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2018年4月10日火曜日

言論統制と言論の自由

言論統制をせよ、と主張するのも、言論統制をするな、と主張するのも、同じ構造を持つ。

なぜなら、誰かに言論統制をせよ、というのは誰かの言論に禁止することである。そして言論統制をするな、と主張するのも、特定の言論を禁止することである。言論に禁止事項を設けるという点では全く同じエフェクトを持つ。

では何が違うのか。言論統制せよ、が禁止するのは、特定の集団が決定しそれ以外の集団に対して強制する、という構図である。

言論統制をするな、が強制するのは、あらゆる言論は自由である、というものであって、それがカバーする範囲は例外なく全てである。よって、言論統制をするな、は本質的に、言論統制せよ、という主張を包含している。ならば、言論統制をするな、と主張する人は言論統制をせよという主張を認めるはずだ。

よって、そのような言論は認めるが、それを実行することは許さない、という主張になる。

実行を禁止するのであれば、言論統制をするな、ではなく、言論統制をせよは禁止せよ、という同値である。ならば、言論統制をするな、とは、言論統制せよの一派生、特殊形に過ぎないという事になる。

どうやら言論には全く人々の行動を制限するものと、制限しないものの 2種類がある。例えば、このリンゴは青い、という言葉は人々の行動を制限しない、と考えられる。だが、この言葉も、何かの広告に使われれば、購買意欲を刺激するかも知れない。それも一種の行動をコントロールしていることになる。行動を禁止しないが刺激するのは許されるのか。ヘイトスピーチが容易く暴力行為に結び付くのと同じである。

人々の行動を制限しない言論は本当に存在しうるのか、もし存在しないのであれば、言論の自由は行動の自由をどういう論理で制限するのか。

いずれにせよ、特定の言論を禁止する、というのは、言論の自由の観点から見れば禁止すべき主張である。ふたつの主張は両立しそうにない。だが、言論の自由を掲げる国でも、実際には多くのタブーがあり、タブーを破る発言は、もちろん生物学的にその自由を有するが、社会的には抹殺されるのである。

監視社会というものは、多くの言論に対して禁止圧力として働くと想像される。だが、監視カメラ、メール閲覧、音声収録などが、多くの犯罪に対して有効に機能する。すべてを一概に反対できるものではなく、利益と損失のバランスがある。

監視社会が市民の権利のうち、最も浸潤しているのは革命権である。18世紀1789に起きたバスティーユ襲撃と比しても、革命のしにくさは増大している。それは統治機構が強力に洗練されており、警察、軍の能力も向上しているからである。

A well regulated Militia, being necessary to the security of a free State, the right of the people to keep and bear Arms, shall not be infringed.
- The Second Amendment (Amendment II) to the United States Constitution

(私訳)
良き規律ある市民武装は、自由の国家のために必要と思われる、から、人々の権利として、武器の保有、携帯についても、これを侵害してはならない。
アメリカ合衆国憲法修正条項第2条

この条項がある以上、連邦政府が強力になるのに比例してアメリカ市民が携行する武器が強力になるのも自然と思われる。その当然の帰結が、銃被害の増大である。利益と損失のバランスが限界を超えるまでは見直されない。自由の国家を守るためにどういう武装が必要なのか、その権利を支える武力は銃だけなのだろうか。

併せて銃はアメリカのアイデンティティを支えている。アメリカを象徴する。だからそう簡単に銃を否定できるとは思えないが、現在の最新銃器までがアメリカを象徴するかは疑問もあるだろう。

科学技術が発展し 17世紀の常識やその延長線上にある結論を覆す事は 20世紀になって頻繁した。AI の登場が、それまで考えられてきた近代国家の構成さえ覆す可能性がある。まずは金融から始まるであろう。

人々が敵対すれば、人間の元来の性質からいって、集団化しようとする本能が働く。それが敵対者に対しては攻撃的に、コミュニティに対しては同調的に作用する。これは集団を維持する生物の持って生まれた性質である。

当然ながら、この本能性を利用して世論を形成する技術はある。攻撃性に満ちた言葉には、この人間の自然な集団性を利用する意図が見え隠れする。それを使用して巨大な集団を形成することが勝利へと導くと本能的に知っている。

