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2012年5月29日火曜日

Law & Order opening narration - Dick Wolf

Law & Order
ローアンドオーダー

In the criminal justice system,
犯罪に関する法システムでは

the people are represented by two separate yet equally important groups:
人々は等しく重要な二つの組織によって代理される。

the police who investigate crime and
警察は、犯罪を捜査し

the district attorneys who prosecute the offenders.
地方検事は、犯罪者を起訴する。

These are their stories.
これは彼らの物語である。

字幕、日本語吹き替え。
刑事法体系には、
等しく重要な2つの組織がある。
犯罪を捜査する警察、
そして容疑者を起訴する検察である。
これは彼らの物語である。

Law & Order: Special Victims Unit
ローアンドオーダー:性犯罪特捜班

In the criminal justice system,
犯罪に関する法システムでは

sexually based offenses are considered especially heinous.
性に関する犯罪は特に凶悪と見做す。

In New York City,
ニューヨーク市には、

the dedicated detectives who investigate these vicious felonies are
献身的な刑事たちは凶悪な重犯罪に立ち向かい、

members of an elite squad
エリート集団として組織されている。

known as the Special Victims Unit.
それが特別犯罪捜査班である。

These are their stories.
これは彼らの物語である。

字幕、日本語吹き替え。
刑事司法制度では
性犯罪を特に重罪と見なす
ニューヨークには
この悪しき犯罪と闘うエリート集団がいる
性犯罪特捜班(SVU)の刑事たちだ。

Law & Order: Criminal Intent
ローアンドオーダー:犯罪心理捜査班

In New York City's war on crime,
ニューヨーク市の戦争状態とも言える犯罪において

the worst criminal offenders are pursued
最悪な犯罪を行う犯罪者たちを追跡する

by the detectives of the Major Case Squad.
重大事件を担当する刑事たちのチームがある。

These are their stories.
これは彼らの物語である。

字幕、日本語吹き替え。
ニューヨークには-
凶悪犯罪者と心理戦で闘う刑事たちがいる
犯罪心理捜査班だ

Law & Order: Trial by Jury
ローアンドオーダー:陪審評決

In the criminal justice system,
犯罪に関する法システムでは

all defendants are innocent until proven guilty,
すべての被告人は無罪である、有罪が証明されるまで。

either by confession, plea bargain, or trial by jury.
つまり、自白や、司法取引、または陪審員によって裁かれるまでは。

This is one of those trials.
これはそれらの裁判のひとつである。

字幕、日本語吹き替え。
刑事法体系には
自供や司法取引
陪審裁判により
有罪が確定するまで
被告人は無罪である
これは
その裁判の物語だ。

LAW & ORDER | UK

In the criminal justice system,
犯罪法体系には

the people are represented by two separate yet equally important groups:
人々はふたつの等しく重要なグループによって代理されている。

The police who investigate crime,
警察官たちが犯罪を捜査し、

and the Crown Prosecutors who prosecute the offenders.
検事たちが犯罪者を訴追する。

These are their stories.
ここに彼らの物語がある。

字幕、日本語吹き替え。
刑事法体系には
等しく重要な2つの組織がある
犯罪を捜査する警察
そして容疑者を起訴する検察である

Law & Order: Organized Crime

In the nation's largest city,
巨大都市には

the vicious and violent members of the underworld
危険で暴力的な人間が地下で蠢き

are hunted by the detectives
それを追跡する警察官たちがいる。

of the Organized Crime Control Bureau.
組織犯罪管理局に所属する者たち、

These are their stories.
これは彼/彼女らの物語である。

字幕、日本語吹き替え。
米国最大の都市では
地下組織の凶悪犯をー
組織犯罪対策局の刑事たちが
追っている
これは彼らの物語だ


Objection, your Honor. (オブジェクション、ユアホナ)
裁判長、異議あり。

Sustained. (システイン)
異議を認めます。

Overruled. (オブールード)
却下します、続けて。

2012年5月25日金曜日

もっと知りたい曾我蕭白―生涯と作品 - 狩野 博幸

うちの母親は狩野永徳について面白い意見を持っていた。

織田信長の前で絵を描くとは命懸けであった。彼の癇に障るといつ命が飛ぶかも分からなかった。そんな命懸けが絵に出る。その迫力に圧倒される。

絵描きが絵をお披露目するときの緊張感を想う時、その絵には覚悟があったはずだ。この絵で殺されるならどうしようもない。だから狩野永徳を見る時はそれが命懸けであったと想うて見るのがいい。その迫力に圧倒され、緊張感のうち、色々な思いに捕らわれる。

