stylesheet

2013年6月16日日曜日

ゾンビの医学的考察

1. 要約

ゾンビは接触感染によるウィルスまたは病原菌、寄生虫(以下、ゾンビ菌とする)を起因とする人特有の感染症である。

2. 序論

ゾンビの医学的考察をこれから述べるが、彼等は映像資料でのみ確認されていて、捕獲例は世界で一件もない。それでも映像から確認できる事実がある。それは恐らくこうであろうと推察できるものが幾つもあるのである。これからそれらの映像記録から推測される事を報告する。そのためこの考察には誤りも含まれる可能性がある事を予め断っておく。

本論の主なテーマは次の3つである。「感染および感染経路」「感染から発症まで」「ヒトを襲う理由」。

3. 本論

3.1 感染および感染経路
ゾンビの記録映像には必ずゾンビに感染していない者がいる。彼等は最期まで発症せずに記録を終えるし、また映像公開の記者会見の場でも感染した形跡は見当たらない。ゾンビ菌が空気感染するのであれば、生き残ったとしても保菌者である可能性は高いはずだし、保菌者であっても抗体をもち発症していないとしても、他の人に感染させることはあるだろう。しかしこれまでそのような発症例は報告されていない。だからゾンビは空気感染ではないと考えられるのだ。

多くの記録映像からゾンビを発症するのは死後であり、かつゾンビに噛まれる事に起因する。その事からゾンビ菌は口中に生息していると考えられる。腕をつかまれたくらいでは発症しないため、噛まれた時の唾液を介しての感染と思われる。

唾液だけでゾンビ菌に感染するなら彼等の口中から飛び出す飛沫によっても感染する可能性がある。しかし感染するには以下の条件が必要と思われる。
  • 強く噛まれないと感染しない。
  • 感染すると死亡する。
  • 死亡してから発症する。

強く噛まれた時 (肉の一部を噛み取られるくらい) の発症率は100%のようだ。しかし唾液に触れる程度では感染しない。これは感染経路としてある程度以上の大量の病原体が必要なためと思われる。一度に大量のゾンビ菌が血液に入らなければ感染はしないと考えられるのである。だからゾンビ菌の血を吸った蚊に刺されたとしても感染するとは考えにくい。

ゾンビの死体を焼却した場合に感染力はまだ残っているものだろうか? 焼却後の灰が人体に取り込まれるケースを考慮してみる。もしその程度で感染するようならそれは空気感染である。しかし多くの事例から空気感染は否定されている。だからゾンビを焼却すれば感染する危険性はなくなると考えられる。これは一度に大量の病原菌と接触する危険性がなくなるためか、それとも焼却によってゾンビ菌が死滅したために起こった事かは断定できない。それでも焼却する事で感染する可能性が極めて小さくなる事から、ゾンビ菌は狂牛病の原因であるプリオンのような物質ではなく何等かの有機体である可能性が高い。

そのため焼いたゾンビを食べる事は強く推奨しない。どの程度の焼却でゾンビ菌が死滅するか、または感染力を失うかは不明だからだ。

ゾンビの記録では他の多くの動物、昆虫、植物は発症していない。犬、猫、鹿はおろか、人間との間に多くの人獣共通感染症をもつ豚にさえ発症した報告がない。これはゾンビがヒト以外の動物を襲わない為か、または襲ったとしても発症していないものと思われる。この事からゾンビは人特有の感染症であると思われる。

3.2 感染から発症まで
ゾンビ菌に感染した場合、どういうメカニズムかは不明だが人は 2 ~ 3 日で死亡する。その死亡した直後から動き出す事からゾンビ菌はヒトの神経組織を乗っ取っていると思われる。これはハリガネムシに近いものがある。しかしどうやって乗っ取るかは不明である。ゾンビ菌がなんらかのホルモンを出しているのか、それとも神経に直接寄生しているのかは分からない。

ただ死亡するまでに感染者の多くが発熱、悪寒などを感じる事から抗体が激しく反応している事は明らかである。おそらく神経組織に取りつき、そこで繁殖してヒトを死に至らしめるものと思われる。

他の病原菌と異なり死亡後に動き出す事から、ゾンビ菌は神経伝達を阻害するだけではなく、ヒトの死後も必要な生命活動を維持している事は間違いない。特に歩行に関する運動系、目を開き噛み付く事から顔の一部の運動系、および視神経をコントロールしていると思われる。

