stylesheet

2018年12月28日金曜日

日本国憲法 第四章 国会 (第四十一条~第六十四条, 国会)

第四十一条  国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。
第四十二条  国会は、衆議院及び参議院の両議院でこれを構成する。
第四十三条  両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。
○2  両議院の議員の定数は、法律でこれを定める。
第四十四条  両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によつて差別してはならない。
第四十五条  衆議院議員の任期は、四年とする。但し、衆議院解散の場合には、その期間満了前に終了する。
第四十六条  参議院議員の任期は、六年とし、三年ごとに議員の半数を改選する。
第四十七条  選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。
第四十八条  何人も、同時に両議院の議員たることはできない。
第四十九条  両議院の議員は、法律の定めるところにより、国庫から相当額の歳費を受ける。
第五十条  両議院の議員は、法律の定める場合を除いては、国会の会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員は、その議院の要求があれば、会期中これを釈放しなければならない。
第五十一条  両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。
第五十二条  国会の常会は、毎年一回これを召集する。
第五十三条  内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。
第五十四条  衆議院が解散されたときは、解散の日から四十日以内に、衆議院議員の総選挙を行ひ、その選挙の日から三十日以内に、国会を召集しなければならない。
○2  衆議院が解散されたときは、参議院は、同時に閉会となる。但し、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる。
○3  前項但書の緊急集会において採られた措置は、臨時のものであつて、次の国会開会の後十日以内に、衆議院の同意がない場合には、その効力を失ふ。
第五十五条  両議院は、各々その議員の資格に関する争訟を裁判する。但し、議員の議席を失はせるには、出席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする。
第五十六条  両議院は、各々その総議員の三分の一以上の出席がなければ、議事を開き議決することができない。
○2  両議院の議事は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、出席議員の過半数でこれを決し、可否同数のときは、議長の決するところによる。
第五十七条  両議院の会議は、公開とする。但し、出席議員の三分の二以上の多数で議決したときは、秘密会を開くことができる。
○2  両議院は、各々その会議の記録を保存し、秘密会の記録の中で特に秘密を要すると認められるもの以外は、これを公表し、且つ一般に頒布しなければならない。
○3  出席議員の五分の一以上の要求があれば、各議員の表決は、これを会議録に記載しなければならない。
第五十八条  両議院は、各々その議長その他の役員を選任する。
○2  両議院は、各々その会議その他の手続及び内部の規律に関する規則を定め、又、院内の秩序をみだした議員を懲罰することができる。但し、議員を除名するには、出席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする。
第五十九条  法律案は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、両議院で可決したとき法律となる。
○2  衆議院で可決し、参議院でこれと異なつた議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる。
○3  前項の規定は、法律の定めるところにより、衆議院が、両議院の協議会を開くことを求めることを妨げない。
○4  参議院が、衆議院の可決した法律案を受け取つた後、国会休会中の期間を除いて六十日以内に、議決しないときは、衆議院は、参議院がその法律案を否決したものとみなすことができる。
第六十条  予算は、さきに衆議院に提出しなければならない。
○2  予算について、参議院で衆議院と異なつた議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は参議院が、衆議院の可決した予算を受け取つた後、国会休会中の期間を除いて三十日以内に、議決しないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。
第六十一条  条約の締結に必要な国会の承認については、前条第二項の規定を準用する。
第六十二条  両議院は、各々国政に関する調査を行ひ、これに関して、証人の出頭及び証言並びに記録の提出を要求することができる。
第六十三条  内閣総理大臣その他の国務大臣は、両議院の一に議席を有すると有しないとにかかはらず、何時でも議案について発言するため議院に出席することができる。又、答弁又は説明のため出席を求められたときは、出席しなければならない。
第六十四条  国会は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため、両議院の議員で組織する弾劾裁判所を設ける。
○2  弾劾に関する事項は、法律でこれを定める。 

短くすると

第四十一条  国会は、唯一の立法機関。
第四十二条  国会は、衆議院、参議院で構成。
第四十三条  両議院は、選挙された議員で組織。
○2  議員定数は、法律で定める。
第四十四条  議員、選挙人の資格は、法律で定める。
第四十五条  衆議院議員の任期は、四年。
第四十六条  参議院議員の任期は、六年、三年ごとに半数を改選。
第四十七条  選挙に関する事項は、法律で定める。
第四十八条  同時に両議院の議員たることはできない。
第四十九条  議員は、国庫から歳費を受ける。
第五十条  議員は、国会の会期中逮捕されず。
第五十一条  議員は、演説、討論、表決について、責任を問はれない。
第五十二条  国会の常会は、毎年一回。
第五十三条  内閣は、国会の臨時会の召集できる。総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、召集しなければならない。
第五十四条  衆議院が解散されたときは、四十日以内に総選挙、三十日以内に国会を召集。
○2  衆議院が解散は、参議院は閉会。
○3  緊急集会において採られた措置は、臨時のもの。
第五十五条  両議院は、議員の資格に関する争訟を裁判する。
第五十六条  両議院は、総議員の三分の一以上の出席がなければ、議決できない。
○2  両議院の議事は、出席議員の過半数で決する。
第五十七条  両議院の会議は、公開。
○2  両議院は、会議の記録を保存し、一般に頒布しなければならない。
○3  出席議員の五分の一以上の要求あれば、各議員の表決は、会議録に記載。
第五十八条  両議院は、議長、役員を選任。
○2  両議院は、院内の秩序をみだした議員を懲罰できる。
第五十九条  法律案は、両議院で可決。
○2  衆議院で再可決したときは、法律となる。
○3  衆議院が、両議院の協議会を開くことを妨げない。
○4  参議院が、六十日以内に議決しないと、法律案を否決したとみなす。
第六十条  予算は、さきに衆議院に提出。
○2  予算について、参議院で衆議院と異なつた議決をした場合、衆議院の議決を国会の議決とする。
第六十一条  条約の締結に必要な国会の承認は、前条第二項の規定を準用する。
第六十二条  両議院は、調査を行ひ、証人の出頭、証言、記録の提出を要求できる。
第六十三条  内閣総理大臣、国務大臣は、何時でも議院に出席できる。又、出席を求められたときは、出席しなければならない。
第六十四条  国会は、訴追を受けた裁判官を裁判する弾劾裁判所を設ける。
○2  弾劾に関する事項は、法律で定める。

更に要約

国会
  • 国権の最高機関
  • 唯一の立法機関
  • 衆議院、参議院は選挙された議員で組織
  • 議員になるのに国民は差別されない

議員の要件

  • 両議院の議員は兼任できない
  • 国会の会期中には逮捕されない
  • 会期前に逮捕されても議院の要求により釈放される
  • 演説、討論、表決によっては院外で責任を問はれない
解散する機能
  • 国会は総選挙を行う
  • 衆議院が解散しているときは参議院の緊急集会を開く
  • 緊急集会の措置は、次の国会開会で衆議院の同意がない場合は効力を失ふ
裁判する機能
  • 議員の資格に関する争訟を裁判する
採決する機能
  • 総議員の三分の一以上の出席がなければ議決できない
  • 秘密会を開くことができる
  • 議決は公表し頒布はんぷする
  • 各議員の表決は会議録に記載する
議決の対象
  • 法律
  • 予算
  • 条約
国政調査する機能
  • 証人の出頭
  • 証言
  • 記録の提出を要求
行政との関係
  • 内閣は国会を召集できる
  • 内閣は議員の要求により議会を召集しなければならない
  • 議案について発言するため議院に出席することができる
  • 答弁又は説明のために出席しなければならない
司法との関係
  • 裁判官の罷免のために弾劾裁判所を組織できる

要するに

なぜ国会は最高機関であるのか。なぜ戦前の国会議員は軍部と簡単に密になってしまったのか。つまり、民主主義とは何か。

アメリカのこと

「government of the people, by the people, for the people(Gettysburg Address, Lincoln)」が示すものは、人民を大切にするではない。これは人民に問うた言葉である。アメリカは果たして民主主義によって維持し続ける事ができるだろうかと。

アメリカは民主主義の実験場である。建国した人たちの理念が今もアメリカを支えている。そのために必要なものを整備し続けてきた歴史が合衆国憲法にはある。アメリカはこれを証明するために存在する。もし滅びれば、それを否定的に証明したことになる。

だから、アメリカは今日も存在する。この命題は決して肯定的には証明できない。だけど、アメリカが存在する限り、今日も否定できなかったと言える。アメリカという国がある。だから否定できない。

アメリカは決して証明できない命題を証明するために存在しているようだ。ここに合衆国の永遠性、永続性がある。この永遠性がアメリカを支えている。

日本国憲法はこの合衆国憲法の理想を受け継いだ。だから日本国憲法を学ぶ事はアメリカを学ぶ事でもある。それはそのまま近代国家とは何かを考える道である。

国家は、尭瞬の時代には既にあった。メソポタミアの地にもあった。どれほど古くとも、どの時代にも人は統治の理想を掲げた。今も伝わるところである。なぜ国家に理想というものが必要なのか。なぜ国家には理念が欠かせないのか。

ヨーロッパもアジアもアフリカも、様々な人々が、たとえアマゾンの奥地の集落であれ、ぞれぞれが違った道を辿りながら、様々な統治というものを生み続けてきた。アジアにはアジアの、ヨーロッパにはヨーロッパの統治の理想があった。王であれ神であれ、民衆であれ、その理想から逃れた者はいない。

統治のこと

統治とは何であろう。人々を治めるのには理想がいる。どのような傀儡の国家であろうと、人々の情熱を生み出すだけの理念が求められる。ISという国家にさえ彼らの理想がある。理念が厳然と存在している。

理想など嘘だ。そんなものは虚構だ、幻だ。都合のいいご都合主義だ。騙されるな。理念は実態を持たないではないか、なにひとつ強制する力を持たないではないか。誰が保証してくれるのか。理念が病気を治すか、飢えをなくせるか、キリストでさえパンを必要としたのに。

理想だけでは足りない。裏切り、詐欺、欺瞞。誰が守るというのか。誰も。戦争に動員され命が消費される。理念だけでは全然足りない。そんなものを信じるくらいなら…

どうすればいい?我々は何をもって立てばいい?

「信なくば立たず」

誰も国家の理想を信じずに生きてゆけない。なぜ人間は理念を必要とするのか。いや、なぜ理想ならば信じることができるのか?

この世界の最後のひとりとなったとしても、最後の瞬間まで人間は人間の理想を信じているだろう。この世界のどこかに自分の仲間がいると信じるだろう。滅びた多くの生命、集落、国家、みんなそう信じていた。そう思う。我々は何かを信じずに生きてゆくことはできない。我々の脳は信じる以外に、何ひとつ脳という虚構の中に世界を構築する方法を知らないから。

責任のこと

民主主義は優れているのか。人々の意見をよく聞き、議論を重ね、熟考の上で、政策を決定する。だが、これは民主主義の本質ではあるまい。これは民主主義の方法論に過ぎない。民主主義の本質は、結果を誰のせいにもできない点にある。

かつて、王ならば、誤まればその首を刎ねれば良かった。それで全ての責任を負わせることができた。その後で、新しい為政者が別のやり方で国を興した。

所が、民主主義には刎ねる首がない。愚かな国家元首である。それを選んだのは国民である。独裁者となって国を滅ぼした。その彼に投票したのは君たち市民である。無理な戦争に邁進した。こんな話は知らなかった、こんな結果は望んでいなかった。それは君たちの選択の結果だ。言い訳なら好きなだけすればいい。だが、知ろうが知るまいが、それが君たちの選択だ。こんな無能者だとは思わなかった。それを見抜けなかったのだ。もう遅い。

それを選択したのは君たちだ。君たち以外の誰でもない。その結果、国が滅びた。それだけの事。

誰かを裁く正義など君たちにはない。その誤りを検証するのはいい、だが、誰かの責任にできるのか?愚かな為政者?彼を選ばなければ違った道を歩けた?そう、そうならない道は幾らでもあったはずだ。そのためのチャンスが何度もあったはずだ。その悉くで失敗したのだ。今さら遅い。

誰にも結果の責任を負わせる事ができない。君たち自身でさえその責任は負えないはずだ。民主主義はそれを原理的に不可能としたのだ。投票した君たちの責任でさえない。君たちには責任を追及する権利さえない。君たちの国はその命数を使い切ったのだとさえ言ってもらえない。これが君たちの選択の結果だ。悪い結果だけを悲観するのは人間の勝手な思い込みというものだ。それ以上でもそれ以下でもない。

道を歩いた、その結果、そこにたどり着いただけの事。この事実以外の何も民主主義は許さない。誰かの責任になどさせるものか。民主主義は、権力を王から市民に置き換えたシステムではない。誰にも責任を負わせないように政治システムが変わったのだ。

我々は正当である時、初めて悪魔になれる。本当の正義は如何なる正当性も持たない。正当性に理由があるなら、別の理由によって正当性を失うだろう。だから正当性を主張する者の中に正義は存在しえない。だから民主主義には正義がある。責任という正当性を放棄したからだ。

だから民主主義は、国家が滅びないための制度ではない。滅びても構わない。自ら滅びることを選べるようにした。民主主義を否定することさえ、この制度は許容する。それでも構わないじゃないか、そこに民衆が残るなら。また再興すればいいじゃないか。国家など幾ら壊滅しても構わないじゃないか。

それだけの覚悟がなくてどうして民主主義を選べよう。誰かに託す方がずうっと楽だ。そうすれば失敗しても、誰かを縛り首にすれば終わる。失敗した者に石を投げつければいい。だが民主主義はそれを許さない。今まで選択をしたことがない者だけが石を投げなさい。ならば子供たちには石を投げる資格があるのだろうか。いや恐らくない。子供たちでさえそのような権利を有しない。

衆愚の何が悪い。それで滅びるのなら、それが世界のためだ。民主主義は国家をあと腐れなく亡ぼすためのシステムなのだ。国家の興亡など民衆の選択に託したまへ。苦しむのも死ぬのも彼ら/彼女ら自身なのだから。

そう、核のない時代ならこれでも十分だった…

選択ということ

選挙とは革命の事だ。民主主義に必須である革命権を日常の中に持ち込んだ。もし革命をするなら人数が多い方が勝つだろう?ならば、全員で投票すればどっちが勝つかはわざわざやらなくても分かるよね。

ワイマール憲法に欠陥があったによせ、ナチスはドイツ市民の選択である。気が付いた時にはどうしようもない状況に陥った?野望に燃える者が軍部を掌握した。そうなったら対抗する手段を民主主義は持たなかった。憲法が停止される。そうなる前に何度もチャンスはあったはずなのに。

その悉くを市民がこぼれ落とした。それが民衆の選択だったからである。それでも人々は選択した、そう言えるだけましではないか。

このか弱く無力な政治体制さえ運用できないのなら、どんな制度だって満足に運用できないだろう。これは失敗して当然のシステムなのだ。そのための安全弁も極めて脆弱なのだ。

民主主義が失敗を回避する方法はひとつしかない。決定までにたくさんの時間を費やす。つまり、ゆっくり考えなさい、これだけが民主主義の方法だ。百年後にはもっと新しい制度が構築されているかもしれないが、今はこの制度しかない。急ぎたい人は、だから全体主義へと向かう。

人類の歴史は暴力で溢れている。暴力をどう抑え込むかの歴史でもある。人間の敵は人間である。例え異星人と戦争をしても、人類の敵は人類である。異星人もまた人類であろうから。

アルキメデスは、今では名も残らない兵士の気分を害したために殺された。殺せと命じる者に異を唱えた者もまた殺された。なのに、なぜ議論を尽くすべきなのか。

憲法を廃棄することも停止することも簡単だ。書かれている理念を笑い飛ばすことも容易い。人の心を打たない言葉など幾らでもある。我々は理想を守るために暴力に訴えることもある。正義の名のもとに虐殺することさえ厭わない。それなのに、なぜ人間は武力は言葉で抑え込めると信じたのか。我々の憲法はただの紙切れに過ぎない。その何処にこれほどの力があると信じたのか。我々は暴力に屈することはある。確かにその通りであるが、それは我々人間が屈したのであって、我々の理念が屈したのではない。

言論は軍部によって追いやられたか?いやいやそうではあるまい。誰もそのようなつもりで戦争に突入したのではないだろう。先大戦の大きな特徴は、それでもあの焼け野原を誰かの責任にできる点にある。今度の民主主義ではそうはいかない。

2018年11月19日月曜日

引っくり返して掛けること - 割り算と掛け算

関連記事

割り算 In this Site

概要

割り算とは何を掛けたら元の数になるかを求めること。元の値が1の場合、そのような数値を逆数と呼ぶ。つまり割り算とは逆数の掛け算のことだ。ではなぜ我々の日常に割り算が必要なのか。多く、この世に溢れる数字は合計した後の値だから。それを元に戻すには割り算をする必要がある。

割り算

60 ÷ 2 = ?

「60 を 2 で割ったら何になるのか」「60 の中に 2 が何個あるか」と考えてもよいが「2 に何を掛けたら 60 になるか」と考えてもよい。

60 ÷ 2 × 2 = ? × 2

60 = ? × 2(2 に何を掛けたら 60 になるか)

掛けて1になるふたつの数を逆数の関係にあると呼ぶ。それとは別に、5 で割ったものに 5 を掛けたら元の数に戻る(0の場合は戻らない)。よって割り算と掛け算は逆数のような関係にあると言える。

2 と 1/2 は逆数の関係にある。これに割り算掛け算までを纏めて考えると ÷2 の逆数は ×2(÷2 に ×2 したら 1 になるから)になる。÷2 は ×1/2 と同じ、逆数は ×2。

なぜ ÷2 と ×1/2 は同じか?
60 ÷ 2 = ?

① 両辺に割る数と同じ数を掛ける(割り算の逆数を掛けて割り算を無くす)。
60 ÷ 2 × 2 = ? × 2
60 = ? × 2

② 逆数を掛ける(逆数を掛けて右辺を整頓する)。
60 × 1/2 = ? × 2 × 1/2

③ すると次のようになる。
60 × 1/2 = ?

割る数が分数でも同じ。2/3 と 3/2 は逆数の関係。÷2/3 は ×3/2 と同じ。すると ÷2/3 の逆数は ×2/3。
60 ÷ 2/3 = ?

① 両辺に割る数と同じ数を掛ける。
60 ÷ 2/3 × 2/3 = ? × 2/3
60 = ? × 2/3

② 逆数を掛ける。
60 × 3/2 = ? × 2/3 × 3/2

③ すると次のようになる。
60 × 3/2 = ?

