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2012年7月16日月曜日

聖戦士ダンバイン - 富野由悠季

バイストン・ウェルの物語を覚えている者は幸せである。心豊かであろうから。私たちはその記憶を記されてこの地上に生まれてきたにも関わらず、思い出すことのできない性を持たされたから。それ故に、ミ・フェラリオの語る次の物語を伝えよう。

ダンバインとは物語の名ではない、バイストン・ウェルという世界を語ったものだ。物語であるにはバイストン・ウェルという世界観は強すぎた。だからこの作品の物語性についてはずうっと語る事が出来ない。

ダンバインの人物は物語のために演技しなければならない、そんなに愚かな人だったか、そんな事に激情する人だったか、何もかもが都合のために死んでゆく。

キーン・キッスはニー・ギブンを探すのにゼラーナの艦橋に直行しないほどマヌケではない。リムル・ルフトが母親を暗殺したいと憎む気持ちはどこからきたのか。スイスでももらおうかと嘯くお前は本当にトッド・ギネスか。

ダンバインという物語であろうとしたのではなく、ただバイストン・ウェルであればいい、その為に物語のように紡がれたのではないか。


バイストン・ウェル
ダンバインを物語として見てしまえば、ただのわからずやたちが登場してはお互いに傷付け合う、引くに引かれぬプライドを持ち寄って、憎しみ合い、殺し合う。その根底にあるもの、ちいさなプライドや野心や怨みで世界を破滅しても構わない、その執拗さに何らかの意図を感じずにはいられない。

心にあるそういったものを浄化するという作品のコンセプト、それは祈りでもあるのだろうが、どうも作家の恨み、怨念と言うようなものを仮定しなければ斯様な人物を次々と生み出す事ができそうにない。

バイストン・ウェルにおける地上人とはこの怨みを持ち込むための仕組みであった。何故このような人物たちを必要としたのか、そこにダンバインの鍵がありそうだ。

人同士がいがみ合う物語に「伝説巨神イデオン」がある。イデオンの国家間的ないがみあいの中に描かれる個人の嫉妬という物語と比べれば、ダンバインでは国家間的な争いの側面は小さく、個人的な争いが主に描かれている。一見、戦争のようであるが、バイストン・ウェルであろうが地上の戦闘であろうがこれは戦争ではない。

ではこの戦いは何か。ダンバインには我々が敵と呼ぶべき相手がどこにもいない。何故こうも命が軽いのか。

チャム・ファウが何故地上に残ったのか、何故消えてゆかねばならなかったのか、こんな終わりは寂しい。だから消えたチャムはバイストン・ウェルに戻れた、とする方が解釈としては正しい。

ショウが東京からバイストン・ウェルに戻れたのはオーラの力ではない、唐突になんの脈絡もなく戻されたのである。それは誰の意志でもないバイストン・ウェルの意志とでも言うべき力である。

シーラ・ラパーナの浄化もその意志なくして成立するとは思えない。バーン・バニングスを討ったから浄化したではどうも理屈が立たない。第二のドレイク・ルフトやバーン・バニングスはオーラバトラーが無ければ生まれないのか、しかし既に知ってしまった人々が昔に帰れるだろうか、地上もバイストン・ウェルも。オーラロードが開かれようが開かれまいが、野心に変わりはない。


歴史物語
ダンバインの物語は、歴史物語として見るのが正しいだろう、王国同士の争いにオーラバトラーが使われた点が重要なのだろうが、恐らくショウを描かなくてもこの物語は成立する。

これは戦争の物語ではない、バイストン・ウェルの歴史が戦いという側面を見せたに過ぎず、ドレイク・ルフトもシーラ・ラパーナもその歴史を描くための色に過ぎない。

戦いもオーラバトラーである必要はなかった、剣と魔法でも困りはしない。戦う目的は何でもよかった、だから戦争ではないと言うのだ。それらしく見える戦いで十分だったのである。これはバイストン・ウェルとは何かを世界に示すためだけの戦いだったからである。

ダンバインに描かれたものは主題である歴史物語と比すれば個人的な感情的な小さな争いである。だからダンバインではまず造形に驚く。宮武一貴の手によるダンバインの造形が魅力の全てじゃないか。

あの造形から始まる空想、あの虫の感じからすればバイストン・ウェルは手のひらサイズの小さな水玉でいい。オーラバトラーはその水玉にいるミジンコでもいい。

水槽の中の小さな歴史物語、それで十分だ。


女王たち
バイストン・ウェルは階級をもった社会である。王や女王がいて、騎士がいて、様々な階層の者達が住む世界である。ダンバインという物語は身分制度、階級を受け入れる物語である。登場する地上人が何ら疑問を抱くことなく王や女王の前でひざまづく。

登場する人々はみな己の身分に応じて最大限の野心を抱きそれに邁進する。地上人はこの身分階級に組み込まれた特権階級である。この階級社会の心地よさというものを再発見しその中で生きる事がダンバインなのだ。

そうであればダンバインとは女王選びの物語である。それ以外の楽しみはない。シーラ・ラパーナ(ナの国)、エレ・ハンム(ミの国)、リムル・ルフト(アの国)、彼女たち3人の中から誰を選ぶかと言う物語なのである。バイストン・ウェルの最高地位にある女王を選りすぐる、それ以上の楽しみ方がこの作品にあるだろうか?

キーン・キッスやマーベル・フローズン、ジェリル・クチビ、ガラリア・ニャムヒーという魅力的な女性も描かれているが、いかんせん身分が卑しい。彼女たちは女王と対比するために描かれたと言ったら過言であろうか。


邂逅
そのバイストン・ウェルが地上に出現し現代と繋がりを持った。これは面白い話であって異なる世界の異なる階層の者達の邂逅であった。邂逅、という物語でも良かったのである。それでは同じか。

例えば、バイストン・ウェルが戦国時代に出現し、関ケ原の合戦場に現れればどうなっていたであろうか、武士階級を持つ戦国の世界と、バイストン・ウェルの王たちの邂逅はどのような物語を生み出すであろうか。

しかし、ダンバインという物語は邂逅を描かなかった。地上での争いなぞ視聴者のための演出に過ぎまい。主たる戦いはバイストン・ウェルの社会の中に閉じていた。その理由はたぶん簡単である。バイストン・ウェルの歴史は地上との干渉を嫌うからである。

バイストン・ウェルという物語は歴史物語という側面と、地上との邂逅という二つのテーマを内包して進められた。ショウたちが消えてもそのバイストン・ウェルの世界観は止まってはいない。全てはバイストン・ウェルを描くための犠牲として消えて行った。

であればショウが好きだったチャムの語る物語は余りにも悲しいのではないか。

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