導入部
超電磁ロボコンバトラー(1976)の第一話は無敵超人ザンボット3(1977)の第一話と同じだと気付いた(時制は逆)。バイクを駆って移動しながらキャラクターの性格を活写する。そして敵と相対する。それがロボットに導かれる理由になる。この流れがとてもよく似ていてデジャヴである。いかに主役メカへ搭乗するか。この導線が作品のコアになる。マシーンに乗る事は明らかだしそれは来るべき未来だ。それは作中の人物にとっても視聴者にとっても。だからどんな経路でそこに至るのか、そのシチュエーションに全力を注ぐ。
第一話の類型は何種類かある。最初から訓練を受けている。呼び出されて搭乗する。偶然みつけて搭乗する。用意された物体は博士が作ったものか、遺跡か、異星人からの贈り物か。
マジンガーZ(1972)は祖父の莫大な財産から生まれた遺産を受け継いだ。鋼鉄ジーク(1975)は出自がロボットであった。コンバトラーは知らぬ間に選抜されていた。ザンボットは祖先の財宝であった。機動戦士ガンダム(1979)は偶然乗り込んだ。小説では最初から軍人だった。聖戦士ダンバイン(1983)は異世界から召喚された。
作品の数だけ導入部がある。基本的な構成は直ぐに尽きた。その先に七転八倒が待っていた。これまでにない初回を捻りだす事。
子供が社長(無敵ロボトライダーG7(1980))、宇宙の水戸黄門(最強ロボダイオージャ(1981))、孫悟空(SF西遊記スタージンガー(1978))、何かが新しい。何周も回って何が面白いか分からなくなりそうだった。
後継作品
その点で後継作品はコンセプトを再利用できる利点があった。グレードマジガー(1974)は最初から訓練を受けていて不自然さはない。超電磁マシーンボルテスV(1977)は訓練から始まっても違和感はない。どうせせうなるのだから。後継作品には制約がある。ロボットの存在は疑わなくていい。前作とはここが異なりますと宣言するだけで始めてよい。説明から宣言へ、これが後継作品の利点であり、つまり短所。
読者は作品を早く動かせと要求する。それが後続作品を見るものたちの特権がある。分かり切ったものの説明は不要。その代償として、主人公たちの存在感が弱い。後継作の人物は前作の焼き直しで十分だから。前作の主人公を超える事が難しい。その必要もない。
最初の主人公に持っていた好感を後継作品の主人公が超える必要はない。剣鉄也の兜甲児への嫉妬は後継作品が抱える問題点を吐露している。ストーリーとしての嫉妬ではない。後継作品が抱える構造的に不可避な状況に対するいらだちでもある。
ガンダムとリアルロボ
ガンダムがリアルロボットを切り開いた。そしてその他をスーパーロボットと再定義した。リアルロボットであるための要件は何か。
軍隊およびそれに類する官僚組織の存在、太陽の牙ダグラム(1981)、超時空要塞マクロス(1982)、装甲騎兵ボトムズ(1983)、銀河漂流バイファム(1983)、機動警察パトレイバー(1988)。どれも官僚組織によってロボットという暴力装置が運営されている。ある意味で視聴者は破壊の罪悪感を感じなくてよい。それは命令だから。
次に工業製品。メーカの製造品。ザンボットには自衛隊は登場したが、メーカーが製造した機体ではないためにスーパーロボットに分類される。
伝説巨神イデオン(1980)も異星人の遺跡からの出土品なのでスーパーロボット。最終的には現代技術(の延長)では作れそうにないという感覚がある。
そしてロボットを運搬する装置も工業品である事。どれほど優れたデザインであってもビアルI世は現代技術では作れそうにない。
これらの条件がロボットの世界観をふたつに分類した。
マクロスとクラシック作品
マクロスの第一話には衝撃を受けた。その興奮が何であったか。それ以前のロボットをクラシックにしたという解釈(山下いくと)にはハッとさせられる。何が新しいのか。その正体はよく分からない。デザインか、変形か、軍の新しさか。あの第一話の何に圧倒されたのだろう。
F-14ベースのデザイン。格納庫からの発進する空母のメカニズム。空母が主役となった初めての作品だった気がする。宇宙空母ブルーノア(1979)は空母の顔をした戦艦だ。
マクロスと比べればガンダムも戦艦が登場する作品である。マクロスで初めて空母が、それも現代の米軍ベースの兵器が登場した。
戦艦中心の世界観から、空母中心の世界へ。それが意味するのは戦艦による第二次世界大戦の踏襲から、空母による戦後への切り替え。敗戦を抱えていない初めての軍だったのではなかろうか。