中には組織を嫌い抜いて単独でしか行動しない人もいるだろう。だが、そのような場合でも、周囲は集団を形成するのである。

この集団性から離れるためには、そこから一歩引くしかない。それはさっさと通過してしまうこと、見て見ぬ振りをすること。無関心であることである。無関心は無知より恐ろしいとは集団からの言葉であるが、集団から離れたい人からすれば、それこそが身を守る方法なのである。そのような闘争に自分たちを巻き込まないで欲しいという意思表示である。

闘争が今も続いている。それは組織化し集団を巨大化する道だ。このような技術について、過去の歴史から、様々な演説から、研究を尽くしている人もいるはずである。一方で天才的な嗅覚から、自然とこの技術を身に着けた人もいるはずである。

我々が流されるだけでなく、意識してこれを知り、相手を知り、そして選択してゆくには、言葉の端々に現れる無意識の主張、潜在意識への刷り込み、巧みに編み込まれた言葉の構造を、意識して指摘する必要がある。その一助になれば幸いである。

2018年4月7日土曜日

古代知的生命体への考察

経緯

太古の地層から古い知的生命体の痕跡が見つかり始めたのは、今世紀に入ってからのことだ。少ない痕跡からも、彼らがかなり高度な知的活動をしていた事が示されている。

特に、月に埋もれていた遺跡には、世界中を驚愕の渕沼に飛び込ませるものがあった。彼らへの知見が増えてきたことは喜ばしいことである。我々以外にもこの星に知的生命体が存在していたのである。そして彼らがなぜ絶滅したのかを知ることは、我々の未来にとっても重要な水中の明かりになる。

そろそろ彼らの生態について一般向けに軽い切り口で語るのもよい時期であろう。太古に滅んだ彼らについて知ることは、我々の世界を拡大する本能を十分に満足させる。太古の遺跡(主に軌道衛星と月遺跡)から推測される彼らの生態は非常に興味深い。この新しい知見を読者諸君も十分に堪能し素潜りされたい。

Summary

月で見つかったミイラを詳しく調べる事で、ここ10年の超古代生物学は著しく発展してきた。特に彼らが使用していた電子機器、そこに残っていたデータの復旧が大きなメタモフィーシスを果たした。これらのデジタルデータを再生することで太古世界の世界について多くの発見をすることができるようになった。

発見されたミイラを解剖した結果、DNA の類似性からも、彼らが猿の仲間である事は間違いない。猿は、脊椎動物のうち哺乳類に属する主に森林に住む動物であるが、現生種と最も異なる特徴が大脳のサイズである。その大きさは我々にも匹敵しており、これが知性獲得をしたひとつの理由と考えられる。我々は、これら月で見つかった猿を「ルナハイエンシス」と名付けた。「月に行った高度な猿」という意味である。

解析できたのが0.1%未満とはいえ調査した映像記録からは、彼らの興味深い生殖行動が観察された。その生態には様々なバリエーションがあって、それは彼らが単一の種ではなく、我々と同様に複数の類似種が同時に進化しひとつのコミュニティを形成した可能性を強く示唆している。この仮説はまだ早急なものなので裏付けに乏しい。そのため数年で覆る可能性があることには留意されたい。

今、分かっている限り、彼らの生殖形態はとても多様性があり、種の違いを考えなければ合理的な説明ができない。ご存知のとおり、生殖活動に異常が発生した種は近からず絶滅する。そのため、自然状態にある限り、生殖行動は本能に強く影響されたものになる。自然と、生殖活動は生命活動の中でも最も原始的で単純な行動として表現されやすい。個体差よりも種差の方が強く現れ易いのである。

生態的特徴(解剖学からの推測)

ルナハイエンシスが残した月の住環境、宇宙潜を調べて分かった事だが、彼らはとても乾燥を好む猿だったようである。現生の猿のように全身を毛では覆われていない。多くの毛は退化して薄く短くなっている。一部の特定の箇所にだけ毛が残っている。これがどのような進化的な優位性を持ったかは不明である。ただ、彼らのすべすべの肌は我々のと極めてよく類似していて親近感が沸く。

彼らは肌の上に独自の化学物質を塗り込んでいた。既に有機物の分解が進んでいるので特定は困難であったが、彼らも粘膜の保護をしていたようである。我々が乾燥から身を守るために水分と粘膜を使用しているのと似ている。

