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2012年7月29日日曜日

知らざるは知らざると為す これ知るなり - 孔子

巻一爲政第二之一七
子曰 (子曰く)
由、誨女知之乎 (由よ、汝に知ることを教えんか)
知之爲知之 (知るは知ると為し)
不知爲不知 (知らざるは知らざると為す)
是知也 (これ知るなり)

もちろん、ソクラテスの「無知の知」と同じ意味だろう。その言葉が示すはひとつであり、知っていると言おうとも、知らないと言おうとも、誰だって知らないのである、知っているとは即ち知らないという事なのだ。では何についてなら知っていると言ってもよいのかと問う。知っていると言う時、その対象を主題としても意味はない。之を知っているかどうかは主体である私がどういう立場にあるかだからだ。

知るという行為は主体側においてのみ自由である。対象について私はそれを知っていると思うなら知っていると言うし、知っていないと思うなら知らないと言う、知っていても知らないと言うかも知れないし、知らなくとも知っていると言うかも知れない。それは人其々である。知っているという者もおり、知らないと言う者もいる。孰れにしろ、彼らがどう知っているかを私は知らない。

だから私に教えてくれ、と問いかけたのがソクラテスであった。孔子はそれと異なる。

知るという問いかけは私が私にしか出来ないものである、私自身に対してしか問いかけないものを、人に対して問うても意味がない、これが知るの意味ではないか。

この私しか知らぬものに、心とか気持ちがある。

心を込めて、気持ちを込めて。

最近では魂を込めるとも言う。オリンピックの季節なら気合いも入る。

これらの言葉は似ているが違う。

綺麗な心、澄んだ心、汚れた心、いい気持ち、嫌な気持ち。

心の問題、気持ちの問題、魂の問題、気合の問題。

繋がる心、伝わる気持ち、想いが通じる。

心は込めれないけれど気持ちは込めれる、と思った事がある。

気持ちってのは、心よりも具体的だ。だから漠然と心は込めれないけれど、具体的に気持ちを込める事は出来る。気持ちを込めるには、相手を思いそこに浮かんだ感情や考えに熟慮し、それに則った行いをすればいいと思う。何かをする時に最初の足場としてまず気持ちを大切に拾い上げる。そこから始めるのがいいと思う。

心を込めています、ではなんとも、何か、気持ちだけで終わってしまう感じがする。心を込めたから失礼にはならない、と自分で思う事は出来る。自分の真っ白な気持ちをそのまま知ってもらいたいという気持ちになる事もある。しかし、そのままでは心は通じない。ただ私が通じたいと願っているに過ぎない。

気持ちが通じるには、あなたの心に届かなくてはいけない。それにはただ念じていても届きはしない。物や歌や姿や行いなどを通して届けなくてはいけない。対象を使わなければ通じない。心は空疎だ。心を器とすれば、そこをどんな気持ちで満たすかが大切なのだ。

あなたが人に贈りたいのは綺麗なガラスのコップか、それとも、そのコップに入った美味しい水であるか。

心は今の刻々を絶えず揺れて動いている。心は時間そのものであると言ってもいい。その揺れ動く中である瞬間に固定化したものが気持ちである。気持ちも長い時間の中で変わってゆく事は間違いない、だがある瞬間で切り取られた気持ちは写真のようにその時の記憶となって固定化しもう変わらない。

その結晶になった気持ちをずっと持ち続ける必要はない。そんな事はしちゃいけない。気持ちという心の結晶を今の自分の心からすくってあげるのがいい。それを誰かに届けるのがいい。

魂とはコピーの意味に違いない。魂を込めるとは、それを私と思っても構いません、これは私の分身です、と誰かに言う言葉なのである。魂は必ず他の誰かと結びつく。もし結び付かなかったら必ずそれを求めて彷徨う。

一方の心や気持ちというものは、他の誰かを必要とはしない。誰かに通じたり届いたりしなくてもいい。必ず繋がるべきとは限らない。寂しいという気持ちは確かに誰かに届きたがるが、人には決して見せたくない気持ちも同じ場所で同居する。心の器にたまったのが美しい水とは限らない。濁っていたり汚れた水もある。不満や好き嫌いの心があるのだから、これはどうしようもない。

その気持ちに嘘を込めたくない。私は知らないと言いたくない。その汚れた心を伝えたくない気持ちっていうのもある。だけど、汚れていると知っているけれど、それを伝えなければならない事だってある。嫌な事を伝えなければならない、もしかしたら嫌われるかも知れないと不安に思いながら伝える事もある。

もし我慢できるなら伝えなくてもいいだろう。だから、この世には礼がある。礼という儀礼を尽くし自分の心を隠し通す事が出来る。相手はこの心を知るはずがない。同じ様に我慢しなくていい、その気持ちを伝えるためにも礼がある。礼とは形式や式典の事ではない。相手から嫌われるかも知れないという不安と向き合いながら、相手と通じようとするのが礼だ。

嫌な相手の前で頭を下げる事も、自分の気持ちを伝える事も、どちらも礼である。それが己の気持ちを伝えている事になる。礼を尽くすとは、そういう自分の中の気持ちを伝えるための有り様なのだ。己の気持ちを汲んでみたら我慢するという気持ちになった。その気持ちを伝えるために礼を尽くす。心だけなら礼などいらない、気持ちを伝えるために礼があるのだ。礼を尽くすとは、自分の逃げたい気持ち、恐れ、汚さ、悔いを認め、その気持ちと向き合い、相手の前に立つためにある。私はあなたの前で礼を尽くしているのです、それでもあなたに私の言葉は届かないのですか。

相手がどういう応対になるかは分からぬが、自分の気持ちを伝える。礼を尽くたとしても相手に伝わらぬ事はある、しかし、最後まで礼を尽くしたのであれば、少なくとも自分は逃げ出さなかったのだ。己の心の内は己しか知らないのでから、礼を尽くしたかどうかは己れで決めればよい。己では礼を尽くしたとは言えない、と思っていても、周りの人からはよくやったよと言われるかも知れない。それは少なくともその人たちにあなたの気持ちが通じたからだ。

あなたがどういう思いでいたか、どういう気持ちで頑張ったか、私は知っているよ。

これが心の繋がりであり、気持ちが伝わったのであり、礼を尽くしたと言う事だ。

アンボンで何が裁かれたか

BLOOD OATH (1990、豪)

何気なく点けていたテレビで、何気なく見た映画に引きこまれてしまうということが、年に1度くらいはあるだろうか。

それは、いまいましい事だが、どのテレビ局であろうが関係なく、突然に起きる。11月23日の深夜は、こともあろうにTBSでそれが起きた。土曜の深夜は、プロレスを見たり、見なかったりと頻繁にチャンネルを変えるものだ。

最初に見た映像は覚えていないが、日本人が多く出ているシーン、そして、白人の捕虜となっている雰囲気から、第二次世界大戦末期の捕虜収容所の話しかと思った。映画の中の日本人は、実際ならもっと痩せこけているはずだ、とも思った。