マクロスがジェット戦闘機であるのも戦後的。宇宙戦艦ヤマト(1974)の旧帝国海軍の匂いがない。ガンダムでさえジオンというナチス的な連想が残っている。
マクロスの世界観は戦後の米海軍がモデル。主力が空母、ジェット機。ロボットアニメに投入された初めての戦後。なおダグラムのコックピットもAH-1コブラで戦後的だった。ただ作品がゲリラ的なので連想させるのはベトナム戦争時代。マクロスはそれよりも時代は未来的な感じがする。
ガウォークの変形は造形的に新しいと思った。勇者ライディーン(1975)のゴッドバードだって新しかった。無敵鋼人ダイターン3(1978)の変形だって新しかった。大鉄人17(1977)の変形もそれなりにリアルだった。その意味では造形が新しかった筈はない。しかし動きが新しい。速度が早い。それだけでこれまでの陸軍から空軍の速度に変わった。
そういう初めのての試みだったと思う。航空機という概念が主題としてあったから、デストロイドなどの対空兵装がとてもリアルで近代的に見えた。
それでもマクロスは途中で見なくなった。そのテーマが戦争と文化という極めて攻めたものであったにも関わらず、面白いとは感じなかった。その理由は恐らくは戦闘シーンが宇宙を舞台にしたからだ。それはもう従来の作品と似かよったものに戻った。宇宙空間の戦闘はマクロスを新しいものにはしなかったと思う。マクロスの斬新さは海軍でありジェット機だった。地上では斬新だったのに宇宙空間では平凡だった。
マクロスの超合金は他を圧倒する完成度の高さだった。この変形は子供だましではなかった。これを超えたのはボトムズの超合金だけと感じた。超合金魂が今の所ゲッターロボ(1974)以外はほぼ網羅した。
エポックメーキング作品群と戦後
日本の戦後は、思うに、敗戦と向き合い敗戦をやりなおした。勿論、歴史を唯一の視点で解釈する事は愚かだ。ひとりの人間の中にさえ多くの葛藤がある。それを唯一の真実で切り刻む事は切り捨てるものが多すぎる。歴史はどれだけ刻まれようと目の前にある。その前で人間にできる事は解釈だけである。ひとつの解釈がある、別の解釈がある、それが恐らく歴史の権利であり、継承である。
なぜ日本はアメリカに負けたのか、またはなぜアメリカを永遠の敵としたのか。戦後の日本がモータリゼーションでアメリカに並び得たのは、ひとつにはエンジンで負けたという思いが残ったからだ。ここをやり直さずに何も始められない。そういうエンジニアたちの想いが車に、鉄道に、土木にも貪欲に取り組ませた。
こういう戦後の主題がアニメーションや漫画に浸透しない筈もない。ここから逃れて表現などできない。多くの表現者たちもエンジニアと同じように怯まず屈するでもなく貪欲にアメリカを飲み込んでいった。
新宝島の映画的表現に見たものはアメリカだったと思う。洗練された手塚の筆致もアメリカ的だ。コマの展開がアメリカを連想させたのだとしたら、それは昨日まで敵であり憎しみの対象だったものが日常に入り込んできた瞬間だったと思える。その驚愕は、単に表現の斬新さだけではなく、アメリカをもう敵対視する必要がないという心の底からの実感だったのではないか。戦争はここで終結した。
そして昭和という時代は手塚治虫の死去によって終わった。そういう実感がある。
鉄腕アトム、鉄人28号の奥にあるもの。もしこの兵器があったなら日本は敗北せずに済んだ。我々に足りなかったものは技術である。工学である。日本中がエンジニアリングに邁進した。そのひとつの頂点であり結実がマジンガーZだ。
そのマジンガーZの最終話が敗北なのは何か象徴的に思う。敗北という現実を再び突きつける。ひとつの到達点が新しい敗北を呼び込む。それは日露戦争の勝利と日中戦争、対米戦争の敗北であろうか。
敗北から立ち直るストーリーが必要なのか。何度も繰り返し。そのような蕩尽しか知らないのではないか。だから再びそのような決断へと突き進んでも不思議はない。
ガミラスによって敗北寸前で地球艦隊には残存兵力がない。これは戦争末期を連想させる。ガミラスのナチス的な部分も先の大戦の連想させる。大空襲と遊星爆弾は同じものだ。ガミラスは枢軸国である、だからナチスだけではなく戦前の日本も含まれる。宇宙戦艦ヤマトは戦争中の日本を代表する兵器でありながら、その中に乗り込んでいるのは戦後の若者たちである。
ふたつの象徴性を混在させ描いた勝利への筋道。宇宙戦艦ヤマトが内包する戦前と戦後の日本。倒すべき戦前の軍国主義。正義となるアメリカ的なもの。それでも古代のメッセージは戦前は単純に倒せばいいだけの相手ではないと言い切った。
