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2023年7月25日火曜日

ミトコンドリア・イブ

共通祖先

生物が卵細胞由来のミトコンドリアを採用したのにも理由があるように思えて、そのおかげでミトコンドリアを辿れば、母系をどこまでも遡れる。

種を超え属を超え科を超え目を超え綱を超え門を超え界の境界まで遡れる。論理的にはヤツメウナギと私の共通祖先は必ずどこかで生きていたはずである。

これは地球の生命がただひとつの個体から始まった場合。42憶年前のこの星で何億何兆の化学反応が、沢山の前生物的な化学反応へと進む、そこから多様な複数の生物的反応が同時多発的に始まったとしたら。

似かよった生物的な駆動が複数個体から始まっていたとしたら。それが融合したり分裂したり消滅したり発生したりを繰り返し、次第に細胞を形成していったとしたら。

最初から複数を始点に始まっているなら必ずしも全ての生物が同一の共通祖先に辿り着けるとは限らない。

生物は進化を続けてきた。その場合に、新しい種の発生は常に唯ひとつの個体から始まったのだろうか。変異した新しい個体が繁殖し、古い型を駆逐し、全てが新しい方に置き換わったのか。自然淘汰はそのメカニズムを強制しないと思われる。

置き換わる場合もあれば、新しい方が滅びる場合もある。分岐してそれぞれが生き残る場合もある。新しい個体も古い個体と交雑するだろうから、必ずしも新しい個体に完全に置き換わるとも限らない。それらの個々の変化はDNAの中に蓄積されてゆく。

DNAの機構を考えるならば、ある特定の変化がただひとつの個体でのみ起きるよりも、多数の個体の中に似たようなDNAの変化が蓄積されて、それが何らかの環境要因によって一斉に発現する方が自然と思われる。

それはコップの水が溢れる寸前にあるのにも似ていて、新しい種に変わる準備を生物は常に進めている。バッファがオーバフローした時に、飽和した時に、ダムが決壊するかのように、春を待っていた種子が一斉に発芽するかのように、変化を開始する。

人類もいつかは次の種へと進化するだろう。我々が絶滅するなら多分ふたつしかない。気候変動で絶滅するか、新しい種に置き換わって絶滅するかだ。

しかし、人間にはそれ以外の道もある。古い社会によって新しい種を排他する未来だ。

発現の多様性

DNA/RNAは生物の設計図の記録媒体である。使用する塩基はウィルスから人間まで共通しており、塩基配列はアミノ酸をコードして、3つの配列、コドンが20種類のアミノ酸と対応する。これを順次読み取って、リボソームがアミノ酸を結合して蛋白質を生産する。

コードの解読に若干の独自性があるにしても、その読み方もセントラルドグマも万物共通である。なぜ同じなのか。共通祖先がひとつだったからか、それとも初期生物には幾通りものやり方があったが、全て同じ仕組みに統一されていったかだろう。

その理由を互いにDNA/RNAを交換できる方が有利だったからと想像してみる。車の運転方法が世界中でほぼひとつなのと似たような理由ではないか。互換性がある事の簡便さ、効率性は淘汰の理由になろう。

設計図の基本的はひとつなのに、多様性と呼ばれる多くの種や個体が生まれた。免疫システムの組み合わせの多彩さはDNAコードの多様さであってDNAシステムの多彩さではない。

多様性の意味するものはコードの多彩さであってシステムの多彩さではない。DNA/RNA以外の機構を採用した生物が生き残れなかったのはどうしてだろう。

最初から誕生しなかったのか。それなら異星人も同じDNA/RNAシステムである可能性が高い。競争によって唯一に極まったのか?なら異星人は我々よりもっと優れた(特定条件下で競争力がある)方式を採用している可能性がある。

自然化学反応系

初期の地球には生物の前段階となる有機物が溢れていたが、そこから生物が発生するには、有機物、蛋白質、核酸、酵素などが生じるだけでは不十分で、数十万の蛋白質の生成する程度なら自然の反応に潤沢な時間を与えても十分に可能と思われる。

しかし現在の生物を見る限り、そこに選択的な蛋白質の利用が見られる。その仕組みには特定の合目的性があるように見えるし、それは協調して作用し反復して生命活動を維持している。

沢山の組み合わせを用いて、ある方向性に向かって恒常性を維持し続けようとする働きは単なる偶然の所作とは思えない。

それらは何十万という組み合わせの中から特定のものを選択している。自然発生の仕組みで組み合わせを作る事は可能であり、自然淘汰の仕組みでふるいにかけ、特定のものを選択する事は可能だ。