そして、この映画は日本の映画か、海外の映画か、が気になった。というのも日本の映画ならば、飢餓や暴力などしか描けないので、見る必要はない。海外の映画ならば、日本人をどのように描いているかが少し気にかかる。

見ているうちにどうやら、白人はオーストラリア人であり、終戦直後の話しである事、戦争中の日本捕虜収容所において起きた戦争犯罪を裁く簡易裁判が物語の背景であることがわかった。検事側はオーストラリアの軍人が行う。対して、日本人側には日本人の弁護士が登場する。

どうやら海外の映画らしいという気がしてくる。

そして外国の映画なのだが、日本人が日本語で話すシーンが多い事、話すシーンで使われる日本語がネイティブな日本語である事、などから、何ら偏見を持たずじっくりと調べ、しっかりとした製作をしたのであろう事が感じられ好感がもてる。

この話しでは途中まで、無実の罪で日本人が裁かれるのか、それとも本当に犯罪的な行為をやったのかは不明なままである。視聴者は自分で考えながらも決断を下せないでいる。考える事を止める事ができないのだ。

300名近くの白人の遺骨が出現する。しかも、それらの遺体は両手を縛られたまま殺されていたりと尋常ではない。だが、誰が行ったのかが分からない、という事がわからない。

オーストラリア側は、有罪は間違いないと思うのだが、なんら証拠がない。日本人達は裁判の席上で(簡易小屋の裁判所)、無罪を主張する。

オーストラリアは、アメリカに頼み、この収容所の責任者であった将校(少将だったか)を裁判で裁こうとする。この時点での日本人の描き方は非常に好意的であり、この初老の日本人は正々堂々としたものである。日本と西洋の文化の違いもあるだろうが、日本的軍人の美意識のようなものも映像に切り取られている。

オーストラリア側の検察官は、この将校が指示して虐殺を行った、と主張するが証拠がない。この少将は無罪となる。

この頃、新しく通信士官が登場する。この士官の登場が話しを大きく、そしてより深いところへ連れて行く。そこには、価値の逆転ではなく、価値が失われるというような残像が残る。

この映画で監督の腕の上手さを感じるとともに、汚さも感じる事が出来る。映画のもつ限界や悲しさも知っているだろうが、映画の力学や美しさにも狡猾であろう。

時には矛盾こそが美しい映像を生み出す、そんな主張さえ聞こえてきそうだ。

この監督は、最後は物語の解決をあきらめて、そのままの形で上映したかのようだ。

そして、このような終わり方は、何かを提言しているのだが、実は何も解決していない卑怯な手段であるとさえ思う。

そう思うほどに最後は、見るものの心に触れずにはおかない。

例えば、最後に名前だけ登場するみどりという女性さえ、その存在感はリアリティに溢れている。

1999/10/30 記す

監督 スティーヴン・ウォレス
キャスト ブライアン・ブラウン、デボラ・アンガー、ラッセル・クロウ、ジョージ・タケイ
渡辺哲(池内収容所所長、最後は割腹自殺)、塩屋俊(通信士官、飛行兵4名の処刑者、最後は銃殺)

塩屋俊 主な経歴
1990  BLOOD OATH(豪)
1992  Mr. BASEBALL(米)
1993  さまよえる脳髄
1994  忠臣蔵・四十七人の刺客(東宝)
1995  KAMIKAZE TAXI
      愛の新世界
      トラブル・シューター
1996  大統領のクリスマス・ツリー(松竹)
1995  NHK ドラマ新銀河「妻の恋」
      日米合作終戦50周年記念ドラマ「HIROSHIMA」
1996  ドイツテレビドラマ「HOTEL SHANGHAI」
      NHK BSドラマ「新宿鮫 -屍蘭-」
      フジテレビ 金曜エンタテイメント「浅見光彦シリーズ③唐津佐用姫伝説殺人事件」
      NHK 金曜時代劇「天晴れ夜十郎」

2012年7月26日木曜日

クジラやらマグロやらうなぎの話し

漁師というのはほっとけばあるだけ捕ってしまう連中だ。彼らの好き勝手を許せば海の資源などあっという間に捕り尽くされるのは目に見えている。漁師は捕れるだけ捕り尽くし、市場はそれを冷凍し一年中売り尽くす。消費者は魚の旬など知るはずもなく好きな時に好きなだけ食い散らす。

彼らの生態系は根底から破壊し尽され、それは学のない漁師の手ではどうしようもない。川も湖も海もコンクリートで塗りつぶされてゆく。護岸工事をしたものは魚について無学で、発注したものは洪水対策に忙しい。工場からの排水で水が汚染されてゆく。川を汚すものたちは魚など見向きもせずに牛を食う。

魚達は文句を言う口も持たず、ただ息苦しそうに口をパクパクさせる。ただ生まれ育った場所を目指して長い旅に出る。途中で食べられたり死んだとしても、例え其こに辿り着かなくとも、彼らから文句のひとつ聞いたものはない。

何人かの人間は、魚が可哀そうだと船を駆って漁船と対峙する。鯨を殺す気なら、わしらはやっちゃるで、と彼らは主張する。マグロを滅ぼすつもりなら、わしらやっちゃるで、と彼らは主張する。うなぎを食い尽くす気なら、わしらやっちゃるで、と彼らは主張する。

私達は銛が打ち込まれるのを見るのが哀しかった。お前たち、どれだけ殺せば気が済むのかと。

彼らはそこに神を見ているに違いないのだ。これは一種の宗教戦争だから、魚には水銀が含まれているとか、増えすぎると自然のバランスが崩れるというような話しでは説得できやしない。牛や馬はどうなのだ、と言った所でキリスト教徒にイスラム教で語るようなものだ。

彼らは頭がいいのです、という説得は、私は信仰しています、に等しい。私は彼らの瞳にキリストを見たのです、くだらない話だ。イルカ漁をして生活している人は困るだろう。なぁに、十字軍でペルシャを困らせきった人達の末裔だ。今更、何度目の十字軍という訳でもない。

世が江戸時代なら、彼らはシャチの泳ぎ回る入り江で、鯨肉を食うか、それとも、入り江に突き落とされるかを選択しなければならないのだ。そして聞くのだ。

私を食べなさい、そのために私は生まれ、十字の銛で討たれるのだ。

そして、鯨達は今日も沈黙を守っている。


私を食べなさい、そのために私は生まれ、しらすとなってこの川に戻ってきたのだ。

そして、うなぎたちは今日も沈黙を守っている。

2012年7月23日月曜日

日本国憲法第25条の為に

もうお金がありません、ここに基金のお金があります、これを配ったらもう何も残りません、国の金庫はもう空っぽです。これからは皆さん、各自でなんとかして下さい、これ以上はもう国と致しましてもなんにも出来ないのです。

