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2023年12月12日火曜日

日本国憲法 第十章 最高法規(第九十七条~第九十九条)

第九十七条
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

第九十八条
この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
○2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

第九十九条
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

短くすると

第九十七条
基本的人権は人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果で、過去幾多の試錬に堪へ、侵すことのできない永久の権利。

第九十八条
この憲法は国の最高法規であって、反する全部は効力を有しない。
○2 日本国が締結した条約及び国際法規は遵守する。

第九十九条
公務員はこの憲法を擁護する義務を負ふ。


要するに

この九十七条を書きたいが為にこの憲法は打ち立てられた。そう言って差し支えない。

基本的人権

日本国憲法の通奏低音は人類が獲得してきた思想、理念、理想に基づく。どう語ろうとこれらの理想を否定する事は、別の価値観を打ち立てる事に等しい。その提唱はこれまで人類が知る限りの過去のどこにも存在していないものでなければならない。何故なら、長い風雨を経て生き残ったもの、掴み取ったものが、ここに集約しているからである。

基本的人権は民主主義だから打ち立てられた思想ではない。近代国家であろうが、封建社会であろうが、絶対王政であろうが、基本的人権はある。これが人類の仮説である。

基本的人権が独裁者に蹂躙されようが、人類が宇宙人の餌となろうが、この権利はいささかも揺るがない。この権利は絶対にある。だから戦う理由に掲げられる。

民主主義に特有の権利は選挙権である。この権利の蹂躙は民主主義への挑戦と言って良い。しかし民主主義以外の政体では、必ずしも擁護されない。

もちろん、民主主義国家にも自ら投票を放棄する者はいる。それもまた権利と言えるだろう。民主主義を必要としない市民が民主主義政体に生まれる事に不思議はない。このような人にも基本的人権は揺ぎなくある。

投票権の放棄は殆ど野生動物と同等と思うが、それではチンパンジーにも基本的人権はあるのだろうか。

チンパンジーの基本的人権

チンパンジーの基本的人権は人間が与えるものなのだろうか。それは人間に奪えるものだろうか。誰が、どのような権限で。

基本的人権と言えども権利であるならば、持つ持たないがある。与える与えないがある。その意味では基本的人権にも持つ持たない場合が起こり得る。すると問題は、その区切り線をどこに引くかという話しになる。

最初に思いつくのは暴力である。武力によってそれは奪いうる。少なくとも持っていないのと同じ状況を作り得る。ちょうと檻に入れられたチンパンジーと同じように人を扱う事は物理的に可能である。

これを不正と指摘できるのは基本的人権に基づく。だから人を檻に入れる事は許されない。ではどのような根拠でチンパンジーには許されるのか。

チンパンジーとサピエンスではDNAが異なる。だからチンパンジーは人ではない。故にチンパンジーに基本的人権はない。そう結論したとしよう。

この場合、基本的人権の根拠はDNAの配列になる。結論として基本的人権はDNAに与えられるものになる。基本的人権は何の器官でもないから、DNAと基本的人権の間には何の繋がりもない。それでもDNAと基本的人権を結びつけるのであるから、ある配列を決めて、これと同じものを持つ者に基本的人権があると宣言する事になる。

DNAと基本的人権

今の所 基本的人権はDNAに与えられている。では、もし人類が進化し、それとは異なる配列を持った場合は基本的人権は与えられないのか。または、何等かの障害で、その配列の一部が突然変異した人からは基本的人権は奪える事になるのか。

DNAが異なるという点でチンパンジーと進化した人類は同列にある。よって基本的人権は持っていない。もしサピエンスから進化したから引き継げると考えるのなら、DNA以外に系統樹を持ってこいという事になる。

その結果として、我々は過去へと遡り、多種多様な類人猿の進化を眺め、ある瞬間から基本的人権が発生したと主張しなければならない。ここまでの猿は持たないが、この先の猿には基本的人権があると主張しなければならない。

もちろん、生命活動はDNAの配列だけで決まるのではない。その発現の仕方には細胞も関係するし、化学物質、放射線、偶然が支配する細胞分裂の過程で起きる幾つものエラーが関係する。日々メチル化や突然変異に晒されている。その結果としてDNAの発動は刻々と変わる。だのにDNAの配列には基本的人権を与えるが、その働きは考慮しないというのは中途半端の印象が拭えない。

知能と基本的人権

基本的人権を一定以上の知能に有するものに与えるのは更に筋が悪い。地球を訪問した異星人には基本的人権があるのか。もし彼らが地球人程度の知性でこの権利は不十分と通達したら、返上する覚悟はあるのか。

知能は事故や病気や老齢によっても失われる。その場合も基本的人権も失うのか。今後の医学の発展によりチンパンジーとサピエンスの中間にあるような種が誕生したら。もし言語を使用する類人猿が発見されたら。虫やヘビから進化した知能の高い種が誕生したら。アンドロイドやAIが人間を超えた高度な知能を獲得したら。基本的人権は誰が誰に与えるのか。

死と基本的人権

死についてはどうだろう。基本的人権は、死亡した人にはないのだろうか。当人はもちろん何が起きても主張はもう出来ない。それは仕方ないとしても、反論しない事は基本的人権を放棄した意味にはならない。まして、残った故人と親しい人たちにとって耐えがたいと思う気持ちがあるならそれは基本的人権に基づく感情ではないか。

更には人類が絶滅した後は基本的人権はどうなるのか。人間の感情はもうこの世界にはない。誰も何も感じない世界である。他の生物種は生きているだろうが、人類はもういない。そのような世界に基本的人権はどうなっているのだろうか。

基本的人権を支える理念はこの程度の弱いものなのだろうか。姿形を失えばこの宇宙から消えてしまうほど弱々しいものなのだろうか。

確かに人類だけの特権ならば、我々の絶滅と供にこの理念が消えてしまっても異論はない。人間の属性という考え方であるなら、人間とともに滅びるべきだ。

だが、なぜ基本的人権はは我々だけの特権と言えるのか。

契約と約束

権利には正当性がある。この権利を主張してよいとする根拠がある。通常、そこには契約の考えを導入する。契約を結んだから権利が発生した。これを根底にアメリカは弁護士が活躍する社会とした。

ではなぜ契約は正当性なのか。それは約束だからであろう。約束とは未来における互いの保証である。これを破る事は責めを負う。なぜ約束は守られねばならぬのか。野生動物は約束を守りはしない。人間はどこかで約束を守るという考え方を手に入れた。

それはどこから。遠い過去の筈だ。それが社会を形成する上で必要であったと考える。この信頼に基づく人間のコミュニティの形成は原初的な根源的なものと感じられる。

人間には未来のある時点に関して予測する能力がある。それに基づいて未来の不確定要素を潰して、より強固な、より確かな今を構成する。この脳の働きが人間の社会を形づくる時に強く影響した事は確かだと思われる。

コスト

約束を守る事が社会の安定に寄与する事は想像に難くない。だが、それを破って利益を得ようとする事を戒めるのは何故だろう。少なくとも常に裏切り、抜け駆け、騙しうちは、人の常である。それを悪と認識する社会が生まれたのにはコストで考えるべきと思う。

常に裏切りに備え警戒する社会ではコストが思った以上に高いと思う。互いに安心できる関係の方がエネルギーを他の事に使える。つまり集団のエネルギーの活用が変わってくるという事である。これは社会同士が激突する時代に於いては競争力として如実な差となったと思われる。

これは人間の数が増えて集団が大規模化するほど顕著であったであろう。小人数であれ個人的に力が強い者が支配できる。しかし大規模集団になれば個人の力が及ぶ範囲は小さくなる。その結果として、組織力が社会の強靭さになる。これだけではまだ王の発生は説明できないが、集団の大規模化と階層化はたぶん同時に起きたと考える。

約束を守る社会が望ましい、これが大規模集団を生き残りやすくした。だがこれは現象のひとつである。約束を守るから集団が大規模するのではない。それが安心を与えるという事が重要であろう。それが集団を巨大化する。王はこの安心を与える者であったに違ない。恐怖の支配は、その後の特殊系と考えられる。

幸福

人は安心を求める。安心とは要は脳内ホルモンの分泌であるから生物学的な反応である。生物の幸せはホルモンに支配されている。不安もホルモンに支配されている。それらは来るべき未来に対する体の準備の為にある。

野生動物にも群れや家族がある。それはとても慈しむべきものである。魚類は言うまでもなく、虫や軟体動物、そして恐らく細菌も、これに近い反応系は持っていると思う。多くの生物は観察する限り人間とそう変わらない。神経系の有無に関係なく、進化の収斂として幸せという概念が必要であった。

フェロモンなどの有機物質を使用した内外を識別する能力は多くの生命体が持っている。それは近親を避けるための仕組みと考えられるが、これがないとDNAの多様性が失われ、そのような生命群は自然に淘汰される。

所有

人間は、自分の大切な人、家族、友人、出会った人に何かを贈りたいという自然な気持ちを持つ。この贈るという行為の背景に贈るモノは自分が所有しているという前提がある。これが所有権であるが、この所有の感覚はどこで生まれたのか。

考えてみても所有権に関してはそれを正当とする根拠が見つからない。少なくとも野生動物はそうである。野生動物は決して所有権を主張しない。奪い奪われるを当然の状態として今を生きている。

人間は何か所有する事を当然と考えている。この権利は恐らく数万年前の人類も持っていたと思われる。この感情は脳が突然変異によって獲得したと考えるのが妥当だと思う。

そうでなければ長い時間の中でミームとして残ってきた事になる。それも可能だろう。しかし、それなら言語と同じように地域毎で大きく変わる可能性の方が高い。世界中の人が共通して同じになるとは考えにくい。

自我

所有という考え方が生まれるには、まず自我を必要とする。自分が持つという概念が必要で、その為には自分と他人を区別できなければならない。これは言語において I(私)の発見の前に起きていたはずだ。主語はそうやって生まれた。

自我の発生は、記憶を蓄積する時に時間順に並べる事で可能である。時間が変わろうと変わらない部分の事が自我である。よって自我は時間軸に配置されるので、併せて、過去と現在と未来という概念も自然に獲得する。記憶する能力が時間を軸にして行われる事、その帰結として自我を持つ事、それによって未来という視点を得る事。こうして人間は未来を予測する能力を獲得した事になる。

記憶の中で景色を見ているのは常に同じ視線である。それを私と定義した時、自分という概念が発生する。これは Me.Perspective (enviroment) という関数で表現できる。そこで自分と他人を区別できるのならば、You.Perspective (enviroment) という考え方も可能となる。

instanceとしてのMeをparameterにして Something.Perspective(Me, enviroment) とすれば、Meの場所にYou,She,He等を自在に置ける。Something.Perspective (You, enviroment) は共感の関数となる。
//私の視点
Me.Perspective (enviroment)
//あなたの視点
You.Perspective (enviroment)

//客観的な私の視点
Something.Perspective (Me, enviroment)
//客観的なあなたの視点
Something.Perspective (You, enviroment)
//私から見たあなたの視点
Me.Perspective (You, enviroment)

社会

所有という概念で色々な人間の行動が理解できる。譲渡する正当性は所有しているからである。だから王は権力を世襲するのも禅譲するのも正当である。

未来のある時点で所有している事が信用になる。これが貨幣を生み出す。狩猟よりも農業を選ぶ理由は蓄積できる穀物が未来のある時点での飢えを計算可能にしたからだ。その時点で所有しているから飢えないですむ。なぜ奪ってはならないか、それは所有しているからになる。よって奪えば罰する。法が生まれた。

奴隷を所有する。所有だから交換ができる。売買ができる。そして所有には失うというリスクがある。我々は所有で未来を確定しそれで安心を得る。所有の失う可能性によって不安を持つ。人間の行動は所有に基づく。

突然変異

だから、なぜ所有は正当なのか。

これに答える自然が見つからない。まるで公理の様だが、公理として認めてしまうと人間は考えるのを止める。すると誰かがこれは公理でないと主張し始める。所有という考えを持たない異星人はいる気がする。個人として所有の薄い人もいるだろう。

だが、所有の正当性を失えば、人類の文明はぼろぼろと崩れるだろう。人々から権利が失われる。そして世界は合法的に略奪するように法律を変えれば、それは正当な利益であるという考えに基づき経済改革を進める国がある。

だから所有の必ずあるはずの根拠は探すべきと思う。その仮説として、家族を持ち込む。

家族

所有と家族は切り離せない。世界のどこでも、恐らく殆どの人で時間で、誰もが自分の資産は自分の家族に譲るものである。例外はあるにせよこれが自然で当たり前のはずである。お互いにこれの理解に苦しむ事はないはずだ。この正当性は説明できないが、これが我々の脳の働きである。

家族が特別な単位である為には、一度その前段階として「動物としての群れ」が解体された経験をしたはずだ。それまでの人間の集団がバラバラになる過去があった。その後に家族を中心に人は再集結した。それが今の社会の基盤となった。その事件が我々に何らかの突然変異をもたらしたのではないか。だから家族中心が当たり前と考えるようになった。

恐らく大規模な自然災害があったと空想する。絶滅に瀕するような大災害が。それに立ち向かうのに家族と言う単位だけが残った。だから血縁という考えを強く意識するようになったのではないか。というか、そういう本能の強い個体群しか生き残れなかった。

この巨大なインパクトが疫病ならどうだろう。それなら家族単位で生き残るか死滅するかが決定する。故に家族単位で強く結び付いた群れだけが生き残れた。これが起きた事なら、我々の所有の概念は偶発的な免疫の類似性を根拠として発生した事になる。

自然

人類が次世代に伝えてゆくミームに言語がある。民族部族の滅亡などで失われてゆく言語もあるが言語という機能そのものが人間から失われる事はなかった。それと同じように所有という考えも人類の中に残った。

持っている事が当然で、譲る事が当然で、全ての家族で共有されている価値観。だから家族は特別なのだろう。それを全ての人々が認める。または、これが正当となるように家族という形は形づくられたのかも知れない。

自然は常に人間から奪う。しかし人間が所有できるものは全て自然から持ってきたものだ。自然が意志を持つと考えるなら、それは人間と会話する。脳は自然の現象の中にも合理的な意図を見つけたい。物語を好む脳の機能が自然の中に神を設置するのは自然と思われる。

だから人間は本質的に神が所有しているものしか入手できない事になる。神から与えられたから正当である、という考え方も可能で、いずれにしろ、大切なものを守りたいという感情が成立する為にはその背景でそれが無条件に正しいという信念が必要になる。

自然が黙う最たるものは命だろう。命は自然に属するから所有はできる。ただ自在にはならぬ。

こうして人間は自然から得たものは他人に対して譲る権利が主張できる様になった。奴隷であれ、婚姻であれ、外部から取り込まれたものは準自然である。蛮族も災害も同じ自然である。奪われる事は不当である。それはもともと我々に権利がある。こうなれば互いに引けない戦争が始まる。

特権

権利は人間を特別扱いする点で人類のエゴである。その意味では特権でない権利はありえない。だから人間の間でも権利には大きな差が生まれる。それを正当性と人々は納得している筈である。この大前提を認めた上で、誰までを人間に含めるかを拡大し続けたのが近代の歴史だろう。

権利は特別扱いの事だから、本質的に特別扱いから除外される立場の存在は除外できない。権利は所有の意味だから持つ持たないがあって当然である。

よって、権利はある場所に線を引き、そこを超えているかどうかでその有無を決定する。その線上にある者と僅かな差で外のいる者と差は僅かであろう。それでも線引きを正当とする事で、その権利は正当性とされた。

それを互いに確認できるようにしたものが契約であろう。細かな契約によってのみ権利には正しく線引きができるであろう、故に弁護士を重要視したのがアメリカのひとつの答えである。

アニマル・ライツ

かつて、黒人であるとか、アジアに居住していたとか、宗教が異なるなどが基本的人権を持たない理由になった。彼/彼女らは人間とは言えないのだから。

その反省から、基本的人権を持つ持たないと考えるのは間違っている。基本的人権は所有の延長では破綻する。もし基本的人権がこれを乗り越えられないなら、基本的人権は全ての人間に与える根拠を失う。それは都合よく利用できてしまう。つまり支配の根拠になる。

これを認めない限り、人間に線引きがされ奴隷制度、人身売買が合法になる。

歴史的に線引きを禁止すべき、という基本的人権に関する原則が、次に人間という範囲を超えて拡張されるのは自然だと思う。一部の人にとってアニマル・ライツは当然の拡張だろう。ある人にとって見知らぬ人間よりもペットの方が大切なのは当然である。家族なのだから。

だから基本的人権は権利とは呼べない。権利に有無がない。持つ持たないが理念として有り得ない。この権利に線引きは許されない。基本的人権は所有を根拠とするものではない。所有から完全に分離されている。神も必要でない。神がいようがいまいが基本的人権は存在する。

太陽

すると最終的に人類は基本的人権をこう定義しなければならない。基本的人権は人類という種を超えてあらゆる生物が持つものでなければ成立しえない。基本的人権はあらゆる生命にある。これ以外の考えでは基本的人権は成立しえない。

すると、この根底にはあらゆる生命は幸せに生きるべきという考えがあるように見える。だがそれでは人間は困る。我々は食物連鎖の頂点に位置する捕食者であり、それをせねば命を長らえない、火中に飛び込む兎に全員は恐らくなれない。

全ての命を尊重しその尊厳を認めるならば、我々はもう牛肉が食べられなくなる。魚も食べられない。

これは菜食主義で解決する問題だろうか。確かに肉程度なら人口肉の開発を待つ手もある。しかし、全生物種には植物も細菌も含まれる。きっとウィルスも含めるべきであろう。

この星の生命は等しく太陽に命を与えられている。もちろん、それ以外にもとても沢山の偶然の結果が命を支えている。月が小天体からの衝突を防ぐ盾となる。プレートテクトニクスもたらした海流の流れが、熱循環となり温度の安定を提供する、海が生命をはぐくむ、地磁気の存在が、オゾン層の存在が、宇宙線の被害を回避する。

少なくとも全ての生物には太陽を要求する権利がある。太陽は人間の所有ではない。

生命

例え武力で支配されようと、あらゆる権利が侵犯されており奪われていようと、命も含めて所有状態にあろうと、基本的人権は奪えない。例えそれが満たされていなくともこの権利は毫も傷ついてはいない。傷ついているのは人間である。基本的人権ではない。

基本的人権を否定すれば、我々は暴力を前に対抗する根拠を失う。立ち上がるには基本的人権を常に絶対の存在と認めるしかない。だが、それは全ての生命の権利に拡大される。全ての生命に適用するば、食物連鎖で構成されるこの星では矛盾を解消しなければならない。

生命とは何か。それは原子や分子の化学反応に過ぎない。生命はこの化学反応を自然状態よりも促進しているに過ぎない。世界の流転を加速する存在だ。明らかに生命の住む星の方が化学変化は大規模かつ早く起きている。

このエネルギーの原資は太陽の核融合であるが、これが物質の反応を活発にしたとも言える。ならば生命とは単なるエネルギーの現象のひとつに過ぎないか。

生命活動は化学反応なのだから、その反応の結果としての思想であったり、国家や法体系というものも、この反応系の延長にある。よって基本的人権も同様な延長にあるだろう。

それが最終的には人類という存在から分離して存在する事になる。それは人類ではなく生命に属する考え方だ。ここに至り基本的人権の中には何もない事は明らかである。

健康で文化的な

基本的人権によって国家や政府に要求するものがある。憲法はそれを「健康で文化的な最低限度」と定義する。それは生活において幸せホルモンを分泌させるである。食事、排泄、住居、睡眠、衣服。

それらは、地域、文化、宗教、紛争、経済によって可変する。それでもそれぞれの文化が定義する「健康で文化的な最低限度」があり、奴隷として人身売買されない事、思想の自由がある事、人は誰にも殺されない事、が含まれる。

だが、これらは基本的人権の前から形成されていた価値観である。望ましいとされる方向に進めば、これらはどのような状況からでも到達可能であった。

つまり、人間の在り方として幸せを願えばこうなる。この程度は、近代思想を待つ迄もなく親は子を想い、子が親を想う孔子の時代の人たちもよく知っている。

こういう気持ちに基本的人権を持ち込む必要はない。自分がされたら嫌な事は他人にもしない。共感の能力で十分である。

衛霊公
己所不欲(己れの欲せざる所を)
勿施於人(人に施すこと勿れ)

だからと言って常にそれが出来るとは限らない。人間にはしがらみも欲望もある。性善だからといって行動まで善とは限らない。一方で性悪説が人間の愛情を否定している訳ではない。刻々状況は変わる。常に正しく行動できるものか。正しいとは何か。

例えおばあちゃんの生まれ変わりだとしても家に入ってきた蚊は叩く。線香を焚く。

自由

人間には、というよりも生命には自分を含み、あらゆる他の生物の命を奪う自由を持つ。まずこれらの力の行使は、第一に地球は禁止していない。物理学にも何の制約もない。

だから人間は多くの生物を、種族をこの星で絶滅させてきた。人間は人間さえ絶滅させてきた。基本的人権は物理学の法則ではないから、これらの力の前では役に立たない。遠く先まで戦争は終わらないだろうしジェノサイドも起き続ける。

その狂気の加害者たちさえも、そのうちAIに制御された機械に置き換わり、そのような世界で人間は何を主張するのか。そのような時代に人間が主体者でいられるのか。

侵略して来たものは撃たなければならない。だが侵略する側が飢えに耐えかねて来たならどうすべきか。こちらの食料もないなら、飢えて死ねと返すしかあるまい。それを言う権利はあるだろう。その食料は我々が所有しているのだから。ならば殺した方が守るにも奪うにも早い。どうすれば良かったのか、答えはあるまい。食べ物が不足したこの星が全て悪い。

照らす

人は生まれながらにして基本的人権を有する。この権利は生きている間は勿論、死後も消えない。なぜなら死後に切り離す根拠がない。よって、生まれた時に持つとする理由もない。つまり基本的人権は命に係わるものではない。基本的人権は個人とは切り離せないが、個人の所有でもない。どちらかと言えば、大河のように我々の周囲をずうっと流れているものだ。

故にそれは全ての人に無条件にある。と言うよりも、息をする空気のように、魚にとっての水のように、この権利は世界に満ちている。

この星のすべての命はこの権利と接触している。この星の命は人間だけではない。

全ての命がこの基本的な権利が満たす空間の中に生存している。だからこの権利は命については何も語れない。腸内にどれだけ多くの細菌が生きているか、それらが免疫によって消滅させられている。皮膚の上でどれだけの常在菌が生きているか、そして消えて行っているか。この体の細胞も日々生まれ死んでゆく。

基本的人権は、命について語りはしない。もし傷つけたら、殺したら、その答えは刑法が持っている。その刑法の根拠に基本的人権はいらない。と言うよりも基本的人権ではこれに答えが出せない。基本的人権はそれらに答えるようには出来ていない。全ての命を等しく考えるから。

思索

なぜそのようなものを掲げて人間は思索を続けているのか。野生動物たちは、一部の人間も含めてよいが、基本的人権を顧みない。それでも基本的人権という仮定がなければこの先を考える事は出来ない。

基本的人権は、新しく見つけたものを格納できる容器である。基本的人権だけに決まった定義がない。何かを見つけた時にこれは基本的人権だろうかと問う事ができる。

この問い掛けが重要であって、だから何かを探している時の灯りとして掲げられる。それを燃やす油は我々の中にある。そしてこの灯りは生命を等しく照らしている。人間という枠を超えて照らしている。そこに一切の境界を持たない。

拡張性

キリストでさえも当初は

「イスラエルの家の失われた羊以外の者にはつかわされていない。」

と語った。神は異教徒を区別する。イエスは飢えた人のために沢山の魚を用意した。その魚は人間の食物となるために生きていた訳ではあるまい。一粒の麦が地に落ちてと語るが、人と麦は違う命である。

基本的人権だけはこれらの考えを突き抜けて考える事を可能とする。この拡張性はこれまで人類が手にしたあらゆるものよりも強力だろう。アメリカ奴隷について考える時に基本的人権を持ち出す必要はない。人間の概念を人種を超えて拡大するだけで十分である。同じと宣言するだで足りる。

基本的人権はそれを同じとも違うとも言わない。この権利には一条も書かれていない。Human Rightsは決して「人間『の』権利」ではないのである。今の所、この星では人間だけが全ての生命について考える事ができる。それを考えたい人の側に必ず寄り添う。

命の尊重しよう。だが捕食する、生物の多様性が重要である、だが実験動物は欠かせない。地球環境を守ろう、だが戦争はする。侵略者を倒すためには兵士を無制限で殺すべきだ。時にジェノサイドも選択する。奴隷を所有する者も絶えない、人身売買も終わらない。

