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2012年9月7日金曜日

三軍可奪帥也、匹夫不可奪志也 - 孔子

巻五子罕第九之二六
子曰 (子曰く)
三軍可奪帥也 (三軍も帥を奪うべきなり)
匹夫不可奪志也 (匹夫も志を奪うべからざるなり)

(訳)
ああ、なんという事だ。
匹夫でさえ志しを持つ。
志しを持つ事はまことに結構な事だ。
だが誤った考えを訂正するのは斯くも難しい。
ああ、もうこいつを説得するのは諦めた。
俺に軍の指揮権があれば、こんなやつ、ぎゅうぎゅうとしてやるのに。

夢の中でうつつにこの言葉が浮かぶ。夏の寝苦しい中で何故かこの言葉が繰り返し思い浮かぶ。俺はただ惰眠をむさぼりたいのに、夏は寝苦しくて、夢の中にまで言葉が浮かんでしまう。

匹夫も志を奪うべからず。

なぜこんな言葉が浮かぶのか。

何故だろうか、奪うべからずは、奪うな、奪ってはいけないと思い込んでいた。匹夫の志しも奪ってはいけない、と思っていた、だが孔子は奪えないと嘆息したのだ。彼は奪えない事を前提としている。

本当の事を言えば奪えないはずがない、軍という発想のある人に他人の志しを奪う方法が思いつかなかった訳がない。だがその者を死に至らしめる事で志しも死んだ事になるのか。もし志しが消えてなくならないのであれば、他の誰かがそれを継いだとすれば、それは奪った事にはならぬ、奪ったのは志しではない。

奪ってはならぬ、とは恐らく命を奪ってはならぬ、と思っていたのだろう。志しのために相手の命を奪ってはならぬ、何故なら、命では志しを奪えないから。それでも命は奪われる、その命を奪ってゆくのもまた志しではあるまいか。

テレビを見ろ、金や感情でフラフラと意見が変ってゆく様が目の前を流れてゆく、昨日まで素晴らしい人が今日は犯罪者扱いされる日々ではないか。あやふやな科学知見に基づいた正義で主張するばかりではないか。

奪うなと言っているのではない、それは奪えないと嘆息しているのだ。最後のひとりになるまで徹底的に排除するのか、それで済むような話であるか。だから僕は原子力を巡る言論に辟易としているのではないか。ここには議論などない、あるのは志しの対立だ。

はて孔子の志しは何であろうか。

志しなど誰でも持つ事ができる。匹夫でさえも持っているではないか。だがそれが志しであるから尊いわけでもない。志しとは生きると同じ事かもしれない。生きるがそれぞれの人だけあるように志しもそれぞれあるのではないか。

志しとは人それぞれであって誰も触れる事ができないものである、と嘆息したのであろうか。ちょうど命がそれぞれの人にそれぞれあるように。

小林秀雄に「匹夫不可奪志」という小品がある。

弟子の誰かが、君子はただ志を立てるのを貴ぶというような事をいったところ、孔子が、匹夫不可奪志也と答えた、そんな風にとれる。

志なんて誰でも持ってるからねぇ。そんなもの、彼は生きていると言っているのと同じだよ、それくらい見ればわかる当たり前の事なんだ。

志と言っても色々だ、立てた志に人が集まる事もあれば、人を集めるために志す者も居たりするんだから。

自分の周りに、恰も、軍勢でも集める様に集めて、志が立った積りなのである。だから、いう事がさかさまになる。志が立ったものに論破すべき論敵があるのは当然ではないか、云云。孔子は笑って答える、三軍可奪帥也。

そんなもの志でもなんでもありゃしない、ただ人に勝ちたいという己れの欲望だろうよ。

論敵を論破するために志が必要なのかい、それでは主義主張ではないか、何かを破るならそれは軍である、その軍も何かに打ち破られる、ならば何かを打ち破るために立てた志など何時かどこかで打ち破られるに決っている。だからそれは違うのである、志は奪えないと孔子は言ったのだから。

悧巧と馬鹿の話しや経験の話しが続く。志とどう関係しているのだろうか。

経験というものは、己れの為にする事ではない。相手と何ものかを分つ事である。相手が人間であっても事物であってもよい、相手と何ものかを分って幸福になっても不幸になってもよい

なぜ小林秀雄は経験という話を持ち出したのか。なぜ女を知っているかどうかの話しが経験を語る例え話なるのか。悧巧を生み出す為には馬鹿を必要とするように経験が人を育てると世間では思っている。

経験というものを、何かの為にする手段とか、何かに利用する道具とか思い勝ちな人には聞こえにくいのであるが、それは兎も角、

経験を積んで狡猾になるか、経験を戒めて無垢になるか、いずれにせよ己れ本位に違いない。そうではないのだと、経験とは逃れられない運命なのだと言う。

いずれにせよ、経験の方では、ぶつぶつ言うのを決して止めない。それに耳を傾けていさえすれば、経験派にも先験派にもなる必要はない。この教訓は単一だが、深さはいくらでも増して行く様である。そして、あの世界がだんだんとよく見えて来る、あの困った世界が。

