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2011年1月7日金曜日

僕ではわからぬ太平洋戦争 序

1.方策

明治維新(1868.10)から73年。
日清戦争(1894.7)から45年。
日露戦争(1904.2)から37年。
第一次世界大戦(1914.6)から27年。
第二次世界大戦(1939.9)から2年。

太平洋戦争(1941.12)は始まった。

この戦争は、戦後の日本を決定づける重大な影響を与えるが、その目的も経緯も未だにはっきりとしていない。

あるものは軍部の独裁をいい、またあるものは国民の熱狂をいい、またまたあるものはアメリカとの交渉をいう。

戦後の日本の歩みがいかなるものであれ 戦争に負けた事が問題の本質なのだ。
なのに何故アメリカと戦争したのか?
何故負ける戦争をしたのか?
これの答えが欲しい気がする。

ただし次のような結論にはしないようにしたい。

・個人のせいにしない
誰かがいなかったら歴史が変わったという事はない。今のあなたが誰かのかわりになっても歴史は変わらない。

・無能ではない
全ての人が自分の仕事を最大限に頑張った、頑張りすぎた。一生懸命頑張ったから戦争になったのだ。誰かが怠慢だったり無能であったからあのような歴史になったわけではない。

・戦争中の事は考えない
戦争をどう頑張っても恐らく勝つ術はない。どんな兵器を手にしたとしても歴史は変わらない。


2.あらすじ

日本が戦争へと至る道すじ。

江戸時代までさかのぼるべき話だが、ここは日露戦争以後に限定する。

日露戦争の勝利(1905.9)は、当面のロシア南下という不安を一掃した。そして、この勝利は、中国大陸に足を踏み入れる第一歩となった。

中国の混乱は、西洋列強による進出から始まったものでアヘン戦争(1860)から既に50年近く中国は混乱し続けていた。ここに日本も足を踏み入れた。

孫文による中華民国の建国(1912.1)と清の滅亡(1912.2)から、国民党(1919.10)や中国共産党(1921.7)を生んだ。

またソビエト連邦(1917)の発生は、ロシア南下という不安を生じ満州が注目された。日本にとって満州地区の安定は、国防上も、経済上も重要視された。

ついに、中国大陸での排日運動の激化は関東軍による満州事変(1931.9)を起こす。この地域の安定を求めた関東軍が独断でこの地域を鎮圧した。

この事変の首謀者である関東軍参謀の石原莞爾、板垣征四郎らを厳しく処分しておけば、その後の関東軍の暴走はなかったかも知れない。

陸軍の暴走が止まらないの理由の一つは身内に甘い態度であろう。基本的に優しすぎる奴らの集まりだ。結局関東軍では梅津美治郎が粛正するまでその暴走は終わらなかった。

満州国境での排日運動の激化は次に支那事変(1937.7)を起こす。この事変は日本の予想に反して長期間化し、その解決のためには南京までの進出が必要と判断した陸軍は松井石根をして南京まで兵を進めた。

しかし、この成果によっても日本政府は中国政府と和平できず、この事変は結局敗戦(1945.8)まで続く。

一方で20世紀は、国際同盟がありパリ不戦条約(1928.8)を締結する世紀であった。この条約は自衛戦争以外の戦争は認めないものである。これは、戦争する場合は、国際社会を納得させなければならない、という事だ。

この条約によって、戦争のあり方は大きく変わった。

昭和金融恐慌(1927.3)の発生後、大恐慌(1929.10)がアメリカで発生する。この影響で日本でも昭和恐慌(1930.1)が起きる。日本は、高橋是清により円安と輸出への注力によって回復しようとするが、大恐慌は、世界的なブロック経済圏を作ることになった。

日本のブロック経済圏は満州であり、中国大陸への進出を目指したアメリカは、中国への支援を行なっていた。支那事変は、中国へ進出しようとしたアメリカと日本の戦争でもあった。

国内では、25歳以上の男子による普通選挙(1928.03)が実現した。515事件(1932)、226事件(1936)などの国内は混乱を極め、三国同盟(1940.9)の締結、大政翼賛会(1940.10)の結成など政府も混乱していた。

軍部大臣現役武官制(1900,1936)の復活が内閣を弱くしたという話もある。だがこの復活にも思惑はあった。226事件の責任から退役した皇道派の大将を排除する。これによってクーデータの危険性を減らす為だった。