202X年、国家財政が遂に破綻し、あらゆる福祉は廃止へと。このままでは残された最後のセーフティネットは刑務所だけになってしまう。

そのような危機だけは回避せねばなりません、大臣。小さな手でも打てるのと、全く打つ手がないのとでは、状況が全然違います、と財務官僚、厚労官僚から詰め寄られる小宮山厚生大臣。

ええ、わかりましたわ、これはなんらかの政治的手段を講じなければいけないわね。ねぇちょっと彼女たちを呼んで頂戴。

(密室にて)

これをあなた達で仕掛けて欲しいの、社会悪を打つという構図だから、あなたたちの株も上がるはずだわ。次の選挙で有利になるのだからあなた達にも損にはならないはずよ。

えぇ、やりますけど。。。この芸人をスケープゴートにするのは気の毒だわ。それに権力にある者が市民を叩いてもいいものかしら・・・

それでもやってください、私達が甘い顔をしていては国家が破綻するのです、国家が破綻してしまってから権力だの市民だのと言っても遅いのですからね、ええ気の毒ですけどね、テレビで見てますけどね、彼ならきっと立ち直れますわ。

テレビ、ニュース、ネット、ツイッター「わーわーわー」

さぁこれであなた達の思い通りになったわね、予算縮小でもなんでもして頂戴。でも、生活保護が本当に必要な人をどのようにして見分けるわけ?全ての人を切り捨てるなんて許される事ではないのよ。

はい、大臣、そこは抜かりなく。社会党、公明党、共産党と、これら地域密着で活動している政党を中心にサポートして頂こうと考えています。

これで次の選挙では全ての党に気持ち良く票が割れることになるでしょう。すると日本は暫くは連立政権が続いて、あなた方の発言力が増すというわけね。

いえいえ、大臣、何をおっしゃりますやら。私達はあくまで法に従って行政を担当させて頂いている訳ですから、国民の声を代表する大臣の意のままに動かせて頂く事が私達の仕事でありますから。

しかし民主党は次の選挙で負けることになるわね。

いえいえ、大臣、何を心配なさりますか。選挙前にはちゃんと株が上がる様に世論にも誘導かけますから。

あら、あなたは総務省の方ね、では宜しく頼むわ、これであなた達が望んだ通りに予算は縮小できるのですから。

縮小ではありません、大臣、効果的に効率よく使うと言う事なんです。

そう、とにかく困る人が増えない様にお願いするわね。私を傀儡として使う以上は結果をちゃんと見せてくださいよ。

2012年7月20日金曜日

モズの早贄

もずの早贄というのは知っていた。捕えた虫や蛙を木の枝に突き刺したり吊るしておく食人族もまっさおな風習。


http://ja.wikipedia.org/wiki/モズ より

もずという鳥は、雰囲気、お目々キラーンと光って、快傑ズバットのようなニヒルな奴、小型のハヤブサみたいなたたずまい、すました顔で木の枝に止まってるんだと思ってた。


http://en.wiktionary.org/wiki/kestrel より

この写真はチョウゲンボウという鳥なんだけども。このカッコいい鳥の別名、馬糞鷹という。少しは考えてやれ。

で、はやにえのもずである。

名前からして勇ましそうである。

乾いた冬に風の吹きすさぶ中、木枯し紋次郎よろしく長い楊枝をくわえ、木の枝に止まっている姿が目に浮かぶ。

同じ体格の鳥とならどれだけ争っても負けそうにない雰囲気の名だ。

チョウゲンボウよりはずっと格上の鳥に違いない。

昆虫やカエルを捕まえて食べるんだから肉食だ。

きっとネズミとかもその尖った嘴と鋭い爪で捕まえては食べているんだゼ。




もずの実際↓


http://ja.wikipedia.org/wiki/モズ より


なーんて可愛い鳥なんだ。

2012年7月18日水曜日

科学的とはどういうことだろうか

国会事故調 - 東京電力福島原子力発電所事故調査委員会 報告書
http://naiic.go.jp/pdf/naiic_honpen.pdf

こんな報告書ではとても戦争は遂行できまい。大きな混乱が予想される戦争を実行する能力が我々にない事をこの報告書が露呈してしまった。想定通りに進むわけがなく、ましてや合理的判断など下せない状況で、ノイズだらけの混乱の中で何が起きたのか、幸運であったという結論にはせず、だからどうするべきであったかも言わず、矛盾と不合理の中で何が出来たのか、これを少しでも良くするには今後どうすべきか。混乱とはそういうものではないか。

科学的、合理的という視点は重要である。しかし、ミミズでさえ合理的である事をよくよく知れば、合理的という言葉の持つ危うさに気付いても良さそうなものである。ヒトでさえミミズと同じ知覚しか得られなければ、彼らと同じ行動しか出来ない、という事さえ知っておれば、合理性というものは前提条件の上にしか成立しないものであると分かる。

ビッグバン理論とフレッド・ホイルの定常宇宙論の論戦を知らないのか。科学的とはどういう事か。科学はクイズではない、正しい答えを当てることでもない。新しいものとは知らないものだ。ならば科学的であるとは知らないものに対してどういう態度を取るか、としか言いようがない。間違った学説であっても科学的かも知れない、正しい学説であっても非科学的かも知れない。

20km圏の合理性について
この報告書は 20km 圏の取決めに合理性がないと指摘する。当たり前ではないか、事故以前に考え抜いたものが 10km である(EPZ)。その前提が崩れれば、20km がいいのか、80km がいいのか、200km がいいのか、誰も想定していなかったものに基準がある訳がない、基準があればそれを使ったに決まっている。

官邸5Fでは、菅総理、斑目委員長、平岡保安院次長、福山哲郎内閣官房副長官などが集まり、半径3km圏内の避難区域が決定された。その際、原子力専門家である斑目委員長や平岡保安院次長などから、過去の原子力総合防災訓練の経験や、本事故前に関係各省庁で進められていた予防的措置範囲(PAZ)等の国際基準を導入する防災指針の見直し作業を基にした助言を得た(「4.3.1.5参照」)。

これに対し、その後の半径10km圏内、同20km圏内の避難区域等の決定は、これらの知識に基づいてなされたものではなかった。半径10km圏内の避難区域は、ベントが一向に実施されず、このまま格納容器の圧力が上がっていくとすれば、半径3km圏内の避難区域で十分かどうか不明であるという理由のみから決定されたものであった。半径10km圏内としたのは、それが防災計画上定められた防災対策を重点的に充実すべき地域の範囲(EPZ)の最大域であったためにすぎず、何等かの具体的計算や合理的根拠に基づく判断ではなかった。また半径20km圏内の避難区域は、1号機の水素爆発を含む事態の進展を受け、半径10kmを超えた範囲としての20kmという数字が挙げられ、一部の者が個人的知見に基づき大丈夫だろうと判断した結果決定されたもにすぎず、これも、合理的根拠に基づく判断とは言い難い。

3.3.4 官邸による避難区域の設定 (P.317)
3) 根拠に乏しい避難区域の決定 (p.320)

