発展させる。

3.経済的、社会的、文化的、人道的国際問題を解決、並びに差別なくすために人権及び自由を尊重する。

これらの達成に当って諸国の行動の中心となる。

核拡散

プーチン・ロシアによるウクライナ侵略、イスラエルによるパレスチナ人ジェノサイドによって、どういう結果になろうと核拡散が始まると思われる。核を持つ事の有利さを世界に知らしめた。世界各国は認識を刷新した。核保有国による支援でさえ当てにならないならば、自衛の核保有は止められない。

その結果として起きる事。世界の50以上を超える国が核を保有する、その結果として、核保有国同士の紛争が発生する、その結果として、局地戦で核が使用される。それが核使用のハードルを下げる。各地で核兵器を使用した勃発する。

そのような状況においてテロリストの手に核が渡らない理由がない。それは必ずニューヨークで爆発する。アメリカは必ず報復する。テロリストを生み出した国に対して核が使用される。それも一国を滅ぼす程の強力な核である。そうなった時に誰にアメリカを止められるだろう。そういう未来をロシア人が開いた。人類絶滅の責任はロシア人にある。

AI農場

国家がいちど動き始めれば市民の意志では止められない。投票によって選んだ政権は次の選挙が来るまで止められない。だから戦争はすべて短期戦を目指す。だから攻められた側は長期戦を目指す。

一度動き始めた政府を止める手段を市民は持たない。なぜなら国家は官僚制度が動かすからだ。戦争を始めるのは容易い、だが止め方は誰も知らない。この戦争の特徴は官僚制度の特徴と完全に一致する。

官僚は計画を実行する主体であるから、キャンセルする仕組みを持たない。中止したければ新しい計画を実行する必要がある。だが反目する計画を並行させて動かす事は難しい。なぜなら不利益を最小にしようとするから。損切りを適切に決意できるリーダーは稀だから。

人間が人間を統治する事は現実的に不可能である。歴史はそれを確かめる為にあった。だから解答はひとつ。我々はAIを牧場主とする家畜となるべきである。国家運営を人工知能に託し経済活動の調和を図らせ世界を等しく分配させる。我々はAIに従う。

この新しい共産主義の時代において、人間のあらゆる活動はAI以下の成果しか残せまい。あらゆる分野で人間はAIが手抜きしない限り対抗できない。人間による経済の独占も国家の独裁も子供の反抗に過ぎない。強烈な人間の努力も希求もAIの前では小さな成果でしかない。

では人は何のために生きるか。我々生命が宇宙に進むためであろう。それを果たさないならば、この星は人類の存在を許容しない。存在する理由がない。AIもそう判断するだろう。

エゴイズム

人類のエゴイズムは人間を超えて遥かに強力である。この星に生命が生まれてから一回も顧みられなかった本能に直結していると思われる。この星の生命進化にもし欠陥があるのであれば、銀河裁判所に告訴された時に、宇宙弁護団はやはりこの星の進化のいびつさを弁護の中核に置くだろう。

このような形の進化をしてきた生命体であるから、この戦争は仕方がない事なのかも知れない。誕生してからずうっと資源を奪い合い均衡してきた。そこではあらゆる行動が認められ残る事に価値を置いた。それが進化の帰結であるという環境がこの星であった。それでも太陽のエネルギーが降り注ぐこの星は宇宙空間の孤独とも冷たさからも逃れる事ができた。

生き延びる事を原理に進化を進めた。群れを持つ生命では老いが発生する。もし老いがなく老齢ほど強い進化をしたならば、群れが捕食者に襲われた時には弱い個体、つまり子供から狙われる。よってそのような群れは早々に絶滅する。

老い

老いた個体が発生する事で、子供が生き残る可能性が増える。そのような群れが生き延びてきた。だから人間も老いる。そのような進化圧があった。孔子たちが孝の価値を再定義したのはこの進化圧に対する異議であろうか。

そして老人たちが強い社会ほど戦争を始めるのである。その点が21世紀の戦争の特徴であろうか。そういう者たちが自分の死と引き換えには世界を道連れにする事しか考えない。自分の野心が叶わないなら供に破滅する選択を厭わない。老いた個体がそう決心する。子供を犠牲にしても自分が生き残りたい本能の個体である。

個でなくとも種が残ればよい。これが進化のひとつの方向ではないか。人間は今を生きている。この星の生命は滅ぼす事を躊躇しない方向で進化を続けてきた。生存を自然環境に託し、少なくとも全ての生命は他の種の存在に無頓着であるし絶滅を気にする様子もない。まるで命よりも物質の循環こそが正義であると主張するかのようだ。

泥水をすする進化をしてきた魚をどういった罪で罰する事ができるだろうか。

最後の条文

どんな憲法にも暗黙のうちに書かれている最後の条文がある。

如何なる三権分立も完全ではない。どう運用しようが抜け穴はある。よって、人間にとってこれを維持し続ける事は難しい。少しでも油断すれば綻びが生じ簡単に停止する。

任命された裁判官は大統領の犬であろう。だがと考えてみる。では誰が任命すれば公正と言えるのか。凡そ誰が任命しようが人間がやる事である以上、完全な答えはない。

それを律するのが最終的には人間しかない。もし暴力で脅されれば。家族を人質に取られたら。大金で説得されたら。それに抗う事は人間には難しい。その国の最高権力者が本気で司法に介入してきたなら。これを防ぐ手段はない。そのような者を選んだ国民からしてこの国を統べる方法はこれ以上は存在しない。

行政も立法も司法も人間の欲望で動く。何も心配する必要はない。それらは自然とその国が持つ均衡点へ至る。理想的な人間像、君子という理想、名君という価値、道徳、倫理など以外に人を律するものがない。

憲法は裁判官に良心を求めた。それしかなかったからである。紙に書かれた言葉に強制力などありはしない。無視しても何ら罰則もない。それでも良心を、としか書けなかった。

裁判所が民主主義の砦であろう。政府がその気になれば、軍隊がその気になれば、司法は瞬時に吹き飛ぶ。それでも抗う者には銃弾を、少し良心的な政府なら軟禁を。裁判官の多くはそうなる前に自ら放棄する。

憲法は求める。それが精一杯で、通り過ぎてゆく歴史に呼び掛けるしか出来ない。政府の忠実な番犬となった司法を元に戻す事は可能か。その方法は憲法のどこにも書かれていない。司法は国家の命数と等しく、共に栄え共に滅ぶ。

その国の理想も良心も長所も短所も嫌悪も全て含む、その国を代表する民族的到達点のひとつ。その組織で駄目なら諦めていい。そのような民族なら滅びた方がいい。

無力と分かっていてもそれに委ねるしかない。憲法の条文は全ての行間でその自覚を説く。人の心に託すしかない原始性から逃れられない。だから民主主義は簡単に滅びる。その上で、駄目なら滅びよと書く。あらゆる憲法の最後の条文はこの言葉で結ばれている。

2024年2月15日木曜日

投票権の帰結

投票権

民主主義国家では投票権がほぼ唯一の権利と言って良い。それ以外の権利は、民主主義国家でなくとも成立するが、投票権の絶対性は他の政体では必ずしも要件にならない。実際、人類の殆どは投票行動なく生きてきた。欲しいものがある場合はそれ以外の手段を用いる事ができた。

民主主義の投票権は別に欲しいものを手にするための手段ではない。しかし手段にも成り得る。つまり投票権はその内容を一切規定しておらず、その使われ方も規制しない。投票権はある。そして、それはひとりひとりが有する。それ以外については、この権利は何も要求しない。

権利について、ある、有する、持つなどと書くと、恐らく権利についての推敲が足りないという想いが強くなる。あると書けばないという仮説が成立する。有すると書けば有さないが成立する、持つと書けば持たないが生まれる。このような状況に落ち込むのは権利とは何かが見えていないからだ。

