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2017年12月31日日曜日

運命の考察

Genius is one percent inspiration, 99 percent perspiration.


ひとつでも 多くの選択肢を探すことを努力と呼び、その中から ひとつを選択する決断を閃きと呼ぶ。天才とはその1%を見つけた人である。99%の人は見つけられなかった。

という事は、探す数の多さと天才との間には関係があるはずだ。3つの中から1つを選ぶだけなら誰れでも天才になれるだろう。100個ならば1%、10000なら0.01%。数が多くなるほど見つけるのは難しくなる。


3つの中に成功が入っているのなら簡単だが、実際はもっともっと多い。残り3つになるまで待てば「残り物には福がある」である。

100よりも1000よりも100億の方が難しい。ここで注意すべきは、数が多いほど見つけるのが難しくなるだけではなく、それだけの数を揃えるのも難しいという事だ。100より1000より100億の方が難しい。

もしそこに「当たり」が含まれていなくても3つならすぐに気付く。100でも分かるだろう。数が増えてゆくにつれ「当たり」が無い事に気付くのも難しくなる。100よりも1000よりも100億の方が難しい。まるで魚のいない海に糸を垂れるようなものだ。決して魚は釣れないのに。

問題はふたつある。
  1. その中に探しものは存在するのか。
  2. それを見つけ出すことは可能なのか。

魚がいなければ釣れる可能性は0である。また、決して釣れない魚なら、居たとしても可能性は0である。よって当たりを引くには、次の前提条件が満たされていなければならない。
  1. そこに存在する事。
  2. そこで入手できる事。

人間はこの前提条件が満たされているかどうかを知らない。だから魚が釣れるかどうかはやってみなければ分からない。分からないから、いつ諦めるかも人それぞれである。

どのような人もそれぞれの人にとっての合理性と論理的に従って行動する。どのような戦略を立てれば可能性が高まるか。

魚が居ようが居まいが釣れようが釣れまいが、すべての魚を釣れば答えは明らかだ。これが総当たりという方法で、当たりが出るまでくじを引く、くじがなくなるまで引いてみる。そうすれば間違いない。

しかし、海にいる魚をすべて釣るなど実際には不可能だ。だから別の方法を考えることになる。本当に魚はいるのか、と思えば、潜ってみて探してみればいい。どうも居そうにないとなれば場所を変えるもよし、その場所で待つもよし。

成功とは選択肢の中から「外れ」を取り除く事である。失敗しなくなるまで何度も試せば成功するだろう。

だから「運」が良いと言う時、それは時間的に早く訪れたという意味がある。なぜこんなにも早く当たりを引けたのか。それは誰にも分からない。ただ結果としてこれは「運」が良いと呼ぶしかない。そういう感慨がある。

もし全知全能の神がいるならば、神に運はないはずだ。すべて因果律のはずだから。当たりも外れも因果律として理解する神にとって、それが当たりであるのは当然だし、それが外れであるのも当然だ。それを神は運とは呼ばないであろう。当たりを引いた。外れを引いた。神にとってそれはただの現象でしかない。

当たりくじを引いたから運が良いのか。それとも当たりが存在した事が運がよいのか。いずれにしろ人はそれを「知らない」。

運命の人


この世界に運命の人はいるのだろうか。だが実際にそう感じている人はとても多い。

この世界には何十億もの人がいる。その全員と会うなど不可能である。その多くの人の中からひとりの人と出会った。

今の時代に生まれていない人とは決して会うことはない。違う国に住んでいれば出会う可能性はぐっと少なくなる。90歳の人と0歳の人が運命になる可能性も小さいだろう。時間がそれを決める。

地雷原を歩いていて地雷を踏んでも運が良いとは言わないだろう。小さな無人島でふたりが出会っても運命とは呼ばない。統計的考えをしない人に運命は訪れない。確率が小さいから運命になる。それを神の思し召しと言う人もいる。

