3/14
海が悪いわけでもない、大地が悪いのでもない。海岸に迫りくる津波は、物理の法則が示す通りに海岸に押し寄せた。誰も悪い訳ではない破壊があって、人々の想像を遥かに超えて、これだけの悲しみを残した。
初動としての遭難者の救出もあと一週間もすれば一区切りするだろう。そして次は長期的な避難生活が始まる。当初の興奮も収まり、これから粘り強く耐えてゆく生活の再建が始まるのだ。快適な布団、トイレ、お風呂が必要で、加えて食料、水、この5つが確保されねばなるまい。伝染病の蔓延や衛生の劣化などに対応するインフラの復旧が早急に整えられるだろう。
生活する上での最初に必要な事が十分に供給されれば、次に必要なのが娯楽だ。娯楽と言うよりも心の飢えを満たすものだ。音楽、小説、漫画、囲碁、将棋、スポーツ、舞踏、演劇、映画、数学、文学、学問、ゲーム・・・そういうものが必要だ。戦後の焼け野原で貪るように漫画を読んだという話を聞く。娯楽に飢えるのはもう暫く先かもしれない、しかし、4月になれば必ず飢える。
もうすぐだ。
今年も東北の地にも櫻は咲くだろうが、それが一つの象徴となって欲しい。ゴルフのパター練習マットも娯楽としては最適だろう。野球やサッカーが始まれば、それを映すテレビ、ラジオも必要となってくる。
勿論、仕事が重要な心の飢えを満たす。それは破壊された地域の復興の中心となるだろう。経済が落ち込むというが、それは一時的で暫くすれば必ず復興が始まる。復興は悲しみと喜びの中から始まる。みんなの掛け声が聞こえて来る。
どこから手を付けてゆくんだろうと、テレビの映像を見るだけでもクラクラするが、実は簡単な話であって目の前のものから片付けてゆくだけの事だ。片付けるのには、小さなものから手を付ける派と、大きなものから先にする派がいるだろうが、どちらでもいい、それぞれの地域でそれぞれに復興してゆく。これだけの大災害であるから、見捨てなければならない地域もあるだろうが。
それは遥かに想像を超えているが、だからといって無理な話しではない、行方不明の人は最後まで見つからないかも知れない。携帯電話はどの基地局と繋がっているかという情報を持っているから、どの時点で、どの基地局と繋がっているか、という情報があれば安否情報を確認するのに参考になるかとは思われる。それは時間が経てば生前の最期に生きた場所として残された者には大切な話になる。
機構的に破壊され過ぎて駄目な可能性も高い。国の予算も無尽蔵ではないので、何もかもは出来ないだろう。だが、自粛だの不謹慎などという言葉を今ほど遠ざけるものはない。他の地域の人達までが経済的にも心的にも沈み込んでしまってどうするのか。
娯楽でもゴルフでも買い物でも風俗であろうと、今こそ、金を使って使って使いまくる。それが被災者(東北の人、旅行中だった人、留学中の人達)を支える。彼らの分まで飲み食いせよ。国内の全てが停滞して東北を捨て去るような事をさせない為にも、生活再建する時に彼らの仕事がないと言う様な事にしないためにも、もし復興を願うなら金を使って使って使いまくるべきだ。
それは不幸な破壊であったが、一からもう一度再建するのだから、それは希望の再建だろうと思う。これだけの破壊が我々の精神に何も残さないとは考えられない。それが、遠くイノベーションを生みだす力になると信じる。
3/15
テレビの報道は難しい。専門家も素人も満足させる情報を的確に伝えるのは至難だ。例えば、燃料切れで給水停止とあるが、燃料切れの理由が他を見回っていた為と言うのも疑わしい、疲れて寝てしまったのじゃないかと思うが、それを咎める理由は感じない。
何人が作業に従事し、どれだけの労働が行われているのか、一定時間での交代も必要であるし、十分な休養も必要である、必要なものが十分に取れているのか、彼らの労働環境もよく分からない。
別に真相を究明せよと追求したい訳ではない、それは、彼らのただでさえ忙しい状況を、無駄に圧迫するだけだ。現場がどのような連絡体制と情報網の上に成り立っているのかは純粋な技術者的興味として気になる。スピーカーをずっと ON 状態にして NASA の宇宙船と管制官のように会話するのか、それとも、時たま電話で連絡するのか、FAX で定期連絡を入れているのか。全ての通話をだだ漏れさせた方が早いんじゃないかとも思うし、そっちの方が負担も軽くなると思う。でも、それでは素人を無暗に不安に陥れる懸念があるだろう。それ以上に社会的な圧力で自由な判断が制限される状況が恐ろしい。
つまり、素人は口出しするな、というのが本心だろうし僕でもそうする。ROM ってるだけなら何でも公開する。例え専門家からであろうとも横槍を入れる余裕はないと考える。