時代を超えて残るものは解釈をし過ぎて困る事がない。どのような解釈も出来るし新しい見方も拒絶しない。だからそれは見る者を映す鏡と呼んでも困る事がない。

だが息子である僕の好みは時代が少し違う。

江戸時代である、江戸時代のユーモアこそが骨頂である。この時代に描かれたあちこちに見られるユーモアがこよなく好きだ。じいっと見ていると思わずプッと笑ってしまう。それはにらめっこしていたら遂に新しい所を発見してしまって笑わずにはいられなくなるような、そんなのが幾らでもある。

美術館で刀剣の鍔であるとか根付とかを見ていると職人の笑い顔が見えてくる。なんだこのかわいさは。目に入ってしまえば途端に笑ってしまう、カエルの開いた手や牛ののんびりするなんとユーモラスな事か。この、江戸時代独特のユーモアがなんとも謂えずにいい。

ユーモア、と言うしか表現のしようがない世界がある。ユーモアな人物はあちこちに居る。ユーモラスな会話というもの本になっているほどにある。しかし工芸品や絵などがユーモラスであるとは、これは珍しい事ではないか、日本ではない、江戸時代だけに見られる不思議な世界に思えるのだ。

ユーモアは恐らく意識的な造りであろう、狙って落とす先ではあるが、作為的ではない、しかし、天然でもない。さらっとしてないといけない、作者の舌を出した笑い顔が思い浮かなければいけない、それを、後から気付くようでなければいけない。そうでなければそれはユーモアではない。

きっとこれを「ああ愉快」と言っていた。

そして曾我蕭白。

絵について語ると言うのも可笑しな話ではある。見ればわかる、と言うべきだ。しかし、どう見るかを語るのも悪くない。面白さは人によっても時間によっても変わるのだから、それぞれが一つの道標みたいになる。人それぞれが見付けるものだとしても、こういう見方もあるよ、というのは、絵の解釈に等しいだろう。絵を言葉にするだけが絵を語る事ではない。どう見ているか、どこに注意しているかを語るのも絵について語る事だろうと思う。

さっと全体を見て終わるのではなく、ざっと見る方がいい、そのあと、どこか一点を注意してみる、そこは何気なく魅かれたり気になった所でいい、たまたま目の言った所でもいい、そこを見ていると線の伸びる先に目をやったり、対角線に目が移ったり、色や筆使いが気に成ったり、色々な妄想が湧いてくる。あちこちに目を移してみて、筆使いだの書き順などにも想像が膨らむ。

そうこうして絵の中を彷徨っている時に見つかるのだ、この絵の中に、その片隅に、何気ない曲線の中に、こんな曲線が隠れていたのかと驚いたり、どんな真剣な表情でこの絵を描いていただろうかと空想してしまう視点が。それは、長き年月を経たとも思われず、想像を超えた遥か昔であるとも信じられず、今も僕の目の前にあるじゃないか。

なんともユーモラスな顔や目や線がそこにある。こちらの事など何一つ気にするそぶりを見せずにそこにいる。鉄で出来たうさぎだったり、ささっと書かれた童の顔だったり。それに気付いて、ああここに居たのかと笑ってしまう。このユーモラスさは心地よい。それを見付けた時にすとんと腑に落ちる。

真剣さとユーモアの対比がある。真剣にこのカエルの顔を描いていたのかと思うと飄々とする。

本書の表紙をじっくりと見てみよう。女の人の目が寄っているのはおかしさをぐっと我慢しているからに違いない。老木のような仙人がくすぐったいのを我慢しているようでもあり気持ち良さそうにしているようにも見える、ところで、ふと目に入るこの白いカエルに気付くだろうか。この頭にちょこんと乗ったカエルの表情。何を考えるともない澄ましている。何の理由もありはしないが笑みがくるカエルではないか。

商山四皓図屏風の服の描画はどうだ、この太い線が生む白の雄弁さはどうだ、こんな描き方があるのかと訝る。酒吞仙人図を見ているとディズニーの白雪姫の7の小人にも見えてくる、驚きだ。

