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2017年12月31日日曜日

運命の考察

Genius is one percent inspiration, 99 percent perspiration.


ひとつでも 多くの選択肢を探すことを努力と呼び、その中から ひとつを選択する決断を閃きと呼ぶ。天才とはその1%を見つけた人である。99%の人は見つけられなかった。

という事は、探す数の多さと天才との間には関係があるはずだ。3つの中から1つを選ぶだけなら誰れでも天才になれるだろう。100個ならば1%、10000なら0.01%。数が多くなるほど見つけるのは難しくなる。


3つの中に成功が入っているのなら簡単だが、実際はもっともっと多い。残り3つになるまで待てば「残り物には福がある」である。

100よりも1000よりも100億の方が難しい。ここで注意すべきは、数が多いほど見つけるのが難しくなるだけではなく、それだけの数を揃えるのも難しいという事だ。100より1000より100億の方が難しい。

もしそこに「当たり」が含まれていなくても3つならすぐに気付く。100でも分かるだろう。数が増えてゆくにつれ「当たり」が無い事に気付くのも難しくなる。100よりも1000よりも100億の方が難しい。まるで魚のいない海に糸を垂れるようなものだ。決して魚は釣れないのに。

問題はふたつある。
  1. その中に探しものは存在するのか。
  2. それを見つけ出すことは可能なのか。

魚がいなければ釣れる可能性は0である。また、決して釣れない魚なら、居たとしても可能性は0である。よって当たりを引くには、次の前提条件が満たされていなければならない。
  1. そこに存在する事。
  2. そこで入手できる事。

人間はこの前提条件が満たされているかどうかを知らない。だから魚が釣れるかどうかはやってみなければ分からない。分からないから、いつ諦めるかも人それぞれである。

どのような人もそれぞれの人にとっての合理性と論理的に従って行動する。どのような戦略を立てれば可能性が高まるか。

魚が居ようが居まいが釣れようが釣れまいが、すべての魚を釣れば答えは明らかだ。これが総当たりという方法で、当たりが出るまでくじを引く、くじがなくなるまで引いてみる。そうすれば間違いない。

しかし、海にいる魚をすべて釣るなど実際には不可能だ。だから別の方法を考えることになる。本当に魚はいるのか、と思えば、潜ってみて探してみればいい。どうも居そうにないとなれば場所を変えるもよし、その場所で待つもよし。

成功とは選択肢の中から「外れ」を取り除く事である。失敗しなくなるまで何度も試せば成功するだろう。

だから「運」が良いと言う時、それは時間的に早く訪れたという意味がある。なぜこんなにも早く当たりを引けたのか。それは誰にも分からない。ただ結果としてこれは「運」が良いと呼ぶしかない。そういう感慨がある。

もし全知全能の神がいるならば、神に運はないはずだ。すべて因果律のはずだから。当たりも外れも因果律として理解する神にとって、それが当たりであるのは当然だし、それが外れであるのも当然だ。それを神は運とは呼ばないであろう。当たりを引いた。外れを引いた。神にとってそれはただの現象でしかない。

当たりくじを引いたから運が良いのか。それとも当たりが存在した事が運がよいのか。いずれにしろ人はそれを「知らない」。

運命の人


この世界に運命の人はいるのだろうか。だが実際にそう感じている人はとても多い。

この世界には何十億もの人がいる。その全員と会うなど不可能である。その多くの人の中からひとりの人と出会った。

今の時代に生まれていない人とは決して会うことはない。違う国に住んでいれば出会う可能性はぐっと少なくなる。90歳の人と0歳の人が運命になる可能性も小さいだろう。時間がそれを決める。

地雷原を歩いていて地雷を踏んでも運が良いとは言わないだろう。小さな無人島でふたりが出会っても運命とは呼ばない。統計的考えをしない人に運命は訪れない。確率が小さいから運命になる。それを神の思し召しと言う人もいる。

宇宙にはとても多くの星がある。重力によっても決して出会えない距離がある。宇宙のほとんど多くはこの星の生活とは関係ない。生きているだけで丸儲けとさんまは言う。

ハビタブルゾーンに生まれた事ほどの強運はこの世界にはないはずだ。この宇宙だから人間が生まれたと人間原理は教える。それらを人は運の強さには勘定しない。なぜなら生まれた時に人はそれまでの強運をリセットして0に戻すからだ。生まれた瞬間は、全ての人が運において平等である。

なぜそれを運命と信じたいのか。それが運命であるべきなのは何故か。それが必ず起きる事であったと自覚したいからだろう。その人と会うのは必然であった、では足りない。なぜなら必然は一回しか起きないかも知れない。運命は何回やり直しても必ず起きる事を言う。そう思う事が重要なのだ。その自覚が、行動を決めてくれる。人間は理由を必要としているから。人を殺すのにさえ太陽の眩しさを欲するから。こうしなければ予言さえ成就しない。

運命という理由が行動を促す。運命を欲しない者は、運命という理由を必要としないはずだ。

強運とAI


同じデータを持っていても、推論が異なれば違う結論を得る。この人間の自然な考え方にAIが新しい視点を持ち込む。AIの推論方法は人間とは異なる。AIの強みは数の莫大さにあって、シンギュラリティの頃には人類がこれまでしてきた全ての経験さえも超えるであろう。数量がコンピュータの強みであり、人間は決して対抗できまい。

人間が強運と呼ぶものもAIはただの計算として提示するだろう。AIはそれを人間には圧倒的に計算力が足りないからだと答えるだろう。その足りない部分を人間は運と呼ぶ。その足りない部分を埋められるものを仮定する。それが神であった。

AIにも上限がある以上、彼らも神にはなれない。AIにも運はあるはずだ。ただ人間の運はAIの運とは認めてくれないだろう。ただ計算が足りないと答える。すると運とは、単に先が読めなかったという実感に過ぎない。分からないから適当に決めた。それが上手くいった。なぜ上手くいったのかは説明できない。

一度きりの選択を正しくした。それを運と呼ぶ、何度やってもきっと同じになる、そう信じるなら運命と呼ぶ。勝利にしろ敗北にしろ、運命ならば決して変わらない。そこに根拠など要らない。根拠がなくとも信じたい。

そして、塞翁が馬という。目の前の成功がなぜその先でも良い結果を呼び込むと信じられるのか。

よい運命、わるい運命


運が良いとは「当たり」を引くことだ。だが「当たり」とは何なのか。人生にとっての当たりとはいつ決まるのか。これを簡単に決められる人は運が良い。

もし強運になりたければ「外れ」を一切カウントしなければ良い。それが統計的手法である。ある結果を良いという時、それは過去に対する結果であって、未来を決めるものではない。

その統計データをなぜ恣意的に解釈したいのか。その解釈が決定的、つまり過去を正しく語るとき、なぜそれが将来に渡ってまで変わらないと信じる事ができるのか。なぜ良い行いは、さらによい結果をもたらずと信じるのか。なぜそのような因果を信じられるのか。

そこに因果応報という仏教的思想はないか。

くじ引きで試してみる


サイコロでなんど振っても次に偶数が出る確率は50%である。サイコロは前の結果に影響されないからである。

しかし、連続して1が連続するとき、次に1が出る確率は減ってゆくと感じる。これがどれくらい稀れかと言えば1が10回連続する確率は、1/6の10乗である。もちろん、これはさいころを10回振った時に出る全ての数の組み合わせと同じ確率である。すると連続して1が出る確率とは10回振った時のすべての数の組み合わせの中からひとつだけを選ぶ可能性と同じだ。

自然はサイコロの目を知らない。だから人間が起きにくいと考えること(次も1が出る)と、その時の確率(1/6)は違う。連続して1が出にくいのは1が連続するのが難しいからではない。その他の組み合わせも次第に増加しているからである。サイコロを振るほど、そのただひとつの組み合わせは全体の中に埋もれてゆく。

連続して同じ数が続く回数を数えてみる。

なぜ同じ目が連続する確率だけが低く感じるのか。それは他の数の組み合わせがたくさんあるので思い浮かばないだけの話ではないか。それ以外がどれくらいあるかが想像しにくければ印象しか残らない。この場合、印象とは覚えやすいと同じ意味である。

ゾロ目が覚えやすいのはそれが簡単だからだ。情報量が少ないからだ。なぜ1が連続すればそれを運命と思えるのか。確率は他の数の組み合わせと同じである。なのに何故1が連続した場合だけを運が良いと考えられるのか。それを引きが強いと呼べるのか。

運が悪いとは「はずれ」ばかりを引く事だ、運が良いとは「当たり」ばかりを引く事だ。そう漠然と考えているが、実際は運が良いとは単に覚えやすいだけの話ではないか。

もし運が良いのなら、初めから選択肢が少なかった可能性がある。運が悪いのなら選択肢が多すぎた可能性がある。そして、選択肢が多いほど、それは困難な仕事である。それにはチャレンジする価値があるかも知れない。

だから運命はビジネスになる


偶然が多いほど、それが必然に変わる。

「信じるか信じないかの問題じゃないんです。居たんです、そこに。確かにこの目で見たんだ。信じて下さい。」

起きない事が起きることと、起きにくい事が起きるのは決定的に違う。そして、起きない事が起きたのなら、実は起きていない可能性が高い。そうでなければ奇跡か、物理学の間違いである。

もし、起きにくい事が起きたのなら、それは起きにくい事ではなかった、ある条件ではよく起きる事であったと考える方が妥当である。

おそらく、人は誰もが運命の人と頻繁に出会っているのである。ただすれ違って二度と会わないだけで。その中でもっとも親しくなった人を運命の人と呼んだところで、それは当然と言える。彼/彼女も、運命の人なのだから。

とても多く起きていることでも運命と呼べば、それはたったひとつの事件だと考えるようになる。それがない世界など考えられなくなる。多世界解釈という世界観を聞いてもそう思うことから逃れられない。自分の子供が違う子供に変わっている世界など人は信じられない。

絶望の中に居る人に手を差し伸べるのに、運命という言葉を使うことが適切がどうかは分からない。誰かを救うために運命という言葉を使う人はとても多いだろう。それで行動できるのなら良いのではないか、とも思える。

だから、運命と言う時、だれかの言葉ではなく、自分で決めるべきだ、と言える。誰かに運命と言われたから運命だと思うのではなく、だれにも何も言われなくてもそれを運命だと信じるべきだ。もし、信じたければ。

だが、それならば運命と呼ばなくても十分ではないか。わたしがそう決めた、というだけで十分な気がする。

神の存在はまだ証明されていない。そして存在しないことも証明はされていない。そもそも神とは何かという定義さえ決まっていない。

それでも我々の世界に神はいる。いると呼ばざるを得ない。人は人を殺すのにさえ神という理由を必要とするだの。もし神がいなければ、別の理由を見つけるだろう。それは世界にとって不幸ではないか。

この世界には70憶の人間がいる。だから少なくとも70億分の1よりも大きい確率なら何が起きても不思議はない。誰かが経験する。その程度では奇跡とは呼べないのである。


2017年12月17日日曜日

日本国憲法 第二十六条 教育 再考

第二十六条  すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
○2  すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
第二十七条  すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
○2  賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
○3  児童は、これを酷使してはならない。

権利を有し、義務を負うという一文を以ってしても、起草者たちが憲法を通して日本に「民主主義の理念を理解すること」を求めているのは疑いようがない。

権利を有するのは分かる。誰も働く意欲を奪い去ってはならない。この理解は、人間の自由意志と絡めても分かりやすい。それで終わるなら、なんら考える必要もない条文である。

だが、義務とは何か。働く権利がある。ならば、その権利を放棄する自由も持っているはずである。

所がそれは違うと憲法は言う。権利もあるが義務も負う。権利はあるが、勝手に放棄してよいものではないと言うのである。

権利は人間が生来持っているものである。民主主義がそう規定するのだから、権利は民主主義に特有の考え方かも知れない。そうであったとしても、自由意志は民主主義の専売特許ではない。権利と同等の考え方なら民主主義でなくても見つけることはできるだろう。だが労働の義務とはどういうことか。奴隷でさえそのようなものを有していたか。

人間の自由は社会契約によって制限されるというホッブズの考え方を敷衍すれば、労働は契約によって人々に課せられたものであろうか。必要な経費と考えるべきであろうか。だが、それでは義務とは国家からの強制力として存在することを許す。そのような考えを民主主義は許すだろうか。なにひとつ国は市民に対して強制することはできない。それが理想であるはずだ。

民主主義からどうしても奪えない権利があるとすれば、それはロックの言う革命権であろう。選挙はこの革命権を体制の中に内包したものである。仮にそれ以外のすべての権利が消失したとしても革命権が残る限り民主主義は存続する。

アジアでは体制を打ち倒す正当性に易姓革命があった。どのような国体であれ政府を打ち倒すのにはそれなりの正当な理由が必要なのである。民主主義だけがそのような理由を必要としない。ただ勝て、選挙に勝利せよ。どのような方法であれ、勝利者がこの国を運営せよ。

だから民主主義では国家はなにひとつ市民に強制はできないはずである。選挙で勝つことは、国の独占ではない。好き勝手に何をしていいのでもない。義務を押し付ける自由を権力を持たない。

ベーシックインカムやAIの出現によって、働かなくても生きて行ける福祉社会が到来するだろう。それが絵空事ではない時代に、勤労の義務を理解するのは難しい。

もちろん、勤労はあらゆる労働を義務としたものではない。奴隷としての労働を求めているのではない。果たして勤労とは何であるか。憲法は二十七条を通して勤労とは何かを国民に問い掛けている訳である。

日本国憲法はその出自からして日本国民に民主主義の理念を教えるテキストの役割を負ってきた。これが他の憲法とは異なる特異性であろう。

日本国憲法は人間が探求してきた理念や正義という概念と向き合わざる得ないように書かれている。その一文の中に憲法としての役割だけでなく、読む者に理念の探求を求めている。

もちろんその理念の多くはヨーロッパで生まれたものであり、アメリカで今も壮大な社会実験が進行中である。日本は明治にそれらの憲法を学んだが、その多くは伊藤博文に負った。彼の慧眼が憲法と西洋の法体系を極めて正しく理解していたことは疑いようがない。

にも係らず、大日本国憲法はそれから70年近く一度も改正されなかった。最初に書いた憲法の中にどんな間違いもなかったなどあり得ない。70年もの間に世界の変化や新しい価値観の登場が憲法に修正を必要としなかったなど考えられない。それが一度も起きなかったと戦前の憲法は言っているのである。つまり日本人がどれほど憲法というものが分かっていなかったを示す証拠なのである。

アジアにはアジアの法体系と理念がある。特に、東アジアで生まれた政治理念とヨーロッパを発祥とする理念(ここではアフリカやイスラムなどは触れない)を、我々は完全には統合できていない。その綻びは長い間、この国の中で不協和音や矛盾、誤解や無知として残っているはずである。

この国の不幸は官僚と言えども憲法を読んでいないことにある。小学生が憲法を読むこともない。戦前は教育勅語を暗唱していたことからくる反動であろうか。まさに誰も憲法が何であるかを知らないのだ。誰もが数学オリンピックの順位で一喜一憂するが、憲法を読まないことを憂える人はいない。

この国の人々は元来が実学にしか興味が湧かないのである。短期的な利益を追及することに最も勤しむ人々であった。もちろん空襲中の空母の甲板で親鸞を語っても仕方がない。それはそうであろう。同様に明治の開国期に実益を重要視したのも致し方のない事であったろう。