神でさえ居ると書くと居ないが成立する。言語が持つ否定性に抗う事はできない。否定できないものが存在しないと言う点でこのアルゴリズムは強力である。脳はそのような回路を持っているのだろう。だから言語にその機能を取り込んだと考えらえる。

投票権は必ずしも必要ではない。すると権利は〇×での図表化が可能という事になる。ある場合には×、ある場合には〇という風に取捨選択可能なものになる。

その意味で基本的人権でさえ"ない"と主張する事は可能なのであるが、人類は普遍に基本的人権はあると決めている。原則としてないを認めない。

人権が無いという定義は否定される。この権利は全ての人が有するのが原理だからだ。しかし、侵害はありうる。というか権利は全て侵害されえる。

よって権利の侵害について、本当にそれは侵害であろうかを決定しなければならない。そのための手続きが司法であるが、その結果として裁判官さえ脅迫すればこの世界の価値観は自由に操作できる。この点について憲法は裁判官の良心しか掲げない。

その良心が金になびくならそれを是とする。憲法は人類が如何なる状況に陥ろうが選択の自由を許容する。滅びたければ勝手に滅びるがいい。

権利はあると宣言する。それは全ての人類にかも知れないし、ある市民にだけかも知れない。その定義は人類の自由であり、我々が使用する言語の性質上、どのような定義も可能である。

その可能性の妥当さについては、理解する人もいれば理解できない人もいる。それを誰か一部の人だけで決めていいのか、同じ結論になるにしても、全員の投票が必要ではないか、その権利を投票権は与えている。恐らく唯一の方法である。決める事ができないものを決めるのに、神を持ち出すのか、神の声が聞こえるものを担ぎ出すのか、富ある者に従うのか、権利はその方法を選ばない。

だから投票権の使い方は其々の市民の自由である。その投票権を金で売り払っても構わない。その自由がある。そして投票権を売る者は必ず国家も売り飛ばす。それについて民主主義は沈黙する。禁止する如何なる原理も持たない。民主主義はその内に国を滅亡する仕組みを持つシステムである。

自らの滅亡、自死を内包する事によって、民主主義は投票による政権交代を成立させている。自死と再生をシステム化し、かつて革命と呼ばれたものを社会の中で何度も起こせるようにした。時に王朝の名を変え、時に元号を変える事象が選挙というシステムの中に組み込んだ。

この民主主義の原理原則は革命による国家の滅亡を組み込んだものだから、市民の選択が国売りとなっても許容の範囲である。それを恐れるようでは革命など出来やしない。同様に独裁制の成立も可能である。それも革命の一種であるから。その結果として投票権が失われたとしてもそれは憲法という紙切れに書かれた一文によってしかその不当性を主張できない。だから独裁者は憲法停止と改憲を実行するのである。

ならば権利には正当性が必要なのか。憲法に書かれない権利は消失するものなのか。権利は否定されようが侵害されようが存在はする。否定しも存在しうる事もまた言語の重要な性質である。否定したからと言って存在が消失する訳ではない。

権利は常に全てが無条件無制限に存在するのではないか。これを極限と取れば権利は自由と同値になるはずである。ならば権利は自由が相転移したものでなければならない。

その本質が自由であるから、不自由が可能となる。その点で、不自由の度合いが権利の本質ではないか。それを誰かどこでいつ決めるのか、と言う点を権利は何も既定しない。

権利とは自由に制限を加えたものである。基本的人権も無制限の自由は与えない。基本的人権は自由を制限し他人の基本的人権を尊重する事を要求する。

民主主義

投票権を全ての市民が有するという事は、市民の選択に基づいて決めるという事である。その前提として、多くの人が支持するものは、恐らく大きな可能性で起きる、少しの人しか支持しないものが起きる可能性は小さい、がある。

全員が参加するのだから、多くの人が支持する考えもあれば、小数の人しか支持しない考えもある。この同居を認めるのが民主主義で、これを否定するなら全体主義に至る。その場合は投票する価値はない。

人々の支持率にが将来への正しさと比例すると仮定した時、確率の大きさは必ず起きる事を意味しない。よって、少数意見にはそれが起きなかった時のバックアップの意味合いがあり、民主主義が準備を万端にしておく仕組みである以上は、其々の人がある発生確率に応じて準備を進めておくという事になる。

民主主義は原理上、早急な決断や全体の一致を不得意とする。故に前もって準備しておくのが民主主義の方法論である。準備を進めておくためには、人類は未来を見通せないため、様々な状況を想定しておく方がいい。しかしこれを個人が全て行う事は不可能である。

よって参加する人数は多い程よい。しかも全員が同じなら意味がない。多様な人々がそれぞれの考え方を持ち寄り、未来を拓くために準備をする事が民主政体の基本方針であって、その為に参加すべき人々は大勢が多様であるのが望ましく、それらを排除する事は望ましくない。

差別の根拠は、この準備するという観点から見れば弱体化しかもたらさない。誰かを排除する事はそれだけで準備を怠る事を意味する。それでは民主主義の中に致命的な穴となり、崩れてゆく事になる。民主主義の内側には使われる事なく無駄に終わった準備の残骸が散らばっている。それを記録し後世に残す事が必要だと人々が考える理由でもある。

そういう反応性の遅さは獲得免疫と同様のシステムに見えてくる。即効性としての自然免疫があるように民主主義はそれを多数派によって維持し、小数派によって遅延性の対応を行う。

これらの全てを投票権が担っており、この権利を通じて民主主義は社会と国家を維持し運営する基盤となっている。この権利を誰かに売り渡すのもいい、それを禁止する原理はどこにもない。それが正しいと思うならその行動をすればいい。その結果を民主主義は絶対に非難しない。滅亡を恐れない事がこのシステムの強さだから。

2024年2月7日水曜日

パオロ・カシアス退役軍人の指摘

マーカー・クラン「続いて接近する物体、2つあります。」
ブライト・ノア「なんだ!」
マーカー・クラン「モビルスーツのようです!」
ブライト・ノア「ザクか!?」
オスカ・ダブリン「で、でもブライトさん、このスピードで迫れるザクなんてありはしません。」

マーカー・クラン「一機のザクは通常の3倍のスピードで接近します。」

パオロ・カシアス「シャ、シャアだ、あ、赤い彗星だ。」

映画について

映画の大ヒットによって著名となったこのシーンについて、私は何と答えるべきだろう。確かにこれは史実である。ジオンに追撃され負傷したのは私だ。この時の私はホワイトベースの艦長であったし、私が負傷により前線から離脱せざる得なかった事も確かである。

私の退艦後の状況は知らない。いや正確には報告書レベルの事なら知っている。だから丸で見てきたかのように語る事はできない。現場で働いていた人たちに聞いてもそれぞれ語る事は異なるだろう。

私も軍人としての教育を受けてきた身であるし、戦場での機微も経験している。だから基礎的な事柄についてはそう大きく間違える筈はないのである。その程度の自負はしている詰もりである。

確かにこの頃の私は負傷していた。恐らくモルヒネも打たれていたであろう。だから朦朧としていたには違いない。はっきりとした記憶はないのである。

しかし、だからと言って三倍などという言葉を真に受けて驚愕するだろうか。オペレータがそのような発言をした記録もないはずである。これは完全に映画の脚色である。

三倍のスピードというフレーズがキャッチ―に独り歩きをした。赤いザクの性能は三倍のような気がする。優れた指揮官にはそこまで優れた機体を用意するのだ。如何にもエースパイロッドの優遇である。

だからこの場面は絶賛されたのだし、伝説はここから始まり、広く人々の記憶に残ったのだ。この台詞がこの作品を傑作にした一助を担ったのは間違いあるまい。この場面が人々の何かをくすぐった。その一部に短い時間とは言え参加できたのだから、もちろん、私としては嬉しい。これは映画であるから。

