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2022年10月30日日曜日

知る者は好む者に如かず 好む者は楽しむ者に如かず 3 - 孔子

巻三雍也第六之二十
子曰 (子曰わく)
知之者不如好之者 (之れを知る者は之れを好む者に如かず)
好之者不如楽之者 (之れを好む者は之れを楽しむ者に如かず)

人の好きについて考える。

陰謀論には知識の偏りがある。しかし一般論を述べるならどのような人にも偏りはある。高い専門性を持つからといって偏りがないとは言えない。偏りがない事を孔子は中庸と呼んだはずだ。

しかし偏りがなければ優れていると孔子が考えていたとは思わない。徳についてこれだけ過激な考えをしていた人が自分の偏向を知らなかったとは思えない。しかしまたそんな自分を中庸と見做していたとも思われる。その心の働きを自覚していたように思われる。どれだけ外れようと中庸であり続けようとしたと思うのである。

どんな人間も全知全能ではない。万能の正しい推論さえ持ちえない。ただ前提条件があり推論しひとつの結論を得る。その働きのどこかは誤っているだろうし、正しい事もあるだろう。さてこの場合の正しいとはどういう意味か。

もちろん正しさは立場が決める。視点の位置が異なれば景色が違って見えるのは当然である。晴れ渡った日に遠くまで見える日もあれば、数メートル先も見えない雨嵐雪の日もある。風景の全く異なる日がある。誰が見ても同じ風景があるとも考えにくい。人の数だけの風景がある。それを人は共有すると信じる。幻想も互いに固く結べば現実である。

我々が行う情報処理は時間経過に対する変化を記録する事である。逆に記録が蓄積し増加する様を時間と呼んでいる。変化したなら作用があった証拠にある。もちろん認識できないだけで、変化しなくとも作用している場合もある。

データ処理は周囲の環境に様々なデータがある状況で、その一部を取水口から取り込み、様々な工程へ引き継ぎ、加工を繰り返し、幾つかの出力候補を生成しては、何回かの選択を行い、最終的にはひとつの出力を得る。

必ずしも出力を必要とはしないが、様々な保存則に従う限り、入力と出力は等価に存在し消える事はない。ただ値は違ってよいはずで不可逆であってもそれは一方通行というだけなので、他を迂回して戻ってくればもう一度通れる可能性はある。入力は出力となり、出力は別の所で入力となる。

細胞の活動も、工場の生産ラインも、ウィルスの活動もこの流れに準拠する。だからあらゆる物質は情報に置き換え可能と考えてよい。運動とは変化量の計算に過ぎず、変化は特定の数式から得られた値である。ある状態は他へ作用し、入力と出力は影響しあう。

考えの違いとはデータ処理の違いである。同じ入力に対して異なる出力を示すのには理由がある。どこかで違いが発現した証拠でもある。この集合が社会である。その複雑さは数々の影響を受けその結果としての現象は予測しがたい。

つまり、未来の不安は情報処理をする限りは避けえないという事である。その恐怖が肥大化すれば、ある者は銃を取り、ある者は隠匿し、ある者は団結する。そのいずれもが単なる生物学的な反応に過ぎないのである。

戦争だけなら猿でも行える。ふたつの群れが食料を巡り争う。繁殖行動を巡り争う。自然は彼らの力を圧迫する事でその解決を図った。争いを避ける第一の理由は、野生状態では、ちょっとした怪我も死に直結する事だ。小さな傷跡が化膿すれば走れなくなる。肉食であろうが草食であろうが、死は近い。

そのような生物的特性を同じくするのに人間だけが武器を発達させ戦略を高度化し交渉を繰り返す。だのに我々は戦争の止め方を未だに知らないのである。

野生動物の争いと異なり人間の破壊力は国家や種の滅亡も含む。戦争が自然に終了する事が人類の絶滅と直結するようになった。それなのに戦争の終わらせ方を我々は知らない。にも係わらず戦争が始まる。