2018年11月16日金曜日

これを知らしむべからず - 孔子

巻四泰伯第八之九
子曰(子曰わく)
民可使由之(民はこれによらしむべし)
不可使知之(これを知らしむべからず)

「これにらしむ」という言葉には、何となくだが、大樹の近くに集まる感じがする。

側に居るのが良い。そう自発的に思わせれば、人はそこに集まるものだ。難民が向かう先だってそういう国に決まっている。

では「知らしむべからず」はどういう意味か。知る必要がない、教えてはならない、理解できない、本当にそうであるか。知る事についてこれ程よく考えた人が、教えなくていいなどと簡単に言い切るはずがない。

ならば、どういう意味か、と一歩踏み込んでみるには、孔子は「知る」と「統治」について、考え抜いた人に違いないという直感だけが頼りだ。孔子は、どういうつもりで「知らしむべからず」と言ったのか。

そもそも、「由る」時点で、民が無知であるはずがない。彼らにも理解する力はある。だから政治に従う事もできるし、得心するからこそ国に留まりもする、訪れもする。もしダメだと思えば逃げてゆく。為政者にとって、民が集まってくるのがひとつの理想ではないか。ここにアジアの統治の理想がある。

そうであるならわざわざ教える必要もない。教えようとしてもならない、知らせる必要もない。彼らに見せて彼らに判断させればそれで十分ではないか。それを良き統治と思うならば、必ず彼/彼女らはこの国に留まるであろう。

人々からの支持を得れば、その話は天の下であまねく広がるに違いない。その話を聞いた人々は自然とここに由ってくる。孔子は水の流れを見ながら思索を重ねたような所がある。これは広大な大地を大河が流れる風景から齎らされた思想ではないか。

高い所から低い方へ水は流れる。民もまた同じだ。人々が由らしむのは自発的だ。強制しても騙しても仕方がない。

民を従わせることはできるが、従うべき理由を理解させることは難しい。民には理解できない、理解させる必要もない、そういう解釈にはどうも同意する気になれない。

民は従えばいい、理解する必要などない、このような理解では面白くないと思う。所が、この解釈は乱暴に見えて、アジアの統治の理想ときちんと重なる。

日出而作(日が出れば稲作をし)
日入而息(日が沈めば家に帰って休む)
鑿井而飲(井戸を掘って水を飲み)
耕田而食(田畑を耕して飯を食む)
帝力何有於我哉(帝の何が私の人生と関係しているのか)

「従う」理想を追求すれば、そのような意識を民にさせない事に尽きる。それが統治の理想である。従わされていると思っている限り、その統治には何か欠陥がある。

ならば、民は「由らしむ」べきだが、民に「由らされている」と意識させるのは誤りとなる。帝がどうしたって?おらの生活とは何も関係ないそ。こう民に謂わせる状況こそ、民を由らしめているのである。そして知らしめていない状況と言えるのではないか。

堯舜の理想を、江戸時代の為政者たちが知らなかったはずがない。民が幸せに生きてゆくのに、究極的には政治で何が行われているかを知る必要はない。知らせる必要もない。

では、これを歌った老百姓は、帝の存在を知らない者であろうか。そうとは思わない。彼は日常生活の中で帝について歌っていたのである。彼は十分に意図的であったはずだ。もしこの百姓がこの歌を帝に聞かせるために歌ったとすれば。それは民の理想を語った事になる。

このように生きて行けるなら私たちはなんと幸せであろうか。そう歌うこの百姓に現実の苦しみがなかったはずもない。それでも帝に自分の思いを伝えたかった。彼の中に感謝の気持ちがあったと思うのは不自然であろうか。彼は知っていたはずなのである。

私は特に統治について何かを知りたいとは思いません。もしそれが私たちに叶うなら集まりしょう。もし叶わないものなら去ってゆくだけの存在です。私はあなたたちの理想に集うのではありません。あなた方がもたらすこの世界に生きて、それを決めるのです。

孔子は知るということについて考え抜いた人だ。知ろうとする事を止められない事もよく知っていた。その人が民の知ろうとする力を軽んじたりするものか。

民は自然と集まるものだ。どうして集まるように説得などできようか。

民主主義とはかなり違う思想に見えるかも知れない。しかしその底流は今の価値観と何ら変わることもない。

2018年10月30日火曜日

保守とリベラル、二項対立について

言葉と世界

全身が毛に覆われ、尾を激しく振る。真っ赤な口から牙が剥き出し、涎がだらだらと垂れている。見つかれば飛び掛かりあっという間に噛みついてくる。この魑魅魍魎の怪物がもし「犬」であるならば、単に飼い主とじゃれているだけではないか。

言葉には命がある。言葉は世界を変える。バスカヴィル家の犬でさえ、所詮は犬ではないか。化け物、物の怪の類ではない。今日の僕たちはそう考える。

名前が付けられると、それは言葉による制限を受ける。行動も禁止される。犬に魔力があるはずがない。火を吐くはずがない。化け物でさえも名前を持つから世界に参加できる。なにも変わっていないのに。

自然の一風景として、たった一枚の葉が、秋の訪れを知らせる。もしそれが神の啓示だったら。そんなこと、どうして人に知れよう。太陽が隠れれば神の意図かも知れない。それを否定する合理的な理由があるわけでもない。それは単なる天体運動だよ、と言ったところで、全知全能の神である。

50億年前から計算し尽していたとして何の不思議があろう。それは啓示かも知れない。そうでないかも知れない。神の前では言葉は無力だ。この言葉の性質からは誰も逃れられない。言葉を失わない限り。

二項対立

保守、リベラル。左翼、右翼。伝統、革新。全体主義、自由主義。資本主義、社会主義。分散と集中。陰と陽。儒家と法家。デュオニソスとアポロン。縄文と弥生。人間は世界をふたつに別けて考えてきた。

それがとても自然なのは、多分に脳の構造によるものだろう。宇宙のどこかには3以上でなければ理解できない知性がいるかもしれない。この星はバイナリな論理で構築されている。それはシナプスの運動ともよく符号する。人間がどれほど複雑な生き物でも、ON/OFF の集合体である事は疑いようがない。何億もの ON/OFF が多層構造となって重なり、どこかで発火する。ある閾値を超えた ON/OFF だけが人間の意識に捕捉される。

ニュートンやライプニッツが研ぎ澄ました微積法という刃物で、人類は手当たり次第に世界を切り刻んできた。中には切れないものもあった。発散と収束。有限と無限。脳は二項対立で考える癖を持っている。

細胞の内と外に境界がある。細胞はもしかしたらそういう仕組みではないかも知れないが、細胞を観察する我々はそのように理解している。そこに浸透圧があることも知っている。

外界とやり取りするのに沢山のポンプを動かしていることも知っている。生物は入力と出力を持つ回路である。組み立てられ、成長し、やがて停滞し、壊れてゆく有機物の化学回路。

ヘーゲル

テーゼとアンチテーゼが対立する。二項対立の関係性には、対立、妥協、敵対、競合、と様々ある。そうなる理由はひとつしかない。ふたつあるからだ。

その対立の行く末はそう多くない。
  1. 共存する道
  2. 統合する道(アウフヘーベン)
  3. 隔離する道
  4. 支配する道
  5. 絶滅する道

ならば人間の態度は必ずどれかに分類できる。共存しようとする人、統合しようとする人、隔離しようとする人、支配しようとする人、破壊しようとする人。これらの態度が人間の行動を決める。それが言葉の端々にも現れる。どのような言葉も、この何れかに分類できる。

だから内容など聞かなくても、態度が分かれば何が言いたいのかが分かる。それが分かれば内容は特に必要ない。

これらの関係性の中で相手を滅ぼそうとする議論が問題になっている。同じ事件を悲しんでいるふたりが、急に対立しはじめ意見を戦わせ、相手を罵る。同じ方向を向いているのになぜ争うのか。

二つしかないから対立する。二つしかないから、相手を滅ぼす事を考える。現実の多様さ、違い、複雑な絡み合いを受け入れるならば、そう簡単に結論には至らないと知っているはずなのに。

統合もまた絶滅の道である。クラークが描いた幼年期の終わりのように。テーゼとアンチテーゼがアウフヘーベンすれば、テーゼとアンチテーゼは消滅する。蝶から見れば、幼虫は消滅したと言えるか。夢の中の自分は目が覚めたら消滅したのか。

多くの生命がこの星で絶滅してきた。ある種は別の種となることで絶滅した。ある種は完全に命の螺旋を絶たれた。一度死に絶えた生命が再び出現することは確率的に無に等しい。人工的に再生することも困難だ。50億年もすればこの星は消滅する。それまでに地球の生命は宇宙へと進出できるか。

思想もまた滅びる。そしてリインカーネーションする。壮絶な体験で死に絶えたと思った思想が、復活する。打ち砕いたはずのナチスが蘇る。がん細胞が頑強なまでに増幅を繰り返すのと同じように。

相手を打ち砕くには暴力が必要である。論戦もまた相手を叩くなら暴力的である。言語が行動を伴うのも自然である。言論の自由はある。行動の自由はない。それが我々の社会である。だから行動を支える正義がいる。正義が絶対的であるほど、相手を撃つ力は強い。人間は正義を持たなければ虫も殺せない存在だ。

右翼と左翼

右翼と左翼の歴史はフランス議会から始まる。議長から見て右側にいる人々、左側にいる人々。最初から対立はふたつの間で始まった。三つはない。

右翼にいた人々は保守であった。左翼にいた人々は革新であった。保守である人々は、昨日と同じ今日が明日も続くという考えに基づく。変化は緩やかな方がよい、大きな変化は大きな負担を生むという慧眼に支えられている。

革新である人々は、この世界は常に工夫し改善する余地がある。理想からはほど遠い。今日を変えれば、明日はきっと違う日になる。

これらふたつは、変化に対する態度に違いがある。変化への受容性が、そのまま時間感覚の違いになる。保守の人は自然とゆっくりとした変化を支持する。革新の人は一気に変わることを厭わない。

だから、保守だから穏健なのではない、革新だから性急なのでもない。考え方の違いが自ずと時間に対する感覚の違いを規定する。保守と革新は、現状との差に着目して、大きく変わる方が革新、小さく変わる方が保守と分類できる。

20世紀最大の変革は共産主義であろう。この世界を二分する改革は、極めて人工的なものであったが、より変革的を求める共産主義が革新に、そうでない勢力が保守と分類されたのも当然である。共産主義は左翼、資本主義は右翼に分類された。森の奥深くに住む人々は置いてきぼりであったが、彼らはこの対立にほどんと無関係であったから無視できた。

こうして何かが起きる度に、それは革新か保守かという観点で左翼か右翼に分類される。容器がふたつしかないのだから、必ずどちらかに収納される。こうして物事は単純化してゆく。

日本が経験した次の変革は敗戦であろう。昭和20年以降に起きた社会的変革はアメリカ主導で行われた。これに賛意する側が革新、反意する側が保守になる。こうして、日本では左翼が戦後派、右翼が戦前派となった。

左翼と呼ばれれば、左翼的に考えるようになる。右翼と呼ばれれば、右翼的に考えるようになる。狂人と呼ばれれば、そのうち狂人と見分けが付かなくなる。徒然草にもそう書かれている。

(第85段)
狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。を学ぶは驥の類ひ、しゅんを学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。

右傾化は日本だけの現象ではない。すべての先進諸国で起きている。ヨーロッパでも極右政党が支持を伸ばしている。イギリス、フランス、日本、ドイツはどれも同じような問題に直面し、それぞれの方法で解決しようとしている。

右傾化する理由に急激な変化がある。100年かけて行うべき変化を10年でやろうとするなら右傾化する。10年でやるべき変化を100年でやろうとするなら左傾化する。右傾化、左傾化と時間の関数は常に一定であろう。

この時代の右傾化は、激動の時代に入った証拠であろう。反中、反韓、ナチス、都合のよい標語は歴史の中にある。だがそれは変化の本質とは何も関係ない。右傾化は変化に対するリアクションに過ぎない。嵐が来たからと言って、問題が解決するわけもない。

There's an east wind coming, Watson.
I think not, Holmes. It is very warm.

縄文と弥生

この国の多様性は二項対立の内包に支えられている。それが縄文と弥生である。ニーチェが{アポロン的 , ディオニュソス的} と言うとき、わが国は {縄文的 , 弥生的} と答える。

この国は決して単一ではない。多種多様な民族、文化の混在である。近年、様々なバックボーンをもつ方々も帰化している。この国は大陸の終端にある。そもそも、此処は逃げてきた人々の吹き溜まりである。そうでなければ誰があんな厳しい海を越えてまで辿り着こうとするものか。

この国には雑多なものがある。誰もが雑種である。それだけがこの国の強みだ。ではこの国の統一感は何が支えているのか。ひとつには日本語がある。ひとつには天皇がある。それ以外の何があるだろうか。

江戸時代は藩の連邦制が敷かれていた。およそ三百年という鎖国の間には、国内の流通も制限された。多くの人が自分の生まれた土地で一生を終える。それが一種の純化を促す。国学も朱子学も蘭学もこの時期に磨きに磨きぬいた。この蓄積が明治維新で爆発し近代国家への乗り換えを支える。それは今も県民性として残っている。

この国にはなんと多くの二項対立を見出すことができるか。だれか一人の突出がない。必ずもうひとつの価値観が生まれる。そのどちらかだけを選ぶなんてできない。例として北山、東山がある。

アジアと西洋

アジアにはアジアの統治思想がある。中国に生まれた様々な思想家の手によって紀元前には体系化されていた。日本はこの考えに影響された上で国を作ってきた。それを支えるのは「天」という思想であろう。

西洋はキリスト教の影響を強く受けてきた。近代国家の統治思想は、ヨーロッパ、中東などを経て、権力(王)と権威(教会)という二軸の中から誕生する。それが権利の章典である。この時点で法が王、教会と並び立つ。王と雖も法を自由にすることは禁じられた。王、神、法という構造が、行政、立法、司法にシフトするのは自然だと思う。アメリカに近代国家が誕生する。フランスで革命が起きた。

江戸時代に人々は科学技術に支えられたヨーロッパの圧倒的な軍事力を背景とする恫喝と出会う。我々の統治思想ではこれらの軍事力に対抗できない。だから、我々の統治思想は見直されなければならない。それともアジアの統治思想でもそれは可能であるか。

長い鎖国があったからこそ、日本は西洋から入ってきた技術に少しも躊躇しなかった。それを取り込んで自らの手で組み立てるのに多くの時間は必要なかった。だが、歴史は試行錯誤するほど多くの時間は与えてくれなかった。

明治維新において我々は、アジアの統治思想の上に近代国家を構築すると決めた。ペリーと通常条約を結んだ幕閣たちはアジアの統治思想を携えてヨーロッパと向き合った。伊藤博文は西洋のセの字も知らなかったはずだが、彼の手になる帝国憲法は、よく西洋を理解しており、彼の慧眼には驚くべきものがある。

どうして我々はこんなにも簡単に近代国家に乗り換えることができたのか。キリスト教の代わりに天皇を権威に据えた。これが日本の独自性であった。誰かが、彼らを支える教会が、我が国では天皇と同じであると気付いた。小室直樹によれば、ここに日本の悲劇がある。

我々はヨーロッパとアジアのハイブリッドとして国家を樹立した。だから、憲法をよく学ぶだけでは足りない。同じ熱力で論語も必要としている。それは今もである。

法と統治

日本人は理念、理想を絵空事と考える。ヨーロッパの人々が考え抜いてきた思想であっても、借り物と呼ぶ。自由民主党の憲法私案は近代国家をなにひとつ理解していない証拠として挙げられるが、それで困ると考える人は少ない。彼らは憲法を武家諸法度の延長と考えている。

憲法は理念を記述する。その理念に基づいて権力を制限する。だが、我々はそれを絵空事と考える。ルールは重要であるが、守る事でうまく動かないなら守る必要はない。

我々はそういう方法で十分だと考えている。ここに日本の法体系の源流がある。我々にとって法は建前であって「規則は規則」である。力を持つものがその気になればそれに抗う方法はない。それを体験的に知っている。それに対抗するのは力しかない。

なぜそのような通念でよいのか。なぜヨーロッパにある法の強靭さを信じる事ができないのか。

日本は治世で成り立っているからだ。治世が最初にあり、その次に法が作られる。法に理念を書く必要ない。なぜなら治世という考えの中に理念が含まれている。我々にとっての理想とは治世の理想であり、その源流は堯舜にある。

なにも悪い事が起きず生きられる、なんと素晴らしい事か。

我々の統治思想は、自然発生的な考え方に近い。それは勝ち取るものでも当然の権利でもない。基本的人権を幾ら叫ぼうとも津波は人を飲み込むではないか。

治世の理想が根底にある。憲法は最上の法律かも知れないが、統治機構の最上位にあるものではない。そういう統治思想がある。我々には法の理念よりも更に上位の統治理念がある。

だからこの国は法に明記しない所をぼんやりと運用するのに長けている。現場の判断でうまく処置するのに重きを置く。明文化すると、切り捨てられるものがあることを知っている。正体ははっきりとさせないままにする強靭さと永続さを知っている。不可思議のまま置いておくほうが、きっと役に立つ、そういう考えがある。

理想、理念から出発して原則を大切にするよりも、状況に合わせた運用の妙に重きを置く。だからヨーロッパのように法や原理を最も重要と考えていては理解できない部分があるのは当然だ。

自然観と統治

ヨーロッパでは、キリスト教によって自然は神の造形物となった。一神教の思想と砂漠はよく似合う。ヨーロッパが深い森に覆われていた頃、おそらくキリスト教は一神教ではなかった。

人間が神にとって特別の存在であるならば、神が造形した自然は人間にとって恵みである。自然にあるものをどう使おうが勝手である。聖書には似せて造ったと書いてある。それだけで自分たちを特別と信じてしまう。

日本の自然観は、自然の強靭さに裏付けられている。少なくとも、産業革命以前の人間の力でどうにかできるようなものではなかった。そういう歴史が、人間程度に打ちのめされるものかという幼児のような無邪気さの裏付けになっている。科学的根拠を示されても絶滅など信じられない。我々の自然は強い。その程度の自然観である。だから、どこかで生きていると信じている。

アジアでは王に権威があった。権力は家臣が持っていた。教会ではない。なぜ法家は三権分立を生み出すことができなかったのか。

先に進むために

ヒットラーがあれだけの大事業を成しえたのは何故か。その切っ掛けは右傾化にあると思われる。それが彼を打ちあげるためのブースターとなった。打ち上がれば切り離される。

大勢力とはそういうものだ。それが民主主義である。多くの為政者が危険だと知りつつも、袋小路から抜け出なかった。それと比べれば、少なくともヒットラーは袋小路に立ち止まる人ではなかった。それがどのような悪夢であれ立ち止まるよりはましだと考えた人は多かったであろう。

彼らは変化を求めた。そういう意味では革新であった。だが戻りたいのはもと居た場所だった。そういう意味では保守であった。もと居た場所に戻ろうよと言う人々と、別の場所に行こうよという人々がいる。場所が遠くなるほど、彼らの希求は強くなる。願いが強くなれば暴力的になる。

兵庫県警察-雑踏警備によれば、群集心理は通常とは全く異なる振る舞いをする。

明石歩道橋事故の教訓を受けて、人間の心理から問い直した素晴らしい仕事であるが、それの教える所によれば、どのような人であっても、ある条件下においては豹変する。人間はそのような動物なのである。なぜなら人間はそのような状況を前提として進化していない。蟻たちとは違う進化をしたからである。都市化によって初めて起きる状況に生物として対応しきれない場合があるのは当然と考えられる。

このドキュメントが示す群集心理の特徴、軽薄性、無責任性、興奮性、暴力性、直情性、付和雷同性を眺めていると、これがそのまま炎上と呼ばれる現象と類似している事に気付く。インターネットではそういう状況に好む人もいる。ネトウヨと呼ばれる人たちの議論もこれと同じだ。それらはまるで群集心理のように振る舞う。それは現象である。

インターネット上ではこれらの群集心理は一過性のものではなく、継続性を持っている。ここが大きな特徴とも思われる。インターネットという特殊な状況が、この興奮状態に対して、一種のハレを求める、一種の依存性を持っていると考えられる。これが大きな流れを持てば人間の力では如何ともし難い潮流を生む。米内や井上ではその流れを止めようがなかった、そういう無力感がある。

なぜ我々はこうも簡単に二項対立のどちらかに落ち込んでしまうのか。

警戒心と依存心、忌避と賛意、左翼は政府に銃を向けられて戦場に立つのを警戒する。右翼は近隣諸国に征服され奴隷となるのを警戒する。彼らが語るものは国家のようで国家ではない。世界でもない。平和でもない。なぜ対立が必要なのか。ふたつあるからだ。

