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2012年8月30日木曜日

マイナスかけるマイナスはなぜプラスか

カルダノやクラヴィウス、カルノー、デカルトなど17世紀でも理解にてこずったのであるからマイナスの考え方が難しいのは仕方がない。現代の人でこうすれば理解できるよ、と言う人は、端的に言えば、俺ってデカルトより賢いと豪語している訳であるから、頭がおかしいか間が抜けた人に違いない。

足し算引き算でもそうであるから、マイナスとマイナスの掛け算がプラスになる理由が分からなくなるのは当たり前だ。マイナスを含む掛け算は理解できない。

数学で公理から次の定理が導かれるのは当然の帰結であっても、それを腑に落ちるように理解するのはシンドイものである。そうなるからではなく、自分なりに理解したいというのは、数学を道具として使うには不自由かも知れないが大切な事だと思う。勿論そこには無くてもいいこだわりや観点があったりして足枷にもなる。だが、それがあるからこそ世界を理解しているとも言える訳で存外に簡単な話ではない。

掛け算と足し算

掛け算を足し算の変形と見做せば 10+10+10 は 3×10 である。この見方でマイナスの掛け算を考えると通用しない。(-10)+(-10)+(-10) は -10×3 であるが、10×-3 が足し算の形にならない。10をマイナス3倍するとはどういう意味か。

掛ける数と掛けられる数に意味はあるかと言えば意味はない。だから掛け算には交換法則が成立する。しかしどこかで賭けられる数とは個数だと思っているようだ。マイナスの個数は存在しないから、これが足枷の正体だ。

-3個とは

-3 個という個数は思い浮かべられない。10×-3 とは、10×3×(-1)である。-3 は -1×3 と記述できる。マイナスかけるマイナスが何故プラスになるかを語るのは -1×3 がなぜ -3 であるかを語る事と同じだ。つまり -1 とは何かを考える事に相違ない。

一般的に掛け算は四角形の面積に例えられる。だがマイナスの面積はイメージできない。面積は自然数で完結するからマイナスで考える事ができない。

デカルト座標

- + +
-0+
? --

この面積をデカルト座標に取ってみても不可思議な理解がする。(0,0)を原点として4つの面がある。右上が(+,+)でありそこの面積がプラスである事に異存はない。左上、右下はそれぞれ(-,+)、(+,-)であり面積がマイナスであると言われればそうかなという気もする。では左下の(-,-)の面積はプラスなのか、マイナスなのか。お前が決めろと言われたらどうすればいいだろうか。

縦と横は点から構成される。この点が持つ属性の数を次元と呼ぶらしい。直線だから二次元なのではない、二次元の点には(x、y)の二つの属性が与えられている。三次元の点には(x、y、z)と三つの属性が与えられている。

掛け算の操作

掛け算とは掛け算をすることにより掛け算する前のものをひとつにまとめる操作だ。足し算引き算では数値に付属する属性は変わらない。しかし掛け算は変わる。面積とは二つの属性(縦と横)をひとつ(面積)にする演算ではないか。しかし次元は変わっていない。これは数値の単位が変わると言ってもいいだろう。距離+距離=距離であるが、時間×速度=距離というように掛け算では単位が変わる。

問題、工場に10のラインがあります。ある日ひとつのラインでネジが5本足りませんでした。10のラインでは何本のネジが足りませんか。この問題は個数なのでマイナスの概念がなくとも解ける。足りない個数をプラスで考えれば50本のネジが足りないと答えが出る。この事からプラスは数字の属性であるが、マイナスとは数字の属性ではなく数字に対するオペレーション(操作)であると言える。

「足りない」がマイナスそのものである。これは元来、数字とは切り離されていたはずだ。それが0の導入によってプラスとマイナスという関係に据えられた。だがマイナスとはもともと操作であって、マイナスかけるマイナスもこの操作によってプラスとなるものだ。