宇宙にはとても多くの星がある。重力によっても決して出会えない距離がある。宇宙のほとんど多くはこの星の生活とは関係ない。生きているだけで丸儲けとさんまは言う。

ハビタブルゾーンに生まれた事ほどの強運はこの世界にはないはずだ。この宇宙だから人間が生まれたと人間原理は教える。それらを人は運の強さには勘定しない。なぜなら生まれた時に人はそれまでの強運をリセットして0に戻すからだ。生まれた瞬間は、全ての人が運において平等である。

なぜそれを運命と信じたいのか。それが運命であるべきなのは何故か。それが必ず起きる事であったと自覚したいからだろう。その人と会うのは必然であった、では足りない。なぜなら必然は一回しか起きないかも知れない。運命は何回やり直しても必ず起きる事を言う。そう思う事が重要なのだ。その自覚が、行動を決めてくれる。人間は理由を必要としているから。人を殺すのにさえ太陽の眩しさを欲するから。こうしなければ予言さえ成就しない。

運命という理由が行動を促す。運命を欲しない者は、運命という理由を必要としないはずだ。

強運とAI


同じデータを持っていても、推論が異なれば違う結論を得る。この人間の自然な考え方にAIが新しい視点を持ち込む。AIの推論方法は人間とは異なる。AIの強みは数の莫大さにあって、シンギュラリティの頃には人類がこれまでしてきた全ての経験さえも超えるであろう。数量がコンピュータの強みであり、人間は決して対抗できまい。

人間が強運と呼ぶものもAIはただの計算として提示するだろう。AIはそれを人間には圧倒的に計算力が足りないからだと答えるだろう。その足りない部分を人間は運と呼ぶ。その足りない部分を埋められるものを仮定する。それが神であった。

AIにも上限がある以上、彼らも神にはなれない。AIにも運はあるはずだ。ただ人間の運はAIの運とは認めてくれないだろう。ただ計算が足りないと答える。すると運とは、単に先が読めなかったという実感に過ぎない。分からないから適当に決めた。それが上手くいった。なぜ上手くいったのかは説明できない。

一度きりの選択を正しくした。それを運と呼ぶ、何度やってもきっと同じになる、そう信じるなら運命と呼ぶ。勝利にしろ敗北にしろ、運命ならば決して変わらない。そこに根拠など要らない。根拠がなくとも信じたい。

そして、塞翁が馬という。目の前の成功がなぜその先でも良い結果を呼び込むと信じられるのか。

よい運命、わるい運命


運が良いとは「当たり」を引くことだ。だが「当たり」とは何なのか。人生にとっての当たりとはいつ決まるのか。これを簡単に決められる人は運が良い。

もし強運になりたければ「外れ」を一切カウントしなければ良い。それが統計的手法である。ある結果を良いという時、それは過去に対する結果であって、未来を決めるものではない。

その統計データをなぜ恣意的に解釈したいのか。その解釈が決定的、つまり過去を正しく語るとき、なぜそれが将来に渡ってまで変わらないと信じる事ができるのか。なぜ良い行いは、さらによい結果をもたらずと信じるのか。なぜそのような因果を信じられるのか。

そこに因果応報という仏教的思想はないか。

くじ引きで試してみる


サイコロでなんど振っても次に偶数が出る確率は50%である。サイコロは前の結果に影響されないからである。

しかし、連続して1が連続するとき、次に1が出る確率は減ってゆくと感じる。これがどれくらい稀れかと言えば1が10回連続する確率は、1/6の10乗である。もちろん、これはさいころを10回振った時に出る全ての数の組み合わせと同じ確率である。すると連続して1が出る確率とは10回振った時のすべての数の組み合わせの中からひとつだけを選ぶ可能性と同じだ。

自然はサイコロの目を知らない。だから人間が起きにくいと考えること(次も1が出る)と、その時の確率(1/6)は違う。連続して1が出にくいのは1が連続するのが難しいからではない。その他の組み合わせも次第に増加しているからである。サイコロを振るほど、そのただひとつの組み合わせは全体の中に埋もれてゆく。