蝦蟇・鉄拐仙人図

http://ja.wikipedia.org/wiki/曾我蕭白 より


左の絵、なんとなしに見ると口から何かを出ている。ピューーと何かを吹き飛ばしているのかな。人か、近付いて良く見てみよう。すると、なんて顔をしているんだろう、小指が立ってる。なんともおかしな唇のカッコ、ああこれは面白いよく描けた口だ。右の絵は、笑っているようだな、おっと、一本足のカエルが見栄を切ってるぞ。これは愉快。


本書に楽しさを加えている一つに著者である狩野博幸が付けたキャッチがある。

こう言いたくなる理由は絵を見れば分かる。この人がどういう風に絵を見ているかもよく分かる。誰の言い分も講釈も信じちゃいない、自分で見て、その感覚に信頼を置いているのだろう、自分に自信があるという事ではない、自分の目を信じてみようと決心した人の言葉だと思う。

あっち行け!しっ!蝶を怖がる百獣の王

怯える獅子と困惑する虎、ガリガリガリガリと岩に爪たてる音がする。

亀よ、その小さな手で何を掴む

この亀の手がポツネンとしてユーモラスでたまらない。

マンガ的擬音語を添えてみたい衝動に駆られる

これは物理学ではないか、宇宙と重力の関係式が見えてくるような。

ピューッと風を切って走る音が聞こえてきそうなスピード感

この絵を見た時に、手塚治虫の新宝島の逸話を思い出さない者がいようか、スピード感という表現で時代を超えて二つの作品が交わったかのようだ。波も岩も草原も漫画のスピード線で描かれているに違いない。

とぼとぼと雪の上に続く幾重にも重なる足跡は数多の絵師たちの通った跡であり、そのどれもがいい、その景色さえ一幅の絵のようだ。

こちらも併せてどうぞ。

根付
耳鳥斎 (にちょうさい)
仙厓義梵(せんがい ぎぼん)
白隠 慧鶴(はくいんえかく)

2012年5月23日水曜日

日産サニー - デザインと名前

道を歩いていると、お、いい車じゃん、これ。

よく見れば実家に同じ車がある。

日産サニー!


http://ja.wikipedia.org/wiki/日産・サニー より

どうよ、この車らしい、車。車の絵を描いてみなさいと言われたらきっとこうなる最大公約数のデザイン。ポルシェだのランボルギーニだの、そういうのに憧れる年頃から見れば、侮蔑の極み、堕落の象徴、一般化の具現、面白みのない大人、皮肉、そう言った声が聞こえてきそう。まさに、僕も最初にこの車を見た時はその平凡さに落胆した。

この車。

今みると悪くない。

美しいという称号を与えたいなら、この車は不適格かも知れない。細部に美が宿るからも遠そうだ、綺麗ではあるが美しいとまでは言えない。これが感嘆できる曲線であるかは微妙だ。

しかし、ここにも一つの意志がある、平凡かも知れないが、車という道具に与えられた形がある。全ての虫が煌びやかに多彩に迷彩されている訳ではない。地味な虫は美しくないのか、そういう感性は神の創造物であるには欠陥のように思える。虫がではない、その感性の宿り主が。

存在に与えらえたデザインとは何とも不思議なものである。

と、国道に目をやればふと来る車、次に来る車、一台づつ見ていると。。。

どれもこれも、 十分個性的で愛らしい。まるで、色々な虫が歩いているのを観察してるようだ。楽しい。最悪のデザインに見えていたTOYOTAまでもが悪くない。TOYOTAの車はどれもこれも、後部座席ドアの流れるような曲線の良さが見えてくると面白くなってくる。これらの車に与えられているのはデザインではない、パッケージングであろうと思われてくるから不思議だ。

ブランド
昔の車が良く見えてくる、古い時代のものの存在感を感じる。そういう事はデザインでも良くある話だ。石器時代の石器にロマンを感じるが、ジャングルで生活する人が使っている石斧にどれだけの感想を覚えるともない。

デザインの何に興奮するかは非常に変動的なのだろう。それはバックグランドや思い込みも含めて感傷的なのかも知れない。如何にも日本車のデザインは何かの影響を強く受けているように見える。あの車を真似たのか、という思いに捕らわれる。似ていないなら、あの車に対抗しようとしたのだという思いに捕らわれる。デザインに影が見えてくる。

これは名前のリンクでもある、サニーとカローラ、この二つのリンクが切れればそれぞれが美しい。しかしこの二つが切れていなければ、それはサニーはカローラの真似というフィルターから逃れる事が出来ない。