数直線

数直線で数を考えてみよう。プラスとは右に行く力、マイナスは左に行く力と仮定する。5-3とは5歩進んで3歩下がる事だ。足し算はこれでいい。

5×3

右方向に 5 つ進み、それを右方向に 3 倍すると解釈できる。



-5×3

左に 5 つ進み、それを右方向に 3 倍する事になる。これでは答えが 10 になってしまう。




これはプラスの考え方が違っていたのだ。×3とは右ではなく今の方向に行く、と書き直さなければならない。左に 5 つ行き、そこでその今の方向(左)に3倍するという意味になる。



5×-3

プラスは今いく方向とあったが式の最初に出てくるとどちらに行けばいいかがわからない。そこで最初は右に行く事になっていると決める。すると、右に 5 つ行き、そこで左方向に残り 2 倍を加えるという意味になる。これでは答えが -10 になってしまう。

これはマイナスの考え方が違っていたのだ。×-3 とは今とは逆の方向に行く、と書き直さなければならない。ただそれでは右に 5 つ行き、そこで方向を逆にして左に 3 倍してもこれではまだ -10 である。

もうひとつ必要である。マイナスの場合は、0 の場所を数の反対側に移す必要がある。右に 5 つ行き、そこで0の位置を 5 の左から右側に移動し、方向を左に逆転して 3 倍する。これで -15 となる。



-5×-3

最初のマイナスで左に 5 つ行き、そこで0を右から左側に移動し、方向を右に移動して3倍するという意味になる。これで答えは15となる。

数直線ではプラスとは今ある方向に行く、マイナスとは0を反対側に移し逆の方向に行くと定義できる。




参考

http://www.cwo.zaq.ne.jp/bfaby300/math/card.html

中国からすれば当然、日本は憮然 - 尖閣諸島領土問題

中国にはふたつの意味がある、ひとつは中華人民共和国を指す言葉であり、もうひとつは中国地方である。これは文脈から判断するしかないものであるが、同じ言葉同じ漢字で異なる地名というのは存外に多い。そういう場合に違いを出すには接頭子で区別するのが普通だろうか。確かに支那という呼び方もある、しかし当人が今日から中華人民共和国です、と言っているのに旧姓の支那で呼ぶのも自然さがない。大陸の中国、とか中国地方と呼べば区別が付くのである。ここでは大陸の中国について語る。

尖閣諸島上陸の動きが活発だ。中国人、台湾人が捕まったかと思えば、次は東京都知事が捕まりそうである。片や国外退去で、もう片方が軽犯罪で済むならば実効支配がどちら側にあるかを示すいい機会だ、逮捕しちまえ。しかし実際の所は、これまで無視を続けてきた日本を中国が引きずり出した格好である。囲碁で言えば不満のない分かれとは言えない、日本に不満の残る形だ。

ここで深読みをしなければ、人気取りの政治家が民衆に分かり易い解を与えたとも言える。それは相手を利する行為であったかも知れないが、灰色で有耶無耶にするより白黒つけようではないか、と主張したのは良かったかも知れない。

中国からすれば、尖閣諸島は有望な日本への手筋であるし、何よりも国内の鬱憤を晴らすのに絶好の手段である。まだ使い道があるこの問題を解決したいわけがない。この問題を睨みつつ他を打ちたいはず。また中国が適度にガス抜きをしなければアジアの安定に支障がある、と日本が感じるならば、この問題を保留したまま別の問題を論じる事に中国と日本は一致した見解を示すであろう。

何かある度に公式には中国政府が自らに有利な主張をすることは当然である。日本はそう主張される事の何が悩ましいかを考えなければいけない。囲碁を知らずして領土問題を語るな。自分の陣地だと思っていた所に相手が打ち込んで来るのは当たり前の話しではないか。コウ争いだったり、振り替わりを狙ったり、相手も死力を尽くしている。

日本は尖閣諸島を自分の領土と主張するが中国は「見損じはありませんか」と聞いてきている訳だ。それにどう応じるかは日本の問題だ。手抜きをしてもよいし、応じてもいい、これを利用して別の場所でコウ争いを挑むもよい、対するは全て日本側の問題であって、畢竟、これは国内問題に過ぎぬ。