彼らの指は5本である。これも陸生脊椎動物で共通したものであって我々と同じである。よって、彼らの数学も基本は 10 進法を採用していた。ただしすべてが 10 進数に統一されていたわけではない。

時間は我々と同様の 6進数を採用していた。これは太古の時代に、日の出、日の入りで 1日を 2分割し、さらに真昼と真夜中で 4分割したことに起因する。4 を含む 10 に最も近い公倍数は 4 か 12 で、8 は 2の乗数なので 3 を含む 12 を採用したためであろう。地球に発生する脊椎動物系の時間概念は自然と 6 が基数になるようだ。この考え方は円の角度にも影響するはずである。

ふたつの太陽をもつ恒星システムや 5 本ではない生命体ならば違う進数を採用するものと思われる。こうして我々も彼らにも様々な歴史的経緯を経ながら文明を構築していったものと推察される。

先にも書いたように彼らの体表は乾燥していたので、指先には滑り止めとなる文様が出来ている。これは現生種の猿と同様のものである。我々では粘膜が滑り止めになっているので、この違いは面白い。これも収斂進化のひとつと言えよう。

食性は雑食性である。ただし消化器官系が極めて弱いようで、口はとても小さく、発達した顎で食物を咀嚼して飲み込まなければならない。我々が丸ごと飲み込むのとは違うようである。咀嚼して飲み込むため喉ごしも小さな味わいしか経験できなかったであろう。

我々にとって食事の楽しみの最大が喉越しにあるので、彼らが何を楽しみに食事をしていたか想像しにくい。したたるステーキを丸のみする快感は彼らにはなかったようである。もしそんな事をすれば喉が小さいため、たちまち窒息して死亡したであろう。彼らには彼らなりの食事の楽しみがあったはずであるが、解明は今後の課題である。

彼らは喉が狭く声帯でしか声が出せないため、話したり歌ったりするのも、森の猿の遠吠えのような感じであったろう。我々のような重低音合唱団のド迫力を生歌で披露するのは無理だったろう。

ルナハイエンシスの体格は我々より若干大きい。我々と同様に二本足であるが、大腿筋の貧弱さから跳躍力はとても小さいと思われる。ジャンプする高さも距離も大したことはない。これは木の上で生活する種から進化したためで仕方がない話である。我々だって鳥のようには飛べないのと同様だ。いずれにしろ、もし彼らとバスケットボール(※)をすることになれば我々が圧勝するのは間違いない。

(※)地表から7m上に設置したゴールにボールを投げ入れて得点を争う競技。

探査技術(宇宙潜からの推察)

ルナハイエンシスが使用していた宇宙潜から彼らの技術レベルはだいたい把握できている。彼らの記録から、外宇宙に探査機を送った事も分かっている。火星の地中から探査機も発掘できた。彼らが太陽系内を積極的に探査し居住区の拡大、地球生命の他恒星進出を目論んでいた事は疑いようがない。

彼らの最も遠くへ送り出した探査機が、近くの恒星系さえ既に通り過ぎている可能性がある(17km秒と遅いがとても昔なので)。

彼らの探査機ではスイングバイが欠かせなかった。この事実と彼らの時代の太陽重力、惑星配置から、どのようなルートを辿ったかを幾つか計算してみた。中学生でも簡単に理解できるので、興味のある幼生は巻末の付録を参照してみて欲しい。その幾つかには既に探査機を送った。

もしその探査機を捕捉できればこれは凄いことではないだろうか。とは言っても、もっとも深淵まで辿り着いたケース、オールトの雲で漂流しているケースなど様々な可能性がある。必ず見つけ出せるとは言えないが、まるで池にダイブするかのようなわくわくする冒険である。我々よりもずっと先にこの星系を飛び出した先輩たちへのこれは敬意でもある。

繁殖行動(記録資料からの推察)

ルナハイエンシスのピーナは、よく収縮するだけでなく個性的な形状をしている。また個体差も顕著であるようである。現生種の猿と比べてもかなり巨大である。彼らの繁殖活動は通常の交尾が主流であるが、残された記録からは、どうも口でも交接できたようなのである。

これが異なる種が別々の進化をしたのではないかと考えられる最も強力な根拠である。ルナハイエンシスの祖先のうち、あるグループが諸島などに隔離され、そこで独自の進化によって飲み込むことも受精できるように進化したと考えられる。そうして分化した種がまた出会い、そこで同一のコミュニティを形成したのではないかと考えられるのである。