しかしどのような実学も文化があり理念という背景に支えられるものである。それがしっかりと後ろから支えなければ長く続くものではない。目先のことばかりに心を奪われて、長く遠くを見る力が欠落してはさほど遠くへはいけない。

戦場での武勲ばかりに興味がゆき、一週間程度の戦闘に勝つことしか興味のない連中が短期決戦を挑んだ。短期の実利ばかりを追い求めるから二年以上の長期戦を戦い抜ける人材はどこかに飛ばされてしまった。

戦争とは補給が長く続いた方が勝利するという当然の帰結を失った軍隊がどのような末路を辿るかを証明するためだけに戦争を挑んだようなものである。

日本が実利の探求を重視する短期指向が強い事は、この国の伝統かも知れない。憲法を教えていない以上、理念などで国を動かす気はないのである。短期的な実益を追い掛ける人材が優秀だと言っているのである。そうやって短期戦に勝つことばかりに目が向いて、長期戦など忘れ去っている。敵が短期戦を挑んでくるとは限らないのに。

大方針は長期戦で構えるものである。どのような国もそうやって国を営んできた。アメリカもそのように戦ったし、中国も同様である。

尖閣諸島は、40年以上も前に打たれた鄧小平の捨て石であった。この捨て石が息を吹き返す。40年以上の無言の意思のリレーがある。

長く忘却せずに根気強く活用の機会を伺う方法もあれば、終わった事はきれいに忘れて再構築する、問題が起きたらその場で対処する方法もある。

重厚な布陣と堅牢な要塞に立て籠もる持久戦と、軽快な立ち振る舞いと軽やかさで戦場を駆け抜ける騎兵のようなものだ。得意不得意はあれども、国がこれしか採用しないなどということはあり得ない。

たったひとつでも弱点があるようではプロと呼べないと語ったのは米長邦雄であった。相手が腹を据えて持久戦に持ち込んできたなら、こちらにも長期的な戦略で立ち向かうしかない。

長くこの国を守りたいのであれば、小学校で憲法を通読する所から始めるべきである。

我々はみんなが義務を負う。だがそれは憲法に書かれているからでも、国家から強制されたからでもない。義務を果たすことは権利を要求するための条件でもない。

なぜ憲法に義務の記述があるのか。国は何を市民に求めるのか。そうではない。義務を負うのは国であって、市民ではない。教育の義務を負うとは、国家は教育が施せるだけの環境を整えなければならないという意味であって、教育を強制されることではない。

もし教育の価値を認めないなら受けなければよい。好きに生きればいい。少なくとも飢え死にしないだけの面倒は見るよと憲法には書いてある。そのような人生観であっても非難しない、それがこの憲法である。

勤労の義務とは国家は勤労を可能とするだけの労働環境を整えなければならない、という意味だ。そうしたところで市民がさぼろうが、遊ぼうが、それは自由である。義務は国家に帰属する。権利は市民に帰属する。

さて、問題がひとつある。納税の義務である。こればかりは、市民も逃れようがないのである。

2017年12月16日土曜日

日本国憲法 第二十四条 再考

第二十四条  婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

短くすると

第二十四条 婚姻は、ふたりの性両性が同等の権利を有する。

要するに

両性をどう解釈するかを、憲法制定者たちが考えなかったなどという事があり得るだろうか。

考えるに

同性婚を阻むものとして日本国憲法があると新聞に書かれていた。その程度の時代の変遷に耐えきれぬほど、我々の憲法は脆弱であろうか。憲法制定者は未来に対してそれほど盲目であったろうか。

法律は解釈を許すことで弾力性を持たせている。と同時に、勝手な解釈を拒否し権力の暴走を許さない。この両立をただ言語の解釈(判例)にのみ委ねるている。それが法である。

21世紀の性は漸く戦国時代まで戻ったと言うべきか。日本では織田信長と蘭丸の例を持ち出すまでもなく、性の組み合わせは実に自由であった。それを忌み嫌らう理由が丸でなかったのである。

性をひとつの組み合わせに限定したのは、当然ながら文明である。そうなった理由は明治の元勲たちが揃いも揃って女好きの変態どもだったからであろう。案外、西南戦争とは、女とだけ付き合えという官軍に対して、同性だって良いじゃないかという薩摩軍の反乱だったのかも知れぬ。

さて、両性の定義を男女に限定するなら、憲法制定者は男女と明記したに違いない。制定者の中に密かに同性愛者が居たならば、そのような記述を阻止しようとしたであろう。今は認められなくとも未来は分からない。故に将来への布石として記載に工夫を凝らすのは当然と思われる。

Marriage shall rest upon the indisputable legal and social equality of both sexes
結婚はどちらの性にとっても法と社会の前で明らかに公平なものである。

憲法草案には both sexes とある。これが両性の元意である。両者の平等と両者の意志を尊重し、他者からの強制や支配を排除するためである。

その理念は性による不利益への抗戦でもある。だから、婚姻が男女間に限定されるのが性差による不利益になるならば、それは改めなければならない。男女だけが婚姻の条件では両性具有者が考慮されていない事になる。それは法の前の平等に反する。

両性を、男女ではなく、ふたりの性と解釈すればそれで十分であろう。そうするだけで婚姻はずっと広い意味を持つ。どのような性であれ、婚姻を妨げるものはない。それが憲法の理念により合致すると思うのである。

男女の解釈は幾多のひとつに過ぎない。そこから動けないほど我々の憲法は頑迷ではない。改定を待つまでもなく、この憲法は異性はもとより同性の婚姻をも妨げるものではない。夫婦という言葉さえ夫が男で婦が女である必要もない。同性婚者も夫婦であってよいし、それ以外の呼び方があってもちっとも構わない。

この憲法が規定するものは、婚姻という制度がある事。それはふたりの間で結ばれるものであるという事。それ以外の規定はすべて解釈の範疇である。

だから憲法は3人以上の婚姻については想定していないとも言える。婚姻がひとりにひとつであるとは規定しないが、複数を認めるとも明記しない。もちろん、重婚、一夫多妻、一妻多夫などの関係は民法の範疇であり、憲法の知るところではない。

では異種間の婚姻はどうか。幸い我々はまだ異星人との邂逅を達成していない。だから考えられるのは、他の動物種か無機物、例えば人の形をしたアンドロイドがあるが、憲法はこれについても明記していない。流石にこれは想定していなかったと思われるが、そうであっても別に構わないのである。つまり憲法はそれらを禁止していない。社会の変遷に託しているからである。

2017年12月9日土曜日

日本国憲法 第三章 国民の権利及び義務 V (第二十九条~第三十条, 所有)

 第二十九条  財産権は、これを侵してはならない。
○2  財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
○3  私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。
第三十条  国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。 

短くすると

第二十九条 財産権。
○2 財産権は、法律で定める。
○3 私有財産は、公共のために用ひることができる。
第三十条 納税の義務。

要するに

権利とは手に入れたもののうち、誰も奪ってはならないものであり、義務とは自ら進んで誰かに与えるもののうち、誰も所有してはならないものである。権利と義務の先には所有があり、その先には自然がある。

考えるに

租税はかつて略奪であった。決して義務ではない。それをこの憲法は義務と言う。では略奪ではなく租税が義務と言える根拠はどこにあるのか。それが説明できなければ国家の寄って立つものも瓦解するだろう。

人間は太古から色々なものを略奪してきた。隣人のもの、隣村のもの、誰かの手にあるものを、そして自然から。それは野生動物の行動と何ら変わるものではない。生命は命を略奪する。食べるためだけでなく、面白おかしくあるためにも。

しかし、野生生物に奪うという考えはあるだろうか。ヴィルスや細菌にそのような考えがあるだろうか。奪うという考えが成立するには、所有という概念が必要である。

自然には所有という考えはない。自然は誰かの所有物ではないし、財産でもない。冬に向けて木の実を集めるリスも、その所有権を訴えたりはしない。

奪うものは、誰かの財産である。財産は誰かが所有するものである。だから所有しているから略奪できるのである。所有していないものを略奪するなど不可解な話である。

しかしもともと人間は自然にあるものを略奪してきた。自然は誰かの所有物ではないから、何も問題は起きない。ただそれでは何かが不足しているので、自然を神のものと考える事で納得した。それは丁寧に祈りを捧げれば許す神である。山で誰かが死ぬとき、それは何かを破ったと納得する事ができた。

自然にあるものは誰の所有物でもない。それを人間の世界に持って来たら価値が付く。この価値が財産である。価値があるとはどういうことか。誰かと何かを交換できるという事だ。価値がある。それを同じ価値で交換する。そこに所有という考えが生まれる。

交換するためには境界が必要である。境界によって内と外を別ける。だから交換が可能になる。自然と人間の間にも境界はある。内と外で全く異なるルールが働いていても問題はない。

例えば、頭の中にある思考やアイデアも自然に属す。だから考える事はタダである。それを人間の世界に持ってきたら価値が生まれる。その価値は所有物のひとつなのでお金に変える事ができる。

人は自然から略奪してきた。略奪してきたものは私の所有物である。所有しているものは誰かと交換できる。物が交換される時、所有権も移動する。逆に言えば、交換に絶対必要なものは所有権の移動であって、物が移動する必要はない、とも言える。

ならば、略奪とは所有権が移動しない交換である、と考えてられる。自然から略奪するとき、そこに所有権はない。だから、自然から得たものに対して誰も文句は言わない。自然から略奪したときに、初めて所有権が付与される。

だが誰かが所有するものを略奪すると、所有権が移動したとは言えない。それは自然から略奪するときの方法だ。それを人間の世界で行っている。

略奪されて初めて人は略奪によって所有者を変えてはならぬ、と考えるようになった。これが正義の始まりである。略奪ではない正当な交換によってのみ所有者は移動する。そうでない交換は認めるべきではない。これが人間の世界だ。

ここに自然という世界と人間の世界のルールに違いが生まれた。人は自然界からは略奪する事しかできない。一旦、人間の世界に持ち込まれたものは人間のルールが適用される。

自然には所有という考えはない。よって誰かから略奪するとは、その相手を自然と見做している。それは相手を人間として扱っていないという事に等しい。

人間が所有するものをいつ誰と交換するかは所有者の完全な自由である。これが人間の世界の自由というものである。よって所有していないものを自由にする権利を人間は有しない。

すると自然の中には自由は存在しないのではないか。だから「自然状態」に完全な自由があると考えるのは、その時点でそこは所有のある人間世界の理想状態と考えなければならない。この自然状態においては、意思というものは人間が完全に所有していると考える。この前提があって初めて自由意志が成立するからである。

自然の中で生きる生物にももちろん意思の自由はある。右に行こうが、左に行こうが完全に自由である。では自然にある自由と人間の世界の自由は何が異なるのか。それが所有であろうと考えるのである。

人間にとって最も価値のあるものは命であるが、この命を人間は所有していない。自然が停止を要求すれば、我々はそれに抗えない。

所有できるものは交換できるものである。交換できるもののみが所有できるものである。命は交換できない。だから命は所有できない。

自然は命を奪うことを許している。だが人間が他人の命を奪ってもそれは所有できないものである。よって、その行動は自然からの略奪とは呼べない。もちろん、人間の世界にある交換でもない。

一般的に殺人は命を奪う行為ではない。命を奪うことは出来ない。なぜなら命は所有できないのだから。どういう理由であれ、殺人は命を所有するための行動ではない。

人は自然から略奪してもよい。だが人の世界では略奪は許されず交換しなければならない。だから、人の世界には人の世界のルールがある。自然の世界には自然のルールがある。このふたつの間を勝手に行き来することは許されない。勝手に境界線を決める事は許されない。

人をまるで自然にあるものと同様に扱うから殺人は激しく罰せられるのである。それは我々の世界にある境界線を無視した行為だからである。そのようなものは自然に追放するしかない。

自由とは交換する自由の事である。だから自由とは交換をする自由、またはしない自由である。そして所有している物に対しては完全な自由を有する。破壊することも改変することも自由である。

南部奴隷は白人所有者によって自由に扱われた。それは彼らにはその人たちへの所有権があると信じられていたからだ。だから所有権を否定すれば奴隷制度は自然と瓦解するのである。だからと言って所有権は人種差別の理由ではないのである。

時に女性を自分の所有物と勘違いする人もいる。これは価値があるものを所有していると考える方が安心できるからである。もし価値のあるものを所有していないと考えると不安で仕方がなくなるであろう。これが安心する仕組みでもある。

租税は我々の財産を国家が略奪する仕組みである。かつて、それは我々の財産ではない、と説明していた。農奴に財産の所有権はなかったからだ。

豊かな天然資源を持つ国には税金のない国家もある。だからといって租税が義務である、という考え方を撤廃しているはずもない。ただ必要ないだけで税金は必要なのである。

それは略奪ではない、税金とは国家のサービスを購入する対価である、という考え方もある。だが、それならば納税の義務とは呼ばないのである。それは契約である。

そもそも義務とは何か。それは権利の制限である。なぜ権利は制限されるか。それは他の権利を守るためである。誰かの権利を守るために、他の誰かの権利を制限する。それが国家の創発であろう。権利も自由も無制限に許されていたはずである。それが社会になれば無制限では済まず、権利の制限が必要になった。

国家を成立させ社会をそこに育むためには権利は制限される。その制限によってよりよく権利を守れると考える。その守りたい権利とはどうやって取捨選択するのか。その考えが公共である。最大多数の最大幸福。幸福の定義が曖昧な現代では最大多数の最小不幸という考え方もある。

憲法の義務は極めて少ない。それでも教育、勤労、納税は国として欠かせないものとして見ている。義務は他の権利のための制限だから義務を負うものにとって直接的な利益はない。だから簡単に放棄しうる。それを義務とし放棄は許さないとするのが憲法の立場だ。

安心するために核保有しようとする国家がある。核兵器を所有する自由はどの国にもあるように思えるが、使用する自由はないように思われる。

核兵器をどのような国家なら所有が許されるか、それは極めて歴史的な偶然に過ぎないが、使用は強力に制限しなければならない。これは自然と人間の対比というこれまでの考え方では説明できない考えである。なぜ兵器が強力になっただけでこれまでの考え方が通用しなくなるのか。

所有しているのに自由に使ってはならない根拠は何か。ただ兵器が強力になっただけなのになぜ自由を制限しなければならないのか。それを禁止したり制限する根拠が従来の考え方では示せない。

核兵器を前にして我々は何でも所有してよいという概念を失う。所有しているからと言って、自由にしてはならない。核兵器は「絶滅」を現実にする。それは自然からの略奪というレベルを超えている。

人間は多くの他の命を終わらせてきた。それは自然に生きる多くの生命も同様だ。この世界の命はまるで他の命に対して無関心である。種の絶滅に対してさえ自然は無頓着である。まるで原子、分子は何ひとつ変わっていないじゃないかと主張しているかのようだ。蝶を捕らえたカマキリには蝶の体が必要である。その結果、命が失われるのは不可分に過ぎない。

自然はそうかもしれない。だが、絶滅は、どのような神も思想も想定していない。

(国家はなぜ衰退するのか/ハヤカワ文庫)

2017年11月18日土曜日

カナンの女 - イエス

カナンの女は、『マタイによる福音書』にあるイエスの話しである。

カナンの女

農夫が芽を出した苗を間引くようにあなたがたを間引くのである。実った麦を刈り取るようにあなたがたを刈り取るのである。パンにするために磨り潰す麦もあれば、来年の種籾になる麦もある。刈り取られる事なく落穂となるあなたがたもまた私の麦である。

