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2022年10月30日日曜日

知る者は好む者に如かず 好む者は楽しむ者に如かず 3 - 孔子

巻三雍也第六之二十
子曰 (子曰わく)
知之者不如好之者 (之れを知る者は之れを好む者に如かず)
好之者不如楽之者 (之れを好む者は之れを楽しむ者に如かず)

人の好きについて考える。

陰謀論には知識の偏りがある。しかし一般論を述べるならどのような人にも偏りはある。高い専門性を持つからといって偏りがないとは言えない。偏りがない事を孔子は中庸と呼んだはずだ。

しかし偏りがなければ優れていると孔子が考えていたとは思わない。徳についてこれだけ過激な考えをしていた人が自分の偏向を知らなかったとは思えない。しかしまたそんな自分を中庸と見做していたとも思われる。その心の働きを自覚していたように思われる。どれだけ外れようと中庸であり続けようとしたと思うのである。

どんな人間も全知全能ではない。万能の正しい推論さえ持ちえない。ただ前提条件があり推論しひとつの結論を得る。その働きのどこかは誤っているだろうし、正しい事もあるだろう。さてこの場合の正しいとはどういう意味か。

もちろん正しさは立場が決める。視点の位置が異なれば景色が違って見えるのは当然である。晴れ渡った日に遠くまで見える日もあれば、数メートル先も見えない雨嵐雪の日もある。風景の全く異なる日がある。誰が見ても同じ風景があるとも考えにくい。人の数だけの風景がある。それを人は共有すると信じる。幻想も互いに固く結べば現実である。

我々が行う情報処理は時間経過に対する変化を記録する事である。逆に記録が蓄積し増加する様を時間と呼んでいる。変化したなら作用があった証拠にある。もちろん認識できないだけで、変化しなくとも作用している場合もある。

データ処理は周囲の環境に様々なデータがある状況で、その一部を取水口から取り込み、様々な工程へ引き継ぎ、加工を繰り返し、幾つかの出力候補を生成しては、何回かの選択を行い、最終的にはひとつの出力を得る。

必ずしも出力を必要とはしないが、様々な保存則に従う限り、入力と出力は等価に存在し消える事はない。ただ値は違ってよいはずで不可逆であってもそれは一方通行というだけなので、他を迂回して戻ってくればもう一度通れる可能性はある。入力は出力となり、出力は別の所で入力となる。

細胞の活動も、工場の生産ラインも、ウィルスの活動もこの流れに準拠する。だからあらゆる物質は情報に置き換え可能と考えてよい。運動とは変化量の計算に過ぎず、変化は特定の数式から得られた値である。ある状態は他へ作用し、入力と出力は影響しあう。

考えの違いとはデータ処理の違いである。同じ入力に対して異なる出力を示すのには理由がある。どこかで違いが発現した証拠でもある。この集合が社会である。その複雑さは数々の影響を受けその結果としての現象は予測しがたい。

つまり、未来の不安は情報処理をする限りは避けえないという事である。その恐怖が肥大化すれば、ある者は銃を取り、ある者は隠匿し、ある者は団結する。そのいずれもが単なる生物学的な反応に過ぎないのである。

戦争だけなら猿でも行える。ふたつの群れが食料を巡り争う。繁殖行動を巡り争う。自然は彼らの力を圧迫する事でその解決を図った。争いを避ける第一の理由は、野生状態では、ちょっとした怪我も死に直結する事だ。小さな傷跡が化膿すれば走れなくなる。肉食であろうが草食であろうが、死は近い。

そのような生物的特性を同じくするのに人間だけが武器を発達させ戦略を高度化し交渉を繰り返す。だのに我々は戦争の止め方を未だに知らないのである。

野生動物の争いと異なり人間の破壊力は国家や種の滅亡も含む。戦争が自然に終了する事が人類の絶滅と直結するようになった。それなのに戦争の終わらせ方を我々は知らない。にも係わらず戦争が始まる。