連続して同じ数が続く回数を数えてみる。

なぜ同じ目が連続する確率だけが低く感じるのか。それは他の数の組み合わせがたくさんあるので思い浮かばないだけの話ではないか。それ以外がどれくらいあるかが想像しにくければ印象しか残らない。この場合、印象とは覚えやすいと同じ意味である。

ゾロ目が覚えやすいのはそれが簡単だからだ。情報量が少ないからだ。なぜ1が連続すればそれを運命と思えるのか。確率は他の数の組み合わせと同じである。なのに何故1が連続した場合だけを運が良いと考えられるのか。それを引きが強いと呼べるのか。

運が悪いとは「はずれ」ばかりを引く事だ、運が良いとは「当たり」ばかりを引く事だ。そう漠然と考えているが、実際は運が良いとは単に覚えやすいだけの話ではないか。

もし運が良いのなら、初めから選択肢が少なかった可能性がある。運が悪いのなら選択肢が多すぎた可能性がある。そして、選択肢が多いほど、それは困難な仕事である。それにはチャレンジする価値があるかも知れない。

だから運命はビジネスになる


偶然が多いほど、それが必然に変わる。

「信じるか信じないかの問題じゃないんです。居たんです、そこに。確かにこの目で見たんだ。信じて下さい。」

起きない事が起きることと、起きにくい事が起きるのは決定的に違う。そして、起きない事が起きたのなら、実は起きていない可能性が高い。そうでなければ奇跡か、物理学の間違いである。

もし、起きにくい事が起きたのなら、それは起きにくい事ではなかった、ある条件ではよく起きる事であったと考える方が妥当である。

おそらく、人は誰もが運命の人と頻繁に出会っているのである。ただすれ違って二度と会わないだけで。その中でもっとも親しくなった人を運命の人と呼んだところで、それは当然と言える。彼/彼女も、運命の人なのだから。

とても多く起きていることでも運命と呼べば、それはたったひとつの事件だと考えるようになる。それがない世界など考えられなくなる。多世界解釈という世界観を聞いてもそう思うことから逃れられない。自分の子供が違う子供に変わっている世界など人は信じられない。

絶望の中に居る人に手を差し伸べるのに、運命という言葉を使うことが適切がどうかは分からない。誰かを救うために運命という言葉を使う人はとても多いだろう。それで行動できるのなら良いのではないか、とも思える。

だから、運命と言う時、だれかの言葉ではなく、自分で決めるべきだ、と言える。誰かに運命と言われたから運命だと思うのではなく、だれにも何も言われなくてもそれを運命だと信じるべきだ。もし、信じたければ。

だが、それならば運命と呼ばなくても十分ではないか。わたしがそう決めた、というだけで十分な気がする。

神の存在はまだ証明されていない。そして存在しないことも証明はされていない。そもそも神とは何かという定義さえ決まっていない。

それでも我々の世界に神はいる。いると呼ばざるを得ない。人は人を殺すのにさえ神という理由を必要とするだの。もし神がいなければ、別の理由を見つけるだろう。それは世界にとって不幸ではないか。

この世界には70憶の人間がいる。だから少なくとも70億分の1よりも大きい確率なら何が起きても不思議はない。誰かが経験する。その程度では奇跡とは呼べないのである。


2017年12月17日日曜日

日本国憲法 第二十六条 教育 再考

第二十六条  すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
○2  すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
第二十七条  すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
○2  賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
○3  児童は、これを酷使してはならない。

権利を有し、義務を負うという一文を以ってしても、起草者たちが憲法を通して日本に「民主主義の理念を理解すること」を求めているのは疑いようがない。

権利を有するのは分かる。誰も働く意欲を奪い去ってはならない。この理解は、人間の自由意志と絡めても分かりやすい。それで終わるなら、なんら考える必要もない条文である。