ヤマトは先の敗戦をもう一度やりなおすシナリオである。それを可能としたのが波動エンジン。エンジンさえあればあの戦争に我々は勝てたのか、そういう所に視点は集中してゆく。波動エンジンはそれを象徴する。更には自分たちはそれを開発できなかったという点も何かを暗示する。我々の深層心理は相当に正しく現状を把握しているらしい。
敗戦を歴史として活写した作品に決断(1971)がある。だがこの作品が日常の中に入り込む事はなかった。
さらば宇宙戦艦ヤマト(1978)に登場する戦艦アンドロメダは戦後を象徴する。その艦影は護衛艦色に塗られている。この戦艦は戦前戦中の船ではない。明かに戦後を象徴する存在。それが彗星帝国を前に壊滅するのも何かの隠喩だろうか。
ガンダムの画期性は作中に官僚機構を取り入れたにあると思う。ジオンというナチス的な独裁的な国家と連邦という民主主義的な国家の対峙。決して軍隊同士の対峙ではない。これは事変ではない。国家同士の戦争である。国家があり軍組織がある、この描写が大発明だった。
それがガンダムというフレームワークの基礎となった。国家的野心なく戦争はない、それは当然に、枢軸国と連合国の対比として始まっている。
そしてエヴァンゲリオン(1995)は完全に戦前から切り離された。近代の軍隊と民主主義国家。そこにはもう戦前の匂いはどこにもない。そんなものが通用する時代は既に終わった。作り手たちだって知らない。だがそれは単なる世代交代ではない。歴史を知らないからでもない。アメリカが日々取り込まれ消化され日常となっていった証だろう。異端も革新もいつかは日常の平凡になる。
庵野作品
どんな作品も読者の歯車を回転させるシーンがある。ヤマトの冥王星沖海戦の敗北。フリーレンの断頭台のアウラの自死。怪獣八号に対するレノの態度。何かを切っ掛けにスイッチが入る。そういうポイントがある。それぞれの恐らく見る人の数だけ。凡そ全て、矛盾を明示した瞬間だと思う。物語の流れは自然なのに、そこに何かの違和感がある、世界が成立するために抱えた矛盾。ここには何かがあるという予感。謎がこれを先に進める。視聴者の中にある矛盾にヒットする。この矛盾が自分が許容できるリアリティの境界線でもある。
庵野秀明作品には絶望的な状況が用意されている。ここを頂点とするためにそこまで作品を運んでゆき、絶望的状況を描写し、そこから回復を始める。エヴァもゴジラも。そして恐らくはヤマトも。不可能と思えるリカバリをどう提示するか。破壊というカタルシスからの復活、この無理を通す事が庵野作品の矛盾と思われる。
エヴァには幾つもの最終話があるが、最も安寧なる𝄇がリリースされるまで視聴者の要求は止まらなかった。
転生ものの構造
人間は力を渇望する。一般的には力は富、肩書、ステータス。これらへの希求は物語にも投射される。転生ものはそのエッセンスを昇華したような所がある。簡易に力を得る設定、現実とはコミットしない新世界、幾つかの試練や挫折があってもリカバリ可能な設計、ご都合主義であっても簡易に短時間に得られる万能感の物語。この構造は神話が提供するものとそう遠くないと思う。赤川次郎が多くの事を現実で経験する前に小説の中で体験したと語るように、ギルガメッシュ神話や神話が経験であったように、異世界転生も経験のひとつ。
転生ものに登場する人間以外の種族、魔物、亜人、獣人に対する侮蔑や優越、奴隷制度、その多くが17世紀頃の魔法と馬車の世界。そこでは虐殺や殺害も罪ではない。現実から乖離できるIfの世界。ここでは獣人を奴隷とする時に黒人奴隷の歴史を連想する必要はない。
無視してもよいが、それでも幾つかの道徳的な価値観や善良さは必要らしい。奴隷制があろうとよく奴隷主でない作品はやはり多くの人の指示は得られないであろう。ここで欲しいのは万能感であって、良心の痛みではない。
その世界に必要なもの。良心の痛みを必要としない敵の存在。それを無双できる魔法的力。
野獣を殺す事に躊躇はいらない。70年代にはそれが宇宙人であった。改造人間であった。それ以前は、恐らく未開の人たちであった。次第に殺せる範囲が狭まっている。世界が広がるにつれ敵が難民のように別の場所へ追われてゆく。
実験動物に反対し、捕鯨に反対する人たちがいる。そんな事が言えるのは食うのに困らないからだ。飢えていればそんな主張をする余裕はない。肉食に反対しながら植物には躊躇しない。ジャングル大帝(1965)は昆虫食を暫定的な解決とした。キリストは麦は死ぬべきと言った。家族と呼ぶ家畜が明日は売らる。
物語はこの世界を射影する。忘却や切断にも痕跡はある。第一話に込められた製作者たちの思いがある。作品は時代を超えて別のメッセージを発信し始める。