ゾンビ菌は神経繊維に潜伏し運動神経から電気信号を発生させ歩行していると思われる。また視神経にも潜伏しそこから得られる情報を使って空間認識しターゲットを補足していると思われる。これは恐るべきメカニズムである。ここのゾンビ菌の情報を全ての菌で共有するのは、コンピュータの分散コンピューティングに近いものがある。またこの情報の共有による遅延がゾンビの動きの遅さの原因とも思われる。

このようにゾンビ菌は複数個所に同時に潜伏しなければならない。これがゾンビが一度に大量の菌を感染させなければ発症しない理由と思われる。またゾンビ菌は神経組織を乗っ取るために、主に脳に感染していると思われる。それとは別に新たに感染するために口中でも繁殖しなければならない。つまりゾンビ菌は役割分担をする菌と思われる。これらの役割分担、つまり運動の獲得と繁殖するための分化は、アリやハチのような集団を形成する極めて珍しい感染症である。

ゾンビ菌が筋肉を動かすためのエネルギーはどこから得ているのであろうか? 筋肉に栄養を送る為には血液の循環が必要である。これには心臓を動かす必要があり、ゾンビ菌は心臓にも潜伏していると考えるのが妥当である。おそらく動きの緩慢さや傷口から血が流れ出ない事から、一分間に一回程度の最低限の運動により循環器を維持しているのだろう。

しかし食料がない状況でどのようにエネルギーを得ているのだろうか? 最初は血液中に残っているグリコーゲンを使用していると思われる。しかしそれは直ぐに消費されるであろう。

そこで注目すべきはゾンビの多くが皮膚が腐りかけたようになっている事だ。あれは死亡による腐敗とこれまで思われてきたが、これこそが彼らのエネルギー源ではないかと考える。つまり、彼らは活動に必要のない体の部位を消化し、それをエネルギー源として利用 (再利用?) しているのではないだろうか。

恐らく最初に溶かされるのが脳の不要な部分と思われる。脳は神経を乗っ取た後は殆ど必要ないので運動に関する部位などを残して、おそらく大脳皮質などは溶かされてエネルギーとして使われているだろう。また内臓の多くも不要とある。ゾンビの多くは内臓を刺されても活動を停止する事はない。これは行動するのに既に重要でなくなっているからであろう。

3.3 ヒトを襲う理由
ゾンビ菌は生命維持をするための食糧を必要としない。犬や猫などの動物、動きが緩慢で捕食できないなら昆虫などを食べてエネルギーを得ているとも思われない。植物を口にする事もない。もしこれらを捕食し消化するとなると多くのヒトの機能を動かし続けなければならない。死後に体を動かすのは非効率である。もしヒトを食料としているのならばゾンビ同士の共食いも目撃されてしかるべきである。動きの速い人間よりもゾンビの方が食料としては容易いからである。

だからヒトを襲うのは唾液を経由しての感染と繁殖のためであろう。もし単なる繁殖だけであるなら性病として進化する道もあったはずである。虫歯菌と同じように口中の常在菌として生き残る道もあっただろう。これらの戦略を取れなかったのはゾンビ菌が恐らく生きた人間の口中に入っても、常在菌によって死滅させられてしまうからではないだろうか。菌としての生命力、競争力は極めて弱いと思われる。ヒトが死亡し常在菌が弱まってから口中で繁殖すると思われるのである。

これらの事由からゾンビ菌がヒトを襲うのは繁殖のためと断定してよい。

ではヒトだけを襲うのは何故か。これも死亡した後に体を動かす必要性があるためと思われる。おそらく発症するためには大量のエネルギーが必要なのである。そのためには重要となる部位がヒトの大脳であろう。猿では脳が小さすぎて感染してもそのあとの行動が維持できないのだ。

恐らくゾンビ菌はヒトに感染したらまず脳に取りつき、必要な部位だけを残し、それ以外はエネルギー源として使うものと思われる。これが十分でないとその後に新しい感染主を探す行動ができなくて死滅するものと思われる。

4. 結論

ゾンビには生きた(?)発症例がない。しかし生き残った者たちがおり、彼らには若しかしたらゾンビ菌抗体があるかも知れない。これをどのように取り出すかは今後の研究に待たれる。もし抗体があるならば噛まれても発症しない可能性がある。

