疑えば脆くなり疑わなければ強固になる。それが心を安寧にする。だが安心する事は安全とは違う。安心に、根拠はいらない。安心でなく安全であるように。だが安心を望む心が強固だ。目を瞑れば暗闇がある。安心とは暗闇の中で目を瞑り暗いのは目を瞑っているからだと思う事に相違ない。眼を開ければ不安になる。
反省というものは内証の働きであるから、それが他人に知られる事はない。反省したかどうかは当人以外が知る事はない。しかしそのどうしようもないものを知りたい欲求が他人にはある。だから反省は行動で示す必要がある。行動を反省と見做す。そこに根拠はない。証明でもない。しかしそれで反省している者を強要しているのであるならば、その間は反省は成立している。そいつをコントロール下に置いているからだ。そういう性質を反省は内在しているのである。
反省とは二度としない事の確約だろう。それを他人に保証する事だ。弁明であれ謝罪であれ二度と起こさない事を他人に納得させる事だ。すると必然的にそこに内証は不要になる。内証などなくていい。行為の問題だからだ。
だから反省したように見えない、という言葉はもともと行為にしかフォーカスしていない。心の中など無意味だ。裁判で被告人は反省しており、と言うセリフが滑稽なのはそのせいだ。反省などなんとでも繕える。それでも何人かのひとりが真摯に人生をやり直してくれるなら。そういう願いと祈りで判決を決めているのだろうと思う。
行為から心の中が見えると思うから誤解する。人は単純な生き物ではない。思う事と行為が逆になる事も良くある。だから反省を強要する。それは服従である。変わるかどうかも分からぬ当人の心に期待するよりも服従せよと命令する方が話は早い。だから服従ではなければ反省と見做さぬ。それが最も確実な、二度と起こさないを保証するからである。
中国、韓国と日本の対立にもこの反省という考えが介在している。彼等は二度と起こしてくれるなと言う。日本は二度と起こさぬと言う。言動を見て本当に反省しているのかと問う。我々は心の中で十分に反省したと思っている、だがそれは後悔しただけかも知れぬ。いつ、二度と起こさぬと言ったか、それにどう答えたか、何をどうすれば二度と起こさぬと言えるかを一度でも世界に向かって説明したか。
反省とは個人の中にある自問ではない。誰かに対する応答である。応答が正しければ反省と見てもらえる。それに答える自分の中にも反省のように見え隠れするものがある。それも人は反省と呼ぶ。反省には全く異なるふたつのものがある。
責任を取れ、もまた服従の強要である。責任を取れと怒鳴っている人に、どうすれば責任を取れますか、と問う馬鹿はいない。それは怒りに油を注ぐだけだ。だが、その答えを返せる者もいない。取れと怒鳴られている方は、服従せよと言われているに過ぎない。その意を示せば終わる。責任を取れとは原状回復が不可能な時に現れる言葉だ。二度と元に戻せないのは自明だから責任を取れと言うしかない側の気持ちも分かるのである。それは感情的な興奮を鎮める為の言葉であろう。言う側にも重圧なストレスがありそこから解放されたがっている。
失った者、被害者には微かな望みがある。その望みが決して叶わない事、失ったものは決して戻らない事も知っている。だから責任を取れとは、俺の本当の望みを教えてくれという言葉でもある。加害者が提示するしか方法がない。だから加害者こそが左の頬も差し出す事が出来るのである。それが出来るまでは私は奴隷として仕えますと言うしかない。
多く、反省せよ、責任を取れ、このふたつの言葉は現代の呪文である。それはやり場のない怒りを鎮める呪文だ。反省と責任、どれほどの問題がこの言葉によって救われ、そして有耶無耶のうちに消えていってしまったか。
反省(reflection)はするものではない、するのは後悔だ。責任(responsibility)は取るものではない、執るものだ。どうしようもなくなった感情をどう処するか。加害者に向かって被害者は反省せよというしかない。責任を取れとゆうしかない。誰もそれが見えない。誰かが反省をしようが済まいが、責任がなんであろうが、それを誰も見る事が出来ない。敢えて見せろと言うならもう体を切り開いて見せるしかない。
己の中にある反省とは刀を研ぐようなものだ。そうして何度も振り返る。何故そうなったかを知りたいと深く思う。それが見つかるとは限らない。それが言葉になるかも怪しい。何度も自省して、同じ失敗は二度と起こさぬと言えるなら幸いだ。例えどれほど長く振り返ろうと分からぬ事はある、不運としか言い様のない事もある。もしあの時、ああしていればと、たった一秒が、と言えるのなら、それは反省ではなく後悔だ。