絶滅の科学

現在は、経済がすべてを決するという考えが先鋭化した時代と言えるだろう。かつて、我々の価値観は、目先の利益に走るのを由としないものであった。平家物語を読まなくても、「奢れるものも久しからず」という考えがあった。

この世界は、未来永劫つづいてゆく。この世界もずっと続いてゆく。そう信じるならば、未来に対してどういう生き方をするかという考え方も重要であろう。

核兵器の登場が、人類の絶滅を現実化した。この現実が、未来永劫という考えを揺さぶる。もし滅びるのなら、滅びる明日よりも、今を謳歌する方がよい。手に入るかも分からない10年後の利益よりも、目先の利益を最大化する方が生き残る可能性は高くなる。

これが20世紀の価値転換ではなかったか。

天という思想、神という存在は希薄になった。核兵器の前で神が無力であることは広島、長崎が教えてくれている。

快楽の追求はいつの時代も、どんな場所でもあった考えである。ギリシャの哲学者たちだって考えていた。それでも未来を疑った者は少ないであろう。黙示録に恐れるのは永遠を信じているからだ。

科学が永遠を児戯にした。いつか滅びる、いつか絶滅する、宇宙さえも希薄になる。原子さえ存在できない未来が来るかも知れない。目の前の利益を追求することに躊躇する必要はない。今日の勝利者になるべきだ。

この時代とイスラム過激派には何か関係があるようにも思える。永遠という概念が世界を形作ってきた。あらゆる宗教はそれを前提とする。それが崩壊した。これほどの変革が時代に激動を与えないはずもない。

権利

失われることに人間は耐えられない。失った悲しみを乗り越えられるほど人は強くない。だから永遠性を必要とした。我々が寂しさで絶滅せずに先に進めるのは脳がそれを発見したからだ。永遠がある。だから、それは悲しくはない。そういう知性をもった生物として誕生した。寂しさで死ぬのは人間だけではない。

永遠が失われれば、国家が肩代わりする。右傾化はそういう流れだろう。永遠の代わりをどこかに見つけなければならない。国家はその中で最も簡単に見いだせる存在のひとつだ。

人間は時間が一過性の一方通行であると理解している。時間は巻き戻せない。と同時に時間が終わるという事も想像できない。自分が消えても時間は動いているはずだ。人類が滅びても世界は動き続ける。ならば時間とは動くことか。すべての物質が絶対零度で止まっても、時間は流れているはずだ。人間は時間が終わるという状況を考え出せない。

時間を永遠と仮定するから様々な思想が成立する。永続の具象として神や天が仮定された。その補助線を頼りに、思想を発展させてきた。

もし、それが消失したらどんな事が起きるだろう。

なぜ人間は権利を考え付いたのか。

権力とは禁止する能力のことである。権力の源泉は許可にある。そのためには禁止するための何かが必要である。人々を説得するだけの。それが力にあればこれは権力であろう。これが命令にあるならばそれは権威であろう。これが正当性にあるならば法であろう。

権利の根源は所有にある。私が所有するものは奪われない。これが権利の基本だ。よって権利は所有の延長にある。そして所有とは自然から略奪する事である。

この命さえも自然から略奪した。だからこの命は私のものと考える事ができる。恐らく虫たちはこういう考えをしていない。そして、自然から略奪した以上、そこに正当性はない。奪ってきた、そして私がいま所有している。他の誰かに奪われた所で、何の文句を言えよう。アフリカのサバンナではよく見る景色だ。

永遠を超えて

所有を守るためには力がいる。命令がいる。正当性がいる。そういう守られているという考えから、最初から所有しているはずだと思想を転換した所に近代国家の根本がある。人間もまた自然の一部なら最初から所有しているものがあるはずだ。それは決して人間と切り離せないものとして存在しているはずだ。

神が与えたものは神に奪われるだろう。誰かが守っているものは、誰かに奪われるだろう。だが最初から所有している権利は奪えないはずだ。その人の腕をもぎ取ろうと、その人の権利は奪いようがない。この考えが基本的人権の正当性を裏付ける。

自然から奪ったものに権利はない。所有した瞬間から権利が発生する。この考えならば太古からあった。全ての法律は所有に関する係争を裁くために存在している。

近代国家は、新しい権利を発見した。人間が自然から奪ったものだけが権利ではない。我々の中にも権利がある。それは所有というよりも、不可分なものである。だから奪えない。不可能なものの正当性を論じても意味はない。そういう形の所有を発見した。

誕生したものはすべて祝福される。誕生はすべて正しい。これが神の意志である。その1秒先に例えどのような運命が待って居ようと。その瞬間にすでにある権利を持っているのだ。この考え方に永遠は必要なかった。

神に与えられるのならば、それは永遠であろう。そうでなければ説得されまい。だが生まれつき持つ権利という考え方に永遠は必要ない。永遠などなくとも納得できる。それが近代国家の出発点となった。その始まりから永遠を排除できた。

永遠によって支える必要のない価値観。永遠を必要としない正当性。もし永遠を信じることができないならば、それは忘却してしまえばいい。考えなければ、それは存在する。否定しなければ、それは存在できる。存在しようがすまいがどちらでもいい。

なぜ我々は意味もなく否定するのか。ふたつあるからだ。

人が生まれながらに権利を持つといえば、孔子は笑うだろうか。キリストは興味のない顔をするであろうか。

2018年9月26日水曜日

割り算とは - 四則演算

関連記事

割り算 In this Site

概要

割り算とは掛け算のこと。除算は掛け算に変換する途中の式と考える。

四則演算

四則演算と聞くと、それぞれが並列して対当であるような気がする。



演算演算子
足し算、加算addition+1+2=3
引き算、減算subtraction-3-2=1
掛け算、乗算multiplication✕,*3*2=6
割り算、除算division÷,/6/2=3

引き算

引き算は例えば次のように書く。
5 - 3 = 2
3 - 5 = -2

これは負の値を知らない間は足し算と同等の演算のように思えるが、マイナス値を知ると足し算の一種として考えられるようになる。
5 + (-3) = 2
3 + (-5) = (-2)

この考え方の良い点は、順序を入れ替えられることである。
(-3) + 5 = 2
(-5) + 3 = (-2)

これは引き算では得られなかった利点である。つまり引き算とは負数を含めた足し算と考えられる。よって引き算は足し算の一種と考えてもよい。引き算で出来ることはすべて足し算で出来る。逆に引き算だけでは足し算にできない。

-1を掛けるようにすれば実現できる。
(-3) - (-1*5) = 2

割り算

割り算は例えば次のように書く。
6 ÷ 3 = 2
3 ÷ 6 = 0.5

これは分数を知らない間は掛け算と同等の演算のように思えるが、分数を知ると掛け算の一種として考えられるようになる。
※分数は / で表現する。2分の1は(1/2)と記述する。
6 * (1/3) = 2
3 * (1/6) = 0.5

この考え方の良い点は、順序を入れ替えられることである。
(1/3) * 6 = 2
(1/6) * 3 = 0.5

これは割り算では得られなかった利点である。つまり割り算とは分数を含めた掛け算と考えられる。よって割り算は掛け算の一種と考えてもよい。割り算で出来ることはすべて掛け算で出来る。

割り算は、掛け算の一部が分からない時に用いられる特殊な形と考えてもよい。
5 * □ = 15
□ * 15 = 3

掛け算の□の部分が分からない時に、どうすればいいか。これを求めるのが割り算だとすれば、これは掛け算を完成させるための途中の計算である。
□ = 15÷5
□ = 3÷15

割り算は掛け算である。割り算を考えるのは掛け算を考えるのと同じだ。

すると、
(5/3) ÷ (1/6) = □

という割り算は、

(1/6) に何かを掛けたら (5/3) となる掛ける数を求めることであるし、
□ * (1/6) = (5/3)

(5/3) に何かを掛けたら (1/6) となる掛ける数を求めることにもほぼ等しい(得られる答えは逆数になっている)。
(5/3) * (1/□) = (1/6)

式の変形をするなら。
両辺に(1/6)を掛けたら (5/3) = □ * (1/6)
両辺に(3/5)を掛けたら 1 ÷ (1/6) = 6 = □ * (3/5)

(3/5)は次のように表現できる。
(3/5) = (5/3) * (3/5) * (3/5)
または
(3/5) = 1÷(5/3)

こうしてみると、割り算は分数をひっくり返すための掛け算とも言える。
(3/5) * □ = 1

二則演算

二則演算(足し算と掛け算)として理解するだけでも十分ではないか。



ただし日常会話では、「5にマイナス3を足して」というよりも「5から3を引いて」という方が単語の数は少ないし、聞き間違えなどの誤解も発生しにくい。ヒューマンエラーを軽減する役割がある。だから、四則演算を理解しておくことも大切である。


2018年8月25日土曜日

日本国憲法 第三章 国民の権利及び義務 VII (第三十六条~第四十条, 刑罰)

第三十六条  公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
第三十七条  すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。
○2  刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。
○3  刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、国でこれを附する。
第三十八条  何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
○2  強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
○3  何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。
第三十九条  何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。
第四十条  何人も、抑留又は拘禁された後、無罪の裁判を受けたときは、法律の定めるところにより、国にその補償を求めることができる。

短くすると

第三十六条 公務員による拷問、残虐な刑罰は、絶対に禁ずる。
第三十七条 公開裁判を受ける権利。
○2 証人を求める権利。
○3 弁護人を依頼できる。依頼できないときは、国で附する。
第三十八条 自己に不利益な供述を強要されない。
○2 強制、拷問、脅迫、不当に長く抑留、拘禁された自白は証拠とできない。
○3 唯一の証拠が自白である場合は、有罪を科せられない。
第三十九条 実行の時に適法であつた行為、既に無罪とされた行為は、刑事上の責任を問はれない。同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。
第四十条 無罪の裁判を受けたとき、国に補償を求めることができる。

要するに

刑罰は復讐ではないという。なぜか?

考えるに

熊が出て、村人を襲い殺していた。それは理不尽であり、残虐であり、許容できない。その凶暴性を甘受できないから、村人は物理的な対抗を模索した。その結果が殺す事になっても、ほんの少しの痛みで済むだろう。

熊に向かって話せば分かるというのは、勇気のある立派な行動かも知れない。だが相手も同様の考えとは限らない。ウィルスをどれだけ諭そうと治癒はしないだろう。それが可能なのはお釈迦様だけのはずである。

相手と理解しあえるという信念は常に真実だと思う。だが常に通用するとは言えない。それを貫くには力がいる。または勇気がいる。凶弾に倒れた人のなんと多いことか。同じ人だから、同じ民族だから、友人だから、そのような信頼に基づいて行動した人が倒れた事例のなんと多いことか。いわんや熊が相手ならば。

人間は誰でも凶暴さを憎む。憎むならば、それを排除するのは当然の要求である。そのために暴力が必要ならば、それも当然の権利に含まれなければならない。我々は暴力の前に屈服する事はあっても、それを許容することは最後までありえない。

よって、正義には暴力が必要だ。正義が自分の行動を正当化するのなら、暴力を正当化するのも正義である。正義だけが暴力を正当化する。我々は撃退する力を持っているならば何ら恐れる必要はない。

我々は誰もが反撃する権利を有する、これを正義と呼ぶ
熊に襲撃されたならば、これを迎撃するのは当然の行動である。なぜなら、これは生存を賭した戦いだからである。時に、相手を追い返すだけでは不十分かもしれない。二度と来ないだけのダメージを与える必要があるかもしれない、それが致命傷であってもだ。これも当然の権利に含まれなければ道理が通らない。

熊に襲われたならば、きちんと生き残り、熊が二度と襲えないように対処しておく。どのような方法があるかは模索していたとしても基本的な考え方は変わらない。ただ森に返して再び襲来するようでは対策が不十分としか言えない。次が無事である保証はないのだから。殺してしまえ、という意見も十分な説得力を持つ。それは猟師が狩猟で生計を立てるのとは違う。

かように集落に降りてきた熊を追い返す事に異を唱える人はおるまい。そのまま人間が殺されてしまえ、熊のために命を捧げよと主張するのは余程の場合だけである。村の人を襲い、暴れる熊を殺したとしてその正当性の何が揺らぐか。だから、小笠熊、このような凶悪な男を殺した所で何の罪に問われるだろうか。

復讐
人間がやることは野生動物もやっている。野生動物がやることで人間がやらないことはない。よって、人間が野生動物に対してやることは、人間に対しても行う。

熊と人間の違いは、宗教の違い、人種の違い、国家の違い、文化の違いと何ら変わらない。それは死んでゆく人の数を数えれば明白である。野生動物のように扱われた人間のなんと多いことか。別に過去の話ではない。

我々は生き残るための権利を行使する。正当防衛も、集団的自衛権もその延長線上にある。この正当性の延長線上に復讐もある。こう考えてみればよい。復讐とは、正当防衛と全く同じ論理で構成されている。復讐とは、報復のためでも、憎しみのためでもない。

正当防衛と復讐の違いは時間軸に対する置き場所の違いだけである。前に置かれたものを正当防衛と呼ぶ。後に置かれたものを復讐と呼ぶ。

終わった後に行使できる正当性
誰かに傷つけられ、相手が逃げたなら、何も終わってはいない。いつ戻ってくるか分からない。次に傷つけられるのが誰かは分からない。その中にまた自分の大切な人が含まれるかも知れない。

相手が存在している限り、その危険性は残っている。そのような状況が放置されるならば、危険性は消失していない。ならば、こちらから先に出向いて相手を征伐しておくのも正当防衛に含まれるだろう。

復讐は危険な状況が何も去っていない、という認識に基づく行動だからだ。だから、その後であろうが、どこまでも追い続け、二度と危険が及ばない状態を回復すること、そのために相手がどうなろうと構わない。大切な人が傷つけられた時から異常状態はずっと続いている。次の被害など絶対に認めない。これを終わらせるためには、目の前の危険性を、その可能性をゼロにするしかない。

そうなって始めて人は安心して寝られるのだ。ただ追い返すだけでは不十分である。そういう認識が復讐を支えている。

では、どこまですれば安心な状況が手に入るのか
復讐の心理には、例えば死んでしまった愛する人を二度と汚れさせない、という気持ちを含まれるだろう。その犯人が生きている限り、汚され続けていると考えるならば、復讐は当然だが、一刻も早く相手を殺す必要である。これは決して傷ついた心を癒やす話ではない。

もし犯人が再び現れて危害を加えるかもしれない。そうしたら、人は自分と被害にあった人を重ねるだろう。その可能性が1%でもあるならば、それは相手からの攻撃が今も続いている状況と認識すべきなのだ。だから、今も反撃しなければならない状況にある。どうして復讐を止めろなどと言えるだろう。

その者はアルプスの奥深くまで連れてこられた。周囲には数人の屈強な男たちがいる。ご神託は彼を許すと出た。しかし、長の娘と交わった事を我々は許すことなどできない。雪の山中で彼を開放した。これで彼が解放されることは成就した。逃げてゆく彼に向かって男たちは次々と弓を放ち始めた。男の肩を弓矢が突き刺す。振り向いた時、次に彼の右目が貫かれた。声を上げてその場に倒れた男に近づき斧を振りかざした。霊魂を神の世界へと返すためである。男たちは血まみれになった肉塊を雪氷の崖に投げ込んだ。

どうして近代刑法は復讐を禁じたのか
そのような人間の自然性に対してなぜ刑法は復讐を認めないのか。

その答えはひとつしかないと思われる。そのような状況をいつまでも放置することを我々の社会は断固として拒否しているからだ。そんな状況に置かれた人をいつまでも、孤独に放っておくは許されない。復讐という異常状態に置かれている人、ずっと眠れずに夜を過ごしている人、その人たちをそのままにして置くことを、我々の社会は看過してはならぬと考える。

我々は決められた手続きにより犯罪者を監禁する。必要なら一ヶ月、必要なら10年、死ぬまで。それでも安心できないなら命も奪おう。それは国がやる、あなたたちは手を汚してはならない。あなたが一生を幸せにするのに、それはあなたでなければ出来ない事ではない。あなたを早く安心させるのに必要ならば、そういうことは国がやる。

我々の社会は安全ですと宣言しなければならない。速やかに回復されなければならない。そのためになら加害した者は収容する。決して二度と危害を加えられないように。少なくともあなたの傷が癒えるだけの十分な時間は。これが近代国家の正義だろう。あなたの手を憎しみの連鎖で汚させない。そういうことは我々がやる。これが近代国家の回答だ。これが不可能ならば、そのような国家は瓦解すべきだ。

だから、あなたが安心して眠られるように国家が罰する。間違いが起きないように正しく公平に罰する。もし、これが実現できないならば、社会の正義は崩壊する。もし崩壊しているならば、我々は我々を我々の手で守るしかない。その時、あなたに復讐を禁止するものは存在しない。

後年、もし釈放された者が再び犯罪を犯したら
人間は神ではない。だから罪を償い、やり直そうとする者にはチャンスを与えたい。一方で再犯するものは後を絶たない。再犯した被害に合ったものはなぜそれを許容しなければならないか。それはなくてもよい被害ではなかったか。人が立ち直る可能性と、再犯する可能性を、正しく両立させることは人間には不可能だ。だからそれはどうしようもない。許容するしかない被害ということになる。だから、許されるのは数回まで、という考えが生まれる。

この問題には現実的に対処するしかない。理念は方向性は教えてくれるが距離まで教えてくれるわけではない。可能なら、全ての人にチップを埋め込み、あらゆる行動を記録する。それを AI が監視するようになれば、どのような犯罪も逃しはしないだろう。AI の監視から逃れられる人間はいない。それが抑止力となって社会から犯罪を一掃できるかも知れない。冤罪の可能性もぐっと小さくなる。罰則はより公平になる。例え犯罪がゼロにならなくても今よりもずっとましな社会が来る。人間を権力から完全に排除した社会は、決して絵空事ではない。

国家の正体
国家は犯罪者の権利を制限する。それが法の罰である。彼/彼女らは多くの自由が制限される。だからそこには何かの正当性が必要だ。なぜなら、人間には誰かの権利を制限する力は与えられていない。そのような自由を持たない。

近代国家はそれを国家の行使させる形で構築された。誰も、他の誰かを自由にはできない。もししたければ契約を結び、対価を払いなさい。それでさえ無制限の制約など認めない。そのように法律に書いた。

社会は全体の安全のためにそれを行う。多くの人に安心して眠ってもらうために。

だが、待ってくれ。国家を動かすのは人間ではないか。国家という冠を掲げ、帝王になろうとする俗物が生まれないとなぜ言える。彼/彼女が法律を書き換えて、合法的に独裁者になった例は幾つもあるではないか。

国家といえども、実際には公務員という人間が、他の誰かの自由を制限している状態である。常に公務員の前で市民は奴隷にされる危険性を内包しているではないか。

だから民主主義は歩みを遅くした。人間は間違えるという事を前提として制度を導入した。大切なことは一度では決めない。どれだけ確からしくとも三回は裁きを受けなさい。とことん審議しなさい。問題を訴えられる仕組みを残しなさい。誰かが誰かを助けられる余地を組み込みなさい。権力は3つに分離しなさい。ひとつが駄目になっても他の手が残っています。すべての法は誰に対しても平等に効力を発揮させなさい。

あなたにも弁明する権利がある。しかし国家は時にあなたの権利を制限する。その時も国家は繰り返し繰り返しそれを説明する。それを義務として負います。それを軽んじる事も、ないがしろにすることも法の理念がこれを許さない。