その恐怖が人をして国家にアイデンティティを求めさせ、他国からの先制攻撃に恐怖し、自ら先制攻撃すべき考えに至らせる。戦争を始める事は猿でもできる。終わらせる事は誰も知らない、と幾ら語っても他国に先んじて攻撃する事だけが活路だと信じている。

その多くは戦争の始め方は知っていても、続け方さえ知らない。一撃で相手を屈服させられると信じて、大日本帝国の陸軍は大陸の奥深くにまで出陣した。その結果は疲弊しただけである。

大日本帝国海軍は先手を取って真珠湾を攻撃する。その結果として平時の太平洋艦隊の殆どは沈めたが、アメリカの参戦を招く。見たわたす限りの沖縄の海が米艦船で埋め尽くされた。その物量が果てしない事を当時の日本人は知っていたが、短期決戦なら物量の差が出る前に終わらせる。そう考えていた。

戦争が始まればそれを終わらせるかどうかを決めるのは戦時体制に突入したアメリカである。日本にその選択はない、そんな簡単な事さえ見失っていたのである。

これは単純な知識の欠如に見える。知らない事は明らかな損失であり時に命を奪う。故に知る事の価値は莫大である。

暗記は知識のひとつであり教育の根幹である。そして暗記の過多が決定的となる教育システムの中にいる。知識が結果を制する。

江戸時代の頃は知識はもとより不足していたから、それを補うために態度を磨く事を意識的に行った。その意識の持ち方が、人を見抜く目を鍛え、状況に対して覚悟を持って処す事を意識させ、命を賭してもしなければならないという生き方を生み出してゆく。

このような処し方を時代遅れと呼んでも構わない。事実、明治維新後はそのような考えにシフトする。学問ノススメは短期的な損得勘定に基づき知識に価値を置いた思想である。

これは科学の導入と連動して起きた転換である。如何なる人の想いがあろうと、知識のよる優越が勝る。これを繰り返し行えばその差は圧倒的になる。常に知識のある側が勝利する。よって如何に知識を刷新し続けるかが未来を決する。

次第に持たざるもの、停滞するものの戦略は過激化するしかない。最終的には人類の絶滅と引き換えの交渉しか残らないだろう。実際にロシアはそのような方向に真っ直ぐに舵を切った。つまりロシアは科学で負けたのだ。多くの分野で19世紀の世界を牽引したロシア。なぜここまで敗北に追い込まれたのか。

ソクラテスが無知の知と言った時、完全な知識の欠落に価値を置いていた訳ではない。知識がない事を知る為にも知識がいる。なぜなら無知の知とは知ると知らないの境界線上の問題だからだ。知識の最大値は無限に等しい。少なくとも人間の範囲は遥かに超えている。よって誰も知識では完全を満たせない。すると有限の中で、知識の多少で争う事になる。

そして量で争うなら、疑問は尽きないはずである。よって疑問が尽きないと知っている事は、完全であると考えるよりも健全である。しかし一方で人間の限界に近い量の知識で飽和した状態ではどうなるか?

我々の知識が常に足りないという意識に立てば、より知りたいという欲求は当然に見える。しかし、同時にそれが尽きない事も分かっている。

陰謀論を信じて銃を取る人がいる。悪いやつをやっつけないと世界が滅んでしまうと行動する人がいる。そういう人の知る能力はどういうものであったかと考える。

知るとは入力の事である。その上で陰謀論者はその出力として銃を手にすると決めた。この出力を気に入ったのだろう。だから行動にまで移す事ができた。何回も繰り返し準備も行った。その過程でたったの一回の出力が覆る事はなかった。執拗と呼ぶべきだろうか。それともそれ程までに恐怖は続いたのか。引き金が引かれる瞬間まで止む事のない運動が続いた。