わたしはイスラエルの失われた子羊以外の者には使わされていない。

そう答えるイエスからひとりの女が引き下がらない。彼女には助けねばならない娘がいた。

「主よわたしをお助けください。」
イエスは答えて言われた。「子供達のパンを取って子犬に投げてやるわけにはいかない。」

イエスは彼女のことを子犬と呼んだ。

「その子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」

サタンさえ追い返したイエスの言葉がカナンの女には届かない。それどころか、この女性がイエスを動かす。

そこでイエスは答えて言われた。「女よ、あなたの信仰は見上げたものである。あなたの願いどおりになるように。」その時に娘は癒された。

イエスはイスラエルのメシアとして生まれた。多くの預言を成就し、それは完成する予定であった。この女がイエスの前に現れるまでは。

イエスにはこの女を助ける気は全くなかった。彼女から何かを願われても断るつもりであった。女がもし引き下がればその日も何もなく終わったはずである。

だが女は引き下がらなかった。彼女は言葉を尽く、あなたが子犬と呼ぶならそれでもよいのです。しかし子犬でも床に落ちたパンくずならばいただくことはできるでしょう。あなたは、あなたの神はそれさえも許されないのですか。

彼が狼狽したかどうか聖書には書かれていない。だが彼女の言葉は槍のように突き刺さった。彼女を子犬と呼んだのは自分である。信仰をパンと呼んだのも自分である。彼女の信仰は深い。神のパンくずさえも彼女は信仰に値すると言うのだ。

イエスはやられた。

この時、イエスはメシアとしての道を踏み外すことを決めたのである。

この女を追い払ってください。叫びながらついてきてます。

そう語っていた弟子たちは納得するだろうか。彼はイスラエルを救う役割を捨てた。この日に起きた事は預言されていないはずである。この先、どこまで堕落してゆくのか。

イエスの行動は裏切りと呼ばれても仕方のないものである。信仰の平等性とでも呼ぶべき転換であろうか。あらゆる人を分け隔てなく神とは信仰によってのみ対峙するものである。

カナンの女を拒絶さえしておればこの問題は起きなかったのである。イエスは彼女を受け入れた。それは、そのほかたくさんの人々も受け入れる事を意味する。誰も予想していなかった行動である。

するとたくさんの人々が、足、手、目、口などが不自由な人々、そのほかの多くの人々を連れてきて、イエスの足もとに置いた。

奇跡が神の子を示すのではない。聖書を深く知っているから神の子なのでもない。イエスは奇跡に何の価値も見出していない。それは神の御業であって自分の力ではないことをよく知っていた。いつかその力が失われるかも知れない事をイエスが気付かなかったはずがない。

イエスは言葉によってサタンを退けた人である。サタンは彼の言葉に沈黙した。サタンの問い掛けはそこで潰えた。そのイエスに対して、カナンの女はなんと迫ったか。

彼の言葉は退けられた。だがイエスは沈黙しなかったしその場から立ち去る事もなかった。彼は決意し、奇跡の力を使う。

荒野の中で、こんなにたくさんの人々に食べさせるパンを、どうやって手に入れましょうか。

イエスの生涯はカナンの女を切っ掛けに狂ってゆく。本当は十字架にかけられるような人ではなかったのである。イエスには拒否できなかった。その時からイエスの真実があると思うのである。

2017年11月3日金曜日

水100cc に 1 g の塩を溶かした時の濃度

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セント

セント cent はラテン語 centum からきた 100 を意味する英単語である。パーセント percent は百分率のことで 0~100 の割合を示す。

per は「…ごとに」という意味である。ppm(parts per million)なら million が 100 万の意なので百万分率を意味する。160km/h なら kilometers per hour で毎時 160km という速度(distance per unit of time)を現す。

割合は全体に占める量であり、パーセントは全体を100としたの時の量である。全体の数と対象の数の関係であり、ここに割る数と割られる数が存在する。

一般的な式
全体とする数 ÷ 全体の量 × 対象の量 = 割合の数

どっちがどっち?

割合は次のどちらかの式で求められる。100 を最後に掛けないと % にはならないが小数点を右にずらす、または 0 を加えるのは簡単な操作だから式には含めない。

こっち?
(水+塩) ÷ 塩
それとも、こっち?
塩 ÷ (水+塩)

式の意味を理解しなくても(理解しなくていいという話ではない)次のように考えると覚えやすい。
  1. 割合は 0 から 100 の範囲の値を求めるものである。
  2. 割合を求める以上、どちらかは 0 になる可能性を持つ。
  3. そのとき 0除算にならない方が該当する式である。
  4. 水が 0 を仮定するのはそもそもの問いが変わるから考えなくて良い。
  5. 塩が 0 はこの問いでは可能性がある。よって塩で割ってはいけない。

比率で求める

パーセントは、割合を求めるのと同じだから、比率で求める事ができる。
X:100 = 20:200
⇒ X / 100 = 20 / 200 
⇒ X = (20 / 200) * 100 = (1 / 10) * 100 = 10(%)

式で求める

100を全体とする数とし、これを全体の量で割ることで、1単位当たりの数が求まる。これに対象の量を倍すれば割合になる。
100 / 200 * 20 = 1 / 2 * 20 = 10(%)




上記の式を変形する。
100 / 200 * 20 = (100/200) * 20 = (100/200) * 20 = (100*20) / 200 = 10
または
100 / 200 * 20 = 20 * (100/200) = 20 / (200/100) = 20 / 200 * 100 = 10

変形した式
対象の量 ÷ 全体の量 × 全体とする数 = 割合の数
これは、対象の量 20 を全体の量 200 に等しく分配し(0.1ずつ)、その値を 100 だけ足したもの(0.1*100=10)である。100個だけ足したものは、全体の量を100にした時の対象の量に等しい。




水100cc に 1 g の塩を溶かした時の濃度

100cc = 100mL = 100g とする。

対象の量 = g
全体の量 = cc + 1 g
全体とする数 =

式:

この値は g 重さ、質量に対する濃度。体積や mol 数、原子数などの濃度、割合を求める場合も、式は同じだが、これとは異なる値を代入する必要がある。

2017年10月12日木曜日

日本国憲法 第三章 国民の権利及び義務 IV (第二十四条~第二十八条, 尊厳)

第二十四条  婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
○2  配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

第二十五条  すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
○2  国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

第二十六条  すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
○2  すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

第二十七条  すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
○2  賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
○3  児童は、これを酷使してはならない。

第二十八条  勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。

短くすると

第二十四条 婚姻は、夫婦が同等の権利を有する。
○2 法律は、個人の尊厳と平等に立脚。
第二十五条 健康で文化的な最低限度の生活を営む権利。
○2 国は、社会福祉、社会保障、公衆衛生向上、増進に努め。
第二十六条 教育を受ける権利。
○2 国民は、子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は無償。
第二十七条 勤労の権利を有し義務を負ふ。
○2 勤労条件は法律で定める。
○3 児童を酷使してはならない。
第二十八条 勤労者の団結、団体行動をする権利。

要するに

誰もが死ぬ時には悪くない一生だったと言えるようにしたいね。餓死なんて悲しいね。奴隷なんてイヤだね。

考えるに

AIの現実味が人間の労働や勤労について大きく変えようとしている。人々が働かなくても生活できる社会に推移しつつある。その時、この社会の資本と貧富はどのように変わるのだろうか。そのような社会で人間の価値はどうなるのだろうか。

教育や労働は国が与えるものではない。富国強兵を目指し国民を統制するためのものでもない。それは国民の権利であり、誰も奪ってはならない。

では「教育を受けさせる義務」、「勤労の義務」とはどういう事か、それは簡単に奪う事ができるという意味である。誰も奪う事はできないと記述する時、それは簡単に奪う事ができるという指摘なのだ。故に守らなければならない。誰かの権利を守る行為を義務と呼ぶ。

その権利を守った結果、国が富もうが貧しくなろうが、それは憲法の知った事ではない。教育を施し勤労を貴ぶ方が国家を豊かにするはずである。そう考えるが絶対とは言えない。ただ、それ以外の方法は収奪的な制度だろうと思われる。

人間には基本的人権があると言われている。それが元来的に備わっている自然権であるか、後天的に、つまり社会によって守護される権利かは知らない。実際の所、国家なり社会的制度がなければ、人権あれども守られずという状況は発生する。

選挙権も権利である。民主主義国家においては、投票する権利は人々に付与された唯一の権利と言っても良い。この権利が守られている所には、その他の権利も守られている。この権利がないがしろにされている所には、その他の権利も多かれ少なかれないがしろににされている、つまり投票する権利は権利尊守のバロメータと言える。

選挙においては投票を棄権することを進めたり、白票で構わないと考える人もいるが、それは権利の放棄であって、権利を放棄するとはどういう事か。権利の放棄、例えば基本的人権を放棄する事は果たして可能なのだろうか。この放棄という考え方と密接にリンクするものが尊厳ではないか。

人間には尊厳が必要だ。誰もが敬意を払われなければならない。それが実現できるならば国が富もうが貧しかろうが二の次でよい。国が滅びようが占領されようが宜しい。

我々の生存戦略は裾野を拡げる事である。裾野が広がっていれば、対応できる可能性が高くなる。生物としての戦略である多様性に加えて、人間が見出した力の集中がその基本である。

そのような戦略を採用する以上、そこには寄与しない集団も発生する。必要ないと烙印を押されれば、社会から排除されても仕方がない。そういう短絡な考えをする人が居るのも自然である。

それが短期的な最も効率的な方法である、という考えはひとつの答えだ。そして「場合の手」としては正しい事もある。例えば、津波を前に私を追いてあなたは先に逃げなさいと言われた人もいる。

だが、この世界は成功と失敗の繰り返し。成功した時の利益が最大に、かつ失敗した時の損失が最低になる様な均衡点が得られる。それは国家や時代、文化によっても異なるが、成功することしか見ないようでは人間が足りない。

どのような集団も家族から生まれる。必要ない人を排除する社会は、その家族も排除する社会である。その友人や親類も排除する社会である。長期的に見れば、そのような排除する圧力が強い社会は脆弱になる。なぜなら構成要員が次第に単一的になってゆくからだ。いつ誰に起きるかも分からない事については、それを受け入れる仕組みの方が強靭に育ってゆくはずだ。

我々の社会を弱肉強食という考えで捉えようとする人もいる。この言葉は生物学から出た言葉ではない。英語では Law of the jungle(ジャングルの法則)が意味が近い言葉としてある程度だ。

韓愈(768-824)の送浮屠文暢師序に出てくる言葉なのだ。科学でも何でもない。これは詩なのだ。

自然界では弱い個体(弱いの定義が曖昧であるが)が必ずしも淘汰されるとは限らない。そのような単調さでこれだけの生命に溢れはしない。捕食された個体がいる世界であり、老いたもの、生まれたばかりのもの、ケガをしているもの、捕食者の近くに居たもの、捕食された理由を弱さだけで語れるものではない。かつ捕食者と雖も老いれば飢えて死ぬか捕食されて生命を全うする。

人間の尊厳を最大限に尊重する、これが社会を支える恐らく唯一の思想である。国家も軍も官僚も政治も奴隷でさえも人の尊厳のためにある。それが守られるなら民主主義を放棄しても構わない。

それでも、人間の尊厳と貧困の間にはとても近い関係がある。貧困が人間の尊厳を踏みにじる事は多々ある。と考えるのは逆かも知れない、尊厳を踏みにじるから貧困なのかも知れない。

だからといって人間の尊厳を保つためには富むしかない、という結論はいただけない。人は貧しくとも尊厳をもって生きることができる。貧困の中で尊厳をもって死を迎えることができる。どのような人でも自分自身への尊厳を失う事はできない。どれほど惨めで、どれほど失望して、どれほど嫌悪していようと、その体を作り上げる細胞のひとつひとつは最後まで生きる事を辞めない。

貧困の原因は経済の問題である。経済を豊かにするほど解決できる問題の数は増える。貧困を解消すれば人間の尊厳も高まるはずである。貧しさは人を追い込む。

ただ、この世界が抱える問題の総量は我々の経済の総量よりも大きい。だから、経済に頼らずに問題を解決する方法を模索するしかない。貧しくとも人と分かち合う人々がいる。少しでも先へ進もうとする人がいる。泣いている暇は僅かだ。

はて、人間の尊厳とは何だろうか。あらゆる権利を放棄したとしても人間の尊厳は残っている。その残っているものを最大限に尊重するとは、生命賛歌に外ならない。ならば、なぜ人間の生命だけが特別なのか。もちろんこの宇宙に人間だけを特別視する法はない。

どこまで他人と分かち合えば人間の尊厳を守った事になるのだろうか。上限がないというのは恐ろしい事である。貧しい人の横をそのまま通り過ぎるのは人間の尊厳を破った事になるのだろうか。悲しいんでいる人の横で笑う事は人間の尊厳を貶めた事になるのだろうか。

尊厳という考えは我々の手には余る。だが、尊厳は無理でも敬意を持てば緩和されるのではないか。敬意とは礼の事である。だが礼が敬意なのではない。

生まれの違いが、そのまま格差の原因となる。子供は親を選べないが、当然、親だって子供は選べない。その組み合わせが多様性である。すると生まれの差異は多様性のために許容すべき不平等という話になる。同一であったり平等である事は多様性を損なう道とも繋がっている。

よって許容すべき不平等と許容できない不平等がある。その許容は様々な立場で異なる。貧しく飢えている人の横を笑いながら通り過ぎても構わないし、立ち止まっても構わない。いずれも人間の尊厳の問題ではない。敬意の差に過ぎない。

ISで売られた少年少女たちは、ほんの数百年前ならヨーロッパ大陸で日常的な風景であった。その数はヨーロッパやアメリカで誘拐される子供の数には遥かに及ばない。何が人間の尊厳なのか。少なくとも我々が到達できた尊厳は人間を売買しない、奴隷にしない、それだけである。

人は知らぬ間に虫を踏み潰す。だから人をも。見捨てられた人にも人間の尊厳はある。彼の心臓はその鼓動を止めない。奴隷制度を放棄することだけが人間の尊厳ではないのである。

人間の尊厳とは何か、と憲法は問い続けている。それについて考えよ。ここに規定されたものは、人間の尊厳とは何も関係ない。だが、これらの事について保証しなければ、君たちは人間の尊厳について考えることさえ出来ないだろう。

そのために教育が、労働が、健康が必要である。それは知らない事を学ぶためではない。知るべき事を誰かの都合で遮断されることがないようにするためだ。

憲法は教育の権利を説くが、教育の内容については詮索しない。何をどう教えようがご自由に。独裁国家であれ、奴隷社会であれ、ご勝手に。だが教育が続く限り、人間は尊厳について考えざるを得ない。今はダメでも明日は分からない。そう憲法起草者たちは信じているのである。

2017年10月7日土曜日

風姿花伝 - 世阿弥

1363年生れ、世阿弥。観阿弥の子。室町時代 希代のプロデューサー。

風姿花伝の一節、「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」

折に触れ この言葉を思い出す。古典がどのような読み方も許し、受け入れるものである以上、ただひとつの答えがあるとは思わない。この言葉は、その時々で何かを訴えてくる。自分はこう読むという以外、どんな面白みがあろうか。

