選択と集中
選択と集中は、それまでのモデルのアンチテーゼとして提唱されたのだから、それ以前と比較する事は意味を関係性をもって明瞭化する。選択と集中の前にあったのはバブル景気。そこでは余剰資金による拡大と多角化が目指された。それは資金の膨張に比例した投資である。その目的は次の時代に対応して競争力を高める事。
余剰による拡大と多角化は、新規の投資先の開拓の事である。本来の事業以外への投資が可能になった。これが、経済の隅々にまで波及し豊かさが浸透しようとした。明るい未来を夢見させたが、その本質は模索であった。
既知の知識をより深く探索するか、未知の部分を広く探究するか。基礎的研究か、応用研究か、そのどちらかしかない。余裕があるからチャレンジできた。その意味で、リスク回避を十分に計上し突き進んだ道である。
そして、その程度のガッツだから成果もなく撤退する羽目に陥った。バブル経済の終点さえ想定しないくらいに浮かれていたし、これだけの大不況が明るい未来のすぐ隣にあるとは思いもしなかった。予兆は来てみるまでは分からないものである。大部分は警戒さえしなかった。その程度でリスク回避と言われても笑う。詰まりは、これらのチャレンジに特に深慮はなかったと思われるのである。
その点で明治の人々は偉かった。幾ばくかの勝機はあったにせよ、殆ど何の余裕も根拠も目途もなくリスク回避さえ貧弱な状況でチャレンジした。
投資先の拡大と多角化の反対が選択と集中であるから、事業縮小の選択と集中である。バブル期の多角化には、時代が新しくなりつつある予感はあったと思われる。だから選択と集中には新しさからの撤退というニュアンスも含まれる。何かを模索する余裕さえない。現状維持が精一杯。
資金が潤沢なら失敗にも寛大でいられる。これが余剰の最大の効果だろう。それも失ったという事はもう噓をつくしか残っていないという事でもある。
バブルは完璧に弾けた。それが道連れに流し去ったものの価値は決して無視できるものではない。
バブル崩壊
撤退と呼ばずに転進と呼ぶ。縮小の代わりが選択。戦線の縮小を転進と呼び、事業停止を集中と呼ぶ。最初から負けるための作戦。如何に整然と兵を退くか、如何にパニックの遁走を回避するか。選択とは多くの中から選ぶ事。つまり全ては選べないという意味である。その時にはこちらのリソースが足りない訳だが、対象が膨張しているのか、こちらが縮小してからか。相対的には同じであっても現象は異なる。どちらの資源がより深刻であるか。
バブル崩壊は、余剰資金の消失を伴い経営を襲った。どれくらいの消失かといえばゼロを超えてマイナスまで及んだ。拡大と多角化は停止し、それでも収まらないなら引きあげる。選択し限定する必要がある。これが多くの取引の中で連鎖する。急激に取引の量が減ってゆく。
何を切り捨てるか。どういう理由で、どういう方法で。切り捨てたものがその後どうなるか。ひっそりと消えるのか残るのか。消えたものは二度と戻らないのか。ならばせめて保存くらいはしておくべきではないか。
目の前の経済的危機において、次世代に残す手だても失われる。明確な断絶が起きる。それでも未来がどうなろうと今を生き残るべきである。
生き残りの手探りの中で、多くの、本当に沢山の信頼関係が消えていった。二度と信頼しない、この深く刻み込まれた警戒感は、強く経済活動の中心で負の遺産としてこの国の経済を支配している今も。
忘却の中で、失われたものは今も地中に埋もれたり海を流れている。その幾つかは洞窟に描かれた壁画の様にその発見を待っているに違いない。
撤退
同じ線上を右に行くか左にゆくか。バブルになれば右へ行き、弾ければ左に行った。その意味で、拡大も縮小も同じ活動であった。何も変わらないものであった。ゆえに選択と集中には何ら希望はない。それ以外の何かが必要である。ぶらぶらと探すべきである。無目的と手当たり次第。そういう方法でなければどうしようもない。すると予算はどうする、という話になる。だから多くに人々はこう返すしかない。趣味としてやるしかない。
だが、よく考えれば江戸時代の多くの学者たちの研究もすべて趣味の範疇で行われたものである。論語の研究も、国学の研究も、すべてそれぞれの人の趣味である。つまり人生を賭してやっていたものである。
いつから職業でなければ碌な研究ができないというような話になってきたのだろう。金をもらってやるならそこには様々な制約があるに決まっている。月ロケットを打ち上げるならペテンもナチスもやむ負えないにしても、支配されれば自由を失う。
どれかを捨てるなら自由意志で行いたいものである。だが、選択と集中に自由意志はない。予算を減らします、選んでください、ただそう言われているだけだからだ。
官僚とは言葉を紡ぐ事を生業とする。そこで優れた絹織物を織る者もいれば劣悪なペテン品を納品する者もいる。公文書にはそのどちらの側面があるが、忖度が出世の最大の方法論となったのはたかが2012年からである。そこからたった15年程度で完全に倒壊した。
捨てるものを選択せよ、断固守り抜くものに集中せよ。どうみても敗戦である。
我々はこれから撤退し要塞に駆け込み防衛戦に入る。援軍が来るかどうかも分からない。援軍とは未来の事だ。現状を変える何かが生まれる事に期待する。それまでは、我々は緩やかな没落の中で現状維持に努める。
選択と集中とはこれから撤退戦を始めるという宣言。
敗戦