鄧小平が語った
次の世代はわれわれより賢明で、実際的な解決法を見つけてくれるかもしれない

尖閣諸島は鄧小平が何十年も前に相手の陣地に打ち込んだ石である。日本はこれを死に石と見た。中国は戦い次第では息を吹き返すかもしれない、と目論んでいた。中国政府としては漁師だの活動家だのいつ死んでも惜しくないような人間を使って相手側の政治家を釣れたのだから何と安い買い物ではないか。まさに魚釣島である。

それくらいの読みは日本政府だってある、これまで無視してきたが、ここまでやられて黙っていられるかと竹島では強気の発言もした。深読みすれば、これは日本国内の不満を領土問題で煽って支持率に結び付けようとする裏取引かも知れない。普通に見れば、相手の手に迂闊に乗っかたおっちょこちょいだ。だが自分の読みを信じられなくて碁打ちが務まるかと言う話である、コケにされて引きさがるような勝負師などいないし、碁打ちもいない。

これはただの領土問題ではない。互いにレアメタルや貿易問題もチラつかせながらも続ける国家間の対話だ。円高に一喜一憂したり円安にしろと主張をしながら、中国には強硬に対峙せよ、と主張する人は報復の覚悟はあるのか。もし覚悟なくアジテートするなら論理は矛盾する。日本経済が中国と密接である以上、臥薪嘗胆や韓信の股くぐりは互いにありうる。

日露戦争の故事にもあるように日本では目前の利益に熱狂する節がある。プライドを大切にするなら突っぱねるもよし、その代償は経済の縮小で払え。飢えてもよい矜持を取るのか、それとも乳飲み子のために頭を地面に押しつけるか、人それぞれの考えがどう国として集約するか。

これは原子力発電所再開と同じ問い掛けだ。安心のために再稼働をしない、その代償は電力不足と物価の高騰だ。安全かそれとも経済か。突き詰めれば全てがひとつの問題に直面する。石油依存社会の終焉である。先の戦争からずっとこの問題と対峙してきた。それがいつの間にやら安心だの矜持やら経済の問題にすり替わっただけだ。いずれにしろ両取りはない、二重当たりや王手飛車取りだってどちらもは取れない。

中国は既に巨大な龍の大国である。これは、別に中国の人を警戒しているのではない。貶しているわけでも嫌悪しているわけでもない。そういう力を持った、という事実を認めるべきだ。強い国が強硬に見える手段を用いるのは当たり前であって、アメリカと付き合っていれば、それは身に染みて分かっていることではないか。

既に中国と対するのに日本一国では難しい。そうであれば G8 だけでなく ASEAN とも積極的に連携すべきではないか?中国から東南アジア、インドへシフトする姿勢を強く押し出してゆくべきではないか?中国と対するなら中国を孤立化させる以外の手段はない。一国で事にあたるな、必ず複数の国と共にあたれ。巧みに合従連衡で立ち振舞わなければならぬ、秦に滅ぼされなければいいけど。

だがよく歴史を見てみよう、強い支那は今に始まった事ではない。弱い支那が歴史の上で稀だっただけでアジアでは長い昔からどの国も強い支那と付き合ってきた。遥か昔、聖徳太子が心を砕いた時も強い支那が相手ではなかったか?

強い中国の出現を嘆くことはない、かの飛鳥の時代と同じ苦労を我々もするだけの事じゃないか。明治時代に台湾出兵の収拾で味わった大久保利通の苦労を我々もするだけの事じゃないか。ヨーロッパと比べれば、かつて支那にあった大国は穏健な平和をアジアにもたらしていた。己れを攻めた国の敗残の子供たちを引き取り自分の子として育ててくれた人たちである。

それは歴史上、事実だと思われる。

2012年8月24日金曜日

繰り下がりのある引き算

これから述べるのは、筆算を理解しようと方便を使い過ぎると子供の将来をダメにするかも知れない、というお話である。

28 - 15 = ?