我々は来る日、ゾンビパンデミックに備えて今後も研究に邁進する必要がある。

5. 参考文献
Dawn of the Dead - George Andrew Romero

罪と罰 (上) あらすじ - フョードル・ドストエフスキー

第一編
ある計画に憑りつかれた大学生ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフが物語の主人公である。ラスコーリニコフはアリョーナ・イヴァーノヴナの元を訪れ質草を入れる。これも彼の計画のうちであった。その帰りに酒場に寄ったラスコーリニコフはマルメラードフと出会う。マルメラードフは家族が貧窮にしているにも係らず給料を飲み代に使ってしまうような人間であった。そこでラスコーリニコフはマルメラードフの妻カチェリーナと娘ソーニャ (ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードヴァ) の話しを聞かされる。

マルメラードフを家まで送り宿へ戻ったラスコーリニコフは宿の女中ナスターシャから一通の手紙を受け取った。それは母プリヘーリヤからの手紙であった。妹ドゥーニャが働いていた先でスヴィドリガイロフとの間でトラブルが起きた事、それがスヴィドリガイロフの方に非があり誤解も解けた事、そしてドゥーニャがルージンと婚約する事が書かれていた。母と妹はルージンの援助によりペテルブルグへ引っ越す事とも書かれていた。手紙を読み終わったラスコーリニコフはルージンという男の魂胆を見抜き、妹への婚約には反対の立場を取る事を決めた。

「でなければ、ぜんぜん人生を拒否するんだ!」突如、彼は狂憤にかられて叫んだ。P74

次の日、ラスコーリニコフは出かけた先の公園で酔っ払いの女を介抱し警官に引き渡す。その後、友人のラズーミヒン (ドミートリイ・プロコーフィチ) を訪問する。その日の晩に彼は印象的な夢を見た。まだ幼少の頃、父親と一緒に祭りに行った時の出来事であった。酔っ払いたちが痩せた馬に重い荷馬車を引かせ面白おかしそうに鞭打つ場面であった。

鼻っつらをひっぱたけ、眼のうえを、眼んとこを喰らわずだ!P92

ラスコーリニコフは馬のそばから走って行った。彼は前の方け駆けぬけて、馬が眼を、眼の真上を打たれるのを見た!彼は泣いた。心臓の鼓動は高まり、涙が流れた。P93

「息の根を止めろ!」とミコールカは叫びながら、無我夢中で馬車から飛び降りた。同じように酔っぱらって、真っ赤になった幾人かの若い者も、鞭、棒、轅 (ながえ) と、手当たり次第のものをつかんで、息も絶え絶えの牝馬の傍らへ駆け寄った。ミコールカは脇の方に位置を定め、鉄槓で馬の背中を滅多うちに打ち始めた。痩せ馬は鼻面をさしのべ、苦しげに息をついて、死んでしまった。P95

それは不安の象徴だったのだろうか、それとも父性からのメッセージだったのであろうか?彼は己の中にある計画を独白する。

一体おれは本当に斧をふるって人の脳天を叩き割る気なんだろうか P96

しかし偶然にもラスコーリニコフはアリョーナの妹リザヴェータが明日の夜 7 時きっかりに家に居ない事を知ってしまう。それは将校たちの会話を偶々盗み聞いてしまったからであった。それは計画を実行するのに二度とない程の好機であった。見知らぬ将校と大学生の冗談まじりの会話が続く。それこそが彼がまさにそうあろうとした事であった。それが啓示であったとしても不思議はなかった。

「風変りの味だね。いや、それより君にひとつ話す事がある。僕はあのいまいましい婆あを殺して、有金すっかりふんだくっても、誓って良心に恥ずるところはないね。」と大学生は熱くなって言い足した。P104

「僕がいったのはむろん冗談だ。が、いいかい、一方には無智で無意味な、何の価値もない、意地悪で、病身な婆あがいる、誰にも用のない、むしろ万人に有害な、自分でも何のために生きてるかわからない、おまけに明日にもひとりでに死んで行く婆あがいる、いいかい?わかるかね?」
「うん、わかるよ」熱した友達をじいっと見ながら、将校は答えた。p105

彼はあくる日の 7 時にアリョーナのもとへ斧を隠し持って訪れる。そして計画通り斧をアリョーナの頭部めがけて振り下ろすのだった。しかし、そこで計算違いが起きる。そこにはいないはずのリザヴェータが帰ってきたのだ。彼はリザヴェータも殺害せねばならぬ羽目に陥った。ラスコーリニコフはリザヴェータも殺害し、それから物取りの犯行に見せかけるために幾つかの質草を奪いその場からの逃走に成功するのである。


第二編
すべて何もかもが、記憶や単純な判断力までが、自分を見捨てようとしているのだと確信すると、堪らないほどに苦しくなってきた。『どうしたんだ、もうそろそろ始まってるんだろうか?これはもう罰がやって来てるんだろうか?』P142