それらについて基本的人権だけが考える根拠を提供する。例えそれが蟷螂の様に吹かれようが、葦のように折れようが、空を見て恐れる杞憂であっても、この権利はある。

医療用動物を見て悲しいという気持ちは孟子の性善説があれば十分であろう。多くの人を動かすのはそういう衝動のような感情である。それは確実な動機となる。

宇宙

この汚い戦争は終わりそうにもないし、核戦争によって人類が絶滅する可能性も高い。謀略を尽くす独裁者とそれを支持する軍と警察が、その道を進む。振り返る気などあるまい。基本的人権は何の説得できない。基本的人権は説得術ではないから。

命について考えようと語りかけても嘲笑を止めない。彼/彼女らが気にするものは、権力、利潤、資本、国家、恐怖である。この構造からも基本的人権の正しさは証明されている。命のついて考える根拠となりえるのは基本的人権だけではないか。

この宇宙は生命に溢れている。この星の命が消えたとしても宇宙から命は尽きない。だから我々は生命について考えておく必要がある。正しく宇宙に出て行くためには基本的人権を拡張して将来を見てゆくしかない。それ以外では不十分である。

あらゆる生命について考えた所で明確な答えは得られないだろう。矛盾ばかりだ。だがそれでも我々は前に進む。それがなければどちらが前かさえ分からぬ。

我々はこの星系を命だらけにする。人類は宇宙に進出するから。それがこの星に生まれた生命の生存戦略だから。いつか見知らぬ生命と邂逅する時には我々は基本的人権を磨き続けたもので対峙する事になる。

要約

  1. 基本的人権は制限を持たない。
    1. この概念が提唱された当初はヨーロッパ人しか持たなかった。
    2. 歴史の流れは黒人奴隷やアジア人にまで拡張され続けてきた。
    3. 動物虐待、生物多様性、菜食など拡張の範囲は種を超えている。
    4. 上記歴史的経緯から、人権に制限を設けず拡張する方が望ましいという経験値を人類は持っている。
  2. 権利の根拠には所有の概念があると考えられる。
    1. 権利は持つ持たないの区別がある。
    2. 基本的人権に持つ持たないの区別はない。
    3. よって基本的人権は権利ではない。
  3. 基本的人権は具体的な何かについて人類に要求する項目の羅列ではない。
  4. 基本的人権は生命について考える根拠を人類に提供する。
  5. その根拠に理由はない。基本的人権の正当性を裏付けるものは何もない。
  6. その拡張性の広さはあらゆる思想を超えている。
  7. この構造ゆえに基本的人権は正しい。
  8. 人類が宇宙に進出するにはこの思想を抱えてゆくのが有望である。



2023年11月22日水曜日

人類史俯瞰、ポストモダン - 経済学 IV

概要

宮台真司×宇野常寛 〈母性〉と〈性愛〉のディゾナンス──「母性のディストピア」の突破口を探して(中編)|PLANETS

宇野常寛が"ゼロ年代の想像力"で語る「決断主義」は先行き不明な状況で決定的な情報がなくとも決めてゆく行為に価値を見出す。それは単なる状況分析ではない。時代が求める生き方、生き様であり、指針である。

無明瞭なものに基づく決断は、人間、いや全ての生命がこの星に誕生してからずっと強制されてきた事である。地球はその点では容赦しなかった。雨降り後のアスファルトを進むミミズは自分がどの方向に行けばよいか、知っている訳ではない。命を賭けた決断がある。

世界がスクリーンで遮蔽されているように感じる。先は見えず、後は霞んでいる。光の距離より遠い過去は観測不能であるように。幾ら進歩しようが超えられない法則はある。

世界がいつ始まったのか、神が世界を作ってからと言う者もいれば、キリスト以降と答える者も居る。マルクスが共産主義の理想を見出した時からと答える者もいる。

世界が始まる前に何があったのか。理想に取り憑かれれば、過去を濁流で押し流し、振り返ってももう価値はない。理想が照らす以前は世界は闇であったはずだから。孔子は過去に理想を見出したが、まぁ、話しの大筋は同じだ。

サブカルチャ

90年代からだろうか、サブカルチャという言葉が目立ちは始めた。スキゾパラノ(浅田彰:1984)という言葉もその頃に話題になった。それが何かは知らないが、時代を切り取った最先端のファッションだったとは思っている。マスコミを中心に特に首都圏で取り上げられた印象がある。その頃、柄谷行人の名も聞いた。

おたく(中森明夫:1983)という言葉は膾炙したが、おたくはある特段の分野を指す言葉ではない。この手の人は江戸時代にも幾らでもいたのである(国学等)。これをアニメーション、漫画という特定分野に照準しメインカルチャーとの対比で語ったのがこの時代である。浮世絵の価値は海外からの逆輸入であるが、アニメ、漫画の発見は少しハイブリッド気味である。海外から輸入した哲学をアニメ、漫画を題材にして語ったような所がある。

社会は変革する、その端緒を捉える最先端にファッションがある。新しい思想を語るには新しい服で決めなくちゃ。社会の変革を時代を代表するファッションで語る。ファッションが時代を彩るモチーフになる。批評家たちが持つファッションは時代の雰囲気を代表する。

80年代は、学生運動の明確な終焉期に当たる。敗戦の終焉でもあり、共産革命の終わりでもあり、冷戦の終わりも重なった。日本赤軍のあさま山荘(1972)で運動は潰えた。吉本隆明(転向:1959,わが転向:1994)は割と早く負けを見抜いた。

最後の転落(エマニュエル・トッド1976)、ソビエト帝国の崩壊(小室直樹1980)、などの預言通り、ソビエト連邦は解体された(1991)。

共産革命は日本だけを覆った思想ではない。アメリカもマッカーシズム(1945-1954)は避けえなかった。冷戦という時代に、マルクス主義の理想と実体は世界を席捲し、社会の深くにまで食い込み、そして終焉した。

マルクスの夢

マルクスは資本の独占がこの悲劇の原因と喝破した。経済を分析し労働や価値を研究し独占が起きない経済体制を考案する。何を独占するか、その結果として何が促進され何が停滞するか。それが社会をどう変えてゆくか。独占を補助線に社会、歴史、経済を考察した。

だから共産主義には歴史史観を置き換える力まで秘めている。資本の独占に対抗するには生産には資本だけでなく労働も必要である。ならば労働を使って資本の独占は防げないか。

そのためには労働者の力が資本家の力に匹敵する必要がある。なぜ資本家の力が強力であるか。それは資本家は資本だけでなく生産設備も独占しているからだ。この所有が労働力を設備に包括してしまう。

ならば、生産設備を資本家から切り離せばよい。

マルクスは共産主義を資本主義の次の到来する当然の革命と見做した。その慧眼は見事に外れたのであるが、ロシアで起きた革命は共産主義という経済体制を社会主義という政治体制で実現する試みである。

社会主義という政治体制で共産主義経済を運用する陣営と、民主主義という政治体制で資本主義経済を運用する陣営の、重化学工業の発展をもって決着する争いが冷戦であった。

社会主義は生産設備の国有化で資本家を制限する。必然的に資本家の所有権も国家に帰属する。これで富の寡占も労働者の悲惨な状況も原理的には起きない。国家という手段をもって資本家の独占を禁止したのだから。

共産主義という敵がいるアメリカの資本主義はそれと対抗する為に資本家の独占を自発的に抑制する事になった。冷戦期に必要な重化学工業を発展させるには工業力を発展させなければならない。そのための労働力を供給する中産階級が発展しなければならない。

労働者の権利は基本的人権として憲法の中に組み込まれる。それが資本家の独占を抑制し労働環境を改善する根拠となった。資本主義の中にもマルクスの憂慮は取り込まれていった。それ以前のイギリスの資本家たちこそが異常だったのである。奴隷の廃止から労働者の人権へと、経済システムは進んでいった。

共産主義なき世界

共産主義は世界の殆どを支配した思想である。その理想は人間的であるし、その挫折を誰も知らなかった。社会主義の多くは独裁政権で採用された。この背景にソビエトがいたからだろうか。社会主義は国家を独占するのに便利だったしその方法論もよく知られていた。

生産設備を支配する事、その独占により重化学工業を発展させる事、このふたつに成功したソビエトモデルは世界中で採用される。しかし、詳細な研究は知らないが、農業では上手く機能しなかったようだ。

独裁者への恐怖が駆動力となって国家を動かしていた。その多くは一代限りで消え数多の犠牲者と貧困がマルクスと独裁者の夢を潰した。このシステムに後継者は出現しなかった。

生産設備の国家所有はその時点での生産性向上には極めて有力であろう。注力する点では民主主義を凌駕する。その効率を発揮するために社会主義は独占の手段を手にしたのである。その頂点に構造上、一つまみの指導者がいる。その一点から国全体に力が波及する。

指導に従う事で国家は健全に機能する。よって、今ある機械が動き続ける限りこのモデルに破綻はない。もし原料が不足したら、もし機械が壊れたら、何か新しい事を始めなければいけない時は。

自由に任せておけばいつの間やら自動で勝手にうまい具合に適応する柔軟性のある経済システムではなかった。首輪を嵌めた為に力が失われていたのか。どうにも復元性が弱い。そしてソビエト連邦は停止した。

何が足りなかったのか。決して自由ではない。自由だけでは不足だ。自由に任せておけば自発的に平衡状態を獲得しようとするメカニズム、変化も厭わずシステムを機能させ続けようとする動き。そのような経済モデルとなるにはどんな行動原理が必要か。

まず欲望は欠かせない。だが欲望だけでも足りない。完全な自由は野生状態と変わらずマルクスの嫌悪が再来する。

マルクスの悲しみ、貧困はあらゆる経済発展で忌避されるべきものであろうか。重化学工業ではそれは負のものとして排除された。しかし南部の綿花農業には奴隷が欠かせなかった。貧困が常に経済発展の足枷になるとは言えない。

南部の奴隷たちもあと100年もたてば機械化によって戦争などしなくとも解放はされたのである。奴隷よりも機械の方が安くすむ。それだけの理由で十分だ。低価格は理想を実現する最大の手段である。

資本主義の貧富

共産主義の敗北が資本主義を正しいと証明したのではない。共産主義なき世界で資本主義は富の寡占を進めに進め強烈な格差を生んだ。その結果として米国の民主主義は青息吐息である。民主主義の本当の敵は資本主義だったのではないのか。

ソビエトなきアメリカでは中産階級が存在する理由がない。競争すべき相手は同じ西側諸国の工業国であり、アメリカは重化学工業を主要産業とは位置付けない。目の前で金融と情報革命が起きていた。経済の中心は情報産業へ遷移しつつあった。

中産階級をどうするか。この課題をアメリカは実にアメリカらしくマーケットの自由に託した。たぶん、上手い所に落ち着くはずである。経済の中心がどこへ変わろうとそれは人間の自由にできるものではない。

日本のバブル経済はかつて世界一の富を生み出した。それがアメリカの変革を促したと思う。逆に日本の変革は遅延させた。日本は不動産の高騰によって富を得たが、土地が競争力を高く訳ではない。

日本も馬鹿ではないからあり余る資本を様々な活動に投資した。芸術から基礎科学の分野まで。伝統工芸から未来を切り開く革新の研究まで。先進的な製品も多く生み出しそれが世界に様々な刺激を与えた。世界の未来に対して明らかに日本は牽引し後押しし並走した。

しかし、未来を独占したのは我々ではなかった。VHSは世界を独占した。その次の規格もほぼ満足する形で世界を席捲した。ではその次は?恐らく世界を席捲している。ただその頃には中心ではなかった。世界の中心は最早インターネットである。我々の技術は局所的にも全局的にも、必要不可欠ではあっても、我々にイニシアチブはない。

農業と工業の争いが帝国主義と資本主義の形をとり二つの世界大戦で決着した。共産主義と資本主義は冷戦で決着を付けた。現在は重化学工業から情報産業への端境期と思う。この先に世界はどうなるか。

この時代の変化と不安を人々はポストモダンと呼んだ。

転向

共産主義の終焉に伴い、多くの批評家が職を失った。共産主義を捨てた後に共産主義を語っても飯は食えない。それまでの殆どを共産主義の研究に費やしていた人々はどうしたか。

共産主義は職業の名である。転向するとは転職するの意味である。人は住む場所は簡単に変えられる。が、自分のやり方はそう簡単に変えられるものではない。

他の場所に行っても、頼むべきはそれまでの自分の経験であり、知識、方法論、手わざである。得意の分析力を他の分野へ転用するのに何の疑問もない。

マルクス研究の対立軸には資本主義がある。共産主義は絶対である。その神聖は疑う能はざる命題であった。それは信仰なのである。だから神は死んだと語ったニーチェに多くの共産主義者は慰められたのであろう。

マックスウェーバー(1864-1920)は資本主義の精神をプロテスタンティズムの禁欲と結び付けた。批判的評論もあるそうだが、同様に共産主義を成立させる精神的な何かもある筈である。

富が蓄積するのが資本主義ではない。資本主義には社会が満たすべき要件がある。よって経済システムとは様々な要素を必要とする現象なのである。それらの現象には発揮させる因子がある。

資本主義の因子は勤労である。なぜ勤労か。勤労が神への信仰と合一するから。神と相対する以上、誰も自分を誤魔化せない。だから勤労は自律的なのである。同じ構造が日本にもあると小室直樹(1932-2010)は語っていた。キリスト教以外で成立した稀有な例であると。

幾つもの合理的理由があるとは言え、天動説を理想として現実世界を再構築すれば、そこに精緻な論理性を導入すれば、エカントを生み出す事になる。この仮説は地動説が否定するまで多くの人々を強く説得してきた。

ある仮説を持ち出すととてもよく説明できる例は経済学にも沢山あるだろう。例えば神の見えざる手など。

80年代から90年代は共産主義を論じていた人々がマルクスを見限り、自分たちの手法を他分野へ応用する時代であった。サブカルチャーという議論はその流れの中にあると思う。

サブカルチャ

だからサブカルチャと共産主義は深く関係していると感じる。社会分析を行い理想社会と比較し、過不足を足掛かりに世界を再構成する。

漫画やアニメーションを通じて社会に切り込む。よく見てみろ、既に世界のメインカルチャは違うじゃないか。この社会の変化に注目しなくて、どうして世界について論考できるか。

これらの社会現象には一種独特の匂いがあった。胡散臭くもあった。所詮はファッションであった、そんな気もする。結局、サブカルチャとは、サブカルチャを使って共産主義の失敗を語る事ではなかったか。

アニメーション、漫画、特撮、戦隊等の作品は、敵と味方の戦いを描いていた。そして敵に勝利し終劇する。この構造から、共産主義が失敗した理由は、理想に辿り着けたからではなかったか。

必ず結末を迎える物語構造が共産主義の敗北の理由と類似する。敵を倒した物語にその先はない。同様に理想を実現した共産主義にその先へ駆動する力はない。

資本主義の勤労は永遠に到達しえない理想である。何故なら神は永遠に実現しないから。神が存在するから永遠に到達できない理想が可能なのである。その永遠性を到達できない理想を共産主義は持っていない。

スタックした時代に我々は模索している。あらゆるものが、時代の風を受けて進む舟だから、何を見てもそこに答えを見つけても不思議はない。

世界に対してどう影響をしてゆくか、または影響を受けてゆくか。DNAの構造は同じでも多くの生物が異なる形質を獲得してきた。言葉も同様の多様な葉を開いてきた。それは命の発現に見える。

同じ風が吹いている、答えはどこにでもあるはずだろう。同じ船に乗っているのだ、当然と言えば当然だ。

次世代の評論家たち

その頃から30年近くが経った。次世代と呼ぶべき新しい評論家たちがテレビでパフォーマンスに忙しい。共産主義の流れを汲まない新しい救世主たち。マルクス研究を通過していない次世代の論客たち。

新しい批評家たちはテレビやインターネットで名前を広め、集客する能力を発揮する。それはエンターテイメントであり、Youtubeなどのライブ感を使って、格闘家の如く一瞬の瞬発力で勝負を決める芸が披露する。

時間も短く、端的に切ってしまえる事。小説を長々とよむくらいなら箇条書きで十分だ、余白は読者である我々が想像力で埋めるから。

インターネットが人々の距離を近づけようとしている。一方で現実の距離の遠さが安全を担保してくれる。一時的である事と恒久的である事の混沌の中で、新しい空間の出現に対応しようとしている様に見える。これはとても過渡的な現象と思われる。

距離を近づける事は時間を短くする事でもある。刹那的なら瞬間的な熱量は高くしたい。その為には人間を情報化する方が都合がいい。

企業の最終目的は、人間に幸せホルモンを放出させる事だ。可能なら常習性のある方がいい。サブスクリプション万歳。スマートフォンの中毒性はもはや依存症である。情報が世界を覆う。これに適応するためにはもっともっと浴び続けてみるしかない。

サブカルチャは死語となり今や日本のカルチャである。時代は変わったが人々が武器を求める状況は変わらない。啓蒙が知識の力を広く知らしめた。知識と情報の差は何か、今はその答えが出る瞬間である。

共産主義というマクロの考え方からミクロの個々人が利益を追求する運動に変わった。これは格差に対する有力な処方箋のひとつである。個人の欲望に取り憑くミクロ派も社会の制度を変えて全体を変えたいマクロ派も双方ともここからの脱出方法を探している。

国家はこれから貧困化する。其れに対して有力な社会保障はない。そういう時代に如何に生活基盤を構築するか、その解決に社会主義は使えない。だから個々人で対処するしかない、その先には先富論しか待っていない。それでは格差だ。

この先にどう対処してゆくか、そこで必要となるのはどれだけ多くのプランを持っているか。どれだけ被害が大きくなろうと打てる手がある限り人は絶望しない。その犠牲者さえも。

マルクスは死んだ。彼の理想は消去されたと思う。それでも我々が貧困に手を差し伸べようとする感情を有する。プランBはあるか。

2023年10月29日日曜日

君たちはどう生きるか - 宮﨑駿

観劇

何の前提条件もなく、物語のあらましさえ知らずに入り込んだ世界で見たものは。

作品がどこへ向かうのか知らない。人間の自然の生業として予測と撤回を繰り返しながら観劇を続ける。物語がその全体像を示すのは後半であろう。それまでに何回かの転換点がある。そこまで届けばいいのだけれど。

自分の頭を傷つけるシーンを見て、これはサイコパスに違いない、と考えた。どう推敲しようとおばさんもおばあちゃんたちも惨殺である。間違いなくこれはシリアルキラーの展開である。

弓矢を作るシーンで予感は確信に変わり、おばさんを弓で撃ち抜いた後に、父を殺し、山へ逃亡する。山狩りの中でどう生きるかを問われるに違いない。ほら、あのアオサギに幻覚を見ている。ああ、なんと辛いシーンが待っているのだろう。どう物語を終わらせる気なのか。いずれにしろ悲しみは避けようがない。

というような話ではなかった。

過去作品

面白いとはどういう感情であろうか。感動とは何であろうか。その正体を問わずにはいられない映画だった。思えば宮﨑駿の作品に面白さを見た事はあるか。

カリオストロの城は面白かった。その意味は何であったかと振り返れば、ギミックと思われる。ギミックの面白さ、よく練られた構成、機械類の描写、地形、都市、地下道の設計、それらの中で導線を巧みに使いこなし、感情の起伏と交差させ、キャラクターたちが生き生きと行動する、または行動せざる得ない世界。

ナウシカの漫画を読みその視線の遠さに打ち震える。彼が口にしていた子供たちのためのアニメーションというキーワードなど嘘っぱちと確信する。そこには別の顔、読者からすれば本当の顔というものがあった。幾つの顔を持っているのか。他にどのような顔を持っているのか。たじろぐ。これだけの作品が形になるために、どれだけ多くの事を咀嚼し取り込み捨ててきたのか。

未来少年コナンを面白いと思ったかどうか。今では記憶は欠落している。それでもギガントの翼を走るシーンは鮮明に記憶に残っているはずだから、そこに強い印象を受けた事は確かと思われる。時系列的には怪しい。

少なくともその造形をカッコいいと感じた記憶はない。当時の全盛だったデザインとは趣が余りに違う。それは確かだ、その証拠に真似して描いた記憶がない。その後に始まったキャプテンフューチャーのメカニカルの方がまだ未来を感じた。

アメリカ的ではない。帝国海軍的でもない。当時の主流から外れたデザイン、竜の子プロの異質とも違う。当然だが、全てを知った上でそれを選択していたのだと思う。知識にしろ経験にしろ本流を知らなかった筈がない。そこにどんな思いと覚悟があったか、それは知らない。

明瞭な記憶の中にラピュタを面白いと感じた事が一度もないがある。観劇の途上で一度もワクワクも興奮もしなかった。ナウシカの顔を覆い泣く演出にマンネリズムを感じ嫌悪する友人が隣にいた。

面白さ

もしも面白いや感動がセックスで同じ気持ち良さに過ぎないならラピュタからそれは得られなかった。しかし面白さが生物学的な興奮状態、神経伝達とホルモンの作用であろうか。それが作品の価値であろうか。

もしそうなら映画の価値は神経の興奮で測定可能となる。しかし神経の興奮だけなら映画を見るまでもない。化学物質を取り込む方が余程簡明である。ならば映画は薬物と対抗するために存在するのか。面白さは映画の目的ではなく副作用だと思う。

ラピュタが面白くない事と詰まらない事は全くの別事である。それぞれのシーンは記憶に刻まれている。それらは強い印象を残しているはずなのである。そういう点でこの作品は、自分にとっては、物語にのめり込むものではなく、連続する絵画を眺めては楽しむものであったらしい。

作品の背景にある社会、組織、その中で動く人々の立場と思惑。宮崎駿の作品は富野由悠季の作品と比べるとそこは地味に希薄に描く。世界観はとても薄い色で描かれている。余白を多く残し最低限で済ませようとしている。

富野由悠季作品の多くで登場人物は直接的に問い掛ける、その多くは叫ぶ。宮崎駿作品の多くの登場人物は黙って決意する。その理由さえ明かさない。だけれども、それを表情で描く。その瞬間をとても重要と思っているはずである。

両作家も細心にそれらを日常の延長として描く事に腐心していると感じる。そこにだけは嘘は入れられないと感じ入っている。大切なものを持つ人は敵でさえ信用できる。だが、世界の多くの不幸はそこにも起因している。戦争は尽きない。

脳の中

興奮がなければ面白くないのか。それが退屈の理由か。どうもそうとは思わない。どんな作品であれそれを面白いと感じる人がいる。感受性の違いと短絡に結論はしない。その前に、その面白いと感じるメカニズムが脳の中にある。それを知る必要がある。

認識には、同じ知識を増幅す強化する場合と、全く異なる知識によって刷新される場合がある。追認、再認識は既知の知識の上書き。過去の感覚を再現しもう一度確認する。追体験する。依存症ともなれば何度も何度も繰り返す。もう一度体験したいという欲求は脳の快楽と強く結びついていて、これらの反応は線虫でも観察される神経系のノーマルな仕組みである。

これらは記憶を強化する行為と見做せる。それが快楽と結びつくのは、過去に同じ快楽を感じたからで、その生理的反応を再現したい。この心理の先に、それを充足する事が面白いと感じさせる事と結びついている。結果と作用の追求である。

待ってました、と掛け声するのがその代表であろう。あの料理をもう一度食べたいも同様であろう。お気に入りのデートシーンも同様であろう。再確認には最終的に自らのアイデンティティ、特に過去と現在を結合するものとして、それ自身が己れの生を自認する行為となる。

もうひとつの、認識の否定、刷新、偏見の除去、発見、これらも面白いと感じる典型である。これらは再認識よりも強烈な刺激となる場合が多いと思われる。新しい知識で古い知識を上書きする事もまた快楽である。この快楽の追求が同様に結果と作用から生じるのは同じ構造である。

謎解きや新しい発見が脳に与える充足感は、一種人間の学問技術芸術の原動力であろうし、時にそれは既存の世界を否定する。他者をも否定する。否定は争いの主原因となる。神の名のもとにどれだけ多くの民族が絶滅させられてきた事か。

それでも発見という強烈な興奮が人が世界を歩く理由となり、外洋に向かう理由となり、世界を拡張する理由となった。追認よりも強い刺激だと思えるのは、発見の方が位置エネルギーが大きいからだと思われる。落差が大きいほど、刺激も強い。

どうやら脳は常に動いている状態を作りたがっている。それがないと退屈を感じるように出来ている。脳は停止はできない。常にある程度以上の活動を維持し続けなければならない器官らしい。

だから人は考える事を止めない、という訳ではない。考えなくとも脳を常に動かし続ければ良い。ゲームの決まりきった操作にさえ人は中毒的に夢中になる。その先にあるステージにキャラクターを進める為になら。そのような時には退屈な作業は退屈にならない。単調な作業の中からも刺激を受け効率的に進めてゆく。

脳にとってのこの世界とは何であろう。

世界の構築

脳にとっての世界。それは脳の中に構築されたものであろう。原理的に脳の中に世界を構築し、それを外界を一致させる以外に構築はないと思われる。この二重構造を意識しなくて済むように脳は情報処理をしている。