例えば、 http://www.tepco.co.jp/cc/press/betu11_j/images/110314s.pdf にはモニタリングカーによる計測結果が報告されているが、こんなものは車にバッテリーと計測器、通信機器(携帯電話とかその類)を載せて10分置きに計測結果をサーバにアップロードする機械を積んでおけば十分である。そのような車をあちこちに放置しておけばそれでいいじゃないか。後はデータベースと Web がプログラムによって勝手に表示してくれる。
情報を公開するには生データが理解できる専門家もいれば、暗号にしか見えない人もいて全員を満足させるのは難しい。更には被災者とそれ以外の人もいて其々が望む情報も違っているだろう。その違いがメディアのそれぞれを特徴付けるのかも知れぬ、テレビとラジオの放送内容の差ともなって現れるかも知れぬ。
データの収集と加工には大変な労力がかかるものである。新しい情報公開の局面に来ている。専門家は生データを欲し、大部分の人は、公式発表と色々な専門家の意見を比較したい。そのためには一次資料をどう公開して行くかが重要になり、これは公開できない情報とは何であるか、理由は、という議論に突き進む。
決して政府や当事者の発表は信じるに値しない、という話ではない。マスコミという一次加工者だけでは70% の満足しか得られないから、残りの 30% をどうやって埋めていこうかと言う話に過ぎない。
今回の様な大事故は初めての事であるし、ここでの反省は必ず次回に生かされるであろう。これで十分だと思う人もいれば、情報が少ないと感じる人もいる。専門家だってもっとこういう情報が足りない、と声をあげるべきだし、それを当事者の耳にまで届ける仕組みもいるだろう。それは現場の人たちだってそう感じているだろう。情報とリソースの不足の中で、それでもしっかりとやって欲しい。
自分としては基本的には ROM に徹するつもりだ。当事者たちの邪魔はしたくない。マスコミ(特にテレビ朝日)が不安を煽るモードに入って、例えば、アナンサーが焦った口調や深刻そうな語り口でオンエアに乗せる。延々と津波の画像に恐ろしげな声をあてて流してたり、解決も見えていない時点で既に批判的な意見が飛び出す。
これだけの事件でさえ、マスコミは、後から十分な検証をする気はないようである。だから、話題が新鮮なうちに全部言ってしまおうと思っているのだろう。批判は後から幾らでも受ける、今必要な事をなす時なので邪魔なものは全て後からにしてくれ、今はそういう状況だと思うし、報道もそれに徹するべきだろうかと思う。
今回の津波に関連して、もし先の戦争中に生きていたら、俺って、大本営発表をまぁ鵜呑みにはしないまでも、肯定的には受け入れていたんだろうなと思った。これには自分でも少し驚いた。今の政府は十分に信用に足る状況にあり必要な情報も出しており、しっかり対応できていると思う。何より今の政府に対して意味のない批判を聞くと、その人を非国民とは思わないが、こいつダメと思う。
例えば、ゲンのお父さんのように、もう戦争は終わりじゃ、負けるんじゃと言う様に、もう福島は終わりじゃ、爆発するんじゃ、と聞けば、頭クルクルと言ってしまいたくもなる。そんぐらい分かっておるよ、だが、現場では未だ働いている人がおるんじゃ、それをどうすりゃええかいの、という意見だって成り立つ。
空襲の後のような津波の跡をテレビで見ていて少しだけあの戦争が空想ではないものに思えてきた。
3/19
零下の中、冷たかろう、不安だろう、怖かろう。それでも命令一下、任務を遂行する。感情というのは、センサーの様なものであって、感情的になる時には其処に何かが潜んでいる。自分の意見を擁護して感情的な論戦があちこちで乱発している。その意見には同意できない、それには欠点がある。その自分の論拠を感情的にこだわる時は、きっとまだ本質が見えていないのだ。
官邸がダメだとマスコミや新聞でさえ言う。言うのは勝手だが、駄目な理由を書くことはない。書いてもそれは感情的な表現に過ぎない。対応が遅れた、だが遅れた理由は書かない。遅れた事は即ち無能の証拠なのか。
無能が故に遅れたと主張するならば、その無能を書かなければならぬ。遅れたから無能というのでは何も語った事になっていない。だが人はそれで納得する。巧遅拙速(こうちせっそく)、この言葉が思い浮かぶ、ただそれだけの理由で。
その先を考えてみるべきだ、遅れたから無能であると主張するなら、遅れていなければこうはならなかったと問うべきだろう。遅れなかったとしても結果が変わらないのなら、その批判は的がずれている。
そうやって一つ一つ丁寧に列挙して行くべきだ。その上でそう考える理由を以って、まったく別の事に応用してみる。すると、ある場合はその通りだ、許せないと思うこともあれば、同じ構造にありながら、それは許せる場面もある。