『あれはただの熱病性の衰弱だ。ちょっと熱にうかされただけだ。』p142

翌日昼近くに起きたラスコーリニコフに警察からの出頭命令が届く。それを伝えに来た女中ナスターシャはラスコリーニコフを元気づけるように昼食を用意した。疑心暗鬼に駆られながら警察署を訪れたラスコーリニコフはそれが債権取り立ての話しである事を署長のニコジーム・フォミッチから聞かされて安堵するのであった。

『もし訊ねたら、おれは言ってしまうかもしれない』と彼は、警察へ近付きながら考えた。P147

ラスコーリニコフはそれでも自分の置かれている状況に危機感を覚え例え警察に家宅捜査されたとしても問題なきよう急ぎ家へと戻りアリョーナから奪った質草を隠すのであった。

この石の下を探そうなんて考えが、いったい誰の頭に浮かぶものか。P170

それから大学時代の友人であるラズーミヒンを訪れる。ラスコーリニコフは体調が悪化し始めていた。彼の精神状態も熱病にうなされているかのように傍から見ても尋常ではない状態になりつつあった。

『ああここにあの男が済んでいるんだ、この家に』P173
「君は一体、脳炎でもやってるのかい。」P177

ラズーミヒンの家から飛び出し、ラスコーリニコフはネヴァ河のほとりに佇んむ。

彼はこの瞬間ナイフか何かで、自分というものを一切の人と物からぶっつり切り離したような思いがした。P180

それから夕方になって家に戻ると彼は倒れた。

黄昏の色がすっかりと濃くなった頃、彼は恐ろしい叫び声でわれに返った。P181

ラスコーリニコフは警察の副署長であるイリヤープト・ペトローヴィチが宿の主婦を打っているのを聞いた。

「誰も主婦さんを打ちゃしないよ。」とナスターシヤはまたもやいかつい、きっぱりとした調子で言いきった。P184

それは強いストレスのせいであろうか、深層心理からの働きかけのせいであろうか、ラスコーリニコフは熱病で数日間も寝込んでしまったいた。熱病で倒れていたラスコーリニコフを看病したのはラズーミヒンであった。ラズーミヒンはゾシーモフという医者を連れてきてラスコーリニコフを治療してもらったいたのだった。

ザミョートフは警察の事務官でラズーミヒンの友人でもあった。看病の甲斐あって回復したラスコーリニコフはラズーミヒンとザミョートフと会話しアリョーナ殺害事件のあらましを聞く。ラスコーリニコフは病気で寝込んでいた時に余計な事をうわごとで言っていないかを彼らに確かめながらそれを聞いていた。実際は警察が逮捕したのはペンキ屋の二人ミトレイとニコライであった。

「僕なにか戯言 (ざれごと) を言ったかね?」P199

そこにルージンが挨拶にやってきた。妹ドゥーニャのフィアンセであるルージンと会話をするうちにラスコーリニコフはとうとう我慢が出来なくなってルージンと妹との結婚に反対する事を告げた。

「僕は病気じゃない」とラスコーリニコフは叫んだ。
「ではなおさら・・・」
「とっとと出て行け!」P244

ラズーミヒンらも帰ってひとりになった後、ラスコーリニコフは外出をする。

あれは何で読んだのだったかな。一人の死刑を宣告された男が、処刑される一時間前にこんなことを言うか、考えるかしたって話だ。もし自分がどこか高い山の頂上の岩の上で、やっと日本の足を置くに足るだけの狭い場所で生きる様な羽目になったら、どうだろう?周りは底知れぬ深淵、大洋、永久の闇、そして永久の孤独と永久の嵐、この方尺の地に百年も千年も、永劫立っていなければならぬとしても、今すぐ死ぬよりは、こうして生きている方がましだ。P254

人間は卑劣漢に出来ている。またそういった男を卑劣漢よばわりするやつも、やっぱり卑劣漢なのだ。P254

酒場で偶然にもザミョートフに出会ったラスコーリニコフはは何故か秘密を打ち明けたい欲求が抑えきれなくなる。それはもちろんザミョートフにもラスコーリニコフにも冗談と聞こえるのだが、ラスコーリニコフの中に何か話さずにはいられないものがあるのだった。

「ねぇどうです。もし僕があの婆さんとリザヴェータを殺したのだったら?」と彼はだしぬけに口を切って、はっと我にかえった。
ザミョートフは気うとい眼つきで彼の顔を見ると、布きれにまごうばかりの真蒼になった。その顔は微笑でゆがんだ。
「一体そんな事があっていいもんか?」P265

