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2019年3月30日土曜日

日本国憲法 第五章 内閣 I (第六十五条~第七十一条)

第六十五条  行政権は、内閣に属する。
第六十六条  内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する。
○2  内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。
○3  内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。
第六十七条  内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。この指名は、他のすべての案件に先だつて、これを行ふ。
○2  衆議院と参議院とが異なつた指名の議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は衆議院が指名の議決をした後、国会休会中の期間を除いて十日以内に、参議院が、指名の議決をしないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。
第六十八条  内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。但し、その過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない。
○2  内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる。
第六十九条  内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。
第七十条  内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があつたときは、内閣は、総辞職をしなければならない。
第七十一条  前二条の場合には、内閣は、あらたに内閣総理大臣が任命されるまで引き続きその職務を行ふ。

短くすると

第六十五条 行政権は、内閣。
第六十六条 内閣は、内閣総理大臣、その他の国務大臣。
○2 内閣総理大臣、国務大臣は、文民。
○3 内閣は、行政権について、国会に連帯責任。
第六十七条 内閣総理大臣は、国会議員から指名する。
○2 衆議院と参議院が異なつた場合は、衆議院の議決。
第六十八条 内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。
○2 内閣総理大臣は、国務大臣を罷免できる。
第六十九条 内閣は、不信任のときは、衆議院が解散されない限り、総辞職。
第七十条 内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の後は、総辞職。
第七十一条 前二条の場合、内閣総理大臣が任命されるまで職務を行ふ。

要するに

政治家とは何か。

戦争の意味

先の戦争は結果論で言えば僥倖である。日本は敗戦によって様々なシステムを強制的に刷新することができた。戦後の新しい国の形は戦後の体制によりマッチしたものであった。もしあのまま帝国憲法のまま戦後を迎えたならばこの国はどのような道を歩んだであろうか。驚くべきことに我々は帝国憲法をただの一度も改定できなかったのである。あの激動の時代においてである。我々は21世紀になっても明治憲法を一行も変えずに国を営んでいるであろう。

天皇を機関と呼ぶだけで職を失うほど当時の議論は稚拙であった。20世紀の様々な変革、革命、革新。量子力学という新しい知見、ソビエト連邦の誕生、重工業の発達、新しい経済学と世界恐慌、帝国主義と資本主義の対決、イギリスの没落、世界は同時多発的に一斉に転換期を迎えた。それは偶然ではあるまい。

その時勢に日本だけが置いてきぼりであったとは考えられない。どれほど明治の元勲が優秀であろうと一度の憲法修正もなく20世紀を乗り越えられるはずはなかった。政治も変わる必要があった。それが国家に憲法の改定を強要しないはずがない。そうであったのに、一度も変えることなく20世紀を過ごした。どういう価値観をしていれば変わらないでいられると信じられたのか。我々の歴史は、その軋轢の中で摺りつぶされるための選択の結果だ。

世界の激流からなぜ日本だけが無関係と信じることができたのか。いや、当時の人々も世界の変革はよく知っていた。だが知っていただけであった。まるでテレビの向こうに映る津波を見るような。気が付いた時には何もかもが飲み込まれ何ひとつ抗うことも出来なかった。まるで袋小路に追い込まれた蟷螂のように斧を振りかざすしかなかった。我々は何を取りこぼしたのだろう?

20世紀は資本主義の時代である。帝国主義の没落の時代でもある。第一次産業を基盤とし農業で利益を生み出すシステムと、重工業によって利益を生み出すシステムが真向から対決した。アメリカは南北戦争でそれを経験していた。20世紀は帝国主義と資本主義の間で戦争が起きた。このふたつの産業システムの覇権争いであった。農業と工業が戦争という形で争った。だから第二次世界大戦後は世界中が工業へとシフトした。

日本の敗戦は技術だけでなく思想の敗北でもある。戦後の人々はそう考えた。戦争が総力戦であることは官僚たちも知っていた。だから国家総動員法を作ったのである。それでも、企業間でネジの規格を揃えることも出来なかった。彼らはただ知っていただけなのである。だから現実との乖離した部分を想像力で補うしかなかったはずなのに。敵も総動員してくる。その規模は我々の想像力を遥かに超えたものであった。まさか毎週一隻の空母が進水するとは夢にも思っていなかった。例え知っていてもそんな絵空事では誰も説得できなかった。