だから車の名前やメーカーも全部を忘れてただ眺めてみればどれもこれもよく思えて来るんだろう、と思う。

名前ってのは解剖学で定義するようにある一部分、どこかを切り出す行為だ。だから名前がある限りは空間なり領域なり境界なりで何かから何かを切り取っている。それは世界であるだろう、ではそれを切る道具は何だろうか。きっとそれが価値観というもの。

ステータス
有名なメーカーだの、排気量が大きいだの小さいだの、金額だの新車か中古だの。謂わばブランド。

ブランドがあれば価値で染まった姿が見える。後ろ盾のある人物が大きく見えたり、落伍した人が小さく見えたりするのと変わりはしない、デザインの価値観を入れる箱物という側面は否定しきれない。ステータスとデザインには深い繋がりがあるはずだ。

そういうものを全て忘却してみればどれもこれもよい車。過去が価値観を洗い流してくれた訳だ。どれにも個性がある。

この失われたステータスはビジネスが生み出したものだ。であればビジネスとは名前を付ける行為なのだろう。何かに新しく命名する。商品を作っては名前を付ける。仕様を提唱して名前を付ける。

パッケージ
従来とは違った切り口を見付けたなら其れに名前を付ける。これが新しい価値の提案と言える。逆も真。名前を付けたならそれは新しい価値の提案なのだ。既にある名前でも再発見という事もあるし、Version 2.0やRevision、Season、Seriesとするのもある。

少なくとも今やっている事に名前を付けてみよう。ビジネスとは名前を付ける事。それがビジネスの恐らく第一歩だ。そしてデザインとは名前に仮面を与える事である。それは価値観と強く結びついてデザインされる、何故なら、価値観は名前と表裏一体だからだ。それが次第に時間の経過により名前が忘れられてゆく、その時に、名前を失ったデザインというものがもう一度姿を現してくる。

時間の経過とデザインが関係するなら若さや老いもデザインと深い関係にあるはずだ。若い野心がステータスと無関係ではいられるはずがない。若い時こそ物事に色を付けて見る癖が強くでる。それは己の価値観をぶつけたものだ、好き、嫌い、使える、使えない、得になる、ならない、金になる、ならない、如何に行くべきか。彼らは名前に反応し、新しい名前はないかと探す。

ビジネスだけではない、呪いも名を必要とする。相手の名が分からなければ呪う事さえ出来ない、何故なら、名前によって相手を世界から切り離すからだ。名前に取り憑きその重みで人を殺すに至る。遠い昔、既に忘れられた名前の人々の物語がそこにある。

造形
それらが流れ過ぎてゆき今もこの世界に残っているものは何であろうか。

デザインに美しいも美しくないもありはしない。それはブランドという価値観に酔った感性に過ぎない。デザインはただ存在する。その存在に感性が畏怖したならば、それはデザインだけではない何かと出会った事になる。

このサニーも家族の思い出だけが残ったような姿をしている。

誰もがデザイン以外の形を目で見るなど出来ない。だから、この世に残るものはデザインだけなのだ。

人は去る、デザインだけが残る。

2012年5月18日金曜日

これはかっこいい未来だ - 風車

株式会社グローバルエナジー浜松研究所

これもかっこいい未来だ - Vortex Bladeless

TVで知った事って結構ある。TVで発信されたものだから誰かが発掘した情報の二次受け、三次受けで、受領した時点で、もう多くの人の知る所となり情報を制するアドバンテージなど何処にもない。

それでも知らないよりは知っておいたた方がいい。

というわけで、たぶん、世間では既に風力で有名な風車と飛行機なんだろう。

ま、見てくれ。俺のもんでもないし、何も関係ないんだが。

風車といえば、ナウシカだろうけど、いかんせん、あれは絵にはなるが、少し古風だ。

オランダの風車なら、フランダースの犬みたいで宜しいが、ラストがちょっと悲しい。

それと比べて、どうだ、このかっこよさ。

ドイツだ、スペインだの海岸沿いに並ぶ風車は、どうもいかん、ありゃ、かっこわるい、あれは、風車がかっこ悪いんだ、あんなもん、美学も造形もない、どれだけ並んでても明るい未来はそこには待ってない。心を打たないから。

しかし、この風車が並んでいたらどうだ?

メトロポリスのような、手塚治虫のような、そんな未来図がありそうじゃないか?