その過程で、知る事の面白さも、自分を気に入る気持ちも、楽しさもあったろうと信じる。人はそれなくして何もなしえないと思うから。

するとその決断が誰にとっての好ましいものかが、誰にとっての楽しいものかが、次の入力を決める事になる。

知る事の価値を問うなら、それは出力が決定する。出力の作用が好ましいものか、楽しいものか、嬉しいものか、好きなものか、それが入力を選別する。出力の作用が入力の価値を決定する。

多くの場合、入力は出力によって規定され制約を受けるものとなる。入力は出力の為に決定され制限され規定されなければならない。出力から推定して入力を決める。それを経験と呼ぶ。特定の目的がある限り、それが効率的なやり方であろう。

よって誰もが好きも楽しむも出力に対してかかる感情という事になる。さにあろう。誰も結果の逆算をせずに生きる者などいない。

ならば知るとは出力を知るの意味になる。出力に併せて入力を選ぶのだから、知るは出力によって得られる利益を知るの意味である。

その代表的は一例は虎の牙が眼前に迫る時であろう。その入力から得られる全ては、全て生き残るから逆算される。その可能性が最も大きくなるように出力を決定してゆく。

牙の向かう先、そのベクトルから自分の体を外すためにはどうすればいいか。この場合の知るとは、この出力の為に最大限に役立つもので限定されるべきだ。明日は何を食べようかという出力もまた入力も不要である。

義務教育は知識を与える。その背景には人類の歴史の大きな柱がある。その全景はさぞや雄大で楽しい経験であろう。しかし多くの子は、知る意味を知らない。何故ならその出力を知らないからである。

出力がなければ入力は選べない。すると暗記のための時間割だけが過ぎてゆく。それでは面白くないだろう。出力の利益とは何であろうか。それが子供のうちは分からない。すると入力の面白さも楽しめないのである。

こうして出力の利益が全体の意思決定に深くかかわってゆく。利益の前に個人の思想は関係しない。損得勘定で高い方を選ぶだけなら簡単な数式だ。ただ利益に基づき行動を決定すればよい。

出力したものの利益を追い求めるのも、好きや楽しいという感情を満足させる事もそう大きくは変わらない。その好きがどのような所からやってくるのかは誰も知るまい。好きから始まる犯罪は幾らでもある。生物学的背景が必ず何かあるにしろ、ストーキングも小児性愛も好きから始まっている。社会はそれを好まない事と共通認識している。

ならば好きであれ楽しむであれ、決してこの世界を良くするとは言えない。その全てが出力したものの利益に基づく。それは生物としての快感中枢の刺激に過ぎないとも言える。

ならば知る事の価値に好きも楽しむも必要ないはずである。よって孔子はそういう意味での好きも楽しむも使っていないと結論付けられる。

出力に対する好きや楽しいという気持ちはその人のものだ。それを主観と呼ばれればその通りである。その意味での好きや楽しいでは如かずだと言っているように思われるのである。

ではこの好きや楽しいはどういう意味か。私から見てあなたは好きなように見える、あなたは楽しんでいるように見える。それは私の勝手な主観かも知れないが、あなたが楽しそうに見えるならば、私はあなたの心の奥底に恐怖がないように感じるのである。

好きだからってそれあなたの主観ですよね。楽しんでいるのは別にあなたの勝手じゃないですか。あなたが幸せだからって世界が良くなる訳でも良くなる訳でもありません。知識は力ですよ。支点さえあれば地球さえ転がしてみせると豪語した者もいるじゃないですか。知識を凌駕するものがこの世界にあるとは考えられないです。

自分を騙すのは容易い、だから詐欺師は自分を騙すように相手を騙せるのである。もし自分も騙せないでどうして他人を騙せるであろうか。好む者とは本人の好きという気持ちとは関係しない。他人から見て好んでいるように見えるなら、それは好む者だ。楽しむ者とはその人の感情の有無が要点ではない。他から見てあなたが楽しそうにしているのなら、あなたはきっと楽しむ者である。

そこに多くの人の機敏で繊細な感情を読み取る能力がある。その確からしさに基づく。あなたが楽しんでいるからって、本当にそう見えるか。そこに確実性はない。私の目が曇っている場合もある。その不確かなものでしか知る事は出来ない。だから、もしそこに恐怖を感じているならばきっと私には楽しそうに映らないのである。