これを筆算する時、位を分けてそれぞれの桁毎に引き算する。1 の位からは 8 から 5 を引く、10 の位からは 2 から 1 を引く。これは引き算というより筆算のやり方を教えている。位を揃えてそれぞれの桁で計算しなさいと言うのは、桁を揃える点が重要であって、それぞれの桁で計算する、を強調し過ぎるとその次で貸し借り問題が発生する。



25 - 18 = ?

それぞれの桁で計算しなさいと言うと、5-8 が出来ない。15-8 を習っていても 5-8 は計算出来ない。



だから隣りから 1 を借りてくるのよと教える事になるのだが、この理解が難しい。ここで躓いてしまう子どもにこそきちんとした説明が必要だ。何故ならここで躓くのは結局のところ桁毎に計算するという教えをきちんと守ろうとしている子供だからだ。



参考:「繰り下がりのある引き算の10未返却事件」

お隣から借りてくる問題

筆算で桁毎に計算するとは縦の関係を守りお隣りと干渉しないと言う方法である。しかし桁上がりと桁下がりがあるのだから隣同士で全く干渉しない訳にはいかない。数のやり取り(繰り上がり、繰り下がり)は発生するもんである。筆算はより簡単にするために桁間の干渉を最低限にしようと工夫している、だけである。

これを子供は一生懸命になって干渉が全くないと考える。そこで四苦八苦するわけである。桁が一杯になったらどうするか、全部無くなったらどうすればいいのか。桁とはまとまりの単位であり隣同士も干渉し合う。干渉は全くないという誤解は解かなければならない。

すると隣りにあるのは 2 という数ではなく 20 であると言う事も理解できる。筆算では 2 と書かれているが桁という考えが分かればただの 2 ではない事も理解できる。つまり 2 を借りてきたら、隣りでは 20 として扱う理由が子供には必要なのである。

借りてくるの理解が難しいのは、実生活において貸し借りの概念が形成される前だからである。大人でも貸借対照表が本当に分かっているのか、というくらいに貸し借りは難しい。小学低学年がおいそれと理解できるようなものではないのである。たぶんマイナスを教える方が簡単だ。例え人類史においてマイナスが貸借の概念よりも後から生じているとしても。

もちろんここで借りてくるという話はお隣から醤油や味噌を借りて来ての意味に近く、ここにある近所付き合いにおける借りてくるの暗黙のルールを子供が理解するのは少々骨が折れると思われる。

貸し借りの概念

さて、筆算を教えるには先ずは貸し借りの概念を教えないといけない。日本人が貸し借りの概念を知るのはこの引き算に於いてである。それ以外の方便は何かないだろうか。

そこで次のような教え方はどうだろうか。桁毎で計算できない時は二桁で計算する。

25-18 を桁毎に引いてみる。しかし 5-8 ができない。そこで 25-8 で計算する、もしくは 25 は 10+15 なのだから、15-8で計算してもよい。



一致団結

お隣から借りてくるのではない、相手の方が大きくて、自分だけでは戦えないから、お隣と協力して事に当たるのである。これは子供に道徳的な智慧を教える事にもなるし集団の一員としての自覚を促す事にもなる。

5-8 が出来ないのでお隣と力を併せて 25-8 で計算する。すると答えは 17 である。一桁目の計算が終わったので 7 と書く。お隣もいっしょになって戦ったので残った力は少なくなっている。その余った1は、2(10の位)の下に小さく書いておく。次に二桁目の計算は 1 から 1 を引いて 0 である。答えは7となる。

いろんな解き方

25-18 は、25 から 8 を引き、次に 10 を引いてもいい。




25 から 15 を引き、更に 3 を引いてもいい。




25 を 28 にしてから計算して最後に 3 を引いてもいい、




25 を 20 で計算してから後から 5 を足してもいい。




色んな方法がある事を教えた方がいい。

5-8 を -3 とし 20-10 で 10、-3+10 でもいい。




借金の踏み倒し問題

筆算を貸し借りで教えるのは、結局は借金を教えるのと同じである。足りなければ借りてから返せばいいという教えである。まだ負の数の概念がないので、返せない時は借金できない。これは返せないのにサラ金に手を出してはいけないという価値観ともよく合う。しかし貸し借りの教え方ではその次の計算で道徳的に破綻する。

15 - 28 = ?