だが、義務とは何か。働く権利がある。ならば、その権利を放棄する自由も持っているはずである。

所がそれは違うと憲法は言う。権利もあるが義務も負う。権利はあるが、勝手に放棄してよいものではないと言うのである。

権利は人間が生来持っているものである。民主主義がそう規定するのだから、権利は民主主義に特有の考え方かも知れない。そうであったとしても、自由意志は民主主義の専売特許ではない。権利と同等の考え方なら民主主義でなくても見つけることはできるだろう。だが労働の義務とはどういうことか。奴隷でさえそのようなものを有していたか。

人間の自由は社会契約によって制限されるというホッブズの考え方を敷衍すれば、労働は契約によって人々に課せられたものであろうか。必要な経費と考えるべきであろうか。だが、それでは義務とは国家からの強制力として存在することを許す。そのような考えを民主主義は許すだろうか。なにひとつ国は市民に対して強制することはできない。それが理想であるはずだ。

民主主義からどうしても奪えない権利があるとすれば、それはロックの言う革命権であろう。選挙はこの革命権を体制の中に内包したものである。仮にそれ以外のすべての権利が消失したとしても革命権が残る限り民主主義は存続する。

アジアでは体制を打ち倒す正当性に易姓革命があった。どのような国体であれ政府を打ち倒すのにはそれなりの正当な理由が必要なのである。民主主義だけがそのような理由を必要としない。ただ勝て、選挙に勝利せよ。どのような方法であれ、勝利者がこの国を運営せよ。

だから民主主義では国家はなにひとつ市民に強制はできないはずである。選挙で勝つことは、国の独占ではない。好き勝手に何をしていいのでもない。義務を押し付ける自由を権力を持たない。

ベーシックインカムやAIの出現によって、働かなくても生きて行ける福祉社会が到来するだろう。それが絵空事ではない時代に、勤労の義務を理解するのは難しい。

もちろん、勤労はあらゆる労働を義務としたものではない。奴隷としての労働を求めているのではない。果たして勤労とは何であるか。憲法は二十七条を通して勤労とは何かを国民に問い掛けている訳である。

日本国憲法はその出自からして日本国民に民主主義の理念を教えるテキストの役割を負ってきた。これが他の憲法とは異なる特異性であろう。

日本国憲法は人間が探求してきた理念や正義という概念と向き合わざる得ないように書かれている。その一文の中に憲法としての役割だけでなく、読む者に理念の探求を求めている。

もちろんその理念の多くはヨーロッパで生まれたものであり、アメリカで今も壮大な社会実験が進行中である。日本は明治にそれらの憲法を学んだが、その多くは伊藤博文に負った。彼の慧眼が憲法と西洋の法体系を極めて正しく理解していたことは疑いようがない。

にも係らず、大日本国憲法はそれから70年近く一度も改正されなかった。最初に書いた憲法の中にどんな間違いもなかったなどあり得ない。70年もの間に世界の変化や新しい価値観の登場が憲法に修正を必要としなかったなど考えられない。それが一度も起きなかったと戦前の憲法は言っているのである。つまり日本人がどれほど憲法というものが分かっていなかったを示す証拠なのである。

アジアにはアジアの法体系と理念がある。特に、東アジアで生まれた政治理念とヨーロッパを発祥とする理念(ここではアフリカやイスラムなどは触れない)を、我々は完全には統合できていない。その綻びは長い間、この国の中で不協和音や矛盾、誤解や無知として残っているはずである。

この国の不幸は官僚と言えども憲法を読んでいないことにある。小学生が憲法を読むこともない。戦前は教育勅語を暗唱していたことからくる反動であろうか。まさに誰も憲法が何であるかを知らないのだ。誰もが数学オリンピックの順位で一喜一憂するが、憲法を読まないことを憂える人はいない。