ザミョートフと別れたラスコーリニコフはふと自殺を思うのだが、アプシーニユシカの投水自殺の未遂場面と出くわす。そしてやはり自殺は取るべきでないと思い直すのであった。

そのあとラスコーリニコフは殺人現場を訪れる。犯人は殺人現場に戻ってくるというのはこういう事かとばかりに、そこに何かを忘れた訳でもないのに。

その帰りに彼はマルメラードが馬車に轢かれる事故現場に出くわす。虫の息のマルメラードの家まで連れて行ったがマルメラードはソーニャの腕の中で亡くなってしまう。ラスコーリニコフは持っていたお金をマルメラードの家族に渡した。そこに来た警察との立会で彼は次のようにうそぶくのであった。

「それにしても、君はだいぶ血まみれのようですな」ランタンの明かりで、ラスコーリニコフのチョッキに生々しい血痕をいくつか見つけて、署長 (ニコジーム・フォミッチ) は注意した。
「ええ、汚しました・・・僕は血だらけです。」何かしら一種特別な表情をして、ラスコーリニコフはこういった。それからにやっと笑い、ひとつ頷くと、階段を下りて行った。P299

次の日も来ることをソーニャ達に約束し家に帰ると、母プリヘーリヤと妹ドゥーニャがペテルブルグに到着していた。


第三編
母プリヘーリヤ、妹ドゥーニャのいる家にラズーミヒンが訪れ、妹ドゥーニャに恋をしてしまう。ラズーミヒンは彼女ら母娘のために医者であるゾシーモフも連れて来てラスコーリニコフの看病をするのであった。

髪は兄よりいくらか明るみの勝った、黒みがちの亜麻色をしていた。眼はほとんど真黒で、プライドにみちた輝きを放っていたが、またそれと同時に、どうかすると瞬間的に並はずれて善良な表情になるのであった。色は蒼白かったが病的な蒼白さではない。彼女の顔は新鮮味と健康に輝いていた。口はやや小さすぎる方で、鮮やかな赤い色をした下唇は、顎と一緒に心もち前へ出ていた、それがこの美しい顔に指摘される唯一の欠点であったが、でもこの顔に一種の特徴、とりわけ傲慢らしい影を添えている。

この顔には微笑がまことによく似合った。 P327

人の良い、善良なラズーミヒンは許嫁のあるドゥーニャに魅かれる自分に戸惑いながらも、彼女らの面倒を見た。翌日の朝、彼らはラスコーリニコフの家に再び集まった。そこで互いの近況を報告しあうのであった。マルファ・ペトローヴナが死亡した事もそこで知った。

「あらまぁ、スヴィドリガイロフの奥さんのマルファ・ペトローヴナさ。ついこの間の手紙で、あんなに色々と知らせてあげたじゃないか」P365

ドゥーニャはマルファ・ペトローヴナの家に家庭教師として入っていた。そこでペトローヴナの夫であるスヴィドリガイロフが不作法を働き窮地に陥ってしまう。その時に救ってくれたのがルージンであった。彼女はルージンと結婚する事を決意する。それはラスコーリニコフの反対を押し切ってのものであった。

おまえはまた何を赤くなるんだい?お前は嘘をついている。お前はわざと嘘をついているんだ。ただ女らしい強情で、おれに我を張り通したいもんだからさ。お前はルージンを尊敬することなんか出来やしない。僕はあの男と会いもし、話しもしたんだよ。してみると、お前はお金のために自分を売っているのだ、してみると、いずれも卑劣な行為だ。僕はね、お前が少なくとも赤くなれる、それだけでも喜んでいるよ。P374

その夜八時に、全員でルージンを交えて会う事を約束していた時である。ルージンの手紙に『いかがわしき生業を営みおる女』と書かれていたソーニャが訪ねてきたのであった。それは前日のお礼に来たのであるが、計らずしも、ソーニャとドゥーニャはそこで出会う事になったのである。そして明日の葬式に参加して欲しいとの言付けた。

碧い眼が透きとおるように澄みきって、それが生き生きして来ると誰しもつい惹き付けられてしまうくらい、顔の表情が何とも言えず善良で無邪気な感じになってくるのであった。そのうえ彼女の顔にもその姿ぜんたいにも、ひとつ際立った特色があった。それは彼女がもう十八というにも係らず、その年頃よりもすっと若く、まるでほんの小娘、というより子供のように見える事であった。P384