どうしても引けない、だから負の数が必要だったのだ。この引き算を見て安心する子供が出てくる。なーんだ、借りてきて返せなくても別にいいんだ、ちゃんと答えが出るじゃんか。



借りてきても返せない、どうしても返せない時は答えをマイナスで出す。こう学んだ子供は大人になったときに引き算の按配で借金をする。お金が足りなければお隣から借りてくる、それでもダメなら借金をする。引き算では借りて来た 1 は返した記憶が一度もない。つまり借金は踏み倒せばよいという道徳観が醸造される。

まとめ

算数は運動と同じだ。例えば、スポーツにはルールがある、ルールを覚えないといけない。子供でも大人でも当然の事としてルールに疑問が湧く事はある。どうしてこのようなルールになったのか、そこには理由があるはずである。これを知る事は体育であれ算数であれ大切だ。

次にスポーツはしてみなければならない。実際に体を動かして体験する事は体にとっても脳にとっても鍛えるという点でとても大切な事だ。これは算数も同じで実際に計算するのが大切なのである。公文式というのは、体育であれば実際に体を動かしていっぱいトレーニングしようというもので、ルールを体が覚えてしまうまでトレーニングを続けようという話である。布団の上で幾らクロールしても泳げるようにはならない。

仕組みを理解する事と使い方を覚える事は違う。お隣りから借りてくるもお隣と力を合わせるも仕組みの説明ではないし、使い方としてもひとつの方便に過ぎない。要は理解を助ければいいのである。

2012年8月8日水曜日

礼について - 刀と銃の文化

アメリカのドラマを見ていると銃の取り扱いはシビアに描く。容疑者がキッチンの戸棚を開けようとするだけで牽制する。おい、まてまて、勝手に開けるんじゃない。開けたら撃っちゃうよ。

犯人を追いつめて相手が背広の内側に手を入れたらダン。そのまま射殺。これで正当防衛。拳銃の世界では相手より速く撃つ、と言う発想が自然である。撃たれたら終わり、二発目はない、という思いが強い。

銀河鉄道999でも鉄郎が云われていたね。
撃たれる前に撃て
って。

この感覚は銃の伝統がない日本人には馴染みがない。しかし日本人は刀に関する感覚は分かっていたりする。だから日本とアメリカの違いは刀と銃の文化の違いじゃないかな。

僕らが知る歴史は卑弥呼、飛鳥、奈良、平安の時代から源平、南北朝、戦国、幕末ロマンまで銃よりも刀だ。多勢に無勢というのは刀でも銃でも有り得るが敵の真ん中に立って見得を切るのはガンマンの世界では通用しない。殺陣で大勢を相手にするのとガンマンが大勢を仕留めるのは見せ場が大きく違う。

刀では居合抜きと抜刀術があって相手に先に切らせこれをいなして切り返す。銃であれば相手に先に抜かせてこちらが先に撃つ。刀では切られてからでも切り返すことは可能であるが銃では弾丸が発射されたらもう間に合わない。時間に関する余裕が刀と銃では全く違う。

日本でも織田信長、幕末、日清、日露、日米と戦場ではよく銃で戦った。それでも一般的には銃についての知識や常識は僕達には薄い。僕達は刀なら何となく分かる、そういう素養を持っている。

武道には礼がある。この礼は刀の世界から発生していると思われる。柔道の世界大会などで米人や仏人がする礼には違和感がある。どうも礼になっておらず頭を垂れるだけだ。それは強さの違いから来るものではない、相手に対する敬意でもない。オリンピックの金メダリストでさえ日本人の子供の礼とは明らかに違う。

思うに日本人の礼と言うのは、お互いが頭を下げる仕草ではないのである。相手への感謝とか丁寧さでもない。ましてや相手への尊敬でもない。囲碁であれ、将棋、柔道、空手、合気道など礼に始まり礼に終わる全てで礼が違う。