この国の人々は元来が実学にしか興味が湧かないのである。短期的な利益を追及することに最も勤しむ人々であった。もちろん空襲中の空母の甲板で親鸞を語っても仕方がない。それはそうであろう。同様に明治の開国期に実益を重要視したのも致し方のない事であったろう。

しかしどのような実学も文化があり理念という背景に支えられるものである。それがしっかりと後ろから支えなければ長く続くものではない。目先のことばかりに心を奪われて、長く遠くを見る力が欠落してはさほど遠くへはいけない。

戦場での武勲ばかりに興味がゆき、一週間程度の戦闘に勝つことしか興味のない連中が短期決戦を挑んだ。短期の実利ばかりを追い求めるから二年以上の長期戦を戦い抜ける人材はどこかに飛ばされてしまった。

戦争とは補給が長く続いた方が勝利するという当然の帰結を失った軍隊がどのような末路を辿るかを証明するためだけに戦争を挑んだようなものである。

日本が実利の探求を重視する短期指向が強い事は、この国の伝統かも知れない。憲法を教えていない以上、理念などで国を動かす気はないのである。短期的な実益を追い掛ける人材が優秀だと言っているのである。そうやって短期戦に勝つことばかりに目が向いて、長期戦など忘れ去っている。敵が短期戦を挑んでくるとは限らないのに。

大方針は長期戦で構えるものである。どのような国もそうやって国を営んできた。アメリカもそのように戦ったし、中国も同様である。

尖閣諸島は、40年以上も前に打たれた鄧小平の捨て石であった。この捨て石が息を吹き返す。40年以上の無言の意思のリレーがある。

長く忘却せずに根気強く活用の機会を伺う方法もあれば、終わった事はきれいに忘れて再構築する、問題が起きたらその場で対処する方法もある。

重厚な布陣と堅牢な要塞に立て籠もる持久戦と、軽快な立ち振る舞いと軽やかさで戦場を駆け抜ける騎兵のようなものだ。得意不得意はあれども、国がこれしか採用しないなどということはあり得ない。

たったひとつでも弱点があるようではプロと呼べないと語ったのは米長邦雄であった。相手が腹を据えて持久戦に持ち込んできたなら、こちらにも長期的な戦略で立ち向かうしかない。

長くこの国を守りたいのであれば、小学校で憲法を通読する所から始めるべきである。

我々はみんなが義務を負う。だがそれは憲法に書かれているからでも、国家から強制されたからでもない。義務を果たすことは権利を要求するための条件でもない。

なぜ憲法に義務の記述があるのか。国は何を市民に求めるのか。そうではない。義務を負うのは国であって、市民ではない。教育の義務を負うとは、国家は教育が施せるだけの環境を整えなければならないという意味であって、教育を強制されることではない。

もし教育の価値を認めないなら受けなければよい。好きに生きればいい。少なくとも飢え死にしないだけの面倒は見るよと憲法には書いてある。そのような人生観であっても非難しない、それがこの憲法である。

勤労の義務とは国家は勤労を可能とするだけの労働環境を整えなければならない、という意味だ。そうしたところで市民がさぼろうが、遊ぼうが、それは自由である。義務は国家に帰属する。権利は市民に帰属する。

さて、問題がひとつある。納税の義務である。こればかりは、市民も逃れようがないのである。

2017年12月16日土曜日

日本国憲法 第二十四条 再考

第二十四条  婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

短くすると

第二十四条 婚姻は、ふたりの性両性が同等の権利を有する。

要するに

両性をどう解釈するかを、憲法制定者たちが考えなかったなどという事があり得るだろうか。

考えるに

同性婚を阻むものとして日本国憲法があると新聞に書かれていた。その程度の時代の変遷に耐えきれぬほど、我々の憲法は脆弱であろうか。憲法制定者は未来に対してそれほど盲目であったろうか。

法律は解釈を許すことで弾力性を持たせている。と同時に、勝手な解釈を拒否し権力の暴走を許さない。この両立をただ言語の解釈(判例)にのみ委ねるている。それが法である。

