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2018年5月18日金曜日

二次関数のグラフ(三次式の描画機能付き)

三次関数(ax2+bx+c=0)のグラフを描画する。
a:
b:
c:


cubic:

a: グラフの傾き(接線)が変化する。
b: グラフが二次曲線で平行移動する。
c: グラフがy軸に沿って平行移動する。
b が 0 以外の場合、a の変化が頂点を一次式で移動させるのが観察できる。
vertex は二次式の場合のみ。

@see 長岡先生の映像授業018【二次関数とそのグラフについて】

この授業がとても面白かった。大学の存在価値のひとつが高校生の学びを更に押し上げる事にあるとすれば、中学生、小学生がその門を叩いても悪かろうはずもない。例え理解できなくとも。算数で躓いている小学生が、よく話を聞けば、大学レベルの数学で初めて解決できるような疑問を前に立ち止まっているだけかも知れない。それを見逃すのはよくない。

2018年5月11日金曜日

日本国憲法 第二章 戦争の放棄 III

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

要するに

前項の目的とは何か。

考えるに

「前項の目的を達するため」と書いてある所を置き換えれば、次のようになるだろう。
戦争、威嚇、武力の行使を放棄するため、陸海空軍その他の戦力は保持しない。

目的は、戦争を永久に放棄することである。その実現方法は、軍隊の廃止である。
理念目的手段
正義と秩序を基調とする国際平和戦争、威嚇、武力の行使を放棄する
放棄するため戦力を保持しない
放棄するため交戦権を認めない

そのまま読む限り、これは当然の帰結と思われる。

国際平和の希求など当然である。誰もがそれを願っている。平和を乱す戦争も武力行使も放棄する。それも正しい道だ。それを実現するために、軍備を廃止する。憲法に書かれた通りの行動である。何ひとつ間違ってはいない。

また「国際紛争を解決する手段としては」という条件を付与してあるので、
国際紛争を解決する手段としての、陸海空軍その他の戦力は保持しない。
とも理解できる。

だから「前項の目的を達するため」の戦力の不保持を、どの範囲とするのかでずっと争ってきた。



「達するために」すべきことが、「前段の条件を超えてはならない」という決まりはない。よって、前項の目的を達するために、より大きな制限を課すのか、それよりも小さな制限で済ますのか。その時々の立場で解釈で変わるのである。

もちろん、戦力の不保持は、先の大戦における無様な敗戦が原因であって、これを二度と起こさないために設けられたものである。
  1. 二度と戦争を起こさないように、物理的に廃棄する。
  2. 二度と戦争を起こさないように、戦争に関する指揮権を国際連合、同盟国に委ねる。
  3. 二度と戦争を起こさないように、条約を結び、第三者機関の監視を受け入れる。
  4. 二度と負けないように、武力を磨く。

こうして見れば、2018年に課題となっている北朝鮮の核廃棄、イラン核合意と全く同じ道筋である事に気付く。どのような方法でそれを実現するのか、国際社会にも幾つものプランがある。

だが…

誰がどれだけ平和を祈ろうと国際紛争は起きている。それを解決する手段に武力しかない現実がある。

「国際紛争を解決する手段」など、どれもそうであるとも言えるし、状況によって異なるとも言えそうである。それは敵味方の立場によっても変わるであろう。そんな状況であっても、国際紛争を武力に頼らずに解決する方法を模索する事をこの憲法は求めている。それを諦める事は許されていない。

その理想に到達するのに、我々は武力をどのように定義すれば良いだろうか。戦争を始めるための武力がある。これを禁止している事に異論を挟む人はおるまい。

ならば、戦争を終わらせるための武力もあるだろう。これも「国際紛争を解決する手段」であるのか。AとBの戦争を止めせるためにCが使用する武力も「国際紛争を解決する手段」なのか。

問題は「武力の行使」という抽象性にある。もっと、具体的にひとつひとつのケースを考えるべきだ。我が国を攻撃しようとするミサイルを打ち上げようとする基地を叩くのは自衛であろう。だがそれが地球の反対側にある基地だったら。

地球の反対側にあるミサイルを叩く軍事力をどうやって世界に展開するのか。他国の領土をどのように通過するのか。それだけの軍隊があれば、世界征服だって可能ではないか。

九条を集合で記述する。



この集合によれば、もし「国際平和の希求」をしないならば、軍隊を持つことは違法ではない。同様に「国際紛争を解決する手段」でなければ、軍隊を持っても構わない。国際平和の希求をしないのは、憲法の前文と矛盾する。よって、日本が保有できるのは、「国際紛争を解決する手段」ではない軍隊だけである。

