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2018年6月16日土曜日

TOYOTA Design

SUPRA

スープラの美しさがある。当時見た時には何の印象も残さない変哲のないデザインであったのに。時代が過ぎると美しさだけが迫ってくる。

(TOYOTA SUPRA)

なぜであろうか。今では美しいこの車も当時は、ただ美しいだけの車であった。少なくとも僕にはそう見えた。僕は革命を求めていた。時代を切り開くデザインを待っていた。これまでにないデザイン、今日を過去にするデザイン、明日を一色に染めあげるデザイン。それが僕の基準であった。

存在するだけでは、美しいだけでは革命と呼べぬ。時代の最先端にある限り、先端を切り裂かねばならない。これはスープラの美しさとは何も関係ない話である。時代はひっくり返らなければならない。時代を新しいステージに上げないものに価値はない。そう思っていた。

この車の美しさというものは、もちろん、全体がそうなのではない。非常に美しいひとつのカーブが側面にある、それが全体の中ではっきりと存在し、美しさが、様々な部分へ流れてゆく。ひとつの流れが別の流れを規定する。まるでこのパーツはそこになければならぬ、というような主張をする。

美しい花とは、ひとつの美しいラインのことだ。そのラインによって全体が支配されるそのか弱さを花の美しさと呼んで何の差し支えがあろう。

デザインの本流

デザインには二つのアプローチがある。

ひとつは平面を組み立てて構成する立体、ひとつは曲面を組み合わせて構成する立体。ひとつは骨組みで形成する立体、ひとつは面で形成する立体。ひとつは平面を削って中から取り出す彫刻、ひとつは固まりを加えて大きく造形する彫塑。ひとつは輪郭で見せる立体、ひとつは影で見せる立体。

絵の上手い人は二次元に三次元を再現する。二次元空間の中に三次元を投射する。ということは三次元の中に、二次元を見出す道もあるはずだ。

人間の目もカメラであるから、脳に送られる瞬間の像にはフォーカスの合っている鮮明な場所と、ピントの合っていない不鮮明な場所が混在しているはずである。だが、我々が見ている世界にピントのずれた場所などないはずである(近視など理由あるものは除く)。

脳はそうならないように自動で処理している。短い間隔でフォーカスを変え眼球の向きを変え、複数の画像から一枚の世界を作り出している。不鮮明な箇所は鮮明な像で置き換え、盲点は別の画像で補完する。だから錯覚も起きる。

意識は加工後の画像を認識する。無意識にはもっと多くの情報が存在しているが、それを意識に上げないのは、その方が進化的な選択に適ったからであろう。

特に意識しない限り、我々はこの世界を二次元として脳内に構成している。それが証拠に片目で見ても世界は何も変わらない。眼鏡などのガラス越しだとその感じはより一層強く感じられる。三次元だと認識するのはそれ自身が既に錯覚なのである。

二次元空間として構成された世界を三次元空間に再構成するのが上手な人は、この無意識下の仕組みに意識が鋭敏な人、または訓練によって鍛錬した人であろう。

三次元的に空間を把握するのに、一枚の画像では足りない。

全てのピントが合っているとまるでCGのように感じられて遠近感は得難い。だがそれが動けばCG独特の空間が得られる。これは交差による遠近感の獲得と思われる。

これに、ピントのぼやけを組み合わせれば、物造の輪郭は際立ち、遠近感もより鮮明に得らるだろう。複数の画像があれば、それぞれの画像の差異から空間が識別できる。二次元では遠近法が最も有力な三次元空間の認識手段であるが(その他にも上にあるものほど遠いなどがある)、複数の画像があれば他の方法もある。

RAUM

ラウムを悪くないと感じるのに十年かかった。

この穏当にパッケージングされた車がもつ特色も面白みもない平凡さは、まるで目立つ事を恐れるかのようなデザインである。だから詰まらないと思ったのが早計であった。細部をじっくり見ると決して悪くない。それぞれの曲線が実にきれいに仕上げられている。トヨタ車の特徴のひとつである後部ドアが持つカーブの美しさも際立つ。

(TOYOTA RAUM)

AQUA

AQUA の展示を見たとき、驚いた。まるでタイヤの軸を目線としてそこから見上げる時に最も美しくなるようなデザインされたのではないか。日常生活では決して目にできない視線。まるで整備士のためだけに美しく仕上げたのか。

(TOYOTA AQUA)

リアガラス

AQUA は後ろの屋根で調和している様な所がある。あそこを無残に切り落とせばこの車のデザインは全て台無しになる。

多くのトヨタ車はリアガラス上部の断ち切りが直線である。すべてのトヨタ車に共通するこの直線的な切り取りは、機械で無機質的に切り落とされたかのように感じる。なぜこの直線なのか。

リアバンパーの丸みやランプ類などの柔らかさ、かわいらしさ。しかしリアガラスの直線。後ろ姿を構成する曲線とはまるで別世界にある調和を拒絶するような直線。もしかして、ここに TOYOTA らしさを感じるのだろうか。

ほんの少しの丸みでもあれば全く違う印象を与えると思うのだが。製造工程でどうしても回避できない問題でもあるのだろうか。

(TOYOTA PASSO)


(MITSUBISHI i)


(HONDA Fit)


(NISSAN NOTE)

TOYOTA FT-1

FT-1を見て、初めてトヨタらしさを感じた。これはスープラに違いない。そう思えるデザインを見た気がした。


(TOYOTA FT-1)

パッケージングのこと

トヨタのデザインは無個性である。空力だけで決定したような面白みのなさがある。だから機能美を感じない。どれもこれも与えられた包装紙に過ぎない。セダン、ワゴン、ファミリーカー、多種多様な車の中に TOYOTA の主張は聞こえてこない。この姿形は機能を単にパッケージングしたに過ぎない。

多くの人の意見を漫然と取り入れた、角もなくえぐ味もない最大多数の調和、誰もが納得する妥協、多くの人の不快を取り除いたデザイン、誰もが一定以上の満足はする、不満のないデザイン。

わずか数ミリ違う。その数ミリの差が全体の印象を変える。ここがこれだけ離れているのなら、あそこはもっと狭くなくては辻褄が合わない。一貫性のないデザイン。そういう印象を受ける。

部品毎に違う人がデザインしてものを寄せ集めてまるでひとつにしたかのような。分業でデザインし、それをひとつに纏めるパッケージングの力量。まるでメッセージに欠ける。誰かの声が聞こえてこない。そういう印象。

デザインのこと

12神将を見た時に感じた。日本のデザインはシルエットで魅せると。シルエットにどうしようもない美しさがあって、服だの顔立ちは表面の模様である。シルエットを際立たせるためにある。模様は服飾だろうが装飾品だろうが目鼻立ちだろうが何でも構わない。一方のヨーロッパのデザインはどうか。それは影がとても大切な役割をしているように思える。


だからTOYOTA SIENTAが影の代わりに太い線を入れたのには納得できた。

(TOYOTA SIENTA)

スープラのシルエットがある。

立体としてのフォルムがある。シルエットはフォルムからすれば二次元的な一場面に過ぎない。角度を変えれば、様々に異なった輪郭が表出する。フォルムが三次元ならば、シルエットは角度によって変わる二次元である。

日本はこのシルエットをフォルムの影として造形する。ヨーロッパはフォルムそのものが持つ影で造形する。この違いが車のデザインに影響しないはずがない。そう思っている。

トヨタのデザインにはヘッドライトやウインカーなどの付属品をぜんぶ取っ払ってみなければ分からない美しさがある。その理想とする形に余計な付属品を取り付けた形で走らせている。トヨタはそういうデザインをしている。