初期の地球のスープの中で蛋白質の化学反応が繰り返されていた。その中の幾つかは、今よりずっと単純だったが、現行生物の中で起きている化学反応と極めて類似したものであったろう。

蛋白質が組み合わさり、膜が生まれ、その周囲で化学反応が起き、膜の中に閉じ込められ、内と外の区分が生まれ、周囲からエネルギーが流れ込めば反応が進み、エネルギーが無くなれば反応は停止し、膜が開き、幾つかは停止したまま分解され、幾つかはエネルギーを獲得してまた動き出す。これ全て自然な化学反応の範疇で可能と思われる。

この段階ではまだ自然の化学反応であり、生物的な化学反応ではない。前生物的化学反応とさえ言えまい。生物的な化学反応と呼ぶには、何か特有のパターンがある筈である。

それを獲得した時に生物と呼べる事になる。それを如何に自然から獲得したのか。その遷移はどのような化学反応の連続で出来上がったのだろう。

それらのステップを駆動したのは何であったろう。

ばらばらの時計

何兆個もの箱を用意し其々にばらばらにした時計を入れて何億年か振り続ける。するとどれかひとつくらいは元の時計に組み上がるのではないか。偶然の所作で何なら起きうるか。これは自然由来の反応系に任せた場合の生物発生の寓話である。

振るという行為は確率を重ねる所作であるから、振る回数が時計が組み上がる確率を超えれば可能と言える。問題はそれを成立させる物理数が宇宙の規模に収まるかになる。

サイコロを振って特定の目がでる確率は1/6であろうが、これは6回振れば必ず出る確率ではない。何回振ればほぼ確実に出るかを問えば6より多い事は確かだが、その回数が明確に示せる訳ではない。

実際に時計の部品を箱に入れて振り続ければ、箱の中の時計は数億年後には摩耗して金属粒に戻っているはずだ。そこから更に振って金属粉がひとつのネジに成長し時計になる可能性はあるのか。それが宇宙の年齢の範囲に納まるとは到底思えない。

だから蛋白質がどれほど化学反応を繰り返しても自然に生物が組み上がるとは到底思えない。膜の中で化学変化を起こす程度なら自然発生するが、その膜にカリウム/ナトリウムポンプが偶然に生じる可能性はゼロに近いと思う。

しかし実際には生まれているのだから、その発生は説明可能な筈である。それらは幾つもの段階を踏んで可能なのだ。まず、ポンプを構成する蛋白質が十分に存在している事が前提としてある。

その上で、それらが適切な順序で適切な位置にあればひとつの機能を発揮するだろう。組み立て椅子でさえ出鱈目な組み合わせでは完成は覚束ない。

蛋白質の反応が何億回繰り返された所でそれは単なる自然な化学反応で、生物的活動への飛躍は起きない。

最初に反応系が生物的反応となるためには、ただの反応では不足であり生物的エンジンと呼ぶべき機構を獲得する必要がある。

その機構はどのようなものだろうか。A,B,Cという反応がABCの順序で起きる事、それが一過性ではなく繰り返し起きる事、それは必要な時に起きる事。更にはその反応系は何らかの機構によって刷新されてゆける事。

これらは反応が伝達できる仕組みの存在を示す。これは情報を伝える事と等しい。更にはこれらの反応は円環し最初に戻る仕組みを備えている。

コードとして利用できる特定の並び順があり、それらには鍵と鍵穴の関係のものが存在し、その組み合わせから次の反応が導かれる。

核酸のコード化(コドン)は単なる並び順であるから自然発生できる。これを読み取る側の発生もたぶん自然発生可能に思える。その上で、読み取ったものが、他の反応系の起点となる事も自然発生可能だろう。

前生物的化学反応

原子や分子の化学反応、その源である電子の振る舞い、量子力学の仕組みの中に、生物が生まれようとするパラメータ潜んでいて、特定の方向に化学反応が進むような定数があるに違いない。これは一種の人間原理だろう。

地球誕生時の地表は無機物で溢れていた。そこに千年の雨が降り、万年の冷却があり、有機化合物が存在可能となる。有機物が化学反応してアミノ酸や核酸を生む。当時の蛋白質を構成していたものが今と同じ20種類のアミノ酸のみとは限らない。

蛋白質は運動する。電子、原子、分子、無機物の化学結合や、濃度、浸透圧、電荷、立体構造などによって、移動、回転、変形、伸長、曲げ伸ばし、伝達、連鎖、結合、分離が可能で、これによって、モーターや遊泳などの機械的部品が実現する。