21世紀の性は漸く戦国時代まで戻ったと言うべきか。日本では織田信長と蘭丸の例を持ち出すまでもなく、性の組み合わせは実に自由であった。それを忌み嫌らう理由が丸でなかったのである。

性をひとつの組み合わせに限定したのは、当然ながら文明である。そうなった理由は明治の元勲たちが揃いも揃って女好きの変態どもだったからであろう。案外、西南戦争とは、女とだけ付き合えという官軍に対して、同性だって良いじゃないかという薩摩軍の反乱だったのかも知れぬ。

さて、両性の定義を男女に限定するなら、憲法制定者は男女と明記したに違いない。制定者の中に密かに同性愛者が居たならば、そのような記述を阻止しようとしたであろう。今は認められなくとも未来は分からない。故に将来への布石として記載に工夫を凝らすのは当然と思われる。

Marriage shall rest upon the indisputable legal and social equality of both sexes
結婚はどちらの性にとっても法と社会の前で明らかに公平なものである。

憲法草案には both sexes とある。これが両性の元意である。両者の平等と両者の意志を尊重し、他者からの強制や支配を排除するためである。

その理念は性による不利益への抗戦でもある。だから、婚姻が男女間に限定されるのが性差による不利益になるならば、それは改めなければならない。男女だけが婚姻の条件では両性具有者が考慮されていない事になる。それは法の前の平等に反する。

両性を、男女ではなく、ふたりの性と解釈すればそれで十分であろう。そうするだけで婚姻はずっと広い意味を持つ。どのような性であれ、婚姻を妨げるものはない。それが憲法の理念により合致すると思うのである。

男女の解釈は幾多のひとつに過ぎない。そこから動けないほど我々の憲法は頑迷ではない。改定を待つまでもなく、この憲法は異性はもとより同性の婚姻をも妨げるものではない。夫婦という言葉さえ夫が男で婦が女である必要もない。同性婚者も夫婦であってよいし、それ以外の呼び方があってもちっとも構わない。

この憲法が規定するものは、婚姻という制度がある事。それはふたりの間で結ばれるものであるという事。それ以外の規定はすべて解釈の範疇である。

だから憲法は3人以上の婚姻については想定していないとも言える。婚姻がひとりにひとつであるとは規定しないが、複数を認めるとも明記しない。もちろん、重婚、一夫多妻、一妻多夫などの関係は民法の範疇であり、憲法の知るところではない。

では異種間の婚姻はどうか。幸い我々はまだ異星人との邂逅を達成していない。だから考えられるのは、他の動物種か無機物、例えば人の形をしたアンドロイドがあるが、憲法はこれについても明記していない。流石にこれは想定していなかったと思われるが、そうであっても別に構わないのである。つまり憲法はそれらを禁止していない。社会の変遷に託しているからである。

2017年12月9日土曜日

日本国憲法 第三章 国民の権利及び義務 V (第二十九条~第三十条, 所有)

 第二十九条  財産権は、これを侵してはならない。
○2  財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
○3  私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。
第三十条  国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。 

短くすると

第二十九条 財産権。
○2 財産権は、法律で定める。
○3 私有財産は、公共のために用ひることができる。
第三十条 納税の義務。

要するに

権利とは手に入れたもののうち、誰も奪ってはならないものであり、義務とは自ら進んで誰かに与えるもののうち、誰も所有してはならないものである。権利と義務の先には所有があり、その先には自然がある。

考えるに

租税はかつて略奪であった。決して義務ではない。それをこの憲法は義務と言う。では略奪ではなく租税が義務と言える根拠はどこにあるのか。それが説明できなければ国家の寄って立つものも瓦解するだろう。

人間は太古から色々なものを略奪してきた。隣人のもの、隣村のもの、誰かの手にあるものを、そして自然から。それは野生動物の行動と何ら変わるものではない。生命は命を略奪する。食べるためだけでなく、面白おかしくあるためにも。