知る者は好む者に如かず 好む者は楽しむ者に如かず - 孔子
知る者は好む者に如かず 好む者は楽しむ者に如かず2 - 孔子

2022年10月1日土曜日

日本国憲法 第八章 地方自治(第九十二条~第九十五条)

第九十二条 地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。
第九十三条 地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する。
○2 地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。
第九十四条 地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。
第九十五条 一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。 

短くすると

第九十二条 地方公共団体の組織及び運営は、地方自治の法律で定める。
第九十三条 地方公共団体は、議会を設置する。
○2  地方公共団体の長、議会の議員及び吏員は、住民が選挙する。
第九十四条 地方公共団体は、行政を執行し条例を制定できる。
第九十五条 地方公共団体に適用される特別法は、住民投票て過半数の同意を得なければ、国会は制定できない。

要するに

なぜ地方から衰退しているのか。

考えるに

中央集権システムと分散システムを比較する時、観点はシステムの強靭性を中心に、どのように破壊されたらシステムは停止するのか、閾値はどこにあり欠点はどこで、それを防ぐにはどのような機構が必要か、ダウン時の復旧にはどんな課題があるかを考える事になる。

中央集権はピラミッド型の構造で、富士山のように噴火口が山頂にある火山の姿に似ている。トップが破壊されれば自然と山体崩壊を起こす。そのため常にトップの入れ替え準備が必要で、独裁色が強い政体の場合、ただ一人に権力が集中し一代限りで死去した後に機能不全を起こす。

王が登場した太古から禅譲や世襲が一般的で、それは群れを作る家族的な動物であったからであろう。もし虎のような単独を好む生物であれば全く違った社会を築いたに違いない。

権力の委譲には常に正統性が要求される。なぜなら王の子が王たりえるかは仮説に過ぎないから。この正統性を中国は易姓革命の中に見出した。多かれ少なかれどんな地域であれ王の正統性は無条件ではない。

これを支える第一義は武力であるが、武力は正統性の根拠にはならない。武力でさえ正統性を求める側にある。これが太古の人が編み出した理念のひとつであり、今も通用する強固な思想である。

民主主義もまた中央集権型のシステムになる。ただ正統性の根拠を大砲の替わりに投票用紙とした。そのため民主主義の精神は手続きの尊重を求める。気に食わないからと武力で政権を奪取する事は認めない合意を必要とする。

時にその合意を破棄しようとする人もいるが、その場合でもそれは手続き上の問題として政体の正統性は停止される。その政体を倒した後に民主主義はどこからでもやりなおす事ができる。民主主義の手続きは武力を凌駕する。ペンは剣よりも強いとはそういう意味でもある。

しかし武力の追放が民主主義の健全さを保証した訳ではない。武力の変わりの方法など幾らでも見つかるのである。ロビー活動やフェイクニュースやメディアのコンテンツが選挙を左右する。いつの時代も武力を買うには資金が必要であった。剣が駄目なら他のものを買えばいい。

資金が権力の源泉になりつつある。人の心は買える。特に投票権は買いやすく売りやすい。民主主義で資本に対抗するのに拠って立つものは市民の良識しかない。そして腐敗したならば滅びよと民主主義は定義している。

しかし、どのような政体であれ、武力も資金も、理念の前では最終的に敗北し続けてきた歴史である。恐らく人類が滅びない限り、この歴史は繰り返される。

分散システムは、噴火口が周辺のあちこちに開かれている姿の様である。魚の群れが、鳥の群れが集まり離れるを繰り返す様も、ラグビーで次々とボールを受け渡してゆくのも分散システム的である。インターネットの理念もBoidsの簡単なアルゴリズムも分散システムを構成する。