咄嗟に 20km 圏を決めるに当たっては、考えうる科学的知見は使ったはずである。その知見の上でひとつの結論を下した事は相違ない。だが科学的知見に基づいた決定が科学的かと言えば違う。彼らには科学的手法を使って基準を決めるような時間的余裕はなかった。科学的裏付けのある決め方は出来なかったはずである。であれば彼らの結論は科学的かと問えば、否、非科学的である、しかしそれが合理的でない理由にはならない。

合理的であるとは、科学的裏付けがある事ではない。限られた情報から結論を得る過程に、推論の流れがある事である。論理的とはその結び付きが説明可能である事を指す。合理性とは前提条件に基づいた推論である事を言う。この報告書は前提条件が揃う事を前提としている。

時間軸を無限とする考え方
これは時間を無限とし前提条件を有限個とした議論だ。時間が無限にあり議論の元となる前提条件が有限個ならば、これを全てを明らかにする事で、どんな事も説明可能であるとする立場だ。その前提はこの事故において成立したのであろうか。事故は時間が極めて有限に限られた中で進行した。前提条件は無限に等しく未知数の状況の中にあった。無限とも言える可能性の中から僅かに限られた情報だけを基に歩を進めた。

勘であるか、と言われれば、最後は勘であると言うしかあるまい。その根拠はどこにあるのか、と詰問されたならば、そういう確かめ計算は避難が終わった後にゆっくりとやれ、と言い返すしかない。こういう時には坂の上の雲のあのセリフが思い返されるのである。

そういう砲牆づくりは、いくさが終わってからやれ。いまはいくさの最中だ。(巻5、頁126)

避難
20km という距離は結果として見れば、ある人々にとっては必要にして適正な距離であった、ある人々にとっては過剰であり不要であった。そしてある人々にとっては不十分であった。それはその時に風向きが決めた。

電気もガソリンも途絶えた状況で避難する人にどうやって情報を伝えるのか、避難先に放射性プルームがあると分かったとしてどうするのか、軍隊であれば適時適切に動けるだろう、だが避難の半分は軍隊にも消防にも頼る事なく自力で逃げている人々ではないか。正しい知識があったとしても防げない事はある。正しく動けば戦争に勝てるというものではない。

なるほど、確かに後から見ればもっと上手い方法があるような気がする、いや、あったに違いない。幾つものこうした If を拾い集めておく事は重要だ。だったら失敗した奴にリベンジさせるべきだ、一番悔しいと思っている奴にもう一度やらせるべきだ。なのにこの報告書の構成員の中になぜ県庁や市役所の担当者が入っていないのか。原発事故の作業員がいないのか。

事故がもっと深刻であったなら、政府と雖もどこかで支え切れず行政は決壊したはずである。そのような状況の中で、分からないけれど決めたのである。分からないのに決めたのである。何故そうしたかと言えばもう時間がなかったからではないか。

決めなければ何も動き出さない。混乱から抜け出す唯一の方法は動き出す事であった。動き出すために必要なのは具体的な数値、目標であった。これが混乱から抜け出すただ一つの方法であれば決める事が優先した。正しく決める前に決める必要があった。

科学とは
一本の縦糸に問題があったからこれを差し替えさえすれば良かったはずである、とは歴史が機械の部品であれば成り立つだろう。だが一本の糸が変われば歴史がどのような色を成すかなど誰にも解るはずがないのである。それが今よりも良い未来とも言えない。バタフライ効果がもたらす結果を科学は予測する術をもたない。

もしこれが科学的とは認められない、And 科学的でないと認められない、と主張するのであれば、彼らもまた科学的根拠をもった結論を提示すべきである。結論かくあるべし、と主張すべきだ。それと比較し、明らかに劣っている、だからこうすべきではないか、と検討するものではないか。各々の時点でこうしていれば防げたという主張は、太平洋戦争こうすれば勝てた、と同じだ。そうだ、そうすれば勝てたのだ、それを当時の人が分かっていかったと思っているのか、想像力が欠けているのはどちらなのか。

人間は感情の動物であると言われる、もちろん、人間だけが感情を有するのではない、生物の本然的な要求が感情であって、言葉を獲得する前から感情と呼ばれる機能は存在していたはずである。だが感情が真実や法則を変える力を有しているわけではない。科学とは、感情に左右されない結果を研究する事である。

科学から政治へ
政府は、避難区域も除染区域も政治的に決めた。それを決める上で根拠とした科学的知見はある。しかし、科学的知見だけではなく、国民の意見を聞き、世論の流れを読み、予算を調整し、選挙を考え、トレードオフを考えながら決定したはずである。彼らは言いたいはずである、科学的根拠だけで決めていいのならこんなに簡単な話しはない。

政治的決断の根拠を科学だけに求めてはいない。科学は常にその時の確からしいしか示さない。どの程度の放射線が確実に危険であるかを科学は言えない。だから安全とは言えない、同時に危険とも言えない。そのとき、科学は分からないとしか言えない、ただフェールセーフを主張するしかない。

津波の高さを警告したのが科学者なら、津波への対策に合格を与えたのも科学者である。どちらの説が正しかったかは今や明白である。しかし、確からしいとしか言えなかったからそれは科学だったのだ。もし断言をしていたのであればそれは科学ではない。

政治とは状況証拠で被告を裁くのと同じなのだ。合理的も論理的も科学的も、政治では全て確からしいものを確かへとする方便である。科学はどれも確からしいまま立ち止まる。確からしさを持ち寄るのが科学であれば、それを確かに決めるのが政治だ。その後押しを科学はできない、ただ利用されるだけなのだ。

決断
問題を解決するのが政治である。確からしいだけでは何時まで経っても決まらないから其れを決めるのが政治である。であれば、この事故は政治の責任に帰結しなければならない、決めたのも政治なら、その後始末も政治しか出来ない。もし使っていた科学に誤りがあったというのなら、ではどういう科学なら間違いを犯さなかったかを検証すべきだ。どのような道具なら防げたというのか。

だがそれを検証をする前によく考えて欲しい。民主主義も科学も間違いを少しずつ訂正しながら進んで行くものだ。どちらも間違いを前提として存在しそれを訂正しながら進める手続きである。だからこの両者は共にゆっくりとしか先に進まない。仕組みからして莫大なコストをかけて後戻りをしながらゆっくりと進むように出来ている。我々はこの間違いを訂正する事はできる、しかしもう二度と間違いを起こすなと要求する事は不可能なのだ。

間違いを起こすのなら、原子力発電のように危険なものは使わない方がいいのではないか。このような主張は最もである。しかし、この主張は間違いを認めない考え方から生じていないか。間違いがあるのなら気を付ければいい、政治も科学もそうしか主張できない。原子力発電を使うか使わないかは、政治とも科学とも違う要請だろう。その要請がどこから来ているのか、そこを突かない限りこの問題に解はあるまい。

我々は"科学的"という言葉を聞くと何かしら確からしい気がする。だかこれは確かとは違う。もし確からしいものを信じたいのであれば、それは科学の問題ではない、信じるか信じないかの問題は信仰である。過去に遡ってみれば科学は宗教から生まれた。科学がもし科学への信仰に過ぎないのであれば、これは科学の先祖帰りである。

2012年7月16日月曜日

いじめについて ~ Law & Order - Dick Wolf

地方次長検事

「陪審のみなさん、これをいじめから発展した不幸な事故と見做しますか?
友達同士の悪ふざけの中で起きた悲しい結末ですか?