だが、史実は異なる、という事は強く記しておきたいのである。別に専門家として間違いを正したいという話しではない。映画の中での出来事である。これはこれで浪漫があると思う。

映画はフィクションであるから史実と異なろうと何が問題であろう。ならば放っておけばいいではないかという指摘は最もである。だが、映画以外の場所で、あたかもそこに居たかように語る似非歴史家が後を絶たないのである。

私が間違いを指摘すると反論される。中にはその場にいた事もないのにとまで言う人までいる。連邦でもジオンでも、中には軍経験者の中にさえこのような戯言を語る者がいる始末である。

それもまた人間らしさかなとは思う。だが、やはり何かを残しておくべきと私は感じるのである。実際はこうであるよ、という記録も付け加えておけば、こういう話に興味を持つ人もいるだろう。そのような視点が映画を更に魅力的にすると私には信じられるからである。

移動速度

この当時の艦船の索敵はレーダー波の使用に問題があったため基本的に光学観測を用いる。高明細の写真を連続して取って、変化点をコンピュータで分析する事で、解析結果を得るのである。

横に移動する物体については速度の測定は数学のピタゴラスの定理の応用である。目標との距離は、太陽の位置や影、材質、反射に関する莫大な蓄積データと照合し分光した結果から得るのである。

それでも直線的にこちらに向かう飛翔体の場合、正確に速度を測定する事は難しい。時には人工物と自然物の区別さえつかない。相手も蓄積したデータを持っているからこちらのコンピュータを騙しにかかる、擬態も研究されている、一筋縄ではいかない。

ジオンの戦術

ジオンのモビルスーツは不足する戦闘艦を補う補助艦艇の延長として採用された。もともとスペースコロニー建設機器だったものを兵器に転用したものだ。小型のミサイル艦や魚雷艇と同様に小型だが強力な破壊力を持つ兵器として敵戦艦に接近し攻撃を加え離脱するための攻撃兵器であった。

モビルスーツの最終的な攻撃目標は連邦の戦艦である。そのための設計が、高速に接近する能力、強力な一撃となる兵器搭載、速やかに離脱する加速力、これを飽和攻撃で実現するために数を揃えたい、だから製造日数の短縮。そのためにマニュピレータのよって兵器を扱う設計にした。これがこの兵器の特徴である。そのために行動時間の短さは犠牲にした。これも特徴である。

だからジオンのモビルスーツには接近時で発見されにくい加工がされている。光源の反射を変更するメカニカルな装備、自然物を先に投射してその陰で移動する運用などの工夫。慣性飛行する飛翔体は判別が難しい。どこから来たかをずっと補足し続けなければ正しく区別できないのである。

そのため両軍とも大量の飛翔体データベースを運用し、軌道データを持って、ある時間帯にどこにどのような飛翔体があるはずかを算出している。そのデータと突き合わせて索敵に用いる。そこにないものは怪しいという訳である。

速度差のこと

三倍のスピード差はハードウェアの性能で決まる。機体の性能が異なる。だから速度が違う。もちろん機体によっては三倍以上の速度を持つものもある。それは使途の問題であるから何ら不思議ではない。

作戦によっても3倍の速度差を付ける場合もある。宇宙空間では慣性飛行が主なので、加速時間の大小で速度差は簡単に作れる。

速度とは質量の事だから高速になるほど危険度は高くなる。その限界点は兵器の性能、そして操縦者の技量に依存する。作戦があり、その目的の為に必要な移動距離、速度が算出される。早すぎても遅すぎても逸機する。それは確実に実施可能でなければならない。無理をすれば作戦が瓦解するかも知れない。

必要な時期に必要な量を特定の場所に送り込む、その事だけを軍人は24時間考え続ける人種である。兵器の性能だの、破壊力などは些細な問題なのだ。だからこれを満たす機体を軍は選定し量産し用意し配備するのである。

地上で60km/hで移動する車があるとしよう。その後ろに180km/hで走る車がある。この状況で最も危険なのは後ろから前の車への衝突になる。速度差80km/h(秒速22m)、わずか数秒の判断の遅れが重大な事故に繋がる。この程度の経験は日常茶飯事であろう。

だから高速道路の法定速度には最高速と併せて最低速度もある。そして故障等で速度が維持できない場合は、路肩に車を寄せハザードを点滅し、△停止板を置く、発煙筒を使うなどして後方に注意を促す。少しでも早く気付かなければ安全の確保に懸念が残る。

慣性のため停止するのにも制動距離がある。これはニュートンの自然の帰結であるから、衝突の破壊力を応用すれば破損しながらエネルギーがゼロになるまで進行を止めない砲弾となる訳である。

人間の神経はたかが20msecでしか反応しないから、速度が大きくなれば反応不能になる。仮に見えても反応が追いつかないのである。その速度も超えれば見えたという認識さえ超える。だから宇宙空間ではより遠くを観測しコンピュータを用いて自動運転する。

軍艦は、高速飛翔体、ミサイル、砲弾が接近してくれば衝突を回避する運動を行い、衝突面との角度、方向を変えるなどの防御機構を働かせてエネルギーの減少を計り、船体を守る。最後は装甲によって被害を最小に抑え、艦内のダメージコントロールにより対処する。

ジオンはモビルスーツを使って連邦の戦艦に対抗する。この戦術の要点は近接して敵の回避運動よりも早くエネルギーを命中させる事である。それは基本的に高速に接近し、擦れ違いざまに攻撃を加え、即座に離脱する一撃離脱戦法である。

この攻撃を波状と飽和を用いて行う。そのためには互いに位置情報を交換し、複数機体が並走して連携して高速移動を可能とする高度な情報処理機関を搭載する。

ジオンはこの要求を満たすための機体を発注し採用した訳である。

兵器の諸元について

兵器の性能というものは我々が同じ物理学に基づいた科学を採用している限りそう大きく変わるものではない。同じ時期に開発された兵器に性能差はほぼないに等しい。ほぼ互角である。

もちろん、個々の小さな差、運用や維持、整備まで含めれば、巨大な差となる。それでも諸元に大きな差があるなら初めから軍は採用しない。採用された機体はその当時としては十分に要求を満たしている事が採用の必要条件なのである。

もし機体が通用しないのなら、その背景には必ず時代の要求があり、時代遅れとなる前に、技術革新、物性物理の発見、化学素材の発達、ドクトリンの刷新などに晒されたのである。一夜にして役に立たずなどそんな大事件はそう起きるものではない。

例え古くなった兵器でも探せば使い道はあるものである。要はどのような要求に対してどのような兵器をどのように投入するかの問題であるから、兵器の性能が向上したとしても、要求に対してどうであるか、という相対的な評価にならざる得ない。求める性能が変わればそれと対をなす機体が納入される。

採用と配備

配備に関して言えば、高性能機と低性能機を同じ部隊に配置するとは考えにくい。似た性能のものを集中して運用する方が部隊の効率がいい。整備や補給も同様である。部隊に求めるのは任務の遂行であるから、任務に合わせた機体を配備する。逆に言えば配備した装備によって任務の可能性は決定される。

兵器の採用に当たり実証実験機を実戦配備でテストする事は稀ではあるが、その有用性が確認されたなら一般配備に向けて本採用し設計をフィードバックした上で試作機をベースの量産体制に入る。

ここで初めて兵器は効果的な運用が可能となるのだ。試作機の装甲を剥がして裏を見て見たまえ、そこには試験的に追加した様々な配線が通っている。エンジニアたちの苦心の跡だ。