ここで言うあの世界とはどの世界か。彼は語らない。はっきりと語らないけれど誰もが良く知っている世界には違いない。そこに見出す志とは何であるのか。

それぞれの馬鹿はそれぞれ馬鹿なりに完全な、どうしようもない世界が。困った世界だが、信ずるに足りる唯一の世界だ。そういう世界だけが、はっきり見えて来て、他の世界が消えて了って、はじめて捨てようとしなくても人は己れを捨てる事が出来るのだろう。志を立てようとしなくても志は立つのだろうと思える。

この文章だけならば、志を覚悟に置き換えても意味は通じるのではないかと思う。匹夫もその覚悟を奪うことはできない。なぜ覚悟ではなく志と言ったのか、それは覚悟した者は殺せばそれで終わりであるが、志を立てた者は殺しても終わりにはならないからである。志は受け継がれるものだからである。志の己れのうちにある内向さと、誰かに伝播する力との間に奪う事の出来ぬ強さを見る。ああ、そういう志などまっぴらだ。

もし誰かに勝ちたいだけの欲望であるならば、それは数の多い方の勝ちだ、そんなものは三軍可奪帥也と言えば十分である。

経験とは誰かとの関係性の中でしか起きないものであるが、その経験が心の内に残すものは関係性とは別のものではないか、それは他と置き換え不能なものになっている。他と置き換えられないような経験でなければ空想とでも呼んでおけばよい。

それまでは、空想の世界にいるのである、上等な空想であろうと下等な空想であろうと。それまでは、匹夫不可奪志也と言った人が立てた志はわかろう筈もないのである。

恐らくの意味だが、他の志を奪えないと嘆息する人は自分の内に奪いたいという欲望があったに違いない、だけれども奪ってどうするとも思ったはずである。奪えないとは、即ち私は誰の志も奪わないという決意であったのかも知れぬ。いや、他の人の志になんら思うこともないという話かも知れぬ。そういう興味を失った所で、私にも志と呼べるものがあったよ、と振り返る。志を立てる事は容易いが後から振り返る事は案外に難しいかも知れぬ。ただおよそ、人の立てる志とは最初は大変に小さなものであったに相違ない、いつの間にそんな大きな志になったのか。

孔子に他人に語るような志があったのだろうか。そう尋ねたら彼は笑って言いそうだ、匹夫不可奪志也。俺の志など人に語る程のもんじゃないよ、そっとしておいてくれ。

僕はただ奪えない志とは、学びたいという情熱だけは奪えないことだと思っている。

彼は注意深くこれは相対主義の話しではないと一言を付け加える。そう書いておかないと誤解されるだろうと危惧したのであろう。ではどこが相対主義に似ているのか。書いてゆく段階で相対主義と混同しそうに思えたから一言を付け加えたに違いないのだ、それは何か。志は絶対的に己れの内の事であろう、それが誰かとの関係の中で成立する、そういったものを志と呼んで訝らない人を見ていたのか、その辺りについては何とも考えをトレースできないでいる。

ともあれ僕はこれを彼の恋文ではないかと勝手に思い込んでいる。なんだが書きっぷりが恋煩いくさい。彼は志というものの中に何やら恋愛とも通ずるものを見た、それを借りて己れの心情を書いて見た、そういう風に読める。恋というものはわからぬ、だが己の中にひっそりと生じ、そして誰かとの間の関係になろうとする、それを戒めた。

志と同じように恋を貴ぶ、それくらいなら犬猫でもしているさ。誰かのと関係で恋を実らせるのにあの手この手を使うことも可能だろう、だが、それは三軍で愛人を手に入れるのと変わりはしない。それは好きな人の前で悧巧でありたい、良く知りたいという欲望と同じなのだ。よく分からぬその世界に落ち込んでゆく、人であれ物であれ、恋するようにのめり込まなくてはどうしようもない、しかし恋焦がれ足を取られる、そこに本当の自由というものがあるのやら、ないのやら。

僕は恋を重ねるような思いで論語に触れたことはない。ただ夢うつつで思い浮かび印象に残った。僕が思うに志しとはたぶん言葉の事だ。誰も言葉を失う事はできない。不思議な事だ、ヒトが生まれたのは長い地球の歴史の中で進化の必然だったかもしれない。だが言葉が生まれた事には何の必然性もなかった。

言葉が生まれたから今の我々がいるし、言葉のない世界を思い浮べる事も出来ない。言葉以外の何が言葉の代わりになるだろうか、感情も、論理も、思いも言葉になる。一方で言葉に出来ないものがたくさんある事も知っている。言葉の後ろに何かがある、孔子はそれを志しと呼んだのだろうか。

否、そうではなかろう。志しとは逆に言葉の一番先端にあるものではないか。先端にある言葉さえ奪う事ができない、ならばその背後にあるものなど誰が奪い取れようか。我々の脳髄に音を再生する能力があったから言葉は密接に音と結び付いた。音は言葉よりも広い。光りでさえ音で包み込む。だから言葉は様々な姿になる。初めにことばがあったとも言うではないか。他の星から来た知的生命体に人類を紹介する時にはこう言うがいい、我々は音から生れた猿だと。

人は色を失えど音を失えど
言葉を失うべからず

星から光を奪えども
猿から音を奪うべからず

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