この風車から生まれた模型飛行機もキュート。

これが実用化されるかどうかは知らないけれど、この形にはカッコいい未来を作り出しそうな雰囲気がある。

2012年5月15日火曜日

人類宇宙進出計画 第一章

なんとも銀河英雄伝説は遠くにある。

銀河系、直径10万光年、高さ1.5万光年。
銀河の中心から400光年のガス柱が観測されている。
いて座A*がありそこから宇宙ジェットが噴出している。

さて、人類は未だ太陽系の外どころか月の外にさえその活動を伸ばす事が出来ない。
幾つかの探査機がようやく太陽系を越えようとしている。

太陽からの太陽風が届く限界線をヘリオポーズ(Heliopause)と呼ぶ。太陽系の銀河公転進行方向にはヘリオポーズと銀河がぶつかり合う。その境界にはバウショック(Bow Shock)と呼ばれる弧状衝撃波面が形成される。その内側をヘリオシース(Heliosheath)と呼び、その中に卵のように守られた末端衝撃波面(termination shock)が存在する。ヘリオシースにはエッジワース・カイパーベルト天体があり、ヘリオポーズの外側にはオールトの雲がたなびいている。

人類がそれを肉眼で見る事は未だ先の事である。

では人類の当面の目標はどこに置くべきであろうか。

月面にはちょっと遊びに行ってきた。
どうみてもそれは子供のお使いよりも小さな旅であり小さな一歩である。
始めて家の中からお庭に出て庭石にタッチしてきた程度のものだ。

次に目指すは火星であろうか。火星への有人飛行となれば、巨大な惑星間航行船と生命維持装置、航海途中における補給システムの確立など話題に富む構想がてんこ盛りである。

しかしそれは到達すべき最初の点ではない。

以下に人類の第一次宇宙進出計画の到達点を勝手にでっちあげる。

目標、第一次進出計画の最終目標は、地球以外の天体に地球生命体を送り込む事とする。
もちろん、最初に地球から飛び出す生命体はヒトではない。もっと小さな微生物を地球以外の天体に送り込むのである。そこには水と熱水噴出孔があればよい。

恐らくこれが地球型生命が活動可能な最低限の条件である。
そして太陽系には地球以外にもこのような条件を持つ天体が一つある。

木星の衛星エウロパ。
そこには水と熱水噴出孔がある公算が高い。
ここなら地球型生命体が生存可能である。
であれば、地球の深海からエウロパの海底に生命体を送り込むのは絵空事ではない。

これが計画だ。

この計画の実現には様々な準備が必要である。
大きく分けて3つのフェーズを順々とクリアしてゆく必要がある。

一つにはエウロパ固有の生命体の確認である。
もし生存が確認されれば地球型生命を送るのは中断する。
その場合は、彼らを採取しエウロパ生命システムの独自性や地球型との類似性を研究する方向にプロジェクトをシフトする。その研究は地球での繁殖を防ぐためにも宇宙空間で行う事が望ましい。

計画の三段階は次の通りである。
・エウロパ固有生命の探査
・地球生物の輸送
・エウロパ生息の監視

エウロパでの生命探査においては、最終的にエウロパからのサンプルリターンを行う。
そのためには更に次の3つのステップを実施する。
1.海底地図の作成、地質調査の実施
2.次に潜水艇による調査探索の実施
3.海底土のサンプルリターンの実施

次が地球生命輸送を行うための3つのステップである。
1.生命体の選出
2.輸送方法の検討
3.生命の送出

この計画が地球型生命体の宇宙進出の最初なのである。
それは0が1となる最初の到達点である。

人類が宇宙に飛び出るためには宇宙船の開発が欠かせない。
ましてや人類が宇宙を旅するには今の宇宙船では非力に過ぎる。

未だ人類は息を止めて海を潜る程度の事しか出来ていない。
だから先ずは宇宙船の開発であろう。
そのための最初のステップとして生命体のエウロパ進出は魅力的な課題であると思う。

しかしそれ以上にこのプロジェクトが持つ意味を考えて欲しい。
地球の生命を宇宙に連れ出す事。

それが、この地上で人類だけに可能な事である意味を。

この地上では様々な生命が発生し進化し適応してきた。しかし遂に宇宙に飛び出す事は叶わなかった。
如何なる進化の上に新しい体の仕組みを手に入れてもそれ能わず。

だがクマムシなど宇宙空間でも生命維持できる生命がいる事に思いを致そう。
強力な放射線に晒されても生き残る微生物がいる事に思いを致そう。
ツルがエベレストの山脈を飛び越えようとする事に重いを致そう。