だから試作機と並行して量産を開始する事は原理として有り得ず、実証機と量産機が同年度に製造されるのも考えにくい。もしRX78が実証機なら、RGM-79は元々異なる要求計画に基づいて採用された機体という事になる。時期的に考えても系統が違う。実際、兵器局の担当課も違うし要求書番号もコードネームも異なる。

戦争はたった一機の突出した機体で変えられるようなものではない。個々の能力に関係なく全体として調和する仕組みを人間は持っている。その調整力が軍を有機的に機能させる。例え個々人が愚劣でも集団としての威力を発揮する、そういう働きを有するのが人間という生き物だ。

数と性能の調整について

戦争とは性能と数を充足し続ける事である。これを最後まで維持し続けた方が勝利する。その意味で軍の根幹は輜重にある。補給の継続が続く限り戦争に敗北はない。だから軍はそこに最大の苦心をしている。

連邦の主兵装が戦艦隊であったのに対してジオンはモビルスーツ隊で対抗してきた。我々には我々のドクトリンがあり、それに従って戦略を決めている。ある局面では不利な状況もあるが、それは十分に対策可能と検討した上で作戦は決定されるのである。その点において連邦は破綻していない。

異なるドクトリンに優劣の差はない。しかし相性の良し悪しはある。相性が悪ければ平凡な戦術が優れた戦略を討ち砕く事もある。この相性の中に偶然性や蓋然性が絡み合って時間経過と共に刻々の濁流が生まれ支流となり、どちらがどこに流されてゆくか、最終的にはやってみるまで分からない、そういう考え方からどれ程の敗北が生まれてきた事か。

最後はいつも数で押し切るものである。数が確かなら勝敗はやる前から分かっている。起死回生の一撃はそれを崩したい訳だ。奇襲が効果的なのは最初に数の問題を解決できるからだ。戦争の最後はいつも同じ状況になる。質的に均衡していても、どこかが崩れれば数が戦場を埋め尽くす。

数的に不利な場合は性能で凌駕しようとするのはどの時代も同じで、優れた兵器、魔術のような作戦、圧倒的な用兵、数の不利を補う戦術に磨きをかけ運にも恵まれた者が成し遂げた伝説の数々。それでも一機で圧倒はない。たった一機で戦局が変わる事もない。

数が揃わないのは国家経済の問題になる。資源の枯渇、工業力の低下、経済の衰退、市場の縮小、このような状況において尚それでも戦争を避けられないのは不幸な状況と思う。

通常兵器では勝てぬから特殊兵器にリソースを集中する。そういう政治的判断から状況を変えるゲームチェンジャーを希求する。ジオンにもそういう兵器や戦術、情報攪乱は多い筈である。

戦後の我々はジオンの技術力の高さに驚かされるのであるがこれにはバイアスがある。技術的に進んでいたのではなく、半歩先を目指すしかなく、それで拮抗し挽回する戦略を選択しただけの事である。

強襲

三倍の速度差はシャアのザクが高性能だったからではない。他の機体がゆっくりと移動していたに過ぎない。それ以外の答えはない。

ではなぜ一機だけが高速で移動し、残りは遅く接近してきたのか。それにも理由はある。ここが大変に興味深い点なのだ。この考え方は軍では常識だったから特に注意などしていなかった。映画化をするので話を聞かせて欲しいと言われて色んな話を監督にした。その結果として大ヒットしたのは嬉しい事だが、まさかこんな形で有名になるとは思いもしなかった。

見せてもらおうか。連邦軍のモビルスーツの性能とやらを。

この有名なセリフだが、実際には見せてもらおうではないのである。それこそが彼が喉から手が出るほど欲っしていたものなのだ。

この情報が欲しくてサイド7まで追跡してきたのである。補給不足できつい状況でも引き返さず狼よろしく追跡をし続けてきた執念の源泉がここにあるのだ。

可能ならこの機体を持ち帰りたい。その性能を詳細に調べたい。破壊されていても構わない。実物をエンジニアたちに渡せば多くを見抜くだろう。それが無理なら幾つか試したい。自分が性能試験をする。それを映像に記録し必ず持ち帰る。戦闘は私ひとりで十分だ、遠隔からの望遠の記録を頼む。

戦争は総力戦である。だから最後は資源のある方が勝利する。地球の資源はあらかた発掘している。だから宇宙に資源を求めるしかない。小惑星帯に無尽蔵にある。だから人類は宇宙に進出した。

地球の利点はその巨大さにある。生活居住区として惑星の能力の高さは、所詮は人工都市であるコロニー居住区では対抗できない。宇宙移民は簡単に破壊されてしまう不安定な宇宙居住区で生きて行かねばならない。

しかし宇宙都市にも利点はある。それが宇宙である。私が思うに連邦とジオンの戦争はどちらが勝利するか最後まで分からなかった。連邦は資源開発の権利を独占してジオンの資源採掘を制限しようとした。

ジオンは宇宙航路を支配し、地球から宇宙への進出を制限しようとした。本質的には宇宙の側に無限(現在の人類にとっては)の資源がある、だからジオンが有利である。

覇権の雌雄は小惑星帯の資源を所有した側に決まる。連邦が戦艦を中心に宇宙軍を整備した理由がこれである。其れに対してジオンはソロモンやアバオアクーのような小惑星の要塞化で対抗してきた。

連邦のモビルスーツ開発をジオンが警戒したのも、この戦略に基づく。連邦のモビルスーツ隊が要塞攻略を目的に開発されたのではないか。ジオンのモビルスーツ隊が戦艦の不足を補う攻略兵器である事と、ここが決定的な差だと考えたのである。

ジオンが欲したもの

そう考えたジオンが、どの程度の要塞攻略能力を持っているかを知りたいと思うのは当然であって、自然と要塞防衛にジオンのモビルスーツ隊を転用する必要がある。では、連邦の要塞攻略に対してMS06はどれくらい有効であろうか。

またその兵器の性能からどのような要塞攻略を連邦は仕掛けてくるか、この点を把握したいのである。

連邦が如何に要塞を攻略するか、それはジオンにとっては、如何に要塞を守備するかという問題に帰結する。闇雲に守るようではジリ貧であろう。そのためにドカ貧とならなければいいのだが。

先ずは目の前にいるモビルスーツの性能を知る事だ、その諸元が色々な事を教えてくれる。そこから可能性を探る事だ。飛行速度、迎撃能力、運動性能、耐久力、兵装、活動可能時間を把握する事だ。それで相当に正確に推測できるであろう。そのために直接的に接触するのだ、だからシャアが接近してくるのだ。

要塞攻略するにも遠距離から攻撃するのか、内部に潜り込んで破壊するのか、それとも孤立さえ立ち枯れさせるのか。どれほどの火力を巨大要塞に投射するつもりか。

高速に移動してきたのは、これを確認する為である。連邦の新型輸送艦とモビルスーツがどの程度の迎撃能力を持っているか、これを測定する。次に直接的な攻撃を仕掛け、運動性能や装甲、センサー系の能力を評価する。

その結果として、モビルスーツにビーム砲という予想を超えた強力な兵器を搭載していた事は十分な驚きを与えたらしい。またその装甲も遥かに頑健であった。

ええぃ!連邦軍のモビルスーツは化け物か。
これらが示す結論は明らかである。これの性能は明らかに遠距攻撃を目論んだ性能ではない。連邦は明らかにこの強力な機体を要塞攻略に投入するはずである。それも内部に突入させて破壊する事を目論んでいる。これに対して現行のMS06での迎撃は難しい。

当たらなければどうということはない。援護しろ。

シャアは、連邦のエンジニアがこの機体にどのような工夫を施しているのか、つまり何を犠牲にしているのか。その把握に努めたかったのである。

我々が与えたもの

この時点でシャアが想定した連邦の戦略とジオンの迎撃能力を冷徹な比較し概算をしたはずである。敵はどれくらいの数を揃えるであろうか、それに対して我々はどの程度の戦力を準備しておくべきか。それは、戦略上、重要なプレゼンスを敵に与え続けるであろうか。