しかし、野生生物に奪うという考えはあるだろうか。ヴィルスや細菌にそのような考えがあるだろうか。奪うという考えが成立するには、所有という概念が必要である。

自然には所有という考えはない。自然は誰かの所有物ではないし、財産でもない。冬に向けて木の実を集めるリスも、その所有権を訴えたりはしない。

奪うものは、誰かの財産である。財産は誰かが所有するものである。だから所有しているから略奪できるのである。所有していないものを略奪するなど不可解な話である。

しかしもともと人間は自然にあるものを略奪してきた。自然は誰かの所有物ではないから、何も問題は起きない。ただそれでは何かが不足しているので、自然を神のものと考える事で納得した。それは丁寧に祈りを捧げれば許す神である。山で誰かが死ぬとき、それは何かを破ったと納得する事ができた。

自然にあるものは誰の所有物でもない。それを人間の世界に持って来たら価値が付く。この価値が財産である。価値があるとはどういうことか。誰かと何かを交換できるという事だ。価値がある。それを同じ価値で交換する。そこに所有という考えが生まれる。

交換するためには境界が必要である。境界によって内と外を別ける。だから交換が可能になる。自然と人間の間にも境界はある。内と外で全く異なるルールが働いていても問題はない。

例えば、頭の中にある思考やアイデアも自然に属す。だから考える事はタダである。それを人間の世界に持ってきたら価値が生まれる。その価値は所有物のひとつなのでお金に変える事ができる。

人は自然から略奪してきた。略奪してきたものは私の所有物である。所有しているものは誰かと交換できる。物が交換される時、所有権も移動する。逆に言えば、交換に絶対必要なものは所有権の移動であって、物が移動する必要はない、とも言える。

ならば、略奪とは所有権が移動しない交換である、と考えてられる。自然から略奪するとき、そこに所有権はない。だから、自然から得たものに対して誰も文句は言わない。自然から略奪したときに、初めて所有権が付与される。

だが誰かが所有するものを略奪すると、所有権が移動したとは言えない。それは自然から略奪するときの方法だ。それを人間の世界で行っている。

略奪されて初めて人は略奪によって所有者を変えてはならぬ、と考えるようになった。これが正義の始まりである。略奪ではない正当な交換によってのみ所有者は移動する。そうでない交換は認めるべきではない。これが人間の世界だ。

ここに自然という世界と人間の世界のルールに違いが生まれた。人は自然界からは略奪する事しかできない。一旦、人間の世界に持ち込まれたものは人間のルールが適用される。

自然には所有という考えはない。よって誰かから略奪するとは、その相手を自然と見做している。それは相手を人間として扱っていないという事に等しい。

人間が所有するものをいつ誰と交換するかは所有者の完全な自由である。これが人間の世界の自由というものである。よって所有していないものを自由にする権利を人間は有しない。

すると自然の中には自由は存在しないのではないか。だから「自然状態」に完全な自由があると考えるのは、その時点でそこは所有のある人間世界の理想状態と考えなければならない。この自然状態においては、意思というものは人間が完全に所有していると考える。この前提があって初めて自由意志が成立するからである。

自然の中で生きる生物にももちろん意思の自由はある。右に行こうが、左に行こうが完全に自由である。では自然にある自由と人間の世界の自由は何が異なるのか。それが所有であろうと考えるのである。

人間にとって最も価値のあるものは命であるが、この命を人間は所有していない。自然が停止を要求すれば、我々はそれに抗えない。

所有できるものは交換できるものである。交換できるもののみが所有できるものである。命は交換できない。だから命は所有できない。

自然は命を奪うことを許している。だが人間が他人の命を奪ってもそれは所有できないものである。よって、その行動は自然からの略奪とは呼べない。もちろん、人間の世界にある交換でもない。

