手塚さんの特集だそうですが、悼む大合唱はたくさんあるだろうから、それに声を揃えて一緒に大合唱する気は、ぼくはないです。
要するに、手塚さんを神様だと言っている連中に比べてずっと深く、関わっているんだと思います。関わなきゃいけない相手で、尊敬して神棚に置いておく相手ではなかった。手塚さんにとっては、全然相手にならないものだったかもしれないけど。やはりこの職業をやっていく時に、あの人は神さまだと言って聖域にしておいて仕事することはできませんでした。
まずぼくが手塚さんの影響を強くうけたという事実がある。小中学生の頃のぼくは、まんがの中では彼の作品が一番好きでした。昭和20年代、単行本時代(最初のアトムの頃)の彼のまんがが持っていた悲劇性は、子ども心にもゾクゾクするほと怖くて、魅力がありました。ロックもアトムも基本的に悲劇性を下敷きにしていたでしょう。アトムは後期になって変わってゆくけど・・・
それから、18才を過ぎて自分でまんがを描かなくてはいけないと思った時に、自分にしみ込んでいる手塚さんの影響をどうやってこそぎ落とすが、ということが大変な重荷になりました。
ぼくは全然真似した覚えはないし実際似ていないんだけど、描いたものが手塚さんに似ていると言われました。それは非常に屈辱感があったんです。模写から入ればいいと言う人もいるけどぼくは、それではいけないと思い込んでいた。どうも、二男に生まれたせいだと思うしかないけど、長男の真似をしてはいけないと思っていた。それに、手塚さんに似ていると自分でも認めざるを得なかった時、箪笥の引き出しに一杯にためてあったらくがきを全部燃やしたりした。全部燃やして、さあ新しく出発だと心に決めて、基礎的な勉強をしなくてはとスケッチやデッサンを始めました。でもそんなに簡単に抜けだせるはずもなくて・・・
本当に抜けだせたのは、東映動画に入ってからですね。23、4才です。東映動画に入ったら一つの別の流れがあったから、その中で自分なりの方向をアニメーターとして作っていけばいいとわかった。アニメーターとしてというのは、キャラクターを自分の持ち物にすることではなくて、それをどうやって動かすかとかどうやって演技を表現するかという、動きを追求することの方が自分にとって問題になっていったから、いつの間にか絵が誰に似ているかということはどうでも良くなっていきました。
それに、影響といえばぼくはまず日動(日本動画社)時代から東映動画へと流れてきた一種の伝統のようなものの影響下にあると思うし、他にも当時のまんがの白土三平の考え方に影響を受けたり、そういうことは無数にありました。小学生の頃も、福島鉄次という『砂漠の魔王』を描いた人には、一時手塚さんよりも激しくマイっていましたから。
ぼくが、いったいどこで手塚さんへの通過儀礼をしたかというと、彼の初期のアニメを何本かみた時です。
漂流している男のところに滴が一本たれ落ちる『しずく』('65.9)や『人魚』('64.9)という作品では、それらが持っている安っぽいペシミズムとは、質的に違うと思って、あるいはアトムの頃はぼくが幼かったために安っぽいペシミズムにも悲劇性を感じてゾクゾクしただけなのかもしれない。その辺はもう確かめようがありませんが。要するに、残骸がそこにあった。いくつかある小さな引き出しの中で昔使ったものを開けてみて、ああこういうのもありましたよ、と出してきて作品に仕立てたなという印象しかなかったんです。
それより以前も、『ある街角の物語』('62.11)という、虫プロが最初に総力を挙げてつくったというアニメーションで、バレリーナとヴァイオリニストか何かの男女二人のポスターが、空襲の中で軍靴に踏みにじられ散りぢりになりながら蛾のように火の中でくるくると舞っていくという映像があって、それをみた時にぼくは背筋が寒くなって非常に嫌な感じを覚えました。
意識的に終末の美を描いて、それで感動させようという手塚治虫の"神の手"を感じました。それは『しずく』や『人魚』へと一連につながるものです。
昭和20年代の作品ではイマジネーションだったものが、いつの間にか手管になってしまった。
これは先輩から聞いた話ですが、『西遊記』の制作に手塚さんが参加していた時に、挿入するエピソードとして、孫悟空の恋人の猿が悟空が帰ってみると死んでいた、という話を主張したという。けれど何故その猿が死ななくてはならないかという理由は、ないんです。ひと言「そのほうが感動するからだ」と手塚さんが言ったことを伝聞で知った時に、もうこれで手塚治虫にはお別れができると、はっきり思いました。
ぼくの手塚治虫論は、そこまでで終わりです。
そのあと、アニメーションに対して彼がやった事は何も評価できない。虫プロの仕事も、ぼくは好きじゃない。好きじゃないだけでなくおかしいと思います。いちいちそれを言葉に挙げていうのはしんどいから言いませんが、『展覧会の絵』('66.11)も、何だこの映画と思ってみていた。『クレオパトラ』('70.9)も、ラストで「ローマよ帰れ」と言うあたりに、嫌みを感じました。それまでさんざん濡れ場ばかり一所懸命やっていて、何が最後に「ローマよ帰れ」だと思って、その辺に手塚さんの虚栄心の破綻を感じたんです。