いいえ、そんな事はないのです。

誰かを崖の方に暴力的な手段で追いやり、遂にはその崖から飛び降りさせた。
それはアクシデントでしょうか?

そうではありません、これはりっぱな殺人事件なのです。

いじめだと思うから問題が難しくなる。悪意があった、誰かが止められたのではないか、誰が知っていた、知らなかった、考えればきりがありません。

いじめも最初はほんの小さなきっかけから始まったものでしょう。
誰もがそれを見逃したばっかりに、いつの間にか得体の知れない化け物に変わってしまったのです。

それに誰も気付かなかった。
超えてはいけない境界線を越えてしまったのに、それに気付かなかった。
中には気付いていない振りをした人もいたでしょう。いずれにしろそれを放置したのです。

いじめだから何とかなる、そう思っていましたか。
そのうちこんなものは終わると。
で、そうなりましたか?

これをいじめだとは考えないでください。
これをいじめの結果の事故であると思わないでください。
これは殺人事件だと彼らに教えてやってください。

もしいじめではなく殺人行為であると誰もが思っていたらこのような不幸な結末になったでしょうか?親も教師もまわりの学友たちも、目の前で起きている事は殺人行為であると思っていたなら、このような結末になったと思いますか?

このいじめをエスカレートした悪ふざけと見てはいけません、
このいじめは殺人そのものなのです。

いじめた学友たちは当然、おぞましい殺人者だ。

しかしそれを見逃した教師は殺人幇助、
教育委員会は証拠隠匿、そして殺人の共謀罪。
そして犯人の親たちは殺人教唆で罪を問われなければなりません。

同様に被害届を受理しなかった警察官も、殺人に手を貸したのです。
でなければ彼らは無能だ。

陪審のみなさん、何も混乱する事はない。

複雑な様相をしていますがいじめというベールに幻惑しないでください。
ベールを剥いでしまえばその下に殺人があるだけなのです。

この裁判は勿論、復讐などではありません。

失われた命は帰ってきません。
しかし、我々の正義は彼らを罰する事ができるのです。
彼らのした事としなかった事に責任を取らせてください。

陪審員のみなさん、どうか彼らを無実にしないでください。
正義がこの国にある事を示してください。」

陪審は評決に達しましたか?
(Members of the jury, have you reached a verdict.)

聖戦士ダンバイン - 富野由悠季

バイストン・ウェルの物語を覚えている者は幸せである。心豊かであろうから。私たちはその記憶を記されてこの地上に生まれてきたにも関わらず、思い出すことのできない性を持たされたから。それ故に、ミ・フェラリオの語る次の物語を伝えよう。

ダンバインとは物語の名ではない、バイストン・ウェルという世界を語ったものだ。物語であるにはバイストン・ウェルという世界観は強すぎた。だからこの作品の物語性についてはずうっと語る事が出来ない。

ダンバインの人物は物語のために演技しなければならない、そんなに愚かな人だったか、そんな事に激情する人だったか、何もかもが都合のために死んでゆく。

キーン・キッスはニー・ギブンを探すのにゼラーナの艦橋に直行しないほどマヌケではない。リムル・ルフトが母親を暗殺したいと憎む気持ちはどこからきたのか。スイスでももらおうかと嘯くお前は本当にトッド・ギネスか。

ダンバインという物語であろうとしたのではなく、ただバイストン・ウェルであればいい、その為に物語のように紡がれたのではないか。


バイストン・ウェル
ダンバインを物語として見てしまえば、ただのわからずやたちが登場してはお互いに傷付け合う、引くに引かれぬプライドを持ち寄って、憎しみ合い、殺し合う。その根底にあるもの、ちいさなプライドや野心や怨みで世界を破滅しても構わない、その執拗さに何らかの意図を感じずにはいられない。

心にあるそういったものを浄化するという作品のコンセプト、それは祈りでもあるのだろうが、どうも作家の恨み、怨念と言うようなものを仮定しなければ斯様な人物を次々と生み出す事ができそうにない。

バイストン・ウェルにおける地上人とはこの怨みを持ち込むための仕組みであった。何故このような人物たちを必要としたのか、そこにダンバインの鍵がありそうだ。

人同士がいがみ合う物語に「伝説巨神イデオン」がある。イデオンの国家間的ないがみあいの中に描かれる個人の嫉妬という物語と比べれば、ダンバインでは国家間的な争いの側面は小さく、個人的な争いが主に描かれている。一見、戦争のようであるが、バイストン・ウェルであろうが地上の戦闘であろうがこれは戦争ではない。

ではこの戦いは何か。ダンバインには我々が敵と呼ぶべき相手がどこにもいない。何故こうも命が軽いのか。

チャム・ファウが何故地上に残ったのか、何故消えてゆかねばならなかったのか、こんな終わりは寂しい。だから消えたチャムはバイストン・ウェルに戻れた、とする方が解釈としては正しい。

ショウが東京からバイストン・ウェルに戻れたのはオーラの力ではない、唐突になんの脈絡もなく戻されたのである。それは誰の意志でもないバイストン・ウェルの意志とでも言うべき力である。

シーラ・ラパーナの浄化もその意志なくして成立するとは思えない。バーン・バニングスを討ったから浄化したではどうも理屈が立たない。第二のドレイク・ルフトやバーン・バニングスはオーラバトラーが無ければ生まれないのか、しかし既に知ってしまった人々が昔に帰れるだろうか、地上もバイストン・ウェルも。オーラロードが開かれようが開かれまいが、野心に変わりはない。


歴史物語
ダンバインの物語は、歴史物語として見るのが正しいだろう、王国同士の争いにオーラバトラーが使われた点が重要なのだろうが、恐らくショウを描かなくてもこの物語は成立する。

これは戦争の物語ではない、バイストン・ウェルの歴史が戦いという側面を見せたに過ぎず、ドレイク・ルフトもシーラ・ラパーナもその歴史を描くための色に過ぎない。

戦いもオーラバトラーである必要はなかった、剣と魔法でも困りはしない。戦う目的は何でもよかった、だから戦争ではないと言うのだ。それらしく見える戦いで十分だったのである。これはバイストン・ウェルとは何かを世界に示すためだけの戦いだったからである。

ダンバインに描かれたものは主題である歴史物語と比すれば個人的な感情的な小さな争いである。だからダンバインではまず造形に驚く。宮武一貴の手によるダンバインの造形が魅力の全てじゃないか。

あの造形から始まる空想、あの虫の感じからすればバイストン・ウェルは手のひらサイズの小さな水玉でいい。オーラバトラーはその水玉にいるミジンコでもいい。

水槽の中の小さな歴史物語、それで十分だ。


女王たち
バイストン・ウェルは階級をもった社会である。王や女王がいて、騎士がいて、様々な階層の者達が住む世界である。ダンバインという物語は身分制度、階級を受け入れる物語である。登場する地上人が何ら疑問を抱くことなく王や女王の前でひざまづく。

登場する人々はみな己の身分に応じて最大限の野心を抱きそれに邁進する。地上人はこの身分階級に組み込まれた特権階級である。この階級社会の心地よさというものを再発見しその中で生きる事がダンバインなのだ。

そうであればダンバインとは女王選びの物語である。それ以外の楽しみはない。シーラ・ラパーナ(ナの国)、エレ・ハンム(ミの国)、リムル・ルフト(アの国)、彼女たち3人の中から誰を選ぶかと言う物語なのである。バイストン・ウェルの最高地位にある女王を選りすぐる、それ以上の楽しみ方がこの作品にあるだろうか?