この芸、その風を継ぐといへども、自力より出ずるふるまひあれば、語にもおよびがたし。その風を得て、心より心に伝はる花なれば、 風姿家伝と名附く。

この芸は、猿楽から発したものだが、一種独特のものがあって、その機微を伝えるのは難しい。猿楽から始まり、どう変わっていったか。その変わるものが花だ。この変わってゆく力が花だ。

風の姿を花の姿で伝える。風は目に見えない。だが花が揺れれば風があると分かる。花の姿を使えば風を伝える事ができる。同様に風の姿で花を伝える事もできる。風が吹いている所作に花を感じる。花を伝えるのに花である必要はない。花の姿で風を伝え、風に舞う姿で花を伝えてみようと思う。

花の咲くを見て、万に花とたとへ始めしことわりをわきまふべし。花と申すも、去年咲きし種なり。

なぜ世阿弥はすべてを花に例えるのか。

花は消えてゆく。能もどこにも残らない。では何が残ってゆくのか。能という芸であり、それを演じる人である。恐らくそれが種であろう。花を咲かせる種もあれば、咲かない種もあるだろう。ある季節だけ美しく咲き枯れる花もあるだろう。枯れた姿が印象に残る花もある。

花は人の心を種としてまた次の花を咲かせる。

古きしては、はや花失せて、古様なる時分に、珍しき花にて勝つことあり

猿楽は、当時、勝敗を争う勝負の芸であった。立ち会い能と呼ばれるもので、どうやって勝敗をつけたかは知らないが、最後は観客の喝采がそれを決めたに違いない。それは芸術というより芸事なのである。囲碁や将棋と同様にかつてはこういうものにも勝敗がついた。そういう歴史が自分には分かる気がする。何事にも勝負を感じる心がある。

秘すれば花、秘せぬは花なるべからず

世阿弥は花を秘せよ、と言ったのではない。隠し続けよと言ったのでもない。そういう類のものは勝負を一回しか仕掛けられない。マジックのトリックではあるまいに、相手に知られたら終わりというものではない。

隠している間はそれを花と呼べ。みんながそれを花と思うだろうから。それを開いた時に花のままだったら驚きがない。それでは隠した意味がない。

人の心に思ひもよらぬ感を催すてだて、これ花なり。

何を秘しているかは観客の思い込みである。勘違いするのは演者ではない。だから隠している事を上手に見せる必要がある。

何かがあると思わせる事、これが重要であって、何もないと思われたら終わりだ。それを最後まで隠し続けるのが能のはずもない。隠しているものを最高のタイミングで表に出づ。その時、それはもう花ではない。

秘する花が重要なのではない、それを隠し続けるのに意味があるのでもない。秘する花は、ある瞬間に隠さないのである。その時にどうするか。

この物数を究むる心、則ち花の種なるべし。されば、花を知らんと思はば、まづ種を知るべし。花は心、種はわざなるべし。

花を伝えるだけなら、例えば、ただ手に持っている所作をすればよい。演者はそこに花がない事を知っている。観客も知っている。それでも舞台の上に花がある。

そこに風が吹いた所作を加える。本物の花が揺れる必要はない。ただ風が吹いていると伝える。演じるとは観客が勝手に花が揺れるのを見ることだ。花が揺れたなら、今度は風が吹く。風が吹けばまた花が揺れる。観客のその読み取る力の前では、演者の所作など小さい。観客に花が咲く。演者には風がある。

出来庭(できば)を忘れて能を見よ。
能を忘れて為手(して、演者)を見よ。
為手を忘れて心を見よ。
心を忘れて能を知れ。

心など忘れてしまうがいい。そんなものでは能には辿り着けない。

舞台の景色から離れて、能を見よ。すると、能は失われて、演者だけが見えてくる。演者だけを見続けていると、その姿も次第に消えて、心の動きだけが見えてくる。その心さえもどうでもいいものになってきた時、そこにあるものが能である。心など忘れてしまって構わない。感動など花が風に揺れたようなものだ。そんなもの花でもなんでもない。

人間などいらない。花があればいい。彼はそう言いたかったのではないか。

2017年9月23日土曜日

日本国憲法 第三章 国民の権利及び義務 III (第十八条~第二十三条, 自由)

第十八条  何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

第十九条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

第二十条  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
○2  何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
○3  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

第二十一条  集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
○2  検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

第二十二条  何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
○2  何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。

第二十三条  学問の自由は、これを保障する。

短くすると

第十八条 奴隷。処罰を除いて苦役に服させられない。
第十九条 思想、良心の自由。
第二十条 信教の自由。宗教団体も、特権を受け、権力を行使してはならない。
○2 宗教上の行為、祝典、儀式、行事を強制されない。
○3 国、機関は、宗教的活動してはならない。
第二十一条 表現の自由。
○2 検閲はしてはならない。通信の秘密は侵してはならない。
第二十二条 居住、移転、職業選択の自由。
○2 外国移住、国籍を離脱する自由。
第二十三条  学問の自由。

要するに

自由とはなんだ?

考えるに

奴隷の反対は自由ではない。自由の反対は奴隷ではない。だがこのふたつの言葉は深く結びついている。ほとんど同じ概念の表裏とさえ言えるのである。

人類は有史以来奴隷を所有して来たが、歴史上はアメリカの奴隷に集約した。合衆国憲法を起草した人たちもまた奴隷の所有者であって、リンカーンでさえ奴隷を解放するために The War を起こしたのではない。ひとつの連邦制を守るために戦争が必要だったのである。だが、その結果が奴隷制度に終止符を打った。人類の価値観は奴隷制度を悪とすることに結論したのである。

奴隷的拘束は人身売買に等しい。世界の多くは人身売買を禁じるが根絶したわけではない。人身売買の多くは子供を対象とし、児童ポルノはその温床である。国際社会が一丸となってこの犯罪に取り組んでいるが楽観視できるような状況にはない。

多くの難民が逃げ出している。それを受け入れる事が新しい係争を生む。人道が常に良い未来をもたらすとは限らない。では見捨てるのか。それに Yes と答えられる人は幸いである。

その一方で移民を必要とする国がある。必要な数だけ必要な能力だけ、根底にある考えは新しい奴隷制度である。賃金を払えば人を奴隷として扱ってもよい、そう考える人は多い。

かつてこの世界は略奪する事で発展してきた。物品を奪い住人を奴隷とする事で多くの地域が興隆した。経済の基礎は資源と労働力の持続的供給だからである。

略奪よりも売買する方がより高い利益を得られると気付いたのは最近の事だ。社会を変えたのは技術である。それは距離と関係する。社会を革新する技術は常に人々の距離を時間を縮めてきた。移動手段のみならず情報伝達を高速にしてきた。電信、電話、テレビ、インターネットが世界に対する意識を変えた。最後まで世界を騙し続けるのはもはや困難である。隠す難しさも暴露した時のリスクも、情報の伝達速度に比例して増加した。正直の価値がより高まる。

人は誰かを傷付けるものである。それは好ましい事ではないが、自然はそれを禁止しなかった。それが自由という概念である。人は何をするのも、何を試みるのも自由である。自由は自然状態State of natureにおいても存在する。

そのような自由状態の場に権利は見いだせない。権利があるにしろ、ないにしろ、自由状態では意味がなく、そこに住む人々はそれを侵犯する自由を持つ。

では権利を主張するためには何が必要か。その世界で王になればどのような権利も主張できるだろう。だがそれを権利と呼ぶ必要はない。なぜならそれは王の自由に過ぎないから。

自由と権利の違いは何か。権利を権利たらしめるには、何が必要か。

そこに合意が必要だろうと思うのである。権利はすべての人が持っていると合意できなければならない。そのためには物理法則と同様に存在しなければならない。好きであろうが嫌いであろうが、信じていようが信じていまいが重力が存在するように、権利も存在する。人間が誕生する前から存在し、人間が滅亡した後も存在する類のものでなければ権利とは言えない。

そのような権利が存在したとしても、それが十分に働くには、ある特殊な状況が必要であろう。そこでは無条件に無制限には自由を認めない。権利が存立するには自由を制限しなければならに。そのために必要なフレームが社会であり、社会によって権利は自由の中から分離される。

自由と権利はどの社会でも見いだせる性質であるが、どのような時代、地域でも同じとは限らない。だから奴隷が存在する事にも不思議はない。長く人類は奴隷を許容してきたが、だからといって自由や権利の考えがなかったわけではない。ただ制限するエリアが小さかったのである。

自由は、人がもつ固有的な働きである。だから人には空を飛ぶ自由がある。飛ぶ自由はあるが、自由は必ず成功することを保証しない。飛ぶ自由があっても人が大地でぺちゃんこになるのは自由落下の当然の帰結である。

よって誰かもが自分の権利を主張することは自由の範疇である。権利を主張することも、行使することも、放棄することも、封印することもそれは個々人の自由である。

では権利が自由を制限するのはどういう時か。権利は誰かに対して自由に振る舞う事を制限する。自分ひとりならば、自由と権利に区別はない。そこに自分以外が存在するとき、自由と権利が分離する。

人は他人に何かを強制する自由を持たない。これを人間の権利と呼ぶ。だから権利は暴力とよく似ている。どちらも自分以外の誰かに作用する働きであること。暴力は振るう相手に働きかけ、相手を動かすもの。権利は振るう己に働きかけ、己を動かさないもの。

権利は誰も侵害しない事を要求する。誰からも干渉されない事、他の誰かの自由を制限しない事。そのために自分を制限することが権利なのである。

もしお互いの自由が相手の自由を浸潤している時、互いに引かないのなら互いに権利が侵害されていることになる。だが、どちらかが引くことが開いてを利するとき、権利は回復されない。そういう場合は、両者の間に割って入って引き離すしなかない。

言論の自由は何を言っても許される事ではない。それはただの自由に過ぎない。『言論の自由』という権利を主張するとき、己が他の人の自由を侵さないように制限しなければならない。それが出来ていないならば、権利は侵されている。もし、誰かが黙らそうと来たなら、己の自由のために戦わなければならない。相手にそのような自由はないを主張する。それが言論の自由という権利だ。

権利とは他の誰かを強制しない事だ。自分が強制されない事は自由に関する問題である。権利は本質的に人々を分け隔てるように働く。自由の届く範囲を遠ざける事で権利が回復するからだ。人種隔離政策は当然だが、そういう初期の権利の行使であったはずで、私の自由は君に干渉しない。君の自由も私に干渉しないでくれ。君の権利を認めるからと、そうやって当時の人々は隔離政策による住み分けを試みたのである。

その住み分けは平等ではなかった。それは片方の自由を著しく棄損していた。そのような立場に甘んじられるはずがないので、自由を求める戦いが開始された。あなた方の自由は制限されなければならない、それが公民権運動であろう。

以上、見てきたように、神は権利を持たない。なぜなら神には社会もなく、なんら制限も受けないからである。

2017年8月20日日曜日

日本国憲法 第三章 国民の権利及び義務 II (第十五条~第十七条, 公務員)

 第十五条  公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
○2  すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
○3  公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
○4  すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

第十六条  何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。

第十七条  何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。

短くすると

第十五条 公務員を選定、罷免は、国民の権利。
○2 公務員は一部の奉仕者ではない。
○3 公務員は普通選挙を保障する。
○4 投票の秘密は侵してはならない。選挙人に関し責任を問はれない。
第十六条 損害の救済、公務員の罷免、法律、命令、規則、廃止、改正に請願権を有し、差別待遇も受けない。
第十七条 公務員の不法行為により損害を受けたときは、国、公共団体に賠償を求めることができる。

要するに

実際のところ、国政において国民が行使できる権利はただ投票権だけである。

考えるに

公務員(public servant, civil servant)という思想は近代国家の成立と連動している。その背景に公務(Public Service)という概念がある。この Public という概念を理解する必要がある。おそらく public は公というアジアの思想とは異なる。

これは国家が Public という概念に昇華するのと関連しているのではないか。これは所有という概念とも関連している。つまり政治体制と経済は深く結びついているはずである。これを逆に見れば、近代国家という政治体制は、ある経済活動を最適化するために存在しているのではないか。

一般に、公務員とは官僚のことを指すが、憲法の定義はもっと広義である。ざっくり言えば、法に関係する仕事に従事し、生活の基盤を税金で賄われる人の総称である。つまり三権分立の構成員である(弁護士は除く)。

普通選挙を保証された公務員とは政治家のことである。このことからも政治家の資質に専門性がないことは明らかである。市民に専門性を問われても判断などできない。誰もがそれぞれの専門性を持っているとしても、ある特定の専門性を問われると困る。

よって選挙の争点が専門性になっても、そこに望ましい投票結果を期待することはできない。その当然の論理的帰結から、我々が自信をもって一票を投ずるためには、誰もが持っている一般性や常識に根付くしかない。つまり投票結果が示すものはその国が持つ総合力になるのである。

民主主義とは公務員を投票によって選ぶ仕組みである。投票を超える制度は今の所 見つかっていない。AIが実用化すれば何か別の方法が見つかるかも知れないが。

選挙によって選ばれた公務員が立法を担当し、立法に基づいて公務員が行政を執り行う。そこで起きる様々な争点は司法が結論する。この三権の特徴は、権威の立法、権力の行政、強制力の司法となる。

この体制において予算の分配を決めるのが立法であり、予算を実際に分配するのが行政である。予算を分配する根拠に法がある。よって法のない所に予算は付かない。

公務員、官僚は、必ず各自が担当する法を持っている。法の擬人化、具現化である。

省庁は縦割りと言われるが、各々が法を超えないように行動すればテリトリーと棲み分けが生じるのが自然だ。それを勝手に縦断したいと思っても、それを根拠とする法がない。

公務員、官僚は、各自が担当する法を通じて社会に奉仕する。そこで最大の奉仕をしようと努めるならば、良心に従う公務員は最大の予算を獲得しようと働きかける。その獲得した予算を社会に還元するのが彼らの業務である。もちろん、本は予算の分配にあり、問題の解決はその従である。

だから予算が増えてゆくのは自然なのである。その予算が適切に効率良く使われているかどうかは別の課題である。

いずれにしても、予算を増やしたくても、国家予算は有限な資源だから頭打ちするのは当然である。この有限のリソースをどう分配するかを決めるのは行政の仕事ではない。行政機構は肥大化するものだが、これを抑制する仕組みを行政は内蔵していない。原理的にそのような仕組みは持てない。

どのような国も肥大化する行政をコントロールする仕組みを行政の外部に持っている。明治期の日本ではそれが元老である。構成員が寿命を迎えた時 官僚の肥大化はコントロールを失った。と考えることができる。

民主主義の基本レイアウトは肥大化する行政を立法がコントロールする。立法は法を通じて行政を支配する。支配するとは具体的に言えば、予算を減らす事である。如何に行政が強力であっても予算を絞られればたちまち枯れる花である。立法が予算の権限を持つことで行政は限られた範囲でしか増殖できないようになっている。

投票によって選ばれた政治家が予算の分配をコントロールする。これが間接的に国民が行政をコントロールしている構図である。

では、正しくコントロールされているかどうかをどう評価するのか。そのためには予算を指標とし、運用の適切さをチェックするしかない。または現実の目の前で起きている問題が解決されたかどうかで決めるしかない。

そしてもし立法が暴走していると見れば、選挙によって公務員を取り換える。そのためには情報が必要である。それが情報公開である。もし法に違反していると考えるならば、司法に訴えればよい。