母プリヘーリヤ、妹ドゥーニャは家へと戻り、ソーニャとスコーリニコフとラズーミヒンだけが残った。ラスコーリニコフとラズーミヒンはラズーミヒンの親類であるポルフォーリィ・ペトローヴィッチに会うために出かけた。二人と途中で別れたソフィアは何故か心うかれるのであった。

「ただ今日だけはいらっしゃらないように、どうぞ、今日でないように!」まるで小さな子供が怯えた時に哀願するように彼女は胸の痺れるような思いで呟いた。「ああ、どうしよう。わたしのところへ、あの部屋へ、あの方がごらんになる。ああ、どうしよう。」P393

彼らはポルフィーリイ・ペトローヴィチを訪ねた。部屋にはザミョートフも居た。そこで彼らはラスコーリニコフの論文を巡って犯罪について語り合った。犯罪には『環境に蝕まれた』ものがある。しかしそれ以外の犯罪もある。凡人は法に服従しなければならぬから法を犯すのは犯罪である。しかし非凡人はそれを越える権利を有している。非凡人であればそれは犯罪にはならない。それは歴史が、リカルガス、ソロン、マホメット、ナポレオンなどがしてきた事だ。人類の恩恵者、建設者は非凡人であるがゆえに、凡人では犯罪となるものをやってきたではないか。このような観念の語り合いの中でその裏でポルフィーリイとラスコーリニコフは老婆殺しには関する駆け引きをしていたのである。

「じゃあなたは何と言っても新しきエルサレムを信じていらっしゃるんですか?」P423

「ねぇ、君、もし実際それが真面目なら、そりゃむろん君の言う通りだ。これは別に新しいものじゃない、我々が幾度となく読んだり、聞いたりしたものに似たり寄ったりだ。しかし、その中で実際の創見、まぎれもなく君ひとりにのみ属している点は恐ろしい事だが、とにかく君が良心に照らして血を許している事だ。P427

この良心に照らして血を許すということは、それは、僕に言わせると血を流してもいいという公の法律上の許可よりも恐ろしい」P427

「良心のある人間なら自分の過失を自覚した以上自分で勝手に苦しむがいい。これがその男に対する罰ですよ。懲役以外のね。」P429

予審判事であるポルフィーリイは確信しているに違いない。しかしそれを示す証拠はどこにもなかった。

「先週、わがアリョーナ・イヴァーノヴナを斧でやっつけたのは、本当に何か未来のナポレオンとでも言ったような者じゃないかな?」と出し抜けに隅の方からザミョートフがずばりと言ってのけた。P432

ポリフィーリィの疑念を退けて二人はそこを出た。家に戻ったラスコーリニコフを町人が訪ねて来た。彼はラスコーリニコフが予想もしなかった事をただ口走り去って行った。

町人も今度は眼を上げて、気味の悪い陰鬱な眼差しで、じろりとラスコーリニコフを見やった。
「人殺し!」と不意に男は低いけれど明瞭なしっかりとした声で言った。P442

「お前が人殺しだ。」P443

ラスコーリニコフはぐったりとして恐怖を感じた。それは彼の理性の外からきた一打ちであった。彼は家の中で横になって自問を繰り返す。自分はこれを予感していただの、果たして自分はナポレオンであろうかだの、人類一般の福祉を待っていられるかだの、取り留めのない出鱈目な考えが渦巻いた。

エジプトに大軍を置き忘れたり、モスクワ遠征に五十万の大兵を消費したりした挙句、ヴィリナでは一切をしれのめして平気でいる。しかも死んだ後ではみんなで彼を偶像に祭り上げるんだからなぁ。して見るとすべては許されるんだ。P445

おれだってやはり生きたかろうじゃないか、ええっ、俺は美的虱だ。それっきりさ。P446

月は今きっと謎をかけてるんだ。P450

彼はソーニャの事を思い出しながら眠りに落ちてしまった。夢の中でラスコーリニコフは死なない老婆に向かって斧を振り下ろしていた。その苦しい夢の中でふと人の気配を感じ目を覚ます。そこには見知らぬ男が立っており、彼はラスコーリニコフに向って自己紹介をした。

「わたしはアルガージィ・イヴァーヌイチ・スヴィドリガイロフですよ。」p452

ドゥーニャに不作法を働いた当人であり亡くなったマルファ・ペトローヴナの夫であった。

罪と罰 あらまし - フョードル・ドストエフスキー
罪と罰 (下) あらすじ - フョードル・ドストエフスキー
罪と罰 - フョードル・ドストエフスキー, 米川正夫訳