キーン・キッスやマーベル・フローズン、ジェリル・クチビ、ガラリア・ニャムヒーという魅力的な女性も描かれているが、いかんせん身分が卑しい。彼女たちは女王と対比するために描かれたと言ったら過言であろうか。


邂逅
そのバイストン・ウェルが地上に出現し現代と繋がりを持った。これは面白い話であって異なる世界の異なる階層の者達の邂逅であった。邂逅、という物語でも良かったのである。それでは同じか。

例えば、バイストン・ウェルが戦国時代に出現し、関ケ原の合戦場に現れればどうなっていたであろうか、武士階級を持つ戦国の世界と、バイストン・ウェルの王たちの邂逅はどのような物語を生み出すであろうか。

しかし、ダンバインという物語は邂逅を描かなかった。地上での争いなぞ視聴者のための演出に過ぎまい。主たる戦いはバイストン・ウェルの社会の中に閉じていた。その理由はたぶん簡単である。バイストン・ウェルの歴史は地上との干渉を嫌うからである。

バイストン・ウェルという物語は歴史物語という側面と、地上との邂逅という二つのテーマを内包して進められた。ショウたちが消えてもそのバイストン・ウェルの世界観は止まってはいない。全てはバイストン・ウェルを描くための犠牲として消えて行った。

であればショウが好きだったチャムの語る物語は余りにも悲しいのではないか。

2012年7月7日土曜日

宇宙戦艦ヤマト2199 - 出渕裕

先の大戦で大和は沖縄防衛のための菊水一号作戦に参加した。終戦間際の作戦名だけが一人前であらゆる点で耐え難き戦であった。坊ノ岬沖海戦において僅か二時間で沈没し連合艦隊は壊滅した。

何のために、という気持ちがこの艦を宇宙戦艦に変えた。日本が生んだ最強の宇宙船はしかし日本人の何を抱えて飛び立ったのか。

時に西暦2199年、この著名なナレーションで始まる物語は沖田十三のキリシマ艦隊が冥王星沖会戦に突入する所から始まる。この屈辱的な地球艦隊の敗戦はしかしこの物語の起爆剤である。この海戦がなければ誰が宇宙戦艦ヤマトの16万8千光年の航海を見ただろうか。ヤマトという物語はこの艦隊戦がきちんと描けていれば全体の八割が完成したようなものだ。

この圧倒的なまでの戦力差の艦隊戦において生き延びた事が奇跡的でさえある、これだけの敵を相手にどう算段すれば勝機が見いだせるのか。苦難し工夫し抜いた作戦が其処に見いだされなければこの戦いには価値がない。そう描かれていなければ製作者の怠慢である。

この敗戦に日本中の誰もが痺れたのだ。斯くも美しく負けるものか、敗戦とは斯くも甘美で屈辱的なものか。不屈の沖田という男はなんと逞しい人であろうか。この物語はどこに行きどう終わるのか。

誰がどう見ても敗戦の中から立ち上がったヤマトに日本が重なる、希望というものを見る以上そうでなければおかしい。我々は地球に日本の象徴を見たのである、同様に敵国であるガミラスにアメリカを見たのである。ガミラスは如何にも同盟国であったナチス的に描かれているが、敵国である以上アメリカでなければ道理が立たない、この物語は太平洋戦争の再来でなくてはなるまい。

今度こそは勝つという戦いでなければなるまい。

地球を救うためにインスカンダルに行く、イスカンダルはしかし、どこの象徴であろうか。ガミラスをアメリカと仮定するとインスカンダルの問題を解く事が出来ない。勿論インスカンダルはストーリー上の架空である、現実の投射ではないと言う回答を得る事はできる。

だが、何故ヤマトは繰り返し繰り返し続編が作られなければならなかったか。まるで解けない方程式を解き続けようとするかのように。何か強力で解答のない矛盾を抱えているかのように。繰り返し。

イスカンダルを架空として解決にするには余りにも重要なのである、これが架空であれば、日本とアメリカという図式も成立しない、だがそれでは物語の根幹が揺らぐ。だから繰り返し、日本とアメリカであると確認が必要なのだ、ヤマトは日本であるとそう描き続ける必要があったのだ。だが腑に落ちない。

この解けない謎を抱えている限り、作品は何度でも蘇る。誰かの手によって作り直される。そして矛盾を解かない限り輪廻となって人々の前にまた現れる。

そこで敢えて逆に置いて見てはどうか。

地球をアメリカと仮定してみる。乗組員が全員日本人であるのも大和という戦艦も全てこのカラクリから人々の目を欺くための巧妙な演出であったと仮定してみる。

するとガミラスが日本である。

そうしてヤマトのストーリーと太平洋戦争を一致させてみるのだ。

遊星爆弾は日本の真珠湾攻撃と重なる。
七色星団の攻防戦はミッドウェー海戦。
ガミラス本星の戦いはB29の空襲。
デスラーの最期は菊水特攻作戦。

ドメルの最期の言葉。

そうだ、これが私の最後の決め手だよ、ゲール君。
沖田艦長。あなたが地球を救うために戦っているのと同じように、私の戦いにもガミラスの命運を懸けているのだ。私は命を捨ててもヤマトをイスカンダルへは行かせぬ。あなたのような勇士に会えて光栄に思っている、ガミラス星並びに偉大なる地球に栄光あれ!

これのどこにアメリカ的なものがあろうか、ドメルは日本の侍以外の何者であろうか。

冥王星司令官シュルツと副官ガンツの言葉。

諸君、長いようで短い付き合いだった、これよりヤマトへの体当たりを敢行する。それ以外に活路はないのだ。
何処までもお供します。

シュルツと最期を共にしたガンツは日本人そのものであった、最後まで日本的であった。彼らこそ日本の代弁者たり得たのだ。だが彼らは戦い敗れた。

物語の背景には地球の危機がありデスラーを悪と見做す事でヤマトは正義という構図で描く事が出来た。そんなヤマトの視点は戦争中のアメリカそのものであった。

しかし、勝つ者がいれば負ける者もいるんだ。負けた者はどうなる?負けた者は幸せになる権利はないというのか。今日まで俺はそれを考えたことはなかった。
ガミラスの人々は地球に移住したがっていた。この星はいずれにしろお終いだったんだ。地球の人も、ガミラスの人も、幸せに生きたいという気持ちに変わりはない。なのに我々は戦ってしまった。我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない、愛し合うことだったんだ。勝利か、糞でも喰らえ!