隔離されて進化した複数の種が再び出会って、異なる交接方法がそのまま残された極めて珍しい進化現象と言えよう。更に驚くべきはそれだけではない。交接に特殊な器具を使用しなければ発情できない種や、排泄物を介して受精する種も確認されているのである。我々が観察してきた所では、道具も紐、筒、棒、火などを多岐に渡っており、このような多大なコストを払わなければ繁殖できないとすれば、個体数が減少するのも納得である。この辺りに彼らが絶滅した理由があるのではないか。

彼らは陸生生物なので、我々のような繁殖場は必要としなかった。我々の場合はどうしても繁殖プールが必要である。生まれた子供たちもしばらくは水中で暮らす。尻尾が消えて初めて成人である。この辺りの違いが教育過程にどのような影響を与えたかは興味深いことである。

ルナハイエンシスは我々と同様に大勢で受精する事もあったようだ。それも常にというわけではなく、一対の雌雄で受精することもあれば、複数で受精することもある。不思議である。また、多くの生命種で観察されるように、雄雄や雌雌などの疑似繁殖行動も観察される。この多様性は我々と変わらない。

おわりに

ルナハイエンシスの絶滅理由は分かっていない。古い地層を調査しているが、彼らの遺跡からは核爆発の形跡は認められない。彼らの極めて幼稚な原子力技術では、核廃棄物の処分が必要なはずだが、処分地層もなさそうである。彼らの技術力では核廃棄物を無害化することは出来なかったはずなので、どこかにあると思われるのだが。

現在は、ミイラから取り出した DNA を修復し、卵から発生させることを研究している。彼らの子供を誕生させれば、生きたよい標本が手に入る。そうして我々の社会で育ててみたいと考えている。そうすれば彼らの知能レベルや習性などより詳しい知見が得られるだろう。

2018年4月3日火曜日

世界人権宣言第19条 / 表現の自由、言論の自由

Article 19
Everyone has the right to freedom of opinion and expression; this right includes freedom to hold opinions without interference and to seek, receive and impart information and ideas through any media and regardless of frontiers.
Universal Declaration of Human Rights

私訳
章 19
すべての人間は権利(the right)を、個人が意見(opinion)も持つ自由と表現(expression)する自由を持つ。この権利には次の自由も含む。干渉 (interference) されない自由、探す自由 (to seek)、入手する自由 (receive)、更に伝える自由 (impart)。これらは媒体 (any media) を選ばす、国境にも制限されない (regardless of frontiers) 権利である。

日本語訳は
 第19条
すべて人は、意見及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む。
世界人権宣言(全文) : アムネスティ日本 AMNESTY

短くすると

第19条
人間は自由に考える権利を有する。しかし自由なのはそこ迄である。

考えるに

ヴォルテールはフランス人だが、次の言葉が言論の自由だと思う。
I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it,
私はあなたの意見を受け入れない、しかし、あなたがそれを言う権利を守るためになら、私は死をも賭す。

言論には、グレーを白と呼び、黒と呼ぶ自由がある。だが、グレーを白く塗る自由も、黒く塗る自由もない。言論の自由は鑑賞をする態度と似ている。鑑賞してそれを自由に解釈する所までは認められる。言葉は人間の中から発する出力的な機能であるが、言論の自由は鑑賞する自由であって、それは入力的な部分に限定されているようにも見える。

考える事は大昔から自由であった。これはマタイの福音書を読めば分かる。
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに女を姦淫したのである。

心の中で考える事さえ禁止したキリストの言葉は激しい。人は自分の意識とは関係なく情欲する。誰もが心の中を読まれないから平素を装う事が出来るのである。もし誰かに知られたら生きてゆけないことなど幾らでも抱えている。

だからプライバシーという考えがあるのだし尊重されなければならない。それにも係わらず、キリストの言葉に誰もが首肯する。人は己に嘘は付けない。だから人間は自分を許すことができるのである。許せなければ死ぬしかない。誰かに知られたら生きて行けない。それに耐えられる人などいない。それを許さないという厳しさでキリストは心の問題を要求してきたのである。