政策は虚構である。まず想定があり、それに手当をする。想定内には想定内の対応をする。それで終わるものだ。それで足りない時はどうするか。どうせ足りない。無いものを考えるのは無駄である。悪いのは計画ではない。計画通りに進まない現実の方である。空想が現実と近ければうまくいくし、遠くなれば失敗する。なにも不思議はない。

もし戦争をしなければ

この国は戦争に突き進んだ人々を縛り首にはできなかった。だからアメリカなどが代わりに彼らを吊るした。裁判とさえ呼べない裁判で、証拠などなくとも有罪である。そうでなければ何故あれだけ多くの人々が死ななければならなかったか。その説明ができない。

戦争へと突き進んだ人々のなんと多くが戦後を生き延びたことか。誰も彼らの責任は問わなかったし、彼らの行為を振り返りもしなかった。それぞれが自分なりに敗戦を処理した。そこに歴史の深淵を見た者もいれば、忘れるのがよいと考えた人もいた。

最後まで誰もが日本人であるという認識に立ち、愚策も失敗も追及することはなかった。社会から追放さえしなかった。沈思する者たちは、自ら世間との係わり合いを最小限にして生きた。

もしあの敗戦がなければ、我々は戦争に突き進んだそのシステムのまま戦後を生きているはずである。徴兵制を辞める理由がない。軍事予算を優先しない理由がない。戦後に失った領土は今もわが国の領土のままかも知れない。だが、それと引き換えに閉塞した古いシステムのまま、今もソビエト連邦の南下に対抗するための軍事国家として生きている。

単独でソビエトと対抗するしかない、日本はそう考える。もう一度、中国大陸でソビエトと戦争をするか。日本があれだけ苦労しても撃ち落とせなかった B-29 をソビエトは朝鮮戦争で面白いように撃ち落した。空の要塞が火だるまになって墜落していった。 MiG-15 に対抗できるものを日本が単独で開発できたか、甚だ疑問である。それは、あの敗戦からたった 5年後の話である。

もし敗戦していなければ、日本の工業力は戦前のままである。工業化に失敗した貧弱な農業国(帝国主義)が、機械化師団を有するソビエト(工業国)とどう対抗しうると想像できるのか。

どのような戦争であれ、始まれば間違いなく核兵器が使用されるだろう。どう転んでも我々は世界で最初に核兵器で燃やされる民族になるのだ。

当時の状況は、2019年のイランに非常に近い。世界から孤立して、単独で生き抜くしかない、支援する友好国は少なく、周辺地域を巻き込んだ戦術を展開するしかない。彼らの国家戦略は、まるで当時の日本を見ているようだ。

明治維新とは、結果的にはロシアと対抗するために起きた騒乱であった。そのために徳川幕府を倒したと言ってよい。だから日本は軍事に注力した。日露戦争でさえ通過点に過ぎなかった。脅威は全く去らなかった。だから大陸での政略が必要だと考えたのである。当時の軍部はそう信じていた。

我々は常にソビエトの脅威に怯えていた。それと対抗するのに軍事以外の手段を何も知らなかった。我々は世界では単独で生きるよい仕方がないと考えた。日本がソビエトの脅威から完全に解放されたのはアメリカと同盟を結ぶ事によってである。

そうして初めて日本はソビエトの脅威を考えずに政治をすることが可能になった。単独では遂にソビエトを排除できなかった。当然だが、アメリカだって単独では抗しえないのである。日本はそれでも単独で排除しようと考えた。アメリカは世界中を巻き込んでこの問題と対峙した。日本は一度もこのような発想を持ったことはなかったはずである。常に孤立した視点でしか世界を見てこなかった。

政治家とは何か

聖徳太子は政治家だろうか。どうも彼の偉業は大きすぎて、肩書など必要ないように思われる。とにかく偉い人なのだ、それだけで十分な気がする。

彼はどの時代でも尊敬を集めていた。どうして彼が偉かったかを説明できる人はいまい。だが、彼が日本の今という方向を決めた、少なくとも、それを決めるのに極めて大切な役割を果たした、そう思われる。

政治家と官僚は明らかに違う。それは、専門性、交渉力、雇用形態、権限の委譲などの違いだろうか。ただの役割の違いだろうか。

その所在を詰めれば、政治家と官僚の違いは、責任を取れる者と取れない者の違いではないか。では責任を取るとはどういう事か?死ぬもよし罰せられるもよし、汚名を挽回するもよし、責任を取るとは、裁かれるという事だ。そのための基準がいる。