これらの運動をある側面から観察すれば、それらは他へ作用するので機能と呼べる。前生物的な化学反応であるためには、それは機能として発揮される必要がある。そのためには偶発的な反応であってはならない。

それらが、選択的に起きる事、再現できる事が必要で、それを可能とするためには、蛋白質の反応の前にまずコード化されている必要がある。

蛋白質の運動が組み合わさっても、単なる化学反応の繰り返しに過ぎない。それは単に自然の偶発的な現象である。何らかの条件が揃えば反応し、条件を失えば停止する。オクロの天然原子炉みたいなものである。

どうやって特定の反応が特定の条件の時に起こせるのか。色々な方法が試されたとは思うが、今の我々はコード化以外を発想できない。生物の中にはそれしか残っていないから。

Boidsやセルラオートマトンのようにごく簡単なルールに従うだけで丸で意志を持つかのような振る舞いを見せる場合がある。これは意志の不要性の証拠となり、我々の観察が以下に相手の中に簡単に意志と目的を見つけるか脳の癖を如実する。ルールさえあれば生物発生まで自動的に進む可能性がある。

そのルールによってコードが最初に生まれるとする。蛋白質の反応系が完成する前にまずコード化の仕組みが発生すると仮説する。一度、コード化の仕組みが実現されたならば、コードを出鱈目に変えてもうまく動くコード動かないコードを総当たり的に探す事ができる。コードの獲得によって自分自身を改変する仕組みも獲得した事になる。

自然淘汰は完成した仕組みをテストする。形態を新しく作り出す動機ではない。新しく作り出す機構はコード化によって担う。変わる能力はコード化の中に最初から組み込まれている。よってコード化が前生物的化学反応の特徴と見做しても良いと思える。

コード化された化学反応は、それを放置しておけば自然に進化する。改変して試す仕組みが備わっており、それをテストするための自然淘汰がある。それを長時間観察すれば環境からの一定の圧力によって特定の指向性があるように見えるだろう。

よって、コード化された生物に自発的、恣意的、計画的、合目的性があるように見えるのは自然の範疇と考えられる。自然淘汰で選択されていくものが、合目的性をもっているように見えるのは自然だろう。効率化を図っているように見えるのも自然淘汰で説明できる。

ではコード化はどのように獲得されたのだろうか。それはどうすれば自然発生するのか。果たしてコード化の最初の反応はどのようなものだったのだろうか。

初期の化学反応ではコードの持ち方もコードそのものも沢山の方式が試されたであろう。なぜたったひとつが生き残ったのか。

失われたものたち

当時の主流な反応は既に失われているだろうし、その当時に使われていた蛋白質も失われているだろう。最も古い原核生物たちでさえ、前生物的反応と比べれば遥かに複雑で完成されている。

DNA/RNAのジャンクコードと呼ばれる目的不明なコードの中にはもしかしたら相当に古い記録が残っているかも知れない。最初期の生物が必要としていた前生物的状態から受け継いだ蛋白質のコードが記録されていても不思議はない。

最初のC言語のコンパイラはアセンブラで記述された。そしてその後のコンパイラはC言語で記述されるようになる。それと同じ事が起きても不思議はない。最初期に存在しなければならなかったものが、その次のステップでは失われるという事は十分に考えられる。

既に失われた初期の機構は、現在とは全く違った仕組みだったろう。そう考えると最初期の前生命的化学反応のコードを獲得するまので過程は遥か昔に失われていてその痕跡を得る事は不可能と考える方が妥当そうだ。だから想像するしかない。

コピーとスイッチ

Aと対をなすA'がある。AとA'が結合の関係(AT, GCみたいな)なら、AからA'が選択され、このA'に対して別のAを割り当てれば選択的にAのみを集める事ができる。

こうして同種のものを見つけ出せるなら、それを組み合わせればある並び順のコピーを作成する事もできるそうだ。あとはこれらの反応を任意の条件で起こせばよく、例えば水素イオンの濃度などで反応が起きるなら、それをスイッチとして活用すればよい。

コード化とは、ある順番の保持と、繰り返し使う事を実現する。ある順番の保持とは、具体的には特定の材料を集め、それを特定の順番に並べる事になる。

それを繰り返し作れるなら、これがコピー能力の獲得になる。AからA'、A'からCというように選択的に部品を集め、それを順番通りに並べ、結合する。あとはこの反応が起きる事をスイッチで切り変えれる仕組みが備わればよい。