人は誰も神の代理人にはなれない。誰かが神の言葉を聞く。僕はその体験を信じる。その声は真実と信じる。だが、その時に聞いた神の言葉が、今も同じであるという主張は受け入れられない。そういう考えは神を束縛している。神が自分に何かを語るのは自由だ。だが、その言葉が永遠に変わらないと主張するのは、人間が神を束縛している。神は、いつ誰に何を語ろうが自由であるし、その考えをいつ撤回するのも自由である。神の言葉は常に真実なのではない。神は全知全能だから相矛盾する言葉も同居させられるのである。

神の全知全能を否定できるならば、その人は神よりも上位の存在である。人間は神より上位ではありえないから、そう主張する人は、何かを間違えている。人間は神を強制する自由は持たない、神は人間の奴隷ではない。キリストは一度も神を否定しなかった。なにひとつ限定しなかった。だが、それをもってキリストを神と見做せるのだろうか。現代の預言者たちが人間であるのか、それとも神であるのか、どう考えても答えがない。

何を語るのも自由である。そこにある言論の自由には、正しさとか間違いを何ら保証しない。何を語ろうが自由であるとは、人間には真実を決められないという意味でもある。どのように正しそうに見えることも間違っているかもしれない。どれほど間違っているように見えるものにも真実はあるかもしれない。それを抜け落ちないようにする爲には自由が必要だ。

表現の自由には、表現をしない自由も含まれている。あらゆる考えは表現しなければならない、というルールがもしあったら、どこかの星にはありそうだが、それに人間は耐える事ができない。心の中にある限り、誰れも傷つけない。信仰の自由、思想の自由とはだれも傷つけないという意味だ。それは決して奪えない人間自身である。

表現の自由、言論の自由の前提にあるものが、心の問題である。心とは何か、それが声を出したり、紙に書いたりする。表現したいと願うのは人間の心の性質に違いない。

言論の自由は権利かも知れないが、言葉が誰かを傷つける事もある。よって言論の自由について考える以上、表現の暴力性は避けられない。

フランスで起きたシャルリー・エブド襲撃事件は、小さな事件だが世界中を震撼させた。テロリズムとは何と便利な言葉であろうか。テロと呼べば思考を停止できる。テロと決めればそれ以上考えなくて済む。この事件は相手がテロリストであろうと、言論の自由について考えなければならない契機となった。

911はテロリズムである。少なくともアメリカはそう考えた。人は報復するのにも正当な理由を必要とする。これが20世紀に得た人類の最大の知見ではないか。

正当な理由があれば敵を撃ち壊すのに躊躇は必要ない。これが人間の本性である。これが人間の悪性である。だが理由があるぁら、どこかで歯止めが効くのである。これが人間の善性ではないか。911の報復に異を唱えた人々がいた。当時は職を追われたり不遇に甘んじなければならなかった。それでもそれが歯止めの役割を担った。

世界で起きている事は、イスラム教とキリスト教の対立であるか。人種差別や経済格差に起因した出来事であるか。人間が喪失した何かを求める行動であるか。

言論や絵画、映像は十分に暴力的である。例えばリベンジポルノは暴力的である。どこまでが表現の自由で、どこからが暴力か。そのような区切りが付けられるだろうか。言論の自由には必ず暴力性が含まれている。そう前提する方が確からしい。

言論が暴力性を問わない自由ならば、暴力もまた自由でなければおかしい。

言論には言論で返すべきである。この正論さえ、言論の格差を考慮していない。出版社やテレビなどの巨大メデイアと個人が争うなど無理である。司法でさえ、金持ちと貧乏人が争えば、弁護士の差によって勝敗は決定的である。どれだけ司法が平等を訴えようと結論は明らかだ。権利は同じであっても、権利の行使には不平等がある。格差がこの世界の勝敗を決定する。

誰かが圧倒的な資本を使って言論による攻撃を開始したならば、どう対抗できるか。他人を嘲り笑う者は、相手の反論を聞きはしない。止めてくれと言われて止めない相手を止めるのに、どういう手段が残されているか。

我々の社会はそれを司法に託した。なぜテロリストは裁判所に訴えなかったのか。勿論、勝敗は明らかであった。どこに神のために言論の自由を制限するような判決を出す裁判官がいるであろう。

この社会では言論による争いは否定されていない。暴力は否定する。なぜなら暴力は社会を根底から崩壊させるからだ。暴力が使用されれば何もかもが覆る。だから我々の社会は暴力性を社会の外に置いた。社会を変えたければ言論によるべきである。