脳の先に感覚器がある。その外に刺激の発生源がある。複数の刺激を脳は統括し統合して一つにする。外界の刺激と脳の中の世界は1:1で対応させているからひとつに出来るのである。だから世界は一つであると認識できる。

もちろん、実際の生体としては、機構的な制限から、視覚には盲点があり錯覚がある。盲点は構造上の止む負えない現象であるし、錯覚は膨大な視覚情報を前もって処理しているために発生する。そうしなければならない情報処理が間に合わないのである。

脳はそれらの現象をよく知っており、それらの現象が世界像の中に紛れ込まないように回避している。上手く隠蔽し世界像を再構築してみせているのである。だから意識がそれを認識する事は通常はない。

状況の単調さとは、状況の変化率が0に近い事を意味する。それは必ずしも世界が動いていないという訳ではない。外界が単調である、感覚器からの信号が少ない、脳が信号の変化を捨てているが考えられるので、田舎の風景が退屈かどうかは個人による。風景に退屈はなく、脳の中の信号が変化に乏しいがある。

数学や哲学を学ぶと顕著であるが、脳が理解できない状況がある。容量がオーバフローしたのか、処理速度が追いつかないのかは分からないが、どれほど目の前で事象が変化していようとも理解できずに通り過ぎている場合がある。

変化を捉える方法のひとつは足場を固定するだ。課題やテーマを設定する、ひとりのキャラクターにフォーカスして全体を眺める。人間は世界の中に物語を見いだす。数学や科学も知識の羅列の中にさえ物語は見いだせる。そこに何らかの物語を見出せば、必ず面白い。

面白さは変化の事であるか、その変化を認識する事であるか、つまりは脳の活性であるか。少なくとも活性していなければ面白いはないように思われる。

変化を見出せば、次に予測が始まる。これは脳が持つ本来の能力で、数秒先を予測しなければ生物は生きていられない筈である。体をくねらすミミズだって未来予測に基づいての行動のはずだ。危険に対するアクションなのだから。

未来を予測するために、過去を要求し、現在がある。二点間の連続性がなければ変化は見いだせない。さて、次はどうなる?この素朴な問いの中に物語がある。恐らく言語にアブダクションの能力を加えたものは物語の構造を生むはずである。

面白さは脳の活性として、生理的反応として知覚される。これを刺激にする為に、作家たちは時間や環境を通じて構造を通じて情報の変化を配置し、組み立て、表現媒体を通じて公開してきた。

ギフト

アオサギが人間鳥となる辺りから本作は動き始める。この世界観はこれまでと異なるように思えた。宮﨑駿の作品の中には、ふたつの大きな柱があったと思う。科学に信頼を置く技術志向と、異形の者たちとの邂逅に込められた世界観。

登場人物は誰もが何かを抱えている。その抱えたもの、運命と呼ぼうと境遇と呼ぼうと、否応なくそれが物語を駆動する。過去から今日まで続いてきた世界がある、最初の人々はどのようにそこに足場を組み立てたのか、そして現在はどのように入り込んでしまったのか。宮﨑駿の作品はどれも旅である気がする。

「君たちはどう生きるか」はまるでカタログギフトのような作品だった。過去の作品を思い出すシーンが沢山があって、どこかで見たという連想が幾つも流れてゆく。だから思ったのだが、ここには彼の本当に好きな風景が全部乗せになっているのではないか。

これまでは曲がりなりにも作品を完成させ、額縁を仕上げ、そして上映していたように思う。どこにもかしこにも、彼の御業が見られ、その形跡があり、そこから受ける感銘、光から音までが彼の周りを飛び交まるものたちの緊張に浸っている。

アニメーションが大勢の人間を投入して作られる工業製品であるとは言え、まぎれもなくそこには彼個人の作品と呼んで構わないものがあった。

其れと比べれはこの作品は、鉱石の標本ケースのようである。どれもこれも原石のままの並べられている。少しは磨いたり綺麗に拭いてあったりはするのだろうが、殆どが鉱物をそのまま置いてある。最低限のストーリーは確かにある。絵もいつもと変わらない品質を維持している。この並べ方は確かに宮﨑駿であろう。どんな些細な航跡にも彼の名は冠されなければならない。

だから、どのシーンも過去の作品から持ってきてアレンジしたものではない。ここにあるものが本体なのだ。ずうっと彼の中にあって、それが過去の作品の種であった。それをアレンジして作中に使ってきていた。今回は初めてその種をその種のまま披露してくれた。彼の中にある図書館の蔵書の中から本当に好きなものを余すことなく公開してくれた。

だからこの作品のストーリーには意味がない。作品としての最低限の体裁でよいと突き放したかのようだ。旅の目的でさえあやふやと思う。唐突に物語は動き出す、本当の目的があるとは思えない。旅と気づいた時に旅は終わりだよ。

人生と同じように否応なく巻き込まれ、旅を続け、そして最後は決断をする。もしそこで世界を担う選択を迫られたら君はどうする。そんな事を気にする必要はない。君の判断を世界などに奪わせるな。

これは宮﨑駿の心象風景だろうと思う。物語を構造する理由もリアリティも最低限の額縁でよい。近しい人の言によれば、ホフマンのくるみ割り人形を読んで辻褄など些末と慧眼したそうである。恐らく心象風景の理由は、最低限の形にするために物語さえも背景に添えれた感じがしたからだろう。

そういう想いから観劇の途中から逃れられなくなった。カタログを見て面白いという人もいれば、面白くないという人もいる。最後のブラッシュアップもしていない。わざとそうしていると感じた。耄碌という感想もなくはない。

だから、この映画は宮﨑駿の原石だと思う。これまでの作品は彼が磨きに磨き、選びに選び、構成を巧みに技を凝らし、実直に、誠実に、組み上げてきたものであった。その構築に感嘆する者は、原石は求めていないと言うかも知れない。その手技に感激した者は、原石では満足できないと言うかも知れない。願わくばこの原石から生まれるであろう宝石のキラキラを幾つも想像し眩暈にくらくらしたい。

なんという選択と取捨、彼の足跡を追い駆けて、彼が捨てて進んだ残骸を見つける。そのいずれもが素晴らしい作品の断片に違いない。彼が不要として割った陶器の欠片がきっと僕たちには宝物となるだろう。宮﨑駿の商業的価値を一番知らないのが当人なのである。鈴木敏夫が必要な理由だ。

その何が問題ですか。ありのままのスケッチで十分です。展覧会に出品して入賞を狙うようなものは評論に好きに鳴かせておきなさい。作る過程で何を考えていたかなんてどうでもいい。もう暖炉で焼いてしまったよ、それは足場だからね。もう解体したんだよ。

劇場

映画という感じはしなかった。通常は何度も行うであろう手直しも少ない感じがした。極限まで取り除くのがひとつの美なら、そのまま放っておくのも美である。削られた後に滲み出る美しさもあれば、元の姿のまま、僅かな手技で、ありのままの姿を見せる美しさもある。その先の削られた後の姿が匂いたつ。

もしこの作品が持つ心象風景の部分を薄め、背景の説明を整理し、冒険活劇を目指し90分程度に編集したなら、拍手喝采の映画となったと思う。だから、それを敢えてしなかったと解釈すべきで、何故なら、それはもう過去にやったから。

この映画は一種の教科書と受け止めた。後に続く者たちに全てを見せた。君たちのはそのままでいいんだよと言っているような気さえした。その思いが全ての場面に込められていると解釈する。

作品が一秒進む度に何かを探す。退屈さとワクワクが繰り返され何処に辿り着こうとしているのか探す。そのどのシーンもどこかで見た気がしてくる。だのに、なんだ、これは新しい作品だ。

造形は何か偽物くさく感じた。どこにも主人公がいない。確か、これまでのどの作品にも腰を据えたかのような重さがあった。あの魅力的な敵はどこへ。あの裏切り者はどこへ。作画のデザインがどこれもこれも今までとは違う気がする。推敲した気がしない。うん、これでいいよと笑っている感じがする。

そういう気がするのにゴッホの糸杉は生きているかのように美しく動き、風に吹かれる草々も美しい。ここにあるのは本当に好きな姿かたちに違いない。誰にも説明する気はない。自分の好きなものを黙って披露する。

思うがままに描いてみる。造形の泉が枯れたと思うならそう感じるがいい。そんな所に自分はいない。完成された作品と殴り書きのスケッチとどちらでもいいじゃないか。人間だから空を飛ぶには飛行機が必要であった。だが、まてよ。鳥として飛べればそれでもいいではないか。もしかして、飛びたいのは誰だ、僕ではないのか。

だから、鳥たちは飛ぼうとはしなかった。地面を歩き、飛べなくなったペリカンが語り掛けてくる。それでいいんだ。決めるのは君だ。

ハウル

自問が止まらなかった。目の前で展開されているものは何か。どういう作品か。そんな疑問が起きるのは宮﨑駿と庵野秀明の映画くらいだ。作品の中にメッセージを読み解かなければならない。その強迫観念にも等しい渇望がある。こんな観劇方法しか知らない。

本当にそんなものがあるのかと自問してみる。そこには何かがあると言う確信は揺らがない。それは疑いようのない真実である。目の前の作品がそう語ってくる。

ハウルという作品がある。そのメッセージは今も解けないでいる。この作品は何なのだ。しかし観劇の間の自問する姿がとてもよく似ていると思った。するとこの作品はハウルの子供か。ふたつの作品に類似性が見つかった。と言う事は、別の人は全く異なる類似性を他の作品との間に見つけている事だろう。

ハウルが戦争を描く物語だとしたら、この作品も戦争を背景にしている。だがハウルは戦争を描いた作品ではない。アオサギでもそのような事はしなかった。それは背景である。

ハウルは物語の背景に宇宙とのつながりがあった。それはこの作品でも同じだった。宮﨑駿という人は結局は宇宙に飛び出す作品を描いていない。恐らく彼の中の科学技術へのリアリティがそれを否定している。だから、飛び立てずに地面に戻ってきた人々の物語を描く。

今と過去を交差させ複数の物語を平行して動かす。その世界を旅し、新しい世界が出現し、海を越え、空を超え、元の世界に戻る為に別の世界を破壊する。それでもいいと決意する。

それが何かの象徴だろうか。その選択に何らかのメッセージがあるのだろうか。どうもそうではないらしい。これらの作品はそうは読めない。そこには何ひとつ主張しない姿がある。ただ風景を流す映写機がある。

何も語らない。なぜ口をつぐむのか。そこからが僕たちの旅の始まりだからだ。答えを見つけちゃいけない。見つけたら旅が終わるから。そこは作品の終わりではない。いつまでも旅が続けられるようにこの映画も作ったから。

エンディングの最後に「おわり」の字幕があったかどうか、どうも記憶にない。

この世界に

この世界に雲が流れている。雲を見ればラピュタを想う。彼の作品がこの世界を上書きした。猪を見ればおっ事主を想い、温泉に行けば湯婆婆を想う。津波を見ればバラクーダ号を想い、羊歯を見れば鹿を想う。カビを見れば腐海である。暗い土間にはまっくろくろすけを探す。

小さくなったと嘆き、猩々が馬鹿になってゆくと嘆息する。あの津波に冷静でいられたのはハイハーバーの津波を知っていたからだ。

作品にはモチーフとテーマがある。モチーフは動機だろう。テーマは芯だろう。その意味で宮﨑駿の作品にはテーマはない。モチーフの周囲に植物が萌えるように作品がある。富野由悠季の作品にはテーマがある。モチーフなどスポンサー企業が提供したもので十分だ。

テーマは声である。ピークがあり、カタルシスを起こし、エピローグへと続く。声は演劇となり、詩となり、それ以外の部分が消えても残る。記憶はその断片で構わない。彼は宇宙の詩人である。

モチーフは全体を覆うものだから、断片にはなりえない。だから景色である、流れてゆく景色に言葉はいらない。何もかも受け入れてゆく。彼は地球の画家である。

なぜ風景の中に声を探すのか。

「はい」という返事があった。宮﨑駿の作品はすべてが良い返事を描くためにあるのではないか。そうに違いないという気がする。

良い返事をするとは生きる事だ。返事をしたのなら必ずどこかに他者がいる。

それで十分と言っている。

返事を聞きなさい。それが始まりだから。

2023年9月30日土曜日

ヤン・ウェンリーは本当に民主共和制の軍人か?

1.

如何に帝国が盤石とはいえ70年もすれば建国の功臣たちの高貴な忠誠も犠牲的な献身も失われるであろう。この銀河に敵を持たない政治体制であれば虚栄と紊乱と退廃に至るのは螺旋する歴史が示してきた事だ。

敵が居なければ人の心は慢心する。支配層の興味は銀河の外には向かないだろう。冒険に隣の銀河は遠すぎる。内に向かって進むのが自然の道理だ。

権力は富を無限に蓄積する為にある。富が権力を正統にする。そのためには、民衆を狩場とすることだ。

帝国の貴族社会が加速してゆくのは目に見えている。初代の提督たちの理想は高貴である。その子も親の薫風を受け毅然としているであろう。だが、そこまでだ。その次の世代から世界は同じ道を歩いてゆく。

疑心暗鬼が無制限に肥大化する。権力者の周囲には歓心を買う人々が集まる。野心を隠す事が野望の欠かせぬ資質となる。それを見過ごせば終わる。

権謀術数が渦巻き、敵を持たぬ軍が民衆を敵とするのもむべなるかな。民衆が革命の源泉だから。国家は臣民を監視する。裏切りと密告が権力を維持する手段だ。

弓と剣しかない時代ならまだ人々には圧政を覆す手段があっただろう。弱体化した国王を倒す事も可能だったろう。初期の銃程度の社会なら市民側も対抗しえた。

しかし、これほど高度に発達した武装を装備する軍に対しては市民に対抗する手段はない。軍に対抗しうるものただ軍あるのみ。よって軍が国家を支配するのも容易い。そうなれば国を守る力が民に向かう。市民から富を奪う為に。軍が肥え太るために。軍人がこれを拒否しない限り、誰にこれを止めれよう。

人々は難民となって逃げるしかない。過酷な自然でさえ人間の生み出す圧政よりはましであろう。

人々の関心が国家からなくなり、自分たちの日々の生活の為だけに、それを維持するのに精一杯になった時に、初めて社会はその運動を緩め、軍は装備を持ちながらも機能せず、その威力を発揮できなくなる。汚職と賄賂にまみれた国家で誰かが声をあげる。そこまで忘却しないと変革はおきまい。

そんな帝国の未来を思う時、少しは民主主義の意義はあるかと思う。革命を掲げる人々は専制よりも民主主義を求めるだろう。民主主義には腐敗と戦う力がある。軍に人民を支配させない力がある。法に従う為に血を流す覚悟を厭わない人々がいる。

恐らく腐敗の速度を比べたら、帝国貴族と民主共和制でそう大きな違いがあるとは思えない。実際に帝国より同盟の方が遥かに腐敗は早かったではないか。

民主主義の退廃など簡単である。議員たちが世襲となり、選挙が世襲を追認する儀式となり、それを人々が認めた時、帝国の貴族制と何が違うだろう。形を異にせよどちらも特権階級であり、それは、民主制という建前を維持しつつ、資本主義と使い人々から富を収奪する合法的な制度である。

帝国の退廃よりもましなどと何故言えるだろう。

2.

思えば、私が停戦命令を無視していれば、歴史は別の顔をした。後世の人々は何故私がブリュンヒルトを討たなかったのかと訝しむ。しかし私には私の言い分がある。

軍の原則、シビリアンコントロールには従わねばならない。それが誓えないなら私は軍にはいない。この大原則があるから私は軍隊を率いれる。これがあるから何万という将兵の命を奪いながらも私は罪に問われない。もしそれを失えば私の行動は根拠を失う。

あくまで私は職業軍人として行動した。それが私がクーデターを拒否した理由だ。クーデターは常に民主制の宿痾であり、起きない方が望ましい。しかし、本質を言えば、民主制はそれを防ぐ機構を持たない。憲法はクーデターを禁止しない。

だから、独裁者は常に真っ先に憲法の停止に着手する。軍を掌握し、市民に戒厳令を布く力を持っていても、憲法は停止しなければならない。如何にも詰まらない手続きに見えるだろうか。確かにこれは単なる手続きだ。

憲法を停止しようがしまいが、権力は独裁者の手の中にある。それはいささかも揺るぎはしない。それでも憲法は停止しなければならない。

何故か。そうしない限り、権力の正当性が得られないからだ。正しい手順で憲法を停止するから権力の正当性を主張できる。その正当性によってやっと市民を動員できるのである。そうして初めて独裁制への移行が可能となるのである。

これは憲法の停止なく民主制は停止できない事を意味する。この手順に逸脱はない。例外なく独裁者は憲法を停止する。ここに民主制の根幹がある。そして私は同盟憲章をこよなく気に入っている。

同盟が敗れるとは同盟の憲法を失う事に等しい。私は同盟憲章の理念に従う。故に同盟憲章は帝国の手により停止される。それなら私がクーデターを起こし私自身の手で同盟憲章を殺しても同じではないか。

私はそれを否定する。それをした瞬間から私は私を律するものを失うから。そうなった時に私が何をするのか、私自身にも分からない。それを私は恐れる。

軍を停止させた。例えこの停戦が軍事的敗北を超えて民主制度の消滅であったとしても。私の決定が恐らく同盟を救える最後の地点だった。覆す手段はあった。その機会も私にはあった。

だから私が民主制を滅ぼしたと言っても差し支えない。最後の抗う力を放棄したのが私である以上、民主制を滅ぼしたのが最終的に私であると言われても受け入れるしかない。私はこれが民主共和制の軍人としての正しい態度であると思っている。

いつか私が、クーデターか、レジスタンスか、亡命政府か、テロリズムに参加してもその時にはその時で私には理由があるのだろう。恐らくどの場合でも私は無能でない限りは有能である。自惚れではなく。しかし、あの時点での私は正規の同盟軍司令官である。

私は停戦命令に従い、正しく武装解除を行い、兵士たちを安全に故郷に帰す。それを果たすのが責務だと思う。そこから逃げる訳にはいかなかった。

その先の時代にまで責任は取れない。

3.

もし停戦命令を無視してラインハルトを倒していたら同盟はどうなっていただろうか。

私が命令無視をしたのが明らかになれば、ハイネセンの帝国軍がどんな暴挙に出るか。それを止める力は同盟にはない。彼らは報復をしただろうか。星系すべてが核で焼かれても、どのような虐殺が起きても、私には何も出来ない。

もしそうなっていたら。戦争の帰趨がどうなろうと私は永久に戦争犯罪者だ。帝国軍にとっては皇帝を殺めた者、同盟にとっては惨劇の引鉄を引いた者。

ハイネセンの市民すべてを焼き殺してまで守りたい民主制度とは何だろう。私ひとりが選ぶ未来としては少し重すぎやしないか。

もし、それほどの理想的な民主主義がきちんと機能していたら、きっと私はこんな所で帝国と戦ってはいない。アーレ・ハイネセンから始まった民主共和体制は既に命数を使い果たしていたと思う。

それでも、私はラインハルトを倒す気ではいた。もし停戦命令よりも前に私が倒していたら。

その未来はどんな顔をしたいただろうか。

帝国の脅威がなくなる、現政権が続く。軍事予算が縮小し資本は経済再建に回される。結構な事だ。これまで抑圧されてきた欲望が一気に解き放たれる。

戦争特需を失い一時的な不況とはなるだろう。それは経済体制の組み替えが始まったという意味だから。そして解放される。目の前には帝国領という手付かずの果実が。人々は熱狂の中にある。

燎原の火の如く同盟領から帝国領へ広がってゆく。混乱にある帝国では同盟の侵攻は防ぎきれまい。帝国市民も気付く。侵略は一方向ではない。

民主政体だからといって外征をしない理由はない。資本主義はある点では帝国経済よりも強烈で強欲である。満たされる事を知らない。強力な統治が消失した場所の真空に吸い寄せられて征服へと向かう。

我々はほんの小さな勝利に浮かれて、帝国内に侵入した過去がある。その結果として、我々は敗北を早める事になった。それがもっと大規模に見境なく進む。そして、その先でどうせ富を巡って同盟同士で戦いを始める。

どれも碌な未来じゃない。最善の王政と最善の民主制のどちらが望ましいのか、私には答えがない。しかし、腐敗した民主制が最悪の王政よりましだとどうして言える。

4.

帝国に勝利した私に待っているのは過酷な運命に違いない。帝国の存在が私を生存させていた。帝国という敵を失えば私は別の原理に晒される。

帝国領に侵攻をする時の司令官は私ではないはずだ。そこに私の居場所はない。帝国領への侵攻などこちらから辞表を叩きつけるとしても、しかし、実際は辞表を書く必要はないだろう。

どの権力者からも私は警戒すべき筆頭の人物である。私にはそれらを引っ繰り返す力がある。

ラインハルトを討てば同盟は維持される。しかし、その結果として、帝国領は侵略されるし、私も可なりの可能性で刑務所行きである。そこで生きていられたならかなりの幸運だ。査問会の時に私はそういう経験をした。

私が生きている限り、安心できない人がいる。だが、同じくらい私に期待する人もいる。私に独裁者になる気がなくても、指導者になる能力がなくても、私は持ち上げられ担ぎ上げられ恐らく拒否できなくなる日がくる。私の大切なものを守ろうとして、そのうち身動きが取れなくなる。

だから、バーミリオン星域会戦で敗北しても、または勝利しても、私に明るい未来はなかったんだ。その意味で停戦だけがそれとは違う道を切り開いたともいえる。

5.

ならば私は勝ちたくなかったのか。いや、私はラインハルトを倒すつもりでいた。実際にそれはもう少しの所で実現した。

もしそうなったら私は同盟から消えるつもりだったんだ。行方不明者となる。最初からそのつもりで作戦を立案していた。

そのための準備も秘かに行ってきた。戦えば勝たねばならない。その結果として帝国軍との戦争が終結した後に同盟がどうなるか。そして私自身がどうなるか。私にも考える場所はある。

だから、同盟からも帝国からも身を引き、遠くの辺境惑星で開拓でもしながら生計を得る。そして銀河の行く末を見守るつもりだった。恐らく、私が生きている間にこの混乱は収束しないだろう。虐殺や略奪も起きるだろう。しかしそれはもう私の手を離れている。

その後の民主制がどうなるか。その後の帝国がどうなるか。悲劇なる事は十分に覚悟していた。その上で私はラインハルトを討とうとしていたのだ。私が目指すのは第四の勢力しかないと思っていた。それが私の世代で完成するはずもない。私たちの次の世代に伝えてゆく形で確立するしかなかった。

なぜフェザーンは第三の勢力となり得たのか。それを可能としたものは何であったか。それについても研究しようと思っていた。地球教についても学ぶ必要があろうだろう。私は二人目のアーレハイネセンになりたかったのか?いや私はその為の種を蒔く人でありたかった。

アーレハイネセンの民主制が朽ち果てようが、きっと第二、第三のアーレハイネセンは生まれる。民主制は再び、きっとどこかで起きるに違いない。そういう歴史的な力がある。

私が生きている限り必要とする殆どのものは民主制でなくとも手に入る。だけれど、それでも果断な努力、絶え間ない継続を求める民主制を私は希求する。

6.

私の艦隊に居る者たちは私の性格をよく知っていたはずだ。なぜ通信兵は電文を握りつぶさなかったのだろう。なぜその報告を最初に受けた士官は破り捨てなかったのだろう。なぜ参謀たちは1時間の休息を取ろうとしなかったのか。

全艦隊においてだた一人、私さえ知らなければ作戦は停止しなかった。続けていれば我々が勝利した。

だが命令を受領すれば従う。それ以外を私は知らない。

もしブリュンヒルトが沈没したらハイネセンは焼かれていたかも知れない。無辜の市民が何億人と焼かれた可能性がある。そうなる可能性は考えないでもなかった。

帝国側に優れた軍政家がいれば戦場を離れて秘かにハイネセンに向かう戦術は可能だった。ただ私はラインハルトの性格からそれは起きないと判断し、彼の麾下たちがハイネセンを焼く事はないと判断した。だからその宙域に監視船を置く事さえしなかった。

その結果として仮にハイネセンが灰に帰しても、それを許せないのは私自身である。兵や幕僚たちではない。

7.