その恐怖が人をして国家にアイデンティティを求めさせ、他国からの先制攻撃に恐怖し、自ら先制攻撃すべき考えに至らせる。戦争を始める事は猿でもできる。終わらせる事は誰も知らない、と幾ら語っても他国に先んじて攻撃する事だけが活路だと信じている。

その多くは戦争の始め方は知っていても、続け方さえ知らない。一撃で相手を屈服させられると信じて、大日本帝国の陸軍は大陸の奥深くにまで出陣した。その結果は疲弊しただけである。

大日本帝国海軍は先手を取って真珠湾を攻撃する。その結果として平時の太平洋艦隊の殆どは沈めたが、アメリカの参戦を招く。見渡す限りの沖縄の海が米艦船で埋め尽くされた。その物量が果てしない事を当時の日本人は知っていたが、短期決戦なら物量の差が出る前に終わらせる。そう考えていた。

戦争が始まればそれを終わらせるかどうかを決めるのは戦時体制に突入したアメリカである。日本にその選択はない、そんな簡単な事さえ見失っていたのである。

これは単純な知識の欠如に見える。知らない事は明らかな損失であり時に命を奪う。故に知る事の価値は莫大である。

暗記は知識のひとつであり教育の根幹である。そして暗記の過多が決定的となる教育システムの中にいる。知識が結果を制する。

江戸時代の頃は知識はもとより不足していたから、それを補うために態度を磨く事を意識的に行った。その意識の持ち方が、人を見抜く目を鍛え、状況に対して覚悟を持って処す事を意識させ、命を賭してもしなければならないという生き方を生み出してゆく。

このような処し方を時代遅れと呼んでも構わない。事実、明治維新後はそのような考えにシフトする。学問ノススメは短期的な損得勘定に基づき知識に価値を置いた思想である。

これは科学の導入と連動して起きた転換である。如何なる人の想いがあろうと、知識のよる優越が勝る。これを繰り返し行えばその差は圧倒的になる。常に知識のある側が勝利する。よって如何に知識を刷新し続けるかが未来を決する。

次第に持たざるもの、停滞するものの戦略は過激化するしかない。最終的には人類の絶滅と引き換えの交渉しか残らないだろう。実際にロシアはそのような方向に真っ直ぐに舵を切った。つまりロシアは科学で負けたのだ。多くの分野で19世紀の世界を牽引したロシア。なぜここまで敗北に追い込まれたのか。

ソクラテスが無知の知と言った時、完全な知識の欠落に価値を置いていた訳ではない。知識がない事を知る為にも知識がいる。なぜなら無知の知とは知ると知らないの境界線上の問題だからだ。知識の最大値は無限に等しい。少なくとも人間の範囲は遥かに超えている。よって誰も知識では完全を満たせない。すると有限の中で、知識の多少で争う事になる。

そして量で争うなら、疑問は尽きないはずである。よって疑問が尽きないと知っている事は、完全であると考えるよりも健全である。しかし一方で人間の限界に近い量の知識で飽和した状態ではどうなるか?

我々の知識が常に足りないという意識に立てば、より知りたいという欲求は当然に見える。しかし、同時にそれが尽きない事も分かっている。

陰謀論を信じて銃を取る人がいる。悪いやつをやっつけないと世界が滅んでしまうと行動する人がいる。そういう人の知る能力はどういうものであったかと考える。

知るとは入力の事である。その上で陰謀論者はその出力として銃を手にすると決めた。この出力を気に入ったのだろう。だから行動にまで移す事ができた。何回も繰り返し準備も行った。その過程でたったの一回の出力が覆る事はなかった。執拗と呼ぶべきだろうか。それともそれ程までに恐怖は続いたのか。引き金が引かれる瞬間まで止む事のない運動が続いた。

その過程で、知る事の面白さも、自分を気に入る気持ちも、楽しさもあったろうと信じる。人はそれなくして何もなしえないと思うから。

するとその決断が誰にとっての好ましいものかが、誰にとっての楽しいものかが、次の入力を決める事になる。

知る事の価値を問うなら、それは出力が決定する。出力の作用が好ましいものか、楽しいものか、嬉しいものか、好きなものか、それが入力を選別する。出力の作用が入力の価値を決定する。