一時彼が「これからはリミテッドのアニメーションだ。三コマがいい三コマがいい」とさかんに言っていましたが、リミテッドアニメーションは三コマという意味ではないですし、その後言を翻して「やっぱりフルアニメーションだ」とあちこちで喋るに至って、フルアニメーションの意味を知らずに言っているんだと思ってみていました。同じようにロートスコープをあわてて買いこんだ時にも、もうぼくらは失笑しただけです。
自分が義太夫を習っているからと、店子を集めてムリやり聴かせる長屋の大家の落語がありますけど、手塚さんのアニメーションはそれと同じものでした。
昭和38年に彼は、一本50万円という安価で日本初のテレビアニメ『鉄腕アトム』を始めました。その前例のおかげで、以来アニメの製作費が常に低いという弊害が生まれました。
それ自体は不幸なはじまりではあったけれど、日本が経済成長を遂げていく過程でテレビアニメーションはいつか始まる運命にあったと思います。引き金を引いたのが、たまたま手塚さんだっただけで。
ただ、あの時彼がやらなければあと2、3年遅れたかもしれない。そしたら、ぼくはもう少し腰を据えて昔のやり方の長編アニメーションの現場でやることができたと思うんです。
それも、今ではどうでもいいことですけれど。
全体論としての手塚治虫をぼくは"ストーリィまんがを始めて、今日自分たちが仕事でやる上での流れを作った人"としてきちんと評価しているつもりです。
だから、公的な場所や文章では『手塚治虫』と彼のことを書いていました。ライバルではなく先達ですから。『伊藤博文』と書くのと同じで過去の歴史として書いた。とにかく、そういう評価は間違っていないつもりです。
だけどアニメーションに関しては(これだけはぼくが言う権利と幾ばくかの義務があると思うので言いますが)これまで手塚さんが喋ってきたこととか主張したことというのは、みんな間違いです。
何故そういう不幸なことがおこったかと言えば、手塚さんの初期のまんがをみればわかるように、彼の出発がディズニーだったからだと思います。日本には彼の教師となる人はいなかった。初期のものなどほとんど全くの模写なんです。そこにストーリィ性を持ち込んだ。持ち込んだけど、世界そのものはディズニーにものすごく影響されたまま作られ続けた。結局、おじいさんを超えることはできないという劣等感が彼の中にずっと残っていたんだと思います。だから『ファンタジア』を越えなきゃいけないとか『ピノキオ』を越えなきゃいけないとか、そういう強迫観念からずっと逃げられなかったとしか思えない、ぼくなりに解釈すれば。
趣味としてみればわかるんです。お金持ちが趣味でやったんだと思えば・・・
亡くなったと聞いて、天皇崩御の時より『昭和』という時代が終わったんだと感じました。
彼は猛烈な活動力を持っている人だったから、人の3倍位やってきたと思う。60才で死んでも180才分生きたんですよ。
天寿をまっとうされたんだと思います。
於 吉祥寺・スタジオジブリ 3/17
宮崎駿・特別インターヴュー
COMIC BOX Vol.61 1989.5 p108-109
手塚治虫に「神の手」をみた時、ぼくは彼と決別した。
特集ぼくらの手塚治虫先生(Good by, Mr.Tezuka Grate thanks for your comic works)より
これを思い返す度に思い出す別の言葉がある。
親愛なる宮崎駿様。
ここで僕は貴方の『未来少年コナン』の太陽塔脱出のシーンを想い起こします。
太陽塔によじ登り閉じ込められたラナを救出したものの包囲され行き場を失ったコナン。戻ることもならず眼下には千尋の谷の如き絶望がなだれ落ち、まさに絶体絶命の危機です。
この状況で貴方は二人を救出する為に何をしたか?
ラナを抱えつつ軽やかにとび降りるコナン(!)
このおよそ信じ難い方法を、それにひきつづくカットの巧みなつくりによって強引に納得させてしまった時、僕はまず茫然となり次に笑い転げ、最後に猛烈に悩みました。この解決方法で貴方は二人をまんまと救出し、しかもそのことの奇異さをむしろ親しみとしてコナンというキャラクターの上に定着させることに成功しています。まさに一石二鳥。
前略 宮崎駿様 <漫画映画について>
1984/3/6
すべての映画はアニメになる 押井守 P11より
こうして連綿と続いてきた作家たちの幾つもの傍流が大河となる。
若い時には憎しみを感じるくらいに鼓舞しなければ立っていられなかった相手が、いつかは遠くへ行き、その人の歳を超えてみなければ分からない事もあると知る頃、人はもう一度、その人と対面している。
若き日の考えを変えるつもりはないけれど、その頃の自分でもない事も知っている。
後から来る幾つもの幾人もの若者たちが登ってゆく山だ。その山を見上げては、溜息をつき、驚嘆し、悪態し、感心し、落胆し、冷笑し、歩くだろう。
だが、彼が漫画を歴史にした人なのだ。
勿論、乱暴な言い方だ、間違っているかもしれない。それよりも前の時代、同時代に後の時代にも漫画家と呼ばれる優れて歴史に残る人がいる事も承知している。
まぁ結論など出る訳もない、このままゆっくりと悩むこととする。
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