一般的に殺人は命を奪う行為ではない。命を奪うことは出来ない。なぜなら命は所有できないのだから。どういう理由であれ、殺人は命を所有するための行動ではない。

人は自然から略奪してもよい。だが人の世界では略奪は許されず交換しなければならない。だから、人の世界には人の世界のルールがある。自然の世界には自然のルールがある。このふたつの間を勝手に行き来することは許されない。勝手に境界線を決める事は許されない。

人をまるで自然にあるものと同様に扱うから殺人は激しく罰せられるのである。それは我々の世界にある境界線を無視した行為だからである。そのようなものは自然に追放するしかない。

自由とは交換する自由の事である。だから自由とは交換をする自由、またはしない自由である。そして所有している物に対しては完全な自由を有する。破壊することも改変することも自由である。

南部奴隷は白人所有者によって自由に扱われた。それは彼らにはその人たちへの所有権があると信じられていたからだ。だから所有権を否定すれば奴隷制度は自然と瓦解するのである。だからと言って所有権は人種差別の理由ではないのである。

時に女性を自分の所有物と勘違いする人もいる。これは価値があるものを所有していると考える方が安心できるからである。もし価値のあるものを所有していないと考えると不安で仕方がなくなるであろう。これが安心する仕組みでもある。

租税は我々の財産を国家が略奪する仕組みである。かつて、それは我々の財産ではない、と説明していた。農奴に財産の所有権はなかったからだ。

豊かな天然資源を持つ国には税金のない国家もある。だからといって租税が義務である、という考え方を撤廃しているはずもない。ただ必要ないだけで税金は必要なのである。

それは略奪ではない、税金とは国家のサービスを購入する対価である、という考え方もある。だが、それならば納税の義務とは呼ばないのである。それは契約である。

そもそも義務とは何か。それは権利の制限である。なぜ権利は制限されるか。それは他の権利を守るためである。誰かの権利を守るために、他の誰かの権利を制限する。それが国家の創発であろう。権利も自由も無制限に許されていたはずである。それが社会になれば無制限では済まず、権利の制限が必要になった。

国家を成立させ社会をそこに育むためには権利は制限される。その制限によってよりよく権利を守れると考える。その守りたい権利とはどうやって取捨選択するのか。その考えが公共である。最大多数の最大幸福。幸福の定義が曖昧な現代では最大多数の最小不幸という考え方もある。

憲法の義務は極めて少ない。それでも教育、勤労、納税は国として欠かせないものとして見ている。義務は他の権利のための制限だから義務を負うものにとって直接的な利益はない。だから簡単に放棄しうる。それを義務とし放棄は許さないとするのが憲法の立場だ。

安心するために核保有しようとする国家がある。核兵器を所有する自由はどの国にもあるように思えるが、使用する自由はないように思われる。

核兵器をどのような国家なら所有が許されるか、それは極めて歴史的な偶然に過ぎないが、使用は強力に制限しなければならない。これは自然と人間の対比というこれまでの考え方では説明できない考えである。なぜ兵器が強力になっただけでこれまでの考え方が通用しなくなるのか。

所有しているのに自由に使ってはならない根拠は何か。ただ兵器が強力になっただけなのになぜ自由を制限しなければならないのか。それを禁止したり制限する根拠が従来の考え方では示せない。

核兵器を前にして我々は何でも所有してよいという概念を失う。所有しているからと言って、自由にしてはならない。核兵器は「絶滅」を現実にする。それは自然からの略奪というレベルを超えている。

人間は多くの他の命を終わらせてきた。それは自然に生きる多くの生命も同様だ。この世界の命はまるで他の命に対して無関心である。種の絶滅に対してさえ自然は無頓着である。まるで原子、分子は何ひとつ変わっていないじゃないかと主張しているかのようだ。蝶を捕らえたカマキリには蝶の体が必要である。その結果、命が失われるのは不可分に過ぎない。

自然はそうかもしれない。だが、絶滅は、どのような神も思想も想定していない。

(国家はなぜ衰退するのか/ハヤカワ文庫)