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2017年9月23日土曜日

日本国憲法 第三章 国民の権利及び義務 III (第十八条~第二十三条, 自由)

第十八条  何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

第十九条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

第二十条  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
○2  何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
○3  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

第二十一条  集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
○2  検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

第二十二条  何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
○2  何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。

第二十三条  学問の自由は、これを保障する。

短くすると

第十八条 奴隷。処罰を除いて苦役に服させられない。
第十九条 思想、良心の自由。
第二十条 信教の自由。宗教団体も、特権を受け、権力を行使してはならない。
○2 宗教上の行為、祝典、儀式、行事を強制されない。
○3 国、機関は、宗教的活動してはならない。
第二十一条 表現の自由。
○2 検閲はしてはならない。通信の秘密は侵してはならない。
第二十二条 居住、移転、職業選択の自由。
○2 外国移住、国籍を離脱する自由。
第二十三条  学問の自由。

要するに

自由とはなんだ?

考えるに

奴隷の反対は自由ではない。自由の反対は奴隷ではない。だがこのふたつの言葉は深く結びついている。ほとんど同じ概念の表裏とさえ言えるのである。

人類は有史以来奴隷を所有して来たが、歴史上はアメリカの奴隷に集約した。合衆国憲法を起草した人たちもまた奴隷の所有者であって、リンカーンでさえ奴隷を解放するために The War を起こしたのではない。ひとつの連邦制を守るために戦争が必要だったのである。だが、その結果が奴隷制度に終止符を打った。人類の価値観は奴隷制度を悪とすることに結論したのである。

奴隷的拘束は人身売買に等しい。世界の多くは人身売買を禁じるが根絶したわけではない。人身売買の多くは子供を対象とし、児童ポルノはその温床である。国際社会が一丸となってこの犯罪に取り組んでいるが楽観視できるような状況にはない。

多くの難民が逃げ出している。それを受け入れる事が新しい係争を生む。人道が常に良い未来をもたらすとは限らない。では見捨てるのか。それに Yes と答えられる人は幸いである。

その一方で移民を必要とする国がある。必要な数だけ必要な能力だけ、根底にある考えは新しい奴隷制度である。賃金を払えば人を奴隷として扱ってもよい、そう考える人は多い。

かつてこの世界は略奪する事で発展してきた。物品を奪い住人を奴隷とする事で多くの地域が興隆した。経済の基礎は資源と労働力の持続的供給だからである。

略奪よりも売買する方がより高い利益を得られると気付いたのは最近の事だ。社会を変えたのは技術である。それは距離と関係する。社会を革新する技術は常に人々の距離を時間を縮めてきた。移動手段のみならず情報伝達を高速にしてきた。電信、電話、テレビ、インターネットが世界に対する意識を変えた。最後まで世界を騙し続けるのはもはや困難である。隠す難しさも暴露した時のリスクも、情報の伝達速度に比例して増加した。正直の価値がより高まる。

人は誰かを傷付けるものである。それは好ましい事ではないが、自然はそれを禁止しなかった。それが自由という概念である。人は何をするのも、何を試みるのも自由である。自由は自然状態State of natureにおいても存在する。

そのような自由状態の場に権利は見いだせない。権利があるにしろ、ないにしろ、自由状態では意味がなく、そこに住む人々はそれを侵犯する自由を持つ。

では権利を主張するためには何が必要か。その世界で王になればどのような権利も主張できるだろう。だがそれを権利と呼ぶ必要はない。なぜならそれは王の自由に過ぎないから。

自由と権利の違いは何か。権利を権利たらしめるには、何が必要か。

そこに合意が必要だろうと思うのである。権利はすべての人が持っていると合意できなければならない。そのためには物理法則と同様に存在しなければならない。好きであろうが嫌いであろうが、信じていようが信じていまいが重力が存在するように、権利も存在する。人間が誕生する前から存在し、人間が滅亡した後も存在する類のものでなければ権利とは言えない。

そのような権利が存在したとしても、それが十分に働くには、ある特殊な状況が必要であろう。そこでは無条件に無制限には自由を認めない。権利が存立するには自由を制限しなければならに。そのために必要なフレームが社会であり、社会によって権利は自由の中から分離される。

自由と権利はどの社会でも見いだせる性質であるが、どのような時代、地域でも同じとは限らない。だから奴隷が存在する事にも不思議はない。長く人類は奴隷を許容してきたが、だからといって自由や権利の考えがなかったわけではない。ただ制限するエリアが小さかったのである。

自由は、人がもつ固有的な働きである。だから人には空を飛ぶ自由がある。飛ぶ自由はあるが、自由は必ず成功することを保証しない。飛ぶ自由があっても人が大地でぺちゃんこになるのは自由落下の当然の帰結である。

よって誰かもが自分の権利を主張することは自由の範疇である。権利を主張することも、行使することも、放棄することも、封印することもそれは個々人の自由である。

では権利が自由を制限するのはどういう時か。権利は誰かに対して自由に振る舞う事を制限する。自分ひとりならば、自由と権利に区別はない。そこに自分以外が存在するとき、自由と権利が分離する。

人は他人に何かを強制する自由を持たない。これを人間の権利と呼ぶ。だから権利は暴力とよく似ている。どちらも自分以外の誰かに作用する働きであること。暴力は振るう相手に働きかけ、相手を動かすもの。権利は振るう己に働きかけ、己を動かさないもの。

権利は誰も侵害しない事を要求する。誰からも干渉されない事、他の誰かの自由を制限しない事。そのために自分を制限することが権利なのである。

もしお互いの自由が相手の自由を浸潤している時、互いに引かないのなら互いに権利が侵害されていることになる。だが、どちらかが引くことが開いてを利するとき、権利は回復されない。そういう場合は、両者の間に割って入って引き離すしなかない。

言論の自由は何を言っても許される事ではない。それはただの自由に過ぎない。『言論の自由』という権利を主張するとき、己が他の人の自由を侵さないように制限しなければならない。それが出来ていないならば、権利は侵されている。もし、誰かが黙らそうと来たなら、己の自由のために戦わなければならない。相手にそのような自由はないを主張する。それが言論の自由という権利だ。

権利とは他の誰かを強制しない事だ。自分が強制されない事は自由に関する問題である。権利は本質的に人々を分け隔てるように働く。自由の届く範囲を遠ざける事で権利が回復するからだ。人種隔離政策は当然だが、そういう初期の権利の行使であったはずで、私の自由は君に干渉しない。君の自由も私に干渉しないでくれ。君の権利を認めるからと、そうやって当時の人々は隔離政策による住み分けを試みたのである。

その住み分けは平等ではなかった。それは片方の自由を著しく棄損していた。そのような立場に甘んじられるはずがないので、自由を求める戦いが開始された。あなた方の自由は制限されなければならない、それが公民権運動であろう。

以上、見てきたように、神は権利を持たない。なぜなら神には社会もなく、なんら制限も受けないからである。