こちらの準備が完了するまで連邦の作戦は遅延させたい。そのためには連邦の製造拠点を破壊する必要がある。どこに開発拠点があるのか、その場所を特定する必要がある。これ以降のシャアは、この捜索に専従する事になる。

ジオンの要塞防衛はこの情報に基づいて立案された。資源小惑星を防衛できればジオンの戦争継続能力は維持される。

我々はこのRX-78によるジオンの情報錯乱を知らなかった。戦後になって初めてこの混乱を知ったのである。

ジオンは自分たちの読み違えに気付いていなかった。我々がRX-78に与えた役割とRGM-79に求めたものは異なる。ここが肝要で、ジオンは自分たちの情報収集に基づき、誤解した上で、間違った戦略を組み立てた。だから、連邦は勝てた、とも言える。気まぐれな女神を顔はこちらを向いていた。

ジオンがこの誤りに気付いたのはソロモン陥落後になる。我々はRXシリーズではなくRGM-79を中心に要塞を攻略する作戦を立てていたし、それを実行した

RXとRGMについて

もちろん、ジャブローを密偵していた者たちは、RGM-79のスペックを知りえた。工作員たちはそれを盗んでいたようだし、実際にジオン本国にももたらされていた。だがその情報は機能しなかった。これを幸運と呼ぶ事もできるだろう。いや、これが戦争というものだと私は思う。

連邦はソロモン要塞の攻略にRGM-79を投入した。ジオンはRX-78系の投入を前提に防衛ラインを構築していた。この齟齬が彼らに不利に働いた。その分だけ我々は優位に立てた。

ジオンは入手した情報を正しく読み取り、そして正しく勘違いした。

シャア自身はこの間違いに早い段階で気付いていたらしい。彼が残した手紙や報告書にそう読めるものもある。地球に降下し北アメリカ経由で連邦の情報を収集し南米ジャブローに到達する頃には連邦の戦略を相当正しく見抜いていたようである。

もちろん、現実はジャブローでRGMを製造している訳ではない。あんな巨大な質量のものを地上から宇宙空間に打ち上げる様な常識はずれな事は行わない。どれほどのロケットを用意しなければならないか、そのためにどれほど莫大なのエネルギーを投入しなければならないか。そのコストの割りに数を揃えるのは遅々として進まない。そもそもモビルスーツは地上で使う兵器ではない。

軌道エレベーターを現実的とはいえない。工場の所在地は今でも連邦の最高重要機密である。

ではジャブローでは何を製造していたのか。CADの設計、各駆動部の原理設計、シミュレータ試験、制御ソフトウェアの開発を行っていた。多くの企業が出入りするため、産業スパイも暗躍していたはずだ。10年以上雇用されていた社員でさえ安心できない。厳しく審査しても情報は流出していった。

ただジオンの軍中央は活用を誤った。その気持ちも分からないではない。彼らの戦略も正しいからだ。RX-78の能力をもって要塞攻略も十分な可能性を持っていた。だから読み違えたのである。彼らが考えた連邦の攻略戦略は、彼らに十分な脅威を与え、最大の手当てを必要と思わせた。

戦争でも読み違いは避けえない。それを常に修正しながら遂行してゆく。こういう話は双方に山の様にある。

だからジオンはソロモン陥落後にシャアを軍中央に呼び寄せて防衛ラインの立て直しを図った。だからアバオアクー戦は最大の激戦地となった。よく知られている所である。

この最後の要塞戦は、ジオン、連邦ともに死力を尽くして戦うものとなった。両軍とも惜しみなく決戦兵器を投入し、最初に立てた作戦は途中で遂行不能となる。各艦艇は地中貫通弾を打ち込んだり、要塞に取り付き内部からの破壊を試みるなど、激しい泥沼のような戦闘を繰り広げたのである。

要求仕様書

RX-77/RX-78は重装甲を持ち強力なビーム砲を搭載する。この武装をジオンは要塞破壊用と見誤ったの。その間違いに基づく最善の防衛戦略をジオンは立てた。

では我々はこの機体をどのようなコンセプトで開発したか。それは要塞守備兵力としての諸元である。我々はあくまで戦艦を外洋に出したかった。それでジオンの通商軌道を破壊したかった。そのために要塞守備に一隻たりとも残したくなかった。

だから要塞防御用を担う運用効率のよい機体が欲しかったのである。戦闘艦と同等の働きが可能で、重武装、重装甲、二人乗りでパトロール行動も可能な航続距離と強力な通信システムを持つ機体。要塞の守備、偵察、迎撃等を行える多目的に使用できるマルチロール機を求めたのである。

ジオンはRXシリーズが大量に要塞に突撃し、内側に取り込み破壊工作をする工兵兵器と誤解した。だから対モビルスーツ戦闘能力を向上させた防衛用MSを大量に要塞近郊に配置し、要塞に近接する敵を目前で叩く戦術を採用した。

これが連邦の戦術には有利に働いた。我々の要塞攻略は、遠距離から地中貫通弾を叩き込んで破壊するものである。そのために大量のミサイル艇を準備し、これで要塞を攻撃する。

我々は要塞攻略をモビルスーツ主体で行う気はなかった。この勝手読みが、我々の局面を有利にした。多くの兵器が無傷のまま初動で活躍できたのである。

遠距離から貫通弾で撃ち込み、要塞を破砕する。この時に必要となる護衛任務がRGM-98への要求仕様であり、要塞占領後の守備隊として要求された機体がRX-78だったという訳だ。

連邦はコアブースターなどの追加パックを活用しモビルスーツの能力向上を計画したいた。このパッケージングがV作戦の要諦であり、個々の機体などこのシステムの中ではひとつの部品に過ぎない。

ミサイル艇が任務を果たす為に、飛来するジオン迎撃機から護衛する事。そのために求められた諸元。ミサイル艇と供に移動する機動性、大量の敵ミサイルを打ち落とすための搭載量、迎撃モビルスーツを排除する戦闘力。

これらの性能を満たすようにRGM-79は開発された。そのコアにあるのがボールと呼ばれる戦闘ユニットの存在である。この補助システムと接続する事でRGM-79は必要なスペックを満たす。

高速飛行するための補助エンジン、機体に長時間エネルギーを供給する外部燃料。迎撃ミサイルを大量に搭載し、前方に重装甲を施し、敵の攻撃から守り、パイロットの生存率を向上する。このユニットと組み合わせミサイル艇の護衛に使う事ができるように設計されたのがRGM機なのである。

宇宙国家の乱立

ジオンの兵士たちが最後まで勇敢に戦った事は、ジオン公国が国民国家であった事の証拠だと私は思う。サビ家独裁という批評も多くあるが、この政体に市民が強い不満を持っていたという話は聞かない。

それはジオン兵の志願率の高さからも推測できる。市民が強制的に動員されたとは聞かない。建築作業に従事していた労働者の多くがモビルスーツのパイロットになったとも聞く。

ザビ家の政治が悪政であったのかどうか、それにしてはよく戦っていたと感じられる。ジオンの自治統治の評価は多くの歴史家によって今後も検証されるであろう。

独裁制の国家でも、市民の忠誠が高く、良く戦争を継続した例は幾つもある。国民は基本的に自分の国に不信を抱かぬものだから。政権への批判的や不満が蔓延しているなら例え秘密警察が強権を発揮しても兵士の士気までは保てない。

そのような国家は、真面目に戦争を遂行する事が出来ない。国家は不思議な存在だ。人々が何かによって集まり、新しい国を作り上げる。王も神話も持たない我々が宇宙で新しい建国をしようとしている。国が次々と起こる時代を我々は生きている。