分散システムを支配するアルゴリズムは利己的な自由勝手である。それでも集団としての協調性を発揮する。野生動物が取る多くの行動原理は分散システム的であろう。淘汰され続け残ってきた自然の調和が分散システム的であるのは進化そのものの分散的な仕組みだからだろう。それは強靭でもあり脆弱である。この小さな星の上で。生命は残り種は消えてゆく。

分散システムに中心はなく其々が勝手に判断する。自発的で自律的であるだけで良い。では分散システムはどの仕組みで調和を実現するのだろうか。

アダムスミスの見えざる手の如く。淘汰圧で生き残ってきたから現在というバイアスが調和しているように見せているだけかも知れない。それでも自然は多くのアルゴリズムを分散的に誕生させて調和という試行を続けている。

中央集権と分散

中央集権は短期的な合目的に向かうには適している。特定の目的に資源を集中するのに向いている。この最大の実装が脳であろう。脳は一個の生命の一生の間だけ機能すれば良い。生きている間に目的を達成するために進化してきた。

分散システムの代表的な実装は免疫であろう。個体の中で自己とそれ以外を識別し守る役割を担う。このシステムを次世代に受け渡してゆく事。その適不適を環境の中で試す事、目的は設定せずただ振いに掛け淘汰してゆく。

脳は過去から未来に物事を進める。免疫は現在の環境に晒されて試す。脳の答えは未来にある。免疫の答えは現在の中にある。刺激と応答の繰り返しの中で未来に従うか、現在に従うか。

また、脳には随意運動だけでなく不随意神経系があり、交感神経/副交感神経を通じて分散システムへ働きかけ、フィードバックから反応する仕組みも獲得している。これは協調性のための中央集権の働きだと思われる。

虎の牙が喉元に噛みつこうとしている時に必要なのは生き延びる事に全力する事だ。こういう時に脳は最大限に力を発揮する様に進化してきた。失敗はそこでの終わりを意味する。

ウィルスに罹患した時、脳は補助的にしか役に立たない。体内の恒常性を保とうと体の隅々で働くシステムが必要だ。その数はとてつもなくひとつの命令系統で制御できるはずもない。免疫の勝手に任せておくしかない。駄目ならそこで終わるだけの事。

男性的、女性的

男性的が全ての男について語るものではないように、女性的が全ての女性について語るものではないように、それ以外の認識もあるように、人々の中にある生物的なものと社会的なものは必ずしも一致していない。

それでも男性的な例えの多くは中央集権的に見える。女性的なものの多くは分散システム的に見える。男性的なものは短期的に目的を達成しようと進めるのに対して、女性的なものは環境全体での最適解を目指すように見える。男性的なものは局所での繁栄を、女性的なものは種としての永続を目指しているように感じられる。

つまり男性的なものは系統の生き残りを目指し、女性的なものは種の生き残りを目指す傾向がある。これは仮説であるが性差の違いから生じたとしても不思議はない。

もちろん性で綺麗に割り切れるような単純短絡さを自然は好まない。生物にとっての多様性は生き残り戦略の第一義である。免疫の多様性はその方が生き残れた統計的な帰結である。

群れを作る動物にとって古い世代がいつまでも元気である事は都合が悪い。早く生まれた側のアドバンテージがずっと残るため次世代が常に不利である。古い世代が生き残りやすい仕組みは、群れの中での競争では問題はないが、外界からの脅威に対しては高いリスクが潜在する。似通った免疫が長く主流であるため外界の変異に触れるとたちまち淘汰される可能性が高くなる。

そのような淘汰の結果として古い個体は集団からは先に消える方がいい。世代交代は生き延びる為のひとつの方法であり、古い世代の知識や経験の蓄積よりにもそちらの方に利点があった結果になる。

こうして個体と世代というふたつのシステムは個体を中央集権的システムで構築し、世代を分散システムで構築した。合目的性の追求は繁殖の追求であり、環境への適用は種およびその進化の存続の追求となる。これらを実現するために異なる器官が役割を分担し協調する仕組みを形成した。