この地球にいるあらゆる生命が宇宙に飛び立つための準備をして来ているのだと。

我々は宇宙で生きるだけの体は手に入れていないかも知れない、しかし、彼らを宇宙に飛び立たせるための知恵は身に付けた。これがヒトに出来る事だ。

我々は彼らを宇宙に連れてゆく。

これが最初のミッションだ。
彼らを送り届けたらその後に人類も宇宙へと飛び立つがいい。
だが順番を間違えてはいけない。

まずは木星へ、そして火星へ、あらゆる惑星へ、遠く異なる恒星系惑星へ。

我々は地上に住む生命の頂点に君臨するのではない。
我々は、彼らを宇宙に旅立たすために生まれてきたのだ。

進化の系統樹が新しい環境への進出の歴史であるならば、地球の生命体が宇宙空間へ他の天体へと進出するのは進化の必然だ。これは全ての生命体がそうせよ、と言っているの等しい。

宇宙に進出するための能力は人類が持つ力である。
しかしそれが宇宙に進出する主体が人類であるべき理由とはならないのである。

この星の資源と天体としての健全性が枯渇するのと生命体の進化と、その実現は、どちらが早く来たるであろうか。

僕はこれを珪藻のおしゃべりと呼んでいる。

2012年5月14日月曜日

エコエコアザラク - 古賀 新一

気になる言葉ってのがある。だんだん鼻に付いてきた。

だいたい、そういう言葉には (≒絶対正義) というニュアンスが含まれる。例えば、子供のため、とかね。そんな中で、

エコパックだの
エコキッズだの
エコマークだの
エコ替えだの
エコ計画だの
エコファミリーだの
エコエコだの

おまいら、全員エコエコアザラクだつーの!たんに金が欲しいと言え、正直に!

つーわけでもうエコなんざ知らん。テレビのCMでもこんだけ騒ぎだして、もう五月蝿い、邪魔だ。おれのTVライフを邪魔してくれるな。

基本的にエコとは石油を使わないことだ、しかし、ここにあるのはお念仏のようなエコばかり。お前ら全員が仏教徒かつーの。

北極の氷が溶けている事に心を痛めてはいるが、それは断じてエコと言う呪文を唱えておれば解決するようなもんじゃない。もしかしたら何をしたって解決しないかもしれん。

それでもエコと念じている連中よりはましだと思った。

それよりも未だに新品が手に入る方に驚いた。

2012年5月8日火曜日

地球の中心まで掘ってみる

チリで閉じ込められた人よりももっと深く掘ってみよう。

地球は、地表から、地殻、マントル、コアの3層の構造から成る。
これをどんどん掘ってみる。

直径1kmの穴をじゃんじゃん掘ること70km、そこでマントルに到達する。
マントルは地震波の伝達速度の違いから発見され、地殻とマントルの境界はモホロビチッチ不連続面と呼ばれる。

さてマントルが出現しようとも構わずにがんがん掘る。
2900kmにおいてグーテンベルク不連続面に当たる。
ここでマントルには別れを告げ新しくコア(核)に突入する。

コアは重たい鉄とニッケルから出来ている。ドロドロに溶けているコアが地熱の原因のように感じるが、地熱の殆どは放射性元素の崩壊熱によるものである。よって放射性元素が崩壊しきれば地熱は今よりも低くなる。

ずんずん6400km掘れば地球の中心に到着する。

さて、ここで問題です。

あなたは地球の中心にいます。
そこで手に持っているボールを離すとボールはどこに落ちるでしょうか。
あなたの足下とほぼ同じ質量の地球が頭の上や横にも存在しています。

次にその中心から上を見上げてみましょう。
6400km上空には空が見えます。
地上ではその穴に橋を渡しました。
その橋の上でボールを離すをどのように落ちるでしょうか?
最初は鉛直上に落下しますが、穴が深くなれば横や上方向に対しても重力の影響を受けるはずです。

次に穴を反対側まで掘って貫通させます。
そこで橋からボールを落としたらどのように落下するでしょうか?
この場合、水準面に対して垂直線上には重力を生み出す質量が存在していません。