よって、国際紛争を解決する手段である戦争と、国際紛争を解決する手段でない戦争の2つがあることを証明しなければならない。もし、国際紛争を解決する手段でない戦争が存在しないのであれば、考えるだけ無駄である。

世界を見る限り戦争はとても複雑である。原因や理由が如何にバカバカしいものであっても、戦争が引き起こす状況は深刻である。そういう状況では、侵略されれば堂々と殺されれば良いという主張は絵空事である。

国際社会の平和はそのような個人の理想など要請しない。個人でやりたければ勝手にどうぞ。我々が求めているのは目の前の戦争を如何に終了させるかだ。その具体的な方法である。あなたの自己の信念に基づいた行動などどうでもよろしい。誰も邪魔などしない。

戦争は常に話し合いで終了するのである。なぜなら最終的には関係各国が調印するからである。だからと行って話し合いだけで解決するものではない。それで済むなら戦争にはならない。

誰かを暗殺することで戦争に勝利できるなら。それを守るための兵力は必要なはずだ。それも「紛争を解決する手段」か。戦争を終戦までに持ってゆくために、状況を維持するための兵力も、「紛争を解決する手段」か。

民主主義は、かつての武力闘争を選挙という平和裏な機構に内包したシステムである。古来、人々を集め武器を持たせ戦で決着をつけた。これを、投票という方法に変えた。支持者の数で決着を付ける。

選挙に負けたからといって、武力蜂起した所で、どちらが多くの人を集められるかは明らかである。それでも戦いを挑むか。だから誰もが投票結果を前に堂々としていられるのである。恐らく戦争もいつか同様の別の機構によって内包されるであろう。それがどういうシステムに組み込まれるか、まだ分からないだけである。

これを最初から考えてゆくべきだ。簡単に国際連合の理念をコピーして済ますような問題ではない。我々には我々の思索がある。

国際連合の理念は、国際連盟、パリ不戦条約の理想と同じものだ。戦争は技術である。技術の革新が戦争を変える。戦争は歴史である。だから時代が異なれば別の戦争である。現代の戦争をカエサルの戦争と同列には語れない。戦争は成長する。過去から未来のどこにも同じ戦争などない。

カントは恒久平和を考えたが失敗した、様々な人が考察をしてきたが、それらを超えて戦争は成長してきた。

産業革命が戦争を変えた。蒸気機関が戦争の速度を変えた。それまで戦場でなかった場所が新しい戦場になった。国家を超えて戦場が拡大する。飛び火するようにひとつの戦争が他の戦争を呼び込んでくる。

連鎖反応がまるで野火があっという間に草原を焼き尽くすように、広がった。機械化された戦争は第二次世界大戦で結実をし、現在もこの延長線上の戦争がある。

核兵器は神以外で初めて人類を滅亡させる、文明を崩壊させる存在になった。神の怒りを待つ必要もなく、ボタンふたつで実行する。滅亡と引き換えにしてまで争う戦争はあるのか。

これがあったのである。人類の未来に関心のない人は、核の使用を躊躇すまい。死後の世界に救済があると信じる人は、進んで劫火に焼かれよう。後世の歴史家は、この時代に核が爆発しなかったのは幸運に過ぎないと驚くに違いない。

誰もが戦争の止め方について考えている。これが現在の状況である。その答えを誰も知らない。戦争を終わらせる方法について考える前では、不戦論も、中立非武装もずいぶんと不真面目な議論であろう。この世界に現実の戦争がある。一日でも早くそれを終わらせたい。君たちの議論は何の役にも立たぬ。そういうことは地球連邦が誕生してからゆっくりやってくれ。

戦争の終わらせ方を誰も知らない事が、自衛権、集団的自衛権が存在する根拠である。国際連合の憲章にもそう書かれている。

始めるのは容易い。誰にでも出来る。それを終わらせるのが困難である。戦争の本質は常にそこにあった。それはカエサルの時代から何も変わっていない。もっと古く、シュメールの時代からも。英雄譚は常に戦争の終わりを描いている。

だから、戦力の不保持が九条の最大の争点ではないのである。それはひとつの方法を示唆するが、憲法はその程度の事を国民に求めているのではないのである。

君たちは戦力の不保持を十分に語ってきた。だが、その過程で一度も戦争の終わらせ方について考えてこなかったではないか。戦争を始めない事ばかりに始終し、条項を遵守する事ばかりを考えて、戦争の終わらせ方からは目を背けている。確かに、この条項には、そんな事を考える義務はどこにも書かれていない。