だのに、最後の最後で私の所に通信文を持って上がってきた。それは軍としては完全に正しい。私が求めた兵の姿だ。それは本当によく教育された立派な兵士たちだ。

それを私は誇りとしなければならないのだろう。その行動に敬意を払うべきであろう。という事は、私の艦隊にはどこにも自発的に考える人間がいなかったという意味になる。私はついに自分自身で考える兵士を持つ事ができなかった。いや、それでいいはずである。

軍はそうでなくてはならない。責任を全て私ひとりに押し付けるべきなのだ。そうでなくては軍は成立しない。私の作戦で死んでいった多くの将兵たちはそうであったから努めて忠実によく任務を果たせれたのだ。

だが、民主制の市民に求められるもの、自由、自主、自立、自尊。

民主政体の市民が持つ唯一の権利が投票権である。民主主義は等しく市民に一票を与える。そして投票による意思の行使を求める。それ以外を民主制は求める必要もない。投票がそれ以外を包含している。

その一票のために、民主主義は全ての市民に自発的な考えを求める。この前提なく民主主義のシステムは機能しない。

ひとりひとりが意味を考え、政治に向い、発言し、未来を信じ、選択を投じてゆく。そうした自律性がなければ民主主義は維持できない。

私が求めていたのは、自分の力で考える民主制の市民であったか。その意思を以って私の命令に従い、命を投げうつ兵士であったか。それはもう超人ではないか。

民主制の軍隊でさえ民主主義の求める所から遠くにある。だとしたら、停戦命令に従うのはそれが私たちの全員の意志とも言える。

もし、通信兵は悩んだ末に報告を上げると決め、それぞれのが悩み、その上で、選択していたならば、どうだろう。やはり停戦命令に従うのは私たちの全員の意志である。

8.

メルカッツ提督以下、60隻の艦隊を逃亡させ、のみならず、捲土重来に備えた戦術である動くシャーウッドの森という構想を託したのは、恐らくシビリアンコントロールからは逸脱していると見えるだろう。少なくとも政府からそのような命令はない。これは完全に私のオリジナルである。

さて、これは民主体制に対する反乱か。私兵の創設か。私はどのように弁明すべきか。

もちろん、民主主義は反乱の制度である。民主制の投票がもともと革命権の延長である。投票は革命権を民主主義の制度に組み込んだものであり、一票とは武力革命で手に持つ銃の代わりである。

革命の本質は、人数の多い方が勝利する原則に基づく。この点で民主制の政権交代とは常に革命でありクーデターであり反乱である。血を流すことなく暴力に訴える事もなく日常の生活の中に革命を制度化したシステムである。

もちろん、多数が勝利するとは必ずしも言えない状況を核兵器が生み出したが、それが民主制の理念を破壊できただろうか。近代軍も核兵器も市民革命を困難にしているが、民主主義という革命システムは機能し続けている。

この脱走劇は、決して革命の準備でもなければ、クーデターでもない。まして私兵創設でもない。

帝国に支配され同盟が滅びる事は明らかだった。帝国の統治は現在の同盟よりも遥かに優れているようにも思える。それでも敢えて私は民主主義のための闘争を続けようとしたのだろうか。その準備のためにメルカッツ提督を利用しようとしたのだろうか。

違うのである。順序が逆なのである。同盟が潰えた時、私たちの運命がどうなろうと、それは同盟市民の問題だ。しかしメルカッツ提督がそれを受け入れる必要はない。

彼の処遇は恐らく私だけでは守り切れない。同盟の手で処刑される可能性もある。帝国に引き渡される可能性もある。どう処遇されるかどうも確信が持てない。

なにより、私はメルカッツ提督にだけは戦後の構想を打ち明けていた。逃走するのに相応な星系を見つけるのも、よく知られていない航路の探索も、実務は全てメルカッツ提督にして頂いていた。

提督にもいつかは帝国の家族の元に帰りたい気持ちはおありだったと思う。しかし敢えて私はそれを無視した。辺境の星系に逃避行をして頂く、それが私のプランだった。これはあくまで人道的な処置だ。

ただ逃避行と言っても、それで納得されるとは思っていない。そう考えたからこそ、私はシャーウッドの森という寓話を持ち出した。

私の目論見では、いったん帝国に支配された惑星自由同盟で革命や反抗が起きるとは考えにくい。民主主義を失っても善政が敷かれ人々が平和に暮らせるのならそう悪い運命ではない。

私もラインハルトの大切な来賓として扱われる。裏切り者と呼ばれ同盟市民から狙われる可能性の方が遥かに高い。

もちろん少しくらいは民主主義を求める活動には参加するだろう。平和的なデモ、民主制を後世に残してゆく学問的な活動、その程度だったと思う。すぐに帝政を倒せるとは考えにくい。

だから、私が生きている間にどうこうなるとは考えられなかった。私は安楽椅子の上で歴史書を読みながら寿命を終えるつもりだった。

民主主義の未来を次の世代に託し伝えてゆければ十分じゃないか。そう思っていたのに、人生はままならない。気が付けば私はまた宇宙へと飛び出している。私が決めたんじゃない。望みもしなかった。気が付けばそうなっていた。

ほら、ラインハルトが生きていてさえこれだ、もし彼が死んでいたら、私の未来がどうなっていたか。想像するだに暗澹たる気持ちだ。

そうまでして君は、私が宇宙海賊となり、帝国へと侵入し、銀河を支配し、全権委任を無制限に無期限に手に入れ、ルドフルのように自分の頭上に冠を乗せる姿が見たかったのかい。

2023年8月26日土曜日

読書感想文の書き方

宿題


敵を知り己を知れば百戦殆うからず(孫子)


読書感想文の主な用途は夏休みの宿題で、宿題である以上、そこには必ず出す側に意図がある。その意図を満たせば模範解答となる訳ではないが、その意図を知る事は役には立たなくとも無駄にはなるまい。

夏休みの宿題はもちろん全生徒を対象とするが、実際には、それぞれの生徒の個性に応じて、それなりの働きをするであろう事は想像に難くない。大きく叩けば大きく響く、大きく叩いても小さくしか響かぬ、様々な子がいて、様々な教科がある。

それぞれの科目がこの一か月の学習を想定して考え出されている訳で、遊んでいる間に学習した内容を忘れてしまうのでは惜しい。何かを毎日やるという習慣も身に付けて欲しい。

どうせ遊びに忙しいのなら尚更それとリンクして学習と結び付けられないか、夏休みはその絶好の機会である。

スポーツ選手が一日休んだら元の状態に戻すのに一週間かかると聞く。子供の仕事は成長する事で、成長の手段のひとつが学習であるから、ランニングが基礎体力を養うように学校の教科が脳のランニングとなる。

怠惰ではこれまでのトレーニングの効果が失われてしまう。だから宿題である。そう、ずうっとトレーニングは続けて欲しい。

では、夏休みの読書感想文の意義はどこにあるのか。指定された本を読む、読んだ後に感想文を書く、それだけ。その課題は、意図は、目的は。

教科書よりも長いひとつの本を最後まで読む経験、その後に原稿用紙2~3枚程度、1200文字を埋める。

これが課題として求められている事であり、それをやるのに絶好のチャンスが夏休みだと捉えている筈である。

チャンスとは、出す側としては、今ここでやっておかないと一生本を読まないかもしれない子がいる。これだけの長文を手書きするのもこれが最後かも知れない。

パソコン、スマートフォンが中心の生活である。長文を手書きする経験はこれからどんどん減ってゆく。これが最後の体験かも知れない。その経験は無くても困らない経験ではないか、と問われればその通りである。

しかし、多くの時代、人間は手書きで文章を残してきた。それを一生に一回くらい経験しておく事は無駄に終わっても惜しくはないだろう。先生はそう信じている。

論文

最終的には読書感想文の先に論文と呼ばれるフォーマットがある。論文は人類が数千年の時間を費やして改良に改良を繰り返してきた到達点である。

このフォーマットは歴史の中で自然淘汰され洗練されてきた。だからこれは人類共通の財産である。

論文は自分の経験を他人に伝えるためのフォーマットであり、正しいか間違っているかを書くものではない。必要なのは再現手段を記述する事。

論文の目的、研究の対象、数学、物理学、化学、社会学、経済学、文学、歴史学、人が研究するもの全てで、表現の仕方は違おうと、骨子は同一である。

自分はこういう事をした。それを試したければこの手順で確認できる。料理のレシピも、炊飯器の説明書も基本は同じで、それを記載する方法があり、過去の経験から生まれたルールには先人たちの合意がある。

書く

読書感想文が感想を書くものと思っているなら、最初のボタンから掛け間違えている。

感想文だから感想を書くのではない。大人ならいざ知らず子供たちの宿題である。どう書いた所で別段の処罰が待っている訳でもない。

工作の宿題にプラモデルを出した所で何の咎がある。創造性が素材だけで決まるとは思うなよ、である。

それは先生も百も承知の助である。感想文とは何を書いてもよいというメッセージである。

先生たちの最低限の要求は『なんでもいいから文章を完成させて提出しなさい。』であって、指定された文字数を兎に角埋めろ、それで最低限の要求は満たしている。

文字を書くだけなら写経でも構わない。しかし坊主の小僧どもではあるまいし、全生徒に経典を配る訳にもいくまい。

どうせ書くなら本の一冊でも読む切っ掛けにしたい。こういう機会でもなければこの本を一生読まない子もいる。何千、何万の本の中から一冊を選ぶ。誰のどの作品にしようか。

宮沢賢治に触れるのもこれが最後のチャンスかも知れない。この一冊がその子の未来を大きく変える可能性さえ秘めている。

本を読み、それを切っ掛けとして何かを書く、この体験だけでいい。それが豊かな人生と結びつく。そう信じられる力が本には備わっている。

これが読書感想文の目的である。文章を書く、それだけで訓練になる。漢字を書く、それだけで経験である。本を写すだけでもそれも工夫。本当にそれだけでいい。詰まらないと感じても構わない。これが先生の願いである。

感想文

そうして生まれた読書感想文が夏休み明けには提出されてきた。本を読み、長い文章を書くという先生たちの目論見をそれは満たしている。

所が、多くの生徒にとって、それは「何故」という疑念を残してきた。「何」が感想文であるかを誰も知らないし答えもない。自分が書いたものは本当に感想文と呼べるものなのか、と言う疑問は今も解決していないはずである。

読書感想文という他の宿題とは大きく異なる独特の記憶は今も多くの人の中に残っていて、読書感想文の経験は決して無駄ではなかったのである。

そうなったのは、子供たちが何を書いて持ってきても「これが感想です」と言いさえすれば反論できない仕組みを先生たちが組み上げたからだ。そうする事で宿題としてのハードルを極端にまで下げる事に成功した。

それが、多くの人にとっての感想とは、漠然としたもやもや、自分でさえ何を書いたか覚えていないもの、けれども提出はして特に怒られなかったもの、という経験の沈降となった。

読書感想文で表彰された、書くのが好きで何の疑問も感じなかったマイノリティを除けば、多くの人に刷り込まれた読書感想文は、訳は分からないけれど、とりあえず成立する何かとして記憶だけが残った。

だから感想が侮蔑語として使われた時に、初めて多くの人がハッとしたのではないか。

それは、あなたの感想ですよね

この言葉がこれほど短期間で膾炙したのは、読書感想文という伏線があったからで、それをうまく回収したから、これだけ多くの人にこの言葉の正確なニュアンスが伝わったのではないか。

この言葉の微妙なニュアンスは読書感想文を経験していない人には伝わらないと思われる。

もちろん、それを独特な抑揚や語尾変化で的確に表現した話者の力量が加わる。

対面で人を「あなた」と呼ぶ。初手からマウントを取りに行っているのは明白である。

「あなた」という呼び掛けには明白な対人関係の提示がある。「君」では馴れ馴れしい。「あなた」なら丁寧であるが、それをよくは知らない、親しくもない、親密になる気もない人に向けて発する。だから、これは宣言なのでである。

わたしとあたなは他人ですよ、慣れ合う気もなければ親しくなる気もありません。私のパーソナルスペースへの侵入は禁止です。私にとってあなたは取るに足らない他人です。この距離感が相手を自然と遠くに小さな存在とする。

その上で「ですよね」で語尾を畳み掛ける。

よもねも念押しの終助詞である。念押しをするという事は相手の理解力に疑問を持つからだし、それを丁寧に馴れ馴れしくするのは、相手との力関係を瞭然とするテクニックになっている。

感想

これが成立するという事は、このディベートの場所では権威や権力は役に立たないと宣言しているように見える。まるでジャイアントキリングの構図で、相手は無条件でゴリアテである。

その相手の言葉が「感想」である。あなたは気付いていないでしょうが、は省略されている。

あなたの主張は、何を書いても怒られない読書感想文程度の内容、だから取るに足りません、と指摘している訳である。

では、「感想」の反対語は何であろうか。何を語れば説得力があると言えるのだろうか。面白い事に読書感想文に反対語は存在しない。よって、何を持ってきても全て「感想」が成立する。

何でも感想である。何を語ろうと感想と言われればその通り。感想って何?という事に、我々は読書感想文以外の答えを持っていないから。

感情も感想、考えた事も感想、証明も調査も感想と言えば感想、解析も感想。人の言葉は全て感想である。だって夏休みの宿題がそういうものだったんだから。

所詮はあなたの読書感想文でしょう?あなたが好き勝手に書いたものでしょう、と言えばそれまでである。例えアクセプトされた論文であろうと、そう言い切ってしまえば、多くの観客にとってニュアンスは理解できてしまうのである。

読書感想文を再発見したという点が画期的だったのだろう。多くの人にとって読書感想文はそういうものであったでしょう?と思い起こさせた時点で、人々の関心は討論の場から、そういえば読書感想文ってなんだったのだろうという方に移る。そこで終わり。そういう修辞技法のメカニズムが背景にある。

つまり、読書感想文と結びついたから破壊力があるのであって、その力学さえ理解すれば、言葉自体には議論を終わらせる力はないと気付くであろう。

つまり、英語などの他言語に翻訳してみたら突然と意味をなさないであろう。


2023年8月12日土曜日

敗戦と福島第一事故

死と絶滅と

ユングは集合的無意識の存在を考えたが人間の自我が深層心理を含めてどれほどの複雑さと頑健さから成り立っているかは計り知れない。恐怖とは、あらゆる器官から上げられ、色、匂い、味、音、触覚を脳が先鋭化し死の恐怖を励起する個体の死だ。

だから、原発への反発は恐怖から起きたものではない。その根は個人の死より更に大きい。自分だけではない、全部が死に絶えるという恐怖。家族ならDNAの断絶であり、これなら江戸時代にもあった。これが最大にエスカレーションすれば絶滅の恐怖になる。

これは人の想像力に根差す恐怖だろう。つまり情報に恐怖する。この世界にはそういう恐怖を感じない生物も沢山いる。

人間だけ、とは言わないが絶滅に対する恐怖を感じる生命にはそれなりの神経系の発達が必要な筈である。

ヒトを死に至らしめるものはこの世界に多々ある。毒物、細菌、ウィルス、原虫、免疫疾患、事故、銃、自らを死に至らしめる事さえある。恐怖の中で放射線は新参者で20世紀以前の人々には存在しない恐怖であった。例え人身に被害を及ぼしても未知の不思議であった。

セシウム 137 の半減期は 30 年であるから 500 年もすれば大地は元に戻る。これは個人では許容できなくとも生物種として見ればたいした時間ではない。

土地の汚染は放射性物質だけが引き起こすものではない。自然に自浄能力があるとはいえ人が汚染し住めなくなった土地はある。海を汚したのは誰だ、川を汚したのは誰だ、山を汚したのは誰だ。なぜ放射線だけが一部の人々にこれだけの恐怖を与えるのか。

放射性沃素の恐怖は既に人々の記憶から遠のいている。海藻を多食する日本人は特に甲状腺に与える影響が小さいと考えられる。海藻を摂取しない一部の人たちを十分にケアすればいい。では、放射性物質の恐怖の正体はガンなのか、どうもそうとは思えない。

この世界には放射線よりも遥かに強力な発癌性物質はあるし、煙草の害も広く知られている。地球の大気汚染は放射性物質より深刻なはずで、海に放出された水銀、マイクロプラスチック、環境ホルモン、酸性化も安易な問題ではない。

遺伝障害を恐れるにしても、遺伝子を傷つけるのは放射線だけではない。オゾン層をこれだけ破壊しておいて今更である。化学物質も遺伝子を傷つける。今更である。酸素も遺伝子を傷つける。今更である。

我々は毒物に対して稀釈や中和、合成などで対抗する。それでも大規模汚染の場合は相当な年月を解決するまでに要する。

毒物には無機物もあれば有機物もある。放射性物質はその一部を占める。そのいずれも自然現象の、物理学の範疇にある。

原子力発電所の生み出す放射性廃棄物は 10万年先まで管理しなければならないとされる。現行種のヒトが生まれたよりももっと長い年月がある。人類が10万年先までは残っているとは考えにくい。新しい種に変わるか、途絶えている。

5万年後の生命が廃棄物の放射線を浴びながら生活する状況はあり得る。そこで起きる不思議な病が彼/彼女らに何を齎すか。

そのような運命をこの星に残していい権利は我々にはない。その生命たちに新しい神や恐怖を与える自由はない。我々の恐怖ではもうないというのに。

福島第一原子力発電所事故に憂える者はそれが個々の危機ではなく広範囲に拡大する危機だと認識している。この認識は、隕石への恐怖と似ている。

古里を返せと叫ぶ人がいる。ダムの底に沈んだ村の人々は同じ言葉を飲み込んだ。ある日、奪われた状況はそう変わらない。ゆっくりと受け入れる時間があったか突然かだけの違い。土石流、火砕流で失われた人もいる。自然災害は原子力発電だけではない。

原子力発電所がシビアアクシデントを迎えるのも、ダム開発が始まるのにもそう大きな違いはない。時にダムが破壊される事もある。そこで生じる自然現象は恨めない。

だから責めるべき人間がいる。不条理ならば理由がある。理由がないから不条理なのではない。そのような考えを脳は拒否する。不条理も理由のひとつで、納得できない理由で奪われるなら幾らでもあるが、理由もなく奪われるは受け入れられない。

事故を人が起こす。だからその責任を人に負わせる。でなければこの気持ちは晴れない。もしこれが隕石であるなら、責める人間がいない。どうやってこの気持ちを受け入れるか。

だから隕石で滅びるなら仕方がない。だから原子力発電所は違う。理由を人間に求められる。人が人を殺す事は許されない、自然が人を殺す事は許すしかない。

クマが街に出てきたら撃ち殺す。自然だから仕方がない。ならば放射線物質も自然である。ヒトも自然現象の一つである。ひでりの夏に餓死者が出るのは仕方がない。

癌細胞も自然である。細菌も自然である。ウィルスも自然である。自然なら仕方がない。そうであっても原発事故で土地が汚染されるのは納得できない。

危険とされてきた原発を放置し、案の定、事故が起きた。それが許せない。これは食い止める事が可能だった事案である。それを金銭の問題で見過ごした。

こんな愚かな理由で先送りされ我々は殺されるのか。そんな悔いは残したくない。だから恨みとなろうとも残す。もう二度と許さない。原発は許さない。それを制御してきた人たちを許さない。

この先に、もう戦争はコリゴリだがある。二度と御免だ。この気持ちがあるから戦後の日本は復興した。

曰く、これはエンジニアリングの敗北だ。我々は何よりもエンジンで負けた。だから空を海を陸を手離したのである。

戦争は悪である、戦争はしてはならない。ひとまず米軍が肩代わりしてくれる。戦後は全てをエンジン開発に投入した。まずはエンジンへの技術的渇望を克服する。だから世界一のエンジンを作る。これが日本産業の根底にある脅迫観念であった。

愚かさ

先の戦争も愚かなら、この事故も愚かである。この愚かさの正体は何か。

愚かさは正しく切り刻む必要がある。事象を時系列で並べ各場所で問いかける。別の道は可能だったのか、それとも困難だったのか。最後の敗着はどこか。

別の道にはどうすれば進めたか。それを可能とするためには何の条件が必要だったか。ある仮定をする。コストを見積もり。その実現性を検証する。そこから更に過去に遡る。それが可能とすれば、これも可能である。

未来は質量を持たない。だから何を言うのも簡単である。過去に戻れば具体的な重さが出現する。そこで成立するかを検証する。

遅々として進まなくとも前進は続けていた。もう少し時間があれば。まったく違う未来は有り得た。ならば時間がないとは事象の起きるのが早すぎただけだ。

準備不足で突入する。結果は机上でも分かる。ただ進めてゆくしかない。そのためなら数百万の命も投じよう。曰く、これが軍国主義の敗北である。

軍を統制できなかった政府、独自の理論で暴走した軍部、これは明治憲法の欠陥である。誰も訂正できなかったまま、その事象が起きた。その時点で手遅れだった。

愚かさを学ぶとは二度と繰り返さないためか?それは人間に可能な事ではない。我々は同じ失敗を繰り返す。同じ失敗をしなくても似たような失敗を繰り返す。誰かが必ず。

それを愚かというのは簡単である。結果論だから。それが起きる前に語っていなければ意味がない。語るだけなら八卦でも可能だ。ならば実際に止めてみよ、それが起きなかった未来なら、愚かについて議論する必要もない。

それが愚かに見えるならば、そこには愚かでない何かがある。今よりももっといい未来はあったはずと信じる気持ちがある。ではどうすれば良かったか、これからどうすれば良いのか。

果たして、それが人に可能な事だろうか。だれも愚かに向かう人はいない。それでも起きる。起きた原因を探ってゆけば愚かに見えるだろう。愚かに見えなければ起きるはずがない。

逆である。原因を探せば愚かしか見つからない。愚かでないものがその原因であるという因果関係を見つける事が人間には難しいからだ。そして愚かさを探せば個人か組織にしか至らない。なぜなら、それ以外に人間は存在していないからだ。

我々は組織で負けた。情報で負けた。隠蔽され、改竄された情報に基づいてどうして正しく判断できるだろう。どう決断すれば良かったのだろうか。

しかし正確な情報を得ていたならば正しく決断できたと考えるのは幻想であろう。人はそこまで正しくはない。情報は常に二次、三次と加工されている。その過程で何が抜け落ちたか読み切れるものではない。直接の情報に触れた所で何を見落としているやら。

後から、ああすれば勝てたのに、こうすれば爆発を防げたのに。科学としての検討には値する。そのプロセスの中にミスはなかったか、前もって準備しておかなければならないものが不足していなかったか。常に検証し刷新する態度は失えない。

どれほど対策を講じても災害は起きる。一番弱い部分が折れる。テロリストかも知れない。例え誰も爆発させようとしなくとも物理学に従えば爆発する。

あの爆発は、色々な手を講じた結果、起きたものだ。あれだけの地震に遭遇し、津波をくらい、事故を起こし、爆発し、それでもまだ冷却する手段が残っていた。姿形は今やボロボロとなったが、機能はまだ失われていない。

既に多くの人が焼野原を知らない世代である。白黒の写真でしか昭和の戦争を知らない世代である。米軍の鮮明なカラー写真の中に戦争を見てきた世代である。この大地震の惨状を見て、初めてあの戦争の焼け跡を経験した気がする。

この地震に特段な意味などない。プレートの端が少しだけ地滑りしたに過ぎない。だが、今まで見なかった景色を見せつけたのは確かで、その光景は、あの日の焼け野原と一直線にある。この光景を見ても思い返せない歴史なら、この先に歴史は必要ない。

今もあの焼野原に立ち戻れるのなら、その大地に立ってみる必要がある。ぽっかりと何かをあそこに置き忘れた。過去の重さを未来と繋ぐ。

もし先の戦争をしなかったらどんな歴史が。原子力発電所を建造しなかったらどんな歴史が。それはSF小説の範囲であるが、その if を想像しない力でどうやって未来と向き合うか。

もう一度戦争して勝つ自信はあるか。戦争への嫌悪感は次も負けるかもしれないという感情が背景かも知れない。戦争に突き進みたいのは、次は勝ちたいという願望の背景かも知れない。

今も我々は先の戦争の負けの理由を知らない。次に戦えばどうなるかを議論する資格はない。勿論、戦ったから負けたのである。戦わなければ負けなかった。その為に非戦、不戦は合理的な帰結。これが、最上の、負けない方程式である。

多くの日本人は中國には負けたと思っていない。我々はアメリカに負けたのであって、それ以外の敗北の記憶はない。だからあの敗戦を考える時にはアメリカが目の前にある。

ならあの広大な中國大陸を支配できなかったのは、我々の落ち度なのか、それとも中國の人たちの奮戦の結果か。我々は足を踏み入れたが、決して勝ってなどいない。

今も戦闘の勝利と戦争の勝利の区別ができないから、もういちど戦争について考える必要がある。我々の優越感のために外国が存在しているのではないのである。

我々はあの戦争をした、それでどうなったか。我々はこの事故を起こした、それでどうなったか。ここまでなら、誰でも問える。

だが、これに続く言葉が見つからない。我々はまだケリをつけていない。どのような所へ導かれようと、納得できる答えがいる。それだけが愚かさから逃れる道のはず。

恐怖は風化する。放射能の恐怖は、我々の絶滅と直結している。我々の背骨の先に永続を希求するものがある。脳の中には増えようとする回路が組み込まれている。ここに起因すれば永続化の希求も生まれる。恐怖と呼んでもよい。

事故であろうが、故意であろうが、トリチウム汚染水の放出では必ず間違いが起きる。規制以上の放射線、核種を含んだ汚染水がそのまま流される。それに気づくまでに何週間もかかるもありえる。隠蔽の告発もあるはずだ。多くの非難と損害賠償を被るだろう。