これは球でない形状の表面において鉛直線はどの方向を示すかと言う問題を置き換えたものです。

2012年5月3日木曜日

天才 柳沢教授の生活 - 山下和美

モーニング2011年27号(2011年6月2日発売)に掲載された話。

この漫画がいつ書かれたものであるかを僕は知らない。

教授の弟、次郎。幼いころ柳沢家に引き取られ、いまでも父が建てた家を守っている。

養子となった弟が合ったことのない異母兄弟の兄に会いにゆくだけの話し。

そこで交わされる会話が
ははっ
そうですよね
わかりませんよね

そうなんですよ
わかんないんですよ
あはは

あっはっはっ
わかりませんよねー
と笑いあうだけなのだ。

だが、この漫画はこの時期に描かれたものの中では最も意味があるように思う。

作者がどう考えて描いたかは関係ない。

わからないものを笑いあうというメッセージは、まるで今の状況に対する作者なりの答えの様でそこを面白く感じた。時代を捕まえ、そこに自分の思いを重ね、直接的にではなく、物語の形に仕上げて作品とした。

この作品の背景に、テレビで津波の映像を目の当たりにし、マスコミ報道を見続け、福島第一発電所事故、放射能汚染の混乱を見つめている作者の姿がある。わからないものはある、それをどうすればいいのか、お互いに非難しあっているだけでいいのか。

そんな作者に起きたストーリーを勝手に思い浮かべた。

古典作品の中からどのようなテーマや結論を汲み取っても構わないように、この作品を僕がどう受け取ろうともそれは作者には関係のない話だ。

それでも、誰にも分からないものがあるのだと言う事を目の前にしておきながら、隠蔽、捏造、偽証と連呼する報道や政治家、世論に対して、これは一つの想いなのだと思わずにはいられない。

そう受け取ったのは僕。
そしてこの時期にそれを送り出したのはモーニングのスタッフ。

32巻収録、第221話「悩み上手」

2012年5月1日火曜日

山というもの

ある一部の地域を除けば、この国に住む人はその住む場所ごとの山がある。それは小さい頃から見てきた、見られてきた山だ。

山というものは、それぞれの人がそれぞれの山を持っていて其れはどんな概念よりも強く人の中に残り続ける。

それが古里の姿でもあるだろう。

東京には山がない、だから関東に住む人には故郷がない。それが富士山が好きな理由かも知れない。

富士山をとりわけ美しいとは思わない。 形も好きなわけではない、冬の雪化粧した富士をいいとも思わない。

確かに5月に雪をまとった富士の姿には感ずるものがある。
白峰をたたずませ夕の五月ふじ

美しく桜がしだれる吉野の山も美しい。
緑野に桜のありて山の色

それでも自分の故郷の山の方が遥かに雄弁だ。この古里の山こそが自分の本当の山だ。それぞれの山が、ふじも含め、この国の至る所にある。

八百万の神が、それらの神々の存在が山と無関係だったとは思われない。砂漠の国の宗教と我々の神を分かつものは山であろう。

砂漠の国の預言者の言葉を受け止めたのはヨーロッパの深い森であったろう。そこでどのように結びついたのであろうか、それはどのように形成されていったのだろうか。

それが世界に広がる力を与えたのだとしたら。

砂漠の国の宗教が乾いた大地が水を吸い込むように、彼らは森の泉でその預言者の乾いたくちびるを濡らした。この世界を作った神は森の中に差し込む月明かりや枝の間から垣間見える星の輝きと重なったに違いない。

それが森の中に光注いだ神の姿だとすれば。砂漠の神は、砂漠の陽射しと森の月の輝きを併せ持つ神となった。

太陽の光りのなか、海の煌めきのなか、蝋燭の明かりのなかにもいる。何故に神は光の姿をしているのか。

この国の山は豊かであって、神さえも宿す。その豊かさが故にこの神は人間だけの神ではなかった。草も動物も川も虫も等しく育む神であった。

それは人だけの神であるには余りに豊かな自然だった。

豊か過ぎる神に対して、なぜ日本人は仏を求めたのであろうか。豊かに命を育む神は同時に奪い取る神でもあった。それがこの国の死生観であった、常に人は山の麓で朽ちる。

我々が大陸に出てゆく為にはこの神を連れてゆく訳には行かなかった。仏を求めた人達は己の山を捨てた旅人であったのかも知れぬ。

わたしの山がこの冬初めて冠雪した。

冬の訪れを山はこうして教えてくれる。季節を教えてくれるのはいつも山からだった。

さあて寒くなるなあ。