だが、それは「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の一文がない場合に成立する議論である。この一文がある限り、それでは足りない。それでは国際平和を希求しているとは呼べない。ただ、この国だけが戦争を始めなければそれで良い、そういう態度である。最低限の義務を果たせば、それで国際平和に十分に貢献したと言う積もりか。

我が国の憲法は、国際社会への信頼を前提としている。国際平和を希求するとは、国際平和に対してコミットしてゆくという事である。ただ祈り、願い、享受するだけでは足りない。国際平和は自然現象ではない。仮に自然現象に近いとしても、それに対して人間は全くの無力ではない。

我々の性根は、国際連盟を脱退した時から一歩も進んでいない。未だに国際社会の中で孤独なのである。疑心暗鬼の目で国際社会を見ている。勿論、国際社会は無法地帯と考えて正しいのである。だが、無法であることを人間性を失ってよい理由にしてはならない。

我々は国際平和とは何であるか。それについてもっと深く考えなければならない。九条はそれを求めている。




2018年5月2日水曜日

日本国憲法 第三章 国民の権利及び義務 VI (第三十一条~第三十五条, 公共と責任)

第三十一条  何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
第三十二条  何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。
第三十三条  何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となつてゐる犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。
第三十四条  何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ、拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。
第三十五条  何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、第三十三条の場合を除いては、正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければ、侵されない。
○2  捜索又は押収は、権限を有する司法官憲が発する各別の令状により、これを行ふ。 

短くすると

第三十一条 何人も、生命、自由を奪はれ、刑罰を科せられない。
第三十二条 裁判を受ける権利。
第三十三条 現行犯を除いて、令状によらなければ逮捕されない。
第三十四条 理由を告げ弁護人に依頼する権利を与へなければ、抑留、拘禁されない。理由なく拘禁されず、理由は公開の法廷で示さねばならない。
第三十五条 何人も、住居、書類、所持品は、令状がなければ侵されない。
○2  捜索、押収は、令状により行ふ。

要するに

生命、自由、権利はどの様に制限されるか。つまり公共とは何か。

考えるに

最初は蛋白質の混合物に過ぎなかった。太古の生命はすべて一代限りであったろう。生命のスープから生まれ、動き、暫くすると止まる。

一回限りの生命。外界から物質を取り込むとき、他の生命を除外する理由などありはしない。原初から生命は他の生命を取り込んでいた。環境から必要なものを奪い、残ったものを外に捨てていた。

外に捨てられた部品から元の体を修復する生命も誕生したであろうし、内と外を限定する必要もない、他の生命の中で生きられるものも誕生したであろう。中であろうが外であろうが生きられるなら気にすることではない。

壊れた体を修復する機能があれば、生命はより長く活動を続ける事ができる。その機能を少し応用すれば、自分の完全なコピーも作成できる。こうして増殖することができる生命が誕生する。その方法を DNA へ刻んだ時、生命は一回限りの命ではなくなった。作ったものを外に捨てるように自分の分身を外界に排出した。これが生命の誕生であろう。

単細胞生物にとって増殖は完全に環境に依存する。増えるだけ増え、環境が貧しくなれば増殖はそこで停止した。群体も似たようなものであろう。増えるだけ増える戦略を取ったはずである。これらの生命がお互いに物質をやりとりして協調するとしても驚くにはあたらない。環境の異変を素早く伝え合うのはお互いにとって益であろうから。

多細胞になって初めて環境に応じて増殖するわけにはいかなくなった。それは計画された数だけ増加する。少なくても多すぎても一個の生命を維持できない。だから多細胞生物は本質的に計画的な協調を必要とする。それがなければ話にならない。

リチャード・ドーキンスの利己的な遺伝子によれば、個体は DNA の乗り物である。優先すべきは個体ではなく、DNAを次世代に受け渡してゆくことである。蜜をお腹に蓄えるために生まれてきた蟻、子供に食べられる蜘蛛の母。巣を守るために針を刺しては死んでゆく蜜蜂。

社会性は個人と比べれば圧倒的に強力である。そして社会よりも種としての本能は更に強い。それはしばしば社会と混同される。故に社会が異なれば、その人種をジェノサイドする事に人は躊躇しない傾向にある。それは種が違うとの認識になるのだろう。虫を殺し草を枯らすのと同じである。