2013年6月4日火曜日

反省と責任と被害者と

そうかもう倫理なんか死んでいるんだ。なのにその亡骸を抱えて話し始めたりするからどうしようもない。もう死んでいるよ、とはまだ言えなくて、まだどこかに生きているんじゃないかと、そんな振りしていれば僕だってどこかに探しにも行きたくなる。

疑えば脆くなり疑わなければ強固になる。それが心を安寧にする。だが安心する事は安全とは違う。安心に、根拠はいらない。安心でなく安全であるように。だが安心を望む心が強固だ。目を瞑れば暗闇がある。安心とは暗闇の中で目を瞑り暗いのは目を瞑っているからだと思う事に相違ない。眼を開ければ不安になる。

反省というものは内証の働きであるから、それが他人に知られる事はない。反省したかどうかは当人以外が知る事はない。しかしそのどうしようもないものを知りたい欲求が他人にはある。だから反省は行動で示す必要がある。行動を反省と見做す。そこに根拠はない。証明でもない。しかしそれで反省している者を強要しているのであるならば、その間は反省は成立している。そいつをコントロール下に置いているからだ。そういう性質を反省は内在しているのである。

反省とは二度としない事の確約だろう。それを他人に保証する事だ。弁明であれ謝罪であれ二度と起こさない事を他人に納得させる事だ。すると必然的にそこに内証は不要になる。内証などなくていい。行為の問題だからだ。

だから反省したように見えない、という言葉はもともと行為にしかフォーカスしていない。心の中など無意味だ。裁判で被告人は反省しており、と言うセリフが滑稽なのはそのせいだ。反省などなんとでも繕える。それでも何人かのひとりが真摯に人生をやり直してくれるなら。そういう願いと祈りで判決を決めているのだろうと思う。

行為から心の中が見えると思うから誤解する。人は単純な生き物ではない。思う事と行為が逆になる事も良くある。だから反省を強要する。それは服従である。変わるかどうかも分からぬ当人の心に期待するよりも服従せよと命令する方が話は早い。だから服従ではなければ反省と見做さぬ。それが最も確実な、二度と起こさないを保証するからである。

中国、韓国と日本の対立にもこの反省という考えが介在している。彼等は二度と起こしてくれるなと言う。日本は二度と起こさぬと言う。言動を見て本当に反省しているのかと問う。我々は心の中で十分に反省したと思っている、だがそれは後悔しただけかも知れぬ。いつ、二度と起こさぬと言ったか、それにどう答えたか、何をどうすれば二度と起こさぬと言えるかを一度でも世界に向かって説明したか。

反省とは個人の中にある自問ではない。誰かに対する応答である。応答が正しければ反省と見てもらえる。それに答える自分の中にも反省のように見え隠れするものがある。それも人は反省と呼ぶ。反省には全く異なるふたつのものがある。

責任を取れ、もまた服従の強要である。責任を取れと怒鳴っている人に、どうすれば責任を取れますか、と問う馬鹿はいない。それは怒りに油を注ぐだけだ。だが、その答えを返せる者もいない。取れと怒鳴られている方は、服従せよと言われているに過ぎない。その意を示せば終わる。責任を取れとは原状回復が不可能な時に現れる言葉だ。二度と元に戻せないのは自明だから責任を取れと言うしかない側の気持ちも分かるのである。それは感情的な興奮を鎮める為の言葉であろう。言う側にも重圧なストレスがありそこから解放されたがっている。

失った者、被害者には微かな望みがある。その望みが決して叶わない事、失ったものは決して戻らない事も知っている。だから責任を取れとは、俺の本当の望みを教えてくれという言葉でもある。加害者が提示するしか方法がない。だから加害者こそが左の頬も差し出す事が出来るのである。それが出来るまでは私は奴隷として仕えますと言うしかない。

多く、反省せよ、責任を取れ、このふたつの言葉は現代の呪文である。それはやり場のない怒りを鎮める呪文だ。反省と責任、どれほどの問題がこの言葉によって救われ、そして有耶無耶のうちに消えていってしまったか。

反省(reflection)はするものではない、するのは後悔だ。責任(responsibility)は取るものではない、執るものだ。どうしようもなくなった感情をどう処するか。加害者に向かって被害者は反省せよというしかない。責任を取れとゆうしかない。誰もそれが見えない。誰かが反省をしようが済まいが、責任がなんであろうが、それを誰も見る事が出来ない。敢えて見せろと言うならもう体を切り開いて見せるしかない。