頬を平手打ちするのも暴力なら、数百万人の人間を焼き尽くすのも暴力である。暴力のエスカレーションには際限がない。だから暴力は注意深くなければならない。言論が物理的に何かを破壊することはない。

それでも言論には暴力性がある。物理的な破壊力ではなくとも、言論には人を破壊する力がある。それは人間が本来持っている攻撃性だからである。攻撃性は言論であろうが、物理的なパワーであろうが、同様に潜む。区別はない。

軍隊であれ、警察であれ、その実効性は物理的な暴力によって支えられてきた。我々の社会は暴力を如何にコントロールするかに腐心してきた。

だから言論に反駁するのは言論だけではない。言論に対して暴力で反論することもあれば、暴力に言論で対抗することもある。言論の暴力性は0ではない。

ハンムラビ法典の歯には歯をの昔から、刑法は罰則を決めてきた。ある暴力に対して何らかの罰を規定する。それが不完全だとしても、窃盗には5年、暴力には10年と刑罰を決めてきた。民法では金額に換算して決着する。この社会は異なるものに同じ価値を割り当てる。

言論と暴力もまた交換可能なのである。言論にも暴力性があるからだ。

同じゼスチャーが違う文化圏では全く違う意味を持つ。同じ表現も、人によって受け取り方は様々だ。これは同じ表現でも見る人によって暴力性が異なるという事である。ある人にとっての笑い話が、最大の侮辱なのかも知れない。

この暴力性の違いがフランスで起きた。中世から十字軍などで深く交流してきたにも係わらず、この地域は未だ分かりあえていない。異なるコミュニティが隣接すれば争いが激しくなるのは当然である。現代は世界が史上最も接近した。誰もが異文化の合流地点にいる。我々の思想は更に鍛えられなければいけない。

アメリカが三千人の報復にふたつの国家を崩壊させた。その残り火が IS となって燃え広がっている。IS をテロリストと呼ぶのは容易い。だが彼らの理想も目的も誰にも理解できない。少女を誘拐し自爆テロをしてまで手に入れたいのは何か。

それがイスラム教の暴力性であるわけがない。現在の状況が偶々そうであっただけで、歴史が違えばキリスト教がテロリストと呼ばれていたかも知れない。神から委任された人が神と同じであると誰が保証するのか。神はあたなへの委任をいつでの自由に取り上げられるし、それを伝える必要もない。だが、あなたは神から何も取り上げることは出来ない。

人間は思想によってさえ敵対する。共存できない理由はない。敵対するのは容易い。そこから抜け出すのにどれだけの血が必要であるか。

人間は原因を探し出す動物だ。その原因は正しくなくてよい。身近にあるものがいい。見つけ易いものがいい。そうでなければ探し出せないではないか。格差や人種、宗教ほど身近にあるものはない。だから、ほんの少し手を伸ばすだけで手に入る。人は意味もなく人を殺す。だが理由が必要だ。例え、太陽がまぶしいという理由であっても。それを不条理と呼び驚いていた時代は終わった。

なぜ彼らは風刺画のために命を賭したのか。彼らはそこに言論の自由の価値など認めなかった。彼らにとって風刺画は十分に暴力的だったのである。かつて、踏み絵を踏まずに殉教した人々がいた。踏み絵を差し出す側にとってそれは命を救う苦肉の策だったのである。踏みさえすればいいではないか。あなたたちの心の内など問わない、それでも踏むことを拒絶した人々が居る。それはただの絵ではなかった。絵も十分に暴力的だったのである。なぜ預言者は偶像を否定したのか。

言論の自由のために死んだ人も、言論の自由に殺された人も、その命は自由を守るために必要な経費ではない。我々が社会から追放した暴力が、自分たちが正しいと信じていた言論の中に見つかった。だからこれほどまでに人々は驚いたのである。

人、生まれて学ばざれば、生まれざるに同じ
学んで道を知らざらば 学ばざるに同じ
知って行わざれば知らずに同じ
貝原益軒

我々は言論の中に行動を見る。行動の伴わない言論の価値を低く見る。この考えに従うなら言論の自由は、そのまま行動の自由になる。それを否定したのが近代法の骨格であろう。言論と行動は分離しなければならない。かつて同じものだったものが幾つかに分離して考えなければならない。それは神とキリストを分離した後に、三位を合一した思想をモデルとするのではないか。