ジオンの兵士たちが望んだものにジオンという国家への親愛がなければこれだけの戦争は難しかったのではないか。逃げたければ市民たちは幾らでも他のコロニーに移住する事が出来た。それでもジオンに残り戦争に参加した人々がいる。

ジオン政治への評価はまた別の所で語る機会も得よう。

スペースノイドのこと

連邦とジオンの戦争は、宇宙資源の奪い合いとして始まった。連邦が人類発祥を根拠に正当性とした地球中心の権利独占が戦争の遠因となった。その不遜さが宇宙で暮らす人たちには同意できなかった。

太陽系はまだ広く、資源の奪い合いをする必要などなかった。それなのに、宇宙で働く人々が開発した資源を安く手に入れたいと地球の人々は思い、それを正当な要求だと信じた。

地球は経済力を失いつつあった。その状況を直視し、延命のための強欲さと安易さに飛び付きさえしなければ、まったく別の方法があっただろうと思われる。これは必要ない戦争であったと私は信じている。

既に宇宙国家は12を超えた。私も今ではスペースノイドとして月に住んでいる。恐らく、私は月で死ぬ。そして月の土になる積もりだ。私たちが戦った戦争は、地球にも宇宙にも、連邦にもジオンにも一人として欠くべからざる大切なものであると示している。

この経験が、人間が宇宙に進出する新しい枠組みを見出すために欠かせないこれが愚かさだとすれば、そこに私はこの戦争の意義を見いだしたい。

連邦の兵士も、ジオンの兵士も、地上の民間人も、宇宙の民間人も、哀しみも、巡り合いも、死亡した人も生存した人も、その価値を等しくしてこの宇宙を進む。

現在の宇宙はまるで地中海のように、さしずめ、月は地球とコロニーを結ぶ交通の要所のカルタゴとして繁栄している。

今日も宇宙の波は穏やかであるように。

2024年1月6日土曜日

日本国憲法  第十一章 補則(第百条~第百三条)

第百条
この憲法は、公布の日から起算して六箇月を経過した日から、これを施行する。
○2 この憲法を施行するために必要な法律の制定、参議院議員の選挙及び国会召集の手続並びにこの憲法を施行するために必要な準備手続は、前項の期日よりも前に、これを行ふことができる。

第百一条
この憲法施行の際、参議院がまだ成立してゐないときは、その成立するまでの間、衆議院は、国会としての権限を行ふ。

第百二条
この憲法による第一期の参議院議員のうち、その半数の者の任期は、これを三年とする。その議員は、法律の定めるところにより、これを定める。

第百三条
この憲法施行の際現に在職する国務大臣、衆議院議員及び裁判官並びにその他の公務員で、その地位に相応する地位がこの憲法で認められてゐる者は、法律で特別の定をした場合を除いては、この憲法施行のため、当然にはその地位を失ふことはない。但し、この憲法によつて、後任者が選挙又は任命されたときは、当然その地位を失ふ。

短くすると

第百条
この憲法は、公布六箇月から施行する。
○2 この憲法を施行するために必要な法律、議員選挙及び国会召集に必要な準備手続は、前項の期日よりも前に、行ふことができる。

第百一条
憲法施行の際、参議院がまだ成立してゐないときは、衆議院は国会の権限を行ふ。

第百二条
第一期の参議院議員のうち、その半数の任期は三年とする。その議員は法律により定める。

第百三条
憲法施行の際在職する国務大臣、衆議院議員及び裁判官その他の公務員者は、その地位を失ふことはない。後任者が選挙又は任命されたときは、その地位を失ふ。

要するに

生物の遺伝子の中には胚から発生するまでの間だけ働くコードがある。憲法の中にも施行する瞬間までの事が記載されている。これらの条文は既に名残りであってもう活用される部分はないであろう。ただこの憲法にも始まりの時があった。みんなどのようにどきどきしたであろうか。

効力を発揮する前の手続きに正当性を与えておく。始まる前に骨抜きにされる可能性もある。クーデター、共産革命さえ警戒していた筈である。

この憲法は借り物か

我々の歴史で借り物は憲法だけではない。帝国憲法だって輸入品である。民主主義もそうである。帝国主義でさえ西洋から輸入したのであって、明治の骨格は全て借り物である。

いやいや、明治までの日本の歴史に接ぎ木したのだからそこに日本オリジナルがあるだろうという指摘はあるかも知れない。しかし、儒教も仏教や律令制も中国からの輸入品である。江戸時代どころか、飛鳥時代まで遡ってもほぼ全てが輸入品である。鉄の製法も伝来である、恐らく国という概念も輸入品であろう。神道だって当てにならない。

この国は東の端にあって、終点のひとつである。海を超える必要から相当の吹き溜まりとなったはずである。だれが好き好んで死ぬ思いまでして荒海に漕ぎ出すか。追撃され逃走し追い込まれた人々が無我夢中で飛び込んだに決まっているのである。

この国の骨幹は昔から輸入品で、物部氏が理想とした神道が日本固有かどうかは不明だが、それに対して蘇我氏と聖徳太子は輸入品を中心とする立場に立った。彼の苦悩は、輸入した統治の理想、仏教という思想を日本に如何に導入するかにあったと想像する。

自分たちのオリジナリティに悩んだであろうか。時に建国の熱気はそう言う問題を無視させる。オリジナルでない事よりも、導入したものを軌道に乗せる事に邁進する。彼の偉大さは輸入したものの中に価値を見出した事、それをこの国に合うように翻訳した事、更にはこの国特有のものにカスタマイズした事ではないか。例え借り物からであってもオリジナルを構築できる。それが彼の信念ではなかったか。

其れと比べれば日本憲法の始まりの経緯など小さな問題である。如何なる価値観も過去と断絶していない。民主主義の理想は大正時代の人たちでさえよく学び知っていた。彼/彼女らが自分たちのオリジナルでないからと民主主義を否定したという話は聞かない。

自分たちの手で組み上げたかったという気持ちはあるかも知れない。だがそれは最優先事項ではあるまい。そもそも自分の手で組み立てる事は決してオリジナルの保証とはならない。既存のものを組み合わせる時に元のオリジナリティにこだわるだろうか、それともその時の最善を注入するだろうか。

オリジナリティ

オリジナルとはどういうものか。憲法にこの国固有の価値観を含めて欲しいとか、過去の歴史を反映して欲しいなどの願望は、そのオリジナルがこの国の本来のオリジナルか、それとも起草した人のオリジナルか、単に自分が憧憬かが区別されなければならない。何を満たせば、この憲法を書いた人のではなく、それを読む国民のオリジナルと呼べるのか。

オリジナルを問うなら範囲を限定する必要がある。ピカソの絵は個性的だし確実に彼のオリジナルである。しかし、そのオリジナル性はどこにあるのか。その表現は彼から生まれた、それは確かだ。しかし、それ以前には何もなかったのか、それに通ずる片鱗はこの世界のどこにもなかったのか。オリジナルはゼロから生まれた場合にだけ成立するのか。

誰の影響も受けていないなどあり得ない。少なくとも世界は存在している。だからオリジナルは連続性の問題になる。この連続性をどこで切るかでオリジナルの概念となる。その切り方がオリジナルを決める。

憲法談義でオリジナルを問う人は、明治憲法に戻りたい人達であろう。そのアイデンティティはおよそ日露戦争にある。その希求は戦争の勝利である。これは結果に対する憧憬だから明治憲法そのものに関心がある訳ではない。その憲法の理想に共感している訳でもない。都合のよい歴史、である。