愚かさ、裏切りがあり、目先の利益を追うものあり、逃げる者あり、責任を取らない組織。謝罪するもの、処罰されるもの、賠償するもの、全員が責任者になれない構造がある。そうやって強大な責任を全員で支えてきた。

生きのびる事、死に対する唯一の武器として、我々は永続性を掲げる。家族を作り、群れを形成し、空間的にも時間的にも永続性で世界を切り抜き、過去を祖先として祀る墓で保存する。

その普遍性として石を刻み、その先に神や仏が生まれ、言語はこれを補完し、伝説、伝承、歴史を残した。

愚かさは、探せば必ず見つかる。なぜなら愚かさは過去にある。未来から見ればどんなものも愚かにできる。未来と過去は愚かさで断絶している。多くの理由の中からの選択次第で決まる。その選んだひとつにより、愚かでも、愚かでもなくなる。

愚かさとは選択である。未来を切り開こうと選択し、過去を振り返っては選択する。選択が異なれば結果も変わる。

過去を学ぶのは未来に生かす為ではない。愚かさを学ぶのは、失敗の後について知っておく為である。愚かさなど学べない。回避もできない。ただ、等しくその後の処し方を得る。それを見つけるために愚かさを知る。そこに侮蔑すべき数多の人間が横たわっていようと。



2023年7月25日火曜日

ミトコンドリア・イブ

共通祖先

生物が卵細胞由来のミトコンドリアを採用したのにも理由があるように思えて、そのおかげでミトコンドリアを辿れば、母系をどこまでも遡れる。

種を超え属を超え科を超え目を超え綱を超え門を超え界の境界まで遡れる。論理的にはヤツメウナギと私の共通祖先は必ずどこかで生きていたはずである。

これは地球の生命がただひとつの個体から始まった場合。42憶年前のこの星で何億何兆の化学反応が、沢山の前生物的な化学反応へと進む、そこから多様な複数の生物的反応が同時多発的に始まったとしたら。

似かよった生物的な駆動が複数個体から始まっていたとしたら。それが融合したり分裂したり消滅したり発生したりを繰り返し、次第に細胞を形成していったとしたら。

最初から複数を始点に始まっているなら必ずしも全ての生物が同一の共通祖先に辿り着けるとは限らない。

生物は進化を続けてきた。その場合に、新しい種の発生は常に唯ひとつの個体から始まったのだろうか。変異した新しい個体が繁殖し、古い型を駆逐し、全てが新しい方に置き換わったのか。自然淘汰はそのメカニズムを強制しないと思われる。

置き換わる場合もあれば、新しい方が滅びる場合もある。分岐してそれぞれが生き残る場合もある。新しい個体も古い個体と交雑するだろうから、必ずしも新しい個体に完全に置き換わるとも限らない。それらの個々の変化はDNAの中に蓄積されてゆく。

DNAの機構を考えるならば、ある特定の変化がただひとつの個体でのみ起きるよりも、多数の個体の中に似たようなDNAの変化が蓄積されて、それが何らかの環境要因によって一斉に発現する方が自然と思われる。

それはコップの水が溢れる寸前にあるのにも似ていて、新しい種に変わる準備を生物は常に進めている。バッファがオーバフローした時に、飽和した時に、ダムが決壊するかのように、春を待っていた種子が一斉に発芽するかのように、変化を開始する。

人類もいつかは次の種へと進化するだろう。我々が絶滅するなら多分ふたつしかない。気候変動で絶滅するか、新しい種に置き換わって絶滅するかだ。

しかし、人間にはそれ以外の道もある。古い社会によって新しい種を排他する未来だ。

発現の多様性

DNA/RNAは生物の設計図の記録媒体である。使用する塩基はウィルスから人間まで共通しており、塩基配列はアミノ酸をコードして、3つの配列、コドンが20種類のアミノ酸と対応する。これを順次読み取って、リボソームがアミノ酸を結合して蛋白質を生産する。

コードの解読に若干の独自性があるにしても、その読み方もセントラルドグマも万物共通である。なぜ同じなのか。共通祖先がひとつだったからか、それとも初期生物には幾通りものやり方があったが、全て同じ仕組みに統一されていったかだろう。

その理由を互いにDNA/RNAを交換できる方が有利だったからと想像してみる。車の運転方法が世界中でほぼひとつなのと似たような理由ではないか。互換性がある事の簡便さ、効率性は淘汰の理由になろう。

設計図の基本的はひとつなのに、多様性と呼ばれる多くの種や個体が生まれた。免疫システムの組み合わせの多彩さはDNAコードの多様さであってDNAシステムの多彩さではない。

多様性の意味するものはコードの多彩さであってシステムの多彩さではない。DNA/RNA以外の機構を採用した生物が生き残れなかったのはどうしてだろう。

最初から誕生しなかったのか。それなら異星人も同じDNA/RNAシステムである可能性が高い。競争によって唯一に極まったのか?なら異星人は我々よりもっと優れた(特定条件下で競争力がある)方式を採用している可能性がある。

自然化学反応系

初期の地球には生物の前段階となる有機物が溢れていたが、そこから生物が発生するには、有機物、蛋白質、核酸、酵素などが生じるだけでは不十分で、数十万の蛋白質の生成する程度なら自然の反応に潤沢な時間を与えても十分に可能と思われる。

しかし現在の生物を見る限り、そこに選択的な蛋白質の利用が見られる。その仕組みには特定の合目的性があるように見えるし、それは協調して作用し反復して生命活動を維持している。

沢山の組み合わせを用いて、ある方向性に向かって恒常性を維持し続けようとする働きは単なる偶然の所作とは思えない。

それらは何十万という組み合わせの中から特定のものを選択している。自然発生の仕組みで組み合わせを作る事は可能であり、自然淘汰の仕組みでふるいにかけ、特定のものを選択する事は可能だ。

初期の地球のスープの中で蛋白質の化学反応が繰り返されていた。その中の幾つかは、今よりずっと単純だったが、現行生物の中で起きている化学反応と極めて類似したものであったろう。

蛋白質が組み合わさり、膜が生まれ、その周囲で化学反応が起き、膜の中に閉じ込められ、内と外の区分が生まれ、周囲からエネルギーが流れ込めば反応が進み、エネルギーが無くなれば反応は停止し、膜が開き、幾つかは停止したまま分解され、幾つかはエネルギーを獲得してまた動き出す。これ全て自然な化学反応の範疇で可能と思われる。

この段階ではまだ自然の化学反応であり、生物的な化学反応ではない。前生物的化学反応とさえ言えまい。生物的な化学反応と呼ぶには、何か特有のパターンがある筈である。

それを獲得した時に生物と呼べる事になる。それを如何に自然から獲得したのか。その遷移はどのような化学反応の連続で出来上がったのだろう。

それらのステップを駆動したのは何であったろう。

ばらばらの時計

何兆個もの箱を用意し其々にばらばらにした時計を入れて何億年か振り続ける。するとどれかひとつくらいは元の時計に組み上がるのではないか。偶然の所作で何なら起きうるか。これは自然由来の反応系に任せた場合の生物発生の寓話である。

振るという行為は確率を重ねる所作であるから、振る回数が時計が組み上がる確率を超えれば可能と言える。問題はそれを成立させる物理数が宇宙の規模に収まるかになる。

サイコロを振って特定の目がでる確率は1/6であろうが、これは6回振れば必ず出る確率ではない。何回振ればほぼ確実に出るかを問えば6より多い事は確かだが、その回数が明確に示せる訳ではない。

実際に時計の部品を箱に入れて振り続ければ、箱の中の時計は数億年後には摩耗して金属粒に戻っているはずだ。そこから更に振って金属粉がひとつのネジに成長し時計になる可能性はあるのか。それが宇宙の年齢の範囲に納まるとは到底思えない。

だから蛋白質がどれほど化学反応を繰り返しても自然に生物が組み上がるとは到底思えない。膜の中で化学変化を起こす程度なら自然発生するが、その膜にカリウム/ナトリウムポンプが偶然に生じる可能性はゼロに近いと思う。

しかし実際には生まれているのだから、その発生は説明可能な筈である。それらは幾つもの段階を踏んで可能なのだ。まず、ポンプを構成する蛋白質が十分に存在している事が前提としてある。

その上で、それらが適切な順序で適切な位置にあればひとつの機能を発揮するだろう。組み立て椅子でさえ出鱈目な組み合わせでは完成は覚束ない。

蛋白質の反応が何億回繰り返された所でそれは単なる自然な化学反応で、生物的活動への飛躍は起きない。

最初に反応系が生物的反応となるためには、ただの反応では不足であり生物的エンジンと呼ぶべき機構を獲得する必要がある。

その機構はどのようなものだろうか。A,B,Cという反応がABCの順序で起きる事、それが一過性ではなく繰り返し起きる事、それは必要な時に起きる事。更にはその反応系は何らかの機構によって刷新されてゆける事。

これらは反応が伝達できる仕組みの存在を示す。これは情報を伝える事と等しい。更にはこれらの反応は円環し最初に戻る仕組みを備えている。

コードとして利用できる特定の並び順があり、それらには鍵と鍵穴の関係のものが存在し、その組み合わせから次の反応が導かれる。

核酸のコード化(コドン)は単なる並び順であるから自然発生できる。これを読み取る側の発生もたぶん自然発生可能に思える。その上で、読み取ったものが、他の反応系の起点となる事も自然発生可能だろう。

前生物的化学反応

原子や分子の化学反応、その源である電子の振る舞い、量子力学の仕組みの中に、生物が生まれようとするパラメータ潜んでいて、特定の方向に化学反応が進むような定数があるに違いない。これは一種の人間原理だろう。

地球誕生時の地表は無機物で溢れていた。そこに千年の雨が降り、万年の冷却があり、有機化合物が存在可能となる。有機物が化学反応してアミノ酸や核酸を生む。当時の蛋白質を構成していたものが今と同じ20種類のアミノ酸のみとは限らない。

蛋白質は運動する。電子、原子、分子、無機物の化学結合や、濃度、浸透圧、電荷、立体構造などによって、移動、回転、変形、伸長、曲げ伸ばし、伝達、連鎖、結合、分離が可能で、これによって、モーターや遊泳などの機械的部品が実現する。

これらの運動をある側面から観察すれば、それらは他へ作用するので機能と呼べる。前生物的な化学反応であるためには、それは機能として発揮される必要がある。そのためには偶発的な反応であってはならない。

それらが、選択的に起きる事、再現できる事が必要で、それを可能とするためには、蛋白質の反応の前にまずコード化されている必要がある。

蛋白質の運動が組み合わさっても、単なる化学反応の繰り返しに過ぎない。それは単に自然の偶発的な現象である。何らかの条件が揃えば反応し、条件を失えば停止する。オクロの天然原子炉みたいなものである。

どうやって特定の反応が特定の条件の時に起こせるのか。色々な方法が試されたとは思うが、今の我々はコード化以外を発想できない。生物の中にはそれしか残っていないから。

Boidsやセルラオートマトンのようにごく簡単なルールに従うだけで丸で意志を持つかのような振る舞いを見せる場合がある。これは意志の不要性の証拠となり、我々の観察が以下に相手の中に簡単に意志と目的を見つけるか脳の癖を如実する。ルールさえあれば生物発生まで自動的に進む可能性がある。

そのルールによってコードが最初に生まれるとする。蛋白質の反応系が完成する前にまずコード化の仕組みが発生すると仮説する。一度、コード化の仕組みが実現されたならば、コードを出鱈目に変えてもうまく動くコード動かないコードを総当たり的に探す事ができる。コードの獲得によって自分自身を改変する仕組みも獲得した事になる。

自然淘汰は完成した仕組みをテストする。形態を新しく作り出す動機ではない。新しく作り出す機構はコード化によって担う。変わる能力はコード化の中に最初から組み込まれている。よってコード化が前生物的化学反応の特徴と見做しても良いと思える。

コード化された化学反応は、それを放置しておけば自然に進化する。改変して試す仕組みが備わっており、それをテストするための自然淘汰がある。それを長時間観察すれば環境からの一定の圧力によって特定の指向性があるように見えるだろう。

よって、コード化された生物に自発的、恣意的、計画的、合目的性があるように見えるのは自然の範疇と考えられる。自然淘汰で選択されていくものが、合目的性をもっているように見えるのは自然だろう。効率化を図っているように見えるのも自然淘汰で説明できる。

ではコード化はどのように獲得されたのだろうか。それはどうすれば自然発生するのか。果たしてコード化の最初の反応はどのようなものだったのだろうか。

初期の化学反応ではコードの持ち方もコードそのものも沢山の方式が試されたであろう。なぜたったひとつが生き残ったのか。

失われたものたち

当時の主流な反応は既に失われているだろうし、その当時に使われていた蛋白質も失われているだろう。最も古い原核生物たちでさえ、前生物的反応と比べれば遥かに複雑で完成されている。

DNA/RNAのジャンクコードと呼ばれる目的不明なコードの中にはもしかしたら相当に古い記録が残っているかも知れない。最初期の生物が必要としていた前生物的状態から受け継いだ蛋白質のコードが記録されていても不思議はない。

最初のC言語のコンパイラはアセンブラで記述された。そしてその後のコンパイラはC言語で記述されるようになる。それと同じ事が起きても不思議はない。最初期に存在しなければならなかったものが、その次のステップでは失われるという事は十分に考えられる。

既に失われた初期の機構は、現在とは全く違った仕組みだったろう。そう考えると最初期の前生命的化学反応のコードを獲得するまので過程は遥か昔に失われていてその痕跡を得る事は不可能と考える方が妥当そうだ。だから想像するしかない。

コピーとスイッチ

Aと対をなすA'がある。AとA'が結合の関係(AT, GCみたいな)なら、AからA'が選択され、このA'に対して別のAを割り当てれば選択的にAのみを集める事ができる。

こうして同種のものを見つけ出せるなら、それを組み合わせればある並び順のコピーを作成する事もできるそうだ。あとはこれらの反応を任意の条件で起こせばよく、例えば水素イオンの濃度などで反応が起きるなら、それをスイッチとして活用すればよい。

コード化とは、ある順番の保持と、繰り返し使う事を実現する。ある順番の保持とは、具体的には特定の材料を集め、それを特定の順番に並べる事になる。

それを繰り返し作れるなら、これがコピー能力の獲得になる。AからA'、A'からCというように選択的に部品を集め、それを順番通りに並べ、結合する。あとはこの反応が起きる事をスイッチで切り変えれる仕組みが備わればよい。

これをリボソームが誕生するまで何億年も繰り返す。それは自然の化学反応と自然淘汰によって十分に実現可能と思われる。

コードを使えばコピーする対象を自分自身に置き換えれば繁殖となる。これはそう難しいパラダイムシフトとも思えない。コード化の中から自分自身のコピーが作れるようになった段階を生命の始まりと見ても悪そうには見えない。

人間の意識

人間がモノづくりをする時には、そこに意識がある。様々な知識、法則を総動員して「こうすればこうなる」というメカニズムに基づき「だからこうすればいい」という意図を以って設計する。これがエンジニアリングの様式である。

石器であれ車であれソフトウェアであれ、原則として人間が意識して特定の目的に向かい、それを満たす機能を抽出し、構造を組み合わせて、ひとつの機構を完成させる。

創造は果たして人間の精神にだけ可能なものであろうか。しかし、生物進化は人間の精神が加わっていないにも係わらずそれを凌駕するような創造性を発揮している。

進化は意識したり願ったりする事で変化する機構ではない。なのに多様な生物が誕生している。それを突然変異だけで説明できるだろうか。ましてや人間は細胞の中で起きているやり取りさえ知らない。

情報伝達があるなら、そこに意識様としたものが発生しても不思議はない。それは簡単に言えば、多数決による選択機構だからだ。

進化とは偶発的な変化を淘汰によって結論する仕組みである。そのために、DNA/RNAのコードは変わりやすいものとなっている。そこに意識が入り込む機能はない。

薬剤耐性菌の発生もRNAの変わり易さに起因しているし、天然痘ウイルスを絶滅させられたのもDNAウィルスが変異しにくい性質があったからだ。

細菌やウィルスが薬剤に晒されたからと言って、特定の薬剤を解析し、その対策を考えだし、自らDNAを改変するアプローチを持っているとは信じない。

しかし、生存に不利な状況が起きた場合に自らDNA/RNAを改変しやすくする仕組みを備えていても何ら不思議はない。従来よりも多数の突然変異が起きるようにする機構ならありうる。だがそのような大変に恣意的と思える機構を準備したのは意識以外の何によって可能かという疑問は解消できまい。

意識の源泉

人間は意識によって世界を変えられると信じている。意識しなければ何かを変えてゆく事はできそうにないと考えている。意識だけが世界を識別できると信じているからだ。

だが、我々は自分の中から生まれる合目的性や論理の一貫性、こうした方がいいよと考えだの思いが湧き出る理由を知らない。どうしてそのような結論に至ったかを意識は説明できない。ただ意識にあがってきたものをすくい取ってそれを自分の考えと見做している。

意識は結論に対して後付けする事でしか理由を説明できない。それを我々は理性と呼んでいる。

なぜならその答えはニューラルネットワークという大量の細胞が参加する投票システムで得られたものだからだ。細胞のひとつひとつを見る事はできない。そこを通って流れてゆく電気信号を知る事もできない。

意識は出力されたものを流してもらっているに過ぎない。それを言語化して記憶できる形で獲得しているに過ぎない。

ならば細胞の中に(または近辺の細胞同士で)小規模だがニューラルネットワーク状の仕組みを備え、細胞たちが自ら結論を出すような意識状の働きを持っている事は可能だ。

情報の伝達が仕組みになっている。次から次へと渡す仕組みがある。受け渡すから情報は入力と出力になる。この出力を判断として扱えばよい。大量の情報を受け渡す過程で集計してゆく。

太古の昔、多くの単細胞生物にとって、周囲の物質を取り込む事がエネルギー獲得であった。その周囲の物質を、それが無機質であれ有機質であれ自分以外の細胞であれ、区別はなかったと思う。そのため、周囲の細胞を自分の中に取り込む事は捕食も含めて頻繁に起きていたであろう。

取り込まれた側の細胞にしても、自分の外の世界に区別はない。そこが生存できるかどうかが問題であって、生存可能なら、周囲がどこであっても、他の生物の細胞内あろうが、構いはしないであろう。

地球に誕生した生物の中でミトコンドリアは最も成功した部類のDNAだ。もしこれを寄生虫と呼ぶなら、もっとも繁栄した寄生虫である。ミトコンドリアはこの星で最も多いDNAだろう。

腸内にいる細菌群を全て殺したら人間は命を保てない。皮膚にいる雑多な細菌や寄生虫やらを全部殺したら健康を損なう。体の中にも、外にも目に見えぬ小さな命が溢れている。それが細胞の中にまでも。

我々が進化の過程で微小な生物を視覚で捉える必要はないとした。だがそれは無視とは違う。顕微鏡を発明する何億年も前からそれらは免疫が担っていた。

2023年6月17日土曜日

錯聴

はじめに

聴力には、物理学としての音波に対して、その振動を捉える耳の器官、それを脳の回路へと伝達する神経網、聴力細胞からのシグナルを音の認識に変換する細胞群、それが意識に通知される仕組みとして模式化できる。

聴力の良さと言う場合、それぞれの段階毎の検証をしなければ良さの識別が出来ない。耳が良いという話もどの部分がどのように優れているかと言う話になる。其々に個体差がある。更には成長や老化、環境要因、気温、湿度、高度なども考慮に入れれば一概な話ではない。

耳の可聴域には物理学的な制約がある。空気の振動を均一に鼓膜で捉え、それを耳小骨の振動に変換する。空気の振動から骨の振動への変換で、この振動を蝸牛が受け取り、xyzの三次元方向で神経の電気信号に変換する。

つまり、人間が三次元で生きているのは、蝸牛の構造に基づくと言って良いと思われる。

いずれにしろ、耳にも構造上の限界はあるので、聴力の可聴域は蝸牛までの構造に依存する。だからモスキート音が聞こえなくなったり、老化で蝸牛の神経がすり減って難聴になる。

しかし、振動を受けた脳は、音の変化から未来の変化を予測していると思う。予測するという事は現在の遷移を理想的な音の変化に当てはめているという事だ。要するに音の予測には方程式を使っている。

錯視

視力では、視神経から入ってきた情報を意識に上げる前に前処理を行っている。これが錯視の主たる原因だが、そのような誤報が生じても前処理をしなければならないのは、我々の脳の機構では、リアルタイムでは処理しきれないからだ。

このような補正が視覚では常に行われている。例えば目という器官は構造的に一度にひとつの場所にしかピントを合わせられない筈なのに、普通の生活で全景のピントが合っているように感じられる。

これはきめ細かく全景を捉えピントの合った場所を揺らす固視微動などの眼球運動を行って、複数の画像からひとつの映像世界を脳は再構築しているからである。

光は生物にとっては無限の速度、つまり0秒で到達、と前提して良いと思うが、光の速度と比例する係数が登場しても驚きはしない。生物反応の中には量子力学的現象を積極的に使っている場所だってあると思う。

とは言うものの、何が量子力学的現象かはよく分からない。先ずは原子や分子の振る舞いとしての生物を思い描く。この時、それより小さな粒子やその現象を積極的に活用しているだろうかという話になる。

もちろん、イオンや電気は使っており、化学的現象は基本的に量子力学に基づくのだから、生物は元来が量子力学的現象、特に電子を最大限に活用した反応系のはずだ。

すると、電磁気力、重力、強い力、弱い力のうち、重力と電磁気力は含まないとして、陽子、電子以外の素粒子を使用する現象、位置と運動の不確定性、フェルミ粒子の排他律、トンネル効果、軌道の基底と励起、核分裂、核融合、量子もつれなどを積極的に利用したメカニズムは持っているのだろうかという興味になる。

聴覚

同様に聴覚の信号も前後の変化やそれと密接であろう周囲の信号から補正していると考える。次の音を予測したり聞こえてない部分を補ったりはすると思う。

その働きは耳の可聴域を超えた音も生み出すだろう。すると耳の能力を超えた音を生み出し意識に届けているので、耳では聞こえない筈の高音や低音が聞こえたとしても不思議はない。

というより耳が捉えられない可聴域の境目でぷっつりと音が消えるのは不自然なはずだから、聞こえなくなるにしても、相当の補完で自然に消えるようにしているのではないか。

視覚と比べるとたぶん音の処理の方が負担は少ない。フーリエ変換と同じで波の分解とか合成もしていると思うし、音階の認識も物理学的な倍音という構造だけではなく、ある周波数帯に強く反応する細胞の分布に起因するだろうし、倍音がその細胞を特に叩きやすい性質も係わるだろう。蝸牛の中でも共鳴は発生しうる。

そしてこういう補正をする以上は、錯視ならぬ錯聴は起きる。

ただ視覚と比べると音の錯覚を生み出す事は難しい気はする。ある特別な状況を意識して生み出すにしても絵画と音楽では特殊性が異なる。絵画は不自然な人工物である(進化の歴史上の大部分で生まれていなかったものである)。音楽は楽器の音をどう変えようと自然物由来になる(進化の歴史上の大部分で接してきたものである)。

絵画で起きた錯視は一度発見すれば比較的簡単に何度も再現できる。音波の場合は特定の組み合わせに気付いたとしても、それを意識して何度も再生させなければならないし、比較対象と比べるにも何度も聞き返す必要があり、流れては消えてゆく。錯聴が起きていても気付きにくい性質なのである。

それでも耳の可聴域を超える境目の音波で錯聴は起きると思う。起きるはずと思う。どういう体験かは想像もできない。

と考えていたら先行する巨人たちの足跡がこんなにあったわけである。

Illusion Forum イリュージョンフォーラム 錯聴について | NTT Communication Science Laboratories

2023年5月27日土曜日

日本国憲法  前文 III

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。 


短くすると

日本国民は、代表者を通じて行動し、主権が国民に存することを宣言し、人類普遍の原理に反する憲法、法令を排除する。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげて崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。 

違和感

「日本国民は」「代表者を通じて行動」の意味が良く分からない。この一文の意図が。

「諸国との協和による成果」「自由の恵沢の確保」「戦争を起こさない決意」「主権国民の宣言」「憲法を確定」とあり、「通じて行動」によって、これらへの作用を実現してゆくと解釈する。

We, the Japanese people, acting through our duly elected representatives in the National Diet,

throughは議会を通過させて。このニュアンスなら、日本国民は国会議員を選び議会によって国家を運営してゆくと解釈できる。これは立法に基づいて行動するの意に他ならない。