脳は合目的性を失えば死を選ぶし、免疫は環境適用が叶わなければ個体は滅す。自然はそれで十分と見た。目的が失われた時には最適解を選ばなくなるシステムの方が全体から見れば都合がいい。つまり脳は初めから衰えるように作られている。

江戸幕府

江戸幕府は藩を中心とする分散システム的な体制である。明治維新で分散システム的な江戸幕府よりも中央集権である明治政府の方が望ましいとした理由。それは外交にあった。ロシアの南下に対抗する近代軍隊の設立。これと早急に対応するために中央集権的な制度を必要とした。ピラミッド構造で上意下達する代表が軍である。

軍制度を切り替える為に江戸幕府を倒壊し、長州と薩摩を中心にする新しい政府を樹立する。全ては日露戦争に向けてである。そこでひとつの結実をしたために目的は達せられた。目的を達した後の中央集権システムは目的を失った中央集権システムである。その先はどうなるのか。

システムは絶えず運動を続ける。目的を失った組織は組織の維持を最優先とし、次の目的に備える。次第に維持する事が目的になる。その為なら国家の滅亡も厭わない。大日本帝国はロシア帝国に勝利した。その目的を達成した後に、誰も新しい目的を見つけられなかった。だから国家として滅びた。

軍隊

中央集権のひとつの範は軍である。軍は一つで統制しないと有効に働かない。シビリアンコントロールもひとつの統制だから有効なのである。

分権で統治された国の軍は常に反乱軍の候補でもある。常にクーデターの懸念が消せない。そうであるから薩長は幕府を倒せた。地方分権として中央のバックアップの役割を果たした。

軍の基本は中央集権的な命令系統にある。この命令は上から下に一方向でしか流れない。所が実際を観察してみれば、其々の上からの命令に対して意見具申をする仕組みを軍隊は持っている。これは分散システム的な仕組みでもある。

一切の反論も意見も許さない軍隊は脆弱である。自由闊達のない組織は余りに脆い。その中央集権の欠点をウクライナ戦争でロシアが証明し続けている。

中央集権の欠点を補うものとしての分散システムがある。ならばその逆もあるはずで、分散システムの中にも中央集権的なものは存在している事になる。すると権力闘争は中央集権の中に起きる分散システム的な現象と見做せる。

モデル化

中央集権と分散システムをモデル化してみる。モデルでは複数要素の間を繋いだ命令系統と定義する。中央集権は命令系統は一方向、その結びつきを 1:nと定義する。分散システムは各要素の結びつきを n:m、命令系統は双方向と定義する。これはスター型のネットワークトポロジーである。

中央集権では命令系統を一方向とするために循環参照が生まれないようにしないといけない。これは下流から上流への逆流を禁止する事になる。分散システムは経路が多いため、逆流を阻止できない。

よって分散システムの伝達経路は命令系統としては不十分である。なぜなら命令が簡単に矛盾が引き起こす可能性がある。そのため命令系統に流せるものは情報共有までが限界であり、やり取りされる情報は命令とはなりえないから強制力を付与できない。そのため受け取った側がその情報に対して自発的に行動を決定する事になる。

こうして分散システムは自発的自立的にならざる得ない。同じ情報を受けても何の変化もしない要素もあれば、激しく反応する要素もある。多様性はそういう応答性の違いとして表現される。

モデル化してみると中央集権システムは分散システムのある特殊解と見做せる。中央集権は情報の共有を命令という強制力のある情報に限定した仕組みである。これを有効に働かせるために情報の流れに一方向の制約を課した。中央集権は情報に強制力を持たせる為の分散システムの一形態と言える。

更に敷衍するなら全体主義は構成する個々のノードが完全に同じ振る舞いをする様にと定義したものになる。これは中央集権の更なる特殊形であろう。全てが全く同じ反応を返す事を期待している。だから多様性を認めない。

システムの構造は情報の共有方法で規定する。組織の特徴は情報を共有した個々のノードの振る舞いによって決定される。良く出来たシステムはどのような形状でも有用に働く。ただ外乱や故障に対しての強弱はある。