多くの場合、入力は出力によって規定され制約を受けるものとなる。入力は出力の為に決定され制限され規定されなければならない。出力から推定して入力を決める。それを経験と呼ぶ。特定の目的がある限り、それが効率的なやり方であろう。

よって誰もが好きも楽しむも出力に対してかかる感情という事になる。さにあろう。誰も結果の逆算をせずに生きる者などいない。

ならば知るとは出力を知るの意味になる。出力に併せて入力を選ぶのだから、知るは出力によって得られる利益を知るの意味である。

その代表的は一例は虎の牙が眼前に迫る時であろう。その入力から得られる全ては、全て生き残るから逆算される。その可能性が最も大きくなるように出力を決定してゆく。

牙の向かう先、そのベクトルから自分の体を外すためにはどうすればいいか。この場合の知るとは、この出力の為に最大限に役立つもので限定されるべきだ。明日は何を食べようかという出力もまた入力も不要である。

義務教育は知識を与える。その背景には人類の歴史の大きな柱がある。その全景はさぞや雄大で楽しい経験であろう。しかし多くの子は、知る意味を知らない。何故ならその出力を知らないからである。

出力がなければ入力は選べない。すると暗記のための時間割だけが過ぎてゆく。それでは面白くないだろう。出力の利益とは何であろうか。それが子供のうちは分からない。すると入力の面白さも楽しめないのである。

こうして出力の利益が全体の意思決定に深くかかわってゆく。利益の前に個人の思想は関係しない。損得勘定で高い方を選ぶだけなら簡単な数式だ。ただ利益に基づき行動を決定すればよい。

出力したものの利益を追い求めるのも、好きや楽しいという感情を満足させる事もそう大きくは変わらない。その好きがどのような所からやってくるのかは誰も知るまい。好きから始まる犯罪は幾らでもある。生物学的背景が必ず何かあるにしろ、ストーキングも小児性愛も好きから始まっている。社会はそれを好まない事と共通認識している。

ならば好きであれ楽しむであれ、決してこの世界を良くするとは言えない。その全てが出力したものの利益に基づく。それは生物としての快感中枢の刺激に過ぎないとも言える。

ならば知る事の価値に好きも楽しむも必要ないはずである。よって孔子はそういう意味での好きも楽しむも使っていないと結論付けられる。

出力に対する好きや楽しいという気持ちはその人のものだ。それを主観と呼ばれればその通りである。その意味での好きや楽しいでは如かずだと言っているように思われるのである。

ではこの好きや楽しいはどういう意味か。私から見てあなたは好きなように見える、あなたは楽しんでいるように見える。それは私の勝手な主観かも知れないが、あなたが楽しそうに見えるならば、私はあなたの心の奥底に恐怖がないように感じるのである。

好きだからってそれあなたの主観ですよね。楽しんでいるのは別にあなたの勝手じゃないですか。あなたが幸せだからって世界が良くなる訳でも良くなる訳でもありません。知識は力ですよ。支点さえあれば地球さえ転がしてみせると豪語した者もいるじゃないですか。知識を凌駕するものがこの世界にあるとは考えられないです。

自分を騙すのは容易い、だから詐欺師は自分を騙すように相手を騙せるのである。もし自分も騙せないでどうして他人を騙せるであろうか。好む者とは本人の好きという気持ちとは関係しない。他人から見て好んでいるように見えるなら、それは好む者だ。楽しむ者とはその人の感情の有無が要点ではない。他から見てあなたが楽しそうにしているのなら、あなたはきっと楽しむ者である。

そこに多くの人の機敏で繊細な感情を読み取る能力がある。その確からしさに基づく。あなたが楽しんでいるからって、本当にそう見えるか。そこに確実性はない。私の目が曇っている場合もある。その不確かなものでしか知る事は出来ない。だから、もしそこに恐怖を感じているならばきっと私には楽しそうに映らないのである。


知る者は好む者に如かず 好む者は楽しむ者に如かず - 孔子
知る者は好む者に如かず 好む者は楽しむ者に如かず2 - 孔子

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