被害者意識というものがある。お客様は神様だと言われたら絶対的に正しいのだと思う。絶対的な正しさが被害者を加害者にする。だから目には目を、歯には歯をという法を必要とした。法が無ければ留まる事を知らぬからだ。それ程までに己が被害者であるという意識は強い。その根底に絶対的正義がある。だがそれを行使したならば次の加害者は自分自身だ。だから人はそれを法で制限しそこまでを許容してきた。人はそれを神に預け手放した。神が絶対的正義なら、人は神ではないのは自明である。人は絶対的正義から解放されるのに神を必要とした。
いずれにしろ日本の敗戦がもたらしたのはこの被害者意識だと思う。誰もが戦争に負けた瞬間に加担者から被害者になった。そうしなければ敗戦と向き合う事は出来なかったのだろう。己を悪人と思って生きていける者など一人もいない。同様に敗者として生きる事も認められなかった。ましてや敗戦に加担した間抜けとなって生きてゆく事など出来ようはずもなかった。誰の責任か、と問うのに都合の良い相手が軍部に多く居たのである。
被害者になる。それが社会的な強者を生む。誰もが己の中に正義の萌芽を持っている。それは絶対的正義という立場に立つことで鎌首をもたげる。被害者である事が、自分には何の落ち度もない、悪いのは相手であるという正義の立場を生ずる。福島原子力発電所事故もまた同様の被害主意識を生み出した。その多くは直接の福島およびその近郊に居た被害者ではない。
自民党の公約に騙される。昔からそうだった。上手に騙されたならば、誰も被害者面を晒す訳にはいかない。それは自分の間抜け面を晒すだけだからだ。誰も自分が間抜けとは思いたくない。だから騙されていない事にする。結果が出れば恭順するのが世の習わしだ。
上手に騙された者こそが支持者になるのである。民主党は騙し方が下手だった、それだけの違いである。そういう心理で支持は起きるものである。騙された者は、己が騙されていないという状況を作り上げたい。自分に嘘を付く事は難しい。だが人は変わる事が出来る。自分の中を覗けばどのような予感も好意も見つかるものだ。わたしは彼等をはじめから支持していたのだと。
被害者が加害者に変わる。そうしなければ精神が保てない。カウンターパートとしての揺り戻しが起きる。弱いものが更に弱いものを叩くは誰が見ても慧眼なのである。そこに対立がある。加害者と被害者が一瞬で入れ替わる。もちろん最初の加害者を許してはならない。罰するべきだ。だが加害者の反省とは何だ。そして反省せよと迫る者は、新しい加害者になりたいだけなのか。その何れも絶対的正義と対峙するのであろう。もし反省というものが、自分の中に絶対的正義を宿したくて、それで安心したいだけなのであれば、それにどのような意味があるだろうか。神のものは神に返すべきである。
僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。大事変が終った時には、必ず若しかくかくだったら事変は起こらなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。必然といふものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさへなければ、起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性といふものをもっと恐ろしいものと考へている。僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいぢゃないか。
君のいう意味がはっきりしないが、必然性というものは図式ではない。僕の身に否応なくふりかかってくる、そのものです。僕はいつもそれを受入れる。どうにもならんものとして受入れる。受入れたその中で、どう処すべきか工夫する。その工夫が自由です。僕の書いたものは戦争中禁止された。処が今だって出せるかどうかあやしいものだ。出ないものは出ないで一向構わぬ。
小林秀雄 百年のヒント コメディ・リテレール P136
手の隙間からこぼれ落ちた砂粒が取り返せないように、壊れた花瓶が戻らないように、時間は止まらぬ。私の中で反省は時間を遡りその時間をもう一度生きてみる事だ。反省を他人に求めるとは時間を元に戻そうとする事だ。全く違う。
手に触れて曲線をなぞってみる。もう一度なぞってみる。その手の動きが反省だとすれば、それは誰のものにもならない。反省とは時間を止める事ではない。巻き戻す事でもない。其の出来事を抱えて未来を生きる事だ。それは誰もが今を生きる、そのものだ。
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