戦争に負けるとは斯くも惨めなのだ。ガミラス星での古代の言葉は勝者の懺悔に過ぎない。滅びたガミラスの人々の声ではないのだ。ガミラス星ではもう砲撃をやめてくれと思った市民も沢山いた事だろう。しかしヤマトの砲撃が鳴りやむ事はなかった、ガミラスが完全に沈黙してしまう迄。

総統、お願いです、もうお止めください。まだお気づきになりませんか、大ガミラスと言えど敗れることはあったのです。これ以上の戦いはガミラスの自殺行為です。
遅まきながらヤマトとの和平を、話し合いによる地球との共存の道を・・・

和平を訴えて始末されたヒスの存在を忘れてはならない。デスラーが独裁者であるから仕方ない事だったのだろうか、そう割り切ってしまえるだろうか。日本は軍国主義に陥ってどうしようもなかったから負けたのだと言えるだろうか。

ガミラスの戦争下手というのは作品を追い駆けていけば良く分かる話だ。圧倒的な科学力と艦隊を保有していながら、遠く冥王星に前線基地を構築しておきながら、彼らは地球への上陸を遂に果たせずに終わる。なんと弱い軍隊である事か、艦隊戦で敗れていく様はミッドウェイで大敗した日本の様ではないか。

ガミラスの姿は戦争に負けた日本そのものだ。それをこの作品は勝利者の立場から描いた。誰もが勝利者を日本だと思っているがそれが大きな矛盾を生み出したのだ、我々は勝利者であるヤマトでありたい、しかし我々の歴史はガミラスそのものである。我々の声は負けた側の言い分であるはずなのに、この作品ではヤマトが勝者の論理で平和を悲しみを愛を語る。

我々は勝った者の謝罪を受け入れるのか。生き残った者が滅んだものに向かって言う謝罪、後悔、懺悔を受け入れるのか。滅びた後の涙にどれだけの価値を見いだせと言うのだろうか。滅ぼされた側はその涙を見る事もなく何も言い返す事も出来ないのに。

この敗者が描く勝者の論理こそがヤマトという作品の次々と続編を生み出す原動力であろう。解決する事の出来ない勝者の原罪を拭えないままヤマトは更に多くの敵を滅ぼす。彼らは滅ぼしては許しを請う繰り返しの為に斗う。愛という思想でそれを覆い隠しているがそこにあるものは勝者の優越なのだ。我々はその勝者の優越を欲して堪らずにいるのだ。

少し見方を変えればガミラスは軍国時代の日本であるとも解釈できる、地球は戦後の民主化された日本である。インスカンダルこそがアメリカの象徴である、とも。

いずれにしろ、我々が打ち滅ぼしたいものはあの敗戦ではないか、あの惨めで忍び難き敗戦をどうやって乗り超えるのか、これがヤマトのテーマではなかったか。

そして軍国主義の日本をデスラーに背負わせ其れを撃つ事に快楽を見い出しているのではないか。我々はこの作品が抱えた矛盾を何ひとつ解決していない。我々は敗北した日本を無条件に悪呼ばわりなどできない、そう古代進がはっきりと言ったではないか。

死んでいったガミラスの人々は我々自身だ。東京の野原で、広島で、、、焼け焦げたその人だ。そこにアメリカの兵士の言葉ではない、我々自信の言葉でなんと声を掛けるのか。

その答えを探してヤマトがまた作られた。

2012年7月3日火曜日

無敵鋼人ダイターン3 - 富野喜幸

ワン、

ダイターン3とは富野版ルパンである。

延々と続く話の連続体。

ダイターン3とはいい加減さだ。

いい加減はネタ切れに窮する所から生れる。

ダイターン3とは時間との格闘である。

制作とは〆切りが命題なのだ。

ダイターン3とは作家が育つための土壌である。

なんでもやってみるのである。

ダイターン3とはなんでも出来る所が大胆なのである。

大胆でいられるだけの自信がある。

ダイターン3とはどんな話でも成立するフレームである。

そのためにどんな構造を必要としたか。

ダイターン3とは小難しい話を放棄した結果である。

アニメなんだから何でもやるのだ。

ダイターン3とはあえてふざけて見せた会話劇である。

自分自身を縛る設定を排除したから。

ダイターン3とは物語とは何かを考えるためにある。

謎で引っ張って解き明かさずに終わる方法がある。

ダイターン3にはチャレンジと失敗の軌跡がある。

失敗したとしても放送は止められないのだ。

ダイターン3にはユーモアに満ちた失敗がある。

笑えなくとも放送はするのだ。

ダイターン3には能天気な会話にリズムがある。

韻を踏めばそれ以上の意味が加わる。

ダイターン3の作画にはクセがある。

作画に出来不出来がある楽しさ。

ダイターン3とは楽しさである。

これが全て。

ダイターン3とはガンダムの第0話である

敢えて言うなら。

ツー、

オープニング
オープニングの出来栄えが好きだ。三条レイカ、万丈、ビューティのポーズが堪らない。なんら言葉による事はない、目が喜ぶ。好き勝手にやっても目立ち過ぎるし抑え込むと詰まらない、超えてはならぬギリギリの処に境界美と呼ぶべきものがある。それがこのオープニングの作画だと感じる。

第2話 - コマンダー・ネロスの挑戦。
金田伊功の作画には造形ではなく奥行きがある。3DやCGでは見る事の出来ない奥行きがある。

第12話 - 遙かなる黄金の星
前半のモノクロの回想は金田伊功の圧巻。

第19話 - 地球ぶった切り作戦
月面上に積まれた鋸の壮大さが印象に残る。作画監督は加藤茂。

第20話 - コロスは殺せない
湖川友謙の安心。イデオンと同じコロスのアオリ、前後の瞬間移動は遠近法の応用か。遠近感、造形、CGとは違う立体がある。

第26話 - 僕は僕、君はミレーヌ
何となくだが未来少年コナン的だ、動きがコナンぽい。同じ時期に制作されたから影響されなかったはずがない。誰もかれもが未来少年コナンに驚愕し追い駆けたのだ。作画監督は富沢和雄。

第28話 - 完成! 超変型ロボ!
アニメ史上最高の必殺技、全話中の最高傑作。だれがこのようなサンアタックを想像しえたか。作画監督は田島実。

第31話 - 美しきものの伝説
タツノコプロ版のダイターン3。加藤茂の手によって、タツノコ色に染められた作画。これがダイターン?これもダイターン。

第33話 - 秘境世界の万丈
安彦良和である、人のうつむいたり横を向く事による感情表現、目や足の形、小さくよく動く演技、他とは違うし巨神ゴーグまで出てくる。ギャリソン大活躍も楽しいが目も楽しい。只野泰彦。全てを完璧に仕上げた訳でもなさそうだがそこがまたいい。