人間が運営する国家だから憲法がある。もし神が、AI が国を運営するなら、こんなもの必要ない。

我々は復讐を支持する。これが人間の心性だ。それを近代国家は禁止した。なぜか、そのような悲しみを一人で抱え込むことを拒否したからだ。あなたの悲しみを私も背負う。私はあなたのそばにいる、だからそれをしないでくれ、それをするのは私だ。

こうして国家は正義を掲げた
正義の対義語は正義である。誰かを悪と見做すのは、反対側にある正義だからだ。

正義という仮面を被らなければ誰かを打てるものではない。これが性善説の慧眼であろう。正義と悪は同じものである。これが性悪説の慧眼であろう。人は誰かを討つために正義を掲げる。同様に誰かを守るためにさえ正義を必要とした。

左の頬を打たれたら、という時、彼は正義そのものに挑もうとしていたのではないか。そう考えて何が悪いだろう。必要なら彼はこう言ったであろう。命でさえその者たちに奪わせなさい、その生命さえあなたのものではない。と。

その延長線上に国家の正義があるのだろうか。違うように思える。正義を信じなれけば、誰が悪人を討てるだろうか。復讐でなければ誰が人を傷つけられるだろうか。

正義など持たなくとも生きて行けるのならばそれが一番いい。正義は時に多くのものを死に追いやる。その上で堂々と自分自身を正当化する。

だから正義を掲げる者は自分を疑わなければならない。逆に言えば、自分さえも疑わなければ、それは正義ではない。正義だけが、自分を疑う事を、自分を疑う事から逃げない事を、支えてくれる。正義は決してあなたを拒絶しない。正義だけが正義とは何かを内省する力を持つ。この性質だけが、国家が矛盾の中で圧し潰されずに済む理由になっている。

国家の矛盾、我々の社会には幾つもの正義がある。ただひとつの正義ならどれだけ簡単な話であろうか。それは時に悪と呼ばれる。もし悪でなければ正義ではない。正義でなければ悪にはなれない。そう言い切っても悪くない。本来的に、そういうものだから、世界は動き続ける。

2018年7月1日日曜日

特攻について

なぜ特攻か

海軍2431、陸軍1417、合計3848。これが航空機で特攻した人の数である。専用機も練習機も区別もなく飛べる機体は何でも投入した。零戦一機でみなさんの機体はすべて叩き落とします、と難詰された参謀もいた。特別攻撃は航空機のみならず艦船も潜水服も生身も投入された。あらゆる戦場で、これが日本の最終手段であった。同じ頃、アメリカは原子爆弾の開発を着々と進めていた。

艦船に対する戦果、沈没54隻、損傷359隻。

特攻隊は何の役にも立たなかった、犬死である、そう言えたならどれほど簡単な話であるか。戦術的には効果が皆無とは言えなかった。戦略的には十分に敵の足止めをした。

連合軍に与えた心理的な効果も大きかった。当然である。特攻とは巡航ミサイルの先駆けである。電子機器が用意できなかった代わりに人間を載せた。そういう兵器であるから無力のはずがないのである。

この早すぎたミサイルを投入しても、戦争の趨勢を変える事はできなかった。足留め、その為だけに命を散らせていった兵士のなんと多いことか。特攻だけが死んだ兵士の数ではないのである。

では、その稼いだ時間で我々は何を成したか。敢えて言うなら、それは為政者たちが戦争を辞めるための時間稼ぎであった。

特攻の殆どは沖縄戦に投入された。あの時点で沖縄戦に勝利できると考えた者はいなかったはずである。どれだけ時間を稼ぐか、誰もがそこに注力した。3月26日から6月23日までの約三ヶ月、市民をも巻き込んだ戦闘である。

この三ヶ月が何のために必要だったのか。当時の日本人に聞いても、誰も答えは持っていない。講和を模索していた人々でさえ、どうやって戦争を止めるのか、何も答えられなかった。

誰も戦争の止め方を知らない。講和を口にするだけでも殺される恐れがあった。必勝を叫ぶ者たちもどうやれば勝てるかなど知らなかった。戦争の戦略も戦術も皆無だった。ただ敵の足止めをする。それしか残っていなかった。

当時の日本に劣勢をひっくり返すだけの力はなかったし、戦局に影響を与えるような新兵器が開発される予定もなかった。石油どころか、食料さえ冬には枯渇する。

その死がどういう理由で必要かを誰も説明できない。いつまで持ち堪えればいいのか。そんな事を知っている人は誰もいない。これ以上の戦争継続に理由などなかった。もしその人達が生きていればどんな未来があったろう。そんな事を考える事さえ馬鹿らしくなるほど、誰も何も知らなかった。

この状況をどうするんだ、そう思った人はたくさんいたであろう。それはおそらく政府中枢でさえもそうであったろうと思われる。鈴木貫太郎はじっと座っていたはずである。その目は死んではいない。ひとつの隙も逃さない。何を待っているかは知らないが、その時が来たら必ずつかみ取る。それが何であるかは知らないが、その時になれば、私には分かる、だから私が首相の座にあるのだ。

特攻が後世に与えた影響。日本と戦争するリスクには常に特攻がちらつくだろう。それが戦後の日本の平和に寄与したかどうかは知らない。自爆テロが日常の世界になった。自爆テロは無人兵器の先取りであろう。テキサス州サンタフェ高校で銃を乱射した若者は、日本の特攻に何かを見ていたと聞く。

どれほど精神的な高尚を叫ぼうと、それは作戦上の悪あがきに過ぎず、特攻に散った者たちへの謝罪や鎮魂になるはずもない。そんなものよりも生きる時間が欲しかったはずだから。

もし1945年の冬に本土上陸戦が起きていたら、どうなっていたであろうか。戦力は首都圏に集中するしかない。九州上陸に対抗した後に、中国、近畿、中部と暫時反撃を試みる兵力など残っていない。首都圏に全てを集中し要塞化、強力な防衛線を築く。それ以外の方法はなかったであろう。それ以外の地域はすべて見捨てる。必要な食糧と労働力を全国からかき集めたら、残された人々は勝手にやってもらうしかない。餓死か自死しか残っていないとしても。もし連合軍に救助されれば幸いである。

なぜ政府はもっと早く戦争を止められなかったのか。

政府はアメリカと戦争をする前にもっと重要な事案があった。それはクーデータを抑え込む事である。政府の一挙手一投足はすべてそれを警戒したものであった。陸軍大臣さえ、それを気にせずに発言などできなかった。

そのような状況の中で政府は戦争を継続していた。アメリカとの戦争はクーデターを抑え込む余暇での出来事である。そのような状況でいかに講和まで辿り着くのか。講和の相手であるアメリカの意向などどうでもよかった。如何にクーデターを抑え込み講和まで持ち込むか。政府の懸念はそこにしかなかった。

送る言葉

結果としてこの時間稼ぎは、アメリカが原爆を投下するための時間稼ぎとなった。それが戦争を集結する。政府の誰もが、これを好機と捉えた。動けば早かった。たった10日で日本は戦争を辞めたのだ。

そのためだけに、特攻だけでは足りず、30万の命とふたつの都市を必要とした。最後の瞬間まで、クーデターを抑え込み、敗戦へと持ち込んだのである。8/6 になるまで誰も何によって戦争を止められるか、知らなかったはずである。

もし原爆が広島と長崎で爆発しなければ、講和など出来なかったであろう。戦後の世界がどのような構造になったかは知らない。それでも、戦後のどこかの時点で核兵器は使われていたであろう。それが数発で終わるのか。際限なくエスカレートして人類は滅亡していたかもしれない。

あの二回だけで終わったのはあそこで使われていたからかも知れない。キューバ危機を経験したケネディ、フルシチョフ政権が広島、長崎のことをどれだけ知っていたかは知らない。だが彼らは押しとどまった。それが死んだ人たちへのレクイエムになるとは思わないけれど。

特攻のような死が普通の人間に耐えられるはずがない。だから、その死には意味が与えられる。そうしなければ、残された者が耐えられないからだ。だから、彼らを今も軍神として祀っている。

そろそろ彼らを解放してあげるべきだ。我々の自己満足のために、いつまで彼らに戦争を背負わせるのか。いつまでも我々の都合で死者をあの戦争に括り付けておくつもりなのか。プロメテウスのように永遠に留めておくつもりか。

もう解放すべきだ。彼らの死を無駄死にと呼ぶ事で、はじめて戦死者たちをあの戦争から解放できる。いつまでも御国に縛りつけないであげられる。特攻の軍神ではなくひとりの日本人として彼らの生命を旅立たせよう。

特攻も次第に歴史の埃を被ってゆく。トロイの木馬に隠れていた兵士と同じように物語の中に溶け込んでゆく。歴史の一部となって残ってゆく。

彼らを送り出すこと、それが笑顔ならうれしい。

僕は「風立ちぬ」に描かれてた零戦の飛行を思い出した。

戦後の宗教観

犠牲的行動は、人類の普遍的な価値観のひとつである。宮沢賢治もグスコーブドリの伝記を書いた。そういう行為から神が生まれる事もある。

だが特攻に限れば、他の人に命じた人のなんと多いことか。俺もあとから行く。そう嘯いて生き残った人々のなんと多い事か。それならば、最初から言わなければ良かったではないか。そうすれば少なくとも卑怯者の烙印は押されなかったであろう。もちろん、彼らは恥ずかしげもなく言い返すだろう。あそこで戦争が終わるとは思わなかったと。

宇垣纒は自分では飛行機は飛ばせず、部下を率いて特攻した。パイロットがどうして準じなければならぬのか。そのような事にさえ思い至れない宇垣という男は無能である。戦争とは最大効率を追求する人間活動である。この程度の簡単な原理さえ把握できない人間が戦争の指揮をしていた。勝てるはずがない。

自ら軍事法廷に立つ度胸も、自らに銃口を向ける勇気も持てない軍人がトップに立った不幸である。それともこのような人材しか生み出せなかった国家の当然の帰結と考えるべきか。

大西瀧治郎は、2000万の特攻があれば決して負けはしません、と言ったそうだ。彼には2000万の特攻機を用意する算段など何もありはしなかった。小学生でも分かる簡単な算法さえ出来ない男だったのである。そういう連中があの戦争を指揮をしていた。

この地上から日本人が滅びても特攻は続ける。それで彼は何を守りたかったのか。彼は何があれば満足したのか。自らの精神疾患に国を巻き込んだだけの話ではないか。国を滅ぼす事に何も疑問を感じられなかった男である。

己の権限で計画し、兵たちの志願という形で塗り固めた嘘つきである。その最後を切腹して果てたが、12時間も生き延びたそうである。自分ひとりを殺すこともできぬ男にどうしてアメリカを倒せようか。自分の無能に恥いることさえ出来ぬ男であった。裁判を受ける根性も、民衆からのリンチに見を投げ出す勇気ももなかった、そういう男である。

命令を出しておきながらぬくぬくと戦後を生き延びた者のなんと多い事か。特攻隊の行動はアメリカに一種の畏敬の念を植え付けたであろう。だがそれは死んでいった兵士たちの殊勲であって、生き延びた者たちのものではない。今に至るまで、それを横取りしようとする連中のなんと多い事か。

褒め称えられるべきものたちは散った。卑怯者が生き残り、戦後の再起を図った。意地汚く卑劣で卑怯な者たちがこの国に残ったのである。誠実に特攻した者よりも、上手く立ち回り生き延びた者が戦後の平和を謳歌する。そんな戦後ならば焼き滅ぼしても構わない。西郷隆盛ならばそう主張した事であろう。

我々日本人が宗教を知らないという事はない。だが、我々の宗教観は、敗戦によって決定された。あれだけの命を散らせても神の加護など起きなかったではないか。ならば、もう無理に決まっているのだ。見放されたか、神はいないかのどちらかしかない。これが現代の我々の宗教観である。

危急の時に役に立たない神など飾っておく程度で宜しい。そう言えるようになった戦後の価値観は大きい。これは他の国の人たちには恐らく理解してもらえない話だ。それ程までに我々は徹底して命をかけた。かける程度では足りず、薪をくべるように命を浪費した。

あの戦争は日本人にとっての宗教戦争だったのだ。神を呼び出すためにどれだけの命を戦場に投じればよいか。神が出現するまで投げうった。バカバカしいと思うだろう。誰もが神は出現するはずだと信じて身を捧げていた。

その無駄な命のお陰で、我々はどんな神だってファッションくらいにしか思わなくなった。命を投じた量が違う。そう誰もが思っている。そのための命だった。無駄死と呼べるか。誰か風に聞け。

毎日新聞より

戦後70年:数字は証言する データで見る太平洋戦争 - 毎日新聞
特攻戦術が採用された背景として、熟練の航空機搭乗員の減少がある。零式艦上戦闘機(ゼロ戦)をはじめとする日本機は戦果を上げる一方で、その防弾性能の低さから、損害も増加させた。太平洋戦争は1942年8月にガダルカナル島の戦いが始まると航空消耗戦となり、逐次投入で貴重な戦力を消尽させていった。42年10月の南太平洋海戦では出撃216機のうち、約6割の130機を失ったとされる。

連合艦隊は翌43年4月の「い号作戦」終了後の研究会で、戦闘機の日米の実力差は開戦時には6対1とリードしていたが、同作戦では1対1くらいとほぼ並んだと判定した。戦史叢書によると、開戦時の海軍搭乗員約7000人のうち、44年3月時点では既に6割近く、約3900人が戦死していたという。

主力である第一、第三、第五の各航空艦隊に所属する搭乗員(偵察員を含む)計2661人について、沖縄戦直前の45年3月10日時点でまとめた技量の資料が表である。約4割の1180人は要錬成の「技量D」で、飛行教程を終えて3カ月未満の技能では、作戦可能とはいえなかった。このクラス分けも44年9月1日に改正されたもので、開戦前までは「技量A」と認定されるのに飛行教程終了後2年9カ月程度の期間が必要だった。「技量C」も、飛行教程終了後9カ月とされていた。

この開戦前の基準を当てはめると、沖縄戦当時の搭乗員の実態は、ほとんどが「技量D」だったことになる。実際に当時の事故統計によると、計139件のうちの計101件が「人員ニ起因スルモノ」であり、技量の未熟さが関係するものと思われる。

戦闘機爆撃機・攻撃機偵察機練習機桜花
海軍316460395655
陸軍423232282130
出典:「陸軍航空特別攻撃隊史」

沖縄戦などがあった1945年3~7月に投入された陸海軍機計1813機のうち、約3割(計536機)がそもそも実際の戦闘には向かない偵察機・練習機、旧式戦闘機などが占めた。もともと低速・低馬力なうえに無理に爆装したため、運動性能はさらに低下した。

高速の戦闘機であっても、爆装すれば同様の影響は免れない。爆撃機・攻撃機は爆弾・魚雷の搭載能力を持っていたが、空戦には当然適していなかった。しかも、熟練工の不足、工作精度の低下による新造機の性能劣化、オクタン価の低い劣悪な航空燃料の使用などで、スペック通りの性能を発揮することも難しかった。いずれにしても、米戦闘機に追尾されれば振り切ることは不可能に近かった。


それでも、軍は特攻戦備に突き進んだ。

神風特攻隊の初投入を目前にした44年9月には、特攻専用機である〝人間爆弾〟「桜花」の量産を開始。

機種別最高速度
米軍 P51700km/h
米軍 F4U670km/h
桜花650km/h
米軍 F6F610km/h
彗星艦上爆撃機560km/h
四式戦闘機 疾風624km/h
零式艦上戦闘機530km/h
一式陸上攻撃機430km/h
九八式直協偵察機348km/h
E5系新幹線320km/h
練習機 白菊225km/h

米海軍は最新の科学技術、効率的な組織運用により、特攻戦術を無効化していった。精神主義の日本軍は物量だけでなく、米軍の合理主義にも敗れ去った。

特攻機の主目標は大型の正規空母(2万~4万トン級)を中心とする機動部隊。その外周部に、米軍は対空捜索レーダーを搭載した駆逐艦「レーダーピケット艦」による早期警戒網を設け、日本の攻撃隊を感知。空母の戦闘機隊で迎撃した。

迎撃網を突破した日本機に対しては、輪形陣を組んだ護衛艦艇の対空砲火が待ち受けていた。距離、高度、方位、速度を測定できる対空射撃指揮レーダーと連動。さらに一部の砲弾は最新の「近接(VT)信管」を装備していた。信管が電波を発し、敵機を感知すると砲弾を破裂させるため、直撃する必要はなかった。

こうしたシステムを統制したのが空母などに設置したCIC(戦闘情報センター)だ。ピケット艦の情報などを分析し、効率的に戦闘機隊を差し向けた。1945年5月の戦況について、米太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ提督は「神風の脅威を自信を持ってはね返すところまで来ていた」と記す。


衝撃力弱く「無意味さ」認識していた大本営

特攻隊は正規空母はもちろん、戦艦、巡洋艦も実際に沈めることができなかった。撃沈した護衛空母は1万トン足らずと正規空母の半分の大きさで、量産性に優れていたため「ウイークリー空母」「ジープ空母」などと呼ばれる代物だった。

米軍は「ダメージコントロール」能力にも優れていた。艦艇には専門の「ダメージコントロール」部隊を配置したり、自動消火設備を装備したりするなど、被害を最小限に食い止めた。たとえ撃破されても、沈没を免れれば造船工場での修復が可能だった。沖縄戦には正規・軽空母16隻、戦艦23隻、護衛空母28隻、巡洋艦39隻、駆逐艦205隻などを投入(「世界の艦船」803号より。雨倉孝之氏調べ)。開戦後の被害艦艇は後方に下げる一方で、艦隊編成に穴が開かないよう工夫していた。例えば、護衛空母は常に18~20隻が第一線に配置される態勢だったという。

米艦被害の実態は特攻機の命中率の低さに加え、体当たりの衝撃力の弱さも影響している。空中投下する爆弾に比べ、航空機の突入速度は遅い。大本営もそれは認識しており、1945年5月には「現有特攻機の装備と攻撃法では貫徹力不十分等のため、大型艦に対しては致命的打撃威力を発揮できないと認められる」と関係幹部らに通知し、対策を求めた。しかし、それでも、特攻は終戦まで続けられた。


「統率の外道」とされた特攻戦術に、前線の搭乗員らは否定的な見方をしていた。

当時の最前線の雰囲気はどうだったのか。「大空のサムライ」として知られ、64機撃墜のエースだった坂井三郎氏(故人)は戦後、加藤寛一郎・東大名誉教授(航空宇宙工学)のインタビューに答えている。「士気は低下した。大義名分のもとに帰還する確率が、たとえ1万分の1でもあるから士気が上がるんです。大本営と上の連中は上がったと称する。大うそつきです」

海軍のエース、菅野直大尉(1945年8月戦死)はフィリピンで特攻待機の上官命令に逆らい、「行く必要なし」と部下を押しとどめた。陸軍の佐々木友次伍長(ごちょう)は特攻出撃したが、生還した。ところが大本営が「戦死」と発表。それ以降、「特攻しろ」との参謀らの非難にさらされ続けた。「殺すことばかりを考えている」と上層部を批判した佐々木伍長は、通常攻撃を続け、戦争を生き抜いたという。

海軍の美濃部正少佐は夜襲専門の「芙蓉部隊」を創設。用兵次第では通常攻撃がまだ有効であることを証明した。練習機による特攻を提示した参謀らに対し、美濃部少佐は下の階級にもかかわらず「成算があるというのなら、ここにいらっしゃる方々がそれに乗って攻撃してみるといいでしょう。私が零戦1機で全部撃ち落してみせます」と叱責した。