公共性にこの人間の自然さが関係しないはずがない。よって一度同じ仲間と認めればどのような差異も無視するが、全く同じ理由によって、まったく同じに見える中にも集団の違いを見出す。この性質が社会を幻想と呼ぶ所以である。

一人と千人、どちらを犠牲にすべきか、と言う設問は公共性を問う問題ではない。一人が死すべきか、千人が死すべきか、と問うだけならサイコロでも振って決めれば良い。そこにどのような謝罪と供養をもって来ようが、公共性はその言い訳にならない。

問題は、社会が破滅するまでに、何人までなら殺せるかである。絶滅から救うためなら何人までを犠牲にしても良いか。どうやって、後世に残す人間と、ここで終わりを迎える人間を区別するか。

為政者は自分は生き残るべき人間であると考える。もちろん、そこに根拠はない。多くの老人を生き残らせる方が多くの若い人を生き残らせるよりも良い、と一概に言えない。若い者が散り老人が残った歴史もあった。

ひとりの命で数万の命が救われた歴史があった。数万の命がたったひとりの人間に捧げられた歴史もあった。先の大戦では、全員を殺してでも守りたいものが存在した。指導者たちはいったい何人までなら殺しても構わないと考えていたのであろう。たとえ絶滅しても守らなければならないものがあったとすれば。何が絶滅と同じ価値を持つものと考えたのであろうか。

彼らは、生物種の絶滅とは異なる、幻想的絶滅を仮定していたとしか考えられない。国家であれ国体であれ、彼らは幻想の中に生きた。生物としての死よりも、幻想の死を恐れた。

昆虫でもないのに人間が真社会を目指したのである。蜜蜂が死を賭して巣を守れるのは、女王蜂の価値が他の蜂と比べようがないからである。それは彼女らの恣意的な思想ではなく、機能によって決定されたものである。決して、女王蜂を精神的な支柱にしているのでも、嬢王蜂を頂点とした階層社会でもないのである。ただ機能によって役割を分担した結果であろう。

人間は真社会性を持たないが、知性が高いので、機能的な集団を形成した。それを実現するために本能的なものの代わりに、階層や階級を持ち込んだ。疑似的な真社会を作り上げるために、権威という幻想を必要ともした。

公共性もその過程で生まれた概念であろう。それは社会の問題を解決するための考えである。大勢の人間が集まれば、そこに対立が発生するのは自然である。対立を解消するための様々な機構が群れを形成する動物には必ず備わっている。

どうやって争いを諌めるか。都市を国家を形成するようになった人間の社会では、最小不幸社会であれ、最大多数の最大幸福であれ、公共性という考えが必要である。では公共性とは何か。公共性の根底にあるのは総和である。

多数の集合をマクロ的に知るために統計的に扱えばよい。個々がどれだけ自由気ままに振舞おうと、総和して平均をとればひとつの値が求まる。全体がひとつの値に集約する。この値を扱えばよいのである。温度であれ圧力であれそうやって求めたものだ。

ここで重要なことは個々のすべては均一と見做すことである。だから、人間の個性を捨てれば公共性が成立する。全員を同じと見做せないなら、公共性という論理は使えない。公共性を語る時は、個人は考慮しない。個人を考慮するならば、公共性は持ち込まない。

公共性は事後に問題を解決するための方法である。問題が起きた。それを話し合いでは解決できない。個々人がお互いの利益を主張して妥協点が見つからない。これを解決するには公共性を持ち込むしかない。個々の事情など考えていられるか。

だから、公共性とは損失を被る者に対しての敬意である。そういう者に与えられるべき名誉でなければ事情が許さない。個々人を切り捨てる以上、公共には切り捨てた人々を支える義務がある。

公共性とは、決して、誰かを犠牲にするための理由ではない。公共性を根拠にして何かを制限していいのではない。公共性とは不利益を受けたものに対しる支援の事である。公共性は権力でも既得権益でもない。公共性を個人よりも社会を優先する理由にしてはならない。

もし利益が得られないなら、社会が、この世界がどうなろうが知った事ではない。私が死んだ後の世界など滅びても構わない、と主張する人がいたらどうするか。我々は全体の総和を考え見て、そう主張し行動するものを討伐するであろう。その人の考えを尊重などしない、捨て去るのに必要なら武力も投入する。それが公共性というものだ。

だから、不利益を被り、自ら引いた者には名誉を与えよ、おそらく公共性が名誉を生み出した。それだけが、公共性で捨て去ったものを個人へと返す道だ。