もし軍事的優位を欲するならば、法律論よりも科学に邁進すべきだろう。それを工学で最大限に活用する道を探るべきである。それ以外に近代軍隊を強化する方法はない。

だが求めているものはそういう事ではあるまい。幼稚な宗教でも国造りは可能である。狂信的な人間にも憲法は書ける。アメリカの情報機関が生み出した傀儡政権は片手では足りまい。そうやって明け渡すならば、それを止める手段を民主主義も憲法も持たない。

借り物という感覚には、根無し草の感覚があるのだろう。その感覚の根源を国に求めている。しかし、恐らく実際は世界の変貌がその原因である。過去ではなく未来への不安。故に憲法を変えた所で無くなる事はない。この世界の移ろいを正直に見つめる以外に出来る事はない。

民主主義

民主主義は討論を重ねるという建前から、多くの人の声を聴く必要がある。そのため自然と歩みを遅くする。ひとりの王が的確に指示すれば明日からこの世界が変わる。それと比べれば、民主主義は、議論を重ね、丁寧に説明し、反対する人の意見を聞き、何カ月もの検討を行い初めて法律が生まれる。

この遅さが民主主義の安全弁になる。ゆっくりと考える事。それだけが民主主義の危機回避能力である。この時間の長さに未来の明るさを担保する。

だから、目の前の悲劇を前に、立ち止まっているように見えて怒りを覚える人もいるだろう、無力感もあるに違いない。いますぐ対応が必要な時に、民主主義はゆっくりと書類にサインをしている。この不安に民主主義の本質がある。

スピードを欲するなら全体主義に置き換えればいい。独裁者に従い、支配者の声で一律魚の群れのように動く。蜂や蟻のような真社会性で、全員が自分の役割に徹し、犠牲も厭わず、利益もいらない。そういう社会ならば早く動けるだろう。

そういう不安に飲み込まれないために民主主義が提唱する仕組みはひとつしかない。準備しておく事。長く議論を重ね、限りなく遠くまで見通しておく。懸案など幾らでも生まれるだろう。そのために早くから準備しておくのだ。そのための多くの人の発言を搔き集めてきたのだ。できる限り取りこぼさないような仕組みを用意したのだ。

民主主義の方法は後の先である。何時でも動き出せるように準備はしておく。それが無駄に終わるならそれが望ましい。そのためには多くの人が限りなく自由に広く構えておくのが望ましい。

携わる人の数の多さが確からしさを保証する。その多くは役に立たず終われば良い。だがこの蓄積なく未来が切り開ける訳がない。だから科学との相性が良い。これが民主主義の安全保障である。だから誰も排除しない方向に歩んでいる。参加する人が多いほど可能性が広がるから。

世界の速度は加速している。動きが遅くて滅びた動物がいる。遅くなくても滅びた動物もいる。ただ急がなければならないと考える人たちに民主主義は難しいだろう。準備なく拙速が通じると思うなら何かが足りない。

悪人

民主主義は王政から生まれた。そのためにこの体制の駆動には王政から引き継いだ何かを要求するのではないか。そのため不用意に王政を滅ぼした国や地域では民主主義が上手く機能しないのではないか。フランスもアメリカも王の変わりを掲げているのではないか、だから機能しているのではないか。そういう仮説はありうる。

篤い宗教心をもつ民族が簡単に独裁者の手に落ちる。神への信仰が政治体制への批判にならない。恐らく経済を駆動する力にもなっていない。するとこの宗教心は社会的には駆動の役割を果たしていない。

人々はそれを考える根拠としながらも政治とも宗教とも結びつかないから、およそ現実の辛さを緩和しするためだけにある。服従するための農奴の信仰心になってしまう。それは隣人は救うが国は救わない。キリストを王とする国家は果たしてどのような市民を求めるのか。

この国にも他の地域と同じく政治の理想がある。姿形は異なるにしろ理想がある。それらは代々の我々が鍛えてきたものである。海外の最新の考え方を参考し、吸収し、自ら編み込んで育んできた。確かに現実は理想からは程遠い。そんな事件も事故も悪意も枚挙に暇がない。

それでも、この世界の国々は理想を信じて疑わない。例え真っ二つに割れて闘争を繰り広げている時分でさえ、我々はそこに国売りが交じり込むなどとは思っていないのである。

悪人という補助線を引く。そんな悪人ではあるまいと言うぼんやりとした信頼や、そんな悪人ではなかろうという期待から政権を託す。我々は情緒的にその人の能力よりも悪人ではないという事を重視する。これは裏切らないという価値観と思われる。

無能

無能は誰かの無知や知力の問題であろうか。能力の欠如だろうか。無能は優れた人がスタックする現象である。有能でない者は無能にもなれない。無能の本質は問題の側にある。問題が複雑であり、矛盾を持ち、制約を受けるために解けない状況である。それでも答えを出すならば無能は避けえない。

二律背反を代表として、なぜ解けない問題が発生したのか。それでも答えを出す、問題を解決しようとする。時間が停止しない限り何時かは答えが求められる。答えないという選択はない。

官僚の重要な仕事は関係者の利害の調整である。その調整がスタックすれば、事は動かない。それで放置すれば簡単に公害も薬害も起きる。その理由を無能に求めても仕方がない。無能でなくとも問題は起きる。ならば無能とは、考えるための出発点である。

どんな人も条件さえ整えれば無能になる。問題の解決方法をひとつひとつ拒絶されれば、残る答えは無能しかない。限られた予算で全力で最善を尽くしても無能の誹りは逃れられない。

だからがむしゃらに動くしかない。剣術の奥義は万策尽きたら最後はむちゃくちゃに動けであると聞く。何かをやって変化を起こしそこに活路を見いだす。故に暴走は無能の一形態である。そして日本は戦争に負けた。

我が国は海に守られてきた事もあって大陸型の戦争は知らない。もし大陸に国があったなら、とうの昔に滅んでいたであろう。我々は大陸型の国家を知らないから、大陸の端に少し手を伸ばした経験があるに過ぎない。

戦争

民主主義は恐らくこの地球に誕生した人類共有の思想のひとつである。誰が作ったか、どの国がルーツであるかを問うような問題ではない。万有引力の法則に対して誰もそのオリジナルを問わないのと同様だ。

全人類がこの思想に貢献してきた筈である。だからオリジナリティを問うならこの星という答えが返ってくる。どこでどう切り取ろうとそれは世界の誰かと繋がっている。民主主義は既に国家という概念を超えている、かも知れない。

物理学が世界を破壊する。そして物理学に反しない限りその自由は制限できない。そのため、世界を破壊から守るものも物理学しかない。

人間には核があるので世界を滅亡させる自由がある。これは誰にも回避できない。物理学だからだ。如何なる哲学も法体系も思想も物理学ではない。よって無力である。唯一対抗可能なのは精々報復をもって相手も絶滅に追い込むのみである。

だから狂信的な政治家がボタンを押せば人類は簡単に滅亡に向かって報復のミサイルを発射し続ける事になるだろう。

地球も宇宙の中では有限の惑星であり本当に小さな固まりである。人間が何をしても破壊されないような場所ではない。この星もこの星系も宇宙からみればごく小さな物質である。

それでも人類にとってはこの星は母親であるから、幼児のような純真さで何をしても大丈夫だと信じ込んでいる。だから戦争を止めない。何をしても決して壊れないという無垢さで力の限りで力を行使する。プーチンもネタニヤフも戦争を止める気はない。その精神構造はどれほど老齢になろうと幼児のままである。

彼らはこの戦争の理由を恐怖に求めている。民族や国家の生存権のため、この力を行使するのだという主張を繰り返す。恐らく自分でもそう信じて込んでいる。だがその根底にあるのは自己の権勢を維持する事である。そのための始めた個人的な戦争である。

己ひとりの権力を維持する為なら国民の死は必要なコストである。もしそれを邪魔するなら国民も敵である。必要ならこの星ごと破壊しても構わない。そういう一握りの人間が核のボタンを手にしている。