司令官らはどうしたか。

一航艦司令長官から軍令部次長に昇任していた大西瀧治郎中将は終戦を迎えると自決。五航艦司令長官の宇垣纏(まとめ)中将は45年8月15日、部下を率いて沖縄方面へ特攻出撃した。二航艦司令長官などを務めた福留繁、軍令部で特攻作戦を推進した黒島亀人の両提督、陸軍で特攻を指揮した富永恭次、菅原道大の両将軍は戦後を生き抜いた。


特攻隊員の7割は学徒出身だったと言われる。

高学歴で速成教育に適していたからだが、彼らは欧米の思想、文学などに親しんできた者も多かった。

陸軍の上原良司大尉(慶大経済学部、1945年5月戦死)もその一人。自由の偉大さは証明されつつあるとして、出撃前夜に書き残した。「(権力主義の国家は)必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。我々はその真理を、今次世界大戦の枢軸国家において見る事が出来ると思います」「自己の信念の正しかった事、この事はあるいは祖国にとって恐るべき事であるかも知れませんが、吾人にとっては嬉(うれ)しい限りです」

戦果

空母数。
アメリカ日本比率
戦争前に就航していた数96100:66
戦時中に就航させた数11819100:16
戦没12(9%)20(80%)

沖縄戦に参加した連合軍の艦船数(総数329)。
正規空母軽空母護衛空母戦艦大型巡洋艦重巡軽巡駆逐艦護衛駆逐艦
米軍11622182121715657
英軍500204
新西蘭軍000002不明
加軍000001不明
英新西蘭14~16
合計166222021224227
(モリソン戦史の部隊編成表より)
太平洋戦争の質問です。沖縄戦での、米国海軍、英国海軍、ニュージーランド海軍... - Yahoo!知恵袋
沖縄戦が起こった当時、アメリカ軍の軍艦の総隻数? - はどれくらいだったの... - Yahoo!知恵袋

特攻による戦果。
正規空母護衛空母戦艦巡洋艦駆逐艦輸送船、上陸艇など
沖縄戦参加艦船数17221831213
撃沈03001331
比率0%13%0%0%6%
特攻で損害を受けた艦船の一覧 - Wikipedia

特攻機数。
フィリピン戦~硫黄島戦
(1944/10/05~03/26)
沖縄戦
(03/26~06/23)
合計
特攻機数海軍315機
陸軍253機
海軍983機
陸軍932機
海軍1,298機
陸軍1,185機
命中/至近命中154機256機410機
被害艦数129隻229隻358隻
奏功率27.1%13.4%16.5%
特別攻撃隊#戦果 - Wikipedia

Suicide Attack & the After|軍事板常見問題 第二次大戦別館

2018年6月16日土曜日

TOYOTA Design

SUPRA

スープラの美しさがある。当時見た時には何の印象も残さない変哲のないデザインであったのに。時代が過ぎると美しさだけが迫ってくる。

(TOYOTA SUPRA)

なぜであろうか。今では美しいこの車も当時は、ただ美しいだけの車であった。少なくとも僕にはそう見えた。僕は革命を求めていた。時代を切り開くデザインを待っていた。これまでにないデザイン、今日を過去にするデザイン、明日を一色に染めあげるデザイン。それが僕の基準であった。

存在するだけでは、美しいだけでは革命と呼べぬ。時代の最先端にある限り、先端を切り裂かねばならない。これはスープラの美しさとは何も関係ない話である。時代はひっくり返らなければならない。時代を新しいステージに上げないものに価値はない。そう思っていた。

この車の美しさというものは、もちろん、全体がそうなのではない。非常に美しいひとつのカーブが側面にある、それが全体の中ではっきりと存在し、美しさが、様々な部分へ流れてゆく。ひとつの流れが別の流れを規定する。まるでこのパーツはそこになければならぬ、というような主張をする。

美しい花とは、ひとつの美しいラインのことだ。そのラインによって全体が支配されるそのか弱さを花の美しさと呼んで何の差し支えがあろう。

デザインの本流

デザインには二つのアプローチがある。

ひとつは平面を組み立てて構成する立体、ひとつは曲面を組み合わせて構成する立体。ひとつは骨組みで形成する立体、ひとつは面で形成する立体。ひとつは平面を削って中から取り出す彫刻、ひとつは固まりを加えて大きく造形する彫塑。ひとつは輪郭で見せる立体、ひとつは影で見せる立体。

絵の上手い人は二次元に三次元を再現する。二次元空間の中に三次元を投射する。ということは三次元の中に、二次元を見出す道もあるはずだ。

人間の目もカメラであるから、脳に送られる瞬間の像にはフォーカスの合っている鮮明な場所と、ピントの合っていない不鮮明な場所が混在しているはずである。だが、我々が見ている世界にピントのずれた場所などないはずである(近視など理由あるものは除く)。

脳はそうならないように自動で処理している。短い間隔でフォーカスを変え眼球の向きを変え、複数の画像から一枚の世界を作り出している。不鮮明な箇所は鮮明な像で置き換え、盲点は別の画像で補完する。だから錯覚も起きる。

意識は加工後の画像を認識する。無意識にはもっと多くの情報が存在しているが、それを意識に上げないのは、その方が進化的な選択に適ったからであろう。

特に意識しない限り、我々はこの世界を二次元として脳内に構成している。それが証拠に片目で見ても世界は何も変わらない。眼鏡などのガラス越しだとその感じはより一層強く感じられる。三次元だと認識するのはそれ自身が既に錯覚なのである。

二次元空間として構成された世界を三次元空間に再構成するのが上手な人は、この無意識下の仕組みに意識が鋭敏な人、または訓練によって鍛錬した人であろう。

三次元的に空間を把握するのに、一枚の画像では足りない。

全てのピントが合っているとまるでCGのように感じられて遠近感は得難い。だがそれが動けばCG独特の空間が得られる。これは交差による遠近感の獲得と思われる。

これに、ピントのぼやけを組み合わせれば、物造の輪郭は際立ち、遠近感もより鮮明に得らるだろう。複数の画像があれば、それぞれの画像の差異から空間が識別できる。二次元では遠近法が最も有力な三次元空間の認識手段であるが(その他にも上にあるものほど遠いなどがある)、複数の画像があれば他の方法もある。

RAUM

ラウムを悪くないと感じるのに十年かかった。

この穏当にパッケージングされた車がもつ特色も面白みもない平凡さは、まるで目立つ事を恐れるかのようなデザインである。だから詰まらないと思ったのが早計であった。細部をじっくり見ると決して悪くない。それぞれの曲線が実にきれいに仕上げられている。トヨタ車の特徴のひとつである後部ドアが持つカーブの美しさも際立つ。

(TOYOTA RAUM)

AQUA

AQUA の展示を見たとき、驚いた。まるでタイヤの軸を目線としてそこから見上げる時に最も美しくなるようなデザインされたのではないか。日常生活では決して目にできない視線。まるで整備士のためだけに美しく仕上げたのか。

(TOYOTA AQUA)

リアガラス

AQUA は後ろの屋根で調和している様な所がある。あそこを無残に切り落とせばこの車のデザインは全て台無しになる。

多くのトヨタ車はリアガラス上部の断ち切りが直線である。すべてのトヨタ車に共通するこの直線的な切り取りは、機械で無機質的に切り落とされたかのように感じる。なぜこの直線なのか。

リアバンパーの丸みやランプ類などの柔らかさ、かわいらしさ。しかしリアガラスの直線。後ろ姿を構成する曲線とはまるで別世界にある調和を拒絶するような直線。もしかして、ここに TOYOTA らしさを感じるのだろうか。

ほんの少しの丸みでもあれば全く違う印象を与えると思うのだが。製造工程でどうしても回避できない問題でもあるのだろうか。

(TOYOTA PASSO)


(MITSUBISHI i)


(HONDA Fit)


(NISSAN NOTE)

TOYOTA FT-1

FT-1を見て、初めてトヨタらしさを感じた。これはスープラに違いない。そう思えるデザインを見た気がした。


(TOYOTA FT-1)

パッケージングのこと

トヨタのデザインは無個性である。空力だけで決定したような面白みのなさがある。だから機能美を感じない。どれもこれも与えられた包装紙に過ぎない。セダン、ワゴン、ファミリーカー、多種多様な車の中に TOYOTA の主張は聞こえてこない。この姿形は機能を単にパッケージングしたに過ぎない。

多くの人の意見を漫然と取り入れた、角もなくえぐ味もない最大多数の調和、誰もが納得する妥協、多くの人の不快を取り除いたデザイン、誰もが一定以上の満足はする、不満のないデザイン。

わずか数ミリ違う。その数ミリの差が全体の印象を変える。ここがこれだけ離れているのなら、あそこはもっと狭くなくては辻褄が合わない。一貫性のないデザイン。そういう印象を受ける。

部品毎に違う人がデザインしてものを寄せ集めてまるでひとつにしたかのような。分業でデザインし、それをひとつに纏めるパッケージングの力量。まるでメッセージに欠ける。誰かの声が聞こえてこない。そういう印象。

デザインのこと

12神将を見た時に感じた。日本のデザインはシルエットで魅せると。シルエットにどうしようもない美しさがあって、服だの顔立ちは表面の模様である。シルエットを際立たせるためにある。模様は服飾だろうが装飾品だろうが目鼻立ちだろうが何でも構わない。一方のヨーロッパのデザインはどうか。それは影がとても大切な役割をしているように思える。


だからTOYOTA SIENTAが影の代わりに太い線を入れたのには納得できた。

(TOYOTA SIENTA)

スープラのシルエットがある。

立体としてのフォルムがある。シルエットはフォルムからすれば二次元的な一場面に過ぎない。角度を変えれば、様々に異なった輪郭が表出する。フォルムが三次元ならば、シルエットは角度によって変わる二次元である。

日本はこのシルエットをフォルムの影として造形する。ヨーロッパはフォルムそのものが持つ影で造形する。この違いが車のデザインに影響しないはずがない。そう思っている。

トヨタのデザインにはヘッドライトやウインカーなどの付属品をぜんぶ取っ払ってみなければ分からない美しさがある。その理想とする形に余計な付属品を取り付けた形で走らせている。トヨタはそういうデザインをしている。


2018年5月18日金曜日

二次関数のグラフ(三次式の描画機能付き)

三次関数(ax2+bx+c=0)のグラフを描画する。
a:
b:
c:


cubic:

a: グラフの傾き(接線)が変化する。
b: グラフが二次曲線で平行移動する。
c: グラフがy軸に沿って平行移動する。
b が 0 以外の場合、a の変化が頂点を一次式で移動させるのが観察できる。
vertex は二次式の場合のみ。

@see 長岡先生の映像授業018【二次関数とそのグラフについて】

この授業がとても面白かった。大学の存在価値のひとつが高校生の学びを更に押し上げる事にあるとすれば、中学生、小学生がその門を叩いても悪かろうはずもない。例え理解できなくとも。算数で躓いている小学生が、よく話を聞けば、大学レベルの数学で初めて解決できるような疑問を前に立ち止まっているだけかも知れない。それを見逃すのはよくない。

2018年5月11日金曜日

日本国憲法 第二章 戦争の放棄 III

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

要するに

前項の目的とは何か。

考えるに

「前項の目的を達するため」と書いてある所を置き換えれば、次のようになるだろう。
戦争、威嚇、武力の行使を放棄するため、陸海空軍その他の戦力は保持しない。

目的は、戦争を永久に放棄することである。その実現方法は、軍隊の廃止である。
理念目的手段
正義と秩序を基調とする国際平和戦争、威嚇、武力の行使を放棄する
放棄するため戦力を保持しない
放棄するため交戦権を認めない

そのまま読む限り、これは当然の帰結と思われる。

国際平和の希求など当然である。誰もがそれを願っている。平和を乱す戦争も武力行使も放棄する。それも正しい道だ。それを実現するために、軍備を廃止する。憲法に書かれた通りの行動である。何ひとつ間違ってはいない。

また「国際紛争を解決する手段としては」という条件を付与してあるので、
国際紛争を解決する手段としての、陸海空軍その他の戦力は保持しない。
とも理解できる。

だから「前項の目的を達するため」の戦力の不保持を、どの範囲とするのかでずっと争ってきた。



「達するために」すべきことが、「前段の条件を超えてはならない」という決まりはない。よって、前項の目的を達するために、より大きな制限を課すのか、それよりも小さな制限で済ますのか。その時々の立場で解釈で変わるのである。

もちろん、戦力の不保持は、先の大戦における無様な敗戦が原因であって、これを二度と起こさないために設けられたものである。
  1. 二度と戦争を起こさないように、物理的に廃棄する。
  2. 二度と戦争を起こさないように、戦争に関する指揮権を国際連合、同盟国に委ねる。
  3. 二度と戦争を起こさないように、条約を結び、第三者機関の監視を受け入れる。
  4. 二度と負けないように、武力を磨く。

こうして見れば、2018年に課題となっている北朝鮮の核廃棄、イラン核合意と全く同じ道筋である事に気付く。どのような方法でそれを実現するのか、国際社会にも幾つものプランがある。

だが…

誰がどれだけ平和を祈ろうと国際紛争は起きている。それを解決する手段に武力しかない現実がある。

「国際紛争を解決する手段」など、どれもそうであるとも言えるし、状況によって異なるとも言えそうである。それは敵味方の立場によっても変わるであろう。そんな状況であっても、国際紛争を武力に頼らずに解決する方法を模索する事をこの憲法は求めている。それを諦める事は許されていない。

その理想に到達するのに、我々は武力をどのように定義すれば良いだろうか。戦争を始めるための武力がある。これを禁止している事に異論を挟む人はおるまい。

ならば、戦争を終わらせるための武力もあるだろう。これも「国際紛争を解決する手段」であるのか。AとBの戦争を止めせるためにCが使用する武力も「国際紛争を解決する手段」なのか。

問題は「武力の行使」という抽象性にある。もっと、具体的にひとつひとつのケースを考えるべきだ。我が国を攻撃しようとするミサイルを打ち上げようとする基地を叩くのは自衛であろう。だがそれが地球の反対側にある基地だったら。

地球の反対側にあるミサイルを叩く軍事力をどうやって世界に展開するのか。他国の領土をどのように通過するのか。それだけの軍隊があれば、世界征服だって可能ではないか。

九条を集合で記述する。



この集合によれば、もし「国際平和の希求」をしないならば、軍隊を持つことは違法ではない。同様に「国際紛争を解決する手段」でなければ、軍隊を持っても構わない。国際平和の希求をしないのは、憲法の前文と矛盾する。よって、日本が保有できるのは、「国際紛争を解決する手段」ではない軍隊だけである。

よって、国際紛争を解決する手段である戦争と、国際紛争を解決する手段でない戦争の2つがあることを証明しなければならない。もし、国際紛争を解決する手段でない戦争が存在しないのであれば、考えるだけ無駄である。

世界を見る限り戦争はとても複雑である。原因や理由が如何にバカバカしいものであっても、戦争が引き起こす状況は深刻である。そういう状況では、侵略されれば堂々と殺されれば良いという主張は絵空事である。

国際社会の平和はそのような個人の理想など要請しない。個人でやりたければ勝手にどうぞ。我々が求めているのは目の前の戦争を如何に終了させるかだ。その具体的な方法である。あなたの自己の信念に基づいた行動などどうでもよろしい。誰も邪魔などしない。

戦争は常に話し合いで終了するのである。なぜなら最終的には関係各国が調印するからである。だからと行って話し合いだけで解決するものではない。それで済むなら戦争にはならない。

誰かを暗殺することで戦争に勝利できるなら。それを守るための兵力は必要なはずだ。それも「紛争を解決する手段」か。戦争を終戦までに持ってゆくために、状況を維持するための兵力も、「紛争を解決する手段」か。

民主主義は、かつての武力闘争を選挙という平和裏な機構に内包したシステムである。古来、人々を集め武器を持たせ戦で決着をつけた。これを、投票という方法に変えた。支持者の数で決着を付ける。

選挙に負けたからといって、武力蜂起した所で、どちらが多くの人を集められるかは明らかである。それでも戦いを挑むか。だから誰もが投票結果を前に堂々としていられるのである。恐らく戦争もいつか同様の別の機構によって内包されるであろう。それがどういうシステムに組み込まれるか、まだ分からないだけである。

これを最初から考えてゆくべきだ。簡単に国際連合の理念をコピーして済ますような問題ではない。我々には我々の思索がある。

国際連合の理念は、国際連盟、パリ不戦条約の理想と同じものだ。戦争は技術である。技術の革新が戦争を変える。戦争は歴史である。だから時代が異なれば別の戦争である。現代の戦争をカエサルの戦争と同列には語れない。戦争は成長する。過去から未来のどこにも同じ戦争などない。

カントは恒久平和を考えたが失敗した、様々な人が考察をしてきたが、それらを超えて戦争は成長してきた。

産業革命が戦争を変えた。蒸気機関が戦争の速度を変えた。それまで戦場でなかった場所が新しい戦場になった。国家を超えて戦場が拡大する。飛び火するようにひとつの戦争が他の戦争を呼び込んでくる。

連鎖反応がまるで野火があっという間に草原を焼き尽くすように、広がった。機械化された戦争は第二次世界大戦で結実をし、現在もこの延長線上の戦争がある。

核兵器は神以外で初めて人類を滅亡させる、文明を崩壊させる存在になった。神の怒りを待つ必要もなく、ボタンふたつで実行する。滅亡と引き換えにしてまで争う戦争はあるのか。

これがあったのである。人類の未来に関心のない人は、核の使用を躊躇すまい。死後の世界に救済があると信じる人は、進んで劫火に焼かれよう。後世の歴史家は、この時代に核が爆発しなかったのは幸運に過ぎないと驚くに違いない。

誰もが戦争の止め方について考えている。これが現在の状況である。その答えを誰も知らない。戦争を終わらせる方法について考える前では、不戦論も、中立非武装もずいぶんと不真面目な議論であろう。この世界に現実の戦争がある。一日でも早くそれを終わらせたい。君たちの議論は何の役にも立たぬ。そういうことは地球連邦が誕生してからゆっくりやってくれ。

戦争の終わらせ方を誰も知らない事が、自衛権、集団的自衛権が存在する根拠である。国際連合の憲章にもそう書かれている。

始めるのは容易い。誰にでも出来る。それを終わらせるのが困難である。戦争の本質は常にそこにあった。それはカエサルの時代から何も変わっていない。もっと古く、シュメールの時代からも。英雄譚は常に戦争の終わりを描いている。

だから、戦力の不保持が九条の最大の争点ではないのである。それはひとつの方法を示唆するが、憲法はその程度の事を国民に求めているのではないのである。

君たちは戦力の不保持を十分に語ってきた。だが、その過程で一度も戦争の終わらせ方について考えてこなかったではないか。戦争を始めない事ばかりに始終し、条項を遵守する事ばかりを考えて、戦争の終わらせ方からは目を背けている。確かに、この条項には、そんな事を考える義務はどこにも書かれていない。

だが、それは「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の一文がない場合に成立する議論である。この一文がある限り、それでは足りない。それでは国際平和を希求しているとは呼べない。ただ、この国だけが戦争を始めなければそれで良い、そういう態度である。最低限の義務を果たせば、それで国際平和に十分に貢献したと言う積もりか。

我が国の憲法は、国際社会への信頼を前提としている。国際平和を希求するとは、国際平和に対してコミットしてゆくという事である。ただ祈り、願い、享受するだけでは足りない。国際平和は自然現象ではない。仮に自然現象に近いとしても、それに対して人間は全くの無力ではない。

我々の性根は、国際連盟を脱退した時から一歩も進んでいない。未だに国際社会の中で孤独なのである。疑心暗鬼の目で国際社会を見ている。勿論、国際社会は無法地帯と考えて正しいのである。だが、無法であることを人間性を失ってよい理由にしてはならない。