だが立法を支配するための最大の抑制力は、多くの政治家を選ぶことである。民主主義とは狂信者を選ぶことと違わない。狂信者を独裁者や絶対君主などのようにただ一人にしないために、たくさんの狂信者を選ぶのである。そうしておいて互いを牽制させる。これが民主主義の画期性である。

我々は15条が示すように選挙の秘密も責任も問われない。つまり、誰に投票するのも自由、その結果 国が滅んだとしても責任を取る必要はない。もし国が滅んで他国に侵略を受け皆殺しにされるとしても、それは誰のせいでもない。それを選挙のせいにしても仕方ない。つまり憲法は、もしそうなったら粛々と死ねと言っているのである。

もし三権のすべてが結託して劣化したらどうすればよいだろうか。コントロールできない行政の行く末は先の大戦で明白である。もし官僚のコントロールに失敗していなければあの敗戦は回避できただろうか。先の戦争は、この国の民主主義にとってよい試金石である。

2017年8月17日木曜日

猿たちの断末

神が我々を生み出してからどれくらいの時間が経過したのだろう。もちろん、神は我々に言葉と石器を与えたもうた。我々の舌を通して発せられる美しい言葉には他のどのような生物の口からも出せない美しい響きがある。樹上で騒ぐ猿たちの喚き声とはわけが違うのである。

我々の石器の美しさはどうだ。こんなに美しく磨くことができる生物が他に居るだろうか。我々の尻尾は極めて器用で力も強い。これで石を打ち、磨き、尖らせ強靭な槍にして我々の尻尾に掲げる。

ゆらゆらと地面を這い、ゆっくりと音もたてずに猿どもに近づいてゆく。風が揺らす葉の音と、樹上を這う我々が出す音に違いはない。十分に近づいたら猿どもの胸にこの槍を突き立てる。どさっと音を立てて毛むくじゃらの白い体が樹上から地面に落ちるのである。猿の仲間たちは騒いでいろいろなものを投げてくるが、もう遅い。

私は木の枝からどさっと体を落として、倒れた猿に近づく。まだ少し息がある。これは私からの慈悲である。体をゆっくりと猿の首に巻き付けてぐいと力を入れる。すると猿の目から光が消えてゆく。恍惚の時間である。

私は肉塊となった猿を丸飲みする。顎を割り口を大きく開けて、ゆっくりと体の中に入れ込む。少しの息苦しさが充足感である。狩りは終わった。のそのそと地面を這い、私は自分の村への帰途へ就く。

さすがに大人の猿一匹では体が重い。ゆっくりと這っていると、草むらからガサゴソと音がした。シャーと音を立てながら首を持ち上げ舌を出すと、小さな生き物がいた。犬である。それも子どもの犬である。

どうやら親とははぐれたらしい。体に幾つかの傷が見受けられる。たぶん親犬は生きておるまい。集団を作る犬たちが全滅するとしたら、我々の仲間に狩られた可能性が高い。運よくこの子犬は生き延びたのだろう。さて、どうしたものか。

怯えた子犬は私の睨みでブルブル 震えている。体がすくんで動けないのである。さて、食べてしまうか、見逃してやるか。どうしたものかと思案に暮れる。逃がした所でこの小さな体では生き延びるのは困難である。なら食べてしまうのが情けというものか。

と、ふと私は面白いことを思い付いた。この犬を育ててみようと思ったのである。震えている子犬を私はしっぽに巻き付ける。子犬はさらにガタガタと震えているが今はそのままにしておく。槍を体に縛り付け直して村へと向かった。

すぐに食べられないと知ったのか次第に震えが収まってきた。幾分きょとんとしている。まぁよい。そのうち慣れるであろう。

私は村に帰って、猿を吐き出す。仲間で分配するのは我々の美徳である。これを石器で切り分け、それぞれが好きに調理して食べる。私の好みは薄く焼いたレア肉である。

子供たちが近づいてきた。私は子犬を子供たちの前で披露した。子供たちに囲まれて犬は私の影に隠れようとする。子供たちがこれ食べていいのと聞くので叱りつけた。私はこの犬を育てるのだと子供たちに言った。じゃあ大きなったら食べてもいいんだね、と聞くので、私は笑って何も答えなかった。

夜になってみながどくろを巻いて寝ている。岩の上はひんやりして気持ちいい。私は妻をみた。妻はその涼しげな目で私を見ていた。すらっとした胴体がなんとも艶めかしい。昼は服を着ているので気にならないが、こうして裸の彼女をみると体の文様がなんて素敵だ。

彼女の少し低い体温が私の体に触れる。彼女のうろこはとても気持ちいい。わたしたちは尻尾を絡ませながらゆっくりと樹上の高いところに上る。木の枝に体を巻き付けながら、お互いの存在を強く感じた。

この世界のほとんどの生き物は我々を嫌っている。それは私たちが圧倒的に賢く、強いからに違いない。猿が私たちを見る目には驚きと憎しみが溢れている。なぜ我々が動けるのかさえ不思議そうである。

だが、それが彼らの限界である。どれだけ騒いでも喧噪の猿どもが我々より優位に立てるはずもない。我々の特別性に神の御業を見る。足のある種族はどうしてああも鈍いのだろうか。そんな動物を私たちが育ててみるのも面白い試みだろうと思う。

そこから何かを学ぶことが出来るだろう。私は妻の体にしっかり体を巻き付けながら、そんなことを考えていた。

2017年8月6日日曜日

国際連合憲章 第7章第51条 / 集団的自衛権

Charter of the United Nations Chapter 7 Article 51
Nothing in the present Charter shall impair the inherent right of individual or collective self-defence if an armed attack occurs against a Member of the United Nations, until the Security Council has taken measures necessary to maintain international peace and security. Measures taken by Members in the exercise of this right of self-defence shall be immediately reported to the Security Council and shall not in any way affect the authority and responsibility of the Security Council under the present Charter to take at any time such action as it deems necessary in order to maintain or restore international peace and security. 

Charter of the United Nations | United Nations

日本語訳

第51条
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。

国連憲章テキスト | 国連広報センター

短くすると

第51条
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に武力攻撃が発生した場合、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使は、安全保障理事会の行動に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。

要するに

個別であれ集団であれ加盟国は自衛権を持っている。加盟国は安全保障理事会が平和を回復するまでの間は独自の行動により自衛権を行使できる。安全保障理事会が対立している場合 平和が回復するための行動が遅れる場合がある。その責任を安全保障理事会に対して追及することは禁止する。

考えるに

武力行使の機会や能力を奪う事が戦争を繰り返さないひとつの有力な選択肢である。軍の廃止、戦力非保持は方法論のひとつとして熟慮する必要がある。

戦争についての問題は常に実効性に尽きる。効果が期待できない、実効性のない議論は少なくとも現状では採用できない。少なくともそれが実現性を持つまでは。すべての国が軍を廃止したとしても、明日 誰かが軍を設立するかも知れない。持たないことをどのように保障し確約させるのか。それが実現できない限り絵空事である。そのような世界は危険な疑心暗鬼を人々の間に生むだけであろう。

弱くても正義はある。だが力のない正義が到来することはないだろう。では正義はどのように実現されるのか。現在は無力だとしても、正義の拠り所は戦いをやめない点にある。時間の耐久性だけが正義の寄って立つ所だ。

これまで他国とされた地域で自衛権を逸脱することなく戦闘行為を行うには、それらを併合したと宣言するのが良い。これによって起こる紛争は内紛になる。国内での戦闘行為は自衛権ではない。治安である。

そうならないように、集団的自衛権がある。単独では困難であっても集団ならば対抗しうるからである。

集団的自衛権を認めると日本は戦争に巻き込まれるかも知れないと危惧する人々がいる。我が国の外交を見る限り、強い圧力には従属する癖があるし、対立する場合は自分勝手な主張が多くなる。

もし日本が戦争に参加すると決定したならば、兵士たちは軍を去るかも知れない。兵が不足すれば補充しなければならない。そのために徴兵制を採用したとしても不思議はない。

徴兵制も制度のひとつである以上 政治家や政府がやろうと思えば何時でも実現可能である。そこにどんな整合性も合理性も必要ない。狂人でさえ、選挙で当選し、手続きを踏みさえすれば実現できる。民主主義でこれを阻むものは選挙しかない。このように軍隊への不信感が強いのはもちろん先の大戦が原因である。だが、戦争をしたことを反省すれば済むようなものではない。戦争をしたことを反省するようでは遅すぎる。

地政学上、それぞれの国家はそれぞれの状況に応じた国防を構築する。戦前の軍部はそれらの研究が不足し縦深な中国を攻めあぐねた。アメリカに上陸してワシントンを押さえれば勝利できると考えていた。つまり当時の軍部に本気で戦争をする気などこれっぽっちもなかったのである。

日本は周辺を海に囲まれている。だから資源が入ってこなければこの国は成り立たない。明治維新で人々が驚愕したのは、海に守ってもらえる時代が終わった、という事ではない。この先は多くの国々とのバランスの上に立たなければ国は成り立たない、という現実に目が覚めたのである。貿易を失えば、戦闘能力さえジリ貧に至る。島国でゲリラ戦を展開しても国外からの補給路が確保できなければ立ち枯れるしかない。国内にある資源だけでは国が成り立たない時代が到来したのであった。

するとこの国の防衛は貿易によって維持するしかない。貿易相手がいなくなれば、経済も防衛も成り立たない。それをひとつの国でやりきるなど不可能である。国防とは戦争に勝つことではない。講和の仲介をしたり、戦争から自国だけが撤退する方法も研究したり、裏をかかれた場合の対処法を知っておかねばならない。そのためには多くの経験が必要だ。国際紛争に積極的に参加している国々は、その経験の中で国家を鍛えているのである。

だが、我々は戦争を知らない。その経験も乏しい。だから徴兵制などという議論ばかりを続けている。戦争中でさえそうであった。戦地の兵隊さんの大変さをおもんぱかり、特攻隊について考えてばかりいる。確かに命は称賛に値する。だが、それは戦争の趨勢を決定するものではない。

戦争を決定するものは補給である。戦争は最後まで補給が続いた方が勝つ。だから戦争を支えるものは内地である。これが戦争の鉄則であり、補給の継続を失わせるための行動を戦争と呼ぶ。人的資源、物的資源、経済体制、政治体制、国民の気力を削ぐ方法は幾らでもあり、それ以外は戦争の副作用に過ぎない。だから B29 は都市を焼き人を焼いた。

平和とはもしかしたら戦争をする気が起きないように各国が今も互いの補給路を断ち続けているからかも知れない。

多くの人は花を愛でる。その花も根を絶てば枯れる。この常識もなく我々は徴兵制を語っている。この国は未だうわべの戦争しか知らない。

2017年7月20日木曜日

日本国憲法 第三章 国民の権利及び義務 I (第十条~第十四条, 権利)

第十条  日本国民たる要件は、法律でこれを定める。

第十一条  国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

第十二条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

第十四条  すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
○2  華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
○3  栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

短くすると

第十条 日本国民たる要件は、法律で定める。
第十一条 基本的人権。永久の権利として現在及び将来の国民に与へる。
第十二条 自由、権利は、不断の努力によつて保持。公共の福祉に利用する。
第十三条 個人尊重。生命、自由、幸福追求する権利は、尊重する。
第十四条 平等。人種、信条、性別、社会的身分、門地により、差別されない。
○2 華族、貴族は認めない。
○3 栄誉、勲章、栄典は、特権も伴はない。栄典の授与は一代限り。

要するに

人間は個人として生きる事ができるけど、油断してたら失うよ。

考えるに

日本国民かどうかは法律で決める。これを決めないと憲法が誰にまでを影響を及ぼすかが決められない。これは憲法が日本国民とそれ以外の人では違う振る舞いをすることを示している。

憲法は国民に権利、自由、福祉、個人、平等、などを保証する。それ以外の人には明言を避けている。ならば日本国民以外に対しては基本的人権を無視してもよいのか。理念や前文から言えばこの解釈は誤っている。だが憲法の及ぼす範囲はあくまで日本に限定する。この国を訪れ、居住する人に対してはどうせよと憲法は言うのだろうか。

近代国家では権利が全ての出発点である。他はそこから演繹すべきものだ。自由とは権利を行使する権利であり、それも権利のひとつに過ぎない。だからあらゆる権利を行使する自由をだれもが持っている。だが、法は何をやってもよいとは言わない。人間の自由に制限を課す。同様に個人の尊重も平等にも制限を設ける。

制限しなければ守られないものとは何であろうか。孔子はそのような状態を「民免れて恥づること無し」と呼んだ。人々は法の抜け道を探すことが賢い事だと考えるはずだ。では憲法とはそのような人々に抜け道を教えるものなのか。憲法が制限を設けるとき、制限に特別な意味があるのではない。その制限のひとつひとつが法の理念を語るのである。

当然、あらゆる権利を人々は潜在的に持っている。しかし権利を行使する事は無償ではないし無制限でもない。権利の行使には対価を払う必要がある。

例えば、人間は誰でも黒人を奴隷にする権利を生まれつき持っている。それは白人であれ、黄人であれ、誰を奴隷にするのも自由である。その自由を人間は有する。嘗てその権利を行使できる地域が存在した。しかし現在の社会はそれに高い対価を求めている。それを正当に行使したければそれだけの対価を払わねばならない。

もしあなたが誰かを奴隷にしたければ国の王となり敵対者を全て排除し法からも神からも非難されないだけの国を作る必要がある。他国からの介入を実力で排し、奴隷を維持し続けるだけの力を持て。もしその対価を払わずに行使したならば、死刑を含む極めて厳しい罰則が待っている。それらは法によって決められている。だが、その正当性は法にあるのではない。

力さえあれば何をしてもよいのか。その通りである。それを制限する存在はこの世界には存在しない。だから我々は国家を必要とする。国家は憲法の抱卵である。力により権利の行使を保証し、かつ禁止する。どのような理想であれ憲法は国家を超えた所にその影響を行使できない。

第11条で、なぜ、起草者たちは、基本的人権を「永久の権利」として「将来の国民」にまで与えたのか。これはとても大切な国家への要求である。如何に憲法が改正されようが、この条項がある限り基本的人権を保証する。そのとき起草者たちがいつか来る独裁者を意識しなかったはずがない。彼らはその独裁者に向けてこの条項を書いた。この憲法は未来の独裁者に対する宣戦布告でもある。

第12条で、なぜ、起草者たちは国民に「国民の不断の努力」を求めるのか。憲法に記述しただけでは実効を持たない。死文と化す。それを守護できるのは今を生きる国民だけである。それを起草者たちは知っていた。憲法など簡単に殺せるのだと。

アジアにおける統治の理想は、鼓腹撃壌こふくげきじょうであった。統治者を気にしないでいる事が理想的な統治の姿と考えた。
日の出と共に働きに出て
日の入と共に休みに帰る
水を飲みたければ井戸を掘って飲み
飯を食いたければ田畑を耕して食う
帝の力のなにが私と関係しているのか

民主主義はそういう理想ではない。

第13条で、なぜ、起草者は「尊重」と書くのか。尊重では解釈の余地が大きすぎる。「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」はアメリカ独立宣言に由来する。

アメリカ独立宣言(1776年)
われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等で あり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力を得る。そして、いかなる形態の政府であれ、政府がこれらの目的に反するようになったときには、人民には政府を改造または廃止し、新たな政府を樹立し、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる原理をその基盤とし、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の権力を組織する権利を有するということ、である。

独立宣言ではこれらの権利の正当性は「信じ」られている。そしてこの権利が確保できないならば「革命」すべきと訴える。だが我々の憲法はこれとは違う構造を取る。尊重である。尊重とは何か。尊重とは気持ちひとつの問題ではないか。尊重というあやふやなものの上にこの国の権利を置いた。そこに、この条項の重要さがある。権利とは状況によっては尊重されるだけに留まる可能性がある。だがそこには最大限の尊重を要求する。尊重とは何か。もし尊重しない人間が登場したらどうなるのか?