だからと言って、統制派、満洲派が道を誤らなかった訳ではない。気が狂ったかのような世界最終戦論を掲げて日本の将来を描いた。

そして、山縣有朋(1922)、松方正義(1924)に続き、最後の元老、西園寺公望(1940)が亡くなった。

日本の課題は、支那事変の終結であったが、これに有力な方法を見いだせず、また方法はあっても軍部を抑える事は困難を極めた。

余りに余りにも幼稚であった。それが戦前日本の最高教育を設計し実施した結果であった。その結果生まれた人材は問題意識はあったがついに解決に至らなかった。世界的な工学の発展に伴う総力戦という流れの中で国力のない国として模索したが遂に独立独歩は叶わなかった。

目の前の問題を解決するのに最も効果の大きそうな施策を選択する、その繰り返しで複雑に混乱した状況を打ち立てなおすのに、理念も理想も持たずしたただ行き当たりばったり的に模索を続け、そして解決はできなかった。

支那事変が太平洋戦争の直接のきっかけとなる。

アメリカは、支那事変の経緯から日本に対する圧力を深めた。特に石油の禁輸は軍部の首を直接絞めたに等しい。

昭和16年は日本がアメリカとの戦争を仕掛けることができる最後の年であった。これ以降では、石油の欠乏と彼我の軍事力の乖離により戦争は絶対に不可能となる。最後のチャンスにかけて戦ってみるか、頭を下げるかの選択であった。

早い話が競馬の最終レースに電車賃を突っ込むかどうかの分かれ目だったのである。

アメリカは、この時点まで中国は勿論だがヨーロッパでさえ戦争に参加していない。最後までアメリカ側から戦争を始める事は無かったのである。

大日本帝国は、戦争計画も和平交渉のあてもないまま、なりふり構わずに戦争へと突入した。


3.問題

開国以来のロシアの脅威、中国への進出とアメリカとの対立、大恐慌と国内政治の混乱、これらが大きな背景だろう。

他の列強と同じように中国の地に派兵し、満州国を建国し、支那事変を終結するために、南京を攻め、支那事変を終結するために、アメリカとの戦争に踏み込んだ。

何故、戦争に負けたのか?アメリカと戦ったからだ。当時の日本はアメリカ以外の国となら十分に戦争する事が可能な国であった。

戦争で負けないためには、アメリカと戦争しなければ良かったはずである。 アメリカから戦争を始める事はないのだから、日本から開戦さえしなければ戦争にはならなかった。それさえコントロールできれば可能だったはずである。だがもしアメリカが参戦したら状況はどうなる?

だからひたすらに交渉をすればよかった。その結果、満州国も含め中国から撤退する事になったかも知れない。その時、日本はどうなったと見ていたのか?それは本当に妥協できない事だったのか?しかし、それは本当に誰にも出来なかった。

大日本帝国は、元老があって初めて機能したのではないか。そんな風に思えてくる。

元老が消滅した時に、それに代わる制度が必要だったのではないか?それが消滅したために破綻したのではないか?それが健全であれば別の道を取り得たかも知れぬ。

元老が果たした役割は何であったのか?それにとって変わる制度はどのようなものであるべきであったか。なぜそれは生まれなかったのか?

何かが欠陥だったのではないか?その欠陥は例えば江戸幕府ではどういう形で補完されていたか?現在では、その欠陥は十分に補われているのか?

この回答を求める。


4.まとめ

明治維新から日本は西洋を参考にして国の制度を整えた。

しかし元老という制度が消失し、それに変わる制度を生み出せなかったために、支那事変を巡る問題でアメリカとの交渉に失敗し、石油の禁輸をされたため、アメリカに勝てる可能性がある昭和16年に開戦した。

しかし、その時点で勝てる可能性は極めて小さく、その小ささをひっくりかえす事もできず、講和の道筋もなく、敗戦へと至る困難な坂を下る事となった。

極めてこれは国家の統治論の問題であって、抑制と突出を如何にバランスよく取るか、進んでしまった国家事業を如何に中止しご破算にするか、このシステムの課題が解決されていなかった。

その政治システムもこの機構を備えているはずである。それがどのようなタイミングでどのように実行されえたか。例えば江戸幕府の生類憐みの令を中止するのは将軍の交代によって初めて可能であった。

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