己の中にある反省とは刀を研ぐようなものだ。そうして何度も振り返る。何故そうなったかを知りたいと深く思う。それが見つかるとは限らない。それが言葉になるかも怪しい。何度も自省して、同じ失敗は二度と起こさぬと言えるなら幸いだ。例えどれほど長く振り返ろうと分からぬ事はある、不運としか言い様のない事もある。もしあの時、ああしていればと、たった一秒が、と言えるのなら、それは反省ではなく後悔だ。

被害者意識というものがある。お客様は神様だと言われたら絶対的に正しいのだと思う。絶対的な正しさが被害者を加害者にする。だから目には目を、歯には歯をという法を必要とした。法が無ければ留まる事を知らぬからだ。それ程までに己が被害者であるという意識は強い。その根底に絶対的正義がある。だがそれを行使したならば次の加害者は自分自身だ。だから人はそれを法で制限しそこまでを許容してきた。人はそれを神に預け手放した。神が絶対的正義なら、人は神ではないのは自明である。人は絶対的正義から解放されるのに神を必要とした。

いずれにしろ日本の敗戦がもたらしたのはこの被害者意識だと思う。誰もが戦争に負けた瞬間に加担者から被害者になった。そうしなければ敗戦と向き合う事は出来なかったのだろう。己を悪人と思って生きていける者など一人もいない。同様に敗者として生きる事も認められなかった。ましてや敗戦に加担した間抜けとなって生きてゆく事など出来ようはずもなかった。誰の責任か、と問うのに都合の良い相手が軍部に多く居たのである。

被害者になる。それが社会的な強者を生む。誰もが己の中に正義の萌芽を持っている。それは絶対的正義という立場に立つことで鎌首をもたげる。被害者である事が、自分には何の落ち度もない、悪いのは相手であるという正義の立場を生ずる。福島原子力発電所事故もまた同様の被害主意識を生み出した。その多くは直接の福島およびその近郊に居た被害者ではない。

自民党の公約に騙される。昔からそうだった。上手に騙されたならば、誰も被害者面を晒す訳にはいかない。それは自分の間抜け面を晒すだけだからだ。誰も自分が間抜けとは思いたくない。だから騙されていない事にする。結果が出れば恭順するのが世の習わしだ。

上手に騙された者こそが支持者になるのである。民主党は騙し方が下手だった、それだけの違いである。そういう心理で支持は起きるものである。騙された者は、己が騙されていないという状況を作り上げたい。自分に嘘を付く事は難しい。だが人は変わる事が出来る。自分の中を覗けばどのような予感も好意も見つかるものだ。わたしは彼等をはじめから支持していたのだと。

被害者が加害者に変わる。そうしなければ精神が保てない。カウンターパートとしての揺り戻しが起きる。弱いものが更に弱いものを叩くは誰が見ても慧眼なのである。そこに対立がある。加害者と被害者が一瞬で入れ替わる。もちろん最初の加害者を許してはならない。罰するべきだ。だが加害者の反省とは何だ。そして反省せよと迫る者は、新しい加害者になりたいだけなのか。その何れも絶対的正義と対峙するのであろう。もし反省というものが、自分の中に絶対的正義を宿したくて、それで安心したいだけなのであれば、それにどのような意味があるだろうか。神のものは神に返すべきである。

僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。大事変が終った時には、必ず若しかくかくだったら事変は起こらなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。必然といふものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさへなければ、起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性といふものをもっと恐ろしいものと考へている。僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいぢゃないか。

君のいう意味がはっきりしないが、必然性というものは図式ではない。僕の身に否応なくふりかかってくる、そのものです。僕はいつもそれを受入れる。どうにもならんものとして受入れる。受入れたその中で、どう処すべきか工夫する。その工夫が自由です。僕の書いたものは戦争中禁止された。処が今だって出せるかどうかあやしいものだ。出ないものは出ないで一向構わぬ。

小林秀雄 百年のヒント コメディ・リテレール P136

手の隙間からこぼれ落ちた砂粒が取り返せないように、壊れた花瓶が戻らないように、時間は止まらぬ。私の中で反省は時間を遡りその時間をもう一度生きてみる事だ。反省を他人に求めるとは時間を元に戻そうとする事だ。全く違う。

手に触れて曲線をなぞってみる。もう一度なぞってみる。その手の動きが反省だとすれば、それは誰のものにもならない。反省とは時間を止める事ではない。巻き戻す事でもない。其の出来事を抱えて未来を生きる事だ。それは誰もが今を生きる、そのものだ。