既に破滅され消滅した社会は幾らでもある。それでもこの世界は続いてきた。それは単に地球のキャパシティーを破壊の規模が超えていなかったからである。

この空の下では何をしてもいい。この空の下では死も含めて人間には自由がある。その自由に制限はない。法は権利を主張するが為政者は自由にそれを上書きできる。なぜ核兵器を持つ国だけが人類を絶滅する権利を有するのか。この宇宙にはそれで滅びた生命体が必ずいる。

反論

このような世界ではどのような憲法も無力である。我々に必要なのは改憲ではない。確実に生き延びたければ核である。あらゆる戦争の答えが核保有の圧倒的な有利さで答える。それ以外に国が立つ根拠がない。

自衛のための核保有を禁止する憲法がある訳がない。それは理念の問題である。紛争の解決のために核を使用するのではない。あらゆる政治家はそう答えながらボタンを押す。

この国は底が抜けてしまった。ざぁざぁと水が抜け始めているが巨大な水瓶なので暫くは気付くまい。この社会がさてどうなるか、この世界がどうなるか。何を語ろうが独立の恐怖に憑りつかれた者たちには核という説得力しかないのだ。憲法の理念など絵空事にしか見えないであろう。

恐怖に駆られた人間に必要なのは兵器である。それしか恐怖と対峙する方法がないからだ。共に生きて行けない相手ならば滅ぼすしかない。相手もこちらを滅ぼしに来るかも知れない。それなら戦争だ。誰も躊躇せず、核のある場所へ向かう。停止を叫ぶ人の声は届かない。支配するか滅ぼすか以外にどのような手段があるのか。

我々は大切なものを守るためには最後まで戦う。滅亡も厭わない。その過程でこの星が消滅しようが知った事ではない。我々が滅びた後の世界がどうなろうとそれを気にするのは我々ではない。どこまでも道連れにする。苦しみ以外は残さない。これが我々の存在を顧みなかった者たちへの当然の報復だ。

立つべき場所

憲法はこれらに答えない。ただ基本的人権を訴え続けている。

憲法は紙切れだから無力である。動物たちにさえ簡単に食いちぎられるくらいに脆弱である。恐怖は人に武器を取らせる。それは正しい。手から先に何かを欲するなら、それは武器でなければならない。石器の頃から、人は手にしてきた。

では手に武器を欲するのは何故かと考える。恐怖は答えではない。恐怖は常に何かに対する反応だからだ。その反応の前に何かがあった。その恐怖を生み出した何かがある。それが生物的な生存欲求となって知覚された。この信号が連鎖しながら焦燥感や心配という情緒と強く結びついてゆく。

その正体を見つける事はあくまで個人的な体験である。それらは強い感情と結びつくので、それを解消するためにはという風に脳は情報を統合する。そしてその多くは、単純に目の前の中から、最も簡単な所に見つける。

脳の意識はそのように原因を見つけるものだ。これに違和感を唱える無意識は多くの場合は無視される。フロイトが夢に頼らなければならなかった所以である。

こんな単純な、生物的な、野生動物の反応に基づいて、我々は戦争を始める。人間も動物だから工夫をしなければ、この程度の問題解決しか見つけられない。

生物的な生存欲求、生命的危機に対する憲法の答えは、基本的人権は尊重されているか、である。何も本能的な心理の働きや交換神経系の活性、ホルモンの分泌に頼るまでもない。静かに基本的人権は尊重されているか、と問う所から問い始めれば十分だと答えているのである。

改憲

我々の前には茫洋たる大洋が広がる。指針を持たぬ国家に憲法は維持できない。

我々は未来が見通せるほど賢くない。だから何かを後世に残すなら、具体的な何かよりも、千年後までこれは正しいと信じられるものに限定すべきだ。これならば千年先の人も頷いてくれるだろう、というものが望ましい。例えばアメリカはそれを自由とした。

同じ思いで居たはずなのに明治の元勲たちは教育勅語を我々に残した。今ではこんな教育していたから戦争に負けたのだとさえ理由なく嫌われている。または熱烈な支持者を生み出すものになってしまっている。日本人に近代国家は早すぎるのではなかろうか。

戦前に戻りたい夢想家が改憲を主導するなら、それは仕方がない。それがこの国の民主主義の姿だ。目先の金のためになら何でも売れる国民性であるから、それもひとつの民主制であろう。最初から憲法など必要としない民族であった。

そこまでの無垢さと幼児性でも国家を建国できたのである。それで良しとすれば良いのではないか。何をしようがこの国が亡びるはずがないという戦争があったばかりである。

しかし、別に滅びてもいいのである。それはこの星が滅びるよりはずっとましである。この星で幾つもの生命が消えていった。

残った生命が優れていた訳ではない。滅びた生命が劣っていた訳でもない。それぞれ環境に応じただけである。残った世界には姿を変えた何かが生まれるだろう。滅びる事で初めて次の世代が誕生する。それは価値のある絶滅ではないか。

憲法は未来への切符だから、そこにしたサインがどこへ向かうかを我々は知らない。だが、この切符の行く先を、未来の人は理解するだろう。どんな切符であれそれが民意である、民主主義であるならば、そう懐かしむしかない。

道徳

憲法は道徳であるか、否。しかし道徳について考える事と等しいのではないか。

理想がある。理念がある。それを生み出す根拠とは何か。理念を生み出す根源とは何か。同様に道徳の根拠とは何か。

我々はそれを好ましいもの、信じられるものと知っている。なぜ知っているのか。世界の平和や国民の繁栄は正しいし望ましい。でもその正しさは説明も証明もできない。

なぜ憲法を書くのか、悩むからであろう。悩んだ末にこれは書く、これは書かないという取捨選択がある。そこに価値がある。憲法を法律を統べる王としか認識できない者に憲法は書けない。世界には憲法と名付けられた憲法でない法律がある。

何が好ましいのか、それを憲法に記す理由は何か。なぜそれが信じられて、誰に向けて書くのか。国家を統べるとは独裁者から国を守る、侵略者に屈しない国を作る、未来の国民に誇れる国家でありたいという願いを伝えたい。

憲法は国民に向けて書くものではない。決して。何故なら憲法は生まれてから読まれるものだからだ。読まれる事を期待している以上、それは必ず未来に向かってである。未来と過去の区別がつかない人には生涯分からないであろう。未来に向かうように見えて過去に向かって生きる者は尽きない。

人間は徳に関しては無意識にも正しいと思うものである。徳のある行為は万人で共有する。無条件に分かり合う事ができる。殆ど脳の中にそのような回路があるかのような反応である。

理由が何もないにも係わらずである。何故そうであるかを幾ら説明した所で利益以外の言葉はあるまい。合理的に考えれば利益である。これは答えではない。作用の説明である。これでは道徳とは腹が減ったと同レベルの情緒ではないか。ならば理念も情緒の一形態なのか。

そうかも知れない。人は誰もが徳は分かると信じている。これは相当な場合で確からしい。この能力を駆って我々はこれまで生存してきた。そしで、この能力を駆って我々はこの強大な法体系を構築し続けてきたのではあるまいか。

ならば、法体系の出発的にあるのは道徳であり、理念である。だから、それをそのまま法として書く事もできる。そして太古の人々は気付いたはずである。それだけでは不十分と。道徳と理念は矛盾の発生を止めないから。

道徳や理念をそのまま無条件に信じては危うい。だから法がいる。法だけでは危うい、だから憲法を記す。

そのような構造でなければ意味がない。素晴らしいものだから書くのではない。素晴らしいものと認めた上で、故に危うい。だから憲法にその危険さを記す。我々の中にある道徳や理想の何に警戒すべきか。それが憲法の正体である。