その違いが本質に繋がるひとつの道となって開ける。こう意見しているが、そう主張する理由は実はこういう話でした。今の僕には、官邸を批判する人は、とても浅ましい連中にしか見えない。その批判は、物事を進展させないばかりか邪魔である。弾圧しても構わない。今の困難を未曾有と呼ぶ者は多いが、その未曾有を他人事で済ませている人もいるのではないか。
今、現実の危機の前で粛々と放水している人たちがいる。黙々と電源ケーブルを引く人たちがいる。自分の被曝線量の累計とあと何回行けるかを計算している人たちがいる。
その批判は、彼らに力を与えるだろうか。
と考えてみる。
政府を批判する事は、彼らの何を後押しするだろうか。それを批判する感情をゆっくりと剥がし、ざくろの実のような本心を見つけてみる。その批判の奥には別の感情があるはずだ。そこにはきっと何かに対する愛情が潜んでいる。だから感情的になってまで守ろうとする。
その感情のイメージを絵にしてみたり、音楽にしてみたりすれば、きっともう少し分かり合えるんじゃないかな、と思ったりもする。もし分かり合えなくても助け合う事はできるかも知れない。そしてその方法以外でもその大切なものは守れるんじゃないか、と聞いてみるのがいい。僕は彼らの力にはなれない。だから彼らの無事を望む。これについては見守るしかできない。
彼らの行動を出汁にして官邸を批判する人がいるが、僕はとてもそんな呑気になれない。彼らにとっての未曾有はそういうものなんだろうか。彼らの怒りの奥にあるものは何だろうか。菅直人は陣頭指揮をせよと、銀河英雄伝説の読み過ぎみたいな事を言う人がいたので、それに釣られてつらつらと書いてみた。
怒りは放射線みたいなものでそのシーベルトは測量できる。それは心の底にある格納容器に守られた圧力容器の中にある核燃料の様なものだ。今は何を見ても、何をしても、全部が原子炉になってしまう。
3/22
まるで司馬遼太郎の二百三高地を読んでる気がする。
さて、情報は3つある、正しい情報、正しくない情報、分からない情報の3つだ。この分からないという状況があるのだから、全ての情報は、確からしい、誤っているらしい、どちらとも言えないのどれかに分別できる。
だから「この話が確かならば、けしからん事だ。」という主張は成立する。だが成立するだけであって「けしからんこと」には前提条件が付く。
もし彼女が俺のことを好きならば俺は彼女に何をしてもいい、だから俺は彼女に抱きついた。彼女に抱きついたが彼女は怒らなかった。だから彼女は俺のことが好きだ。こんな話をされたらどう言えばいいだろう。
さて仮定が正しい事は結論の正しさを保証しない。「けしからん」という結論が妥当であるかは、これまた、3つに区分できる。同意する、反対する、どちらとも言えないの3つに。
情報は、接続詞が付く程に確かさは薄れてゆくと思っていい。距離の二乗に反比例するというのと同じと考えていい。勿論、この結論も事の本質上から3つに区分できる。
分からない、という仮定に立ちひとつひとつの情報を確かめてみる。ニュースソースは簡単に見つかる場合もあれば見つからない場合もある。この情報氾濫の中でひとつひとつを個人が確かめる事は出来ないので、誰が言った言葉であるか、それを伝えたのは誰であるか、そうやって確からしさのフィルターをかける。
「オオカミ少年が言ったことはウソである」が間違っている様に「正直者が言ったことは正しい」も間違っている。正直者は正直に話しているだけであり、彼が話した内容に誤りがない事は保証しないからだ。分からない事を分かる様にするには、科学的な手法か、信じる、信じないしかない訳で、いずれにしろ確からしい事の上に推論を加えてゆくしかない。それは常に土台が崩れる危険性を持つが、だからと言ってもそうするしか論を重ねる方法がない。常に僕たちは確からしさの上に論理を重ねている。だから、少しだけは確からしさを疑う方がいい。
今更、天動説を疑えとは言わないが、人の言った、言わないの話は、言葉の性質から何通りにでも解釈できるから、話の流れ、状況、勘違い、好き嫌いなど幾つもの要素から成り立つ。それを丹念に第三者、当事者、関係者、部外者にヒアリングしなければ全体は飲み込めない。そうして飲み込んだとしてもそれは誰かの手で味付けされているかも知れない。ヒアリングしても分からない場合もある。お互いが相手の言葉を誤解する事はよくあるし、記憶の合成や置き換えなど幾らでも生じる。
本当かどうか、わからない話ばかりだ。もし本当ならもっと検証が必要な話もたくさんある。だが、聞いたり読んだりする範囲だけで確定的に何かを語るのは難しい。巷にあふれる話のほとんどは、情報が全然足りないものばかりだ。だが世の中はいい加減な話も多いし、そういうのを好む人もいる。話題作りもそのひとつだ。本当であろうが嘘であろうが、けしからん話だ、その点については常に正しい。
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