これをリボソームが誕生するまで何億年も繰り返す。それは自然の化学反応と自然淘汰によって十分に実現可能と思われる。

コードを使えばコピーする対象を自分自身に置き換えれば繁殖となる。これはそう難しいパラダイムシフトとも思えない。コード化の中から自分自身のコピーが作れるようになった段階を生命の始まりと見ても悪そうには見えない。

人間の意識

人間がモノづくりをする時には、そこに意識がある。様々な知識、法則を総動員して「こうすればこうなる」というメカニズムに基づき「だからこうすればいい」という意図を以って設計する。これがエンジニアリングの様式である。

石器であれ車であれソフトウェアであれ、原則として人間が意識して特定の目的に向かい、それを満たす機能を抽出し、構造を組み合わせて、ひとつの機構を完成させる。

創造は果たして人間の精神にだけ可能なものであろうか。しかし、生物進化は人間の精神が加わっていないにも係わらずそれを凌駕するような創造性を発揮している。

進化は意識したり願ったりする事で変化する機構ではない。なのに多様な生物が誕生している。それを突然変異だけで説明できるだろうか。ましてや人間は細胞の中で起きているやり取りさえ知らない。

情報伝達があるなら、そこに意識様としたものが発生しても不思議はない。それは簡単に言えば、多数決による選択機構だからだ。

進化とは偶発的な変化を淘汰によって結論する仕組みである。そのために、DNA/RNAのコードは変わりやすいものとなっている。そこに意識が入り込む機能はない。

薬剤耐性菌の発生もRNAの変わり易さに起因しているし、天然痘ウイルスを絶滅させられたのもDNAウィルスが変異しにくい性質があったからだ。

細菌やウィルスが薬剤に晒されたからと言って、特定の薬剤を解析し、その対策を考えだし、自らDNAを改変するアプローチを持っているとは信じない。

しかし、生存に不利な状況が起きた場合に自らDNA/RNAを改変しやすくする仕組みを備えていても何ら不思議はない。従来よりも多数の突然変異が起きるようにする機構ならありうる。だがそのような大変に恣意的と思える機構を準備したのは意識以外の何によって可能かという疑問は解消できまい。

意識の源泉

人間は意識によって世界を変えられると信じている。意識しなければ何かを変えてゆく事はできそうにないと考えている。意識だけが世界を識別できると信じているからだ。

だが、我々は自分の中から生まれる合目的性や論理の一貫性、こうした方がいいよと考えだの思いが湧き出る理由を知らない。どうしてそのような結論に至ったかを意識は説明できない。ただ意識にあがってきたものをすくい取ってそれを自分の考えと見做している。

意識は結論に対して後付けする事でしか理由を説明できない。それを我々は理性と呼んでいる。

なぜならその答えはニューラルネットワークという大量の細胞が参加する投票システムで得られたものだからだ。細胞のひとつひとつを見る事はできない。そこを通って流れてゆく電気信号を知る事もできない。

意識は出力されたものを流してもらっているに過ぎない。それを言語化して記憶できる形で獲得しているに過ぎない。

ならば細胞の中に(または近辺の細胞同士で)小規模だがニューラルネットワーク状の仕組みを備え、細胞たちが自ら結論を出すような意識状の働きを持っている事は可能だ。

情報の伝達が仕組みになっている。次から次へと渡す仕組みがある。受け渡すから情報は入力と出力になる。この出力を判断として扱えばよい。大量の情報を受け渡す過程で集計してゆく。

太古の昔、多くの単細胞生物にとって、周囲の物質を取り込む事がエネルギー獲得であった。その周囲の物質を、それが無機質であれ有機質であれ自分以外の細胞であれ、区別はなかったと思う。そのため、周囲の細胞を自分の中に取り込む事は捕食も含めて頻繁に起きていたであろう。

取り込まれた側の細胞にしても、自分の外の世界に区別はない。そこが生存できるかどうかが問題であって、生存可能なら、周囲がどこであっても、他の生物の細胞内あろうが、構いはしないであろう。

地球に誕生した生物の中でミトコンドリアは最も成功した部類のDNAだ。もしこれを寄生虫と呼ぶなら、もっとも繁栄した寄生虫である。ミトコンドリアはこの星で最も多いDNAだろう。

腸内にいる細菌群を全て殺したら人間は命を保てない。皮膚にいる雑多な細菌や寄生虫やらを全部殺したら健康を損なう。体の中にも、外にも目に見えぬ小さな命が溢れている。それが細胞の中にまでも。

我々が進化の過程で微小な生物を視覚で捉える必要はないとした。だがそれは無視とは違う。顕微鏡を発明する何億年も前からそれらは免疫が担っていた。