第14条で、なぜ、起草者は「政治的、経済的、社会的関係」の差別を禁止したのか。それ以外の差別はどうなるのか。差別の定義とは何か。この一見、何ら誤解の余地もない条文が、良く考えると難しい、政治的に差別するとはどういう事か。経済的な差別とはどういうものか。社会的な差別にはどんなものがあるのか。それ以外の差別はどうなるのか。

憲法は完全な記載物ではない。時代に問い掛け、何度も考える事に意味がある。もとからそうなるように作られている。都合が悪いから改正するのではない。時代に合わないから消すものでもない。対話が民主主義の根幹であるが、それは国民同士、議員同士が対話すれば済むものではない。民主主義とは憲法と対話することなのである。我々の問い掛けを憲法は待っている。もちろん憲法にその答えは書いてない。

2017年7月8日土曜日

日本国憲法 第二章 戦争の放棄 II

第九条
○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

短くすると

○2 陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない。

要するに

軍隊を勝手に使うな。

考えるに

戦争はあらゆる権利の複合体である。その中にも使える権利と使えない権利があるはずである。世界はある条件下における戦争を禁止した。逆に言えば9条第1項は条件付きでの戦争を許可する。その条件が何であるかを追求する必要がある条項である。

第2項はその権利の行使を禁止するだけではなく、その権利を実現するための組織や団体の保持を禁止した。手段までも奪う事で強く禁止を強調している。これは厳重な防止策である。

交戦権だけでは実行部隊を保持できない事をこの条項は明示している。逆に言えば「その条件」に抵触しない陸海空軍の保持は許される。ある条件下でならば戦争も許される。

日本国憲法は決して戦争がないことが平和である、とうたった憲法ではない。

では具体的な「権利」「条件」とは何であろうか、という話になる。

明らかに言えるのは、これは他国との間に発生する、他国に対して行使する我が国の権利、が論点である。その権利を禁止すると9条は要求する。その権利とは、例えば他国や他民族を支配する権利、他国を滅亡する権利、他国の独立を脅かす権利であると定義してもいい。他国の政権を変える権利、他国に賠償金を請求する権利、戦争犯罪者を追及する権利としてもいい。我々はこの権利をもっと細分化して考えるべきだ。

戦争を始める事は容易い。今の日本でさえ武力攻撃を受けたならば自然と交戦状態に入る。それは非常に容易い。だが戦争を終結するのは難しい。仮に非武装を選択しても交戦状態は終結せねばならない。我々は戦争の終結について経験に乏しく、特に敗戦は4度しか経験していない(白村江の戦い、薩英戦争、馬関戦争、太平洋戦争)。

敗北の時にどういう行動を取るのか。そこに国家のすべてが集約すると言っても良い。世界を道連れに滅びの道をゆくか、それとも奴隷になってでも生き残るか。世界を道連れにするのは簡単である。全ての原子炉を暴発させ世界中を汚染する。使用済み核燃料で大気を汚染する。その代償が滅亡だ。滅亡する代わりに我々は敗北を知らないで済む。

相手がそのような行動を取る可能性もある。どうやって我々は戦争を終結させるのか。それは戦争に勝つ事より遥かに難しい。核兵器の登場が、敗戦を困難にした。それは勝っている側にも同等の困難をもたらす。核兵器がある限り、相手は戦争の終結を受け入れないだろう。どう戦争を終結すればよいのか。これが核兵器の抑止力である。

尖閣諸島を日本の領土ではないと主張する勢力がある。日本には日本の主張がある。その最後の根拠は広く世界の同意に依るだろう。だから相手は武力よりも先に世界の同意を切り崩す言葉を模索するはずだ。それが 4:6 になれば武力の正当性が生まれる。世界は真実では動かない。信じる事で成立する。戦う前から勝負はついているとはそういう事だ。

竹島を実効支配する勢力がある。その奪回は憲法上は禁止されていない。自国に入り込んだ勢力を追い出すだけだからだ。つまりそれは戦争ではない。内政である、と強く訴える事もできる。しかし相手はその主張を認めまい。

お互いの言い分が相反する場合、どちらの権利も成立している状態が生まれる。それを争うのが市民同士ならば裁判に訴えればよい。それができない場合に戦争となる。戦争は裁判の変わりに権利の両立状態を解消する方法のひとつだ。

争いは権利の衝突である。我々は権利を主張し続けた結果、先の戦争に敗北した。支那事変も権利だけ聞けば正当に聞こえるかも知れない。それは当然である。相手の言い分を聞いていないのだから。それでは裁判にさえならない。相手にも異なる正当さがある。

権利はある。権利の行使もある。誰がその権利の正当性を決めるのか。ここにおいて憲法は権利を記述するが、権利の正当性は決めない。憲法は権利の正当性の根拠にはならない。

では誰がそれを決めるのか。何がそれを判断するのか。世界にはそれを決める存在がない。その意味では自然状態である。

国家間の正義とは何だろう。この世界は真実よりも信じる事で動く。世界の足場は幻想で出来ていると言ってよい。不思議なことに、それは正義という釘で打ち付けられている。

我々は正義とは何かを説明できないが、それが正義であるかどうかは、ほとんど常に正しく判断する能力を持っている。より広く見る事で未来を担保したい。正義は広く見る事を要求する。

この世界には広い正義と狭い正義がある。広くても間違っているかもしれない、狭くても正しいかも知れない。だが広さ以外に正義を支えるものが見つかりそうにない。だから正義の広さを人々の意志に求めたものが民主主義の数の論理と呼んで差支えなかろう。

我々は裁判についてもっと知らなければならない。それが戦争を知る道である。我々はもっと正義について考えなければならない。それが我々の希求が世界のすべての希求と一致する道だろう。

もし、それが見いだせないのならば、我々は同じ失敗をするだろう。もし、それが見いだせたなら、我々はこの世界の未来に参加できるに違いない。

2017年7月6日木曜日

日本国憲法 第二章 戦争の放棄 I

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

短くすると

第九条 日本国民は、戦争と武力の行使は、永久に放棄する。
○2 陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない。

要するに

おまえらこんだけいくさに強いのに、戦争についてはなんも知らんな。暫くは戦争すんな、まずは外交から研け。

考えるに

パリ不戦条約 (1928年, 日本は 1929 年に批准) の理想を取り込んだ条文である。戦争は有史以前からあった。第一次世界大戦は其れまでの戦争の考え方を改めさせた。兵器が人間の限界を超えたと言ってよい。

思想としてみればこれほど詰まらない話もない。戦争は悪い。そんな話しは誰でも分かる。その善悪は誰もが知っている。なのに戦争は止まない。

もし戦争が誰かの悪い考えで起きるならば、悪人をこの世界から排除すれば良い。または悪い考えを駆逐すればよい。もし誰かを殺すことでそれが達成できるのなら、その殺人は正義である。もし、この殺人が悪であるなら、戦争は悪ではない。何故なら、悪によって討たれるものが悪のはずがない。悪は常に善を討つものだからである。

この条文が未だ論争の中にあるのは、先の大戦がこの国でまだ解決していないからである。戦後の日本はそれを直視せずにやり過ごそうと努めてきた。だがいつまでも忘却できるものではない。世界はそのような態度を待ち続けるほど温くはない。

あの戦争を突き詰めれば、我々は信じるに足る人間であるか、という問いに尽きる。我々は何故あのような戦争を始めたのか。なぜ関係ない人々を巻き込んだのか。なぜ愚かで無能な敗戦を経験したのか。我々はもう一度同じ状況において、今度は戦争を回避できるのか、今度は勝てる戦争ができるのか。それをこの条文は問うているのである。

あの戦争は内政の延長に過ぎないものであった。あの戦争は外交とは呼べない。2回のクーデターで縮みあがった内政がいかにクーデターを抑え込むかという権力闘争の果てに起こした戦争であった。我が国はクーデターを抑え込むその片手間でアメリカと戦争をしたのである。

GHQ が作成した日本憲法原案が日本憲法になる。9条は「事情変更の原則」に鑑みて既に無効ではないかという指摘もある。

原文
Article VIII
War as a sovereign right of the nation is abolished.The threat or use of force is forever renounced as a means for settling disputes with any other nation.

No army,navy,air force,or other war potential will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon the State.

私訳
8条 戦争は、国が権利として有する戦争は、廃止する。威嚇、力の行使は、永久に放棄し、他国との争いを解決する手段としない。陸軍、海軍、空軍、またはその他の戦争を遂行する能力は許されないし、交戦する権利も国に与えない。

9条原案。
第八条 国民の一主権としての戦争はこれを廃止す。他の国民との紛争解決の手段としての武力の威嚇、又は使用は永久にこれを廃棄す。
陸軍、海軍、空軍または其の他の戦力は決して許諾せらるること無かるべく、又交戦状態の権利は決して国家に授与せらるること無かるべし

日本政府原案
1. 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。
2. 陸海空軍その他の戦力の保持は、許されない。国の交戦権は、認められない。

日本国憲法
第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

これら変遷を辿れば憲法に係った人たちの気持ちが見えて来る気がする。この条文の骨格は次の解釈でよい。
  1. 日本国民は、戦争を永久に放棄する。
  2. 陸海空軍を保持しない。国の交戦権を認めない。

日本国憲法はその基本骨格の上に次の条件を付与し諾とする。
  1. 国際紛争を解決する手段としては、これを放棄する。
  2. 前項の目的を達するため、保持しない。
  3. 国の交戦権は、これを認めない。

注目すべきは、誰にでも明瞭にではなく、解釈できる余地を入れた所にある。彼らは、9条を明記しなかった。彼らは解釈可能となる余地を残した。憲法はそのように作られている。
  • 国際紛争を解決する手段でない場合、放棄しなくてよいか?
  • 放棄するものが指す「これ」とは何か?
  • 前項の目的を達しないためならば、陸海空軍の保持は許されるか?
  • 交戦権が認めない「これ」とは何か?

条件が付いた。無条件ではない。「これ」に解釈の余地がある。紛争は起きる、問題は解決しなくてはならない、だがその時の手段を放棄すると言っているのであって、紛争を解決する権利まで放棄したのではない。

放棄するものは権利である。その権利を行使して解決することは許されない。よって紛争を解決するにはそれ以外の権利を行使するしかない、と言っているのに等しい。そのためにはどのような権利があるか。使ってはならない権利を明確にしなければ、どの権利が紛争解決に使えるかも分からない。だからどのような権利があるかを明確にせよ、と言っているのである。

「これ」が指す権利とはどのような権利か。それはまだ世界にない権利かも知れない。我々は無制限の戦争を許さない。だが、我々は戦争を色々な権利の複合と見做す。ならば、その中には我々に使用できる権利があるかも知れない。つまり9条とは新しい戦争の形を創出せよと語っているのである。

我々に必要とされているのは不戦の誓いではない。古い時代の戦争でもない。我々はこういう戦争ならばする、と言う宣言である。

2017年7月1日土曜日

日本国憲法 第一章 天皇

第一条  天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

第二条  皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

第三条  天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。

第四条  天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
○2  天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。

第五条  皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。

第六条  天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
○2  天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。

第七条  天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一  憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二  国会を召集すること。
三  衆議院を解散すること。
四  国会議員の総選挙の施行を公示すること。
五  国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
六  大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
七  栄典を授与すること。
八  批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
九  外国の大使及び公使を接受すること。
十  儀式を行ふこと。

第八条  皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない。 

短くすると

第一条  天皇は、象徴。
第二条  皇位は、世襲。
第三条  天皇の国事は、内閣が責任を負ふ。
第四条  天皇は、国事行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
○2  天皇は、国事行為を委任することができる。
第五条  摂政を置くときは、天皇の名で国事行為を行ふ。
第六条  天皇は、内閣総理大臣を任命する。
○2  天皇は、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
第七条  天皇は、国事行為を行ふ。
一  憲法改正、法律、政令及び条約を公布する。
二  国会を召集する。
三  衆議院を解散する。
四  国会議員の総選挙の施行を公示する。
五  国務大臣、官吏の任免、全権委任状、大使、公使の信任状を認証する。
六  大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除、復権を認証する。
七  栄典を授与する。
八  批准書、外交文書を認証する。
九  外国の大使及び公使を接受する。
十  儀式を行ふ。
第八条  皇室に財産を譲り渡し、又は財産を譲り受け、若しくは賜与は、国会の議決に基かなければならない。

要するに

おまえら天皇のために死ぬような戦争するくらいだから残してやる。だけど天皇を利用しようとする奴もいるから政治からは完全に切り離す。そのための呼び名が象徴だ。あとそれだけだと国民の前から消えそうな感じがするから行事の時には顔を出すようしておく。これは単なる行事であってなんら効力も実体も持たない。そこは勘違いしないように。それでも勘違いするやつが出てきそうだから摂政を置けるようにしておいたからな。

考えるに

これは天皇という特別な存在を政教分離原則では政治から切り離すことができなかった証拠であろう。それを模索した結果がこの章と思われる。現人神とされた天皇を宗教とは見做さなかったという事である。
が、天皇の地位を規定して、草案が「シンボル・オブ・ステーツ」となっている点は、さすが外務省きってのわが翻訳官たちをも大いに惑わせた。
「白洲さん、シンボルというのは何やねん?」
小畑氏はぼくに向って、大阪弁で問いかけた。ぼくは「井上の英和辞典を引いてみたら、どや?」と応じた。やがて辞書を見ていた小畑氏は、アタマを振り振りこう答えた。
「やっぱり白洲さん、シンボルは象徴や」
新憲法の「象徴」という言葉は、こうして一冊の辞書によって決まったのである。

「週刊新潮」1975年、8/21日号 「 占領秘話 」を知り過ぎた男の回想 戦後三十年 より

日本憲法では総理大臣(行政)と最高裁判官(司法)を「任命する」と定義されている。他にも「召集する」「認証する」とある。もし天皇不在に陥り任命できない時はどうなるのだろうか。この憲法の見直すべき点のひとつであろう。起草者たちはそれを想定し摂政というものを置いたと思われる。任命により有効となるのであれば国政に参加する状況を作り出す事が可能である。それは第四条に違反する。

帝国憲法には「第一条 大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」とある。「大日本帝国憲法義解 (伊藤博文著)」は天皇の横暴を抑止したが臣民の暴走は赦してしまった。
所謂「シラス」とは即ち統治の義に外ならす蓋祖宗其の天職を重んし君主の徳は八洲臣民を統治するに在て一人一家に享奉するの私事に非さることを示されたり
此れ乃憲法の拠て以て其の基礎と為す所なり

帝国憲法で「天皇が統治する」とあるのは天皇のために日本があるのではないと明記する為であった。天皇が臣民を統治するとは、天皇は臣民のために存在するという意味である。しかし立憲君主はどうも駄目だった。何故か王様を利用する人が出現する。そういう人が出現すると不思議と必ず戦争になる。