そんなやり方でうまくいくのか。太古から撤退戦というものは困難と決まっている。被害は避けえない。では撤退によって何を守りたいのか、これが選択。その為に最初に逃すものは何か、これが集中。という事は、撤退戦では被害に合う連中が生まれるという事だ。この時、それはどのような人たちか。日本帝国陸海軍は撤退を秘する事で自分たちだけが中国大陸から逃走した。関東軍は大陸に住む帝国臣民の多くを殿として活用した。残された日本人に手を差し伸べたには中国の人たちであった。
バブル崩壊後の選択と集中とは、富裕層を生み出すための根本原理となった。うまくやった者たちは成功する。失敗したものたちは貧民になる。自助も自己責任もこれらを全面に押し出すのは都合がいいからだ。被害者意識を持たずに自分を責める人間ほど御し易いものはない。自助自立ほど小さい政府に都合の良い市民はない。
撤退戦で成功したひとつの事例に太平洋戦争がある。何をやってもアメリカ軍を押し返す事は能わなかったが、少なくとも戦線の縮小には成功した。何回かの戦闘を繰り広げ、都市を焼かれ、消し炭を大量に生み出し、それでも本土決戦に突き進もうとする出口のない袋小路に陥っていた政治状況は、ようやく降服という出口を見出した。
それによって多くのものを失ったがこれによって帝国憲法を捨てる事はできた。もし下手に講和などをしてれば、今でも明治以降、一度も変えないままの帝国憲法のまま、陸海軍が強力に議会を支配する体制が今も続いているだろう。
ナチス敗北後のアジアを取り巻く状況は、ソビエト連邦、中国共産党、中国国民党が争っている。戦前と何一つ状況は変わってない。どことも同盟せず単独で核も持てず軍事国家として対抗してゆく事になる。それと比べればこの撤退戦は成功裏に終わらせられたと言って良い。
要塞戦
撤退とは出口を探す事である。そこに辿り着くのは誰か。どこに行けば良いのか。撤退には目標がいる。そこが要塞なら次は籠城しての要塞戦になる。理想は推移を想定しておくべきだ。どれくらいの期間をどれくらいの規模で守り抜くか。いつごろ援軍が届き、どのような形で終了するか。だが、多くの場合、相手もそれを想定して攻城する。援軍をみすみす許すはずもない。時間稼ぎが有効なのは、それによって状況が変わる可能性がある場合だ。または時間が解決する可能性がある場合だ。
状況(環境)に耐える方法の著名な例にクマムシの乾眠がある。自分の体を無機物と化して環境の変化を待つ。謂わば石となり状況の好転を待ち続ける事を指向した生物である。植物の種も状況が好転するまで数千年でも耐えるポテンシャルを備える。これらが有望な籠城戦の戦術であろう。
アフリカの乾季には水を求めて多くの生物が移動する。待つだけではなく積極的に対応する事で乗り切ろうとする。体力のある間に新しい環境への準備を始める。これは同時に新しい世代を生み、古い世代を淘汰する機会としても使える。
日本はバブル崩壊から籠城戦に突入した。そうして30年が経過した。開けない夜はない?冗談だろ。赤川次郎の「夜」を読んだ事はないのか。
何度も試してはみた。しかし誰も状況を変える事はできなかった。なぜ好転しないのか。その理由を知っている者はひとりもいなかった。生物にとって世代交代は、古いものと新しいものを取捨選択する好機でもある。だがそれでも好転しそうにはない。
世界がグローバル化し、コンピュータやAIによってソフトウェア主導のシステムへ変換しつつある。このIT革命の少し前に成功を収めた為に、新しい方法に適応できない状況に見える。成功体験が変化する事を拒んでいるようにも見える。余りにも変化が激し過ぎて取り残されているようにも見える。
生物進化論で語るなら、大きな角を更に大きくするのか。それとも、小さくするのか。鰭を腕に変えて新しい環境に適応するのか。もっと深い海に潜るのか。選べるのはひとつの方向だけであろう。その点は選択と集中の考え方と似ているようにも見える。
しかし、生物は特定の種は選択と集中であるが、生物全体では多様性の方向で別々の進化をするように制御している。つまり選択と集中は、基本的に不適合なら絶滅してもいい。多様の中のどれかが生き残るであろうから、という方法論である筈だ。
よって、選択と集中は生き残る為の方法論ではない。一部の層が富裕層となるための都合のいい方法論に過ぎない。それはある意味で国家が滅亡しても富裕層は生き残れるという冷酷な判断から生じている。ここに自分たちの立場を利用して作為的に法を作り変えた層がいる。 そしていよいよ隠し切れなくなった時に殿たちを抑え込み、逃げられないようにするための法案を更に追加する。ソビエト軍の戦場では最前線に立った兵士たちが逃亡しないように自軍の兵士たちを撃つ部隊が用意されていたそうである。
さて我々は従順な市民であるか、暴動も革命も辞さない市民か。
閑話休題:集中
集中と熱中は似て非なる。どちらも意識が特定のものに振り向けられている状況であるが。例えば集中は聞こえている。それを意識で取捨選択する。熱中は聞こえていない。無意識が耳の段階で遮断したまま限られたものを全投入する。近くで大きな音が聞こえた。集中は聞いた上でその音を不要と判断した上で捨てる。熱中はその音を聞いた記憶がない。
集中は広く取り込みフィルターする。熱中はそうはせずシャットアウトする。だから意識で遮断する集中は高コストで疲れやすい。長くも続かない。一方で、熱中は長時間可能。疲労軽減と効率化という点では優れている。
集中は合目的性に従った精神の働きであり、最終地点か目標を設定しそこに到達しようと試みる。一方で、熱中には最終地点が設定されず、延々と続ける、確かな終わりや目標を設けず、体力の続く限り、確立した規則通りの繰り返しを無制限的に行う。出口を探すのが集中、その場所に留まるのが熱中。つまり集中は撤退戦、熱中は防衛線。
それは集中か熱中か。