我々は国際平和とは何であるか。それについてもっと深く考えなければならない。九条はそれを求めている。




2018年5月2日水曜日

日本国憲法 第三章 国民の権利及び義務 VI (第三十一条~第三十五条, 公共と責任)

第三十一条  何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
第三十二条  何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。
第三十三条  何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となつてゐる犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。
第三十四条  何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ、拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。
第三十五条  何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、第三十三条の場合を除いては、正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければ、侵されない。
○2  捜索又は押収は、権限を有する司法官憲が発する各別の令状により、これを行ふ。 

短くすると

第三十一条 何人も、生命、自由を奪はれ、刑罰を科せられない。
第三十二条 裁判を受ける権利。
第三十三条 現行犯を除いて、令状によらなければ逮捕されない。
第三十四条 理由を告げ弁護人に依頼する権利を与へなければ、抑留、拘禁されない。理由なく拘禁されず、理由は公開の法廷で示さねばならない。
第三十五条 何人も、住居、書類、所持品は、令状がなければ侵されない。
○2  捜索、押収は、令状により行ふ。

要するに

生命、自由、権利はどの様に制限されるか。つまり公共とは何か。

考えるに

最初は蛋白質の混合物に過ぎなかった。太古の生命はすべて一代限りであったろう。生命のスープから生まれ、動き、暫くすると止まる。

一回限りの生命。外界から物質を取り込むとき、他の生命を除外する理由などありはしない。原初から生命は他の生命を取り込んでいた。環境から必要なものを奪い、残ったものを外に捨てていた。

外に捨てられた部品から元の体を修復する生命も誕生したであろうし、内と外を限定する必要もない、他の生命の中で生きられるものも誕生したであろう。中であろうが外であろうが生きられるなら気にすることではない。

壊れた体を修復する機能があれば、生命はより長く活動を続ける事ができる。その機能を少し応用すれば、自分の完全なコピーも作成できる。こうして増殖することができる生命が誕生する。その方法を DNA へ刻んだ時、生命は一回限りの命ではなくなった。作ったものを外に捨てるように自分の分身を外界に排出した。これが生命の誕生であろう。

単細胞生物にとって増殖は完全に環境に依存する。増えるだけ増え、環境が貧しくなれば増殖はそこで停止した。群体も似たようなものであろう。増えるだけ増える戦略を取ったはずである。これらの生命がお互いに物質をやりとりして協調するとしても驚くにはあたらない。環境の異変を素早く伝え合うのはお互いにとって益であろうから。

多細胞になって初めて環境に応じて増殖するわけにはいかなくなった。それは計画された数だけ増加する。少なくても多すぎても一個の生命を維持できない。だから多細胞生物は本質的に計画的な協調を必要とする。それがなければ話にならない。

リチャード・ドーキンスの利己的な遺伝子によれば、個体は DNA の乗り物である。優先すべきは個体ではなく、DNAを次世代に受け渡してゆくことである。蜜をお腹に蓄えるために生まれてきた蟻、子供に食べられる蜘蛛の母。巣を守るために針を刺しては死んでゆく蜜蜂。

社会性は個人と比べれば圧倒的に強力である。そして社会よりも種としての本能は更に強い。それはしばしば社会と混同される。故に社会が異なれば、その人種をジェノサイドする事に人は躊躇しない傾向にある。それは種が違うとの認識になるのだろう。虫を殺し草を枯らすのと同じである。

公共性にこの人間の自然さが関係しないはずがない。よって一度同じ仲間と認めればどのような差異も無視するが、全く同じ理由によって、まったく同じに見える中にも集団の違いを見出す。この性質が社会を幻想と呼ぶ所以である。

一人と千人、どちらを犠牲にすべきか、と言う設問は公共性を問う問題ではない。一人が死すべきか、千人が死すべきか、と問うだけならサイコロでも振って決めれば良い。そこにどのような謝罪と供養をもって来ようが、公共性はその言い訳にならない。

問題は、社会が破滅するまでに、何人までなら殺せるかである。絶滅から救うためなら何人までを犠牲にしても良いか。どうやって、後世に残す人間と、ここで終わりを迎える人間を区別するか。

為政者は自分は生き残るべき人間であると考える。もちろん、そこに根拠はない。多くの老人を生き残らせる方が多くの若い人を生き残らせるよりも良い、と一概に言えない。若い者が散り老人が残った歴史もあった。

ひとりの命で数万の命が救われた歴史があった。数万の命がたったひとりの人間に捧げられた歴史もあった。先の大戦では、全員を殺してでも守りたいものが存在した。指導者たちはいったい何人までなら殺しても構わないと考えていたのであろう。たとえ絶滅しても守らなければならないものがあったとすれば。何が絶滅と同じ価値を持つものと考えたのであろうか。

彼らは、生物種の絶滅とは異なる、幻想的絶滅を仮定していたとしか考えられない。国家であれ国体であれ、彼らは幻想の中に生きた。生物としての死よりも、幻想の死を恐れた。

昆虫でもないのに人間が真社会を目指したのである。蜜蜂が死を賭して巣を守れるのは、女王蜂の価値が他の蜂と比べようがないからである。それは彼女らの恣意的な思想ではなく、機能によって決定されたものである。決して、女王蜂を精神的な支柱にしているのでも、嬢王蜂を頂点とした階層社会でもないのである。ただ機能によって役割を分担した結果であろう。

人間は真社会性を持たないが、知性が高いので、機能的な集団を形成した。それを実現するために本能的なものの代わりに、階層や階級を持ち込んだ。疑似的な真社会を作り上げるために、権威という幻想を必要ともした。

公共性もその過程で生まれた概念であろう。それは社会の問題を解決するための考えである。大勢の人間が集まれば、そこに対立が発生するのは自然である。対立を解消するための様々な機構が群れを形成する動物には必ず備わっている。

どうやって争いを諌めるか。都市を国家を形成するようになった人間の社会では、最小不幸社会であれ、最大多数の最大幸福であれ、公共性という考えが必要である。では公共性とは何か。公共性の根底にあるのは総和である。

多数の集合をマクロ的に知るために統計的に扱えばよい。個々がどれだけ自由気ままに振舞おうと、総和して平均をとればひとつの値が求まる。全体がひとつの値に集約する。この値を扱えばよいのである。温度であれ圧力であれそうやって求めたものだ。

ここで重要なことは個々のすべては均一と見做すことである。だから、人間の個性を捨てれば公共性が成立する。全員を同じと見做せないなら、公共性という論理は使えない。公共性を語る時は、個人は考慮しない。個人を考慮するならば、公共性は持ち込まない。

公共性は事後に問題を解決するための方法である。問題が起きた。それを話し合いでは解決できない。個々人がお互いの利益を主張して妥協点が見つからない。これを解決するには公共性を持ち込むしかない。個々の事情など考えていられるか。

だから、公共性とは損失を被る者に対しての敬意である。そういう者に与えられるべき名誉でなければ事情が許さない。個々人を切り捨てる以上、公共には切り捨てた人々を支える義務がある。

公共性とは、決して、誰かを犠牲にするための理由ではない。公共性を根拠にして何かを制限していいのではない。公共性とは不利益を受けたものに対しる支援の事である。公共性は権力でも既得権益でもない。公共性を個人よりも社会を優先する理由にしてはならない。

もし利益が得られないなら、社会が、この世界がどうなろうが知った事ではない。私が死んだ後の世界など滅びても構わない、と主張する人がいたらどうするか。我々は全体の総和を考え見て、そう主張し行動するものを討伐するであろう。その人の考えを尊重などしない、捨て去るのに必要なら武力も投入する。それが公共性というものだ。

だから、不利益を被り、自ら引いた者には名誉を与えよ、おそらく公共性が名誉を生み出した。それだけが、公共性で捨て去ったものを個人へと返す道だ。

2018年4月10日火曜日

言論統制と言論の自由

言論統制をせよ、と主張するのも、言論統制をするな、と主張するのも、同じ構造を持つ。

なぜなら、誰かに言論統制をせよ、というのは誰かの言論に禁止することである。そして言論統制をするな、と主張するのも、特定の言論を禁止することである。言論に禁止事項を設けるという点では全く同じエフェクトを持つ。

では何が違うのか。言論統制せよ、が禁止するのは、特定の集団が決定しそれ以外の集団に対して強制する、という構図である。

言論統制をするな、が強制するのは、あらゆる言論は自由である、というものであって、それがカバーする範囲は例外なく全てである。よって、言論統制をするな、は本質的に、言論統制せよ、という主張を包含している。ならば、言論統制をするな、と主張する人は言論統制をせよという主張を認めるはずだ。

よって、そのような言論は認めるが、それを実行することは許さない、という主張になる。

実行を禁止するのであれば、言論統制をするな、ではなく、言論統制をせよは禁止せよ、という同値である。ならば、言論統制をするな、とは、言論統制せよの一派生、特殊形に過ぎないという事になる。

どうやら言論には全く人々の行動を制限するものと、制限しないものの 2種類がある。例えば、このリンゴは青い、という言葉は人々の行動を制限しない、と考えられる。だが、この言葉も、何かの広告に使われれば、購買意欲を刺激するかも知れない。それも一種の行動をコントロールしていることになる。行動を禁止しないが刺激するのは許されるのか。ヘイトスピーチが容易く暴力行為に結び付くのと同じである。

人々の行動を制限しない言論は本当に存在しうるのか、もし存在しないのであれば、言論の自由は行動の自由をどういう論理で制限するのか。

いずれにせよ、特定の言論を禁止する、というのは、言論の自由の観点から見れば禁止すべき主張である。ふたつの主張は両立しそうにない。だが、言論の自由を掲げる国でも、実際には多くのタブーがあり、タブーを破る発言は、もちろん生物学的にその自由を有するが、社会的には抹殺されるのである。

監視社会というものは、多くの言論に対して禁止圧力として働くと想像される。だが、監視カメラ、メール閲覧、音声収録などが、多くの犯罪に対して有効に機能する。すべてを一概に反対できるものではなく、利益と損失のバランスがある。

監視社会が市民の権利のうち、最も浸潤しているのは革命権である。18世紀1789に起きたバスティーユ襲撃と比しても、革命のしにくさは増大している。それは統治機構が強力に洗練されており、警察、軍の能力も向上しているからである。

A well regulated Militia, being necessary to the security of a free State, the right of the people to keep and bear Arms, shall not be infringed.
- The Second Amendment (Amendment II) to the United States Constitution

(私訳)
良き規律ある市民武装は、自由の国家のために必要と思われる、から、人々の権利として、武器の保有、携帯についても、これを侵害してはならない。
アメリカ合衆国憲法修正条項第2条

この条項がある以上、連邦政府が強力になるのに比例してアメリカ市民が携行する武器が強力になるのも自然と思われる。その当然の帰結が、銃被害の増大である。利益と損失のバランスが限界を超えるまでは見直されない。自由の国家を守るためにどういう武装が必要なのか、その権利を支える武力は銃だけなのだろうか。

併せて銃はアメリカのアイデンティティを支えている。アメリカを象徴する。だからそう簡単に銃を否定できるとは思えないが、現在の最新銃器までがアメリカを象徴するかは疑問もあるだろう。

科学技術が発展し 17世紀の常識やその延長線上にある結論を覆す事は 20世紀になって頻繁した。AI の登場が、それまで考えられてきた近代国家の構成さえ覆す可能性がある。まずは金融から始まるであろう。

人々が敵対すれば、人間の元来の性質からいって、集団化しようとする本能が働く。それが敵対者に対しては攻撃的に、コミュニティに対しては同調的に作用する。これは集団を維持する生物の持って生まれた性質である。

当然ながら、この本能性を利用して世論を形成する技術はある。攻撃性に満ちた言葉には、この人間の自然な集団性を利用する意図が見え隠れする。それを使用して巨大な集団を形成することが勝利へと導くと本能的に知っている。

中には組織を嫌い抜いて単独でしか行動しない人もいるだろう。だが、そのような場合でも、周囲は集団を形成するのである。

この集団性から離れるためには、そこから一歩引くしかない。それはさっさと通過してしまうこと、見て見ぬ振りをすること。無関心であることである。無関心は無知より恐ろしいとは集団からの言葉であるが、集団から離れたい人からすれば、それこそが身を守る方法なのである。そのような闘争に自分たちを巻き込まないで欲しいという意思表示である。

闘争が今も続いている。それは組織化し集団を巨大化する道だ。このような技術について、過去の歴史から、様々な演説から、研究を尽くしている人もいるはずである。一方で天才的な嗅覚から、自然とこの技術を身に着けた人もいるはずである。

我々が流されるだけでなく、意識してこれを知り、相手を知り、そして選択してゆくには、言葉の端々に現れる無意識の主張、潜在意識への刷り込み、巧みに編み込まれた言葉の構造を、意識して指摘する必要がある。その一助になれば幸いである。

2018年4月7日土曜日

古代知的生命体への考察

経緯

太古の地層から古い知的生命体の痕跡が見つかり始めたのは、今世紀に入ってからのことだ。少ない痕跡からも、彼らがかなり高度な知的活動をしていた事が示されている。

特に、月に埋もれていた遺跡には、世界中を驚愕の渕沼に飛び込ませるものがあった。彼らへの知見が増えてきたことは喜ばしいことである。我々以外にもこの星に知的生命体が存在していたのである。そして彼らがなぜ絶滅したのかを知ることは、我々の未来にとっても重要な水中の明かりになる。

そろそろ彼らの生態について一般向けに軽い切り口で語るのもよい時期であろう。太古に滅んだ彼らについて知ることは、我々の世界を拡大する本能を十分に満足させる。太古の遺跡(主に軌道衛星と月遺跡)から推測される彼らの生態は非常に興味深い。この新しい知見を読者諸君も十分に堪能し素潜りされたい。

Summary

月で見つかったミイラを詳しく調べる事で、ここ10年の超古代生物学は著しく発展してきた。特に彼らが使用していた電子機器、そこに残っていたデータの復旧が大きなメタモフィーシスを果たした。これらのデジタルデータを再生することで太古世界の世界について多くの発見をすることができるようになった。

発見されたミイラを解剖した結果、DNA の類似性からも、彼らが猿の仲間である事は間違いない。猿は、脊椎動物のうち哺乳類に属する主に森林に住む動物であるが、現生種と最も異なる特徴が大脳のサイズである。その大きさは我々にも匹敵しており、これが知性獲得をしたひとつの理由と考えられる。我々は、これら月で見つかった猿を「ルナハイエンシス」と名付けた。「月に行った高度な猿」という意味である。

解析できたのが0.1%未満とはいえ調査した映像記録からは、彼らの興味深い生殖行動が観察された。その生態には様々なバリエーションがあって、それは彼らが単一の種ではなく、我々と同様に複数の類似種が同時に進化しひとつのコミュニティを形成した可能性を強く示唆している。この仮説はまだ早急なものなので裏付けに乏しい。そのため数年で覆る可能性があることには留意されたい。

今、分かっている限り、彼らの生殖形態はとても多様性があり、種の違いを考えなければ合理的な説明ができない。ご存知のとおり、生殖活動に異常が発生した種は近からず絶滅する。そのため、自然状態にある限り、生殖行動は本能に強く影響されたものになる。自然と、生殖活動は生命活動の中でも最も原始的で単純な行動として表現されやすい。個体差よりも種差の方が強く現れ易いのである。

生態的特徴(解剖学からの推測)

ルナハイエンシスが残した月の住環境、宇宙潜を調べて分かった事だが、彼らはとても乾燥を好む猿だったようである。現生の猿のように全身を毛では覆われていない。多くの毛は退化して薄く短くなっている。一部の特定の箇所にだけ毛が残っている。これがどのような進化的な優位性を持ったかは不明である。ただ、彼らのすべすべの肌は我々のと極めてよく類似していて親近感が沸く。

彼らは肌の上に独自の化学物質を塗り込んでいた。既に有機物の分解が進んでいるので特定は困難であったが、彼らも粘膜の保護をしていたようである。我々が乾燥から身を守るために水分と粘膜を使用しているのと似ている。

彼らの指は5本である。これも陸生脊椎動物で共通したものであって我々と同じである。よって、彼らの数学も基本は 10 進法を採用していた。ただしすべてが 10 進数に統一されていたわけではない。

時間は我々と同様の 6進数を採用していた。これは太古の時代に、日の出、日の入りで 1日を 2分割し、さらに真昼と真夜中で 4分割したことに起因する。4 を含む 10 に最も近い公倍数は 4 か 12 で、8 は 2の乗数なので 3 を含む 12 を採用したためであろう。地球に発生する脊椎動物系の時間概念は自然と 6 が基数になるようだ。この考え方は円の角度にも影響するはずである。

ふたつの太陽をもつ恒星システムや 5 本ではない生命体ならば違う進数を採用するものと思われる。こうして我々も彼らにも様々な歴史的経緯を経ながら文明を構築していったものと推察される。

先にも書いたように彼らの体表は乾燥していたので、指先には滑り止めとなる文様が出来ている。これは現生種の猿と同様のものである。我々では粘膜が滑り止めになっているので、この違いは面白い。これも収斂進化のひとつと言えよう。

食性は雑食性である。ただし消化器官系が極めて弱いようで、口はとても小さく、発達した顎で食物を咀嚼して飲み込まなければならない。我々が丸ごと飲み込むのとは違うようである。咀嚼して飲み込むため喉ごしも小さな味わいしか経験できなかったであろう。

我々にとって食事の楽しみの最大が喉越しにあるので、彼らが何を楽しみに食事をしていたか想像しにくい。したたるステーキを丸のみする快感は彼らにはなかったようである。もしそんな事をすれば喉が小さいため、たちまち窒息して死亡したであろう。彼らには彼らなりの食事の楽しみがあったはずであるが、解明は今後の課題である。

彼らは喉が狭く声帯でしか声が出せないため、話したり歌ったりするのも、森の猿の遠吠えのような感じであったろう。我々のような重低音合唱団のド迫力を生歌で披露するのは無理だったろう。

ルナハイエンシスの体格は我々より若干大きい。我々と同様に二本足であるが、大腿筋の貧弱さから跳躍力はとても小さいと思われる。ジャンプする高さも距離も大したことはない。これは木の上で生活する種から進化したためで仕方がない話である。我々だって鳥のようには飛べないのと同様だ。いずれにしろ、もし彼らとバスケットボール(※)をすることになれば我々が圧勝するのは間違いない。

(※)地表から7m上に設置したゴールにボールを投げ入れて得点を争う競技。

探査技術(宇宙潜からの推察)

ルナハイエンシスが使用していた宇宙潜から彼らの技術レベルはだいたい把握できている。彼らの記録から、外宇宙に探査機を送った事も分かっている。火星の地中から探査機も発掘できた。彼らが太陽系内を積極的に探査し居住区の拡大、地球生命の他恒星進出を目論んでいた事は疑いようがない。

彼らの最も遠くへ送り出した探査機が、近くの恒星系さえ既に通り過ぎている可能性がある(17km秒と遅いがとても昔なので)。

彼らの探査機ではスイングバイが欠かせなかった。この事実と彼らの時代の太陽重力、惑星配置から、どのようなルートを辿ったかを幾つか計算してみた。中学生でも簡単に理解できるので、興味のある幼生は巻末の付録を参照してみて欲しい。その幾つかには既に探査機を送った。

もしその探査機を捕捉できればこれは凄いことではないだろうか。とは言っても、もっとも深淵まで辿り着いたケース、オールトの雲で漂流しているケースなど様々な可能性がある。必ず見つけ出せるとは言えないが、まるで池にダイブするかのようなわくわくする冒険である。我々よりもずっと先にこの星系を飛び出した先輩たちへのこれは敬意でもある。