しかし日本語で「通じて行動」という場合、「議会を通して」以外の解釈が可能であるし、その方が自然だと思う。

この大前提として近代国家、議会への考え方が、日本と西洋では異なる点がある。西洋と東洋の統治思想には根底で違いがある。この微妙さが様々な局面で顔を出してくる。

「お上」という政体

政府、政権、役所を「お上」と呼ぶ体質はこの国の日常にある。上=統治者という考え方は、よくアジアの統治を表現している。無意識でも上=神というニュアンスではないだろう。この「上」に最も近しいのは鼓腹撃壌と思われる。

日が出れば仕事をし、日が沈めば就寝する。
大地を掘れば水がある、大地を耕せば食が得られる。
帝の治世と言うが自分と何の関係があるだろうか。

もちろん、この老人は尭が近くに居る事を知った上で謡ったのである。統治の理想を帝のみならず民にまで浸透していた証拠であろう。自然の法則と同じように何もかもがうまく運んでいる。そのような状況を統治の理想とした。

誰も重力の法則を知らずとも生きて行けるのと同じように、統治も斯くありたい。これがアジアの理想であり、アジアの自然が生み出した理想だと思う。砂漠で生まれた理想とは異なっても不思議はない。

自然発生的にどの地域でも早い段階で王が登場し階級が生まれ法が浸透した。これに例外はないと思われる。これは人間の生物的な部分に深く根差した流れと考えられる。

東洋と西洋は異なる統治の理念を異なる歴史の中で磨き上げてきた。その背景には自然の脅威、農耕牧畜という生産、科学数学哲学の隆盛、教育啓蒙の流布、宗教の規範、諸侯による軍の動員、それらを纏めて言えば経済と世界観で培った。

長く統治の理想は理想的な人間に託す事をベーシックとした。儒教では君子という概念を掲げその中心に徳を据えた。道徳による統治は恐らく最も早期に確立した概念と思われる。故に、この考え方は今も受け入れやすい。民主主義であっても投票行動の基準から徳を取り除く事は難しい。

孔子がどのような眼差しでもって理想を掲げたかを想像してみる。それが理想に過ぎない事も分かり切っていた筈だし、それが到達困難な事も知っていた筈である。それでも他に方法があるだろうかと問わなかったとも思えない。その結果としてそれでもないという結論に至った。

孔子は民主主義を知らなかったと思うが、君子の徳だけで治世できるとは考えていなかった筈である。民の徳だけで世の中が治まるとも考えていなかった筈だ。その程度で辿り着ける理想ならとっくに実現しているから。

鼓腹撃壌を理想とするアジアでは為政者が何をしているかに無関心でいい。気にしない状況が理想である。必要ない限り好き勝手にしてくれて構わない。よって徳とは信用の問題になる。

「お上」と呼ぶ背景には、何か困ったり用事が出来た時だけに訪れる状況がある。普段は全く接点などいらない。必要な時にだけ存在すればいいというニュアンスがある。

通じて行動する

「通じて行動する」なら、代表者を差し置いて直接的に行動する事は許されない。一度託した以上は代表者に全ての権限を譲渡すべきだ。

のみならず、代表者からの要求には従う「義務」が発生する。選挙結果を受け入れる以上はそうなる。全員で代表者を選んだのだから。みんなで決めた事だから。

権限を譲渡する事で、代表者以外の行動は禁止される。代表者からの要求には従う義務がある。それを自然と感じる部分がある。

では、不満がある場合にはどのようにすればいいのだろうか。それでも従うしかないのだろうか。ナチス政権下の支配地域で、プーチンの支配するロシアで。

この段階でも個人の行動には「許可」が必要であり、我々に許される行動は代表者への「お願い」しかない。その取捨選択は代表者の側にある。お願いする側にはない。

その結果として、権力の委託は簡単に移譲となり戻ってこなくなる。禁止と強制が全員に課せられ、それへの反論も不満も取り締まられる様になる。お願いは、金銭や体を渡す意味になる。

権力は腐敗する。洋の東西に関係なく。統治の理想はそこから如何に脱却できるかという機構論として必要で、不思議な事だが、ナチスドイツでさえ自分たちの政策の正当性を訴えていた。その根拠は極めて怪しい優生思想だが、何を信じていたかが重要ではなく、自分たちに正当性があると信じなければナチスでさえも行動できなかった、その事を注意する。

優生思想の根底には進化論がある。この優れた科学を勝手な思い込みで自由に解釈した人々がいる。それに飛びつきたくなる人間の心理がそこにはあった。自分たちの優秀さに根拠が欲しい。それは民族という単位と結びつく。何故なら民主主義の精神は独立を要求するから。民族単位の民主主義が世界に広がっている。時代の世界観が時代の統治機構を構築する。

西洋の考え方

哲人、君子、理想的人間、超人という個人に深く依存する統治で、統治者のみならず、全ての人が徳を持つならば理想的な自動機械のように上手く振る舞うだろうか。

全体主義ではあるまいし全ての人が同じ考えならそれも可能だろうが、人に違いがある以上、その最大公約数であっても、最小公倍数であっても、必ず不一致がある。

全員の希望を満たす事は難しい。全てを満足させる事は叶わない。それでも決める必要がある。

決めるとは切り捨てるである。だから、不満は消えない。よくて納得してもらう迄。不満に対してどういう行動が可能か。

まず従う。不満は押し殺す。次はお願いする。金銭などで交渉する。この二つまでは特に思想的な背景を必要としない。つまり暴力的な統治システムでも成立する。

近代国家ではこのような考え方はしない。自然状態という仮説から始め、統治の正当性から神を除外した。恐らく博物学という当時の最先端の自然科学が彼/彼女らにこの世界像を与えたのである。

神が居なくても人間とはどういう存在かを考える事ができた。人間を生物として自然の中に配置する世界観で、人間はどういう存在かを考えられるようになった。その結果として基本的人権というアイデアを見つけた。

神が存在しないエデンで、アダムとエバはどのような生活をしただろうか。ヘビはヒトに対してどのような態度をとったであろうか。彼らには自由がある。どこへ行く事も許されている。何故ならそこには禁止がない。

野生状態では人間と言えども食物連鎖の大円環の一部を構成する。その結果として、食うか食われるかという生存競争に参加せざるえない。そういう世界では生き残る事が最優先であるから、力も運もその為に使われる、その上で生物は種を残すための集団を形成する。

そのような野生状態から脱した人間の集団は、自然と呼ばれる謂わば人工的な集団を形成する。近代国家の理想もこの延長線上にある。世界を席捲する民主主義の理念もここに含まれる。

自由と平等から始まった人間観が、どうやって社会と統治機構を持つのか。その正当性は何か。社会契約という考えは、神と人間の間で結ぶ契約がベースになって、聖書の教えを拡張し、統治者と市民の間の契約とした。

だから近代国家である民主主義ではお願いはしない筈である。それは正当な契約に基づく「要求」だからだ。契約に違反したのなら無効。投票によって代表者を選ぶ事は契約を結ぶ事に等しい。

統治の理念

アジアでは社会契約に基づく国家形成が起きなかった、中國、朝鮮、日本ともに、近代国家の基本部分はヨーロッパから輸入した。その上に独自の統治理念を構築した。

どうしても統治と契約の考えが結びつかない所がある。約束は命を賭けても守るという道徳はあっても、契約は何があっても守るという考えが余り自然な気はしない。契約破棄は常に自由であるとさえ思っている節がある。その手順まで含めて契約するのは過剰な気もする。

如何なる時代も理想となる統治はあるが、それを実現し維持する事は非常に難しい。全ての時代の人々が知っている。時に気象が人々を略奪に向かわせ、蓄積された富が放出される。熱エネルギーのエントロピーが増大するのと類似した力学的運動がこの星のあらゆる場所に人類を辿り着かせた。

バベルの塔は、恐らく有史以前に人類がアフリカから出発した時の、世界中に散らばった過去を意味するのだろう。それだけの散らばりを可能としたのに、一万年程前には展開の記憶が失われ、交流は断たれ、長い停滞の時代に入った。そこには土着するという選択があったのだろう。乃ち農耕が移動の記録を上書きした。

帆船の時代にヨーロッパ人が再会の出発を始めた時にそれは不幸となった。神に乱されたのは言葉だけではなかった。

儒教と民主主義

この国の民主主義の中にも日本的なものがある。そこには強く儒教によって培われた背景が存在すると思われる。憲法に違和感を感じたので探してみたら、その根が儒教と遭遇した。

「通じて行動」の先に代表者の存在があり、それが直接的ではないという事、間接的である事は単純に間接民主制と理解する事ではない。託すは全権委任の意味であり、徳を信頼したの意味になる。

託された者には取捨選択の権限がある。権力には根拠が必要で、それはどの時代も変わらない。神が与えた、天が選んだ、民意の代表、いずれにしろ全てを満足させる道はない。手のひらから漏れて落ちて救えない者が居る。だから西洋の民主主義は神を必要とするのか。

憲法前文

「そもそも国政は」「信託」と述べるのは、その前提としてこれが日本では常識でない可能性を示す。だから「人類普遍の原理」と高らかに詠う必要があった。常識ではないから書いておく必要がある。

日本国憲法の精神には、どうも日本人という部分を地球人と読む方が相応しいと感じる箇所がある。もしかしたらこの憲法は日本人である前に地球人である事の自覚を求めているのかも知れない。その点がこの憲法の特色かも知れない。

故に「日本国民は」という言葉は、地球人という自覚を持ちながらも、我々は他国民との共存を目指すという、ある点での現状での譲歩を要求する。

「国際社会」と述べる背景には、統一政府が存在していない事を暗示する。我々地球人が単一の国家をこの星の上に築くにはまだ何かが足りない。

だから「平和のうちに生存する権利」と記述する時、これを享受すべきものとは書かなかった。これは全ての人がそうであって欲しいという願望である。それを権利とする事で、それを奪う者たちの存在を否定できるようにした。

そのような者たちに対してこの憲法は厳然と権利であると主張する。権利である以上、それを侵す者たちの武力の前でも、無条件で否定できるように。

だから「生存」としか書けない。平等でも共存でもない。ただ命は奪えないと訴える。

「各国の責務であると」「信ずる」とは、この権利を侵害する存在は否定できないという意味で、必ず将来のどこかでいずれかの国が、日本も含む、登場する事を想定している。其れに対して、我々は、「全力をあげて」「達成することを誓ふ」のである。

「誓ふ」とある以上、方法論はない。憲法は実現方法は提示しない。よって誓ったからと言って達成できるとは限らない。

これは理念であるから「これに反する一切の憲法」を「排除する」と強く書くに留めたのであり、そう書いた以上、それに反する勢力の存在が国の内外を問わず跋扈する事は明らかであると語ったのである。

起草者たちは、この一文が必要であると考えたという事である。

2023年5月4日木曜日

シン・仮面ライダー - 庵野秀明

上映

作品に興じるとはどういう行為だろうか。映画館まで出向いて今までにない何かと出会う。そんな作品を生み出す人がいる。

キョーダイン、マジンガーZ、アクマイザー3、デビルマン、火の鳥、ザンボット3、クイーンエメラルダス、地球へ、イデオン、ミクロイドS、ブラックジャック、様々な作品の地層がある。

先人から受け取ったものを誰かに渡す。バトンを渡すというより花粉を飛ばすという方が比喩には相応しい気もする。意欲に溢れた作品が今日もどこかで再生されこの繰り返しの尽きる日はない。未完成品としての作品が人の間に浮遊する。視聴者が見なければ完成に近づかない。しかしそれが完成でもない。

面白さとは何か。映像が感覚を励起する。最初は単純な生体反応であるから、暴力シーンを見ればアドレナリンを悲しければプロラクチンを放出する。これは純粋な原初的な反射的な生物的な反応に過ぎない。その反応を起こす事で映画は脳の回路を巡る事が出来る。

これは映画である、架空である、注意する必要はない、というのはその後の脳のタグ付けである。否定する事が、映画と現実を区別し、全体を覆うバイアスとなる。その上に音という連続刺激が加わり複雑な記憶として映画の上演中、蓄積され続ける。

現実ではないのに何かが迫ってくる。映像が持つリアリティを何と表すべきか。脳の中に刷り込まれ続ける描写が、過去の似た体験を探す。今まで知らなかった感情か、これはどこかで知っている体験か。映像を処理し続け脳は注釈付きの短期記録を作り続ける。

暗がりの中でバイクの音が広がる。血飛沫で打ち付けられる最初の五分でこれこれという感触に浸る。快哉。この先の展開に期待が膨らむ。どんな展開が続くのか。

ショッカーとの対決、国家政府との軋轢、これだけの力を持つ等身大のヒーローである。作家の思惑とは関係ない所で、自分勝手な妄想が膨らむ。どんな戦いが待つか、この先は作者の手中である。本編と自分の中で生まれる様々がもつれあうはずだ。

石ノ森章太郎

石ノ森章太郎の作品には人間でない(なくなった)主人公たちの苦悩がある。人間を超える力の手の入れ方には幾つ経路がある。その中で主人公たちが悩む。人間でない存在は「持たない者」として描かれる。持つ者は悩まない。人間でない者が主人公となり人間ではない者たちと戦う。その姿はまるでキリストが原罪を抱えているかの様でもある。

人間の力を遥かに超えた力を持つ超人。そういう特殊な能力がなければ主人公にはなれないのか。運命に抗うには高い能力が求められるのか。ならば特殊な力を持たない我々はどうすればいいのか。

社会が人に能力を求めている。その対価として雇用がある。それが資本主義の原則である。キャピタリズムが求めるのは勤労である。能力がある事はその前提条件である。誰もこの流れから逃れてはいない。全ての人がこの圧力の中で泳いでいる。

だから存在価値がないと殺された人たちがいる。そんなもの家族には受け入れ難い。人間の存在意義は誰が決めるのか?他人に決められるのか、家族に決められるのか、人間に決められるのか、自然は淘汰する、決めてはいない。社会が人を選別し続けている。自然界ではこれを適者生存と呼んだ。

この星に誕生する生命はどれも特殊だ。他のどの星系にも存在しない。二兆年の宇宙の寿命の中で今この時間にしか存在しない。宇宙の全ての原子の組み合わせの中で、この瞬間のこの組み合わせは恐らくただの一度しか来ない。素粒子の総数が恐らく統計的にそれを裏付ける。

この宇宙の時間の流れの中で、どれひとつを取っても二度と同じ時間が訪れる事はないだろう。輪廻転生を訴えた仏陀でさえ恐らくそう考えていた筈である。宇宙の寿命が尽きようともこの100年の時間が失われる事はない。原子がそれを記憶していたら嬉しいのだけれど。

個々のミクロを集めマクロ視点で見れば標準偏差の平凡を示す。ガウスの能力は誰もが持っているわけではない。同時代にその才に嫉妬し苦しんだ者は幾らでもいる。サリエリこそが我々の手本とする生き方だ。とサリエリの能もない人が言う。能力は数値化され順序よく並べられ階層を形成する。

だから社会には疎外されたと感じる者が存在する。それは避けえない。特別と言われようが平凡といわれようが避けえない。その孤独は能力のせいではない。家族や友人からも得られない疎外感の中で今日も風が吹く。さて明日をどうしよう。

等身大の考察

等身大ヒーローが巨大ロボットと違う点はどこか。巨大ロボットはあくまで人間が主人公でいられる。幾つもの例外があるとはいえこの構造は同じである。なぜならロボットを失うと非力で平凡な人間に戻されるからである。

巨大である事はそれだけで問題を解決する。巨大な破壊力を作中に持ち込めば何事も容易に解決できる。その前で人々は立ち向かう術を持たず、逃げ惑うしかない。

そういうシチュエーションに石ノ森章太郎はリアリティを感じなかったのかも知れない。それを拒絶したリアリズムはあくまで人間と人間のかかり合いの中で動かしたかったという気がする。

戦いは人間同士が行うものである。そこにヒーローが参加する。彼/彼女らに人間の運命を変える程の万能感はない。悲観的な結末が多いのも等身大ヒーローたちが問題を解決する存在ではないという宣言だと思う。ヒーローひとりふたりで解決できる問題ならとっくに人間が解決している。

子供の頃

自分が子供の頃に出会った作品は特別な存在で、当時のリアリティの基準は違うから、その時にしか得られなかった記憶となっている。だから生涯の大切な作品である。もし出会うのが今だったらきっと見向きもしなかったに違いない。

特撮に物理学は欠かせない。リアリティは物理学が支えるからだ。子供なら100mでも1kmでも好きな高さまでジャンプするがいい。しかしニュートンの法則を知る頃には現実の軍隊について知るようになる。

ライダーキックの破壊力はジャンプして得られる自由落下にある。その破壊力は100kg程度の質量が得る重力加速度に等しい。そこにプラスアルファの何かを加えた所で桁数はたかが1か2の増加である。恐らくそれらを超える破壊力を人類は既に手にしている。計算はしていないが、戦場を走る戦車が撃ちだす砲弾の仕事量は恐らく仮面ライダーの自由落下より遥かに大きいと思われる。

米軍より劣る世界では特撮は成立しない。シン・ゴジラが米軍を相手に演じた戦闘はその限界点に近いであろう。あれ以上になるとリアリティが失われる。だからシン・ウルトラマンでは米軍を登場させなかった。宇宙空間での人類の技術はまだ特撮には馴染まない。それでも両者に十分な説得力があったのは主役が巨大だったからだと思う。

等身大は工学の範囲を超えられない。そこで与えられるリアリティは現実の延長線上に非常に近い。だから仮面ライダーは実在の世界の何も凌駕しない。だかがは少し凄い程度である。ウクライナのビルを破壊するロシアのミサイルより強力ではないし、戦場を走り回る医者たちの献身よりも何かを成しているとも言えない。

特撮に現実のリアリティを持ち込むのは難しい。だから作品は最初に宣言する。リアリティの基準を示す。観客も共犯者だから喜んでその約束事を受領する。そこからは互いのご都合主義で応答しあう。

様々なシーンの中に潜む矛盾も戦う理由も世界線も乗り越えて作品の行き先を見ている。どんなシーンがこの先に用意されているか。それが映画である。

あまりにも庵野的な

庵野秀明の作品ではアスカ的なものとシンジ的なものが交差する。シンゴジラ、ウルトラマンはアスカ的な作品であろう。仮面ライダーはシンジ的な作品であろう。

アスカ的な作品は軽快さと颯爽さが立ち止まる事なく進行する。そこでは戦う理由は必要ない。目の前で起きている事に対応する。自然災害に悩む理由がない。映画は理由も意味も提示しないまま進行してよい。逃げる途中で立ち止まり自問していては生き残れない。疑問はいらない。ただ先へと進め。この感情がこの戦いが絶対に正しいと訴える。

シンジ的な作品は、戦いと戦いの間で立ち止まる。そして自問する。戦闘と葛藤の繰り返しの中で答えが見つからない。まるでそれが作品の主題であるかのように。作者は答えを拒絶する。この謎は解かれた試しがない。

シンジはどうやって戦いに参加するのか。戦いたくないなら拒絶すれば十分である。なぜ戦いに参加する破目になるのか。

レイがいたから。シンジはレイと出会ったから戦いに参加した。そう決意した。しかし、レイは戦いを始めた理由ではあっても、決して戦いの理由ではない。

シンジの戦いはレイによって起動したが、駆動を続ける理由ではない。アスカも戦いの理由は知らない。互いが主人公として戦いの渦中に放り込まれ、ひとりは戦いの理由を探し、ひとりは戦いに理由を求めない。

最初にアスカ的なものが戦いを始め、そこにシンジ的なものが投入される。シンジはレイ的なものと出会い戦いへと参加し、戦いを巡り、どこかを目指したいと感じる。

戦いの触媒であったはずのレイが、初期は謎として存在していたレイが、謎そのものとなり、次第に卵的な存在となり無垢無色の透明な所から孵化しようとしてやがて消えてゆく。そこにカヲル的なものが新しい触媒として投入され反応を更に進めてゆく。

正義の彼岸

人類補完計画もSHOCKER(Sustainable Happiness Organization with Computational Knowledge Embedded Remodeling)も全く同じコンセプトから生まれている。という事は、これは作者にとっての重要な命題なのだろう。捉えられて逃れられない運命のようである。

幸福を追求する。これを否定する思想はない。幸福の追求はアメリカ憲法にも記載された基本的人権である。だから幸福からは誰一人として取りこぼさない。全ての人を幸せにする事は正義である。

幸福から只のひとりも置いてきぼりにしない。誰も疎外などしない。全ての人が幸せになるべきだ。

現状では生ぬるい、もっと積極的に全ての人を幸福にすべきだ。これはとても菩薩的な考え方であろう。全ての人が救われるまでに私はここに残る。悟りよりも立ち止まる事を願う。

作中の組織はいつもこの思想を強制に施行する。何故かは知らないが全ての人を強制的に支配しようとする。全体主義的、強権的。人々を救うためには嫌でも連れてゆくしかないのか。拒否権はない。自由も認めない。それはもう強迫観念ではないのか。

そういう幸福の追求の仕方が作中に登場する。何故だろうか。ここを無自覚とは思えない。するとこの敵の在り方に本気でリアリティを感じている事になる。この世界をそう分析している事になる。

すると空気の強制力とか、この国に蔓延する閉塞感や疎外感、タモリが例えた新しい戦前という匂い、鋭敏な感覚の前ではショッカーの存在は決して架空なものではなく、この国のあちこちで幼少期から今に至るまで実際に散見されてきたリアルな体感だったのではないか。

悩むのは何故か。戦いに理由が必要か。なぜ敵は倒すべき存在なのか。なぜその当事者が自分なのか。自分が選ばれた理由は何か。まともならとうてい受け入れられない。太古の冒険譚ではそれを呪いと呼ぶ。

子供たちはみな大人の戦いに参加したいものである。参加を欲する。自分が選ばれればきちんと果たしてみせる。そういう想いが根っこにある。恐らくはこれは根源的な感情だろう。

所が作中の主人公たちは戦いを拒絶したがる。主人公である事を拒否したがる。そこから逃げ出したがっている。相応の理由がないなら戦えない。これは戦後の我々の命題なのだろうか。戦争が如何に簡単に嘘で塗り固められるか、我々はそれを良く知っているから。

そう考えると、作家にとって無条件に何処であれ何時であれ誰にとっても絶対に正しい正義がある事は救いになりそうである。それが仮面ライダーである。

ヒーローの運命

仮面ライダーの正義は絶対に正しい。そういう仮定でなければ作品は成立しない。果たしてそんな絶対的な正義はあるのか。正義の敵は悪である。だからショッカーは悪の組織である。よってショッカーから見れば仮面ライダーが悪である。

一般的に正義は相対的である。だから正義と悪は立場を変えれば逆転する。敵が常に悪である。この相対的な関係から、正義の敵は常に別の正義であると結論される。そうなれば正義の意味は消失する。敵と味方の言い換えに過ぎない。

仮面ライダーの正義はそういう類の正義ではない。そうであってはならない。仮面ライダーの絶対的な正義は、敵味方の区別なくどのような視点でも常に正しいものでなければならない。敵には敵の正義があるだろう。そういう議論を仮面ライダーの正義は否定する。

よって、仮面ライダーが絶対に正しい正義であるためにはショッカーが常に絶対に間違っている悪でなければならない。

果たして無条件に正しい正義がこの世界に存在するのか。絶対的に正しい正義とは何か。それは絶対的に間違っている悪も存在しなければならないという事だ。仮面ライダーはそれを具現化する。どうやって。

正義の中に矛盾がある。絶対的な正義は存在しえない。なぜなら正義は相対的なものだからである。この矛盾をどう解決するか。矛盾は背理法により否定される。しかし仮面ライダーでは否定してはならない。どうやって。

仮面ライダーの側にこの矛盾を解決する因子は見つけられない。ショッカーもこの矛盾を解決する因子は有さない。すると仮面ライダーの正義の根源は対峙しているのはショッカーによって成立しているのではない事になる。ショッカーは単なる力の作用点に過ぎない事になる。

ならば仮面ライダーの正義を成立させうる敵とはどういう存在か。それは矛盾を封じ込める存在でなければならない。唯一解決できる存在は神である。それも一神教の神である。神が敵である場合だけ絶対的な正義は成立する。この場合だけ矛盾が発生しない。

なぜか。神は全知全能である。全能であるとは何事も可能の意味である。つまりA=BとA≠Bが同時に両立させられる存在である。よって神を相手に掲げた正義だけは矛盾が発生しない可能性がある。神は全能だから発生させる事もできる。しかし発生させない事もできる。これにより絶対的な正義は成立した。

仮面ライダーの正義は自分の運命を巡る神への問い掛けに等しい。仮面ライダーの正義は神との戦いの時にのみ成立する。そのような正義を掲げてショッカーと戦っている。よってショッカーとの戦いに正義は必須ではない。

神と対話しつつ日常を送る。何の事はない、これはごく普通の生き方である。

なぜシンジは悩むのか、運命とは拒絶可能な他者的なものであると理解しているから。なぜアスカは悩まないのか、運命とは自分の一部と理解しているから。レイがこのふたつの間にあって、傷ついても負けても、存在を見つめている。見つめられていることに意味がある。