日本人の礼と言うのは頭を下げる儀礼ではない。あれは首を差し出す行為なのだ。昔の武士が切腹の時に頭を差し出す。どうぞ介錯をしてくださいと頭を出す、これは首を切ってもらうためにする。命を差し出すために首を差し出す、その時の介錯する人への気遣い、己が首を斬りやすい形にする、これが礼の形ではないか。これが礼の根本にある姿ではないか。

互いに礼、とは競技者が互いに首を差し出す事だ。誰が、とはお互いに。誰に、は立会人に対して。

立会人に対して、もし私が誤った事をしたと思うのであればどうぞ何時でも首をお跳ね下さい、と言う意思表示が礼という動作である。それが果し合いの覚悟である。途中で不正をしたりルールを破ったのであれば何時でも首を跳ねてください、私にはその覚悟があります、と宣言するのが礼なのだ。立会人に対しても競技者に対してもそう自らが宣告する。

選手宣誓などと言葉にする必要もない、一礼をもって全てに変える。これが刀が生み出しものじゃないかと思う。銃の世界では首を跳ねるという行為は生まれない。ギロチンの中に首を自ら入れる、という行為かも知れないが、ギロチンは人道的な道具であるし覚悟とは少し異なる。銃を相手に預けるとも少し違うかも知れない、何時でも私を撃ち抜いてくれ、というのはどう演出するのだろうか。握手、がそれに近いだろうか。

銃の世界には銃の世界での美意識というものが生み出されており、刀の世界では刀の世界としての美意識を生み出している。僕達の知らない世界で、銃や刀のように文化を生み出したものがある。これらの文化を持ち寄って混じり合って新しい姿が見えてくる、オリンピックもそのひとつだろう。

2012年8月6日月曜日

人を正しくすることを如何せん - 孔子

巻七子路第十三之一三
子曰 (子曰く)
苟正其身矣 (いやしくもその身を正しくせば)
於従政乎何有 (政に従うに於いて何か有らん)
不能正其身 (その身を正しくすること能わずば)
如正人何 (人を正しくすることを如何せん)

(訳)
もし自分が正しいと思うのなら
政治を行うのに猛進すればよい。
しかし無理して正しくあろうとしても
誰が従うだろうか。

自分が正しくないのにどうやって他の人に正しさを求めるのか、だからまずは己が正しくあれ、と言っているのではない。己を律して正しくしたとしても、律さなければならないような正しさにどうやって信を置くのか。無理しなければ出来ない正しさが社会に浸透するはずがない。

自分が無理しなければ出来ない事を人に要求しちゃいけない。もし要求したければ自分にとっても自然なことだけにした方がいい。孔子は"其の身"と呼び、"己の身"とは言わない。だけど己の身ではないけれど、己の身として考えてみてよ、と言っているのが分かる。

自分は正しいと信じて他の人に説く。彼らは己が正しいと信じて己の正しさを頼みとして他の何も必要としていない。だが、正しいと信じて行動する彼らを律するものは何であるか。誰れが正しいと決めるのか、出来る訳ないじゃないか。

その身を正しくする事など能わず、と孔子は言いたいのだ。自分を正しく律するだって?そんな事は無理じゃないか。己の正しさも分からないのに、他の人の正しさをどうやって分かるというのか。他の人が己を正しいと言ってくれる、ではその人は正しいのか。

己の正しさを信じてしまえば他の何もいらなくなる。己の正しさを顧みる事もなく、他の人に正しくあれと主張するのを如何にすればよいのか。

みんなが自分は正しいと言いながら政治を動かす。見てみろよ、正しいという主張はどれもどこか無理をしているじゃないか。あやふやな正しさだらけで彼らを自省させるものなど何もない。

もし正しいのであれば何だって出来るさ、だけどあなたの正しいの正体は何ですか、あなたが正しいと誰が決めるのですか。もしあなたが間違っているのに他の人に正しくあれと言っているとしたら如何するのですか。

人に正しさを求めないようにしよう、同様に自分にも正しさを求めまい。正しさというものを身にすれば人は際限なく暴走しもう歯止めは利かないのだから。

では正義以外の何がこの世を成り立たせるのか?