人間はどうしても画一的にはなりえないから無理やり強制してもいずれ無気力になる。コンピュータの変わりに人間を使うという全体主義は短期的にしか有効とならない。特攻と同様である。だからコンピュータを中心にするなら全体主義も有効だ。AIの台頭でそれは現実味を帯びつつある。

江戸幕府が薩長に負けたのは軍事的に劣っていたせいではない。地方分権型の軍隊が中央集権型の軍隊に負けた。その事は両者ともに良く知っていただろう。同じ知識層、同じバックグランドを持つ者同士が戦ったのだから。才能や知略に差があったはずもない。ひとえにシステムの差であった。それは命令系統の差であった。情報の共有方法の違いであった。

道州制

地方分権は中央政府の出張所である。その必要性は、中央で処理するには問題の数が多すぎる事に起因する。中央省庁の処理能力を超えているので、それを各地方で処理するように分担した。

地方の問題は地方で解決する方が望ましいという考えは理解しやすい。かつては人間が一日に歩ける距離が行政単位の基本であった。一日の移動量は徒歩から鉄道、航空機と短くなってきた。その分だけ地方の問題が地方でしか処理できないという物理的な制約は小さくなった。こうした流れで地方が中央に飲み込まれるのは当然に見える。

距離の問題は国境を超える。地方の問題は地方でという考え方はもう過去の話だ。地方の問題を世界中で考える事が出来る。難民の問題もウクライナの戦争も世界中が注目している。

光速の制限のため人類は隣の恒星にも辿り着けないであろう。まして他星系の知的生物とのコミュニケーションは不可能に近いと思われる。それでも人類の技術は太陽圏に進出する事は可能で、人類圏が拡張した時に距離の問題はどう変わるだろう。それが統治システムに影響しない筈がない。

距離が大きければ分散システムが採用される。距離の制約が小さければ中央集権で統制できる。とは言っても範囲の広がりは問題の多さに比例するはずだからどこかで処理能力の限界はくる。

このように考えを進めると日本の道州制が目指したものは地方への権限委譲ではない。単に県という単位をより広域化する事で解決を図ろうとしたものである。制度的な違いが何も変わらない以上、担当地域の広さに対して人員が減らせるという思惑しかない。

道州制をアメリカ型の地方分権と考えるなら、行政だけではなく立法権、司法権も渡さなければならない。これは連邦制と呼ばれる仕組みである。

道州制は連邦制への移行ではない。県の集合体を州に昇格させるのは中央集権の規模の問題であり、その目的は国から地方へ渡す予算の削減であろう。だが少ない予算でやり繰りするなら、地方は小さいままの方がいい。小さければ機動力が残せる。大きくなって愚鈍は不利と思える。

世界では地域毎の格差がある。世界に様々な国が併存できるのは貨幣が異なるからだ。国内では同じ通貨が使用される。だから地域格差は通貨では解決できない。物価は地方毎に異なるのに通貨の価値はどこでも同じになっている。

農業と工業

かつて地方の経済が賑わったのは農業中心の経済システムだったからだ。それが地域経済を支える中心だった。戦後に工業型の経済に切り替わる。経済の中心が都市型の経済に遷移し他時、農業中心の経済は縮小する事になった。農業に従事しない人たちは農地のない場所へ向かった。

地方衰退

地方が衰退している以上、どこかで寡占が起きている。富が集まる場所があるなら減る場所がある。従来は農業の富が中央へと流れていた。それが工業に置き換わったので富の流れが変わった。

そして工業は大量生産大量消費の市場を求めている。低価格競争の絶対視はここで生まれた。地方もこの流れからは逃れられない。大量消費が大きな市場を求め都市圏に形成される。地方の衰退は地方の市場の縮小を意味する。それに人口減少もある。どちらも首都圏に吸い取られた。

