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2021年12月26日日曜日

不知為不知、是知也 - 孔子

巻一為政第二之十七
子曰(子曰く)
由誨女知之乎(由よ、汝に之を知ることを、おしえんか)
知之為知之(これを知るをこれを知ると為し)
不知為不知(知らざるを知らずと為す)
是知也(是れ知る也)

知らなかった事を知るとする為には、知らなかった事を自覚しなければならない。知らなかったを過去形にするには今は知っている必要がある。つまり知らないと知るは互いに等しく、これは知識の有無の問題である。

知らなかった事を知らなかったと自覚する為には、新しく知っているという状態を獲得しなければならない。もし誰も知らない事を新しく発見したのならば、それは知識の問題というよりも、それを探求した姿勢の問題と言えるだろう。

もし知らない事を確かに知らないと意識したければ、そこに知ると知らないの境界線がなければならない。その為には知らない為には知らない事を知っている必要がある。知らない事を厳密に定義しなければ知る事を知る事さえできない。これは知らない事を定義すれば知ると知らないの境界線を明らかに出来るという事である。

知らない事を厳密に定義すれば自ずと境界線が定義される。それは知っているものを使って定義したものだ。その死っている事の中に知らない事が含まれる。知っている事の向こう側に知らない世界が広がる。そこは全く見えない世界であろう。

知らないの境界線を越えた先に知るがある。知らないの向こう側に知るがある。そしてその知るの向こう側にはまた知らないがある筈である。



知るの中に知らないが含まれる。知らないの向こうに知るがある。

では、と、ふと思う。知る事が決して出来ないものもこの世界にはあるだろう。その中には例え知る事は出来なくとも推理する事は出来るし、想像する事も可能、そういう類の知らないものが先ずある。

知らない事でも知るに迫る事は出来る。という事は、知らない事の中には、何時かは知る事が出来るものと、永久に知る事が出来ないもののふたつがある事になる。

知らない事と、知る事が出来ないものを区別するなら、手順を尽くせばいつか手に入るものと、決して手に入らないものがある。

知る事が決して出来ないものとはどういうものであろうか、その想像さえ拒絶する。すぐ横を通り過ぎても決して気づかない、それが何かは分からない。それを知る事は不可能なのである。そこに辿る道は永久に絶無。だが、そういうものがあるだろうと私は考えている。

由よ、知るという事さえこれだけ違うのだ。人間はなんとも劫の深い生き物ではないかね。

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