繁殖行動(記録資料からの推察)

ルナハイエンシスのピーナは、よく収縮するだけでなく個性的な形状をしている。また個体差も顕著であるようである。現生種の猿と比べてもかなり巨大である。彼らの繁殖活動は通常の交尾が主流であるが、残された記録からは、どうも口でも交接できたようなのである。

これが異なる種が別々の進化をしたのではないかと考えられる最も強力な根拠である。ルナハイエンシスの祖先のうち、あるグループが諸島などに隔離され、そこで独自の進化によって飲み込むことも受精できるように進化したと考えられる。そうして分化した種がまた出会い、そこで同一のコミュニティを形成したのではないかと考えられるのである。

隔離されて進化した複数の種が再び出会って、異なる交接方法がそのまま残された極めて珍しい進化現象と言えよう。更に驚くべきはそれだけではない。交接に特殊な器具を使用しなければ発情できない種や、排泄物を介して受精する種も確認されているのである。我々が観察してきた所では、道具も紐、筒、棒、火などを多岐に渡っており、このような多大なコストを払わなければ繁殖できないとすれば、個体数が減少するのも納得である。この辺りに彼らが絶滅した理由があるのではないか。

彼らは陸生生物なので、我々のような繁殖場は必要としなかった。我々の場合はどうしても繁殖プールが必要である。生まれた子供たちもしばらくは水中で暮らす。尻尾が消えて初めて成人である。この辺りの違いが教育過程にどのような影響を与えたかは興味深いことである。

ルナハイエンシスは我々と同様に大勢で受精する事もあったようだ。それも常にというわけではなく、一対の雌雄で受精することもあれば、複数で受精することもある。不思議である。また、多くの生命種で観察されるように、雄雄や雌雌などの疑似繁殖行動も観察される。この多様性は我々と変わらない。

おわりに

ルナハイエンシスの絶滅理由は分かっていない。古い地層を調査しているが、彼らの遺跡からは核爆発の形跡は認められない。彼らの極めて幼稚な原子力技術では、核廃棄物の処分が必要なはずだが、処分地層もなさそうである。彼らの技術力では核廃棄物を無害化することは出来なかったはずなので、どこかにあると思われるのだが。

現在は、ミイラから取り出した DNA を修復し、卵から発生させることを研究している。彼らの子供を誕生させれば、生きたよい標本が手に入る。そうして我々の社会で育ててみたいと考えている。そうすれば彼らの知能レベルや習性などより詳しい知見が得られるだろう。

2018年4月3日火曜日

世界人権宣言第19条 / 表現の自由、言論の自由

Article 19
Everyone has the right to freedom of opinion and expression; this right includes freedom to hold opinions without interference and to seek, receive and impart information and ideas through any media and regardless of frontiers.
Universal Declaration of Human Rights

私訳
章 19
すべての人間は権利(the right)を、個人が意見(opinion)も持つ自由と表現(expression)する自由を持つ。この権利には次の自由も含む。干渉 (interference) されない自由、探す自由 (to seek)、入手する自由 (receive)、更に伝える自由 (impart)。これらは媒体 (any media) を選ばす、国境にも制限されない (regardless of frontiers) 権利である。

日本語訳は
 第19条
すべて人は、意見及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む。
世界人権宣言(全文) : アムネスティ日本 AMNESTY

短くすると

第19条
人間は自由に考える権利を有する。しかし自由なのはそこ迄である。

考えるに

ヴォルテールはフランス人だが、次の言葉が言論の自由だと思う。
I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it,
私はあなたの意見を受け入れない、しかし、あなたがそれを言う権利を守るためになら、私は死をも賭す。

言論には、グレーを白と呼び、黒と呼ぶ自由がある。だが、グレーを白く塗る自由も、黒く塗る自由もない。言論の自由は鑑賞をする態度と似ている。鑑賞してそれを自由に解釈する所までは認められる。言葉は人間の中から発する出力的な機能であるが、言論の自由は鑑賞する自由であって、それは入力的な部分に限定されているようにも見える。

考える事は大昔から自由であった。これはマタイの福音書を読めば分かる。
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに女を姦淫したのである。

心の中で考える事さえ禁止したキリストの言葉は激しい。人は自分の意識とは関係なく情欲する。誰もが心の中を読まれないから平素を装う事が出来るのである。もし誰かに知られたら生きてゆけないことなど幾らでも抱えている。

だからプライバシーという考えがあるのだし尊重されなければならない。それにも係わらず、キリストの言葉に誰もが首肯する。人は己に嘘は付けない。だから人間は自分を許すことができるのである。許せなければ死ぬしかない。誰かに知られたら生きて行けない。それに耐えられる人などいない。それを許さないという厳しさでキリストは心の問題を要求してきたのである。

人は誰も神の代理人にはなれない。誰かが神の言葉を聞く。僕はその体験を信じる。その声は真実と信じる。だが、その時に聞いた神の言葉が、今も同じであるという主張は受け入れられない。そういう考えは神を束縛している。神が自分に何かを語るのは自由だ。だが、その言葉が永遠に変わらないと主張するのは、人間が神を束縛している。神は、いつ誰に何を語ろうが自由であるし、その考えをいつ撤回するのも自由である。神の言葉は常に真実なのではない。神は全知全能だから相矛盾する言葉も同居させられるのである。

神の全知全能を否定できるならば、その人は神よりも上位の存在である。人間は神より上位ではありえないから、そう主張する人は、何かを間違えている。人間は神を強制する自由は持たない、神は人間の奴隷ではない。キリストは一度も神を否定しなかった。なにひとつ限定しなかった。だが、それをもってキリストを神と見做せるのだろうか。現代の預言者たちが人間であるのか、それとも神であるのか、どう考えても答えがない。

何を語るのも自由である。そこにある言論の自由には、正しさとか間違いを何ら保証しない。何を語ろうが自由であるとは、人間には真実を決められないという意味でもある。どのように正しそうに見えることも間違っているかもしれない。どれほど間違っているように見えるものにも真実はあるかもしれない。それを抜け落ちないようにする爲には自由が必要だ。

表現の自由には、表現をしない自由も含まれている。あらゆる考えは表現しなければならない、というルールがもしあったら、どこかの星にはありそうだが、それに人間は耐える事ができない。心の中にある限り、誰れも傷つけない。信仰の自由、思想の自由とはだれも傷つけないという意味だ。それは決して奪えない人間自身である。

表現の自由、言論の自由の前提にあるものが、心の問題である。心とは何か、それが声を出したり、紙に書いたりする。表現したいと願うのは人間の心の性質に違いない。

言論の自由は権利かも知れないが、言葉が誰かを傷つける事もある。よって言論の自由について考える以上、表現の暴力性は避けられない。

フランスで起きたシャルリー・エブド襲撃事件は、小さな事件だが世界中を震撼させた。テロリズムとは何と便利な言葉であろうか。テロと呼べば思考を停止できる。テロと決めればそれ以上考えなくて済む。この事件は相手がテロリストであろうと、言論の自由について考えなければならない契機となった。

911はテロリズムである。少なくともアメリカはそう考えた。人は報復するのにも正当な理由を必要とする。これが20世紀に得た人類の最大の知見ではないか。

正当な理由があれば敵を撃ち壊すのに躊躇は必要ない。これが人間の本性である。これが人間の悪性である。だが理由があるぁら、どこかで歯止めが効くのである。これが人間の善性ではないか。911の報復に異を唱えた人々がいた。当時は職を追われたり不遇に甘んじなければならなかった。それでもそれが歯止めの役割を担った。

世界で起きている事は、イスラム教とキリスト教の対立であるか。人種差別や経済格差に起因した出来事であるか。人間が喪失した何かを求める行動であるか。

言論や絵画、映像は十分に暴力的である。例えばリベンジポルノは暴力的である。どこまでが表現の自由で、どこからが暴力か。そのような区切りが付けられるだろうか。言論の自由には必ず暴力性が含まれている。そう前提する方が確からしい。

言論が暴力性を問わない自由ならば、暴力もまた自由でなければおかしい。

言論には言論で返すべきである。この正論さえ、言論の格差を考慮していない。出版社やテレビなどの巨大メデイアと個人が争うなど無理である。司法でさえ、金持ちと貧乏人が争えば、弁護士の差によって勝敗は決定的である。どれだけ司法が平等を訴えようと結論は明らかだ。権利は同じであっても、権利の行使には不平等がある。格差がこの世界の勝敗を決定する。

誰かが圧倒的な資本を使って言論による攻撃を開始したならば、どう対抗できるか。他人を嘲り笑う者は、相手の反論を聞きはしない。止めてくれと言われて止めない相手を止めるのに、どういう手段が残されているか。

我々の社会はそれを司法に託した。なぜテロリストは裁判所に訴えなかったのか。勿論、勝敗は明らかであった。どこに神のために言論の自由を制限するような判決を出す裁判官がいるであろう。

この社会では言論による争いは否定されていない。暴力は否定する。なぜなら暴力は社会を根底から崩壊させるからだ。暴力が使用されれば何もかもが覆る。だから我々の社会は暴力性を社会の外に置いた。社会を変えたければ言論によるべきである。

頬を平手打ちするのも暴力なら、数百万人の人間を焼き尽くすのも暴力である。暴力のエスカレーションには際限がない。だから暴力は注意深くなければならない。言論が物理的に何かを破壊することはない。

それでも言論には暴力性がある。物理的な破壊力ではなくとも、言論には人を破壊する力がある。それは人間が本来持っている攻撃性だからである。攻撃性は言論であろうが、物理的なパワーであろうが、同様に潜む。区別はない。

軍隊であれ、警察であれ、その実効性は物理的な暴力によって支えられてきた。我々の社会は暴力を如何にコントロールするかに腐心してきた。

だから言論に反駁するのは言論だけではない。言論に対して暴力で反論することもあれば、暴力に言論で対抗することもある。言論の暴力性は0ではない。

ハンムラビ法典の歯には歯をの昔から、刑法は罰則を決めてきた。ある暴力に対して何らかの罰を規定する。それが不完全だとしても、窃盗には5年、暴力には10年と刑罰を決めてきた。民法では金額に換算して決着する。この社会は異なるものに同じ価値を割り当てる。

言論と暴力もまた交換可能なのである。言論にも暴力性があるからだ。

同じゼスチャーが違う文化圏では全く違う意味を持つ。同じ表現も、人によって受け取り方は様々だ。これは同じ表現でも見る人によって暴力性が異なるという事である。ある人にとっての笑い話が、最大の侮辱なのかも知れない。

この暴力性の違いがフランスで起きた。中世から十字軍などで深く交流してきたにも係わらず、この地域は未だ分かりあえていない。異なるコミュニティが隣接すれば争いが激しくなるのは当然である。現代は世界が史上最も接近した。誰もが異文化の合流地点にいる。我々の思想は更に鍛えられなければいけない。

アメリカが三千人の報復にふたつの国家を崩壊させた。その残り火が IS となって燃え広がっている。IS をテロリストと呼ぶのは容易い。だが彼らの理想も目的も誰にも理解できない。少女を誘拐し自爆テロをしてまで手に入れたいのは何か。

それがイスラム教の暴力性であるわけがない。現在の状況が偶々そうであっただけで、歴史が違えばキリスト教がテロリストと呼ばれていたかも知れない。神から委任された人が神と同じであると誰が保証するのか。神はあたなへの委任をいつでの自由に取り上げられるし、それを伝える必要もない。だが、あなたは神から何も取り上げることは出来ない。

人間は思想によってさえ敵対する。共存できない理由はない。敵対するのは容易い。そこから抜け出すのにどれだけの血が必要であるか。

人間は原因を探し出す動物だ。その原因は正しくなくてよい。身近にあるものがいい。見つけ易いものがいい。そうでなければ探し出せないではないか。格差や人種、宗教ほど身近にあるものはない。だから、ほんの少し手を伸ばすだけで手に入る。人は意味もなく人を殺す。だが理由が必要だ。例え、太陽がまぶしいという理由であっても。それを不条理と呼び驚いていた時代は終わった。

なぜ彼らは風刺画のために命を賭したのか。彼らはそこに言論の自由の価値など認めなかった。彼らにとって風刺画は十分に暴力的だったのである。かつて、踏み絵を踏まずに殉教した人々がいた。踏み絵を差し出す側にとってそれは命を救う苦肉の策だったのである。踏みさえすればいいではないか。あなたたちの心の内など問わない、それでも踏むことを拒絶した人々が居る。それはただの絵ではなかった。絵も十分に暴力的だったのである。なぜ預言者は偶像を否定したのか。

言論の自由のために死んだ人も、言論の自由に殺された人も、その命は自由を守るために必要な経費ではない。我々が社会から追放した暴力が、自分たちが正しいと信じていた言論の中に見つかった。だからこれほどまでに人々は驚いたのである。

人、生まれて学ばざれば、生まれざるに同じ
学んで道を知らざらば 学ばざるに同じ
知って行わざれば知らずに同じ
貝原益軒

我々は言論の中に行動を見る。行動の伴わない言論の価値を低く見る。この考えに従うなら言論の自由は、そのまま行動の自由になる。それを否定したのが近代法の骨格であろう。言論と行動は分離しなければならない。かつて同じものだったものが幾つかに分離して考えなければならない。それは神とキリストを分離した後に、三位を合一した思想をモデルとするのではないか。

2018年3月24日土曜日

小泉純一郎というレトリック

小泉純一郎のレトリックが日本人の反論を封じた。その中には当時の自分も含まれている。なぜ誰も打ち崩せなかったのか。彼は類稀な扇動者だったか、それとも時代を切り開いた改革者だったのか。

孰れにしろ、その後、彼以上のレトリックに出会った記憶がない。彼の言葉は単なる修辞法ではなかった。圧倒的な説得力があった。その正体を見極める。もし、そこに何らかの理があるなら仕方がない。もしも、そこに議論の敗北があったなら、それは今も続いているはずだ。我々はあのレトリックに否応なく説得された。そろそろ、反撃する時である。だから書く。

レトリック.1

第151回国会 本会議 第28号(2001/5/9)
鳩山由紀夫「総理は自ら、改革に抵抗する勢力を恐れず、ひるまず、断固として改革を進めるとしていますが、一体、その抵抗勢力とは誰のことなのでしょうか。」

小泉純一郎「どういう勢力かというのは、やってみなきゃわからない。私の内閣の方針に反対する勢力、これはすべて抵抗勢力であります。」

鳩山の主張


小泉の主張



鳩山由紀夫は小泉純一郎では何ひとつ変えられないと見ていた。その考えは実に正しい。派閥の圧力の前では改革など掛け声で終わるだろう。それがこれまでのやり方だ。だから民主党でなければ改革はできない。そう鳩山は主張した。

野党と与党という構造を持ち出して論戦を挑んだ鳩山に対し、小泉はそれを古い構造と指弾する。与党?野党?俺たちは党を遇するために政治を行っているのではない。反対する者はすべて敵だ、自民党だろうが民主党だろうが関係ない。最大の敬意をもって全力で叩き潰す。

日本憲政史上、これほど分かりやすい政治状況があっただろうか。賛成か反対か。それ以外の対立はない。何よりこれは古くから日本人が慣れ親しんできたやり方であった。我々は民主主義を知るずっと前からこの方法で決着を付けてきたのだ。

投票結果が NO ならば私は潔く持論を引っ込める。勝利すれば先に進む。これほど単純な話はない。小泉純一郎は正しく民主主義を理解していた。

民主主義とは決め方の方法である。選ばれて何をするかを決めるものではない。勝てば自由にする。負ければ引っ込める。政策で選ぶなど幻想だし、そんなものがなくても決められるのが民主主義の良い点である。

私たち民主党が、党是として主張してきた日本の構造改革に、あなたが嘘偽りなく取り組むというのであれば、あなたの内閣と真摯に議論を重ねていき、改革のスピードを競い合うことは、やぶさかではありません。

しかし、あなたが、目前に迫った参議院選挙のための単なる偽善的改革者であるとすれば、私は、徹底的にその欺瞞を白日の下にさらす決意であります。総理、私たちの国に残された時間は多くはありません。私は単に、危機感を煽るために言っているのではなく、あなたの党が今までやってきたような、改革を先送りする政治をこれ以上続けられては、この国に未来がないと確信するからです。

一昨日の総理の所信表明には、「改革」という言葉が41回も踊りました。その勇ましいかけ声とは裏腹に、具体的な提案はどこにも見当たらず、まさに「言葉は踊る、されど改革は進まず」の感は否めませんでした。

そこで、あなたの政治姿勢についてお尋ねします。

まず、あなたがつい最近まで、森派の会長として支えてきた森内閣は、景気対策と称してはバラマキを続け、構造改革を先送りしてきました。では、一体なぜ、森内閣では改革ができなかったのでしょうか。あなたは昨年、森改造内閣ができたとき、雑誌の対談で「この内閣は歴代最高の出来の内閣だ」と豪語されました。しかしその内閣は、なにもできませんでした。しからば、森内閣ではできなかったことが、あなたの内閣ならできるという理由は、どこにあるのでしょうか。

次に、自公保連立という政権の枠組みをまったく変えないまま、なぜ今度は「改革断行内閣」と言えるのか、あなたは国民に説明する義務があります。国民に対して、総理はどう説明するおつもりなのでしょうか。

さらに、総理は自ら、改革に抵抗する勢力を恐れず、ひるまず、断固として改革を進めるとしていますが、一体、その抵抗勢力とは誰のことなのでしょうか。

民主主義の要諦は議論にある。論戦によって相手の本音を引き出す。とことん対話を続ける。ただしそれで理解しあえるという馬鹿な幻想に落ち込のではいけない。ソクラテスの傍証を挙げるまでもなく、対話の行き着く先は屈服か決裂である。

反対する事を認めるのが民主主義だ。だから、あなたには反対する権利がある。しかしもしあなたが自民党で政治家を続けたければ諦めなさい。私が尊重するのはあなたの意見ではない。あなたの良心でもない。私への賛成だけである。小泉の敵は野党でも自民党でもない。私の敵は、屈服しないもの、敵対することで利益を得ようとする者たちだ。

調整を重ね、全員の合意を取り付ける政治は失われてしまった。調整型を極めた政治は、魑魅魍魎の伏魔殿になっていた。故に対抗するには調整型ではない方法を採用するしかなかった。

それが国民の支持を背景に敵を圧倒する政治である。政治とは首領が盲従する者たちを引き連れて戦うものである。豪族たちが兵を集めて戦いを挑んだかのように。下剋上のなかで武将がのし上がるような。これはオープン化という新しい扉を開いた論戦でもあった。新しい民主主義が到来する。民主党はその流れに乗り政権を奪取し、押し流されていった。

レトリック.2

第156回国会 国家基本政策委員会合同審査会 第5号(2003/7/23)
菅直人「今のイラクに非戦闘地域というのがあるんですか、一体。...
非戦闘地域でなければ出してしまうと憲法に反するから、非戦闘地域というものをどうしてもつくらなければいけない。フィクションじゃないですか。現実に、イラクの市内、あるいは北の方、南の方、ほとんどの地域で何らかの普通の言葉で言う戦闘行為が行われているのは、ニュースを見れば、新聞を見れば、テレビを見ればわかるじゃないですか。」。

小泉純一郎「私はイラク国内のことを、よく地図がわかって、地名とかそういうものをよく把握しているわけではございません。今も、民間人も政府職員も、イラク国内で活動しているグループはたくさんあるわけですから、今でも非戦闘地域は存在していると思っています。...
また、どこが非戦闘地域でどこが戦闘地域かと今この私に聞かれたって、わかるわけないじゃないですか。...
はっきりお答えいたしますが、戦闘地域には自衛隊を派遣することはありません。」