だから、官僚とは責任を取れる立場の人々の事である。決して無限の責任を負わされるわけではない。結果を評価する。それを裁く基準がある。それが法である。法によって、その行動の責任を負わせる。法によって、罰する。こうして責任を取らせる事ができる。

では、政治家は責任を取れないものか。政治家が失敗すれば選挙に落ちるだろう。暗殺されることもある。だが、それは決して責任を取った結果ではない。法によって罰せられた結果でもない。政治家を裁くものはどこにもいない。中世においてさえ、それは神の役割であった。実質、存在しないに等しかったのである。

選挙とは無能な政治家を置き換える仕組みであって、罰する仕組みではない。ましてや歴史の評価など政治家の責任とは何も関係ない。

責任を取らないのではない。政治家は誰も責任を取れないのだ。そういうシステムがある。

信用とは裏切った時に、決して許さない事である。信頼とは裏切ったときも仕方ない、と許す事である。官僚には信用で託す。政治家には信頼で託す。

政治

「独立」が近代国家を支えるエッセンスである。だから近代国家という理念には常に「独立」を益するための思想がある。基本的人権、自由、幸福。追及すれば独立という場所に辿り着く。

だから植民地で教育を施した所で、独立を取り除いた教育など歪なものである。最も肝要なものが抜き取られたからだ。

どのような国家も堂々と主張する。それが本心であろうが、虚像であろうが、嘘であろうが、正直であろうが関係ない。堂々と発言する、それが政治である。世界を動かす必要があるなら、太陽は西からでも昇らなければならない。

必要なのは堂々とした主張であって、嘘や矛盾、批判に答えるのが政治家の仕事ではない。堂々と論破される者は、卑屈な正論に勝る。政治家の仕事は堂々と勝利宣言をすることにある、これ以外の能力は必要ない。

政治家が何かの専門家である必要はない。もし専門家なら、それは特定分野の代表になる。民主主義はそれを戒める。では何の専門家でもない政治家がなぜ立法の代表となりうるのか。素人が法律を書いてもうまく動くなどありえないではないか。

だから、国家には様々な人がいるのである。多様な専門家が揃っているのである。分からなければ聞けばいい。それが政治家の資質である。それぞれの道に専門家がいる。職人がいる。達人がいる。政治家がそのいずれかでもある必要はない。

政治家はよく聞き、考え決めるのが仕事である。市民が理解できないことを、どうして法律にできるだろう。それでは国民は法律など理解できなくともよい、ただ従えばよいという存在になる。民主主義はそれを否定する。

政治家は国の中から選出された。だから政治家の中にもその国が持つ常識がある。その常識で問題と取り組む。意見を広く聞き、様々な想定をし、そこから決断へと至る。すべてをその国が育んだ常識で決めよう、それさえあれば足りる。民主主義のこれが基本方針である。

もし考え抜いた結論が間違っていたら、誤っていたら。それはただ命数が尽きただけの事。人材が尽きたのだから仕方がない。国は亡びる。その国の常識が役目を終えたのだ。逆に言えば、そこで尽きるべきだ。

江戸期の政治家は阿部忠秋のような人たちもまた、ただひたすら己れの能力を磨いた。彼らは人生の真ん中に政道を据えた。それは専門性を鍛えたわけではない。その時代の常識を磨きに磨き抜いた。覚悟は常にしていたはずである。

聖徳太子は語る。どちらの主張もよく聞き、互いの既得権益、縁故、義理、恩義などを思いやれば、必ず話し合いで道が見つかると。彼は一番大切なことを語っていない。双方が望んだ解決とは限らない。決裂かもしれない。話し合いで解決しない例など、世界のニュースで嫌というほど知っている。

それでもそう語った。なぜか。

争いを止めるには呼びかけるしかない。それか相手を滅ぼすである。物部の滅亡を見ていた彼がそれを知らなかったはずはない。だのに彼は堂々とこの国の根幹を決定づける嘘を吐く。和を以て貴しとせよと。

そう言われたからこの国の人々はそれを信じたのか。否。彼は人々の中にそういう性向を見つけた。それをこの国の中心に据えればよい、そう確信した。敢えて憲法に書いたのは、同時に彼は人々の中に滅ぼせばよいという性向も見ていたからだろう。