天皇という存在は、長い日本の歴史の中で神話に書かれ、歌に表れ小説にも登場した。政治にも文化にも深く関係してきた。幾つもの政権が変わっていったが天皇は連綿と続いた。父親を辿れば神武天皇に行き着くという血の存在がこの国の歴史に根ざす。このような危うい生物的なものの上に構築された仕組みがどこまで有効であり続けるかは分からないがそれを続けてきた国である。

国の滅亡にも色々な形がある。民衆は国が滅びても残ることが多い。では何が変わったら滅亡と呼べるのか。統治機構か文化か他民族に支配される事か。支配されても再び独立する例はたくさんある。日本も一度は統治システムを完全に剥奪された。

その記憶が希薄なのは天皇が在位し続けたからである。天皇がいる限り支配者が誰に変わろうとも日本は日本だ。そういうものが根底にあるような気がする。GHQは天皇さえも支配下に置いたが、どうも天皇のもとで統治者として振る舞うアメリカがあった、そういう一時代があった。そのように感じられる。

我々は天皇を知ることでこの国の歴史を過去の逸話としてではなく今も存在する話しとして実感する。早い話が 1000 年以上も前のお話しをおじいちゃんから聞いているようなものだ。もしこれを失えば日本は大きな歴史的な断絶を経験する事になる。世界にこれほど古い血の連綿は残っていない。

止める事は容易い。平等だ人権だ人道だのという近代思想で止める事は容易い。しかしそれらの思想と比べても古くから存在し、恐らくそれよりも長く続きうる存在である。その耐久性ははるかに強い。それでも失えば二度と取り戻せない歴史である。それを象徴と呼んだ。破壊する事は容易い。しかし破壊者はいつも自分の行為の意味を理解せず消えてゆくんだ。

天皇が消失すれば我々は歴史を深く知る手段を失う。たんなる同じ場所にあった遠い知らない国の歴史となってしまう。それに代わる思想が人権、平等、民主制という近代思想であるか。この国はアメリカとは異なりその思想で成立した国ではない。17世紀に生まれた思想と2000年間続いた歴史が等しい価値とも思われない。新しい思想は水槽の中にある。天皇は水槽の外にある。

天皇には人権も平等も民主制もない。そう憲法が規定した。天皇はそれを嫌い退位する権利は有する。昔は出家と言った。しかしそれにとって代わる天皇を立てる必要がある。そういう存在である。

天皇は明治期に国民統合のシンボルとして担ぎ出され昭和に入り絶対君主として利用された。明治憲法は元老という非公式な機関が存在する事で機能したが、その消失とともに欠陥を露呈した。昭和になって天皇機関説が退けられる事で明治憲法は死文化しただろうか。

明治憲法は敗戦に至るまで一度も改正が行われなかった。漸進的で試作的であった明治憲法にただの一度も改正の必要性がなかったはずがない。我々の根底に欠けていたものは元老でも軍事でも政治でもなく憲法を改正し運用する能力であったと思われる。それは今も続く。

2017年6月30日金曜日

日本国憲法 前文 II

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。 

短くすると

日本国民は、諸国民の公正と信義に信頼し、われらの安全と生存を保持しよう。全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、生存する権利を有する。いづれの国家も、他国を無視してはならない、主権を維持し、他国と対等関係に立たう。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成する。

要するに

なにごとをやるにも相手の事をきとんと考えてやれ。それは戦争だってそうだ。おまえらのやった戦争はあまりにも自分勝手すぎるんだぞ。それを自覚してくれ。

考えるに

「と決意した」「を占めたいと思ふ」「を確認する」「と信ずる」「を誓ふ」いずれもがあやふやなものである。なんら根拠もない。どう思おうが勝手という類いのものだ。だがこう書くしかなかったのである。もしここに書いてあることが馬鹿らしく思えてきたなら、この憲法も死ぬ。だから、決意してくれ、思ってくれ、確認してみてくれ、信じてくれ、誓ってくれ、と起草者たちは今も訴えているのである。


日本国憲法 前文 I

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

短くすると

日本国民は、政府によつて戦争が起ることのないやうに決意、主権国民を宣言する。国政は国民の信託、権威は国民に由来、権力は国民代表者が行使、福利は国民が享受。これ人類普遍の原理、これに反する一切の憲法、法令詔勅を排除する。

要するに

さきの戦争は大変だっただろ、こうなったのも民主主義が機能していなかったせいだ。軍部の独走を政府が止められなかったせいだ。これは民主主義の機能不全である (と我々は見ている)。国民が悪かったとは一概に言えない。だからこれからはまっとうな民主主義でやってけ。その方法をこれから記載する。 

考えるに

日本国憲法は女性的な憲法であると思う。この憲法は「日本国民」から始まるが、日本国民が書いた感じはしない。どちらかと言えば、子供に言い聞かせる母親の趣である。

だが制定された当時の状況を鑑みれば致し方ない。新しくアメリカの民主主義を日本国民に広く知らしめようとする時に、憲法ほど相応しい媒体はなかった。どんな教育や宣伝よりも憲法が相応しかった。憲法は宣言されたものであるが、日本国民にとっては、これから学んでゆくという意味合いが含まれている。

「人類普遍の原理」とは大仰ではあるし、その原理が否定されたらこの憲法の根幹は揺らがざるをえない。正直に言えばこれはアメリカの原理であろう。だがこれは不変ではなく「普遍」であると言う。民主主義は最低だが、他はもっと最低である。これ以外の選択肢がない、ここから外に行く方法もない。そういう点に我々はいる。

そこをわざわざ子供に言い含めるような言葉で「普遍」と説く所に、どこまで強く言った方が分かってくれるのだろうか、他の言い方では誤解されないだろうか、と憲法起草者たちが思い悩んでいた様が見てとれる。

「国民の厳粛な信託」は社会契約の考え方であろう。ジョンロックかルソーの社会契約かで国民に対する制限も変わるのであるが、いずれにしろ契約の大前提にある考えは、契約である以上、そこには条件がある、もしそれを破れば契約を破棄できる。その破棄してよい条件が憲法である。

結びにある「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」は力強い。憲法でさえ排除するとは、そういう改正は認めないと言っている。この言葉を入れた時、いつか誰かがこの憲法を骨抜きにするだろう、という事態を想定していた事が分かる。

これはドイツのワイマール憲法がナチスによって死文化された歴史と無縁ではない。全権委任法とその前に成立した幾つかの法案によって憲法が死文化するという歴史がありそれがあの戦争を可能にした。それを食い止める確実な方法はこの世界に存在しない。だから起草者たちは「憲法」を含めて「排除する」と記載したのであろう。

その時に、この一文がそれに反する人々を擁護しようと言うのである。この一文は未来に向けて打ち込まれた楔である。

日本国憲法 上諭

は、日本國民の總意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、樞密顧問の諮詢及び帝國憲法第七十三條による帝國議會の議決を經た帝國憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。
御名 御璽
昭和二十一年十一月三日

要するに

新しい憲法は名前ごとまるまる変わっちゃうんだけど、帝国憲法の手続きにより採用された帝国憲法の正式な改正である。後からこんなの無効だのなんだの文句をいうなよ。

日本国憲法 はじめに


日本国憲法は昭和二十一年十一月三日に公布された。
日本国憲法

日本国憲法は非常に良くできていて、その条文を文字通りに理解するだけでは足りない。その背景に誰のどういう思想があるかを知る必要がある。それは義務教育で教えておくべきものだ。

戦後の 70 年間、憲法全文は教えられずに来た。その点ではこれ迄の世代に憲法を改正する権利はない。能力がそもそもない。まず今の子供たちに憲法を教え更にその子供たちに改正を託すべきである。

日本国憲法はとても良くできた思想の集合体であり、条文のそれぞれに起草者たちが託したアルゴリズムを内包している。本憲法を制定した目的は、ひとつには日本国民に向けて憲法とはこういうものだ、民主主義とはこういうものだと啓蒙・教育する意図があった。その次に、こうすれば同じ過ちは繰り返さないはずだという彼らの信条があった。

憲法は全文でひとつのプログラムである。憲法の条文がそれぞれの機能を実装したソースコードにあたる。日本国憲法というソースコードを読めばそれを作った人たちの顔が思い浮かべられる。さらにその背景にあるルソーだのジョン・ロックだのの思想家や独立宣言を起草した人々の顔までもが見えるように作ってある。もちろんバグだってある。これはプログラムだから。

日本国憲法と比べると、帝国憲法は伊藤博文の手作り感があっていいんだけど、プログラムとしては個々の関数はもちろん悪くないんだけど、全体は見えてなかっただろ、おまえ、って感じがある。実装力は凄いんだけど、構想力に不足を感じる。もちろん、最初に作ったものとしてはこれは天才のみに成しえる御業であって、とても良く出来ている。

だから、悪いのは帝国憲法であるとか伊藤博文であるとかよりも、それがまったく改定されなかったことだと思う。プロトタイプにどんな完全を求めていたんだ、という話だ。それを改修できなかった後に続いた者たちの責任が大きい。イデオロギーも社会構造も経済体制も科学技術も大転換する20世紀の初頭に憲法になんら改定が要求されないなど、憲法論がそもそも分かっていなかったと言わざるを得ない。それを語るのに憲法とは何かなど分かっている必要さえない。

我々は先人のその轍を踏まないようにしなければならない。改悪でも取り換えでもなく、憲法を正しく改正するとはどういう事かを知っておく必要がある。

もちろんこれからの話に特に必要な専門知識など不要だし、新しい概念も必要ない。ただ過去から未来に繋がる連綿とした流れの中にいる、という事だけを知っていればよろしい。過去はまだ流れ去っていないし、未来はまだ来ていないものではない。

2017年6月17日土曜日

針の長さが同じ時計問題

問題

長針と短針が同じ長さの時計がある。この時計で 0:00 から 12:00 までの間に、時間を決められないのは何回あるか?
  1. 外の明るさを知ることは出来ない(あなたは閉じ込められている)。
  2. 1分前の時間を覚えておくことは出来ない(あなたは記憶障害)。
  3. 第三者から時間を教えてもらうことは出来ない(あなたはひとりぼっち)。

時計

Hour:
Minutes:
Seconds:




時計1

短針と長針が同じ長さの次のような時計がある。
  1. 長針は一時間に360度を動く。
  2. 短針は一時間に360/12度を動く。
  3. 短針は毎時、長針は毎分に角度を変える。

考え方

このような時計の場合、文字盤を指していない針は長針に決まっている。よって時間の区別が付かなくなるのは、長針と短針が両方とも文字盤を指している場合である。

1時間の間に長針が文字盤を指す回数は12回。一時間に12回なので、12時間ならば12×12=144回ある。

そのうち、長針と短針が同じ文字盤を指す場合、つまり完全に重なる場合、例えば2時10分、3時15分などは12回ある。この場合は、時間は分かるので144回-12回=132回が答えとなる。

この時計の針が作る角度は次の式で求まる。
長針360/3600*Minutes(0~59)
短針30*Hour(0~11)

時計2

さて、次に短針と長針が同じ長さの次のような時計がある。
  1. 長針は一時間に360度を動く。
  2. 短針は一時間に360/12度を動く。
  3. 短針は毎分、長針は毎秒に角度を変える。

考え方

このような時計の場合、時計で時間の見分けがつかないのはどういう状況だろうか。

長針と短針が進む角度。
時間時°分°
360/12=30360
30/60=0.5360/60=6
0.5/60=0.0083336/60=0.1

3:26:40 の針の角度。
角度
長針360/3600*(26*60+40)160°
短針30*3 + 30/60*26103°



時計の針は、必ずどちらかが短針である。更に時計の針は多くない。だから、取り合えず任意の針を短針と仮定する。その針の角度から時間を求め、もう片方を長針と仮定して時間を求める。

この時、短針の角度には、"時"だけでなく、"分"の情報も含まれている事が大切である。時計2では短針だけで"時分"が分かるのである。よって本当は長針に存在価値などない。時間を示すだけなら短針だけで十分だからである。

それなのに、なぜ長針が必要かと言えば、人間の視覚がとろいからである。短針の角度だけでは"分"がよく分からない。だから長針でも分を示すことにした。だから短針にも長針にも"分"の情報が含まれているのである。

針が一本だけならそれは短針である。二本あるからどちらが短針かを見極めないといけなくなった。普通はそれを長さや太さや色で示す。一般的に棒状のものはそうやって見分けるのである。

そこで、ふたつの針(秒針は含まない)が異なる"分"を指しているならば、話は簡単である。長針と短針を間違えている。入れ替えて計算してみれば、"分"は一致するであろう(例えば長針だけが止まっているような壊れた時計の場合はその限りではない)。

ふたつの針で"分"の正しさ(本当の分を指している)の組み合わせにはどれだけのパターンがあるだろうか。
  1. 針1の分と針2の分が正しい分を指している場合
  2. 針1の分が正しく針2の分が正しくない場合
  3. 針1の分が正しくなく針2の分が正しい場合
  4. 針1の分と針2の分がどちらも正しくない場合
Matrixにすると
針1針2
分が一致する
×長針と短針を間違えている
×長針と短針を間違えている
××壊れている時計

短針だけで"分"が求まるという事は、その時にもう片方の針も同じ"分"を示しているかを確かめてみれば分かる。もし同じ"分"でないなら、その針を今度は短針にして同じ計算をすれば一致する。この場合は、時間がただひとつに決まる場合である。

よってふたつの針が同じ"分"を示しているのに、針を入れ替えても同じ"分"(先ほど求めた分と同じ数値ではない)になる場合がある、というのがこの問題である。世の中にはこれをオイラーの等式(e+1=0)を使って(角度はπを使って表現できる)カッコよく求めている人もいるが、ここはプログラムを使って総当たりで見つけてしまえという話。

x時y分z秒の角度は以下の式で求める。この求めたそれぞれの針の角度から時分秒を逆算して比較する。
長針360/3600*(Minutes*60+Seconds)
短針30*Hour + 30/60*Minutes
function calcCount (hmax) {
 var t = 0;
 var c = 0;
 var text = "";
 for(var h=0; h<hmax; ++h) {
  for(var m=0; m<60; ++m) {
   for(var s=0; s<60; ++s) {
    //h:m:sの角度を算出する。
    var ha = 30*h + 30/60*m;
    var ma = 360/3600*(m*60+s);
    //求めた角度に対して短針として時分を求める。
    var ha1h = (ha / 30)|0;
    var ha1m = (ha % 30) / 0.5;
    var ma1h = (ma / 30)|0;
    var ma1m = (ma % 30) / 0.5;
    //求めた角度に対して長針として分秒を求める。
    var ha2m = (ha / 6)|0;
    var ha2s = (ha % 6) * 10;
    var ma2m = (ma / 6)|0;
    var ma2s = (ma % 6) * 10;
    //どちらで計算しても時刻として矛盾しないならば、見分けが付かない。
    if( ha1m == ma2m ) if( ma1m == ha2m ) if( ha1h != ma1h ) {
      c += 1;
      text += "("+(h+":"+m+":"+s+") ("+ma1h+":"+ma1m+":"+ma2s+") - angle("+ha+", "+ma+")<br/>");
    }
    t += 1;
   }
  }
 }
 return [c,t,text];
}