菅直人の主張


小泉の主張



菅直人の具体性に対して、小泉純一郎は法の理論を持ち出す。菅直人は法律と現実の乖離について追及するが、解離があるなど当たり前ではないか、自衛隊が極めて動的に移動するものである以上、状況は刻刻と変わってゆく。送り出す前には非戦闘地域であった所が、一夜にして戦闘地域に変わる事だってありうる。

それは危険だろうと菅直人が言う。だから政治があるのではないか、と小泉が答える。法律はフィクションである。小泉はそう明言したのである。

菅直人だって法律がフィクションであるくらいの事は知っている。そのフィクションに従ったから、あれだけの戦争に突入したのではないか。フィクションである法律と現実を履き違えたから、空想上の世界で戦争などができたのではないか。予想外の災害で全電源喪失(SBO)に落ち込んだのではないか。現実の前でフィクションが引き起こすものは悲劇ではないか。

小泉は、フィクションを現実に落とし込むのは行政の仕事であると答えたのである。ここに書かれている非戦闘地域とは、未来に現実となる戦闘地域のことではない。未来の問題を今の私に聞かれても分からない。立法は常に未来に対して記されるものである。その未来の出来事を現実として向き合うのは行政である。立法ではない。私には分からない、と答えたのではない。原理的に、誰にも答えられない質問であると答弁したのである。

将来の事は分からない。だから、今のうちに様々な想定をしておくべきではないか。菅直人はそう追及したのである。フィクションであるからといって現実への対応を考えないわけにはいかない。この法律に何か欠点はないか、見落としはないか。悪用されることはないか。菅直人はそう聞きたかった。

フィクションに対してノンフィクションの質問をしても分かるわけがない。恣意的な運用をされるならば、どのような法律も作っても防ぐことなど出来やしない。小泉純一郎はリアリストであった。誰に防ぐことができるものか。この点について明瞭に自覚的だったように思われる。誰かが将来その気になれば、ここでどのように議論したところで抗うなど不可能であると。

これは首相という立場にある小泉の本心であったに違いない。これまで踏み出す者がいなかったのは偶々ではない。遵法の精神が強かったからでも、法律が禁止していたからでもない。ただ政治家たちが臆病で、自らをよく律し、最後の一歩を踏み出さないという意志を持っていたからである。

菅直人の懸念は、法律が果たしてどこまで抗えるかという事にあった。小泉ははなからそんなものが幻想だと思っていた。

もし私が当事者の時に、この法律によって何かを判断しなければならないとしたら、困る。菅直人はそう聞いた。

そんな緊急時に法律の話をしている余裕などない。そんなものは事が終わってから自由に批判されればよい。終わってからすべて黙って受け入れるだけでいい。それが総理大臣の唯一の特権である。あなたにも今に分かる。

もし自衛隊員が非戦闘地帯で戦死したらどうするんだ。それを思い、菅直人はぞっとしたに違いない。小泉もぞっとはしていたであろう。ただ小泉は総理大臣であった。既に覚悟していた。

菅直人は後日、亡国について真剣に悩む数少ない総理大臣になった。

レトリック.3

第161回国会 国家基本政策委員会合同審査会 第2号(2004/11/10)
岡田克也「その議論の前提としてイラク特措法における非戦闘地域の定義を言ってください。」

小泉純一郎「イラク特措法に関して言えと、法律上、いうことになればですね、自衛隊が活動している地域は非戦闘地域なんです。」

岡田克也の主張


小泉の主張



「法律ではね」化かされた気がする。だが、法の論理に関する限り、小泉は正直者である。嘘をついていないという点で彼は誠実であった。常識と良識で対峙する岡田克也が間抜けに見える程に。

自衛隊は動かない。地域が動けばよいのである。これはペテンである。詐欺師の言葉なのである。だが、なんと見事なペテンであるか。

しかし勘違いしてはならない。法律はこの発言のどこにも矛盾を見出さないのである。自衛隊は戦闘地域には出さない。だから自衛隊がいる地域は非戦闘地域である。自衛隊が移動する時も非戦闘地域から非戦闘地域へと移動する。つまり、自衛隊がいる場所は非戦闘地域と呼んで差し支えないのである。

法律は言語で構成されるので抽象性、論理性を持つ。しかし言語である以上、現実とは乖離するものである。赤いリンゴという言葉は正しく赤いリンゴを表現しきれない。赤い、もリンゴ、も正しく定義できないからである。抽象性とはつまり厳密性の放棄に他ならない。差異を無視することで共通化する働きである。

圧倒的に小泉純一郎の方が言葉に対して先鋭化していた。岡田克也の言葉は、力強く、現実的であったが、飽くまで表層的だったのである。この抽象性と常識性の闘争において、誰もが言葉を失った。それは政治という表舞台で語られる言葉にしては、あまりに深く突き刺さった棘であったから。

矛盾を突くべき岡田克也の問いに、小泉純一郎は矛盾で答えた。だが、よく考えてみると、この答弁のどこにも論理的破綻がない。

なぜ矛盾しないか。それは論理だからである。最初から最後まで小泉純一郎は法律という架空世界での答弁を行った。ずっと抽象的であり続けた。なにひとつ現実を語らない。それが彼の方法だったのである。

そのうち現実の方からのこのこと近づいてくる。

自衛隊を移動させるのに現地の判断はいらない。それは最終的に政治が決断する範疇である。彼らが勝手に動く事は別の法律が禁止しているはずである。そして政治が自衛隊の指揮系統のトップにある以上、非戦闘地域にしか移動させない。そう規定したのがこの法律である。

法に従う限り、例え自衛隊が発砲してもそこは非戦闘地域なのである。なぜなら、法律にそう書いてある。そして我々の政府は法律違反を犯すようなならず者ではない。

なにひとつ詭弁など弄していないのである。法律の要請に従い、遵法する限り結論はそうなる。自衛隊のいる場所は必ず非戦闘地域である。もし戦闘地域に自衛隊がいるなら法律に違反しているのだ。

法律が常に無誤謬性であるとは言わない。想定外のことは起きる。準備を疎かにすれば一時的に憲法停止さえ生まれるかも知れない。それでも我々は法を守ろうとする。そのための環境を整備する。それが我々の国家である。

だから、そういう状況を想定する事と、この法が守られない事は全く別事だ。どのような場合であれ、どのような国家であれ、海外と戦争する場合、常に合法的に行うのである。非合法な戦争を行った国家などただのひとつもない。

当時の日本に、日本軍の行動を罰する法はなにひとつなかった。連合軍がA,B,Cを持ち出してまで復讐に走ったのはそれが理由である。もし日本人自身の手で裁かせれば誰一人として縛り首にできない。それが彼らにも分かっていたのである。

考えてみて欲しい。もし我々の軍隊が、戦闘地域にいつまでも残っているとか、状況が一変するような地域にいつまでも停留しているなどありうるだろうか。そんな状況を許すなら、それはもう国家的な愚かさである。自衛隊だの軍隊をどうのこうのという問題ではない。

そのような状況になれば法律を守るだの破らないだの意味をなさない。そういう状況になれば法を守ることは何よりも優しい。権力を有すれば有するほどこれほど簡単なものはない。

そういう連中が国のトップに君臨する事を想定して法律がただの一つでも作れますか。我々の前提にあるのは、この国の健全性である。そしてそれを守るものは法ではない。決して法ではない。法でそれを守ろうとするのは順序が逆なのである。

「種々やってみたものだけれど、結局人民の程度しかいかないもの」
西園寺公望

この法律は、自衛隊を送り出す時に非戦闘地域であることを求めている。送り出した後の情勢など適宜対応してくれ。としか言えない。当たり前の話だ。想定していない事が起きるのは世界の常。如何なる状況であれ、それに対応する。その確かさと、自衛隊を送り出す時に確かに非戦闘地域である事は全く別の議論なのだ。

法を逸脱しない限り、何の悪い事があろうか。そう嘯く連中のなんと多い事か。そして次は法を一切破らずに何でもしようとする連中がやってくる。すべてを合法的に略奪すればいい。彼らに法の理念を問うても、賛同するだけだ。人間が長い間、試行錯誤して獲得した理想はそういう便利なものでもある。

岡田克也は現実の無力を恐れた。小泉純一郎は抽象の無力を掲げた。法体系というものを信じる限り抽象でなければならない。その抽象が戦前の愚挙を制限しようなど噴飯なのである。わが国家は近代国家である。軍事とは政治の延長である。そんな事はどこの独裁者でもよく知っている。法で規制しようというのが夢想なのだ。法は人々を押しとどめるテープである。もし破る気になれば、容易い。

なんと脆弱なものの上に立脚する国家か。なんと健全でなければうち倒れてゆく仕組みであるか。

岡田克也は戦前回帰の臭いをかぎ取ったはずである。戦前回帰とは軍国主義のことではない。軍事を以って国際社会と協調する道筋である。

それを如何に律するのか。戦前のあの愚かな敗戦を二度としないために、何をすればよいか。このままでは、全く同じ愚かしさで愚挙に走る。二度目はない。次はもう僥倖はない。

そもそも国を正しく導くという考えが不遜なのか。人間性などを信じて韓非子にはなれない。近代国家の法体系も作れない。だから法は罰則を規定する。甘くもなく厳しくもない、罪と等価な罰則を。

我々の未来を罰則で抑え込もうとするアプローチには無理がある。法の健全な運用は如何にして実現するか。時代とともに健全性は移ろい変化する。我々は何に立脚して法と対峙すればいいのか。

それを放棄した仕組みが民主主義ではないか、と政治家である小泉純一郎は言いたかったではないか。投票結果を見れば明らかだ。誰も何も理解していないのにこの得票率はどうだ。それに否と岡田克也は言いたかったのではないか。法の理念や人間の理想というものはどこへ行くのかと。

かつて人間の社会は、奴隷を所有することを健全としてきたではないか。外の国に赴き侵略の限りを尽くすことが正義だったではないか。とても古い時代はそうではなかったか。ならば、今の我々の健全性も千年後の人々から見れば、野蛮で無知なものではあるまいか。

だから、我々は今の理念と理想でやりくりするしかない。そこに齟齬があれば、根底から見直す。それに耐えられるだけのものを法体系は提供している。この仕組みそのものは決して破綻はしていない。

先人がこれまで押さえ込んできた扉が開かれた。国際社会への貢献という道が。その過程で必ず軍事が必要となる。世界がそれを要求する。それが嫌で国内に引きこもり続けるのか、それとも、おもちゃのような軍事を語り隣国の脅威を叫び続けるのか。

国際社会への参加は、遅かれ早かれ実現しなければならない。問題は、かつてのような愚かさを繰り返さない根拠がどこにあるのか。そのようなものはこの国のどこにもない。聞いても、右往左往の議論ばかりだ。

政治が信によって立ってたまるか。法は矛盾だらけである。政治家は必ず私欲に走る。このか弱い体制は、あっと言う間に瓦解する、その可能性を岡田克也は見た。それは決して政治の力で回避できるようなものではない。だからと言って、政治家が政治家としてそれを放棄するわけにもいくまい。

レトリック.4

「総理大臣である、人間、小泉純一郎が参拝しているんです」
2006/8/15、靖国神社参拝後の記者質問に対して

記者の主張


小泉の主張



参拝は私的な信仰心で行えばよい。それが近代国家の原則である。故に総理大臣という公人の立場で参拝するのは極めて政治的な行動である。それは特定の効果を狙って、つまり利益誘導でなければあり得ぬ。

君たちは私を総理大臣として戦争を賛美していると書きたいのであろう。だがそうではない。私は総理大臣であり、かつ小泉純一郎とう一己の私人でもある。この体が一つである以上、どちらもこの中にある。切り刻んでこれを分離することなど出来やしない。

よって、ここに参拝するのは極めて私人的な思いからである。ただ肩書を捨てるなどできやしない。それだけの事である。私という人間が参拝した。総理大臣という肩書がくっ付いてきたに過ぎない。

もちろん彼は総理大臣という肩書をそこに連れて行きたかったのである。

人間に纏わりつく属性は死ぬまで付き続ける。死してなお。
余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス

虚構も真実も関係ない。人間が行こうが、総理大臣が行こうが、欲しいのは票田である。そこに思惑がある。それは個人的な思惑に留まるはずもない。公人とは、つまり付き合いを断れないという意味である。

質疑応答にはもううんざりだ。私が総理大臣として死ぬことと、私として死ぬことの間に何の違いもありはしないじゃないか。なのに参拝では違うと諸君は主張するのか。そういう覚悟をしてみたまえ。だから、実はどうでもいいのだ。同じ場所に居続けようとする君たちの相手をする気にもなれない。そう言う代わりにただ「人間」と言ってみただけなのだ。

改革の行く末

「私が、小泉が、自民党をぶっ潰します」

2001年の澱んだ空気を一掃する言葉であった。それはバルブ崩壊の停滞から抜け出ない袋小路の日本において、新しい方向を指し示す言葉であった。誰もが長く手探りで探していた道が、ようやく見つかった気がする。これで方角は決まった。改革だ。

取りも直さず、停滞には理由があるはずだ。風が吹いていないのか、それとも風は吹いているのに帆を張っていないのか。その見極めによって未来が変わる。

「構造改革なくして景気回復なし」「構造改革なくして経済成長なし」

そうか、これは構造的な不況なのか。ならば構造を変えれば停滞は解消される。多くの人がその考えを支持した。痛みが必要なら進んで甘受しようと決心した。何年続くか分からぬ痛みでも耐えてみせよう、この停滞からこの国を抜け出させるために。

では構造的欠陥とは何のことだったのか。誰かが言う。それは規制の事だ。だから規制を緩和しよう。

規制を緩和したらなぜ経済は成長できるのか。規制の何が経済を停滞させた原因なのか。誰もメカニズムも知らぬまま、その言葉を鵜呑みにした。

成長する分野がある。停滞している分野がある。停滞している分野はそのまま停滞させ、成長する分野に重点すればいい。構造改革とはそれを促す方法だ。障壁となっているルールを撤廃すれば、競争が起きる。そこで一番強い者が生き残る。きわめて単純な考え方である。何の事はない、人間を野生状態に放り出すだけの話である。動物園の檻を取り除く、動物園の中に人を放り込む。それを妨げているのが規制である。

なぜ規制が必要とされたのか。自然といい野生状態といい、そんなものは昔の状態である。規制には規制が存在する理由がある。

よってただ規制を撤廃するとは昔に戻すことと同じだ。それはこれまで抑え込んできたリスクを野放しにするという意味である。その代わりに得られるベネフィットはどういうものか。

彼らはそれを痛みと呼んだ。何のことははない。自分たちは決して痛みを味わない立場から叫んでいたのである。戦争に行かないもの達ほど、戦争を賛美する例のアレである。

彼らはリスクのヘッジもなんら講じなかった。セーフティネットが声高に叫ばれたが、整備されることはなかった。本音を言えば、衰退する分野の人々は自己責任なんですよ。そう言って切り捨てるのが既定の路線だったのである。

規制緩和とは規制をカットするだ。それによって安い労働力を得ることだ。

一般的に規制を緩和するなら罰則を強化するというバランスが必要なのである。最初に規制によって問題を回避するか、自由に任せるが何か起きた時は厳罰に処する、このどちらかしかない。しかし構造改革は規制を緩和し罰則をなくす改革なのである。

一方でこの改革は既得権益に対して激しく攻撃を加えた。規制緩和によって新規参入者の障壁を下げる。それはど素人に自由に市場に参入することを許すものであった。略奪するだけ略奪してよい、そういう方法論である。羊の群れに狼を放し、それを自由競争と呼ぶようなものであった。彼らは市場が力を失うほどに根こそぎ掻っさらって行った。

経済が停滞している限り、彼らの言葉は決まっている。改革が足りません。もっと激しく規制を撤廃すべきなのです。世界経済の中で日本経済を浮上させるためには更に改革を進めるしかありません。云々。

彼らがやりたいことは市場から必要な金を盗むための合法的な国家改造である。なんら罰則を受けることなく合法的に利潤を得る方法を実現しようと模索したのだ。経済発展も市場の開発にも興味ない。彼らが狙うのはただ労働者の賃金である。

そのための理論武装が組み上げた。何かをするための資金をどこから調達するのですか。まずは予算を立てなければなりません。

小泉改革は人々の価値観を転換した。労働の価値とは報酬である。安い賃金には安い労働しか得られない。雇用が流動する事が経済を活性化するのである。生産性を高めることが企業の利潤を高める。こうして経済的価値とは短期的な利益の追求に極まった。

それまであった長期的な経済活動の価値観を破壊し、短期的な利潤の最大を獲得する方向へシフトした。その経済戦略を一言で言うならば、略奪せよ、根こそぎ略奪せよ、その後の事など知ったこっちゃない、である。

能力に見合った報酬も、雇用の流動性も、生産性の向上も、終身雇用制の終焉もただの一点を目指している。改革の発案者らは自由自在な解雇権を欲している。これさえ手に入れれば労働者を使い捨てにできる。簡単に最低賃金で合意させられる。彼らの賃金を切り詰めそれだけ自分たちの収入を増やす。これが彼らのビジネスモデルである。

この国の経済は既に掘り尽くされている。経済成長も見込みがない。だから残りかすから徹底的に搾り取る以外に利潤を追求する方法はない。それが彼らの主張なのだ。彼らのターゲットは日本経済ではない。経済成長にも興味などない。いかに労働者から簒奪するか。その一点。

終身雇用制の消滅と比例するように日本経済は衰退している。強靭性も輝きも失い、長い停滞も終わらない。袋小路から抜け出すつもりで更に追い込まれたのは明白であろう。彼らは、そうなるように改革を仕組んだ。

この国の格差はますます酷くなる。スラム街の出現もストリートチルドレンの出現も現実である。ただ一部の者たちが数百億円の利益を手にするために、国を改革し、法を変え、そして合法的にこの国の経済を略奪する方法を実現させようとしている。今も彼らはトリクルダウンという言葉を使いエクスキューズする。彼らはまだ騙せると思っている。これは明らかな人間性に対する度し難い侮蔑だ。

国の構造を変えるとこんなにもあっけなく経済力を失うとは誰も思いはしなかった。我々は今や疑心暗鬼の中で暮らしている。それがどうして健全な経済や国家を生み出すだろう。

小泉改革の正体は人々を不安に陥れる事であった。骨太の改革などという下らない標語で、己の利益を追求した経済学者がいる。そのおかげで大多数の市民は既に自分の身を守るだけで精一杯なのである。そのような状況を生み出し、労働者から搾取するためにこの国を売り飛ばした連中がいる。

追い詰められ、家族を守り、騙されないように注意深く暮らしながら、その片手間で創造的な仕事をする。そのような状況でどうして経済性が復活できるだろうか。この国に生きるものたちは自己防衛の片手間で経済活動に勤しんでのである。弱体化して当たり前である。理想を失った国家をどうして建てようか。

思惑がどうであれ、小泉改革を発端としてこの国の凋落が始まった。改革がなくとも、没落するのは時間の問題だったのかも知れない。変えなくとも衰退したのかも知れない。だが、それが一部の人間だけを富ます理由になっていいはずがない。

どのような時代であれ没落する人もいれば、興隆する人もいる。その人たちの数だけ、時代に対する見方はあるだろう。それでも、小泉改革というものは唾棄すべきものである。これは改革という名を語る略奪である。ここから始めなければ我々は一歩も動けない所に追い詰められた。