地方再生はこの流れの中で工夫するか、流れに逆らうか、別の河川を探すしかない。魚が河の中で居場所を探すように、両棲類が別の川を求めて陸に上がるように。トカゲが地上を選んだように。

大量生産大量消費のビジネスモデルに従う限り、それ以外に勝ち目がなさそうに思える。この価値観は絶対的だ。市場の購買力はそれに従う。例えばロシアの製品を市場が拒否したり、環境負荷の高いものが敬遠されるのはアレンジされているだけである。競争力は価格を安く設定する中でしか得られない。

世界の行方

価格競争の圧力は太陽風のように吹き続けている。まるで位置エネルギーを生み出す重力の様に途切れず作用している。

そこで生まれた格差を縮めようと努力する人がいる。マルクスは労働者の悲惨さに我慢ができずにその原因を追究した。格差を縮小しようとする働きはまるでエントロピー増大則のようにも見える。

インターネットの登場が消費の形を変えようとしている。物流が発展してゆく中で、どこで生産されているかの意味は小さくなりつつある。従来の市場に近い意味は小さい。どこからでも商品は届く。船や航空機の発展によってモノの流れが変わった。

インターネットの発展が発注の部分を変えた。距離に関係なくどこの商品でも買える。市場に近い事に意味はなくなりつつある。近くで作り近くの市場に持ち込むモデルに意味はない。小売の店頭に並べる仕組みは絶対ではない。

市場が首都圏にある必要がなくなった。市場はコンピュータの中にある。何かを売ろうと考える者は常に世界を相手にする。否応なく世界から人がやってくる。ひとつの市場が世界に誕生しつつある。自分の隣で買い物をしている人はアフリカの何処かに住む人かも知れない。

物理的に近接する事は既に市場の要件ではなくなった。だから市場の縮退が地方の衰退の原因であるという論は通用しなくなった。人口減さえその理由にはならない。

生産しない事が衰退の理由なのである。いや、生産したものを流通に乗せれない事が衰退の原因である。では生産とは何であるのか。流通に乗せるにはどういう行動が必要か。

経済では資産がピラミッド型に集約する。従来、この集約が地域と不可分であった。しかし次の経済は地域に限定されない。地域は仮想化された記号に過ぎなくなる。物理的な地理と距離は問題の理由にならなくなる。

我々は分散的に各自が動き始めるのに調度いい時代に生きている。

地域の片隅に

経済は分散システムである。統治システムは中央集権である。資本主義は分散システムである。民主主義は中央主権である。つまり、分散システムだから資本主義が生まれた。中央集権システムだから民主主義が生まれた。

資本主義に目的はない。だから民主主義の価値観や理念を踏みにじる事もある。民主主義はその価値を守ろうと経済に制約を課そうとする。それが経済発展を損なう事もあれば発展を促す事もある。

資本主義はその過程で自分たちの活動を合法化しようと働きかける。そこで資本が最大の威力を発揮する。統治システムは経済によって支配される可能性がある。

経済が武力を支えてきた。経済が統治システムを支えてきた。全てを経済が支えている。経済がなければ社会は発生しなかった。しかし、経済は全てをコントロールしているのではない。経済は分散システムだから。

理念は中央集権システムでも分散システムでもない。それはシステムではなく要素の属性である。システムがどのような構造であろうと個々のノードを必要とする。そのノードに理念がなければ活動できないのである。

生物は環境によく適応する。どうあがこうと我々は我々の円しか描けない。それとよく合致したなら発展するし、合致しなければ摩擦が増大する。

雇用する側は大量消費型の資本主義を思い描いている。雇用される側は少ない給与の中から生活に如何に満足するかという非消費型指向の資本主義を形成しようとしている。こうして市場の姿が変わろうとしている。システムの問題ではない。これは理念の問題に属する。

同じ量の雨が振っても田畑の上に降るのと森林の上で降るのと海の上で降るのではその後の事象は全く異なる。

例え国家が滅ぼうと民は消えない。その地域に人々は住み続ける。土と共に生きる。人は大地と離せない。だから地方は消えない。