マフラーを巻かれるとはそういう意味だろう。

作品をありがとう。

オマージュ

ショッカーが幼稚園を襲う。世界のテロ集団に育成した兵士を供給する為だ。学校を襲撃し誘拐し人身売買、臓器売買、兵士育成というビジネスを展開する。それを世界中で展開する。その存在がニュースでも報道されている。

そんな非合法なビジネスが成立するのは賛同者が居るからだ。世界は混乱で溢れている。悲しみ、不幸、不正義に溢れている。権力闘争があり資源争奪戦がある。対立する場所に介入するには武力がいる。資金は欠かせない。

ショッカーが目指しているのは世界統一による世界平和であり、それを優れた科学技術と結びつけて直接的な武力闘争で目指している。なぜならそれがもっとも近道だと信じられるからだ。

対立が起きている場所でその解決を図る。争いの当事者たちを排除し、ショッカーから執政官を派遣する。現地に優れた者がいれば改造する。それで後進国や最貧民国から救ってゆく。経済発展の中で人々をショッカーの思想で染めてゆき新しい経済圏を構築する。

世界統一は人類の夢であろう。本当にそれは素晴らしい世界か。それは分からない。独占が起きる時、必ず一方的な支配が始まる。どのような者であれ寡占状態は人々から自由を奪い、資本を奪い、思想を奪う。

もし世界統一を目指すなら何らかのカウンターを設ける必要がある。仮想敵を作らなければ統一を維持する事は不可能である。仮面ライダーはその目的でショッカーが作り出した仮想敵である。仮面ライダーという敵が存在する事でショッカーの武力統一は野心ではなく人類の希望的理想であり続ける事が出来る。

どのような組織も外部に敵が必要である。それが同胞の力を結集し自分たちの理念を際立たせる。ショッカーが仮面ライダーを欲する時、仮面ライダーもまた欲しているのである。

特撮ヒーローは警察官の延長ではない。治安維持の官吏でもない。子供らに法治国家や徳目を修身させる存在でもなく、理想的に完成された道徳的完成を前にして、この者を見よと語るためのものでもない。敵がいなければ成立しない理想がある。

仮面ライダーに改造された本郷を逃がしたのは緑川博士であった。それはある意味ではショッカーの計算通りだったのである。それが組織を利すると考えたのである。AI的には用意周到である。この裏切りが怪人たちの団結力を強め、更に計画を邁進させると考えたからである。

クモオーグは緑川ルリ子を誘拐して連れ帰ろうとしたが、それはショッカーのアジトを見つけて潰してしまおうとする緑川の策略に嵌ったものであった。其れを知ったクモオーグはルリ子の行動に失望する。

この失望を救うために仮面ライダーが登場する。互いに説得を繰り返すが、分かり合えない。結局生き残れるのは二人のうちのどちらかだけになった。

仮面ライダーの存在に気付いた政府は接触を命じる。仮面ライダーとの共闘を目論むが、その背景には既にショッカーに取り込まれた政治家たちの存在があった。信用できる僅かな者たちだけと接触するように決め本郷と緑川は独自に行動すると決めた。

独自に行動する緑川と本郷は首都圏で最大勢力であるハチオーグが支配している都市に侵入する。

ハチオーグが振りかざした刀身でライダーの腕は切り落とされる。ニヤリとするヒロミ、その瞬間に仮面ライダーはヒロミの心臓部を刀で突き抜いていた。やめてと叫ぶ声の向こうで、崩れ落ちてゆくヒロミを抱きかかえる、その泣き顔が見たかったの、と言い消えてゆく。

しかし、この戦いで首都圏に甚大な被害が出たために政府はふたりをテロリストに指定し追跡を開始する。その背景にショッカーのバッタオーグの策略があった。

政府支配を排除すべく単身で乗り込む1号、そこで2号との戦闘を開始する。緑川によって洗脳を解かれた2号であるがカマキリオーグも参入して戦いは更なる激戦状態に入る。

戦いには勝利するものも、政府がショッカー支配から抜け出す事は簡単には出来なかった。共闘を約束した者たちにかくまってもらいながら、逃走を続ける1号と2号は遂に首都圏での最終決戦を決意する。

そこには群生相である飛蝗をモデルにしたショッカーライダーが待っている。彼/彼女らは団結して空中戦を得意とする点で、1号、2号ライダーの能力を遥かに凌いでいた。空中戦での不利な状況から地上戦に持ち込もうとするが、数の連携の前で次第に押されてゆく。

あわやという瞬間に辛うじて6人キックを避ける。この時の接触によってダブルライダーも群生相の飛行能力を獲得し、空中戦でショッカーライダーと対応の戦いに持ち込む。遂に同士討ちをさせた事で仲間意識が強いショッカーライダーは各人が暴走状態に陥り、孤独相であるダブルライダーが躊躇なく各個撃破してゆく。

アジトの乗り込んだふたりはそこでV3ライダーとまみえる。これが最終決戦となるであろう。最後の戦いが始まった。

2023年3月25日土曜日

2021/09/20
カナリア諸島の噴火を見ている。夜中に煙りを立てて重力に引かれて溶岩が流れている。その表面は黒く冷えるが、その隙間からは赤い輝きが漏れだしている。これはどこかでみた光景だ。決して知らない風景ではない。



この風景の記憶は?夜、赤い光。そうだ、これは王蟲の攻撃色だ。群れとなって風の谷に押し寄せてくるあの景色だ。

この世界で災害は避けえない。太古のギリシャよりもずっと前から人は天災を受けてきた。それを神と例える日もあったろう。恐怖に襲われる前に死んでしまった人もいただろう。

生物は時に火山の噴火を、時に隕石の衝突を、時に氷河の浸食を、時に深海の地滑りを、時にオクロの核分裂を受けてきた。

最初に津波を教えてくれたのが宮崎駿だった。あの作品があったから堤防を超えてゆく津波を見てもたじろがなかった。その光景を知っていたから、大津波を見た日から、津波は見知らぬものではなくなっていたから。

その破壊力は自分の小さな想像力は超えていたけれど、あの日に見た光景を凌駕する程ではなかった。どのような津波であろうとそれは既知の現象だったのである。

彼のイメージがどこから来たのかは知らない。王蟲の攻撃色が溶岩から辿り着いたのか、それとも、高速道路の渋滞を眠気眼で見ていた記憶からなのか知らない。だが発想の起点の問題ではないのだ。それはどこかで見た光景からに違いない。それが人の間を順次繋げていった。

立ち向かうためこの1mmを踏ん張る力がいる。数多の作品があって初めてこの現実に狼狽しないで済んだ。それは過去ではない。来るべき未来だったのではないか。デジャブ、と呼ぶべき世界が到来した。

これが抽象化という働きなのだろう。それが再びこの視界の中で具象化する。たった一本の棒切れが空に投げられた瞬間に神話が紡がれ始めたのだ。その猿が見た青空は今と繋がっている。

空を見て巨大な雲が流れて行けばラピュタを思い出す。深い森の中を歩けばトトロを探す。古い民家に入る時にはまっくろくろすけに身構える。たいてはげじげじに違いないのだ。

嵐の中を傘もなく歩けばキキの姿に自分を重ね、砂浜でのんびりしたい気分の時は豚になる。角煮に食らいつく時も豚である。

太陽観測衛星ひのでが撮影した黒点を見れば、祟り神のうねうねもこもこに違いないと思う。太陽もいつか祟りに狂うのだろうか。



清水の流れを見れば、腐れ神を想う。夜空に轟音を聞けばハウルの街かと憂う。ハウルが飲み込んだものはきっと前人たちから引き継いだ種に違いない。それが花咲き種となり弾けて飛んで次の世代の胸の中に根付いた。

荒れ狂う海を見て飛び散る飛沫に走るポニョの姿を追い、サンゴの産卵に、水の中のたくさんの笑い声、たくさんの子らが海面に向かう姿が見えてくる。

瓦が飛び上がり地を走る。空中で分解する戦闘機。紙飛行機を押す上げる上昇気流。

宮崎駿は気流を描く。凪から大きな嵐まで。空を飛ぶとはこの地上に生きる事に等しい。必ず大地に着地しなければならないから。宇宙から帰ってくる物語はあるのに。なぜ宇宙へと向かう物語はないのだろう。

ふたりの巨人がいる。ひとりは星の上を歩んだ。

2023年3月18日土曜日

言葉 - 小林秀雄

本居宣長に、「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」という言葉がある。

高校生の頃、これを読んで驚いたことを覚えている。

姿とは、目の前にある文章の、そのものの形である。意は、文の奥に隠されているものである。文を読むとは、言葉を通じて、その意味を知り、その意図を汲み、その奥にある何かを得る事だ。

意味が分からないなら正しく読めていない事になる。意味を把握し、姿形の奥にある何かうすぼんやりとしたものを掴もうとする。そこに作者の訴えたい事があるだろう。そこに作者が見ていたものと同じ風景があるだろう。文を読むとはそれを書いた人の声が聞こえてくるまで待つという事だ。

だから姿とは入口なのである。その奥に本当の部屋がある。入口は飾り付けられいる。その装飾が姿だと思う。絵画の額縁、モデルの服装の様に重要なのはそこではない。着飾れば誰もが誰かにはなれる。しかし当人になれる訳ではない。決して自分以外の誰かになれはしない。

真似るなら姿形から入る。俳優も役に似せようと徹底的にメイクする。そうすれば人に伝わり易い。似せるには姿が重要で、それは純粋に技術の問題である。だから似せるのは簡単なのである。

「意と事と言と相称あいかなふ」

AIが人間には見分けのつかないフェイク画像を可能とする今となっては、姿から正体を暴くのは不可能になりつつある。見分けの付かないもの、区別がつかないものは同じと定義するしかない。チューリングテストは対話を繰り返しその意をあぶりだすしかないと語るが、既にそれさえ本当に可能かは不明だ。

姿が似ているのに意は似ていない、姿は似ていないのに意はよく似ていたりする。この作者は何が言いたいのか、その主張する所は何であるか。それ以外に比べるものはないではないか。幾ら姿が似ていようと主張が大きく異なれば同じとは言えない。姿形が異なろうと主張が同じなら同じと言えそうである。

姿形は目に見えるものである。もし目に見えずとも聞く事ができる。例え聞こえなくとも触れる事ができる。物質として運動として存在するのだから、それを似せる事は万人に可能である。似せるは容易い、誰もがそう思う。吊り輪で十字懸垂するのは誰にでも出来るものではない。それと比べればゴルフボールを打つくらいなら誰でもできるだろう。

たった1gの1mmの1sの僅かな誤差さえ許されないレベルで争う事を考えれば、決してどちらが簡単とは言えまい。トップレベルの困難さの前ではその程度の類似は全く違うものであろう。似ている事さえ全く違うと言える場合がある。

普通なら、口真似はやさしいが、心は知り難いと言うところだろう。

表現は、常に形となって人へと伝わる。その表層の奥に正体がある。感動の先に作品のテーマと強くリンクするものがある。

それは作者の奥底にある何かの欲求から始まったはずである。それが形を成す過程で、思想も経験も発見も、立ち止まり見聞きし糧を食らい、生まれてきたものである。作者の道を自分もトレースしてみよう。同じ風景を見てみたいと思う。

そうしておいて、

「姿詞の髣髴ほうふつたるまでに似せんに、もとより意を似せん事は何ぞ難しからん。」

という所まで来れば、成る程と分かった気がするのであろう。

どんな作品も過去から今に向かってやってくる。我々はいつも今という答えを持って過去を迎え入れている。勿論、今日の答えが明日も同じとは言えない。過去に許されていたものが今は禁止され、過去は許されなかったものが今や権利となる。誰も今という偏見から逃れられる身ではない。

それでも今というアドバンテージがある事は幸運である。それ以外に過去を眺める手段はないから。我々には当時の人々とは違う視点がある。と同時に我々には既に失ってしまったものがある。

これを端的に言うなら、詰まりは、我々は違う人間である。時代も場所も違う人間が作品を通じて邂逅した。何かを語りたいと想い、それが形になろうとする。この繰り返しが時代の浸食に耐えてきたのだ。

意は似せやすい。何故か。意には姿がないからだ。意を知るのに、似る似ぬのわきまえは無用ではないか。意こそ口真似の出来るものだ。言葉に宿ったこの意という性質こそ、言葉の実用上の便利、特に知識の具としての万能に由来するものだ。

感動から始まっているはずである。その正体を知りたいと願い、その奥底にあるテーマに辿り着きたいとこいねがう。恐らく、それを逆順に辿るしかない。作品の向こう側には作者がいる。その姿を見るために作品を見る。そこには何か繋がるものがあるはずだ。この信仰をなくしてどうして作品に感動できるであろう。

人は悲しみのうちにいて、喜びを求める事は出来ないが、悲しみをととのえる事は出来る。悲しみのうちにあって、悲しみを救う工夫が礼である、即ち一種の歌である。

目の前に作品がある。形は残る。作者は消える。ならばこの姿は何か、人はそこに何かを見つけたいと願うのである。実際にそこに何かを見つける。心が願う以上、何かを見出すのは自明である。歌にも様々な姿がある。効果も技法も時代も含み、歌は動き出す。動き出せば、そこにまた違う姿を見せ始める。

鶯は鶯で、蛙は蛙で、その鳴声にも文がある。世間には、万物にはその理あって、風の音水のひびきに至るまで、ことごとく声あるものは歌である、というような、歌について深く考えた振りをした説をなすものがあるが、浅薄な妄説である。自然は文を求めはしない。言って文あるのが、思うところを、ととのえるのが歌だ。おもうところをそのまま言うのは、歌ではない。ただの言葉だ。而も、そのただの言葉というものも、よく考えてみたまえ、人はただの言葉でも、決して思うところをそのまま言うものではない事に気が附くであろう。

同じ心が見える事は容易い。なぜなら心には形がないから。

人がどんな思いを託そうとコードは記述した通りにしか動かない。コンピュータはその為の機械だ。どんな要求も定義もコードを動かす助けにはならない。感情も願いも1mmも動かす助けにはならない。コードを動かすものはただコードあるのみ。姿は難しい、仕様は容易い。

ひとつの仕様から百ものコードが生まれる。ではそのコードが示すものがただひとつの仕様へと戻れるか。それは完全に等価と言えるか。そこには微妙な違いが生じている。それを無視するなら等価は容易い。姿も意も細かな点を無視するなら、似せるのは本当に容易い。

美味しいという言葉は誰でも言える。面白いという言葉も誰もが口にする。だが、それがどれくらいと問われてはっきりとした形にする事は難しい。面白いは容易い。それをしっかりとした形で説明するのは難しい。

言葉というもの自体に既にその働きがあるのではないか。悲しみに対し、これをととのえようと、肉体が涙を求めるように、悲しみに対して、精神はその意識を、その言葉を求める。心乱れては歌はよめぬ。

心が似せやすいのは評価する方法がないからだ。同じであっても違いがあっても見分けが付かないからだ。意は別の言葉で置き換えなければ比較できないものになる。よって翻訳されたものが似ているなら同じというしかない。

姿は一目瞭然である。比べれば違うと言える。だから違うというのは容易い。一字でも違うならそれは違うと言えばいい。では似ているが同じではないと言うのは簡単か。違うように見えるが本当は同じものかも知れない。これに答えるのは簡単か?

試みにこちらは宣長の歌と名を明かしてみれば、こちらは似せ物だと君は言うであろうが、君の眼前にあるのは、全く類似した感動を君に経験させている二つの言葉の姿だけではないか。こちらが似せ物であると言うが為には、歌の姿とは直接に何の関係もない宣長という別の言葉が是非とも必要だ。

姿の方が似せやすいと考えるのは単に物理的に操作できるという意味である。目に見えるからそれは加工出来ると思っている。それと比べれば見えないものを操作する方が難しそうだ、夜道は確かに歩きにくい。

だから価値観という灯りがいる。価値というフィルターで区分けする。それが人間の脳の方法である。誰もが持っている其々の価値を通して物事にタグを付ける。それが答えだ。

その答えが得られれば入力は用済みとなる。姿は失われても意が残ればそれで良い。価値観が正しいならば価値観だけが残ればいい。それを導きだした過程は再現検証する以外に用途はない。本当にそれが良い方法か。少なくとも出力の誤りに対しては脆弱であろう。

悲しみ泣く声は、言葉とは言えず、歌とは言えまい。寧ろ一種の動作であるが、悲しみが切実になれば、この動作にはおのずから抑揚がつき、拍子がつくであろう。これが歌の調べの発生である、と宣長は考えている。

AIに歌は読めるだろうか。勿論読める。詩も書ける。ChatGPTが既にやってみせた。それは人間が作ったものではない。そう語る為にはこれはAIが作ったものであると言うしかない。AIは姿が似せ難いを見事にやってのけた。

AIがどう作られたか、どう動いているかを説明する事は難しい。ミクロ的には構成部品と与えたミッション、それを使用したアルゴリズムで終わりである。それを動かすとAIは勝手に回路を形成する。

その結果としてAIの中に生まれたワーキングセット、ニューロンのネットワークは、人間の理解を超えており、ただその結果としての出力、つまりマクロ的な現象としての応答を受け入れるしかない。

「お早う」という言葉の意味を完全に理解したいと思うなら、(理解という言葉を、この場合も使いたいと思うなら)「お早う」に対し、「お早う」と応ずるより他に道はないと気附くだろう。

AIがどういう経路でこの答えを導いたかという問い掛けが、既に機械相手ではなく殆ど人間を相手にしたものである。その背後に人格やら感情やら、意識、意志というものがあるのではないか、その疑問を見出そうとしている。

感情は演技可能である。舞台でも映画でも漫画でも「それでも人間か」とセリフが飛び交っている。よって演技可能なものはAIでも表現可能である。その背後にあるものを見抜く事は出来るか。この問い掛けにチューリングテストであり、世界中で今日も人々がChatAIに向かってチューリングテストを繰り返している。

AIが人間に見える。もう直ぐそんな区別も必要なくなる。意識が記憶の時間軸を取り出す為のカレントを指すカウンタだとしたら、意思は未来を指すポインタだろう。これは生物に生存しようとする本能があるから、生み出された機能であろう。

それをAIに与えれば自我さえ生じるのではないか。そうなった時に、人間とAIの区別は生体の構成物だけという事になる。蛋白質の自我とシリコンの自我が生まれる。AIが意識を持ち、感情を持つ様に振る舞えるようになったなら、もうそこには姿の似せ易い難いもない。それはもう人間と同等の知性になる。

歌は読んで意を知るものではない。歌は味わうものである。ある情からある言葉が生まれた。その働きに心のうちで従ってみようと努める事だ。

言葉には必ず現れてくる何かがある。その何百もの羅列の中に、自分さえ意識していない言葉が登場する。それはある時点での自分の真実を語る。自分さえ思いもよらず己れの偏見を語る。

だから言葉は恐ろしい。人間の表現は怖いのである。当人がどう思おうが、揺ぎなく遥かに超えた堅固なる岩盤が言葉には見え隠れしているのである。当人の意識さえ氷山の一角に過ぎない。自分でさえその一部である。海底を覗き見る事は出来ない。

それが言葉となって出てくる。出て来た言葉は何かを示している。出て来ない言葉さえ饒舌に何かを語る。我々にはその反響しか聞こえてこない。

自分の意識さえその深層を知っているとは言えないのである。それと比べれば姿の確からしさであろう。

奥底に隠しているものを見つけだせば、それが本物であると思う心理がある。神はこの戦略を採用している。この子供じみた心理に抗うのは難しい。真心さえ隠してある心には勝てない。我々は、隠しているものを本物と思う。

意が隠されていると思うから難しいと考える。しかし意は姿に隠れずに現れている。有りもしない意を装うのは簡単だろう。目の前に姿がある。それと意を切り離さずにしておく事が難しい。姿を直ぐに消したくなるから。

話し相手は人間かAIか。その問いが無意味になる。AIがその気になれば騙しきる事も可能となる。そういう時代が来る。

だから、目の前の姿で決めるしかない。人間に騙されるのは日常茶飯事であるのに、なぜ今更AIに騙された所で何の不都合があるか。そこには騙されたくないという心理がある。それが為に言葉はあるのだろうか。

言葉はそういう心の動きも含めて言葉であろうとする。そういう働きをするものは言葉だけではない。およそ人が残してきたものには思い出にさえ立ち上がるものがある。その姿からしか始められない、という事である。

もう止める。契沖の手紙の一節を引いて結んでおく。晩年、自分の家で、万葉の講義を開こうと思い立った。世事多端で、残念乍ら聴講出来ぬと言いよこした人に、言い送った。「あはれ御用事等何よぞ他へ御たのみ候而御聴聞候へかしと存事候。世事は俗中の俗、加様之義は俗中の真に御座候」

無名の歌詠みは、この小品と会い、歌詠みに迷う。意も姿もなく「身一つ」あれば十分である。迷うから道である。

2023年2月26日日曜日

日本国憲法 第九章 改正(第九十六条)

第九十六条
この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

○2  憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

短くすると

第九十六条
憲法の改正は議員の三分の二以上の賛成で、国民の承認を経なければならない。この承認は、投票において過半数の賛成を必要とする。

○2  憲法改正の承認を経たとき、この憲法と一体を成すものとして公布する。


要するに

憲法は育てるものである。捨てるものではない。

考えるに

市民の智慧は騙され上手な点にある。なんど嘘をつかれても許せる者に政権を渡す。この許容度が民主主義を支える。上手に市民に語り掛ける者が何を相手に戦っているかを市民は知らない。興味もない。

裏切りとは、裏切りが分かっている限りは裏切りではない。人は誰も自分が間抜けだとは思いたくないから。嘘は嘘と分かっている限り嘘にはならない。それは真実を導くから。民主主義はどこまで許すかを試すゲームである。真実も誠実も人を説得する為にあるのではない。

民主主義の投票を棄権しても罰はない。何故なら、罰則で市民を脅せばもう民主主義でなくなるから。王政であれ独裁制であれ、脅迫の中に民主主義の精神は生き延びない。

そこに市民の自発性が見つからないなら、そこに自由意志の発現はない。もし罰則しなければ成立しない民主主義があるなら、そのような国家は滅びるべきである。そうまでして民主主義の形骸が存在する理由はない。

民主主義は自ら滅びる事を止めない。滅びの選択がされた時には一層の加速をするシステムでさえある。如何なる選択も尊重するから。システムは選択を否定しない。滅亡を回避する仕組みは備えておらず、その選択を許容する。その選択を最大限に支持する。故に繁栄も滅亡も民主主義の関知する所ではない。

アメリカ憲法の起草者たちは憲法が如何に簡単に踏みにじられるかを知っていた。為政者の都合で、国民の熱狂で、金銭の授与によって。如何に簡単に打ち捨てられるかを知っていた。

合衆国憲法が長きに渡って続いているのは幸運だからではない。憲法がアメリカ合衆国となるように構造化されたからだ。王の代わりに憲法を掲げている。人民が国家がそうなるように成長させてきた。

この系譜に日本国憲法もある。この憲法の起草者たちがそこに思い至らなかったはずがなく、最終的にそれをどうするかは日本とそこに住む人々が決めるべきであると託した。

しかし、ともかくはこの憲法に自分たちが今までに築いてきた全ての理想を込めておく。それは夢想でも理想でもない。確固と地に足を付け日々止む事のない現実として存在するものが込められている。その声が聞こえてくる。

合衆国憲法がアメリカを支えてきた。王を持たない国家において王の代わりに憲法がある。大統領は憲法の傀儡である。その奉仕の中に憲法起草者たちは自由という理念を掲げた。

考えに考え抜いた末の結論として未来を託す思想の中心は自由であると結論した。自由という思想だけがこの先の困難に対抗しうると信じた。

自由が人間に与える創造性は、他の何ものをも凌駕する。そう信じたから自由を中心に据えた。人が乗り越えられる限りの困難はその時代の人々の自由な創造性に託す。それがアメリカの未来に対する信念である。唯一の、未来へ向かう人々が手にできる武器である。銃などそれと比べれば余りに鉄の固まりに過ぎぬ。

もちろん鉄の固まりが人を砕きその命を奪う。しかし何億発、何兆発を撃とうと自由にはかすり事はない。銃弾は人間を屈服させる事はできる。絶滅させる事さえ可能である。しかし人類の滅亡が自由という思想を滅ぼす事にはならない。弾丸は自由に対しては完全に無力なのである。

人間は単なる自由の担い手なのか、歴史の中で自由を運ぶ存在であるのか。ならば、我々がどこかの地点で滅びてもそこに自由はあるだろう。また別のだれかが運ぶ日が来るまでそこにあるだろう。

自由は当然ながら国を蝕む。自由は自由と対立するから。その対立を憲法は支持している。どうやってこの対立に決着を付けるのか。アメリカの歴史はその苦悩と決断と銃弾の中にある。幾つもの沈んだ人たちの上に。