第37話 - 華麗なるかな二流
全話を通して走る作画には不出来なものが多い。それでも万丈と木戸川が走るラストのシーンはコナンとジムシーを思い起こす。作画監督は山崎和男。

第40話 - 万丈、暁に消ゆ
塩山紀生の圧巻、ひとつの作品と言っていい。目が楽しいと呼ぶしかない作画。


スリー
「ダイターンは1台でいいのよ」
「ヒーローですから」

これは最後のヒーローものであると言う意味にも取れる言葉だ。ヒーローものはダイターンで終わり、次の作品はヒーローものにはしない、そんな宣言のようだ。物語を持たないダイターン3は、お話が幾らでも作れる構造にしてある、そしてそのような作品作りはこれが最後となった。これ以降に作られた作品は物語を前面に押し出しストーリーで見せる作品となったのである。

まだある。

メガノイドの力があれば人類は地球以外の星に進出して行けると。そうなれば 地球上で人間が殺し合って戦いを起こしたりすることがなくなって 人類は永遠に平和になる

このコロスのセリフは、機動戦士ガンダムで設定された宇宙世紀の考えに似ている。ジオン・ズム・ダイクンのニュータイプの考え方とも通じる。宇宙に進出した人類には新しい考えが必要なのだ、という基本テーマはダイターン3から始まっているとも言える。

コロスの火星の地球落しはそのままジオンのコロニー落し、シャアのアクシズ落しへと続くのである。敢えて言うならダイターン3の最終話はそのまま逆襲のシャアのプロットなのである。

僕への謝罪のつもりか・・・? と、父さん・・・これは僕の、僕自身の力だ

恐らくこの作品がきっかけとなって新しい何かが育まれたのである。父親との決別というのが個人的な感傷から汲まれたものだとしても、何かと決別し何かが決意となって生れたのだ。

作品中、ほとんど登場しなかった父親を最終話に登場させたのは、恐らく単なる演出上の綾に過ぎまい。しかし、ガンダムのテム・レイと比べれば父親像の描き方には共通点があるように見える。父親に認められなかった寂しさを含めた思いがあるのかも知れない。だから僕は、これを富野喜幸の独立宣言、決別宣言と受け取る。

ぼくは・・・嫌だ

どうにでも解釈できるこの言葉は見た人の数だけの解釈があり、作者らもそのつもりであろう。話の流れの中で生れた言葉だから解釈はお好きにどうぞ、という立場だ。だから新しく解釈をひとつ加えても困る事はないのである。

この言葉は人間の愛憎が悲劇を生むことへの率直な拒絶ではなかったか。愛するが故に悲劇を生み出すのであればそれを忌避することはありうる。ダイターン3とは悲劇に対するひとつの贖いではないか。父親の罪を子供が背負うプロットは神話のようだ。ダイターン3が持っている世界像はギリシャ神話的かも知れない。

コロスとドン・ザウサーの最期に愛の悲劇を見た。愛情が悲劇を生むのであればそれを否定する。そんな感情が最後の寂しさへと導く。それでも明日になればきっと同じような生活が始まる、そんな未来が来るだろう。来ることが分かっている明日の喜劇は封印されなければならない。

悲劇に対して、喜劇で応じたのがダイターン3という物語であるのなら、この物語の根底にはニーチェがあるのではないか、それと同じものが。相反する二つ、アポロン的なものとディオニュソス的なもの それらが何であるかを論じる事は出来ないが、ダイターン3がアポロン、メガノイドがディオニュソスとして対立すれば十分である。何故なら、それらは悲劇の本質ではなく 悲劇の切り取り方だからだ。

破嵐万丈がなぜ人間離れしているかと言えば、超人の比喩と見做せる、そして悲劇と対峙する。では、メガノイドは何の象徴か、これは、超人に成りえなかった者、肉体だけが超人となった者達、か。近代文明が我々に新しい力をもたらすと信じた者達ではないか、科学を信じるならば銀河でさえ支配できると彼らは考えた、しかし、その根底にあるものは深い情念であった。

悪しき心というものも愛憎から生れる、愛するが故に、その情念の強さが哀しみを生むのだとしたら人はどうすればよいのか。その愛憎が近代科学と結びついて生まれたのがメガノイドならば、ダイターン3もまた愛憎から生まれ落ちた機械である。ふたつはなぜ対立したのか。これが明かされる事はなかった。それが明快なら、なぜコロスの悲しみを見せる必要があったろうか。

彼らは宇宙時代に対応しようとした存在であり、宇宙に生きる者と地球で生きる者の、機動戦士ガンダムから逆襲のシャアまで続く物語の萌芽と見て取れる。メガノイドの思想の妥当性はそのままジオン・ズム・ダイクンの思想へと繋がる。ジオンの系譜はその原始を破嵐創造に辿る。

だからダイターン3の最終話はガンダムの第0話と呼ぶ事が出来るのだ。

コロスの情念に万丈は毒気を抜かれ何も出来ずに恐怖した、あの万丈が、あの破嵐万丈が。その恐怖の中で例えば髪の毛が白くなったり、精神を病んだとしても不思議はない、そのようなエピローグも有りうる。だがそんな結末がいいんだろうか。

僕は嫌だ、とは作者の中から生れた言葉だと誰もが気が付いている、それは神は死んだと置き換えてもいいくらいの言葉だ。何が厭なのか、と言う問う。物語は死んだ、でも、物語を終わりたくない、どうとでも解釈可能だ。超人でいる事を主人公が拒んだ、と見てもいい。このような主人公で居続ける事に意味があるのか、超人の役に何の意味があるのか、と。

仕方ないわ、住む世界が違うんだから

鶏が鳴き魔法が解けた事を告げたのである。延々と続ける事が可能なダイターンという作品にここで決別したのだ。万丈が居ると思われる部屋から明かりが洩れる。

もう会わす顔がない、と言う事を物語は告げている、超人の時間は終わったのだから。何かと決別した相応しい最終話ではないか。

なぜラストは明るいか、これで自明である。それぞれが超人でなくともよいと告げたのだ。そうでなくとも生きてゆけると語る。彼らはやっと役目から解放されたのである。また始まる日常、ただ主役であった破嵐万丈だけが顔も会わせずに別れる、それはいつかまた呼び出されるかも知れない事を知っているから。

また今日と同じ明日が来るにしても、今はここで終わりにしておこう。もうここは住む世界ではなくなってしまうから。一度お別れをして物語を終えよう。そうすればまた明日が訪れるから。

それぞれが自分の役から解放されて自分の家へと戻る。これは彼らの始まりだから最後のオープニングテーマが流れる。たとえ明日また会うにしても。

そしてラストの、ギャリソンの1、2、スリー。

彼は知っていたのだ。