結果





2017年6月4日日曜日

艦隊戦論 - とある新造戦艦の要求分析

概論


地球防衛軍装備庁は、次期戦闘艦(以下X艦と略す)の要求仕様を決定するために以下の戦闘分析を記す。本報告書にはX艦に求められる諸元と運用方法を記載する。本書で述べる内容は、地球防衛艦隊と地球外生命体侵略戦闘群(G)との衝突から得られた知見に基づく。

本書の構成は、まず従来型の艦隊運用思想を詳らかにし、その戦闘限界をまとめた後に、それを打開する戦術的革新について言及する。

従来型の砲塔配置


邦軍最大の戦闘艦は、三連砲を4基搭載したM式戦闘艦である。搭載している主力砲の仕様specificationは以下の通り。幾つかの資料では上部前方砲は前方構造物の関係から水平発射は不可との指摘があるが、それは資料上の錯覚で、実際には射撃の妨害にはなっていない。

主力兵装。
  • 三連装砲
  • 左右角十分(-170〜170度)
  • 仰角少なし(-8〜8度)
  • 口径巨大(2m以上)

配置構成。
  1. 上部前方(前面向)
  2. 上部中央(艦橋下前面向)
  3. 下部中央前面向(前面向)
  4. 下部後方(後面向)

本艦の主砲には当時の技術で最大の破壊力を得るため開発された巨大臼砲を採用した。この巨大臼砲は、砲身の真後ろにエネルギージェネレータを設置しており射出口と直結されている。開発当時の技術力では発生したエネルギーを曲げる技術がなかったためこの砲塔には仰角を設ける事が出来なかった。これが当時建造された艦船の最大の特徴であるが、これが艦隊運用に与えた制約は強いものであった。

本艦の主な射撃範囲は前面に集中している。臼砲は回転可能であり、左右にも攻撃可能である。

上面から見た射撃範囲。


側面からの射角範囲。


その戦闘モデル


この射撃範囲が示すように、本艦の攻撃面は同一平面上に限定される。そのため、戦闘対象に対して同一平面上に艦隊を配置せねばならず、敵艦隊を常にその平面に収めるように艦隊を運用しなければならない。

敵の航行する面に対して攻撃面が交差するように航行しなければならず、これは自由な三次元空間(つよい重力の影響を受けない)空間では強い制限となる。平面がずれると会敵しても有効な打撃を与えられないからである。

この戦闘モデルでは最初の戦闘は前面に開かれる。次第に敵艦隊に接近し砲撃を集中する。攻撃時間を長く稼ぐため、十分に接近したら敵艦隊と並行状態に移行し、併進戦、またはすれ違い戦を行う。これは回転砲塔であるから可能になるのであって、固定砲台を採用した突撃艦の場合はまた異なった戦闘モデルを採用する。

宇宙空間では、敵の侵入経路は全方面で想定しなければならない。高精度で観測可能な光学観測機器と強固な情報処理能力によって、遠方に位置する敵艦隊を補足する事はそう難しい事ではない。アステロイドベルトや巨大惑星の近くなどを除けば、敵艦をロストする可能性は小さい。

互いに遠方から識別できるので、艦隊戦を行う場合は、敵の侵入経路の頭を押さえるしかない。この点では侵入側が有利であるが、防衛側は防御する空間を限定する事で、敵の侵入経路を予測することができる。

レーザー砲塔は光速なので命中するまで検知できない。これは敵味方に変わらない条件であるから、より強力で長距離射撃が可能な砲塔が重要となる。宇宙空間で戦艦が主力となるのはこれが理由である。ミサイルは足の遅さから百km以内の超近接戦闘で使用される。

レーザー砲は数秒で100万kmを到達するのでその命中率は高い。敵の装甲に命中するとレーザー光線は熱に変換され装甲を溶融、蒸発させる。どの程度のエネルギーで装甲を貫通するかは主に装甲板の材質によるが、これは命中した時の発光スペクトルを分光分析することで解析する。装甲が十分に強化な場合は、命中したエネルギーはその装甲で発光するだけだが、その時も様々な情報を収集する。

いずれにしろレーザー砲に対しては回避運動は効果が薄い。そこで3階層の防御方法が開発されている。一つ目は装甲である。レーザー反射材、高熱耐性によって直撃したエネルギーに対抗する。

二つ目は装甲付近に超電磁気力を施し直撃する前にレーザーエネルギーを錯乱させるものである。これは光の波を打ち消すよう計算されておりレーザー光を減衰する。

三つ目は、艦船の周囲にレーザーの錯乱物質を放出するものである。放出するのは錯乱物質を含んだ水蒸気である。戦闘態勢に入った艦船は船体からこの特殊なスチームを放出する。艦の周囲を煙がたなびき蒸気機関の様相を帯びる。

艦船は、航空機と同じ三つの運動をする。
  1. ピッチング(pitching):前後軸を上下に振る/左右軸の回転(Vertigal Moving)
  2. ヨーイング(yawing):前後軸を左右に振る/上下軸の回転(Horizontal Moving)
  3. ローリング(rolling):前後軸を回転する(Rotation Moving)

主砲に仰角がないため、対象を射撃軸に収めるため以下の個別運動を実施する。
  • 前方への射撃:ピッチングによって射撃軸を変更する。
  • 側面への射撃:ローリングによって射撃軸を変更する。

G艦隊との会敵は地球人類に新しい技術的知見を齎した。地球で開発したエンジンは光速の 5% が限界であり、かつ、相対性理論による時間の遅れの影響を避ける事が出来なかった。G艦隊から鹵獲した艦船のエンジンをコピーしたものを搭載したF型研究船で人類は初めて光速の10%を超える事ができた。

この新技術は相対性時間の遅れを克服し、地球と同一時間内での亜光速を初めて実現したのである。しかし我々と戦闘するG艦隊には光速を超えられる艦船はなかった。それは亜くまで惑星系戦闘艦であって、恒星間、または銀河団航行が可能な艦船ではなかった。そのため、それらの鹵獲したエンジンを使用しても人類は光速を超える事は出来なかった。

従来型の欠点


前方に敵を捕捉する従来戦は常に敵が進行方向に居なければならない。距離を詰め、最終的には同航戦または反航戦を行う。この時が最大の火力を投入できるので、敵に与える被害も最大であるが、こちらの被害もここで最大になる。

そのため、この戦闘は多くても3回までしか行えない。従来艦はこのような運用を前提として設計されている。

この戦闘形式は、攻撃面に対して常に垂直に艦隊運動をしなければならず、艦隊運動の困難さのため、敵を失期する場合も多い。敵運動の左右を読み違えば簡単に逃亡を許す。

X艦の砲塔配置


その頃に入手した新しい技術により、我々は自分たちの艦船を抜本から設計しなす事になった。我々はここで初めて超光速、銀河間航行を可能とする艦船を建造したのである。X艦はその経験を踏まえて設計しなおす第二世代の艦船である。

主力兵装。
  • 三連装砲
  • 左右角十分(-125〜125度)
  • 仰角十分(-5〜84度)
  • 口径十分(50cm)

配置構成:
  1. 上部前方(前面向)
  2. 上部前方(前面向)
  3. 上部後方(後面向)
  4. 下部後方(後面向)

X艦は主兵装の全てを上部に集中させた。これは従来の艦隊戦思想からの大胆な転換である。

本艦に搭載するエンジンは従来の数百倍のエネルギーを発生する。そのエネルギーを主砲に援用する事で、射程距離の伸長、貫通力の増大、砲塔の小型化を実現した。特に大きな仰角、俯角が射撃範囲に与えた影響は大きい。

上面から見た射撃範囲。


側面からの射角範囲。


新戦闘モデル


仰角の大きさにより、X艦は攻撃面を天球で捉える事ができるようになった。砲塔を上甲板に集中し、上天球を攻撃面とする。この時、下天球を攻撃面としては考慮しない。単艦で全方面を一斉に攻撃する能力は要求項目ではない。

仮に、上部に二基、下部に二基の砲塔を搭載すれば、全球面を一度に攻撃する事は可能である。しかし、これを逆に考えれば火力の半分しか上天球に投射できないと言う事である。敵にとってはどちらかの球面に集結する方が有利という状況である。

単艦で全球面を射撃する場合は、ローリングしながら射撃すれば良い。全天球に敵が配置されているなら、複数艦を腹合わせに展開すれば宜しい。

従来は敵艦隊の展開面を平面として捉えていたが、X艦は球面として捉える。平面から球面への転換が齎す戦術的多彩さ可能性は従来の非ではない。平面をひとつしか攻撃面として設置できない従来艦と比べて、球面全体を戦闘面に設定できるX艦の優位性は相当に高いものである。

二次元から三次元空間へのドクトリン置換は、艦隊の編成にも大きな影響を与える。従来の艦艇は新しいドクトリンの中では配置する場所がない。従来の主力艦は補助艦隊として運用するか独立した別の任務に就航する事になるであろう。

新しい艦隊戦


近接するふたつの艦隊は、互いの侵入経路をお互いの上半球に収納するように運動する。敵艦隊の侵入面に対して、下に潜航するように経路する。艦隊は攻撃面を最大にするため升字型に配置する。

X艦隊では敵に接近するとか、突撃し、すれ違い戦に遷移する事は想定されない。接近する敵から防御する事はX艦の役割ではない。近接した敵艦からX艦を防御するのは補助艦艇が担う任である。

X艦の砲塔は十分な回転と仰角を持つので、常に上位球面に攻撃面を加える事が可能である。これは攻撃の継続性が高く、敵がその面を突破して侵入するのも困難である事を意味する。こちらの火力が十分である間、敵に許されるのは後方への撤退だけである。


2017年5月20日土曜日

鏡が上下反転しない理由

質問

鏡の中を覗き込んだら(鏡像)、そこには自分と向き合った鏡の国の中の自分が居る。鏡の中の自分は、自分が鏡の世界に入りこんで、回れ右(right about-face)した自分とは違う。左右が逆になっているからである。









そして、左右は逆になっているが、上下は逆になっていない。これ、不思議ではないだろうか。左右を入れ替えて上下を入れ替えていない。もしかして鏡は左右と上下を区別しているのだろうかと。

鏡の中の自分

まず鏡の中にそのまま入ってみる。その時、右と左はこちらの世界と同じである。そこで、左右を入れ替えてみる。そうすれば鏡の中の自分と同じになる。回れ右をすれば、鏡の中の自分と全く同じ自分がそこに居る。

という事は、鏡の中の自分は左右だけを入れ替えたに違いない、と考えるのは自然である。






この考えでも整合性は取れている。なんら矛盾はない。どのような順序で座標を入れ替えても結果が同じなら区別は出来ないはずだ。そこで考えてみる。なぜ鏡の中の自分は、左右を入れ替えただけで十分なのか。なぜ上下の入れ替えはしなくても良いのか。

問題は、左右の入れ替えだけで済む理由、又は、上下の入れ替えをしなくても良い理由、である。

さて、左右の入れ替えとは線対象で入れ替える事と同じだ。だから左右で入れ替えるときには左右の間に線を引く。この線は、普通は体の真ん中に置くと思う。では、体の真ん中以外に線を引いたらどうなるだろう。それでもうまく行くのか、それとも、うまく行かないのだろうか。

いろいろな入れ替え

右腕で肘枕をして寝転んでいる。鏡の左右で違う姿に写っている。この時、鏡の中の自分も肘枕をしている(ただし左腕で)。さて左右を入れ替えても正しい姿になれるだろうか。





どうやらうまくいくらしい。

次に、線を縦ではなく、横に引いてみたらどうなるだろうか?左右ではなく、上下で入れ替えてみる。





こうしてみると、どこに線を引いてもその両側を入れ替えたら鏡の中の自分になれるようである。ただし、鏡の中から自分と向き合うためには、入れ替えるだけでは足りなくて、そのあと、回転しなくてはいけない。この回転する向きは、入れ替える向きと関係しているようだ。

左右だろうが上下だろうが、斜めだろうが好きに入れ替えて良いようである。鏡の中の自分になるためには左右しかダメというわけではないらしい。任意の向きで入れ替えて、向きを変えてよいようだ。

十字架人の場合

左右だけでなく上下も全く同じヒトデとか十字架みたいな生物がいるとする。形がどれも一緒なので上下左右の区別はない。この人(?)にとって鏡に映った自分はどのように見えるだろうか。左右上下の代わりに、彼はそれぞれを A,B,C,D と呼んでいるらしい。




彼にとって鏡の中の自分とは前後が入れ替わった自分と考える方が自然だ。前後で入れ替えれば簡単に鏡の中の自分になれる。わざわざ AB の方向や CD の方向を入れ替えて回転する必要はない。人間は前後を入れ替える発想がないだけで、十字架人ならば左右を入れ替えるという発想をしない。だから、単に自分たちが一番よく知る方法で入れ替えを実現しているに過ぎないと言えるだろう。人間の場合は、それが左右の入れ替えというわけだ。

鏡像を作るパターン

  1. 鏡の中に平行移動し、左右で入れ替えたら、上下前後の入れ替えはしなくてよい。ただし前後の向きを変えるために回転が必要である。
  2. 鏡の中に平行移動し、上下で入れ替えたら、左右前後の入れ替えはしなくてよい。ただし前後の向きを変えるために回転が必要である。
  3. 鏡の中に平行移動し、前後で入れ替えたら、上下左右の入れ替えはしなくてよい。また向きを変えるための回転も必要ない。
  4. 鏡の面で線対称を作成すれば、前後左右上下の入れ替えはしなくてよい。

人間は、前後、左右、上下の三次元を有する、と考える時、どのような移動、入れ替え、回転をしても最終的に同じ鏡像を作ることができる。上の4つのパターンは、次のような演算に置き換える事ができそうだ(行列でも表現できるらしい)。

移動物体と鏡面gまでの距離をnとした場合、鏡面gに対して2×nの鏡内空間の位置に平行移動する。
線対称任意の平面pを鏡内空間に設定しその面に対して線対称で両側を交換する。左右の入れ替えは平面pが鏡面gに対して垂直(地面に対して垂直)、上下で入れ替えは平面pが鏡面pに対して垂直(地面に対して平行)、前後で入れ替えは平面pが鏡面gに対して平行。平面pと鏡面gが完全に一致する場合は移動不要。
回転平面pと鏡面gが作る角度だけ平面pを回転する。平面pと鏡面gが平行の場合、この角度は0のため回転する必要はない(回転しても何も変わらない)。

線対称




まとめ

鏡の中で左右だけが変わったと考えるのは正しくない。鏡の中では前後の向きも変わっているからだ。

自分の向きを変えた時に上下は変わらないが、左右の向きは変わる。車を運転していれば、右に見えていたビルが次は左側に見える事がある。この時、どれだけ車の向きを変えても上下は変わらない。ひっくり返らない限り。

そして鏡の中で前後だけを変えた時、向きが変わるから左右も影響を受ける。この時、上下は影響を受けない。だから、自分の右手は鏡の中では左手である。右の掌に右と書いておけば、鏡の中の左の掌に右と書かれている。

なぜ人は鏡の中の左右が変わったと感じるか。それは鏡の中に写る自分を生み出すのに、左右を入れ替えて作ったからである。

人間には前後を入れ替える発想がない。カエルのように胃袋を体の外に出して洗う習慣でもあればそれも可能だったかもしれない。だが人間には無理である。だから前後や上下を入れ替える発想よりも左右を入れ替える発想を先にする。これが左右が入れ替わり上下が入れ替わらない理由。