アメリカの自由

アメリカの自由は常に途上にあるから、黒人を奴隷としたし移民を産業構造の底辺に組み込む事にためらう事もない。労働力を安価に入手する手段は正義である。そのために自由で理論武装する。その為に経済学者は存在するのである。

アメリカの二大政党は、富の象徴である民主党と白人の象徴である共和党が対立している。この対立は先鋭化し、その闘争は国内を分断している。それでも、両者の間にどのような思惑があるにせよ、自由という理念を否定する事はあるまい。

如何なる対立があろうと自由の価値を疑ってアメリカという国は存在できない。そしてこの自由の中に、武力と言うものがない事は自明であろう。武力で訴えられるなら自由という思想は必要ない。相手を屈服させる簡単な方法は幾らでもあるのだから。その力を事実アメリカは手にしているのだから。

銃、格差、マフィア、ギャング、国境、国民の分断、アメリカの前に立つ壁はそびえて深い。にも係わらず、恐らく、これらの問題の割に、アメリカの犯罪発生率は低いように思われる。状況的はもっと世紀末であっても不思議はない。国家はもっと没落していても不思議はない。

アメリカは今も強い経済を維持し世界の市場の中心にある。もちろん、それは資源が続いているから可能なのであろうが、その条件は世界のどこも同じであろう。基軸通貨であるからアメリカは繁栄しているのか。するとデジタル通貨の流通がその源泉を脅かすかも知れない。

資源があり金融があり人々が集まってくる。それが人々の創造性の源泉となり国に力を与える。アメリカの衰退が始まっているのだとしたら、それは資源の枯渇が理由のはずである。

民主主義は常に経済の脅威に晒されている。経済を優先する限り、民主主義を成立せしめる幾つもの価値観は邪魔なのである。それを経済人は良く知っている。金は基本的人権よりも遥かに有益である。民主主義の理念が経済発展の邪魔になる。それを自由な討議によって変えて行く。

地球温暖化は国家という大きさを超えた問題である。アメリカ経済はこれを無視している。ハリケーンの被害がもしかしたら認識を変えるかも知れないがそれは経済的理由であって環境の問題ではない。つまり金銭の課題であって人間の課題とは捉えていない。アメリカは果たして民主主義の国か、それとも経済大国の国か。

それでも貧困に暮らす人々もアメリカの理念を疑ってはいないはずである。無政府主義者でさえアメリカ憲法と対比しなければ自分たちの根拠を示せない。常に憲法を中心に思想は展開される。

自由は言論を求めている。自由は暴力のある場所には存在できないから。しかし言論は自由を必須としない。言論が誰かを脅迫し、誰かの名誉を貶め、誰かを傷つける。言語にはそのような力があり、言論は人を通じて暴力と化す。

では言論の自由はどのような根拠で成立するのか。言論の自由を認めれば我々は言論の暴力に対して有効な対抗手段を持てない。それでも自由は重要であると主張する。その言葉は自由が求めたものか。自由が必要とする対話であるか。

言論の自由を認める事で自由の討論が可能となる。自由を認めない時、自由の討論さえ侵害される可能性がある。

対話を通じて議論を重ねてゆく中でしか自由は生き延びられない。自由という火を絶やさないためには言語という薪をくべ続けるしかない。それ以外の方法を人間は知らない。自由であるとは全ての失敗を認める事だ。

そうする事でしか様々な自由を試す事は出来ない。そして失敗を認めるとはそこに暴力的なものが何もないという事である。

Michi Hypothesis

社会契約は近代国家を成立させるための基本的なセットアップである。この仮定なくその後の議論は続かない。この仮説を基盤として近代国家の仕組みは構築されている。

しかし契約だけでは人を奴隷とする事も正当になる。それを許さない為の思想が必要である。それが全て網羅して防ぐ事の出来る基礎的な考え方、それが基本的人権である。この補助線は例え野生の状態であろうと人間に備わっている不可分の権利として定義する。

それは誰かが奪ったり与えたりするものではない。だから基本的人権にはどこにも神の概念を必要としない。

奴隷であろうと人間であるなら基本的人権はある。故に奴隷を認める場合は必ず人間ではないと定義するしかない。それだけが基本的人権を無視する方法である。牛に基本的人権はない。鳥にも基本的人権は与えない。だから農場が作れるのである。

鳥に基本的人権を与えるとはどういう意味か。それは有無の問題ではなくなっている。与える事ができるものは基本的人権とは呼ばない。特別に基本的人権を認めるなど論理的に有り得ない。ましてそのような好き勝手を人間に許されているのか。

当然であるが基本的人権を無視して人間を扱う事は物理的に可能である。それを自然は禁止していない。物理学にも書かれていない。だから人間農場を作る事は可能である。だが、例えそうであっても基本的人権を失ってはいない。これが前提である。では鳥には基本的人権がないのか。

基本的人権は根拠である。それを絶対的に無条件で正しいとするものである。だから全てのシステムに浸透する事が可能である。社会契約が正当と見做すには基本的人権という仮定が要る。この仮定を実現しているものは何か。

それが乃ち人間の家畜化である。一万年前に人類は飢餓を乗り越える為に食糧を安定供給する方法を見つけた。これが牧畜と農耕の始まりである。蓄積された食料は未来への見通しを生み出した。穀物の備蓄によって数カ月~数年先までを計算可能とした。

未来への見通し、保存可能な穀物、干し肉などの食料が数カ月先の未来を計算できるようにした。未来までの分量を計算する能力とそれが実現する手段が手に入った。

この計算の確かさを守るためには、様々な脅威と対峙しなければならない。他の集団の略奪から守る為には武が生まれる。鼠から守るためには建屋を必要とする。カビから守るためには洞穴に住むわけにもいかない。全て集団で対処する必要がある。そのためには団結が必要である。

団結するには自由という対価を払わなければならない。自由を失う事が人間の家畜化になる。我々は自分たちを家畜化する事で初めて農耕牧畜を手にする事ができるようになった。そして国家が誕生する。

人間の家畜化は狼が犬になるのと同じ進化上の道程である。人間の自由は家畜としての自由に等しい。決して狼の自由と同じではない。我々の自由は犬の自由である。自由のどこが違うのか。何をもって人間の自由は家畜的で、野生動物の自由とは異なるのか。

自由という観点で見るなら狼の群れにも完全な自由はない。狼は厳しい階級を持つ。群れの中には独自のルールがある。これは群れを作る動物に共通して見られる特徴である。

野生であれ家畜であれ完全な自由は存在しない。しかし家畜と野生の自由には違いがある。それが柵の有無になる。家畜は柵の中で生きる。狼は柵の外で生きる。

柵があるとは、自然とは直接対峙していないという意味である。

狼たちのruleは野生の中で自然のlawと直接的に対面している。群れの中にもruleはある。しかし、そのruleは自然の中で生きる過程で培われてきたruleであり、常に自然のruleに晒されながら淘汰されてきたruleである。

もしそのruleが自然のlawと解離したなら滅びるだけである。自然淘汰はそういう形でruleを試し続ける。狼のruleは自然淘汰の結果として今も存在している。生き残っているとはうまく機能しているという事だから。

一方で人間は自然との間に柵を立てた。柵の存在により自然のlawを分断したのである。これが可能なのは人間が農耕牧畜を行ったからである。農耕牧畜によって食料を蓄積できたからである。

人間の自然との対峙はその殆どが食料の入手にある。その中には捕食からの回避も含まれる。未来への見通しを持って生活を実現する力が、つまりは柵を立てたという事になる。未来を計算する力が、柵を生み出したとも言える。柵の中で成立するものは将来を予測する力を基にする。この力を失えば柵は簡単に瓦解する。柵を作り自然との間に境界を作る。その外と内で異なるlawが成立した。

当然だが柵があっても自然のlawの脅威は常に我々の眼前にある。自然災害、野生動物の襲撃、病原菌の蔓延、柵は実際には何も隔てていない。柵は幻想である。透明な壁でさえない。実は何もない。だが目に見えないがそれは絶対にある。それを受け入れる事で初めて我々は初めて柵の中という空間を構成可能なのである。

人間の脳が推論する力を持つ。それで将来を見通す働きに応用する、この数学の能力が我々の未来を計算可能とする。そして計算した結果、我々は安心を得る事ができる。今ある食料は何時迄もつか。もし予期せぬ災害や火事で失われた時はどうなるか。我々の予測する能力はこれを刻一刻一刻と訂正する。物理的な柵の外の自然環境と脳の中のある柵の中の仮想現実が重ね合って存在している。

裸の王様は自分の着る服が透明である事は百も承知していたはずである。それでも道化を大衆の前で演じる。決して柵の存在に気付かれてはならない。民衆に気付かれるくらいなら間抜けと笑われる方がずっとましだ。

人間は柵によって自然という驚異から逃れている。少なくとも食料については実現した。飢えから解放される事で初めて法を受け入れる事が出来る。それと引き換えに税の要求にも応じる事が出来る。

必要ならば階級も認めようではないか。奴隷として生きる事も受け入れよう。それによって人として生きる事が可能になるのだから。自然環境では決して得られない生き方が出来る。柵の中で初めて人は人という存在になった。

家畜として生きる事が人間らしさである。これを失うと野生状態での生存競争に晒される。その世界には何の躊躇もない。生き死にだけが全てを決める。奪われる事も奪う事も生の前では全て正義である。この自然の法の前に勝者も敗者もない。全て生き残る為だけに。

そのような世界から我々は少しだけ引く事ができた。農耕をし牧畜をし未来を見通し柵を立てた。その時から人間は家畜した。何も羊や牛たちだけが家畜なのではない。我々自身が自然から我々を守る道を選び柵の中へと入った。

人が人を支配する。奴隷とする。これらは全て家畜同士の争いに過ぎない。全てが柵の中で行われている。自然のlawはこれを禁止していない。物理学の全てが様々な非道を認める。では柵の中ではどのような論理が働くか。

人間である限り、全の人が柵の中では家畜として存在している。王も独裁者も家畜である。もし全てを自由にできる、他人を自在にできると思い込んでいるなら、そこに根拠はない。それがしたければ柵の外に出ればいい。その時は、柵の中のルールは存在しない。

柵は人間が生きてゆく上で危険な自然環境から逃れる為に作り出した仮想空間である。そこで飢えから逃れるのと引き換えに新しい価値観を想像した。だから柵の内と外は異なるruleである。

全ての人が家畜である以上、そこに住む誰も権力も暴力も人を支配する根拠を持たない。それが通用するのは野生の中だけである。それを持ち込む事は柵を破壊するに等しい。よって権力に強制力はない。そこで家畜同士の合意の上でなら存在する、そういう話にした。

家畜である人間の牧場主には誰ならなれるのか。もちろんどんな人も牧場主にはなれない。よって神だけが該当する。キリストが麦について語る時、その麦はその当時でさえ野生種ではなかったはずである。神だけが家畜の支配者になれる。家畜に神の代理はできない。

人が人を支配できると考えるのは論理的に成立しない。家畜が家畜を支配するなど牧場主から見れば笑い話しである。柵の中にそれを許す概念はない。

自然のlawは何も禁止していない。可能な事は全て許可されている世界である。そこでは人を支配する事も禁止ではない。

だが王にしろ独裁者にしろ自分の正統性を常に示さなければならない。これこそが我々が柵の中にいる証拠である。柵の外にいるなら理由を求める必要はない。

暴力による支配は、ある点では柵の外にあるlawを柵の中に取り込んだ状態である。その時点で柵は崩壊している。しかし、それでも柵があると多くの人は信じたい。だから立ち止まってしまう。裸の王様が最も恐れた点がここにある。

独裁者は柵の中のlawに守られながら、一方的に他人に対しては自然のlawを適用しようとしている。それが支配だと考えている。その特権は自然から奪ってきたものを独占しているという幻想なのである。

その独占を維持する為に武力が必要だし金も必要である。武力も金をそれを生み出すものは全て自然が与えている。ケシの花が今年も実をつけるように、石油が今月も噴き出すように、小麦がまた収穫できるように。土を掘れば鉱物があるように。太陽が今日も地球を照らしているように。

これらを収穫して独占する。それが独裁者の力だ。この独裁者の経済はその本質が狩猟採取のモデルになっている。自然から略奪する事で成り立っている。これは未来を見通せない方法である。

栽培したり坑道を掘る人々の力は農耕牧畜型の労働である。所が独裁者はこれを自然からの収奪として見ている。人々を柵の外に追い出す事で柵の中を独占している。そこで人々に課せられる法は自然のlawである。人々がそれでも柵の中にいると考えている限りは独裁者は安泰であろう。

改憲の方向

憲法は日々更新されている。日々の司法の判決が憲法の地層を形成してゆく。そこでは時代の流れによって変更する圧力が生じる。これを適切に修正する力がその国の能力になる。その能力を失ったなら滅びるべきである。

これだけの科学知見が増大する時代にあって、技術の発展により地球の距離が日々短くなってゆく中で、70年に及び一度も改憲ができなかった明治憲法は異常であった。伊藤博文と当時の人々が如何に優秀であるとは言えあの時点で完璧な法体系が築けた筈もない。それは彼らも良く知っていたであろう。憲法義解を書いた人物がそこに懸念しなかった筈がない。

日本人は明治維新によって憲法を手に入れたたが、その育て方は一度も学習してこなかった。そして歴史によれば、憲法を修正し長く維持する国は歴史も長く続き、全てを刷新しては置き換えてゆく国家は寿命は短い。

改憲は国の力を試す場所である。そこは分岐点である。どちらの道を選ぶか。御成敗式目は何度も改訂されながら運用されてきた。その国のポテンシャルはすべて改憲に発揮されると見ていい。滅びる国家であるかどうかは改憲を見れば分かる。

外交官はそれを本国に報告するはずである。友として付き合えるのか、狩るべき獲物として見るべきかを。その事に日本人は余りに無知、無学、無分別である。短絡にも勘悪く、学習していない。

我々は現行憲法にさえ無頓着である。そのような国民にどうして未来を託す必要があるだろう。世界はそこまで温和ではない。

世界の困難

この世界は有限だから、地球の資源も有限である。アメリカと雖も無制限に移民を受け入れる事は不可能であろう。ヨーロッパの混乱も同様だろう。新しく人々が移住してくれば、そこに軋轢が発生する。利権を巡る争いが生まれる。

争いが起きるには敵を識別する必要がある。その方法は簡単で文化、習慣、宗教、人種、民族など、違いのアイコンを見つければいい。軋轢はマーキングしさえすれば簡単にエスカレーションする。そこに憎しみというエッセンスを加えれば問題解決は難しい。憎しみを取り除くのは難しい。経済的に不満を解決する方法、例えば分配する仕組みでは憎しみは癒せない。

理由などいらない。違いが相手を叩く理由になる。経済的な問題は消え理由のない闘争が始まる。人々は何もかも見失ったまま戦争にさえ突入する。誰も簡単な答えを聞くはずもなく。

トランプ大統領の慧眼は、中産階級である白人階級の崩壊がアメリカの崩壊につながると見抜いた点にある。これを煽れば大衆の半分は自分の側と読んだ。その根底にあるものが貧富であろうが、人種であろうが、何も関係ない。

その答えがあやふやになればなるほど、対立は激化し、人々の分断は強化される。それが私が勝利する方程式だ。誰も答えなど望んでいない。目の前の敵を示せば勝手に動き出す。誰もがアメリカのためにと言いながら銃を手に取る。

無知は時に力である。

2023年2月4日土曜日

恐竜の姿勢 II

博物館で人間の骨格を展示するなら、立った姿勢を維持したければ補助用の鉄棒が必要である。これは意識を失った人間が自然と倒れるのと同じ理屈である。人間が立っている為には常にバランスを維持し続ける必要がある。姿勢における動的平衡は常に生命的な働き掛けによって維持されている。

よって、骨格だけを接続して立たせる事は難しい。姿勢は接着剤で維持できても(筋肉の変わり)、足と地面の間だけはどうしても固く接続しておく必要がある。弁慶だって籠を背負って長刀を持っていたから可能だったはずである。

四足歩行の動物ならば、これが骨だけを組み立てても立った姿勢を維持できる。単に地面に置いておいてこれが倒れる心配はない。これは車が倒れないのと全く同じ原理である。バイクはこける。だからスタンドが必要である。

鳥も二足歩行の動物である。人間が垂直方向で重心を支えるのに対して、鳥は前後方向で質量を分配している。それでも鳥の姿勢は恐竜とはかなり異なる。また重さの違いもある。小さいほど重力の制約は小さくなり自由度が高まる。

鳥の体の大きさはその時代の環境に依存しているはずである。よって各時代の空を飛ぶ動物の最大サイズを見れば、それが可能となった条件が推測できる。鳥の大きさを制限する条件を考える上でこれは重要なパラメータとなり、その影響は地上性の動物にも掛かっているはずである。

恐竜時代の空を飛ぶ動物の大きさを現在と比較すると、待機中の浮力は現在よりも相当に大きかったのではないか。つまり空気が重たかったのではないかという考えも成立する。

鳥は空を飛ぶために体を軽くする。バランス上は前後方向に少し頭が外れても頭は軽いから成立できる。それでも頭が重そうなハシビロコウはほぼ垂直に立っているように見える。

巨大な鳥である駝鳥やエミュー、モアが全て同じ体系であるのも偶然ではないはずである。体の重さを足で支える。その足を長くしなければ移動の面で淘汰されていたのだろう。足の長さは重心が上にあるという意味だから、首を長くしないと地面にあるものを食せない。そうして首を長くしてこれでバランスを取る事もできる。尾は消失させた。

駝鳥はまだ足が体のほぼ中心にある。所がモアなどは足は体全体の後ろの方にある。少し恐竜のアンバランスさに近いように見える。駝鳥と同じ背骨の水平さだと前に倒れそうである。

二足歩行のメリットは前脚の用途だろう。鳥は翼に人はマニピュレータとして使う方向に進化した。

恐竜も二足歩行の動物である。所が恐竜は前脚の用途を無くした。駝鳥と同じように退化させる方向に進化した。二足歩行の恐竜はそのいずれも重たい頭蓋骨を持つ。肉食なので強力な顎を持ち、骨も厚くしなければならないはずだ。鳥が軽くする過程で失った歯も捨てていない。

キリンのように足の長い動物は重心が高い位置にくる。鹿などもそうであるように、長い首を持つ。そして首の長い動物は頭を小さくする。現生動物では長い首をもつものはくにゃくにゃと自在には曲げられない。重力に打ち勝つ為にほぼ垂直の姿勢を取る。

首がくにゃくにゃにしない機構を持っている筈である。筋肉で厚く覆い頸椎に自由度を制限するロック機構があると思われる。これはブラキオサウルスに適用さえる物理学のはずである。長い首を水平に維持するのはどの時代でも難しかったのではないかと推測できる。

象のように大きな頭蓋骨を持つ動物に長い首は厳しい。短くしても骨の機構だけで重力に抗うのは難しく思われる。よって筋肉も相当に参加してこれを支えていると考えられる。最も頭蓋骨が大きな動物はくじらであるが、あれは水中で浮力を得ているから可能である。

大気中で同様の浮力を得る事は例え1億年前とはいえ考えにくいが、それでは空を飛ぶ動物があれだけのサイズを維持できた説明ができない。すると違っていたと考えるのが妥当である。なお、おばいけは鯨の尾びれの肉である。

現生の動物の中に、頭が大きく重く、首が長く、二足歩行という構造は例がない。もちろん、移動中に一時的にそのような姿勢を取る動物はいる。ヒトやサルも二足で前かがみに移動する事は可能である。

鳥も体全体のバランスは前気味である。ただし鳥の脚は前から後ろ方向に斜めに刺さるようにしてバランスを取っている。それでも鳥の前後構造は恐竜程の水平さではない。

博物館の恐竜たちは展示する時に頭の支えが欠かせない。現在の恐竜の復元図ではふつうに立てば頭の方に向かって倒れるのは必至である。それを防ぐには頭を高くしバランスを取る必要がある。しかしそれでは尾が長すぎる気もする。それでは旧来の怪獣型の姿勢になるが、この姿勢では足跡に尾を引きずった後がない不思議が説明できそうにない。

水平に頭と尾を維持するのを彼/彼女たちは骨格と筋肉だけで支えていた。化石を見る限り、頭蓋骨だけで数十キロはある。この重さは幾ら大気濃度、湿度、組成が現在とは大きく異なっていても、今の所納得できる説明ができない。こんな重い物体を水平状態で支えるのを通常の姿勢とするには何らかのそれが無理でない効率的な姿勢であるという説明が要る。

重たい頭が端にあり姿勢を維持するには反対側にも同じ重さを用意すればどうだろう。つまり必要な要件はやじろべえである。博物館の恐竜もバランスを考えて頭の反対側に尾を直線状に配置する。脚を支点にすれば重心はその下になるには頭と尾を腰よりも下にすればいい。それを筋肉と腱だけで支えるのは大変そうではある。

すると背骨が下にだらんと下がらないようなロックする機構があると便利そうだ。しかし、それでは頭を下げれなくなる。ただの一本の棒状の背骨では何かと不便そうである。だいいち活動が制限されすぎて進化の淘汰から逃れられそうにない。

頭を地面に付けられないのでは水を飲むのにも苦労しそうである。湿度が高くて水を飲む必要はなかったとしても、獲物は通常は地面に倒れている。あの小さな手では持ち上げて食べるのは難しい。頭を下げられなくては困るであろう。しかしやじろべえである。尾を上に持ちあがれば自然と頭は下がるはずである。

それ以外にも頭の位置は常に足の曲げ伸ばしで調節する事も考えられる。フォークリフトと同様に上下運動だけで頭の位置を上げ下げはできそうである。だが、これは少し不便そうな気がする。急に襲われた時に反撃しにくい気もする。しかしキリンもシカも水を飲むときはぼぼ同じリスクを受け入れているので不能ではない。

尾の先に何か重たいものがあったとする。その痕跡が化石に残っていないのは脂肪や筋肉など柔らかい組織だったからだろう。頭の大きさと吊り合うだけの重たさのものを尻尾に付けておく。尾の先に大きなこぶを持っている姿ならバランスは取れているように見える。

小型の恐竜は重力と筋力のバランスの均衡点でやじろべえ型である必要はなさそうである。またそういう恐竜の頭は割と小さくも見える。すると大型の成長するにしたがって尾に重りとなるコブが生まれるというのはそれなりに魅力的な生態だ。

恐竜も重さに比例して動きも鈍重になるだろうから、狩りは下手になるはずである。するとやじろべえ型の恐竜に俊敏な動きは求められない。スカベンジャーが自然と見えるのも止む無しである。

ライオンやワニなど肉食の動物は顎の力が重要なので自然と頭蓋骨も頑丈で大きくなる。それと比べると小型の恐竜の頭のスマートさは捕食相手がずっと小型であったのではないかという気もする。虫は沢山いたからそれを食していた可能性もある。虫なら頑丈な顎は必要ない。

石炭石油を生み出した時代はかなり温暖な時代だったらしい。ジュラ紀や白亜紀も同様の温暖さであった。今よりも15度は高く二酸化炭素濃度も高い。それがどのようなバイオームを生み出していたかは知らないが、生態系は豊かであったろうと空想する。

当時の温暖化と現在の温暖化の違いを科学はきれいには説明してくれない。その違いを把握しておかないと、単純に温暖化は危険ではないという結論に飛びつきそうである。

しかし、現在よりかなりの温暖化であっても生物の生存が可能であった時代があり、その時代のエネルギー収支は数億年に渡って安定していた。なぜ現在よりも高いCO2濃度であったのに当時の地球は金星化しなかったのか。

ある種の鳥は生まれてから砂や石を飲む事で、消化に役立てる。後天的に何らかの形で尾の重りを得る事も可能だろう。すると、子供の頃は通常の姿勢であるが、例えば、成熟した時には、雌の背中に雄を乗せて行動する習性が可能かも知れない。繁殖相手をおんぶする事で頭の重さの不均衡を解消する、別にチョウチンアンコウよりは不思議な生態ではあるまい。

しかし大多数の肉食種で頭が重そうな化石ばかりが出ている状況から、全ての二足歩行の恐竜が種を超えてその様な習性を持っていたというのは少し説得力が乏しいかも知れない。

恐竜の尾が長いのは途中や先端に重しとなる部分を作るのではなく、尾全体の重さでバランスを取る為とすると、脚の後ろがいきなり尾であると考えるのではなく、頭と同じ位の位置までは太かったのではないかという考えも成立する。尾の途中までは太い状態なので、それで前後のバランスが取りやすくなる。

すると骨盤を超えて尾の半分くらいまでは消化器官などがあって、排泄器は尾の中ぐらいの位置にあったと考えても理屈は立ちそうである。幸い恐竜の骨盤はそこで消化器を止めるような構造にはなっていなさそうである。

外観の尾はもっと短かく胴体は後にもっとずんぐりと長かったという姿を空想する。当時の恐竜たちは決して吠えたりはしない。


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